
【二章】 倭の五王王朝の復元
(5)
ニニギと22清寧天皇
以下では、宮津からはしばらく離れ、茨城県の中央にそびえる聖山、筑波山 (ツクバサン) の周
辺の地に舞台をうつしたい。『ホツマ伝え』では、そこにニニギの治める新治 (ニイバリ) の宮、筑
波の宮があったとしている。当地には、安康天皇や雄略天皇によって追放されたとみられる、倭の
五王王朝につながる一族が置かれていて、それをニニギが支配していたらしいのである。
■ ニニギと筑波の宮
筑波 (ツクバ) 郡の詳しい位置は分からないとされるが、およそで言えば、筑波山の南方にあた
る、いまのつくば市が当たると考えられる。
先にもみたように、『宇佐家伝承』には、「稲荷山にあったキシ族は力を失い、関東の筑波の地に
移った」、とする伝えがある。これに続くと思われるのが、以下にあげる『風土記』の伝えである。
【筑波郡は古くは紀の国だった】 『常陸国風土記』 筑波郡
【信夫 (シノブ) 郡は、筑波郡と茨城郡の一部を分けて新設された。この地はもとの日高見の国
である】 『常陸国風土記』 逸文
これらの伝えによれば、かって栄華をほこっていたキシ族も、筑波という小さな土地にいったんは
蟄居させられた、と考えられるのである。
信夫 (シノブ) 郡にあったとする日高見の国については、古くから議論がおこなわれていたとされ
る。その結論は出されていないのだが、「ツガル誌」の伝承をこれに加えてみると、新たな解釈があ
らわれてくる。つまり、キシ族のすべてが筑波に定着したのではなく、その一部は倭王の武に従って
奥州に移り、日高見王国の建設に参加していたのではなかろうか。そして、奥州からリターンしたキ
シ族の立てたのが、「新日高見の国」になるのかもしれないのである。その時代については、6世紀
から7世紀にかけての、どこかの時代が予測される。
『ホツマ伝え』では、筑波の地にもニニギの宮があったとしている。当地に、稲荷山から追われた
キシ族があったとすれば、それを治めていたのはニニギである公算が高まってくる。また、ニニギを
サルタ彦の孫とみなせば、ニニギによる筑波の支配は、サルタ彦によるキシ族の支配に置き換えて
もよいはずとなる。サルタ彦は、無計画にキシ族を追放しているのではなく、追放の先でも、サルタ
彦によるキシ族の支配は続いていたと考えられようか。
■ ニニギと白壁郡
『古代地図帳』によれば、筑波山の山頂を中心として、その西南方に広がるのが筑波郡、その西
北方に広がるのが白壁 (シラカベ) 郡、白壁郡を包むようなかたちで北方に広がるのが新治 (ニイ
バリ) 郡となっている。白壁郡は、いまは真壁 (マカベ) 郡と名をかえていて、下妻(シモヅマ) 市の
近辺がその中心に当たっている。
白壁郡について、どうしても落とせないものに、雄略天皇の皇子である22清寧天皇にあやかった
郡、とされていることがある。『記・記』によれば、清寧は白髪の命 (ミコト) と呼ばれていて、子供が
なかったので、その名を後世に残すために白壁郡などが新設されたとなっている。白壁の名をもつ
郷や、白壁部を名のる人物は、日本の全国から多数みつかるとされる。
『ホツマ伝え』では、ニニギは新治の宮、筑波の宮にあって国を治めていたとしている。そして白
壁郡は、新治郡と筑波郡に包まれたような形状なっている。とすれば、ニニギの領域の中心部は、
清寧の領域に完全に重なってしまうのである。
これが偶然の悪戯でなければ、ニニギと清寧は、同一モデルとしてあつかうのが妥当となってくる。
なぜなら、雄略天皇とサルタ彦を同一モデルとするときには、清寧は雄略の子になるとともに、サ
ルタ彦の子にもなってしまうのである。ひいては、ニニギはサルタ彦の孫ではなく、その子とするのが
妥当のはずとなる。
『記・紀』にあらわれる清寧天皇は、白髪の命と呼ばれていて、子供も生まれず、在位の期間も
短い、生命力の弱そうな人物と受け取られている。しかしここで、清寧とニニギが同一のモデルに
なるとすれば、話はまったくの逆となる。『ホツマ伝え』に描かれているニニギは、国土の開発に精
力を傾けているが、それがそっくり清寧に掛かってしまうのである。
清寧は、大和の地に閉じこもっているような人物でないことは確かとなる。白壁郡についても、遠
征の途中で立ち寄った土地と受け取れようか。
津軽にまで開拓の手を広げたとするニニギの伝承は、神社伝承にあらわれるオオクニヌシとス
クナヒコナが、国土の開発に力を注いでいることに、あきらかに重なってしまう。また、ニニギと清寧
が同一モデルになるとすれば、清寧とオオクニヌシとの間にも、同一のモデルか、あるいは同質の
モデルである可能性が生まれてくる。
『大三輪系図』では、オオクニヌシの子をサルタ彦としてあつかっている。しかし、「異端書」や神社
伝承からは、
「雄略天皇とサルタ彦は同一モデルであり、その子は清寧天皇・ニニギ・オオクニヌシなどになる」、
とするような結果が出てくるとすれば、考えを変える必要がおきてくる。
「異端書」や神社伝承に従うかぎりは、
【サルタ彦の子はニニギやオオクニヌシ】、と仮定しておくのが正しいはずなのである。
■ 白ヒゲと白髪
清寧と、その父とされる雄略天皇とのあいだには、さしたる話題も見つからない。ところがここで、
清寧をサルタ彦の子と仮定してみると、かなり意外な事実がいくつか浮上してくる。
神社伝承にあらわれるサルタ彦は、白ヒゲの神と呼ばれていて、滋賀県高島市鵜川にある白鬚
神社の祭神となっている。それに対して清寧は、白髪の命と呼ばれているのである。
ふつうなら、白ヒゲと白髪の人物がいたところで、わざわざ取り上げるような問題ではないだろう。
しかし、この両者に親子の関係があるとすれば、話は少し違ってくる。そしてこの両者には、「セン
ビ系の一族」とする共通点が与えられるとすれば、話のもつ意味は別のものになる。
つまり、サルタ彦と清寧にかかる「白ヒゲと白髪」は、たんに白が強調されているのではなく、常人
とは異なる西洋系人種の特徴を示している、とも考えられるのである。
と言うのは、『日本書紀』ではサルタ彦の特徴として、「大きな体躯」、「大きくて長い鼻」、「赤い色
をした目」をあげている。これらの伝えは、センビ族のなかにあったとされる、トルコ系氏族の特徴を
表しているとも受け取れるのである。ひいては、サルタ彦と清寧の親子には、白ではなく、「亜麻色」
のヒゲや髪を持っていた可能性があるのではなかろうか。
これに関係すると思われるものに、食肉の伝承がある。
『ホツマ伝え』では食肉が嫌われていて、【オオクニヌシが民に食肉をすすめたところ、田んぼに
イナゴがわいた】、とするような話がみられる。
いっぽう『雄略紀』には、【天皇が捕らえた獲物をナマスにして食べようとしたので、家来たちが驚
いた】、とするような話があげられている。オオクニヌシや雄略天皇にまつわる食肉の伝承は、かれ
らに、センピ族につながる食習慣のあったことを示していようか。
なお、ナマスというのは、魚獣の肉を細かく切って酢につけた食品とされる。
■ 清寧天皇とヤマト彦
ニニギと清寧天皇の同一視に加えておきたいのが、「ツガル誌」にあらわれる、アビ彦、ナガスネ
彦の祖とされるヤマト (山戸) 彦である。同誌では、ヤマト彦をセンピ系の一族とするが、どうしたわ
けか、サルタ彦やオオクニヌシとの直結を避けているのである。しかし、清寧となら、いくつかの接点
を拾うことができる。
『日本書紀』によれば、清寧天皇の和風し号は、
【シラガノタケヒロクニオシワカヤマトネコ】、(白髪武広国押稚日本根子) となっている。
かれの名は、四十代の天皇のうちでもっとも長いものとなっている。名の長さが、その人物の重
要性をあらわしているとは決められないが、顕宗の「弘計」や、仁賢の「億計」の粗末さに較べると、
清寧が大事にあつかわれていたと見ても不当ではないだろう。
ここで、清寧の名前の一部である、「日本根子」に注目してみると、「日本」からはヤマト彦とのつ
ながりが、「根子」からは、根の国 (石川県) や、センピ系一族とのつながりが、読めなくもないので
ある。かれの名には、「根の国を本籍とし、大和の地で天皇となった人物」、とするような意味が込め
られているのではなかろうか。
なお、日本根子を名乗った天皇としてはほかに、7考霊、8考元、9開化、40持統、42元明、43元正
などの名があげられる。ここで、清寧を新王朝の創始者の一族とみなせば、他の日本根子天皇は、
清寧にあやかって命名されている可能性があるはずとなる。
ヤマトの名を持つ人物として、最も知名度が高いのは、12景行天皇の皇子とされるヤマトタケル
(日本武、倭建) である。かれは、日本の全国を遠征してまわったとされるが、この話は、ニニギの
開発伝承に通じるものになっている。また、ヤマトタケル (日本武) の名が、清寧の名からも作りだ
せるとすれば、『記・紀』の編者は、ヤマトタケルと清寧天皇との類似性を、われわれに暗示している
のかもしれないのである。
もう一つ、ヤマトの名にかかわる人物として、『継体紀』にあらわれる臆病な天皇候補、「倭彦王」
がある。かれは、天皇への即位を求めてやってきた使者をみて、自分を殺すためにやってきた暗殺
者と勘違いして、姿をくらませたとされる。
この話を信じるか、信じないかは別にして、倭彦王の出現の年次は506年なので、ヤマト彦や清
寧との時代的な重なりは、とりあえず期待できることになる。
■ 新治郡につながる糸
これまでに、白壁郡にはニニギ (清寧天皇) の宮があり、筑波郡にあったキシ族を治めていた、
とするような図を描いてきた。ここで取り上げたいのが、白壁郡の北隣りにある新治 (ニイバリ) 郡
である。そこからも、新王朝の創立にかかわる興味ある事実が、いくつか浮上してくるのである。
『古代地名辞書』には、新治郡に属する十二ばかりの郷の名があげられていて、そこに新治郷と
月波郷の名がみられる。ただし、月波郷については、丹波郷と書かれている例があるので、「月波」
と「丹波」のどちらか正しいのかは不明とされている。その当否については後にまわすとして、ここで
かりに、丹波 (タンバ) の方が正しいと仮定してみたい。するとそこからは、かなり予想外の事実が
あらわれてくるのである。
それは、新治郡にあったとする新治郷と丹波郷の組み合わせが、遠く土地を隔てた京都府峰山
町からも見つかることである。峰山町は、トヨウケ姫のマナイ伝承を伝える地だが、現在でも、丹波
と新治 (ニンバリ) という地名が使われているのである。そして丹波の方.は、丹波郡の地名の発祥
地とされている。
つまり、茨城県にあった「新治郡、新治郷・丹波郷」の地名は、峰山町にあった「丹波郡、丹波郷・
新治郷」の地名と、ほぼ完全なかたちで合致するのである。
このような現象は、偶然の一致ではとてもありえず、何らかの意思がそこに働いている、とみるの
が妥当だろう。そして、そこで意思を働かせているのが安康天皇と雄略天皇だとすれば、郡名や郷
名のいわれは、簡単に説明できるのである。両地の近辺には、五王王朝につながる一族が集めら
れていたはずとなろうか。
この結果によれば、月波郷と丹波郷の正否については、丹波郷に軍配が上るはずなのである。
■ 新治郡とイサ氏
新治郡と白壁郡には、さらに大きな問題をはらんだ、イサ (伊讃) と名付けられた郷がある。現
在の道路地図によっても、筑波山の北方に広がる筑西 (チクセイ) 市の周辺からは、伊讃美、伊
佐山、伊佐城跡、伊佐々などの地名を簡単に拾い出すことができる。そして『ホツマ伝え』には、イ
ザナギとイザナミの結婚は筑波山の近くにある伊佐の宮でおこなわれた、とするような伝えがある。
当地には、イサと名付けられた氏族が住んでいたらしいのである。
『地名辞書』の著者である吉田東伍(トウゴ)氏は、伊讃郷について、上毛野 (コウヅケノ) 氏の一
族である「射狭 (イサ) の君」に結ぶ説をあげている。この射狭の君には、「雄略天皇の輿 (コシ)
を引いたので、天皇から車持 (クルマモチ) の君の名が与えられた」、とするような伝えがある。そ
して現在の群馬県の名は、車持氏の「車」から出ているとされる。
吉田氏は、これらの伝えをもとにして、「伊讃郷→射狭の君→車持の君→上毛野氏」を、一連の
ものとして見ていることになる。
伊讃郷について、これとは別の説をあげているのが、『姓氏家系大辞典』の著者である太田亮氏
である。氏は、
【伊讃郷は伊佐郷とも書かれているが、この伊佐は奥州の伊達(ダテ)氏に直結する氏名であり、
伊達氏の発祥地は伊讃郷にあたるのではないか】、とするのである。
伊讃郷の名をみたとき誰もが気付くのが、そこに倭の初代王にあたる「讃」の字がみえることであ
る。太田氏は、伊讃氏や伊佐氏について、「天下の大姓だが、すこぶる難解な氏である」、とするだ
けで、伊讃郷に倭王の讃を結ぶような気配はみられない。しかし伊讃氏が、伊達氏を通じて奥州ま
で続くとすれば、讃の皇子であるクサカ王の一族に結ぶのが第一案となってくる。それなら、伊讃氏
の名のいわれと、伊讃氏が奥州につながる理由をあわせて説明できるのである。
これまでにあつかってきた伝えのなかにも、毛野氏と伊達氏の連結を求める事柄がある。
福井県高浜町には、イイトヨ皇女をまつる青海神社がある。そして当地のすぐ東方に「車持」の地
名があり、かっての車持村にあたるとされるのである。
また、青海神社の神体としてあつかわれているのが、丹後富士とも呼ばれる青葉山である。この
青葉山の名が、伊達正宗の建てたとされる青葉城に重なるとすれば、毛野氏と伊達氏のそう方から、
「宮津→奥州」、を結ぶラインが浮かぶことになる。
これらの結果によれば、高浜町にあったイイトヨ皇女のまわりには、毛野氏や伊達氏につながる
一族が暮らしていた、とするような図が考えられる。かれらにはさらに、ヨサ郡にあった浦島伝承の
日下部氏が重なってきて、そこからはクサカ勢力といったものが浮かぶのである。
かれらのいく人かは、新王朝に異変のあったさいに、奥州に移っていたはずだし、その移動は、
関東と連動していたはずとなろうか。
なお『記・紀』では、上毛野氏の太祖を10崇神 (スジン) 天皇としているが、それについとの検討
は後の機会にまわしたい。