【二章】 倭の五王王朝の復元

                (6) 佐々木カラブクロの素性

 

 

『日本の神々5』によれば、滋賀県安土町に、佐々木氏をまつる沙々貴神社があり、祭神として、

スクナヒコナ、オオ彦、仁徳天皇、源氏の祖神などが祭られている。

ササキの名については、仁徳天皇の「大サザキ」の名に由来するとの説、スクナヒコナが「サザキ

の羽を着ていたため」、とするような説が古くからあるとされる。佐々木氏が、祖神の一人に仁徳天

皇を置いていたり、大サザキ天皇を思わす名を持っている理由については、『記・紀』の伝えに従う

かぎりは、答えらしきものが出てこないのである。

 

 

■ 佐々木氏とアヤ(漢)氏

 

カラブクロは、佐々木氏の一族となっていて、そこからは近江源氏が派生している。足利尊氏に

協力したとされる佐々木道誉 (ドウヨ) なども、はるか後の子孫ということになる。

『記・紀』にあらわれるカラブクロは、雄略天皇とともにオシイワ皇子を殺害した人物となっている。

したがって、顕宗と仁賢の兄弟からすれば、カラブクロは仇敵にあたることになる。カラブクロのそ

の後については、殺されるはずのところを許され、「ササキ山の君」の名は親類の氏族に移ったとか、

その子供たちはオシイワ皇子の陵墓の墓守になった、とするような伝えが『日本書紀』に見られる。

 

沙々貴神社の伝承によれば、佐々木氏の太祖の位置にスクナヒコナが置かれている。しかし、オ

オクニヌシとスクナヒコナによる国土開発の伝承が、5世紀の中ごろよりも後になされていたと仮定

すると、スクナヒコナの立場は大きく変わってくる。かれは佐々木氏の太祖などではなく、カラブクロ

そのものか、あるいはその子とみるのが妥当のはずなのである。

 

『記・紀』や、氏族の系図を調べるだけでは、佐々木氏の素性を探ることはできないが、神社伝承

からは、アヤ (漢) 氏という、あまり聞きなれない氏族の名が浮んでくる。アヤ氏というのは、前漢と

後漢の王朝から生まれた氏族であり、『記・紀』によれば、15応神天皇の時代に、秦氏と前後して日

本に帰化したとされている。かれらは、軍事、航海、金属の精錬や冶金、建築、通訳など、かく分野

にわたるスペシャリストを抱えていて、古代の日本を動かす原動力の一つになっていたと考えられて

いる。スクナヒコナには、アヤ氏とのつながりを思わせる伝承が見られるのである。

 

『日本の神々5』によれば、新幹線の米原 (マイバラ) 駅の北方にあたる、滋賀県米原市顔戸 (ゴ

ウド) に、スクナヒコナを主祭神とする日撫 (ヒナデ) 神社がある。この日撫というのは、アヤ氏から

出た日撫氏を指しており、太祖の阿智王には直結しているとされる。

 

スクナヒコナと日撫氏では、与えられている年次がまったく違っているので、両者を祖孫の関係に

置くことには疑問が出されている。しかし、スクナヒコナを5世紀の中ごろよりも以後に置けるとすれ

ば、話はまったく違ったものになる。

『漢系図』では、6世紀はじめに置かれる志多直から日撫 (火撫) 氏が出ているとするので、スクナ

ヒコナには5世紀後半の時代を当て、日撫氏の父か祖父とするような図が描けるはずとなる。

  

アヤ氏にとっての本籍地になると考えられるのが、奈良県橿原市や明日香村をふくむ、高市 (タ

カイチ) 郡である。8世紀ころの記録によれば、高市郡に住んでいた住人の大半はアヤ氏によって

占められていたとされる。これによれば、アヤ氏は古代の飛鳥の遺跡を独り占めにしていたと言っ

てもよく、そこにアヤ氏の手が加わっていたのは、まず間違いないのである。

このアヤ氏から出ているのが、征夷大将軍を名乗り、奥州との融和に努めたとされる坂上 (サカ

ノウエノ) 田村麻呂である。

 

アヤ氏には、大きく分けて二系があるとされる。その一つが高市郡にあった東漢 (ヤマトノアヤ)

氏で、もう一つが、河内 (大阪府) にあった西漢 (カワチノアヤ) 氏である。佐々木氏やスクナヒコ

ナなどは東漢系になると考えられる。

 

 

■ コノハナサクヤ姫とオオヤマヅミ

 

神社伝承によれば、オオクニヌシとスクナヒコナによって日本の国土は開発され、そこにクワ(鍬)

の神とするコノハナサクヤ姫が加わっていたとされる。そしてかの女の夫として、オオクニヌシやサ

ルタ彦の当てられている例がけっこう多いのである。

筆者が、はじめてオオクニヌシとコノハナサクヤ姫の組み合わせをみたとき思ったのは、それは

何かの間違いではないのか、ということだった。『記・紀』では、コノハナサクヤ姫の夫はニニギなの

である。

 

ところが、「異端書」を調べていくと、ニニギの父はサルタ彦、とするような結果があらわれてくる。

そして、ニニギとオオクニヌシについても、ともにサルタ彦の子とせざるをえなくなってきた。ここでの

コノハナサクヤ姫は、その夫がニニギであろうとオオクニヌシであろうと、さしたる違いはなくなってし

まうのである。このような混乱をひきおこした責任は、神社伝承にはなく、ニニギをサルタ彦から切り

離し、ニニギの祖を女性のアマテラスに結びつけた、『記・紀』の編者にあるはずとなろうか。

 

コノハナサクヤ姫について、もう一つ加えておきたいのが、開拓に使われたとする、クワ (鍬) に

ついてである。このクワが、かりに木製なら、畑を耕すのがせいぜいとなる。しかしそれが金属製な

ら、国土開発のための必需品へと変身するのである。そのクワが金属製であることを示すのが、か

の女の父とされるオオヤマヅミ (大山祇) が、鉱山の守り神や、冶金の神とされていることである。

つまり、コノハナサクヤ姫のクワには、オオヤマヅミの名が刻印されているはずとなろう。

 

神社伝承から浮んでくるのは、オオヤマヅミの作ったクワを使って、オオクニヌシ、スクナヒコナ、

コノハナサクヤ姫などが国土の開発に励んでいる姿である。

ふつうに考えれば、オオヤマヅミは神話にあらわれる人物であり、佐々木カラブクロとのあいだに

接点などはなさそうに思われる。ところが不思議なことに、この両者からはいくつかの共通点が浮ん

できて、二人は同一人物ではないか、と思わすような現象があらわれてくるのである。

   

オオヤマヅミと佐々木カラブクロについとの、第一の接点となるのが、その名である。

「大山祇 (ツミ) 」と「ササキ山の君」の名には、「山」という共通点が認められる。この山は、シイ

ネツ彦などの「海人族」に対応するもので、大山祇とササキ山の君は、自分たちは「山人族」だと名

乗っていることになる。なお、山人族と海人族との色分けは、山幸(サチ) 彦と海幸彦、源氏と平家

の分類にも通じるはずなのである。

そして第二の接点になると思われるのが、越智氏との関わりである。

 

 

■ 佐々木氏と越智氏

 

越智氏は、『記・紀』にはほとんど顔を見せることのない謎の氏族とされているが、とりあえずここ

では、越智氏の簡単なプロフィールを見ておきたい。

 

越智氏の発祥地については、さまざまな説がある。その一つは、鹿児島県南さつま市坊津とする

もので、これは、『記・紀』のいうオオヤマヅミの本拠地、笠沙に重なるものになっている。

第二の説は、越智氏は物部氏から出ているとするもので、第三の説は、越智氏を「越の国 (北陸

地方)」にむすぶ説である。そのほか『越智系図』では、かれらの太祖を7考霊天皇としている。

通説からは、越智氏の素性はつかめないのだが、神社伝承からは、越智氏についてのまったく

新たな一面があらわれてくる。

 

『日本の神々4』によれば、アヤ氏が集まり住むとする、高市郡高取町越智に、大和源氏の一流

といわれる越智氏の本拠地があったとされる。そこには、天津石門別 (アマツイワトワケ) 神社が

あって、アマテラスを天の岩戸から連れ出した力持ちの神、タヂカラオが祭神としてまつられている。

越智氏はほかに、九頭竜 (クヅリュウ) 神を崇拝しており、九頭竜神が当社の主祭神になってい

たこともあったとされる。

越智氏が、その本尊としてまつっているのが、愛媛県今治市大三島にある大山祇神社であり、オ

オヤマヅミ神である。越智氏は源氏系だが、瀬戸内海の水運をとり仕切っていたらしいのである。

 

九頭竜神が何者なのかについては、はっきりした説がみられないが、「異端書」や神社伝承から

は、新たな解釈があらわれてくる。「ツガル誌」では、福井県を流れる九頭竜川を九頭竜神と呼んで

おり、白山をあわせ、センピ系の一族に崇拝されていたとする。いっぽう神社伝承には、九頭竜神を

ヤチマタの神と呼んでいる例がある。このヤチマタというのは、ニニギが天下りをしようとしていたと

き、サルタ彦が姿をあらわれた天のヤチマタを意味している。したがって、この場合の九頭竜神は

サルタ彦のこととなる。

越智氏がその祭神としている九頭竜神には、サルタ彦を当てるのが妥当となってくる。それによ

って、タヂカラオとの関係をうまく説明できるのである。

 

越智氏の伝承を加えると、オオヤマヅミと佐々木カラブクロとの共通点はさらに増えてくる。

◇ ともに、国土の開発伝承にかかわる。

◇ ともに、山の字にかかわる。

◇ ともに、アヤ氏とのかかわりが認められる。

◇ ともに、サルタ彦とのかかわりが認められる。

 

 

■  越智氏と天の岩戸伝承

 

『越智系図』では、その太祖を7考霊天皇としているので、タヂカラオ、九頭竜神、オオヤマヅミな

どは顔を出せない仕組みになっている。とはいえ、かれらが祖神として祭っているのが上記の人物

だとすれば、『越智系図』が語りたいのは、5世紀の中ごろより以後の、新王朝の歴史のはずなの

である。そして、九頭竜神にはサルタ彦への置き換えが可能だとすれば、天の岩戸の伝承がその

中心にあったと考えられようか。

 

『日本の神々9』によれば、長野県の南端にちかい下伊那郡阿智村に、岩戸の伝承にもあらわれ

る知恵の神、オモイカネを祭神とする阿智神社がある。そしてそこに、

【タカミムスビ---オモイカネ (思い金、知恵の神) ---タヂカラオ】、と続く系譜があげられている。

 

阿智神社の名については、それをアヤ氏の祖とされる阿智王に結ぶのが第一案となる。そこに

は、時代が合わないとの声もあるが、オモイカネとタヂカラオを5世紀の後半に移せるなら、時代錯

誤は解消されるはずなのである。また、天の岩戸の伝承においては、この二人は親子の関係をもっ

て伝承に参加していることになる。

なお、オモイカネの父とされるタカミムスビについての検討は、のちの機会にまわしたい。

 

ここで、佐々木カラブクロとサルタ彦が、ともに新王朝を建てた友人同士になると仮定すれば、サ

ルタ彦の葬儀のさい、友人代表として集まるのは佐々木カラブクロになると考えられる。

いっぽう、『記・紀』の岩戸伝承において、岩戸の前に集まり、葬儀を仕切っているのがオモイカネ

である。そして、佐々木カラブクロとオモイカネには、「アヤ氏とのつながり」、が期待できるなら、この

二人には同一モデルである可能性があらわれてくる。

 

これまでに得た結果をまとめると、佐々木カラブクロ、オオヤマヅミ、オモイカネの三者には、「サ

ルタ彦」と「アヤ氏」という、二つの要素が強くかかわっていることになる。そして、

「サルタ彦と佐々木カラブクロは、新王朝の創立者」、

「サルタ彦とオオヤマヅミは、国土開発の立案者」、

「サルタ彦とオモイカネは、天の岩戸伝承における主役と準主役」、になると考えられる。

サルタ彦に対して、いくつかの側面から接触するこれらの三者には、同一モデルである可能性が

見込めることになろうか。

 

すこし強引すぎるようだが、安康天皇と雄略天皇によって建てられたと考えられる新王朝の構図

を変更しておきたい。

○ 安康天皇の別名は、佐々木カラブクロ、オオヤマヅミ、オモイカネ

○ その子の別名は、スクナヒコナ、コノハナサクヤ姫、タヂカラオ

○ 雄略天皇の別名は、サルタ彦、アマテラス

○ その子の別名は、オオクニヌシ、ニニギ、清寧天皇

 

 

■ 国土の開発伝承と考古学 

    

『記・紀』によれば、難波堀江 (ナニワホリエ) の掘削や茨田堤 '(マンダツツミ) の築堤、それに

仁徳陵の造営などは、いずれも仁徳天皇の時代に行われたとされている。そして『i日本書紀』では、

かれの死去年を399年とし、『古事記』ではその死去年を427年としている。

ところが、同志社大学で考古学を教えていた森浩一氏によれば、三つの大工事がおこなわれた

実年代として、5世紀の後半から6世紀のはじめにかけての時代が予測されるとするのである。こ

の矛盾については、森氏からのさしたる説明はないのだが、大工事に、オオクニヌシとスクナヒコナ

などによる国土開発を結ぶ案があってしかるべきだろう。

 

なお、古代の大阪平野には、河内湖とよばれる大きな湖があり、新大阪駅の北方にある神埼川

を唯一のはけ口として、大阪湾に流れ込んでいたとされる。そこで立案されたのが、新大阪駅の近

辺から南にむかって細長くのびる上町 (ウエマチ) 台地の一部を切り開き、そこに運河を作る計画

とされる。そして完成したのが、いまの毛 (ケマ) 馬橋、天満橋、淀屋橋、船津橋をむすぶ大川 (オ

オカワ) である。茨田堤というのは、いまの大阪府寝屋川 (ネヤガワ) 市の西方から、門真市 (カド

マシ) にかけて築かれていた堤防のこととされる。

 

5世紀の後半という時代は、遺跡の数が急増し、農業生産力が飛躍をはじめたとされる時代にあ

たっている。そして、国土の開発を思わす伝承は、「外史」や神社伝承にも数おおく見受けられる。

その主流となっているのが、阿蘇山 (熊本県)、亀山盆地 (京都府の中部)、甲府盆地 (山梨県)、

などに溜まっていた水を排水して沃地にした、との伝承である。その原型となるのが、難波堀江の

掘削になると考えられる。

 

『記・紀』が、雄略天皇とカラブクロに与えているのが、5世紀の中ごろから後半にかけての時代

である。つまりこの時代は、

「雄略天皇とカラブクロの活躍期」、

「考古学において遺跡が急増をはじめる時代」

「オオクニヌシとスクナヒコナによる国土の開発伝承」などを、まとめて受け入れる余地をもつはずな

のである。

開発伝承は、歴史の活性期においてみなければ、その多くが空文化してしまおう。

 

森氏の指摘により、伝仁徳天皇陵が造られたのが5世紀の後半よりも後になるとすれば、そこ埋

葬されているのは、新王朝系の人物である公算が高まってくる。かりに、旧王朝系の人物だとすれ

ば、最小に見積もっても、五十年の時差がついてしまうのである。それでは、伝仁徳陵の被葬者を

誰にすればよいのかとなる。これまでに得た結果からすれば、新王朝を建て、日本の初代天皇に

即位したと考えられる安康天皇 (佐々木カラブクロ) が、きわめて有力な候補となってくる。

 

森氏はまた、伝仁徳陵と伝応神陵とは、まったく同じ経線上にあることや、その製作の年次がほ

ぼ同じことなどから、対のかたちで造られたのではないかと推測している。ここでかりに、伝仁徳陵

の被葬者として安康天皇を当てるとすれば、伝応神陵の被葬者としては、安康と協力して新王朝を

建てたと考えられる、雄略天皇を当てるのが妥当かもしれないのである。

 

 

■ 新たな仁徳天皇の像

 

『記・紀』に現れる仁徳天皇は、きわめて人間的な人物として描かれている。たとえば、天皇が高

台から下をながめたとき、そこには住人の生活をあらわすはずの煙が立っていなかったのである。

そこで、税の取り立てを三年間やめたところ、また煙が立つようになったとされる。かれはまた、

皇后であるイワノ姫の嫉妬に悩んで、一般人にもあるような苦労を重ねたとされる。

 

これらの伝えの一部はたぶん正しいだろう。しかしそこに、「異端書」や神社伝承、それに考古学

などを加えてみると、伝仁徳陵の被葬者として、『記・紀』にあがる仁徳天皇や、倭王の讃が当てら

れる可能性はほとんど消えてしまう。ここでは、伝仁徳天皇陵を仁徳天皇陵と入れ変え、佐々木カ

ラブクロを仁徳天皇そのものとしてやれば、沙々貴神社の祖神として仁徳天皇がまつられている理

由を、うまく説明できるのである。

 

『記・紀』の伝承とのあいだに生まれるさまざまな矛盾を、整合的に理解しようとすれば、仁徳天

皇についての考え方を大幅に変更する必要がおきる。以下にあげる結論が正しいという保証はな

いが、とりあえず考えられるのが、仁徳天皇と佐々木カラブクロについての次のような解釈となる。

 

初代王の讃は、大サザキとも呼ばれる。三代王の済 (オシイワ王) のとき、カラブクロと後の雄

略天皇が連合を組んで反乱をおこす。そのため済は戦死し、王朝はいったん崩壊する。讃の皇

子だったクサカ王は、大サザキの名と、毛野の国を (群馬県と栃木県) をカラブクロに贈って恭

順を誓う。

 

454年、カラブクロは大サザキにあやかった佐々木氏を名乗ったのち、日本の初代天皇として

即位して仁徳天皇を名乗る。かれの子のスクナヒコナと、雄略の子のニニギ (オオクニヌシ) な

どは、国土の開発に精力をかたむける。かれらの努力の一部が、難波堀江の掘削であり、仁徳

天皇陵や、サルタ彦のための応神天皇陵の造営である。

 

康と武の兄弟、それにクサカ王の一族は、いったん宮津市の周辺の地に置かれるが、その後、

国土の開発事業に参加していく。連合王朝が一時的に不安定化したとき、武とクサカ皇子の一

族は奥州に移って日高見王国を建てる。日本国・日下の国、安東の国などはその別名である。

 

8世紀に入ったころ、『記・紀』の製作がはじまる。編者たちはその内容を大幅に変更し、本来は

カラブクロに掛かっていた仁徳天皇の名を讃に移し、カラブクロには新たに安康天皇の名を与え

る。それだけではなく、カラブクロの子供達がなしとげた難波堀江の掘削や、仁徳陵の造営工事

なども、旧王朝につながる仁徳天皇が成したものと書き換える。

 

 

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