鴎外  最後の  遺言状        安川民男

 

 

 

鴎外には三つの遺言状があることが知られている。第一の遺書は、日露戦争への従軍に先だって、明治三十七年二月に岡田和一郎、上田敏、山田元彦の立会いの下に、公証人役場で作成されたもので、鴎外が死亡した場合の財産の分配が詳細に示されている。第二の遺言は、その後の母みねの死去や長男於菟の結婚で、家庭状況が一変したことに対応するために、大正七年三月に修正されたものである。これらは、複雑な家庭状況を反映した、完全に私的なものであり、家族内の種々のいきさつについての正確な事情を知らない第三者が、立ち入ってとやかく忖度することは慎むべきことであろう。

 これに対して、死の直前に、親友賀古鶴所への口述筆記の形で作成された第三の遺言状は、宛名人は長男の於菟および友人になってはいるものの、その内容は、実質的には官辺に宛てたものであり、鴎外の人生観・社会観を凝縮した、深い内容を含んだものとなっている。

 

 その本文は、よく知られているが、次のようなものである。

「余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス」

  

 この遺言書について、これまでに示された一般の見解は、大まかに云って、次の五つに分類することができよう。(一)鴎外が世俗的栄誉一切を超越した、平穏な心境にあったことを示すもの、(二)、前項とは逆に、それまでの栄達を意識しながら官僚社会の中で過ごした事への悔恨と怨恨を表明したもの、(三)そのような隠忍自重の生き方からの解放を欣求したもの、(四)官僚制度の本質への批判と、その理不尽さへの抗議の意を込めたもの、さらにこの他に少数ではあるが、(五)口述筆記された文章は必ずしも、鴎外の真意を正確には伝えていないのではないか、とする見解も出されている。既にいくつかの総説や解説があるので(1)、ここでは紙幅の制約もあり、個々の見解についての議論には立ち入らないで置こう。

 

 これまで鴎外の遺言問題について積極的に見解を述べてきたのは、もっぱら文学関係者達であった。しかし鴎外は、まず軍医として、またそれに関連して、衛生、社会・労働問題、などの各種委員会に参画し、さらに広範囲の多様な領域に自らの意志で積極的に係わってきた人であり、その根底に強い士大夫意識があった。したがって、最後の遺言に込められた鴎外の思いを十全に理解するためには、政治や社会などの、より広い領域での活躍とその政治的・社会的背景を視野に入れた、総合的な考察が必要と思われる。

 

一.    鴎外 と 政局 

 

 帝室博物館総長と図書頭就任

鴎外は大正五年四月に医務局長を辞任したが、翌六年十二月に、帝室博物館総長・図書頭に任じられた。世上では、この任用は適材適所であり、今後の改革・活性化が期待されると評した。鴎外自身この出仕に強い意欲を燃やし、賀古鶴所宛に「老ぬれと馬に鞭うち千里をも走らんむとおもふ年立ちにけり」と書き送っている。そして年が明けると、毎週月、水、金は博物館に、火、木、土は図書寮に精勤した。

 鴎外の総長就任を機に、沈滞気味であった博物館の運営に大改革を期待したいとの意見も強かった。博物館総長としての業績として、(一)所蔵品の陳列が、これまでは品目種別であったのを改めて、時代別陳列に変更した。(二)所蔵品目録の刊行、(三)調査、研究の活性化を図るために『帝室博物館学報』を創刊した。さらに、欧米博物館の施設・運用の実態の調査をおこない、また奈良の正倉院の拝観許可の範囲をこれまでより拡げ美術や学術調査を目的とするものも認めることとした(2)。

 図書寮では、大正四年から始められていた『天皇皇族実録』の編修が遅々として進んでいなかったために、編修課の組織を大幅に拡張し、五班に分かち、各班を編修官一名、補助員二名、写字生二名で構成し、八年で完成させることとし、次の図書頭杉栄三郎の代に、神武から孝明代までの天皇、皇后、皇族の実録二八六冊として完成した。また、これと平行し以前から課題となっていた天皇の諡の考証を行うことを決め、鴎外自身が吉田増蔵の協力を得て完成させ、大正十年三月に図書寮から限定版百部が刊行され、関係部署に配布された。そして、その延長として『元号考』に着手したが、これは鴎外の死により未完成に終わった。また、職員の勉学と親睦のための有成会を創り、毎月一回、たいてい第一土曜の午後に開かれ、第一回は鴎外自身が講演を行った(3)。

『帝諡考』が出版された後、鴎外は『元号考』の完成に心血を注いでいった。これらの二書について、鴎外でなくても、このような仕事は可能であり、むしろ史伝などの鴎外でなければ出来なかった分野での仕事を続けていって欲しかった、とする意見が少なからず出されてきている。筆者もこの意見に同調したい気がするが、鴎外がこの二書に込めた思い、すなわち当時の人々が、それぞれの時代背景の内で、諡や元号にどのような追慕の念や願望を込めたのかは一つの文化的遺産であり、それに思いを致すよすがを整理・整頓しておこうとした心情は貴重なものであろう。

 

 シベリア出兵(4) 

帝室博物館総長に就任した鴎外は、これまでとは異なる分野での任務に忙殺されていたためか、大正七、八年の鴎外日記や書簡には、社会問題や政治に直接言及したものはほとんどない。大正三年に始まった一次大戦では、我国の直接の戦闘上の関与は、青島攻略など限定されたものであり、我国はむしろ局外にあって、漁夫の利を得て好景気を謳歌していった。

しかし、大正六年十一月にロシアで革命政権が樹立されると、英国は反革命勢力を援助することを企て、日本にも協力を求めてきた。もともと沿海州や北満州に勢力を扶植する機会を窺っていた陸軍は、それを受けて、参謀次長の田中義一を中心に、シベリア地域の我国の居留民の保護と、極東での反革命派の自治区設立運動の援助を目的とするという名目での出兵計画を立案した。本野一郎外相もこの案に賛成し、諸外国の了解を得る工作を始めたが、米国は我国の対外膨張政策に警戒感を抱くようになっていった。さらに山県も、日本単独での出兵は軍事費・装備調達などに問題が多いとして反対したために、この案は潰れ、その後、参謀本部は秘かにより包括的な案の作成を計っていった。

山県はしばしば軍国主義の権化のように評されてきているが、山県の軍事思想の本質は基本的には防衛的なもので、日露戦争でも戦争回避に最後まで固執して、「ロシア恐怖症」とさえ揶揄された。これには若年の頃、下関戦争で完膚ないまでに領地を蹂躙され、自らも危うく命を落とすところであったことが、原体験として尾を引いているのであろうか。外交についても、山県は極めて慎重であり「戦争は、それをどう終わらせるかの目処の立たないうちは、始めてはならない」と言い、シベリア派兵に慎重であった(『追憶百話』、田健次郎)(5)。これに対して、一世代後の、大島陸相や田中参謀本部次長らには戦勝の経験しかなく、外交も力づくのものになっていた。

 

ところが翌七年六月にチエコ兵救出問題が持ち上がってきた。これはオーストリア・ハンガリー帝国の下で長く圧迫されてきていたチエコ民族の一部が独立を求め、約五万人の義勇軍が一次大戦でロシア軍に参加していたが、ロシア革命の後、反革命軍と見なされ居場所がなくなりシベリア方面に逃走し、苦境に陥っていたのを、人道上の見地から救済すべきだとの声が欧米諸国でたかまり、米国はその為であれば派兵するとの態度をとるようになり、日米それぞれが七千名程度の派兵を行うことを提案してきた。本野外相の後を引き継いだ後藤新平外相と参謀本部は、派兵数に制限を付けるつもりは始めから無く、秘かに膨大な派兵計画を立案していたが、寺内首相が、派兵は二個師団を越えることはないと言明したために、原敬や牧野伸顕ら外交調査会のメンバーも派兵に同意した。派兵のための軍司令部が八月三日に形成され、第二師団(仙台)と第三師団(名古屋)に出動命令が下った。しかし、それから三ヶ月後の出動数は、日本軍は七万二千四百人にのぼり、米国の九千人、英国五千八百人、仏一千二百人に比べ圧倒的に多くなっていった。

ところで一次大戦の勃発で、我国の産業界は空前の好景気を迎えたが、その恩恵は一部の富裕階級に限られ、一般の労働者達は物価の高騰に苦しめられることになっていった。寺内内閣がシベリア出兵の方針を固めていくにつれ、米相場はじりじりと高騰をつづけ、七月に富山県で始まった米騒動は、八月になると全国的規模なものにまで発展し、その鎮圧に軍隊が出動しなければならなくなった。このような状況に対して、寺内内閣は有効な対策をとることができず、九月二十一日に総辞職し、二十九日に我国最初の本格的な政党内閣として原内閣が成立した。

原内閣は十月十五日の閣議で、シベリア派遣軍のバイカル湖以西の進出を禁止する旨の決定をしたが、その後、我国は山県が危惧したように、それから脱却する糸口を掴むことができないままに、兵員の犠牲および軍事費の雪だるま的増大という泥沼化の様相を呈するようになっていき、ようやく撤退が決定したのは、加藤友三郎内閣が成立してからの大正十一年六月二十四日のことであった。

 

 山県公 と 民本主義 

山県は一般には、頑固一徹の保守主義者との印象を与えているが、身近な人々がその没後に寄稿した『山県公のおもかげ』の付録、『追憶百話』(5)、その他の回想記(6)によっても、山県が老年にいたるまで柔軟な思考力を持ち続けていただけでなく、積極的に新しい思想を取り込もうと努力していたことが示されている。さらに外交、経済財政、社会問題、思想問題などに就いては、常に政治家、大学教授らの意見を徴し、もしその意見が腑に落ちないときには、何人の見解であるかを秘して、別人にそれについての評を求めるなど、独断を避けるよう努力を重ねていた(『追憶百話』、後藤新平、田 健治郎、)。

とくに大正七年八月の全国的な米騒動に当面して、山県はその思想を大きく転換させ、同年十二月には、新しい社会状況に対して指導性を発揮できるような思想的指針を研究するため、学者・教育家等十数名よりなる研究会を発足させ、“社会救済は焦眉の問題である、政体は立憲君主制を執り、政治は民本主義でなければならぬ”と語っていた(7)。

普通選挙についても“国民皆兵の徴兵制度を採用した時から、いずれ選挙権をそれら全員に与えねばならぬと決心していた”、と述べている。

 

  大正六年末に帝室博物館総長に任じられ、ある意味で政治世界から疎外されていた鴎外は、一次大戦末期の翌七年末に、独・墺・露などの西欧大国で、帝政が転覆するなどの、世界政治情勢の激変に当面して、同年十一月十三日に、「老公ナドハ定而御心痛之事ト拝察仕候。…………………小生輩ハ金馬門の隠居所…・・ヨリ政治家諸君ノ御手腕ヲ拝見可仕ト存居候」と、皮肉とも髀肉の嘆とも受け取れる書簡を、賀古鶴所宛てに書き送っていた。

ところが大正八年末から、鴎外は賀古鶴所宛の書簡で、社会問題について熱っぽく語るようになる。東大総合図書館に所蔵されている鴎外文庫には、表紙に『労働問題批判』と手書きされた小冊子が三冊所蔵されていて、貴重図書に指定されている。この小冊子については、すでに篠原義彦による調査・報告が行われているが(8)、これらは、雑誌『改造』の大正八年五月号から九年一月号までに掲載された記事を中心とした切り抜き帳であり、それらは各種の社会政策を実施に移した場合に生じるであろう問題を論じたものが多く、鴎外が実行性のある具体策を念頭に置いていたことを窺わせる。

これらの小冊子を作るきっかけは、社会問題解決の方策について、山県から意見を求められたためであろう。九年一月十日の賀古鶴所宛て書簡に、「今日ハ山口鋭之助ガ先方カラ進ンデ自分社会政策ヲ話シタ。曰、ドウセ僕ナドノ意見ハ実行ガ出来マイガカウダ。……・」と書き送っている。山口は鴎外と同年の文久二年の生まれであるが、京都大学教授、学習院院長を経て、明治四十年から諸陵頭に就任していた人で、大正六年までは図書頭も兼任していた。この山口の口ぶりは、山口もまた、政治的実行力を持っている人物から意見を求められていたことを窺わせる。先に触れたように、山県公は大きな政治問題について、複数の識者にその見解を文書にして提出することを求めることがしばしばあった。この度も何人かの人士に、今後の皇室の在り方や社会政策についての見解を、法制局長官の安広伴一郎に提出するよう求めたのであろう。この当時山県は、原首相の現実的姿勢を高く評価するようになっており、両者はいわば蜜月状態にあった。したがって、政治・社会制度の改革についても、両者の同意が得られれば、実行に移される可能性があった。

しかし賀古鶴所宛の書簡で、社会問題を熱っぽく語ることは、同年六月頃を境に突然止まる。これはこの時期に起った宮中某重大事件問題で、山県がその対応に逐われるようになっていったためではないのだろうか。

鴎外がこの後、十年十一月から、雑誌「明星」に『古い手帳から』の連載を始めたのは、社会改革案についての実現性が急速に萎んでいったために、社会改革の基本思想を学術的に整理し、後世のために残しておこうと思い立ったのであろう。

 

宮中某重大事件(9)(10)

 明治後期から大正初期にかけて絶大な権力を振るった山県を、実質的に政治の場から追い落した事件が「宮中某重大事件」であった。皇太子裕仁殿下の妃として、すでに大正七年一月に久邇宮第一王女良子殿下が内定していたが、九年五月頃に、良子殿下の生母の実家である島津公爵家に色弱の遺伝因子があることが明らかになり、山県、西園寺、松方らの元老や原首相が、久邇宮家に先の内定を辞退するように働きかけを始めた。この動きに去就に迷った久邇宮家では、東宮御学問所で倫理を担当していた杉浦重剛に相談した。

東宮御学問所は大正三年四月に皇太子殿下学習院初等科の課程の修了に伴って設けられたもので、総裁には東郷平八郎海軍大将が任命されていた。一般学科には東京大学、学習院などの教授達が当たったが、倫理は帝王学という含みがあるために適任者選びが難航し、結局日本中学校校長の杉浦重剛が選ばれた。

杉浦重剛(11)は安政二年に膳所に生まれ、明治三年に藩の貢進生に選ばれ大学南校に入学し、九年に政府留学生としてロンドン大学に留学し化学を学び十三年に帰国。その後、東京大学予備門長、文部省専門学術局次長などを歴任した。二十三年衆議院に立候補し当選したがまもなく辞任し、一年ほど上海の東亜同文書院長を務めた後、帰国し私立の日本中学校長となった。これと平行して、杉浦は明治二十一年に政教社に加わり、雑誌『日本人』の発刊に尽力したが、その思想は、我国の伝統的思想の枠組みはそのまま保存しつつ、その欠点を西洋思想で補強しようとする、寄せ木細工的なものであった。これは鴎外が、『洋学の盛衰を論ず』や『混沌』、『なのりそ』などで示唆しているように、西欧文明を根底まで掘り下げて理解した上で、それを一つの手懸かりにしながら、東洋文化を根底から再構成するのでなければ、異文化摂取による真に新しい文化の創造はできないとしている立場とは、本質的に異なるものであった。杉浦は、「理学宗」を唱え、日本古来の皇室思想と近代科学のエネルギー論を結び付けて、日本の国体の優秀性を論証しようとしていたが、これが杉浦が帝王学担当に任用される要因の一つだったのかも知れない。しかし、このように全く異なる体系の思想を、単に採長補短的に組み合わせることで、伝統的な思想・文化を新しい時代に相応しいものに展開させようとしても、実りある成果を期待することはできないであろう。

 

杉浦は久邇宮家から相談を受けて、“「綸言汗の如し」であって、人民の師表となるべき人君が一旦なしたる約言が、安易に前言を翻すようでは、国民の倫理道徳は成り立たない。人倫の崩壊に比べれば、色弱の如きは枝葉の問題である”と主張し、辞退に傾いていた久邇宮家の気持ちを逆転させた。そして、さらにこの情報を政界の黒幕的な存在である玄洋社の頭山満に漏らしたために、右翼系の政治浪人達がこの問題に係わるようになってきた。

鴎外は大正十年二月十八日付の賀古鶴所宛て書簡で、「漏洩は杉浦の如き人物を使用すれば起る事にて初より知れたる事に候」と書いて不信感を顕わにしているが、それは久邇宮家が杉浦に相談をしたことのみを指しているのか、東宮御学問所が倫理担当に任用したこと自体を指すのかは明らかでない。帝王学については、別の書簡で「今日にて帝王之学を求むるときは万国の歴史、文学、制度を本としたる哲学を建立せざるべからず……・」として、今日の帝王学は世界史的な広い視野が不可欠であることを強調していて、杉浦の如きが帝王学とは、という意識が秘かにあったのかも知れない。

とにかく、右翼系浪人達にとっては、たとえ不成功に終わったとしても失うものは何もない以上、相手が大物であればあるほど話は面白くなってくるわけで、内田良平、北一輝ら雑多な系列の右翼系浪人達が介入してきて、多額の資金が動くようになっていった。さらに、良子王女が島津公爵家に繋がることから、政界や海軍の薩摩閥が結束して動くようになり、抜き差しのならない政治問題へと発展していった。原首相は大正九年以降、しばしば日記に、この問題への対処に苦慮していることを書き記していて、例えば十年二月四日の条には、「万世一系の皇統に苟も御病系を混じて可なりと言ふことには同意を表はすこと不可能なり…・・真に皇室を思うものは如此為体あるべきものに非ず、御思召は論ずる限りにあらざれども、不純分子皇室に入りて可なりとは臣下の分として言ひ得べきことにあらず、然かるに久邇宮家の運動、薩州人の運動甚だし」と書かれている(12)。

 

結局のところ、問題の趨勢を決めたのは、右翼の脅迫と示威運動であった。山県公にしても原首相にしても、自分自身の暗殺は恐れていなかったが、内約辞退に向けて動いた皇族達を順次暗殺していくという、いわば人質を取った上での恫喝や、数万規模を動員しての示威運動の計画に山県が屈し、問題の処理を宮内大臣の中村雄次郎に一任した。中村宮相は事態がここまで緊迫してきた以上やむをえないとして、大正十年二月十日に皇太子妃問題は内定のまま変更はないと発表し、辞表を提出した。

その後、山県は三月二十一日に、「一身を賭しても、申し上げねばならぬ事は申し上げねばならぬまでのことだ。しかし、自己の所信のために天下の疑惑を招いたことは、恐懼にたえぬ」として、一切の官職、および栄典を返上したいと申し出た。そして、辞任が認められた上は、一介の山県狂介として、新聞は無理としても、権威ある雑誌を出すなど、国家のために尽くしたいと、側近に語った。

この山県の決心は固かったが、新たな政治的混乱を招くことを恐れた原首相は、各方面に働きかけ、翻意に務め、結局大正天皇から慰留のご沙汰があり、官職、栄典はそのままとなった。優諚のあった数日後に、山県は原首相に

ひるがえす心のうちの苦しさは、たそにかたらむ言の葉もなし

と書いた半切を送った。また、この当時の心境を示す次の歌がある。

    飛ぶ蛍打ち落とされて川の面に光りながらに流れてぞゆく

 

鴎外は、このような状況の内で、山県に和歌四首を送ったが、そのなかの

遠くおもひ深くはかれば真心のなかなか世には知られざりけむ

おほけなき事とも知らでなべて世のかたらひぐさにせしぞうれたき

 

は、衷心からの誠意で行ったことが理解されないで、世上では権力争いとしか捉えていないことに対しての山県の口惜しさを推しはかったものである。

しかしその後、山県の政界に対する影響力は激減し、結局この事件でもたらされたものは、右翼の政財界の深奥への浸透と、薩摩閥の政・軍界での優勢の確立であった。

二月十九日に薩摩の牧野伸顕が宮内大臣に就任し、三月九日には久邇宮家のために情報収集に大活躍した関屋貞三郎が、静岡県知事から宮内次官に抜擢され、ご成婚にむけての体制が整えられていった。鴎外日記には、それぞれ、

二月十九日 土。晴。参寮。往省。見前大臣中村雄次郎。大臣牧野伸顕。

三月十日 木。晴喧。参寮。通刺於新次官関屋貞三郎。

とだけ書かれているが、山県の意のあるところを良く理解していただけに、万感の思いがあったであろう。そして宮内省内部だけでなく、政官界で広範囲の論功行賞が行われていった。

 大正十年になると、原首相は政権担当に疲労を感じるようになり、山県にしばしば辞意を漏らすようになった。しかし山県は代わりになる人材がないとして、強く慰留していたところ、十一月四日に東京駅頭で、国鉄の若い技手に暗殺された。原首相暗殺の報を聞いた、山県は、「原を殺したものは吾輩だ。当時彼の希望通り辞職さしたならば斯る凶事は無かったに相違あるまい」といって嘆き、その後病床に就くようになり、翌大正十一年二月一日に没した。

 

二.    明治精神の終焉    

 

山県は権力政治家である、として在世時から、今日にいたるまで、激しい批判に曝されてきているが、それは権力のための権力追求というのとは異なって、帝国主義段階に入っていた厳しい国際情勢に対処しつつ、日本国家の独立の確保と、天皇制の安泰を計ろうとした、過剰なまでの愛国心、忠誠心の現れであって、私利私欲の念は薄かった(5)。

山県は「自分は一介の武弁に過ぎない」と口癖のように云い、伊藤博文に比べ政治家として遜色があることを自から認めていた。それだけに老年になっても、大変な勉強家で種々の資料の提出を求め、納得のいかない事項については、担当者に詳細な説明を求めていた。さらに、身近の副官等にもテーマを与えてレポートを提出させ、勉強するようしむけていた。没後、古希庵に残されていた図書の目録『山県公文庫目録』を見ても、『ルーズベルト氏の日本観』(渋沢栄一訳、1920)、チエンバレーンの『民主主義と自由』(1918)の他にも、社会主義や労働問題に関する種々の新しい出版物がみられ、晩年になっても、いかに幅広く勉学に努めていたかが窺われる。

 日常生活でも、自らを律することが厳しく、財界人などから有利な投資話を持ち掛けられても、「俺は軍人だから食うだけの金があれば十分だ」として断っている。若い頃からの唯一の道楽は造園であったが、大正六年には、目白にあった名園・椿山荘を、維持費がかかり過ぎるとして、藤田男爵に譲り、東京での拠点として、麹町に新椿山荘を設けたが、これは敷地数百坪のもので、隣接する民家の赤子の泣き声が聞えるほどのものであった。

 秘書官入江貫一は、山県が死の数日前に、 “八十五年の生涯を顧みて自ら嬉しき一事あり、そは曾て皇室に対し奉り心の誠を失はざりしことなり”と述懐したことを深い感動を込めて書き留めている(5)。

 

結局のところ、山県の本質は 興津弥五右衛門のような、古武士的な献身としての忠節心であったが、無批判的な主命への追従ではなく、より高次の政治理念に支えられたものであった。岡義武は、日本で出た政治的伝記の最もすぐれたものの一つと評価されている著作『山県有朋』(13)の中で、「彼が尊崇したのは、理念化された天皇にほかならない。従って、実在の天皇が彼の抱く理念像から離れている場合、彼の態度は恭謙ではない」と記している。実在の天皇が理念像から離れているという意識は、大正時代に入るといっそう顕著になっていき、逆に天皇から敬遠されるようになっていった。

このような理念化の根底にあったのは、明治精神であったと捉えてもよいであろう。日本の歴史上最も清新な発展性にあふれていた時代を支えていた闊達なエートスは、しばしば明治精神と呼ばれているが、その中核に、国家主義、進取の精神、武士道精神などと共に、高い倫理感と人間性が兼備されていたと受け止められている(14)。山県にあっては、その武士道精神は、古武士的な心情的献身を中核にしたものであったが、さらに国際緊張の内での国家理念や、次第に高まってきた国の内部での政治意識の分裂・対立に促されて、「公」の意識が理念化されていったのであろう。しかし、このような古武士風の忠節感や、道義的な「公」の意識は、西欧の即物的な近代主義政治思想の洗礼を受けた社会風潮の下では、ほとんど理解されることも無いままに、時代遅れの頑迷な保守的政治家とのレッテルを貼られるようになっていった。結局、山県(そして鴎外)の死によって明治精神は終焉を迎えたと云ってよいであろう。

 

山県の直接の後継者となる桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅、等は維新の動乱に自ら参加した経験を持ち、軍略家と同時に政治家としての幅広い見識を身に付けていたが、その次の世代になると、維新前後の思想的、政治的葛藤を経験することもないままに、純粋の職業軍人として、近代西欧式の軍事教育を受け育てられていたために、ひたすら有能なテクノクラートを指向していった。山県は思想的には伝統主義者であったが、軍事技術の面では極めて先進的で、外国留学から帰国した若い将校達を呼び、熱心に耳を傾け、諸制度や軍事思想の改革に積極的に取り組んでいった。そのような陸軍革新の手足として頭角を現していったのが、大島健一や田中義一であり、「山県の秘蔵っ子」とか「陸軍の寵児」と呼ばれ、有能な軍事テクノクラートとして、陸軍の中枢部にあって累進を重ねていった。

 

 田中義一(15)は元治元年に微禄の萩藩士の子として生まれ、明治十九年に陸軍士官学校卒業、二十五年に陸軍大学校を卒業したエリートであった。日清戦争での第一軍参謀としての綿密な調査・企画力を認められ、三十一年から五年間ロシヤに派遣され、そこでの情報収集が日露戦争の勝利に大きく貢献した。明治四十年に、陸軍はそれまでの防衛的な国防方針を、大陸への進出を目指すものに転換した『国防方針』を策定したが、その中心になったのは参謀本部作戦課高級課員であった田中中佐であった(16)。

鴎外が医務局長(中将相当官)になった明治四十年当時には、田中は連隊長・大佐であったが、四十二年に軍事課長として本省に戻り、翌年に少将に昇任した。鴎外との接触が始まったのは、この頃からであり、鴎外の写真を撮ったり、俳句の揮毫を求めたりするなど、田中の方から接触を求めていた。しかしその後、旅団長として一旦本省を離れた後、四十四年九月に要職である軍務局長として本省に戻ってくると、鴎外との関係は緊張気味となり、軍医の人事権を巡って対立し、鴎外が辞意を表明するまでになっていった(17)。

大正元年十二月十四日の鴎外日記に、「田中義一来て増師論を草せんことを求む。山県公の旨を奉ずるなり。」とあり、同月二十日の条に「増師意見書を田中義一に交付す」とある。「交付」という言葉を、鴎外は原稿を書店主に渡すときにしばしば使っているが、敬意のこもった言葉ではないであろう。この増師問題は、日露戦争後の新しい国際情勢に対応する必要があるとして、二個師団の増設を求めたのに対して、西園寺首相が財政難を理由に難色を示していたものであり、おそらく、鴎外としては気の進まない仕事を、命令とあれば引き受けざるを得ないという心境だったのであろう。そして結局、この増師問題が西園寺内閣の退陣のきっかけとなっていった。

 山県の軍事・外交政策の基調は、開国時や明治初期の、貧弱な国家体制の下での外交の体験の記憶がまだ鮮やかに残っていただけではなしに、一見迂遠に見えるとしても、究極のところ、政治や外交の場での道義の意義をよく認識していただけに、一次大戦後の外交政策にも慎重な気配りを欠かさないものであった。これに対して、田中や同世代の外交官加藤高明らの外交方針は、かりに国家の安全と発展を意図した愛国心から出たものであったとしても、我国の国力を過信した、拙劣な力尽くのものであり、特に大戦中に中国の袁世凱に強要した「二十一条の要求」は、我国の外交史上でも、最も大きな汚点となるものであって、山県はこれに対して厳しい批判を浴びせた(18)。これら新官僚達の外交は、かって横井小楠が批判した、十九世紀西欧列強のアジア、アフリカでの植民地政策を再現したものであり、一次大戦以降、人種問題が重要な課題となってくることが予想されただけに、中国と協力し共栄する道を探ろうとしていた山県(大正三年八月の対支政策意見書(18))としては認められないものであった。シベリア出兵についても、軍略的に細部までの検討が不十分な拙劣なもので、了承できないと批判していた(田 健次郎)(5)。

 

大正十一年六月十二日に加藤友三郎内閣が発足するや、同月の二十四日に、シベリアからの撤退の発表がおこなわれたが、各新聞の論調は、シベリア出兵が、名分のない無益な国費の浪費であったとして、厳しいものであった。例えば、朝日新聞は二十五、二十六の両日にわたって、 “米国と七千程度の兵を出すとの盟約を結んだにもかかわらず、我国は七万五千の大兵を出し、米国が所期の目的を果たしたとして撤兵した後にも、出兵目的を「極東露国の政情安定を見るまで」、「朝鮮の国境防備のため」と変更して派兵を続け、全世界から猜疑の目でみられるようになっていた” 、 “一部軍閥の政策と情実のために、撤兵を引き延ばされ、その結果多大の苦痛と損失を被った国民は大なる喜びを以て撤兵の断行を歓迎することを信じる”という記事を掲げ、“希に見る醜外交”と断じた。

鴎外が厳しい調子の遺言を残すことを思い定めた背景には、このような与論の動向があったのであろう。後年、 “駐兵四ケ年半、戦費四億円、軍司令官を代えること三回、師団動員数ケ師、……・その間戦争目的を変更すること三回、領土は問題外であるが、勢力圏的にも、経済的にも、道義的にも、殆ど得るところがなく、而して忠勇なる将兵は、シベリヤの曠野にいわゆる過激派なるものと戦い、しかも兵力不足、戦略不徹底のために、尼港虐殺事件、田中大隊全滅、石川大隊全滅等の惨事を惹起し、外に我が野心を猜疑され、内に国民の不満懐疑を累ね、遂に一物を得ずして撤兵したる、悲しむべき大事件である”(伊藤正徳)と評されることになるシベリヤ出兵を、参謀次長として中心になって推進し、その後原内閣の陸相にあげられるや、一転して変わり身も早く、撤兵工作に奔走したのは、節操を欠いた機会主義者とでも云うべき田中義一であった。後年、政界に転出し、昭和二年四月に首相になるや、直ちに中国の内乱に乗じて山東出兵を強行し、これが、その後の満州事変以降の所謂十五年戦争への道を敷くことに繋がったと厳しく論難する人が少なくない(15B)、(19)。

 ときに大正文化、大正デモクラシーと呼ばれているものは、西欧文明をそれなりに咀嚼した上での、一応の文化的達成と受け止めることができるが(20)、それにはまた、“西洋白粉を塗りたくったような”(長谷川如是閑)と酷評されるような、表層的西欧文明受容というひ弱な側面があった。事実、この後間もなく、この大正文化の達成は、”昭和維新“を叫ぶ軍部や右翼を中心にした勢力に有効な抵抗を示すことができないままに、踏みにじられていくことになる。そのきっかけは、政界の深奥にまで右翼の介入を許すようになった皇太子妃問題の解決法や、国際的視野や道義性を欠いた軍事外交を展開していくようになっていた軍部にあったと云ってよいであろう。

 

 冒頭部分で触れたように、鴎外の最後の遺言状については、実に多種多様な見解が出されてきている。ここで個々の見解について言及している余裕はないが、その中にあって、官権力に対しての最後の反抗であったとする見方が、唐木順三、高橋義孝、加賀乙彦、山崎国紀らにより出されている。例えば、唐木順三は「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」とあることに触れつつ、“薩長系藩閥に対する秘められた反抗と清潔があった”としている。一方、山崎国紀は、「山県よりも、陸軍軍医部内の頂点にいた石黒忠悳をはじめ小池正直、その他軍医部内の官僚たちのもっていた力の誇示と権謀術数に対する、耐えがたい反撥にあった」、「鴎外は栄達への道を絶ち、全身で『官権』にあらがうことにより、生涯の土壇場において、自己の主体性を取り戻そうとしたのである」と書いている(21)。しかし、単なる軍内部での権力抗争に対して、「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス」というのは、あまりにも大袈裟すぎるのではないだろうか。

 

鴎外が死の床で、「宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」と渾身の力を振り絞って反抗しようとした対象は、もっと具体的なものであり、シベリヤ出兵や皇太子妃事件以来、日本国家の命運を支配するようになっていった、宮内省と陸軍の新しい主流派閥だったのであろう。それは単なる私怨・反撥というような、個人的感情によるものではなく、これらの新主流派の内に、横井小楠がつとに政治家の資質として不可欠なものと主張していた惻怛の情や道義心(前報、鴎外誌 七九号)が欠けているだけでなしに、政治の本質である「公」の意識の欠如が、その後超国家主義と呼ばれることになる精神の狂気的状況、ひいては国政の破綻に直結することを予感し、鴎外は、国家の前途を憂える士大夫的な使命感に促され、最後の力を振り絞って批判・反抗を試みたのであろう。鴎外は終生、理性や文明への信頼を失うことはなかったが、死に面してその心中に去来したのは、幼い頃郷里の津和野で、師佐藤綱善の下に、高い文化や人間性への信頼に、朧気ながらも目覚めていった幼い日々への追憶の念だったのであろう。

 

参考文献

 

(1)【解説・総説】 吉野俊彦、『虚無からの脱出 森鴎外』、PHP研究所、昭和五五・八。小泉浩一郎、「鴎外と遺言状」、『一冊の講座・森鴎外』所載、有精堂、昭和五九・二。 池野誠、「石見人森林太郎の死」、『山陰文芸』、五、平成九・七

(2)山崎一穎、「帝室博物館総長兼図書頭時代の森林太郎・鴎外」、

『跡見学園女子大学国文科報』二二、平成六・三

(3)渋川驍、「森鴎外と図書寮」、『読書春秋』、六(十)、昭和三十・十

(4)陸軍参謀本部編、『西伯利出兵史』、翻刻版、新時代社、一九七二・三

原暉之、『シベリア出兵 ―革命と干渉 一九一七 ― 一九二二 ―』、

       筑摩書房、一九八九・六

細谷千博、『シベリア出兵の史的研究』、岩波書店、二〇〇五・一

(5)入江貫一編著、『山県公のおもかげ』・付録『追憶百話』、偕行社、昭和五・六

(6)高橋義雄、『山公遺烈』、慶文書店、大正十四・四

(7)岡義武、林茂校訂、『大正デモクラシー期の政治 ―松本剛吉政治日記―』、

     岩波書店、昭和三四・十二

(8)篠崎義彦、「山県有朋と鴎外」、『国文学解釈と鑑賞 別冊・森鴎外の断層撮影像』、昭和五九・一

(9)今井精一・高橋正衛編、『現代史資料4・国家主義運動1』、

みすず、昭和六三・五

大野 芳、『宮中某重大事件』、講談社、一九九三・六

(10)古川清彦、「鴎外と「宮中某重大事件」」、『鴎外』、九、一九七一・六

渡辺克夫、「宮中某重大事件の全貌」、『THIS IS 読売』、平成五・四

(11)猪狩史山、『杉浦重剛』、新潮社、昭和十六・八

明治教育研究会編、『杉浦重剛全集』全六巻、杉浦重剛全集刊行会、

         一九八二 ― 一九八三

    回想杉浦重剛編集委員会編、『回想杉浦重剛』、思文閣、昭和五九・二

(12)原奎一郎編、『原敬日記』、第九巻、乾元社、昭和二五・六

(13)岡義武、『山県有朋 ―明治日本の象徴―』、岩波書店、昭和三三・五

(14)松本三之介、『明治精神の構造』、岩波書店、一九九三・十一

(15)A 高倉徹一編、『田中義一伝記』、原書房、一九八一・二

B 田崎広松、『評伝 田中義一 十五年戦争の原点』、

平和戦略総合研究所、一九八一・二

C 纐纈 厚、『近代日本の政軍関係―軍人政治家田中義一の軌跡―』、

大学教育社、昭和六二・一

(16)黒野 耐、「随感録及び随感雑録等に見る田中義一の政軍略思想」、

『政治経済史学』、三四一、一九九四・十一

(17)村岡 功、「森鴎外と田中義一」、『鴎外』、五十、一九九二・一

(18)徳富蘇峰、『公爵山県有朋伝 下』、復刻版、原書房、昭和四四・二

(19)大内 力、『日本の歴史24,フアッシズムへの道』、

        中央公論社、一九七四・四

(20)松尾尊充、『大正デモクラシー』、岩波書店、一九七四・五

同、『大正デモクラシーの群像』、岩波書店、一九九〇・九

(21)山崎国紀、『森鴎外 〈恨〉に生きる』、講談社、昭和五一・十二

 

 

 

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