横井小楠 と 森鴎外 における 東洋の再構築

               安 川 民 男

 

 

 

維新前後から大正時代までを通じて、我国の思想界にとって最も重要な課題は、西洋文明に対してどのような姿勢をとるか、ということであった。開国後、欧米文明との接触が深まるにつれ、その高度な軍事・科学技術や政治・社会制度は、我国の伝統文化とは全く異質の思想・文化に支えられていることを悟るようになり、国際社会に伍していくためには、西洋文化のより深い理解と摂取が不可欠であることが認識されるようになっていった(1)。そこで、福沢諭吉らは、もっぱら西洋に学ぶことを優先させようとする「脱亜入欧」を唱えた。これに対して横井小楠や佐久間象山らは、東洋の伝統文化に基礎を置きながら、西洋文明を摂取することで、より高度な文化を築くことを目指したが、このためには、東洋文明の伝統や理念を旧来とは異なる視点で捉え直すという、再構築が必要であった。これは岡倉天心の『東洋の覚醒(原文英文)』(2)をもじっていえば、「東洋の再構築」と云うことができよう。

ところで、晩年の鴎外が思想的にもっとも近親感を抱いていたのは、横井小楠だったであろうとして、先にその概要を述べた(3)。本報では、小楠と鴎外が、どのように西洋を受容しつつ、東洋の再構築を企てていったかについて、今少し立ち入った検討を試みたい。

 

I.小楠 における 西洋文明の受容と東洋の再構築(4) 

小楠は熊本藩の中級武士の次男で、藩校時習館で学び、はじめは徂徠学や陽明学に関心を寄せていたが、やがて、それらは空疎な功利主義、恣意的な心情主義でしかないとして、朱子学の強い理念追求の姿勢に共感するようになっていった。その後、 ペリーやプチャーチンの来航に刺激をうけて、小楠は西欧諸国との外交問題に関心を寄せるようになり、『海国図志』などの翻刻書(5)を読むことで西欧事情に通じるようになると、西欧諸国が南蛮北狄の國ではなく、むしろ東洋諸国より優れた政治が行われていることを知るようになり、尊王攘夷を唱える水戸学に批判的になっていった。それと同時に、朱子学にもある種の限界を感じ、『書経』などに示されている「三代の治」に関心を持つようになり、その高い見識が諸藩の人々の注目を集めるようになっていった(4B)。

 

〈 小楠の西洋文明理解 〉

小楠は、安政五年に越前藩に招かれ、藩政の改革にあたり、物産総会所を設け、藩財政の目覚ましい立て直しを果たした。そこでの経験を基に万延元年に著した『国是三論』の中で、“米国では、世界万国から知識を集めて政治を行い、大統領の職は賢に譲り子に伝へず、公共和平を以て務めとなし、イギリスでは官の行うところはことごとく民に議り、ロシアでは政教ことごとく倫理によって、生民の為にしているなど、ほとんど三代の治教に符号しているのに、日本はなお鎖国の旧見を執り、権力の座にあるものの私の利のための政治をつづけている”として、改革のあるべき方向を示した(本小論では、小楠の伝記的事項および著述等の引用は参考文献(4B)により、引用に際して、微妙なニュアンスを伝える必要がある場合は、原文をそのまま「 」で括って示し、一方、紙幅の制約もあり、議論の流れを追うには簡略化、現代文化したもので十分と判断した場合は、その概要を

“ ”で括って示している。他の著者の引用についても同様の使い分けをしている)。

ところで、小楠はこのような的確な西欧文明の理解を、どのようにして手に入れたのであろうか。そこで大きな役割を果たしたのが、『海国図志』などの舶載された漢訳西洋文献であった(5)。さらに、小楠は安政五年以降、越前藩に招聘され、そこで殖産興業について実績を重ねていたために重用されるようになり、文久二年に越前藩主松平春嶽が幕府の政治総裁職につくと、小楠は江戸に出府し、そこで勝海舟や川路聖護らを通じて最新の西欧事情を知ることができ、さらに幕閣の諮問に応じるなど、緊迫の度を加えていた我国の外交に参与していただけに、たんなる机上の知識に留まらない、西欧文明の本質についての深い洞察を身に付けるようになっていた。

後年、勝海舟は『氷川清話』(6)の中で、「始めはただ横井より手紙で外国の事情など尋ねてよこすくらいで、まのあたりに話した事はなかった。始めて面会したのは、ずっと後のことで、横井が越前との関係ができた後で、たしか越前の屋敷で遇ったやうだ」、「おれが米国から帰った時に、彼が米国の事情を聞くから、いろいろ教えてやったら、一を利いて十を知るといふ風で、忽ち彼の國の事情に精通してしまったヨ。」、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州とだ。横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教へてやったくらゐだが、その思想の高調子なことは、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思ったことがしばしばあったヨ」と述べている。一方、勝海舟の佐久間象山に対する評価は、身内であるにも係わらず、見掛けだけのものに過ぎないとする、手厳しいものであった。

 

小楠の思想は種々の論著、建白類、談録、詩文、書簡などの中に分散して示されていて、その西洋文明観がどのようなものであったのかを、直接体系的に把らえることは困難である。また、小楠が西欧文明について、十分かつ的確な情報を得ていたわけではない事も明かである。しかし、小楠が重要な情報源とした『海国図志』は、アヘン戦争の立役者林則徐のブレーンであった魏源の編著によるもので、軍事的衝突および外交交渉の過程を通じて、西欧文明の有り様を実地に体験しており、また小楠にしても、幕閣の諮問に応じるなど、緊迫の度を加えていた我国の外交に参与していただけに、たんなる机上の知識に留まらない、西欧文明の本質についての深い洞察を身に付けるようになっていたことも明かであろう。

そこでここでは、これまで我国で東洋と西欧の政治・社会思想史の比較検討を近代主義の立場から行う場合に、基礎資料としてしばしば利用されてきた、ボルケナウの『封建的世界像から市民的世界像へ』、およびいくつかの西欧政治思想史の成書(7)を援用しながら、小楠の西洋理解の本質がどのような特徴をもっていたのかを整理・検討して置こう。

 

キリスト教では、人格神としての性格を備えた唯一神である創造主が宇宙の一切を創ったとされ、さらに、人倫の規範が啓示により与えられていることから、啓示宗教と呼ばれ、また唯一神をのみ信じその戒律を守ることを誓約することでその恩寵が約束されると了解されていることから、契約宗教という性格を持っている。初期の信者は下層階級が主であったが、その後、主知主義的なギリシャ思想と結び付く事で、教義が高度化し普遍性を備えるようになり、階級や民族を越えた世界宗教へと発展していった。しかし、世俗的権力が強まるにつれ腐敗・堕落が生まれてきたために、その風潮を批判し、高い倫理的生活を追い求めようとしたのが新教であった。しかも、この宗教的情念が、単に信仰の枠内に留まること無しに、その情念を現世の生活や政治・社会の向上に振り向け、さらには科学的探究を促進させたという、一見逆説的に見える精神的態度が生まれていった(マックス・ウエーバー、他)。このようにして、人間の本性には原罪があるとする厳しい倫理観に支えられた信仰心に基づきながら、主体的自我と自己責任の念を確立していき、それとギリシャ的理性尊重の精神を結びつけることで生まれた西欧近代思想が、合理主義を基にした人間観や社会観をもたらした。その後、政治や科学研究を宗教や道徳的束縛から解放して、自律的な展開を認めるべきであるとの議論が高まり、そのような制約から自由になった政治・経済活動や科学研究が一層加速度的な進展を示すようになっていった。

 

小楠は、このようにして成立した西欧諸国において、一切の道徳律や社会的規範が宇宙の創造主である超越神により啓示として与えられたとする宗教思想と、ギリシャの主知的精神との融合により形成された近代西欧思想が、必然的に持つ限界に、鋭い批判の目を向けていった。すなわち、“近年主要な西欧諸国で信仰されるようになった天主教は、天文の頃渡来した切支丹とは雲泥の相違があり、天意にもとづき、上は国王から下は庶民に至るまで其戒律を守り、政教一途の政治が行われて生きた宗教となっている。またその学問は経義を明らかにするのを第一とし、あわせて法律を明弁し、歴史、万国の国情、物産を究め、更に天文・地理・航海術から器械術にいたるまでの天地の間の知識を考究することを使命としている”( 安政三年 村田已三郎宛書簡)ことを認めつつも、さらに踏み込んで“近年一部の教育のある人士には信仰心を持たない者もいるが、それらの人士達は経綸・窮理の学問を、耶蘇の教えと結びつけることで高度な学問を発展させ、その成果は日用を利すること広大で聖人の作用を得たということができる。このように、近代の西欧諸国では、一応民意の尊重や生活の安定が達成されており、「仁の用(効用)」を得ていると云うことができ、社会生活から国際外交に至るまで、道徳感が強く、公正で思い遣りに裏打ちされてはいるように見える。このように、近代の西欧諸国では、一応民意の尊重や生活の安定が達成されており、「仁の用」を得ていると云うことができるが、真の意味での「仁の体」を得たものではなく、そうしたほうが究極的に得である、という打算に基づくものでしかなく、その学問も唯事業の上の学問でしかなく、心徳の学がないために、交易談判も事実約束を詰めるだけで、これでは西洋列國で戦争がやむことがない”、そしてさらに“基督教に基づいた政治は、一応民政の安定という「仁の用」を実現できたが、それは畢竟、「割拠見」の気風を抱き、自利するの心底に基づいているために、天を以て心とし、至公至平の天理に則ることがなく、利害の終始を見て、不仁不義の行いが、結局は損を招くことを悟って暴虐なことを慎んでいるだけのことであり、要するに洋人の倫理は、末があって本が無い覇道であって、このような思想に基づく国際関係は偽装された利害と力の場でしかなく、戦争が終わることがない”、と批判している(『沼山対話』)。

 

〈 小楠における儒教の再構築 〉

小楠は近代西欧社会では、基督教を基礎にした社会秩序と学術の発達により、一応「仁の用」を得た政治が実現していることを認めたが、それは人間の根源的な性情に基礎を置く内在的な心得の学に基づいたものではないために、真の国際平和も民政の安定も得られないとし、より普遍的な解決を儒教思想の内に求めようとした。

中国では、人格神的な創造主を否定し、宇宙は始めは混沌とした状態にあったものが、自ずから形をとるようになり、人類が生まれてきたとの見方が古来広く受け入れられてきた。古代中国では、種々の神々が信じられおり、(一)自然の運行や人事・政治等を支配する天帝(二)地縁紳、および(三)祖先神、が別種なものとして尊崇され、殷時代までは、これらの神々は怪奇な形をした実在であると受け留められ、呪術の対象とされていた(8)。

しかし周代に入ると、戦争や重大な政治的決定を、呪術的な占いによるのではなく、合理的な判断と君主の人徳とに基付けようとする傾向が強くなってきて、先王たちの治績の記録が尊崇されるようになっていった。これらの政治的記録は、『書』と呼ばれていたが、その原型となるものは、春秋時代末の孔子の頃にすでに存在していた。また中国では祖先崇拝の風潮が一般に極めて強かったが、儒教では、「鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂う可し」(『論語・擁也篇』)と明言し、呪術性が希薄になっていると同時に、人間の本性は善であるとの強い確信を持っていた。

漢代になると儒教は国教とされ、五経博士が置かれ、経典の整備・編纂が進められ、『書』は『尚書』と呼ばれるようになった。そこに記されている「三代の治」に係わる先王達の業績や言動は、史実の伝承を踏まえながら、後世の「天下的世界観」を反映して作られた理想像である(9)。

漢代以後も、儒教は重用され続けていたが、とくに宋代に入ると、この合理主義の傾向は一層強まっていき、森羅万象は「気」と「理」の結合により生まれるものであり、この点では鬼神も人、獣類、から自然に至るまで差はないとする「万物一体の仁」が唱えられた(程明道)。この思想はその後継者の朱子により「理気二元説」として体系付けられたが(10)、この観点からすれば、存在論的には、鬼神も普通の物質と同類ということになり、機械的自然観に近いと捉えることも可能であろう。ウエーバーが儒教を無神論であると断定したのも、このような鬼神観に基づくものであるが(10 C)、宋学の「理」の概念は生気論的な色彩が濃いものであったことに留意する必要がある。

 もともと小楠が「三代の治」を高く評価するようになったのは、「仁」を説く儒学が、人倫や政治理念の面で優れた特質を備えているにもかかわらず、朱子学がその政治的実践の場において、西欧諸国に比べて、適切な政治も、人情に即することもできないでいる、という現実に当面してのことであった。

すなわち小楠は、宋学の基本的な思想である「天人一体」の説を、朱子学では、自然現象から人倫にいたるまでに、普遍的に成立する「一理」が貫通していると受け止めていて、人倫においても、自然法則に準じた厳格な規範を強制するようになっていた点にその沈滞の原因があるとして、「宋の大儒天人一体の理を発明し其説論を持す。然れども、専ら性命道理の上を説て天人現在の形体上に就いて思惟を欠に似たり。…………格物は物に在るの理を知るを云て総て理の上心の上のみ専らにして尭舜三代の工夫とは意味自然に別なるに似たり。…………・・宋儒治道を論ずるに三代の経綸の如きを聞ず。其證には近世西洋航海道開け四海百貨交道の日に至りて経綸の道是を宋儒の説に徴するに符合する所有る可きに、一として是れ無きは何なる故に乎。然るに尭舜三代に徴するに一に符号すること書に載る所の如し。…・・是れ尭舜三代の畏天経国と宋儒の性命道徳とは意味自ら別なる所あるに似たり」(『沼山閑話』)として、誤った「天人一体」の解釈により、三代の治世において見られた能動的で生き生きとした政治精神が失われたために、西欧近世においては実現されている活発な政治・経済活動や科学技術研究が、停滞状態に陥ったと主張した。

そこで小楠は、この沈滞状況を克服するために、「天」の概念の革新を計った。すなわち、三代の治世においては、「尭舜三代の心を用ゆるを見るに其天を畏るゝ事現在天帝の上に在せる如く、目に視耳に聞く動揺周旋総て天帝の命を受る如く自然に敬畏なり」と述べている。この「天」の性格については、これまでにも種々の検討が行われてきているが(11)、そこでの中心的な問題点は、小楠がこの「天」の本性をどのようなものとして捉えていたのかということである。すなわち小楠は、「天」は太古の中国における「天帝」のような呪術的実在ではないとし、また基督教におけるような外在する超越神とも異なっていると了解しているにも係わらず、「天」が具体的な人格神的な性格を帯びて助言・譴責を行うとしていて、その本質がはっきりしない。

 

日常生活世界の意識としては、実在していないと了解される「聖なるもの」が、なぜあたかも実在しているかのような「超越」として立ち現れるのかという、「聖体示現」に係わる問題意識は、古今東西の文明の差を超えて、広く見られるもので、特にオットーやエリアーデにより精緻な考察が行われていて、宗教現象学の重要なテーマとなっている(12)。感性により心中で受け止められたもの(「内在」)が、「超越」として立ち現れるという「現出」過程については、二十世紀初頭にフッサールにより創出された現象学で、厳密な議論が展開されてきており、現代西洋哲学でも活発なテーマの一つとなっている(13)。この「内在して超越する」という認識過程は、議論のための議論ではなく、特にこのような「聖なるもの」、すなわち、その前で己を空しくし、謙虚に自らの姿勢を正そうとする、超越的な性格をもって現出するものに係わる意識は、宗教だけでなく、より世俗的な政治・文化の領域においても、普遍的な重要性を持つものであろう。

小楠は、呪術的な性格を備えた「天帝」の実在も、また超越的な朱子学的「理」の存在をも否定しつつ、自らの体験として、主体的・志向的に当面する課題に取り組むことにより、啓示、助言が心中に生み出されることを実感し、さらにそれを能動性を帯びた超越的な「天」として捉え直すことで、生き生きとした政治精神の復活を計ろうとしていた。

 

 小楠はこの「天」の概念とならんで、「公共」の概念の再構築を計っていった(14)。小楠が「公共」という語を用いた初期の例として、嘉永六年に旧知の川路聖護がプチャーチンとの国交交渉を幕府から命じられ長崎に赴いたときに送った書簡(『夷虜応接大意』)の中で、我国の外交方針として「有道の國は通信を許し無道の國は拒絶するの二ツなり。有道無道を分たず一切拒絶するは天地公共の実理に暗して、遂に信義を万国に失ふに至るもの必然の理也」と書いていることが挙げられる。小楠はこの時機にすでに、宗教や文化の差を超えた、万国に共通する道(人倫)があることを確信していて、それを尊重するのが「公共」であると考えていたことを示している。さらに、『海国図志』を読むなどにより、米国では大統領の職を子には譲らず、官吏の登用も適材適所を原則としており、英国でも公議により政治上の決定が行われていることを知り、これはほとんど「三代の治」に符合するとして、公議・公論による政治を主張している(安政二年十一月、立花壱岐宛て書簡)。

 

朱子学では、人間の「本然の性」として、仁、義、礼、智、信の五常、あるいは親子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、の五倫があるとされ、これらの徳目の遵守が、過剰なまでの厳格さで求められていた(10)。しかし小楠は、これらの倫理綱目の根底にあり、行動へと駆り立てる端緒となる情念こそが、人倫や社会生活を基礎付けるより根源的なものであるとし、その中でも特に自発的・内面的な「至誠惻怛」を重視した。このような思想は、「心即理」に近いと言うことができ、小楠は実質的に陽明学に近づいたとする見解も示されているが(15)、小楠の思想は(一)理気二元説において、朱子とは異なって、「気」とくに「至誠惻怛」を重視し、その柔軟な能動的主体性・志向性により特異な「天」が超越性を帯びて現出するとし、(二)三代の学および洋学的な実証性に強い関心を寄せ、さらに(三)公共性を重視した点に、他の儒学者にない小楠の思想の独自性があり、それを梃子にすることで、儒教の全体系的な再構築を計ったものと理解してよいであろう。

このようにして小楠は、儒教が西洋思想に比して本質的に優れているとの自信を深め、心得の学を知り、公共の意識に基づいた「天地仁義の大道」に従う心を維持するならば、戦争は止むはずであるとして、慶応二年に、甥の左平太、太平を米国留学に送り出す時に、

「尭舜孔子の道を明らかにし 西洋器械の術を尽くさば なんぞ富国に止まらん

なんぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」

と餞別の詩を送っている(4B)。さらに科学技術についても、「尭舜をして当世に生ぜしめば西洋の砲艦器械百工の精技術の功疾く其の功用を尽くして当世を経綸し天工を広め玉ふこと西洋の及ぶ可きに非ず」(『沼山閑話』)と述べている。

しかし、あまりにも時流から抜きん出ていたその思想は、岩倉具視や勝海舟ら、世界史的な視点に立って日本の将来を思い描くことのできた、少数の具眼の士以外からは理解されることもなく、津下らのいわゆる勤王の志士により暗殺されることになった。

 

二.       鴎外の西洋受容と東洋の再構築 

 鴎外がまず何よりも官に仕えたのは軍医としてであり、ここでは紙幅の制約もあり、鴎外における西洋医学の受容とその展開を中心にしながら、鴎外がどのように東洋の再構築に取り組もうとしたのかを考えてみよう。

   〈 初・中期の鴎外 における 西洋受容 〉(16)

自然科学の分野では、そこで用いる多くの概念が明確に定義され、体系付けられており、しかもその妥当性が実験的に検証されているために、記憶力や論理的思考にたけた者にとっては、それらを技術として学習し、受容することは、それほど困難なことではない。そこで政府は、即戦力となる人材として、「検索に慣れたる勉強力」を備えた大学の成績優秀者を欧米に送り出した。そして、それらの「洋行帰りは、希望に輝く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧にいれることになってゐた」(『妄想』)。

しかし鴎外は、このような状況に飽き足りないものを感じて、ベルリン留学中に書き残したメモに、“大学の宜しく奨励すべき点は、ヨーロッパで教育を受けた学者が自身の研究業績を通じて独力で学問形成を続けること! 欧州医学の受売と買出しはいとうべきことだ”と書き記していたが(16A)、このような意識は当時の留学生としては、むしろ例外的なものであった。

医学研究とは別に、鴎外は若年の頃から、西欧文明の高度な達成に憧憬と敬意の念を保ち続けていたが、同時にその影の部分から目を逸らすこともなかった。留学の後半期に首都のベルリンに移った鴎外は、著しい貧富の差を目の当たりにし、また思想的にも行き詰まり状態にあることを見て取り、近代文明に批判的な態度をとっていたショウペンハウエル一とその系列の思想家達に関心を寄せるようになっていった。そして鴎外は、自らが生い育った東洋文化には西洋にはない優れた特色があり、そこに西洋の負の部分を克服できる萌芽が存在しており、それを発展させることこそが自らの使命であるとの確信を抱くようになったのであろう、帰国後間もなく、「とつくにの文の八千巻くりかへし大和心をよみひらかばや」(『衛生療病誌』明治二六年・十号)という和歌を作り、「本の杢阿弥説」(『妄想』)を唱えた。

 

鴎外は軍医としての本務の他に、自費で『医事新論』、『衛生療病誌』などを刊行し、まず西欧の科学研究の根柢にある科学精神(エートス)を我国に定着させようとした。しかし、永い鎖国の状態で自由な学問の伝統がなかった我国にはそのようなエートスが存在していなかったばかりか、その必要性さえもが、当時の医学界の内部では理解されず、そのあまりにも性急な啓蒙活動は、小池正直ら同じ留学生仲間からさえも理解されず、孤立していった。そして、このような状況が積み重なって、明治三十二年に、鴎外は小倉師団に転補になった(17)。

その後、鴎外に東京大学医学部教授への転出の話が持ち上がってきたが、鴎外を手放すことを惜しんだ陸相児玉源太郎の裁量で、第一師団への転補が発令された(18)。このようないきさつから、鴎外は自らの学問論に自信を深め、小倉を離れるに際して『洋学の盛衰を論ず』と題された講演を行なった。その中で、西欧の文化、とくに科学技術は、固有の強固な体系性を備えたものであるから、まずそれを全体として理解し体得することが不可欠であるとして、当時一部に見られるようになっていた、予め定見を確立し、自らに欠けている部分だけを採長補短的に摂取すればよいという異文化受容の姿勢を批判した。鴎外が留学から帰った当初には、最新西洋医学の我国への導入に関連して、和漢方医学に強い否定的な姿勢を示したが(『日本医学の未来を説く』、『傍観機関論争』、他(16C))、それも、まず西洋医学を体系的に習得することが急務であって、表層的な和洋折衷策は、むしろ健全な科学の育成に有害である、との判断に基づいていたのであろう。

その後、明治四十二年に、東京津和野小学校同窓会で行った講演を基にした『混沌』の中で、鴎外はさらに採長補短的文化受容について根本的な批判を展開していった。そのなかで、「其頃日本人が欧羅巴に来る度に様子を観てをりました。どうも欧羅巴に来た時に非常にてきぱき物の分かるらしい人、まごつかない人、さう云ふ人が存外後に大きくならない。そこで私は椋鳥主義と云ふことを考えた。…・椋鳥のやうな、ぽっと出のやうな考を持ってゐて、どんな新思想が出ても驚かない。これは面白いと思って、ぼんやり見てゐると、自分の一身の中にも其説の言ふ所に応ずる物がある」として、異文化に出会ったときに、予めその受容のための引き出しをいくつか用意しておいて、そのどれかにしまい込むという遣り方では、新しい視界は開けて来ないとして、まず予断を棄て虚心坦懐に相手の思想・知識体系を根源から受け止め、それに触発されて、己の内に自ずから生まれてくる新しい萌芽を育てていくようにすべきであると戒めた。そして、その後明治四十四年に発表した『なのりそ』のなかでも、採長補短的な対応を明白に否定している。

 〈 鴎外 と 脚気問題 〉

明治期の我国の医学界にとって最大の課題の一つが脚気であり(19)、当時華々しい進展を見せていた細菌学に基づいた伝染病説と、栄養障害であるとする麦飯派の対立を主軸にしながら、さらに、カビ毒説、食中毒説なども提出され、混沌とした状態にあった。

鴎外は陸軍軍医としてこの問題に深く関わっていき、明治四十一年に設置された臨時脚気問題調査会の会長に就任し、本格的に脚気問題に取り組んでいった。鴎外の脚気観については、種々の見解が提出されてきているが(20)、そのほとんどが、鴎外を強硬な伝染病論者、反麦飯論者と捉えている。しかし鴎外は、若年の頃には、師のベルツやコッホが伝染病説をとっていたこともあり、伝染病説に左担する姿勢を示してはいたが、祖父を脚気衝心で失っていたためか、脚気が極めて複雑な様相を呈していて、単純な病因論が成立しがたいことに目配りをしていて、終生その病因の同定に慎重な姿勢を崩すことはなかった(17)。

明治後期には、鴎外は、その当時の西洋近代医学が、脚気問題に十全には対応できないのではないかと考えるようになり、新しい道を模索するようになっていたのであろう、医務局長就任と前後して、岡崎桂一郎に、我国での有史以来の脚気と米食との関連の調査を依頼した(17)。その成果は大正二年に大著『日本米食史』として刊行され、今日に至るまで名著として評価が高い(21)。さらに、脚気調査会に東洋医学史に造詣の深い富士川遊を委員として迎え、和漢方の脚気観や処方の歴史的調査を行うなど、帰国当時の西洋近代医学一辺倒から、和洋の総合へと視点を転換していった。この当時、和田啓十郎が『医界之鉄椎』を著し、西洋医学と東洋医学の融合の必要を提唱し、医学界に新しい気運を巻き起こしていた(22)。

鴎外後期の脚気観は、明治四十一年の脚気調査会発足時に委員達に配布した『脚気問題ノ現状ニ就イテ』や、鴎外が大正三年に改訂した『衛生新編』(第五版)の中で示唆しているように、脚気と呼ばれている疾病は、複数の異なる病因によるものの総称名であると考えていたのであろう。そして米糠、半搗米、麦が脚気の予防や治療に有効であることを認めていた(17)。鴎外が医務局長として取り組んだ一次大戦での青島出兵では、陸軍は半搗米と麦の混用という思い切った対策をとったが、期待したほどの成果は得られなかった。結局、脚気は、麦飯派が主張したように麦飯の採用で基本的に解決できるような単純なものではなく、その病理は極めて錯綜したものであることが次第に明かにされていった。

その後、脚気の予防・治療に有効なビタミンBの精製・分離・合成や高性能ビタミン誘導体の開発と、他方での、分子生物学の進歩による脚気発症機構の解明、遺伝子科学の進歩による異常現象の解明、ビタミンB分解酵素や脚気菌の発見などにより、混乱を極めた脚気問題が、学理的に一応の決着を見たのは、二十世紀後半になってのことであり(17)、これらの結果は、鴎外の複数病因説という見通しを裏書きするものであった。

〈 歴史文学への転回 と 横井小楠との出会い 〉

鴎外は、旧知の乃木将軍の自刃に大きな衝撃を受け、倉皇のうちに『興津弥五右衛門の遺書』書き、それをきっかけにして歴史文学へと大きく展回していった。もともと鴎外は、幼少期に本格的な朱子学系の儒教教育を受けており、潜在的に強い士大夫意識を持っていた。しかし、小倉師団への転補以来、思弁的な朱子学よりも、「心即理」、「知行一致」として、実践を重視する陽明学に関心を寄せるようになっていて、『興津弥五右衛門の遺書』(初稿本)や『阿部一族』などに示されている、自らの信念に殉じ、あるいは主体的な生き方を貫こうとする生涯への共感も、陽明学的な情念に基づいたものと捉えることができよう。しかし、そのような姿勢は、その後次第に沈静化していき、大正三年一月に中央公論に発表された小説『大塩平八郎』にはある種のとまどいが見られるようになっていた。

この作品とは別に、同月の三田文学に載せられた同名の評論『大塩平八郎』には、その執筆の経緯が書かれている。そこには、大塩の乱についての風説を集めた写本を知人から借りたのをきっかけにして、より史実に即した幸田成友の著書『大塩平八郎』読み、「頭の中を稍久しく大塩平八郎と云ふ人物が占領してゐた。私は友人に逢ふ度に、平八郎の話をし出して、これに関係した史料や史論を聞かうとした」と述べられている。しかし重松泰雄は、この作品とその創作に用いた資料類とを比較検討することで、それまでの慎重な長時間にわたる調査や考察を十分に踏えたものとは考えられず、鴎外としては珍しく杜撰な仕上がりとなっていることを示した(23)。このことは、何か特別な事情があることを暗示している。

鴎外日記によれば、この作品を脱稿したのは大正二年十二月七日のことであるが、その二ヶ月前の十月十三日の条には、「津下正高来て、父四郎が事に関する書類を託す。横井平四郎を刺しし一人なり」と書かれている。正高は鴎外の次弟篤次郎の友人で、若年の頃に一度会ったことがあり、その父の所行による一家の否運がカインの印のようにその相貌に現れていることに強い印象を受け、それ以来も心の内に留めていた。この度の正高の突然の来訪の趣意は、明治政府の要人横井小楠を暗殺した罪は免れないとしても、その動機は勤王の真心から出たものであることから、父四郎の冤を濯いで欲しいというものであった。その熱意に打たれた鴎外は、正高の持参した資料を熟読するとともに、かねて所蔵していた『小楠遺稿』(4A)を改めて読み直すことで、幕末期の政治・思想状況について、より深い洞察を得るようになっていったのであろう。

大塩平八郎の乱も、当初は、幕藩体制の行き詰まりに対する、陽明学者大塩の実践的批判として、評価しようとしていたのであろう。しかし、津下正高の来訪に刺激されて、横井小楠の実学思想や、越前藩での藩政改革の目覚ましい実績に改めて目を向けるようになり、次第に大塩の陽明学的な思想や、乱における無計画性に、実践思想としての限界を感じるようになり、「平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。……・・平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは頼もしい社会政策も生れず………・」とさえ断定するようになっていった。そして作品の力点を、大塩の人格的高潔さや、諸役人の腐敗の対する憤りという正義感への共感にずらして、仕上げていったのであろう。

一方作品『津下四郎左衛門』には、初稿部分の後書きに、「大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を訪れて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆其儘で」あり、「二三の補正を加へただけである。」と書かれているにも係わらず、これが発表されたのは、大正四年の中央公論の四月号であって、その間に一年半の間隔があることについて、山崎一穎は、「「聞書は話の殆其儘で」あり「二三の補正を加へただけである」との言葉をそのまま肯定するわけにはゆかない」、「多岐に渡る調査は異例に属する事であると言ってよいだろう」と述べている(24)。『小楠遺稿』に収められていた論著、建白書、書簡などは、読み方次第では、かなり過激な要素を含んでいて、とくにその人君論は、大正期においても、よほど慎重に取り扱わないと大きな物議を醸す可能性があった(3)。したがって、『津下四郎左衛門』を纏めるに当たって、鴎外は調査を重ね、種々構想を練ったと思われる。

 

このようにして、鴎外は横井小楠の内に優れた先達の姿を見るようになり、次第に、陽明学的な激しい情念や、朱子学的な強い理念性への共感が薄れていき、もっぱら惻怛の情や、微かな内心の声に従って生きようとする人間像に共感するようになっていったのであろう。そして文学作品として、『ぢいさんばあさん』、『寒山拾得』、『高瀬舟』などを経て、『渋江抽斉』へと結実していった(25)。文学作品としての様式にも、『津下四郎左衛門』と『渋江抽斉』の間に強い相関が見られることが指摘されている(24)(26)。

鴎外文学の到達点である「史伝三部作」では、時流から離れたところに位置していた儒医や儒者を主人公として取り上げているが、そこではもはや、己の思想や主張を一途に実践しようとする「知行一致」の姿勢も、厳しい倫理観や使命感に貫かれた生き方もが影を潜め、複雑な現実に正面から向き合いつつ、己を失うことなく身を処していく日常生活が、人間の本質への深い洞察を秘めながら描かれていった。これら最後期の作品の成立過程、およびその文学的意義については、多くの調査や論考が積み重ねられてきているが、紙幅の制約もあり、浩瀚な概説もあるので(27)(28)、ここではその詳細には立ち入らないでおこう。

一方、主人公たちの医学、考證学などの学術上の業績については、断片的に触れられるにとどまり、体系的に掘り下げていくことはしていないが、我国に於ける考證学の成立や医学館の創設・運営には複雑な背景事情があり(29)、それは別途精緻な調査と分析の上で取り扱うべきものと判断していたのであろう。抽斉個人については、その学風は綿密な考證を基本としながらも、本質を追究し「大道微意に通達すること」を目指したものであると記し、さらに「抽斉は終に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。若し此人が旧新約書を読んだなら、或いは其中にも契合点を見出して、彼の安井息軒の弁妄などと全く趣を殊にした書を著したかも知れない」(『渋江抽斉』その五八)と書いて、小楠にも通じるような、東西文明に対して開かれた思想的態度を、抽斉の内に見ようとしていた。

幕府が奥医師に戸塚静海、伊東玄朴らの蘭方医を登用したのは、安政五年七月のことであったが、この年の八月に抽斉は死去した。幕府による蘭方の公認に関連して、鴎外は、もし抽斉が生きていれば、漢方と蘭方の医学思想上の葛藤を生じたかも知れないが、また、「真面目な漢蘭医法比較研究の端緒が此に開かれたかも知れない」(その六十二)と書いている。近代西洋医学は、臓器病理説に見られるように、疾病を各臓器や組織単位での異常と捉え、それぞれを個別に治療しようとする傾向が強いのに対し、東洋医学では、伝統的に、疾病を全身的調和の失調であると捉え、「症」という概念を基に診断・治療を行って、全身的調和を回復させることを目指していた(30)。近年、東洋医学の「証」や「経絡」の概念を、西洋医学の視点を取り入れながら再構成することで、両者の融合を計る試みが注目されるようになってきているが(31)、鴎外は抽斉の内に、このような比較・融合の可能性を見ていたのかも知れない。

 

ドイツ留学から帰国後の鴎外は、まず西欧文明の紹介者、啓蒙主義者として活躍したが、これも、圧倒的な力を持って迫ってくる西欧文明に対峙するには、まず何よりも相手を知り、その長所を身につける必要があるとの意識によるのであろう。しかしその精神は、大攘夷といような、最終的には異国を克服することを目的としたという偏狭なものではなしに、すぐれた文明の成果を率直に評価し、受け入れようとする、もっと開かれたものだったのであろう。しかしこの間にも、ユングのいう超自我として深層化されていた東洋的心情が時折噴出し、それは晩年になるほど顕在化するようになっていった。

鴎外としては、思想一般についても、科学・技術についても、東洋と西洋を対立的なものとして捉えるのではなしに、慎重に本質を追究すれば、それらに共通する基盤を見出すことが可能であり、その上での両者の融合により、より高度なものへの展開が期待できると確信していたのであろう。

鴎外の最晩年の文明観や芸術思想を率直に語ったものとして、大正八年六月五日に、長女茉莉の婚約者山田珠樹に宛てた書簡は極めて重要なものであろう。その中で、鴎外は「小生ノ理想トスル所ヲ言ヘバ日本人トシテ一学科ニ手ヲ下シ洋人ノ能ハザル処ニ足ヲ延ブルヲ快事トスルニ在リ…・」として、我国が学芸・思想の分野で独自の世界的な業績をあげようとするならば、狩谷棭斉らの蒔いた種子を基にしながら、西欧学芸の及ばぬ領域まで支那学(清朝考證学)を展開させることが、その最も有望な候補となるであろう、と書き送っている(32)。朱子学、陽明学などの宋・明代の儒学が、経書を離れ主観的思弁に流れていったことを批判して、清代の儒学は、古代の文献遺産を当初の姿に復元し、さらにその意味を正確に捉えることで、聖人の理念や古代の人達の心や思想の本質を、明らかにすることを目指すようになっていった。このための補助手段となる音韻学、文字学、訓詁学が極めて精緻なものへと仕上げられていき、十八世紀末から十九世紀初頭にその頂点に達した(33)。そして、それは単なる文献学、訓詁学の範囲を超えて、語と語の関係、さらにはその背景にある心の動きを、現代の解釈学や分析哲学の問題意識にさえ通じるような水準で分析しようとするようになっていた。鴎外としては、哲学科で心理学を専攻した山田珠樹に、東洋と西洋の学芸の総合により、「洋人ノ能ハザル処ニ足ヲ延ブル」ことを期待していたのであろう。その後、清朝考証学の学統は、我が国では京都大学の狩野直喜らにより継承、展開されていった。

 

近代科学は、二十世紀に入って一層目覚ましい進歩を遂げるようになっていった。しかしやがて、近代科学思想の厳密性や、完結した体系性を求める姿勢が、柔軟な発想を妨げ、逆に学術研究そのもの発展をも阻害するようになってきているばかりでなく、より広い文化や社会の領域での、生の意識や感性の軽視を招き、文明の危機に繋がるようになってきているとの指摘が、フッサールやアンリーらにより、現象学の立場からなされ、「ヨーロッパ諸学の危機」、「文化の危機」と批判されるようになった(34)。アンリーは「宇宙について、だんだんと認識が深まっていくのは、問題なく良いことであるのに、なぜそれが他のすべての価値の崩壊を、しかも非常に深刻であって、われわれの存在そのものをも巻き込むような崩壊を、伴うのだろうか」と問いかけ、科学的知が、人間の主体的な意識によるコントロールを離れて、技術として自律的に独走するようになった結果として、生き生きした人間の全体像に目を塞ぎ、人間を技術の対象としてのみ捉え支配するようになってきていると指摘した。

儒教を再構築することで、硬直化した理優先の朱子学だけでなく、その限界を露呈するようになっていた西洋近代文明をも克服しようとした小楠の思想は、思想や文化の政治や社会に対する主体的な係わり方を変革することで、人間主導型の文明を確立することを目指したものであり、現今の科学技術文明が当面している諸問題の解決に、有力な指針を与えてくれるものと受け止めることができよう。鴎外最晩年の史伝や考證学再構築への強い関心も、このような小楠の思想への共感の延長上にあるものと捉えてよいであろう。

 

 

 

 

 

 

参 考 文 献

 

(1)(A)植手通有、『日本近代思想の形成』、岩波書店、昭和四九・三

(B)佐藤昌介、『洋学史の研究』、中央公論社、一九八〇・十一

(C)松沢弘陽、『近代日本の形成と西洋経験』、岩波書店、一九九三・十

(2)隈元謙次郎、他編、『岡倉天心全集 第一巻』、平凡社、一九八〇・二

(3)安川民男、「『大塩平八郎』と『津下四郎左衛門』」、本誌、七九、平成十八・七

(4)横井小楠についての基礎資料として、

(A)横井時雄編、『小楠遺稿』、民友社、明治二二・十一

    小楠の嫡子時雄により、主要な論述、建白書類を中心に編集されたもの。

鴎外文庫に架蔵されているのは、これの明治三十一年の再刊本。

(B)山崎正董、『横井小楠』、伝記篇、遺稿篇、明治書院、昭和一三・五

   この遺稿篇は、(A)には収載されなかった書簡および詩文を中心に大幅に増補されており、ページ数で約二倍の九五〇ページとなっている。この伝記篇および資料篇はその後、昭和五二年に大和学芸図書から復刻出版されている。

(C)学術誌特集、概説書、評伝の代表的なもの

   「特集 横井小楠の思想」、『季刊日本思想史』三七号、

ぺりかん社、一九九一・五

源 了園、花立三郎、三上一夫、水野公寿編、

     『横井小楠のすべて』、新人物往来社、一九九八・三

   松浦 玲、『横井小楠』、(増補版)、朝日新聞社、二〇〇〇・二

(5)(A)海国百年記念文化事業会編、『鎖国時代における日本人の海外知識』(復刻版)、

原書房、一九七八・三

(B)源 了円、「東アジア三国における「海国図志」と横井小楠」、

       『季刊日本思想史』六十号、ぺりかん社、二〇〇二

(6)江藤 淳(代表)編、『勝海舟全集 二一巻 氷川清談』、

         講談社、昭和四八・十

(7)(A)フランツ・ボルケナウ(訳者代表 水田 洋)、

       『封建的世界像から市民的世界像へ』、みすず、一九六五・九

(B)シェルドン S.ウオーリン(尾形典男・福田歓一、他、訳)、

      『西欧政治思想史』(復刊版)、福村出版、一九九四・八

(C)福田歓一、『近代政治原理成立史研究』、

岩波書店、昭和四六・十一

(8)(A)伊藤道治、『古代殷王朝の謎』、講談社学術文庫、二〇〇二・十一

  (B)小南一郎、『古代中国 天命と青銅器』、京都大学学術出版会、二〇〇六・八 

(9)(A)平岡武夫、『経書の成立』、創文社、昭和五八・十二

   (B)平勢隆郎、『中国の歴史2 都市国家から中華へ』、

        講談社、二〇〇五・四

(10)(A)島田虔次、『朱子学と陽明学』、岩波新書、一九六七・五

   (B)戸川芳郎・蜂屋邦夫・溝口雄三、『儒教史』、山川出版社、一九八七・七

C)マックス・ウエーバー(木全徳雄訳)、『儒教と道教』、

創文社、昭和四六・九

(11)(A)平石直昭、『天』、三省堂、一九九六・伍

   (B)溝口雄三、「天理観の成立について」、東方学、八六、一九九三・七

   (C)源了円、「横井小楠における天の概念とキリスト教」、

        アジア文化研究、十一、二〇〇二

(12)(A)R.オットー、『聖なるもの』、岩波文庫、昭和四三・十二

   (B)M.エリアーデ(風間敏夫訳)、『聖 と 俗』、

法政大学出版会、一九六九・十

   (C)G.フアン・デル・レーウ、(田丸徳善・大竹みよ子訳)、

『宗教現象学入門』、東大出版会、一九七九・五

(13)(A)ダン・ハザヴイー(工藤和男、中村拓也訳)、

        『フッサールの現象学』、晃洋書房、二〇〇三・十二

   (B)ミシェル・アンリ(北村晋・阿部文彦訳)、

        『現出の本質』、(上・下)、法政大学出版局、二〇〇五・七

   (C)ジャック・デリダ(合田正人、荒金直人)、 

『フッサール哲学における発生の問題』、みすず書房、二00七・十一

(14)(A)沼田 哲、「「仁」と「三代之道」」、『日本歴史』、三三二、一九七六・一

(B)源 了円、「横井小楠における「開国」と「公共」思想の形成」、

        『日本学士院紀要』、五七(三)、二〇〇三・三

(15)荒木見悟、「実学をめぐる朱子学の変転」、『東洋古典学研究』、五、一九九八・五

(16)初期・中期における鴎外の西洋受容についての概説書

(A)小堀桂一郎、『若き日の森鴎外』、東京大学出版会、一九六九・十

   (B)同、『森鴎外の世界』、講談社、昭和四六・五

(C)磯貝英夫、『森鴎外―明治二十年代を中心にー』、明治書院、昭和五四・十二

(17)安川民男、「鴎外と脚気問題」、本誌、七七、平成一七・七

(18)安川民男、「最後の士大夫(二)」、本記念会通信、一二八、平成十・十   

(19)(A)山下政三、『明治期における脚気の歴史』、東大出版会、一九八八・九。

(B)同、『脚気の歴史 ビタミンの発見』、思文閣出版、一九九五・六

(20)鴎外の脚気観を扱った成書

板倉聖宣、『模倣の時代』 上・下、仮説社、一九八八・三。

白崎昭一郎、『森鴎外』、吉川弘文館、一九九八・六。

坂内正、『鴎外最大の悲劇』、新潮社、二〇〇一・五。

この他に、鴎外誌に、坂本秀次、浅井卓夫、山下政三、他の諸氏による多くの報文が掲載されている。

(21)岡崎桂一郎、『日本米食史』、丸山舎書籍部、大正二

      一九九〇年に有明書房から復刻版が刊行されている。

(22)和田啓十郎、『医界之鉄椎』、南港堂、明治四三・三

      一九九二年に中国漢方から増補版が出版されている。

(23)重松泰雄、「鴎外『大塩平八郎』の資料をめぐって」、

『文学論揖』、六、一九五九・三

(24)山崎一穎、「『津下四郎左衛門』論考」、日本文学研究資料叢書、

       『森鴎外・供戞⊇蟶棔⇒精堂、昭和五四・四

(25)小堀桂一郎、『鴎外文業 創作篇』、岩波書店、

(26)重松泰雄、「「津下四郎左衛門」と「渋江抽斉」」、

『文学論揖』、二一、一九七四・三

(27)小泉浩一郎、「渋江抽斉」、『森鴎外必携・別冊国文学三七』、

           学燈社、一九八九・十

(28)酒井敏、「渋江抽斉」、山崎和秀、「伊沢蘭軒」、樫原 修、「北条霞亭」、

    『森鴎外を読むための研究辞典』、『国文学』、四三(一)、一九九八・一

(29)(A)森潤三郎、『多紀氏の事蹟』、日本医史学会、昭和八・八

(B)町泉寿郎、「医学館の学問形成(一 ― 三)」、

『日本医史学雑誌』、四五(三)、一九九九・九。

同誌、四五(四)、一九九九・十二。同誌、四六(一)、二〇〇〇・三

(30)大塚恭男、『東洋医学』、岩波新書、一九九六・六

(31)第五八回日本東洋医学会学術総会編、

「転換期にある東洋医学 更なる飛躍を目指して」、

『日本東洋医学会雑誌』、五八巻別冊、二〇〇七

(32)安川民男、「最後の士大夫・鴎外(四)」、本記念会通信、一三二、平成十二・十

(33)(A)梁 啓超(小野和子訳)、『清代学術概論』、平凡社、昭和四九・一

(B)近藤光男、『清朝考証学の研究』、研文出版、一九八七・七

(C)木下鉄矢、『「清朝考証学」とその時代』、創文社、一九九六・一

(D)吉田純、『清朝考証学の群像』、創文社、二00六・十二 

(34)(A)E・フッサール(細谷恒夫、木田元訳)、

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』、中央公論社、昭和四九・四

   (B)ミシェル・アンリー(山形頼洋、望月太郎訳)、

『野蛮 科学主義の独裁と文化の危機』、法政大学出版局、一九九四・六

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      ( 初稿 2008・2・25 : 改稿 2009・2・25 )

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