『 大塩平八郎 』 と 『 津下四郎左衛門 』

 

                           安川民男 

   

 

 

 

 我国でも、社会科学や文芸論の分野で、マルキシズムが大きな影響力を持っていた時期があった。そこでの指導概念の一つとして、“思想の階級性”を挙げることができるが、文芸の領域でその槍玉にあげられたものの筆頭が鴎外であった。たとえば中野重治は、鴎外文学の本質は、基本的には彼が明治政府の高官であったことに規定されているとして、「鴎外はさまざまの改革をやっています。………・・では、何のために鴎外がそれほど働いたか。日本の民主化のため、日本の民主主義革命をすすめるためにそれをしたかというとそうではありません。日本の民主化をおさえるため、日本の民主主義革命にブレーキをかけようとして五人前も八人前も仕事をしています。……………・そしてそこに、鴎外が、日本の古い支配勢力のための一番高いイデオローグであった手柄があると私は思います」、「言葉が適当でないかとも思いますが、鴎外を、日本の人民および日本の文学の最もすぐれた敵として認めることが必要になると思います」と書いている(『鴎外 その側面』)。このような“思想の階級性”という概念は、マルキストばかりでなく非マルキストの間にも、陰に陽に、長い間大きな影響を与え続けてきて、その思想の矮小化が図られてきた。

 しかし単にマルキシズムだけでなしに、西欧近代主義それ自体が根底から問い直され、思想の解体、脱構築が計られている現在、鴎外の思想についても、改めて新しい視点からの再検討が必要であろう。ここでは、これまで本格的に取り上げられることの少なかった、鴎外の社会思想・政治思想について考えてみたい。  

 

1. 幼少期の儒教教育の影響

 

 鴎外が明治四十二年前後にまとめたとされている『自記材料』は、巻頭に鼻祖森玄佐から祖父森白仙までの十一代の卒年と氏名を列記した後に、鴎外自身について

文久二年 正月十九日生まる。

慶応三年 六歳 九月五日 弟篤二郎生まる。

        十一月十五日 村田久兵衛に論語を学ぶ。

 

明治元年 七歳 三月 米原佐に孟子を学ぶ。

明治二年 八歳 養老館へ四書復読に往く。二七の日なり。四書正文を賜ふ。

明治三年 九歳 十一月二十九日妹きみ生まる。是月父に和蘭文典を学ぶ。

        養老館へ五経復読に往く。四書集注を賜ふ。

明治四年 十歳 夏室良悦に和蘭文典を学ぶ。

        十一月、文学校を廃せらる。この時まで左国史漢を復読す。

明治五年 十一歳 六月二十六日石見国鹿足郡町田村の居を出で、父と東京に向ふ。

          ………・

と記している。鴎外は四十年十一月に陸軍軍医総監・医務局長に就任しており、軍医として最高の地位に昇りつめ、自らのこれまでの生涯を振り返ってみる心の余裕ができ、半自伝を書こうと思っていたのであろうか。それはとにかくとして、この中で、論語や孟子の学習を始めたことが弟や妹の誕生と併記されていることは、鴎外にとって、この時期に儒教の学習を始めたことがいかに重要なことであったと受け止められていたかを示している。

 

 「三つ子の魂」と云うが、幼少期の身近な環境や教育が、人の精神の基本的性格に決定的な影響を与える。鴎外の場合には、漢学の師の米原綱善の影響が極めて大きかったと考えられる。米原綱善(佐)は母峰子の従兄弟にあたり、弘化二年の生まれであるから当時二十三歳の青年であったが、慶應元年から藩校養老館の塾長(学生の素行を監督し教導する役)に任ぜられていた俊秀であり、翌二年には家督を相続していたが、維新後、父静男と鴎外が先に上京した時、祖母、母や幼い弟妹達は米原綱善宅に寄留し、その後一家が東京に移った後も、両家の間に親密な交際が続いていた(森潤三郎、郷土名家の墳墓)。そして後年、潤三郎は綱善の娘静子(思都子)を妻に迎えるなど、単なる学問上の師という以上の強い心の結びつきが両家の間にあった。

 当時の素読教育について、後年思都子が「漢文は申すまでもなく、私の父が教えておりました。その頃には、講釈とか素読とかいって、一日は素読、翌日は講釈というのがあります。一般の子供には、組を分けてするのでございます。ところが鴎外さんは、講釈というのがいらなかったそうです。唯、読んであげると、納得が行く。父も二度と尋ねられることがないというような偉さぶりで、それが自分が分からずなりにでも、暇さえあれば、難しい本をひろげて、読みほぐしたというのです」と追想している(内藤正中・森澄泰文編、津和野郷土史)。当時の標準的な幼児教育のコースでは、論語、孟子などの本文の素読とは別に、儒教の精神や心構え、進退・酒掃(整理清掃)、造字などについての平易な訓話を平行して行うのが普通であった。そして、個人的に師について学ぶには、単なる知識の学習にとどまらず、立居振舞、礼儀作法、さらには武士としての心構えなどの習得が重視されていた。後年の『妄想』に「小さい時二親が、侍の家に生まれたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々諭した」と書かれているが、農村の庄屋出身の静男に切腹の作法が教えられたとは考え難く、このような武士としての作法も綱善に教わったのであろう。

 

鴎外が大正六年九月に「斯論」に発表した『なかじきり』は、ようやく晩年に差し掛かった自らの精神的閲歴を振り返ったものとして、中期の『妄想』と並んで、その思想を語る上で重要なものと受け止められている。そこには、「わたくしは医を学んで仕へた。しかし曾て医として社会の問題に上がったことは無い。………・・わたくしの多少社会に認められたのは文士としての生涯である。……・然るにわたくしには初めより自己が文士である、芸術家であると云ふ覚悟は無かった。又哲学者を以て自ら居ったことも無く、歴史家を以て自ら任じたことも無い。……・・約めて云へばわたくしは終始ヂレッタンチスムを以て人に知られた」と書かれている。

この“ヂレッタンチスム”という言葉は、中期の作品『あそび』や『百物語』と結びつけられ、すべてを遊びと捉えようとする、“冷淡な傍観主義者”であるとする鴎外像を定着させることになった。しかし夙に魯迅も指摘しているように、『あそび』は実践的な熱意を強く裏に秘めたものであり、ニーチエの『ツアラツストラ』の根本思想に基づいた、純粋な生の充溢を求める心情を表明したものであって(鴎外誌七四号、平成十六・二)、“傍観主義者鴎外”というプロトタイプは、実体とは正反対の極にあるものと云う他はない。

儒教では、「君子は器ならず」として、狭い領域に自らを閉じ込めることなく、詩・書画・音楽などの広い素養を身に付け、豊かな人間性を養うことが、理想的人間像とされていた。しかし同時に、それらに過度に淫することは戒められ、広い見識を身に付け、政治の分野で活躍することこそが、教養人としての責務であるとする意識が強くあり、士大夫,士人などと呼ばれていた(1)。我国では、鴎外らの世代が、このような正規の儒教教育を受けた最後の世代であり、それらの人達には、程度の差はあるにしても、このような士大夫意識が広く見られ、いわゆる明治精神のバックボーンとなっていた。

鴎外が幼少期に身に付けた朱子学的世界観が、終生の潜在的な思考の基調となっていたことは、『なかじきり』での「恐らくは幼い時に聞いた宋儒理気の説が、微かなレミニスサンスとして心の底に残ってゐて、針路をショオペンハウエルの流派に引き付けたのであらうか」という言葉からも窺うことができる。留学から帰国後も、鴎外はショオペンハウエルに強く惹かれていて、その全集を買い揃えていった。このようにして、留学後の、ショオペンハウエル、ハルトマン、ニーチエという思想的彷徨では、“宋儒理気の説”が潜在意識として作用していたのであろう。これらの無意識や生の意識を中心に据える思想は、生気論的色彩を残している宋学と相性が良いと云うことができる。

 

2. 鴎外の社会思想 と 『大塩平八郎』

 

〈 市区改正論 〉

 鴎外が留学した当時のドイツで、医学界の帝王と呼ばれていたウイルヒョウは、若年の頃から労働者の衛生や生活の実態に関心を寄せていて、進歩党を率いてビスマルクに対抗し、政治に深く関与したこともあり、社会政策に大きな影響力を持っていた。鴎外は論文掲載のことで、ウイルヒヨウと直接面談したこともあり、ドイツの学者達の言動に身近に接することで、学問と政治のあるべき関係について多くを学んだであろう。

鴎外が社会問題に開かれた、柔軟な思想を持っていたことは、ドイツ留学から帰国後展開した評論活動にすでに窺うことができる。鴎外はドイツで衛生学を学び、ミユンヘンやベルリンで下水道の調査を行っていたが、さらに、都市計画、その他の公衆衛生の問題に政治・行政の視点から目を注ぐようになっていた。帰国の翌年二月に、東京医事新誌に『市区改正ハ果シテ衛生上ノ問題ニ非ザルカ』を発表し、当時朝野をあげて議論の的となっていた東京の都市計画問題において衛生の視点がなおざりにされている点を指摘した。そして、同年十月には東京市区改正委員会から建築条令取り調べを依嘱され、翌年には『市区改正論略』を発表している。これら一連の都市問題論で、鴎外は、ベルリンでの自らの見聞を基に、当時の西欧諸都市の実例を引きつつ、都市計画の実施には、通風・採光、上水道、下水道などの前業(インフラ)の整備が先行していることが不可欠であることを強調し、さらに、より根源的な社会的視点が欠けていることを批判している。すなわち、高木兼寛ら一部の論者達は、「東京の市をして、不健康の地たらしむるものは、其貧にして且つ愚なるの下等社会なり、……・・東京をして健康の地たらしめんと欲すれば、宜しく先つ其中央を画して、盛都と為し、貧愚の民を逐ふて其外圏に在らしむべし」と主張し、その実現の為に、市街地区に高い税を課すことで、下水道等の整備の費用を賄うと同時に、細民達が自発的に郊外に移るようにし向けることを提案していた。

鴎外はこの考え方を厳しく批判して、これでは貧民は逐われて、別の地区に悲惨の小天地を作ることになるだけであり、一般民衆を対象とする公衆衛生は成り立たたないとし、英国の例に言及しつつ「余等ハ貧人ニ対シテ『去レヨ』ト命ズルヲ好マズ若シ止ムヲ得ズシテ之ヲ命ズレバ………・貧民ノ居ヲ毀ツ毎ニ必ズ先ズ近隣ニ廉価ノ空房」を用意することが必要であると力説した。このように、ここでの鴎外の視野は、単なる医学・衛生学の範疇にとどまることなく、広く社会全体の長期の福祉に目を向けたものとなっていた。

 〈 永錫会 〉

明治四十三年二月に、鴎外は慶應文学科の顧問に就任した。この当時、同大学経済学部の助手をしていた小泉信三は、頻繁に文学科に出入りしていたが、そこで講師をしていた小山内薫から、鴎外が山県公のために社会主義の講義をしているそうだと告げられている(小泉信三、『山県有朋と森鴎外』)。後年、小泉信三や向坂逸郎らは、明治期の鴎外が、当時の西欧の社会主義思想に通暁していて、的確な判断力を持っていたことを高く評価している(2)。

 この当時、山県を囲む「永錫会」という会合があったことに、最初に注目したのは中村文雄であった(3)。この会には、平田平助内相、小松崎英太郎文相、穂積八束、賀古鶴所、井上通泰が名を連ねていた。鴎外日記の四十三年三月七日に、東京印刷に永錫会趣意書の印刷を依頼した旨の記事があるので、この会に設立当初から密接に係わっていたことは確かであるが、そのレギュラー・メンバーにはならなかったようである。この会は大逆事件に関係したものであろうと中村は推測しているが、大逆事件が発覚したのは五月のことであり、また高度に機密を要する会であれば、趣意書を印刷するとは考え難く、司法省関係者が加わってもいない。むしろ鴎外は、この事件の弁護人平出修が、雑誌「スバル」の発行人であった関係もあり、社会主義について講義をするなど種々の援助を与えていた。さらに「沈黙の塔」「フアスチエス」などの作品を発表して、政治権力が思想や文学活動に直接介入することの弊害を訴えている。

 この時期、山県公は井上通泰を中心にして、いわゆる国民思想善導のための雑誌を刊行することを計画していた(4)。永錫会はこれに関係したもので、社会主義についての講義は、その勉強会に向けたものだったのであろう。晩年に明星に連載した『古い手帳から』の表題は、古い手帖が現実に存在していたことを思わせるが、それはこの勉強会のためのものだったのではなかろうか。また、小説『食堂』は官員食堂での数人の昼食の際の雑談という設定になっているが、山県公を囲むこの勉強会の様子を下敷きにしたものであろう。

〈 工場法 〉

 我国でも明治中期になると、工場生産が本格化し労働者の保護が重要な問題となってき

た。鴎外は、明治二十二年から二十四年にかけて「東京医事新誌」に、『ベッケル阻業の医断』を連載した。これは一八八八年に刊行された、ベッケルの労働災害の診断法についての原著の概要を、早速紹介したものである。労働災害の救済のためには、傷害補償が必要になるが、そのための傷害診断法を確立して置くことが前提となり、この分野での我国の先駆的役割を果たすものとして、鴎外の労働問題に対する関心の鋭敏さを示している。鴎外は、二十八年に中央衛生会の専門委員に就任し、以後再任を重ねていった。

明治三十四年に農商務省が公表した「職工事情」五分冊(岩波文庫)は当時の労働者の実状が憂慮すべき状態にあることを詳細に示している。開明的な官僚のなかには、労働者の保護を重視する動きがあり、政府は幾度となく、労働者の体位向上と社会不安の防止を目指して工場法の制定を目論んだが、渋沢栄一や大倉喜八郎ら資本家側の強硬な反対によりその具体化を断念した。

鴎外は、四十年に陸軍省医務局長に就任すると、中央衛生会を代表して、工場法案特別調査委員会に参加している。そして、明治四十二年に中央衛生会に工場法の素案が提出され、その後各方面の修正意見を取り入れて、工場法は四十四年に成立した。この間の経緯について、当時の主務者であった農商務省工務局長岡実は「実ニ約三十箇年ノ星霜ヲ積ミ、此ノ間主務大臣ノ交迭ヲ重ヌルコト二十三回、工務局長又ハ商工務局長トシテ主務者ヲ換フルコト十五人、稿ヲ更ムルコト亦実ニ百数十回」に及んだと述懐している(岡実、工場法論、大正二年)。明治時代にあっても、すべての官僚達が、ひたすら政治権力に盲目的に奉仕しようとしたわけではなく、革新官僚と呼ばれ、それなりの社会的理想像を持ち、その実現を目指した人達がいたことは、忘れるべきではないであろう。(5)

   〈 歴史小説『大塩平八郎』 〉

鴎外が晩年にもっぱら勢力を注いでいった時代小説では、表だって政治問題を取り上げた記述は少ないが、その中にあって、『大塩平八郎』には鴎外の政治・社会思想が明確に提示されている。

この作品は、『かのやうに』と並んで、最も激しい論難に曝されたものであり、石川淳、小田切秀雄、唐木順三、中野重治ら多くの論者達は、思想的にも文学的にも、全く否定的な評価をしている。たとえば石川淳は、 この作品の付録の中の「平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。……………・・平八郎は哲学者である。然しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生まれず、恐ろしい社会主義も出なかったのである」という文章を引きながら、「社会主義に対するきわめて世間並みの漠然たる恐怖と嫌悪の中に、鴎外もまた身を固くしていたのかも知れない」と述べている。また、平八郎が乱の過程で感じた「枯寂の心」を、大逆事件による政府による激しい弾圧の結果鴎外が感じたニヒルな心情と重ね合わせたものであろうとする見解を、小田切秀雄、稲垣達郎らは表明している。

しかしその後、細部にまで及ぶ分析が進められるにつれ、肯定的な評価の気運がたかまってきた。小泉浩一郎は(6)、鴎外がもっぱら資料として用いた幸田成友の『大塩平八郎』と、内容および表現を具体的に対比させることで、鴎外がこの作品に込めた意図を検討した。そして、奉行らの俗物的人間像に示される官僚主義に対する批判、連年の飢饉・賎民の困窮を自ら救済しようとする大塩の止むに止まれぬ陽明学的な行動主義、その企てにおける私欲のなさ、企てが失敗したときの潔さに見られる人格の高潔さ、などを肯定的に高く評価している。

さらに、大きな議論の的となったのが、原資料にはなくて、鴎外が付け加えた部分にある、大塩平八郎が「天下のために残賊を除かなければならない」と云ったことを受けて、弟子の宇津木矩之允が云った言葉、「我々は実に先生を見損つてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい」であり、これを巡って多様な見解が提出されてきている。すなわち、この乱の直接目的が、多数の困窮している一般庶民を余所目に、蓄財を計っている豪商達と、それらと結託し不正な行為を働いている大阪町奉行所諸役人を誅する事にあったのは明らかであるとしても、先の宇津木の言葉は、その不正を将軍家や朝廷に訴えて、その裁きによる公正な政治を期待するべきだとしているのだとする見方から、その反対の極として、将軍家や朝廷の在り方についての抜本的な改革をこそ計るべきであるとの意が込められていたとの見方まで、多様な意見が出されてきた(7)。

鴎外が主要な原資料とした、幸田成友の『大塩平八郎』には、平八郎が乱に先立って、大量の密書を老中、水戸家用人、および林大学頭に送ったが、それらは途中で盗難に遭い、箱根山中に放置されていたことが記されている。鴎外の作品の中で、平八郎が乱が失敗に終わった後にも生き延びようと苦しい努力をして、「己は今暫く世の成行きを見てゐやうと思ふ。尤も間断なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云っている言は、老中への直訴状が盗難に遭ったことを知らないままに、老中の公正な裁きを期待しつつ、その結果如何を待っていたとして、鴎外は描いているのであろう。ただし、幸田成友がその本を書いた当時は、その密書は部分的にしか内容が確認されていず、平八郎がどのような訴えを老中にしようとしたのかは明らかでなかった。その全容が明らかになってきたのは一九八〇年代以降のことであり、大塩研究に一紀元を画することになり、さらに詳細な研究が展開されてきているが、ここではその詳細には立ち入らないで置こう(8)。

とにかく、鴎外は、平八郎が事態打開のために、老中へ何等かの働きかけを行っていたことは知っていて、それは当然のことながら、当時の体制内での改革を意図したものであることになる以上、宇津木に「我々は実に先生を見損つてをつたのだ。」と批判的に云わせていることは、そのような姑息な改革策は問題の根本的解決にはつながらないと、鴎外が考えていたことを示している。大塩の実践的政治思想の限界については、その後、詳細な検討が行われている(9)。このように見てくると、思想的に見たこの作品の最大の問題点は、宇津木の口を借りて示唆した、このような状況の下で取るべき改革案とは、具体的にはどのようなものだと鴎外が考えていたのかと云うことになるであろう。

 

 結局のところ、この作品は、石川淳、他多くの論者が主張したように、大塩の止むに止まれずに立ち上がった行動に対して、傍観的ないしニヒリズム的な反応を示した、というのではなくて、むしろ反対に、乱そのものについて「平八郎は哲学者である。然しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生まれず、恐ろしい社会主義も出なかったのである」と評した言葉そのままに、鴎外は、平八郎の陽明学的な“良知の哲学”や“太虚の思想”からは、実効性のある頼もしい社会政策も、より根源的な解決のための改革思想も生まれてこないと考えていたと受け止めるべきであろう。小倉時代以後、陽明学に傾斜していた鴎外は、次第にその心情的放逸性に限界を見て取るようになり、より堅固な思想体系の必要性を感じるようになっていたのであろう。そして、「先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない」という、過激な内容を含む批判は、近代西欧の社会観・政治観に基づいた革命思想という知的伝統も社会構造も異なる文明の社会主義思想を念頭に置いてのものと云うよりも、むしろ、大塩平八郎の同時代人であり、その後の安政年間に、徂徠学や陽明学を批判しつつ、儒学を再構築することで、具体的経世策を提案し、かつそれを実践して大きな成果を挙げ、さらには幕府や朝廷の在り方についても根本的問い直しを主張した、横井小楠の政治思想を念頭に置いたものだったのであろう。大塩の乱当時は、朝廷はまだ政治の表舞台には現れてきていなかったが、そのような朝廷を将軍家と同列に並記していることは、そのよう問題意識が、小楠に由来していることを示唆している。

 

 3.『津下四郎左衛門』 と 横井小難

 

 『津下四郎左衛門』は、幕末・維新期に政治の分野で大きな役割を果たした儒学者横井小楠の暗殺に関連した事件を扱ったもので、『大塩平八郎』に遅れること一年余りの翌大正四年四月に「中央公論」発表され、その後、読者からの反応や追加した調査を盛り込んだ補足を加えて、大正八年に刊行された『山房札記』に収録された。この作品の初稿部分は、暗殺者集団の一人である津下の遺児正高が、父の汚名を濯いで欲しいと鴎外に語った内容を、殆どそのままに筆録したものであると、鴎外自身が書き記しているが、実際にはもっと深い思い入れがあったのであろう(10)。すなわち、鴎外がこの作品を書こうとした動機は、津下一家の悲運に単純に同情し、顕彰しようとしたというのとは少し異なっていたと思われる。

横井小楠は、その余りにも時流を抜きんでていた思想のために、出身の肥後藩、さらには暗殺を計った人達を含めて広く世上では、全く正当に理解されず、その意味で、不遇であったのは、むしろ小楠のほうであった(11)。鴎外が、このような極端な無理解がどのようにして生まれ、それがついには暗殺にまで発展していったのかという経緯を、どちらの側に理があるかというような価値判断を停止したまま、その微細な有様を歴史の内側から描こうとしたのは、人間の営みを、大河の流れの表面に現れては消えていく水の泡を凝視するような一視同仁的な人間観の下に捉えることに、新たな関心が生まれてきていたからではないのだろうか。これには、おそらく大乗思想の影響があるのであろう(鴎外誌、七六号、平成十七・一)。これまでに何人かの論者が、この作品は、この後に続く『渋江抽斉』などの史伝の文体の先駆となるものとの見方を提出している(山崎一穎、北川伊男、重松泰雄)。

 

小楠は、肥後藩の藩校時習館で学び、はじめは徂徠学や陽明学に関心を寄せていたが、やがて、それらは空疎な功利主義、ないし恣意的な心情主義でしかないとして、朱子学の本質を追究することに意欲を燃やすようになり、朱子学こそが現実の政治・社会の諸問題の解決に有効な指針を与えてくれる実学であると主張するようになっていった。ここでの実学とは、一般に云われている実利・功利を目指すものではなく、現実をその根源にまで遡って直視するとともに、政治・社会の場での主体性を確立しようとすることを意味していた(12)。これまで、朱子学は中世的色彩を色濃く残した、保守的なものであり、陽明学や徂徠学こそが、現実直視や人間の情念の解放を目指した、近代指向の思想であるとする見方が広く受け入れられて来ていたが(13)、圧倒的な力で迫ってくる近代西欧文明に対抗して、自らのアイデンテとその主体性を確立していくには、その強い理念指向性と体系性を備えた朱子学こそが有効であったことは、佐久間象山や横井小楠が朱子学から出発していたことに示されている。しかし、このような思想原理の根源に遡り、一切の妥協を排除しつつ、その思想体系を貫徹させていこうとする純粋さは、体制側にとってはむしろ過激な危険思想と映るものであり、小楠と藩庁との間に摩擦が絶えず、遂には士籍さえ剥奪されるなど、出身の熊本藩では終生受け入れられなかった。

 

小楠は、はじめは水戸学に関心を寄せ、その影響下に攘夷論者であったが、安政三年に『海國図志』を読み、西欧文明の本質と国際情勢に目を開かれるようになっていった。これはヒューマレイの大著『地理全書』を参考にしながら、アヘン戦争の立役者であった林則徐のブレーンであった魏源が著したものであるが、当時の国内外の政治情勢を反映して、我国でもその概要本が何種類も刊行されていた。

この当時、藩庁から疎んじられ、沼山津に逼塞し私塾を開いていた小楠は、塾生達とこの本を熟読し、次第に西欧諸国が夷狄禽獣の國ではなく、軍事、政治、経済のみならず、

倫理、宗教上でも優れた文明国であることに開眼していった。特にキリスト教については、「上は国主より下庶民に至るまで真実に其の戒律を持守いたし、政教一致に行はれ候教法と相聞え候」と書いていて、我国の神道が荒唐無稽で条理を欠き、また佛教が堕落・腐敗しているのに比べ、西欧ではキリスト教が階級の別なく広く信じられ、高い倫理性を維持するのに重要な役割を果たしただけでなく、それが近代的学術研究を生み出し、さらに国力を高め、その富強を支える決定的契機となっていると認識するようになっていった(14)。

 このような、広い文明論的視野は、次第に藩外の識者、政策担当者達の注目を引くようになっていき、越前藩にブレーンとして招聘され、また川路聖護、勝海舟ら幕府の要人達との交流も盛んになっていった。さらに安政五年には、越前藩で殖産興業の実務に携わり、物産総会所の設立による藩財政の立て直しなどの大きな成果を挙げていき、さらにその経験を踏まえて、翌々年に、政治の基本原則を述べた『国是三論』を藩主松平慶永に提出した。これは小楠の経世思想を具体的に述べたものであり、『沼山対話』、『沼山閑話』および書簡類と並んで、小楠の思想を知る上で最も重要な著述である。

 

 ここで小楠の晩年の思想を整理して示しておこう。それまで幕府や各藩で行われてきた幕政や藩政の改革は、節約と増税を中心とした農本主義的なものであって、一般民衆の犠牲の上に立てられた、自らの権力の維持と繁栄を意図した「私」的なものでしかなく、真の政治は、天下の万民のためという「公」のものでなければならないとし、交易の振興による産業の活性化こそが、今後の取るべき方策であると主張した(15)。このためには、門閥に捕らわれない人材の活用が不可欠であるが、アメリカでは「大統領の権柄、賢に譲りて子に伝えず、君臣の義を廃止、一向公共和平を以て務めとし」ており、またイギリスやロシアも、それぞれに優れた面を持っていることに注目するようになっていった。

このような議論を展開させていくにつれ、その思想を支援する論拠を朱子学に求めることが困難になり、それに代わって、『書経』に注目するようになった。そこには、上古の尭舜禹三代の為政者達が、「四門を開き 四目を明かにし 四聡を達せしめ」ることで民意を集め、己を空しくして、交易という相互関係を通じて、民を養うことに務めていることが記されていた。そして、天を畏れることが、あたかも「天帝の上に在せる如く、目に視、耳に聞く動揺周旋、総て天帝の命を受る如く自然に敬畏なり」であったとして、天をほとんど人格神に近いものとして受け止めていて、あたかも直接その命を受ける如くに、生き生きとしたその“現前性”に敬畏の念を抱きつつ、その主宰の下に、政治的実践から厚生利用までの、万民の日常生活に直結した政治を行なっていたと、小楠は主張した。

 さらに、尭舜らが、天子の位を自らの子孫にではなしに、有徳の人士に譲ったことについて、これこそが天子の在るべき姿であるとして、詩「人君何天職」に詠った。それは「人君なんすれぞ天職なる 天に代りて百姓(人民)を治むればなり 天徳の人に非ざるよりは 何を以てか天命に愜はん 尭の舜を巽ぶ所以 是れ真に大聖たり 迂儒此の理に暗く 之を以て聖人病めりとなす 嗟乎血統論 是れ豈に天理に順ならんや」(沼山閑居雑詩)というものである。是は、人君は「私」を去り「公」の立場に徹すべき立場にあるという自覚を、厳しく求めたもので、現実に共和政を行うことを主張したものではない。このようにして「民あらざれば國何ぞ立たん」という民本主義に基づき、しかも「天下為公」の理念に貫かれた、「三代の治」の思想が確立していった(16)。尭舜三代に一つの政治的模範を見出そうとしたのには、すでに荻生徂徠があったが(13)、その思想は極めて功利主義的なものであり、小楠はそのような理念性の欠落した政治理論を批判していた17)。

 

 ところで西洋では、“蒸気車や伝言器など民生日用に便利なものを講究造作して、国富み兵強く民の利は厚く租税はすくない。これは経綸の功業、聖人の作用を得たものと云うことができるが、それらは利害に発した末の「仁」であって、そのために植民地支配も、相互の戦争も止むことがない。つまり西洋人の仁は末があって本がなく、至誠惻怛の情から発したものではない。これがキリスト教に発した政治と、儒教に基づいた政治の差である”として、「西洋の学は唯事業上の学にて、心得の学に非ず。故に君子となく小人となく上下なく、唯だ事業の学なる故に事業は益々開けしなり。其の心徳の学無き故に、人情に亘る事を知らず。交易談判も事実約束を詰まるまでにて、其詰る処ついに戦争となる」と述べ、このような“事業の学”を重視する西欧思想と、その根底にあるキリスト教の限界を指摘して、「事実の学にて心得の学なくしては、西洋列国戦争の止む可き日なし。心徳の学ありて人情を知らば、当世に到りては戦争は止む可なり」(沼山閑話)と主張した。

そしてただ「尭舜の治道」のみが、西洋を凌駕しつつ、しかもその長所を取り込んだ政治を可能にできるとして、「尭舜をして当代に生ぜしめば、西洋の砲艦器械、百工の精、技術の功、疾く其の功用を尽くして当世を経綸し、天工を広め玉ふこと、西洋の及ぶ可きに非ず」と主張し、儒学の普遍性と、西欧思想に対しての優越性への確信を表明した。

 

小楠は、沼山津での長い逼塞生活の後、慶応四年に、参与として大久保利通、木戸考允らとともに、成立したばかりの明治新政府の中枢部に迎え入れられた。小楠が、キリスト教に対して融和的姿勢をとり、また、絶対君主制に直結する吉田松陰の「一君万民」思想とは本質的に異質な、「人君何天職」という思想を持っている事を了解しながら、参与という高い地位に迎え入れられたのは、維新期という混迷状態にある国内外の政治状況に、遠大な政治的指針を与えてくれるものとして、いかに大きな期待が寄せられていたかを示していて、特に輔相の岩倉具視の信任が厚かった。

 しかし慶応元年頃から慢性化していた淋疾が夏頃から悪化し、引き籠もるようになり、積極的に政務に参加できなかった。やがて小康を得るようになり、翌明治二年の正月四日から出仕するようになったが、五日に明治天皇に拝謁した後、午後二時頃いつもより早めに退出したところを、丸太町角で津下らに襲われ落命した。暗殺者の一人が懐中にしていた斬奸状には「是れ迄の奸計、枚挙に遑非ず」としながら、暗殺の直接の動機は「今般夷賊に同心し天主教を海内に蔓延せしめんとす」と書かれていた。

 

 小楠の暗殺に、政府上層部は驚愕し、厳しい犯人の追及にのりだしたが、中位以下の、一般の尊皇攘夷を標榜してきた志士達、さらには弾正台などの司法関係者の多くには、小楠の思想は、それまでの伝統的価値観をないがしろにし、社会秩序を破壊することを意図するものであるとして、むしろ暗殺者を英雄視して、助命をのぞむ声が強かった。

 

 鴎外は、小楠の思想が世上では全く理解されていなかったことについて、この作品の初稿部分で、正高の言として「世間ではその論策の内容を錯り伝へて、廃帝を議したなどゝ云ったり、又洋夷と密約して、基督教を公許しようとしてゐるなどゝ云ったりした。………………横井は当時の智者ではあったが、其思想は比較的単純で、それを発表するに、世の嫌疑を避けるだけの用心をしなかった。………・しかし当時の尊皇攘夷論者の思想は、横井よりは一層単純であったので、遂に横井を誤解することになった」と書き記している。ここでの“其思想は比較的単純で、それを発表するに、世の嫌疑を避けるだけの用心をしなかった”という表現は、正高の言という形をとっているが、それには鴎外自身の小楠に対する評価も、大なり小なり反映しているのであろう。

すなわち、(一)前報(鴎外誌、七八号、平成十八・二)で示したように、明治末年以降、天皇制論が次第にフアナテイックな様相を帯びるようにもなってきていて、それに触れることには細心の配慮が必要になってきていた。そこでの経験に照らせば、小楠が「人君何天職」と明言し、万世一系を否定するような言辞を弄したことは、いかにも不用心なことと写ったのであろう。鴎外が『津下四郎左衛門』で、小楠自身の思想に、深く踏み込んで論評しようとしなかったのには、このような執筆時の政治・思想的状況が影響しているのであろう。また、(二)天理、天帝などの概念にについては、すでに小楠以前から、多様な議論が積み重ねられてきており(18)、それらの先行思想に照らして見れば、小楠の思想が十分に成熟し、体系化されているとは映らなかったのであろう。(三)この作品が書かれた大正年間には、社会問題が次第に先鋭化しつつあり、“尭舜三代の治“のような、具体性を欠いたユートピア的社会政策論は、説得力を持ち得なくなってきていた。

 

小楠が、維新期に健康で、もし暗殺されていなかったら、ひたすら脱亜入欧と軍事大国を指向したその後の日本の進路も、もう少し異なったものとなっていたであろうと惜しむ人は少なくない。すなわち、維新の草創期には、開明的な政治姿勢を許容していた明治政府は、しだいに小楠がそうあってはならないと主張した、惻怛の情を欠いた政治、産業立国と軍事大国、道義を軽視した力による外交、への道を歩むようになっていった。

そのような政府部内にあって、鴎外は積極的に西欧文明の吸収に務めていたが、それにあきたりず、むしろその圧倒的な力に対抗するために、東洋文明のアイデンテイテイを確立することに使命感を抱いていた。そしてその過程で、原始儒教思想の内に、ナイーヴな“現前性”を備えた天理・天帝を見出し、それに基づいて、西欧思想を超える実践的政治思想を構築しようとした横井小楠に、すぐれた先達の姿を見るようになったのであろう。そして、晩年に帝室博物館総長に就任した後も、その思想の延長上で、新しい社会情勢に即応できる政治体制の模索を続けていった。

 

参 考 文 献

 

(1)   吉川幸次郎全集第二巻、『支那人の古典とその生活』、『士人の心理と生活』、

  筑摩書房、昭和四三・十二

(2)小泉信三全集第十三巻、『森鴎崖阿伴匆饂彖曄戞◆慍・綾餞覆伴匆駝簑蝓戞∧厳歃媾・辧⊂赦損融亜・諭と#060;/p>

向坂逸郎、『森鴎外と社会主義』、日本文学研究資料叢書、森鴎外 I,有精堂、

一九七〇・一

(3)中村文雄、森鴎外と明治国家、三一書房、一九九二・十二

(4)新潮社編、明治大正文豪研究、所載、“森於菟談”、新潮社、昭和十一・九

(5)水谷三公、日本の近代第十三巻・官僚の風貌、中央公論社、一九九九・八

(6)小泉浩一郎、森鴎外論 実証と批評、明治書院、昭和五六・九

(7)尾形仂、森鴎外の歴史小説 史料と方法、筑摩書房、昭和五四・十二

(8)青木美智男、日本福祉大学研究紀要、五九、一九八四・二。

仲田正之編、大塩平八郎建議書、文献出版、平成二・三。

相蘇一弘、大塩平八郎書簡の研究一ー三、清文堂出版、二〇〇三・十。

(9)宮城公子、大塩平八郎、ぺりかん社、二〇〇五・一

(10)山崎一穎、跡見学園女子大学紀要、通号四、一九七一・三

(11)横井小楠の生涯と思想についての基本的な参考文献、

山崎正董、横井小楠・伝記篇、資料篇、明治書院、昭和一三・五。

松浦 玲、横井小楠、朝日新聞社、二〇〇〇・二

(12)楢原孝俊、政治研究、三二、一九八五・三。同、三五、一九八八・三。

同、四一、一九九四・三。

(13)丸山真男、日本政治思想史研究、東大出版会、一九五二・十二。

   島田虔次、朱子学と陽明学、岩波新書、一九六七・五

(14)源了円、季刊日本思想史、六〇、二〇〇二。

    同、日本学士院紀要、五七(三)、二〇〇三・三

(15)山崎益吉、横井小楠の社会経済思想、多賀出版、昭和五六・二。

   三上一夫、横井小楠の新政治社会像、思文閣出版、一九九六・四

(16)荒川久寿男、芸林、二二(五)、一九七一・十。

   沼田 哲、日本歴史、通号三三二、一九七六・一。

(17)北野雄士、大阪産業大学論集、人文科学篇、通号十一、二〇〇四

(18)津田左右吉全集第十八巻、『上代シナに於ける天及び上帝の観念』、

岩波書店、昭和四十・五。

    平岡武夫、経書の成立、創文社、昭和五八・十二。

    溝口雄三、東方学、八六、一九九三・七

 

 

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