鴎外 と 魯迅 の 諦観      安川民男

 

 

 

 

鴎外の中期以後の文業を特徴づけるものとして、しばしば“諦念”という語が用いられている。この言葉は、今日では一般に、 “あきらめ”、“断念”のニュアンスを含むものと了解されている(1)。また中期の作風を批判的に述べるときに、“傍観者”、“あそびの姿勢“と表現されることが多い。この問題について、魯迅が我国での大方の見解と大きく異なる見方を表明していることを、本記念会通信一四二号(平成十五・四)で紹介した。そこで、魯迅の見方を含めて、この問題について今少し詳細な検討を試みたい。

 

1.            “鴎外の諦念”について

鴎外が医務局長に就任して間もなく発表した「仮面」は、ニーチエの「善悪の彼岸」を下敷きにしたもので、この当時の意気軒昂とした鴎外の気迫を窺わせるものであるが、やがてその意気も沈静化し、代わって悲哀の感情や諦念が表面化するようになっていった。明治後期の鴎外の作品に一貫しているこの感情は、ある点では、鴎外自身が云っているように、“仮面”を被る者の「高尚に寂しい、高い処に身を置きたい」という、内に強いエネルギーを秘めつつ、高い理想を抱いたことの、必然の結果とも受け止められる。

これに対して、木下杢太郎が、鴎外の後期の作品の到る処に、悲哀に似る一種の気分を感ずるは何の故であるか、と書いたことに関して、中野重治が「鴎外のあきらめ、鴎外の曳いている淋しい影という問題も、鴎外が古いものと戦い、それに屈服したということを別にしては解くことができぬと思います」(鴎外位置づけのために、昭和二十二年)と断定して以来、この線に沿った論述が多数発表されてきた。このようにして、鴎外の“悲哀の念”や“諦念”の本質について、相対立する種々の見解が提出されてきている。

岡崎義恵は「鴎外と諦念」というモノグラフを、昭和二十四年に「日本芸術思潮」第三巻として刊行した。その中でまず、“諦念”、“諦め”、“あきらめ”、“レジニアシヨン”などの類語について、鴎外の使用例を検討し、これらの一見未練や愚痴という退嬰的な心情を表明していると受け取られかねない表現も、その内実は、一切の毀誉褒貶を超えて己のすべてを捧げようする穏やかな、しかし強い意欲を秘めていることが少なくないことを、「予が立場」、「魔睡」、「ヰタ・セクスアリス」、「カズイスチカ」などの作品の分析により示していった。しかしその後、雑誌「心」に四十三、四年に六回にわたって連載した「森鴎外の諦念」では、「鴎外と諦念」での所説とはニュアンスが変わり、“自由と美との認識”を西欧文明の本質と捉え、それを追求しようとした初期の戦闘的啓蒙精神が、反動的な社会的抑圧のために変質し後退していったと、捉えるようになっていた。

渡辺義雄は、「かのやうに」のような、より政治的な意味合いをもつ創作においても、“諦念”が持つ積極的・建設的な側面が、重要な役割を果たしているとして、一見、時の権力に妥協しょうとしているように見える主人公の“かのやうにの哲学”に、理性的・科学的歴史観を守ろうとする鴎外の意図が秘められていると、主張している(2)。「かのやうに」は、鴎外の政治・思想に対する姿勢が直接係わっているだけに、諦念、傍観に関連して、この他にも多様な見解が提出されているが、ここでは立ち入らないでおこう。

 

 2.「あそび」を巡って

 創作「あそび」は、明治四十三年八月に「三田文学」に掲載されたものであり、「不思議な鏡」と同じく、徹底したカリカチュアであるが、日本では、その姿勢を逃避的、ないし権力への屈服と受け取った人が少なくなかった。

 「あそび」の主人公の木村は、いわゆる腰弁クラスの官吏であるが。文学者としては多少人に知られている。しかし、その作品は情調がないとして、文壇からは軽く見られていて、少し馬鹿にする気味で好意を示してくれる人と、冷淡に構はずに置いてくれる人があるばかりである。 その日の「日出新聞」の文芸欄を見ると、そこに『木村の関係してゐる雑誌に出てゐる作品には、どれにも情緒がない。木村自己のものにも情緒がないやうである』と書かれていた。役所での仕事は、付けたりのような、重要でもない仕事を長年しているが、まだ一向に巾が利かない。しかし、かなり有能らしく、仕事をぐいぐいとこなしている。しかし、その仕事振りは、まるで遊んでいるかのように、晴れ晴れとした顔をしているので、前の課長には不真面目だと嫌われていた。「役所の仕事は笑談じゃない。政府の大機間の一小機関となって、自分も回転しいてゐるのだといふことは、はっきり自覚してゐる。自覚してゐて、それを遣ってゐる心持が遊びのやうなのである」。「此の男は著作をするときも、子供が好きな遊びをするやうな心持になってゐる。それは苦しい処がないといふ意味ではない。…・・また芸術が笑談でないことを知らないのでもない。…………兎に角木村の為には何をするのも遊びである」。 この時期、木村は「日出新聞」から、懸賞募集の脚本の審査を依頼されていたが、新聞社からの選考を急いでほしいとの督促の電話に対して、今朝の文芸欄の批評を思いだした木村は、多忙で当分見られないと断ってしまう。批評で悪く書かれたくらいで断るような「けちな悪意では、ニイチエ主義の現代人にもなられまい」と揶揄するところで、この作品は終わっている。

 

 このような作品は、特に当時全盛を誇っていた自然主義文学の眼から見れば、悪ふざけの駄作としか映らなかった。同年八月二十六日の「読売新聞」に、本間久雄は「彼は、芸術上でも実際生活上でも、遊びの心持と云う唯一の態度で統一されるから…・・自分の分裂生活とか云うものから自らにして生ずる苦悶、乃至懊悩などは殆どこれを感ずることがない。…・・が、それはただ平坦であるだけで、…・・潤ひのある味ひの生活ではない。蓋し、彼の遊びの心には多分に功利的、打算的な不真面目なところが含まれて居るからである。……・今少し、遊びの心持ちでもよいから、人生にたいする興味を打算的、功利的でなく、深く徹底的に追及したいとおもふ」と書いている。

このように、「あそび」に対する世評は、表面的な理解によるものであった。そのような反響をふまえて、四十五年一月に、さらにカリカチュアの程度を進めて書かれたのが、「不思議な鏡」であった。そのなかには、体から抜け出した魂が、魂の無くなった体の有様を見ている様子が描かれている。「なぜかと思ったら、己の魂は“あそび”の心持ちで、何を見てもむやみに面白がるのだそうだ。いつから世間でそれを知ったかと云ふと、或る時己がみじめな生活に安住してゐる腰弁当の身の上を書いて、その男に諦念の態度を自白させる時、あそびと云ふ事を言った。それを誰やらが親切に、己の自白だと認めてくれや否や、善言でさへあれば、誰の口から出ても、それを容るるに吝ならざる一同が、あそびあそびと云って己に指さしをして教へ合った」と書いている。

しかし、これとは別の見方も出されていた。相馬御風は、明治四十四年一月の「新潮」に掲載した「最近文壇十年史」の中で、「彼の所謂あそびの態度を彼の辿り来った実際生活の経路と結びつけて観る時はそこに悲痛なる一大事実の存するのを観ないわけには行かぬ。あそびの気分でなければ此の世は生きて行けぬと云うまでになった彼の一種消極的な虚無思想の傾向には、明らかに現代生活の一面が窺はれる」と記している。 

 また、岡崎義恵は「鴎外と諦念」の中で、主人公の木村が役所の仕事でも、文芸活動においても、“あそび”の気分で対処できるのは、それだけ能力に恵まれているからであり、木村自身もそのことに矜持の念を抱いているが、結局のところ、この作品には、“あそび”の内に遊べない気持ち、“諦念”の内にあきらめ切れない気持ちが表現されて居り、そこに散文芸術らしい所があると云える、と述べている。またその後、岡崎が雑誌「心」に連載した「森鴎外の諦念」では、留学を通じて体得した自然科学の素養を基に、科学研究への情熱を燃やしていたが、傍観機関論争や小倉左遷を経て、自然科学者としての立場に自信を失い、また因襲的な精神風土の制約のために、文芸活動にも没頭できない状況下に、ヂレッタントとして“あそび”の姿勢をとるようになった、と結論している。

一方、竹盛天雄は、作品としての「あそび」を、執筆当時の鴎外の公私にわたる生活を視野に置きながら、分析している(3)。冒頭部に出てくる「日出新聞」の文芸欄の記事で木村の作風が批判されていることが、いかにも一寸した小事件でしかないように描かれているが、鴎外は、現実に「朝日新聞」に掲載された草野心平の「近時の傾向」を、鴎外一派の作風をあてこすったものと受け止めていて、鴎外にとってこれは『あそび』という作品をつくって風刺せずには納まらぬものであったにもかかわらず、何ごとでもなかったように描いていくこと自体に、鴎外のモチーフが仕掛けられている、と竹盛は結論している。この見方からすれば、“あそび”という行為の本質、あるいはこの作品の中での主人公のあそびの姿勢は、副次的意味しか持たない、風刺のための手段にすぎないことになる。「近時の傾向」に重点を置く見方は、この他にも何人かの論者により提出されている。

 このように見てくると、我国での「あそび」の、文学的ないし思想的意義に対する評価は、これまで一貫して、低かったと云わざるを得ない。

 

3.  鴎外 と 魯迅 

  魯迅は明治三十五年に官費留学生として来日したが、当初の予定であった東大工学部冶金科への進学を取り止め、直接民衆の苦痛を救済したいとして、仙台医学専門学校へ入学した。しかしやがて、身体だけが強健であっても無意味だ、国を救うには、人々の精神の改革がまず必要である、と考えるようになり、東京に戻って独逸語学校に入学し、ニーチエやイブセンなど、近代文明に批判的な思想家や作家達から、改革のエネルギーを吸収しつつ、思想・文学の啓蒙活動に従事するようになっていった。晩年にこの頃を回想して、「私はどうして小説を書くようになったか」の中で、‘文学の力を利用して、社会を改良しようとした……当時最も愛読した作家は、ロシアのゴーゴリとポーランドのシエンキッチであった。日本では夏目漱石と森鴎外であった’と述べている

四十二年八月に魯迅は帰国し、辛亥革命後には教育部社会教育司に出仕した。そして、大正七年五月に、魯迅は最初の本格的小説「狂人日記」を発表し、さらにその後、辛亥革命を経ながらも、依然として因習に閉じこめられている、一般民衆の精神世界を描いた、「孔乙己」、「薬」、「故郷」、「阿Q正伝」などの名作を発表していった。なかでも「阿Q正伝」は、二十世紀中国を代表する傑作として、広く世界各国で受け入れられている。

大正十二年に、魯迅兄弟は、日本の作家達の小品を選んで、「現代日本小説集」として、翻訳、出版した。魯迅が翻訳を担当したものとして、森鴎外の「あそび」と「沈黙の塔」、夏目漱石の「永日小品」の中の「懸物」と「クレイグ先生」、の他に有島武郎、菊池寛、芥川龍之介らの短編小説があった。次弟の周作人も長く日本に留学していたが、彼が担当したのは、武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎ら白樺派のものが中心であった。

この小説集には、付録として作者紹介と作品付記が付けられているが、鴎外の「沈黙の塔」については、魯迅が「この一篇は『ツラトストラはかく語りき』の訳本の序で、風刺が重々しい中にもユーモラスなところがあり、軽妙かつ深刻、なかなかに彼の特色が窺える。文中で拝火教の信者を取り上げたのは、火と太陽とが同類だから、仮託して彼の祖国をあてこすったものと思われる」と書いている。

「沈黙の塔」は、まず四十三年十一月に「三田文学」に掲載され、その後、翌年一月三日に新潮社から刊行された生田長江訳『ツラトストラ』に、序文として再掲載された。生田長江は四十二年頃からこの翻訳に従事していて、思想上、翻訳上の問題などで、しばしば鴎外を訪れ、助言を求めていた。四十三年十一月十日のの鴎外日記に、「生田弘治に沈黙の塔をZarathustraの巻頭に載することを諾す」という記事がみられる。鴎外としては、これの出版により、かっての登張竹風の教壇からの追放につながったような、軽率なニーチエ批判が再燃することを憂慮していて、それを牽制しようとしたのであろう。

 

魯迅は、この選集の編集について、何度か周作人宛てに書送っている。そこで、‘「沈黙の塔」ははなはだ軽イので、別に訳すべきだ’とし、付録の作者紹介にも、‘彼の作品について、評論家は挙って透明な理智の産物で、その態度には“熱”がないと言う。彼のこうした言葉に対する反対の弁は「あそび」という小説の中で、実に明確に語られている’、と書いている。戊戌政変以後の、政治権力の容赦のない弾圧を体験してきた魯迅達には、「沈黙の塔」は軽妙なあてこすりとしか映らず、むしろ「あそび」の中に、政治的・社会的抑圧に打ちひしがれることのない、決然とした姿勢を読み取っていた。

 

 この作品の解釈上のポイントは、文末の「このようなけちな悪意では、ニイチエ主義の現代人にもなられまい」という評言にある。すなわち、この作品での鴎外の“あそび”の概念は、ニーチエ的な思想における“あそび”であったが、同時代の日本の読者はほとんどその真意を捉えることはできなかった。ここで敢えて云えば、この当時鴎外を最も的確に理解していたのは魯迅だった、と云うこともできよう。

 

4.1         鴎外とニーチエ 

我国へのニーチエの紹介は、明治二十六年頃まで遡ることができ、その受容の歴史については綿密な調査が積み重ねられている(4)。

大学の講義の中で、ニーチエの名が初めて挙げられたのは、明治二十六年に来日したケーベルの、哲学史の講義においてであろうとされている。鴎外とニーチエとの係わり合いも、この頃まで遡る。すなわち、明治二十七年にドイツ留学から戻った入沢達吉が、当時西欧文壇で注目を集めるようになっていた新しい文学作品であるとして、何冊かのニーチエの著作を含む独逸哲学の新らしい著作を買い求めてきていた。鴎外はそれらを借り受け、それに依りながら、「月草叙」でニーチエに言及している。しかし鴎外は、ブランデスやフオルケルトなどの著作を通して、ニーチエの思想を、その歴史的背景との関連で理解しようとしていただけに、冷静にそれを受け止めていた。その後も、基本的には批判的態度保ち、さらに、倫理学の側面にも強い関心を持ち、三十三年に小倉でおこなった講演をもとにした「フリイドリヒ・パウルゼン氏の倫理説の梗概」や「倫理学説の岐路」の中でも、その極端な個人主義的倫理観に批判的な見解を述べている(5)。

三十三年八月にニーチエが没すると、西欧諸国で新たな関心が沸き上がってきた。我国でも、翌三十四年一月の「帝国文学」に、いくつかの紹介記事が掲載され、さらにその後、登張竹風によるその思想の解説が連載された。しかし、ニーチエへの関心を一層高めたのは、高山樗牛が「太陽」誌に同年一月に発表した「文明批評家としての文学者」と、同年八月の「美的生活を論ず」であった。そして、そこで主張されていた本能的な至楽の追求を、江湖では、ロマン主義的な人間性解放への叫びと受け止め、歓迎した。

しかし、「文明批評家としての文学者」は、もっぱらチーグラーの「十九世紀文明史」を祖述したものであり、ニーチエの思想を十分に咀嚼した上での論述ではなかったと見られている(6)。そして、樗牛自身も翌三十五年五月の太陽誌上で、「美的生活論は予が一家言のみ。一豪一銖もニイチエに待つ所無し」と書いて、自ら認めているように、ニーチエの思想からかなりずれたものであった(7)。たとえば「ツアラツストラ」の最終部の「いったいわたしは、わたしの幸福を追求しているのか。否、わたしの追求しているのは、わたしの事業だ。」と比較すれば明らかなように、感性的な至楽の追求を主張する樗牛の美的生活論には、ニーチエの思想に見られる近代主義に対する鋭い批判の意識への理解が欠けていて、鴎外が「続心頭語」の中で「彼論を以て爪なく牙なきニーチエと為し、却りて群議の囂然たるを怪しめり」と云ったのは、それなりに的確な評言であった。

 この当時江湖で激しく繰り広げられた論争を見て、鴎外は改めてニーチエへの関心を高め、一九○六年版のニーチエ全集を購入している。そして、受動的・観照的なショウペンハウエルに代わって、個人の主体的な意志と行動を説くニーチエに関心を向けていき、四十二年初頭に行った講演「混沌」のなかで、ニーチエやイプセンの思想の、現代的な建設的意義を積極的に評価するようになっていった。そして、その後に発表された「仮面」、「追儺」などにも、その思想の反映が見られる。

 さらに鴎外は、四十三年から「昴」に連載した「青年」の中で、個人主義には利己主義と利他主義の二つの立場があり、利他主義の立場では、確立した自我の上に立つ人間関係があり得るとして、西欧現代思想を梃子にした伝統的人倫関係の再構築を唱えた。そこでの個人主義は、他者の犠牲の上に築かれる、矮小化した自我の満足感ではなしに、リルケの「家常茶飯」に見られるような、高度な精神性にまで昇華された“生の充溢”を求める心であるとしている(本記念会通信、一三五号、平成十三・七)。このような思想の深化は、鴎外だけでなく、我国の思想的潮流は、それまでの樗牛的なロマン主義的ニーチエ理解から、より本格的な思想の理解へと進んでいて、生田長江は「ツアラツストラ」に引き続いて、個人訳としてニーチエ全集の刊行に着手した。さらに大正二年に、和辻哲郎は大冊の「ニーチエ研究」を発表した。そこでは、“実存”という言葉は使われていないが、和辻の研究テーマがショウペンハウエルからニーチエ、ついでキエルケゴールへと移っていったことに見られるように、“実存”の思想が明確に意識されるようになっていた(8)。

 

4.2         魯迅 と ニーチエ(9、10) 

魯迅も留学中からニーチエを愛読し、晩年に至るまで「ツアラツストラ」を身近に置き、その序章を中国語に訳し、思想的にも大きな影響を受けた。そのきっかけは、来日当時のニーチエ・ブームだったのであろうが、魯迅の受容態度は、樗牛の美的生活論に見られるような、個人的至楽の追求ではなく、その当時執筆した「文化偏至論」にみられるように、政治・社会に結びついた行動主義的なものであった。すなわち、魯迅が文学に期待したのは、純粋な芸術活動としてではなく、‘文学を通して政治・社会を改革しよう’とする、仙台での翻心の延長上にあるものであった。ニーチエの思想には、政治への強い傾斜が見られ(11)、「権力への意志」の中の「権力のマキアベリズム」の項には、「権力への意志は、――最も強い、最も富める、最も独立的な、最も気力のある者のところでは、『人類への愛』、『民衆』への、福音への、真理、神への愛としてあらわれる。……すなわち、英雄、予言者、帝王、救世主。」と書かれている。このように、魯迅のニーチエ理解は、当時我国で一般的であった、樗牛のロマン主義的な感性に偏った享受的なものとは性格を異にしていて、むしろ鴎外に近い、倫理や政治的実践に傾斜したものであった。

鴎外と魯迅との間に、心情的に極めて近いものがあった。すなわち、鴎外も魯迅も、いわば士大夫階級の家庭に育ち、伝統的な儒教教育を幼少期に受け、ついで留学して医学教育をうけながらも、文芸活動に強い関心を示すようになり、また啓蒙活動に戦闘的な意欲を持っていた。しかも、その関心は(福沢諭吉や胡適とは異なって)近代主義、合理主義にではなく、むしろニーチエ的な近代主義批判の性格を持っていて、「破悪声論」に見られるように、伝統的な価値観や生活感情を尊重しようとしていた。一言で云えば、鴎外も魯迅も、士大夫的な性格を色濃く持っていて、政治的実践に強い関心と使命感を持ち、さらに文業は政治的実践と不可分一体のものであるとの意識を持っていた。

しかし、帰国後の魯迅が見出した、中国の政治状況や国民の因循的、退嬰的な精神状況は、期待を大きく裏切るものであり、改めて人間の本質の凝視をせまるようになっていき、魯迅は寂寞に満ちた、深い人間の本質への洞察を持つようになり、「中国のニーチエ」と呼ばれるようになっていった。

 

5.ニーチエ と “あそび”

 “あそび”について体系的考察を行ったものとして、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」(12)、カイヨワの「遊びと人間」(13)、他がある。そこでは、すべての文化は“あそび”から生まれたものとされているが、“あそび”の本質としては、まず第一に、自発的で自由な行動であり、肉体的必要ないし道義的義務によるものではない。第二にそれは、日常の,あるいは本来の生ではなく、生活上の必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。また第三にそれは一般に、日常生活から、それが行われる場と時間の点で切り離されている、とされている。このような基準から見れば、鴎外の作品「あそび」の世界は、通常の意味での“あそび”から大きく外れたものとなっている。

 

ツアラツストラ第一部の「三様の変化」は、「わたしは君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児になるかについて述べよう」と書き出されている。「駱駝とは重荷に耐える強靭な精神であり、真実の水であるならば、どんな汚い水であっても、その中に下り立つ。しかし、孤独の極みの砂漠で、精神は獅子となる。精神は自由を我がものにしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主となろうとする。…・・わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。新しい諸価値を創造すること……それはまだ獅子でもできない。しかし新しい創造を目指して自由をわがものにすること――これは獅子の力でなければできないのだ。…………しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、“然り”という聖なる発語である。そうだ。わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、“然り”という聖なる発語が必要である」(手塚富雄訳)。

ここで根底にあるのは永遠回帰の思想であるが、どんな惨めな事態にも勇猛に向き合い、“然り”として肯定することにより、一切のしがらみから自由になった“小児”の立場で、“あそび”として創造に取り組むことに、生の意義があると主張されている(14)。

鴎外が、この作品「あそび」で試みようとしたことは、永遠回帰的に繰り返される小市民の煩瑣な日常的生活においても、それに主体的に立ち向かうことで実現できる、一切のものから自由になった遊戯の立場に立つことで、真の芸術的創造が可能になるという思想を、一篇のカリカチュアとして示すことであった。そして魯迅が、‘彼の作品について、評論家は挙って透明な理智の産物で、その態度には“熱”がないと言う。彼のこうした言葉に対する反対の弁は「あそび」という小説の中で、実に明確に語られている。’、と書いたときに、魯迅が、この鴎外の意図を、的確に見て取っていたことは明らかである。

しかし、ロマン主義的ニーチエ理解に留まっていた、我国の大方の読者にとっては、そのような思想は理解できなかったのであろう。そこでは、先にいくつかの例で示したように、「あそび」はもっぱら日常生活の重圧からの逃避として捉えられていた。

 

鴎外が官途についたのは、政治上の強い使命感によることは明らかであるが、同時に文芸活動に終生関心を持ち続けた。このことは、王安石や蘇軾らの多くの士大夫達や、後のマルローやサルトルらの行動主義的立場をとった文学者達と同様に、政治に関与することは、人間の生の深淵を直接体験することであり、しかもそれは芸術的営為と不可分的に通じ合うものであって、このような活動によって、始めて真の生の充溢の意識を得ることができると確信していたためなのであろう。ニーチエは、「芸術、しかも芸術以外の何ものでもない! 芸術は、生を可能ならしめる偉大な形成者であり、生への偉大な誘惑者であり、生の偉大な刺激剤である。…・・・・・………芸術は、苦悩者の救いに他ならない」(「権力への意志」第三書)と記している。ニーチエにあっては、“芸術”は、手仕事、医学、芸術、さらには政治や経済をも含む、あらゆる創造的営為(ポイエーシス)を含意していた(11)。

しかし文芸活動における鴎外の望みは、内面での熱烈な意欲とは裏腹に、外面的には慎ましやかなもので、「あそび」には、「木村は只人が構わずに置いてくれれば好いと思ふ。………・見当違いに罵倒したりなんかせずに置いてくれれば好いと思ふのである。そして少数の人がどこかで読んで、自分と同じやうな感じをしてくれるものがあったら、為合せだと、心のずっと奥の方で思ってゐるのである」と書かれている。 

 

6.理解されない者の悲哀 、“諦観”と“寂寞

木下杢太郎が鴎外の全文業を振り返って、「われわれから見ると、鴎外は休息無き一生涯の間にあれだけの為事をした。自分でも満足としたであらうと思ふ。それにも拘らずその随筆、創作の到る処に、悲哀に似る一種の気分を感ずるのは何の故であるか」(15)、と述べているが、それは、当時の明治絶対主義政治や自然主義などの社会風潮とのズレや、理解不足に基づいた“見当違いの罵倒”に曝されているための“徒労感”、“寂寥感”によるところが大きかったのであろう。

 文学での自分の姿勢を述べた「予が立場」(四十二年末)の中で、‘現在活発に仕事をしている、自然主義系の作家達や、小山内君、永井君、さらに夏目君の周辺の人達に比べて、下風に立っていると云われ、何か不平を抱いている、と思われているようだが、私の考えている事は全く違ってゐます。……………………本当に平気なのです。私の考では私は私で、自分の気に入った事を自分の勝手にしてゐるのです。それで気が済んでゐるのです’、と書いている。これは、全く愚痴でも負け惜しみでもない、本音の表明であろう。しかしその背後には、鴎外が芸術に対して抱いていた理想が、当時の多くの人達と異なっていることに、自負と同時に、それが理解されないことの寂しさもあったであろう。

四十三年一月に出た「杯」は象徴的な作品であるが、そこに時流からはずれた所に立つ芸術家の心情が鮮やかに示されている。‘温泉宿で七人の娘が谷川の水を美しい銀の杯で飲もうとしている。それには、自然という字が妙な字体で書かれている。何か拠り所があってのことか、独創なのか。そこへ、八番目の娘が来る。琥珀のやうな顔から、サントオレアの花のやうな青い目が覗いてゐる。永遠の驚きを以て自然を覗いてゐる。…………・東洋で生まれた西洋人の子か。それとも相の子か。第八の子は流れ出た溶岩の冷めたような小さな杯を手にしている。七人の娘は、この時始めてこの平和の破戒者のあるのを知った。 一人の娘がかう云った。「お前さんの杯は妙な杯ね。………墓の中から拾って来たやうな物なのね。…………・あたいのを借さうか知ら」。第八の娘は此時始めて口を開いた。「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」とフランス語で云った。七人の娘は黒い瞳で顔を見合った。言葉が通じないのである。第八の娘は除かに数滴の泉を汲んで、ほのかに赤い唇を潤した’。

 鴎外は、自分の芸術についての言説が、多くの人に全く理解されていない、まづ何よりも「言葉が通じない」と感じながら、自分の小さな杯で、数滴の泉の水を飲むほかはない、と思い定めていたのであろう。これは、単なる受動的な“寂しさ”を乗り越えた、強い意志を秘めた覚悟、“諦観”、と云えよう。魯迅は、「現代日本小説集」巻末の作者紹介の中で、この「杯」を、鴎外の創作態度を示すものとして詳しく紹介している。おそらく、自らの体験をこの作品に重ね合わせて、共鳴するところが大きかったのであろう。

 

 このような思想的な価値観のずれは、政治・社会の分野でもあった。明治四十年代に入ると、労働問題、社会主義問題が政治的に重要性をますようになり、鴎外は「食堂」、「かのやうに」などの作品で、科学的な政治・社会思想の啓蒙に努めた他に、「フアスチエス」、「沈黙の塔」などで、政治権力の思想・言論への介入に自制を求めていった。しかし、文壇の一部には、鴎外が官界に、身を置き、権力の中枢に近かったことに対する、過度な猜疑心のために、各種の誤解や中傷に曝されることになった。結局のところ、この時期に鴎外が示すようになってきた“寂しさ”は、中野重治がいうような、権力によって、その思想を屈服させられたことからくる挫折感、閉塞感というような直截的なものというよりも、無理解に基づいた“見当違いの罵倒”や党派心の中で、自ら信じる政治上、芸術上の思想を奉じて歩こうとする者が常に感じる、宿命的な、虚しさ、寂寥感だったのであろう。

 

魯迅の精神のキーワードを一つだけ選ぶとしたら、“寂寞(寂しい)”という語になるであろう。一九二三年に、「狂人日記」や「阿Q正伝」などの初期傑作を含む第一作品集「吶喊」を刊行したが、その自序の中で、魯迅は在日中に出版した翻訳集「域外小説集」が惨めな失敗に終わった当時を回想して、「すべて人の主張は、賛成されれば前進をうながすし、反対されれば奮闘をうながすのである。ところが、見知らぬ人々の間で叫んで相手に一向反応がない場合、賛成でもなければ反対でもない場合、あたかも涯しれぬ荒野に身をおいたように、手をどうしていいかわからぬのである。これは何と悲しいことであろう。そこで私は、自分の感じたものを寂寞と名付けた。この寂寞は、さらに一日一日成長していって、大きな毒蛇のように、私の魂にまつわって離れなかった」と書いている。

このように、魯迅にあっては、“寂寞”という語で示される感情は、目的としたものが得られない、あるいは喪失感や抑圧というような、直接的な失望や挫折感、絶望、を指すというよりも、無関心、ないしは全くの無理解のために、期待していたのとは全く異なる反応しか得られなかったときに感じる、やり場のない虚しさ、毒蛇が心臓にまとわりつくような感情という、屈曲した心情を指していることが多い。

一九二五年の年頭に書かれた、魯迅の「希望」という小文は、「私の心は、ことのほか寂寞としている。しかし私の心は安らかである。愛憎もなく、哀楽もなく、また色もなく音もない」(藤井省三訳)と書き始められている。‘しかし以前には、血生臭い歌声に満たされていたこともあった。血と鉄、焔と毒、そして回復と復讐に。そして突然、これらのすべてが空虚になった。時にはしかし、はかない自己欺瞞の希望をもって、ことさらそれを埋めようと試みたこともあった。希望、希望、この希望の盾をもって、空虚のなかの暗夜の襲来を防ごうとした。たとえ盾の裏側が相変わらずの空虚のなかの暗夜であろうとも。だがそのために、次々とわが青春をすり減らした’、として、ハンガリーの詩人ペチーフイの、希望のはかなさを唱った詩を引いた後で、

   「絶望の虚妄なることは、まさに希望を相同じい」

と書き記し、希望がはかない虚構であるように、絶望もまた虚構でしかないとして、希望の否定である絶望を更に否定することで、沈潜した、しかし挫けることのない、強靭な希望への歩みを続ける決意を奮い立たせている。

この後、「而已集・小雑感、1927」には、‘人が寂寞を感じるとき、創作ができる。空虚を感じるとき、創作はない。すでに愛するものがないからだ’と書いて、寂寞は空虚な感情ではなく、内に能動的な意欲を秘めたものであることを確認しつつ、‘創作は愛に根ざすもの。…・創作は自分の心を述べることだという、だが読み手があることを願うものだ。創作は社会的な行為だ。だが読み手は一人でいいと思うこともある。親しい友、愛する人。’と続けている。この一節は、鴎外の「あそび」での、「少数の人がどこかで読んで、自分と同じやうな感じをしてくれるものがあったら、為合わせだと、心のずっと奥の方で思ってゐるのである」という文章と互いに響き合うものであり、そこに絶望の虚妄性を噛みしめながら、啓蒙や文芸の営為を続けていこうとする決意“諦観”を、穏やかに、しかし決然と示している、鴎外と魯迅の姿が浮かび上がってくる。 

 

 

 

 

【 参考資料 】

引用文は特に明記していない限り、岩波版 「鴎外全集」。学習研究社版 「魯迅全集」、岩波版 「魯迅選集」。ちくま学芸文庫版「ニーチエ全集」、によった。引用に際しての「  」は原文のままを、‘  ’は一部省略などで、大意を示している。

 

【 引用文献 】

(1)語義史の立場から見れば、“あきらむ”という動詞は、万葉期、平安期、室町期からキリシタン翻訳物まで、もっぱら“物事の道理を明らかにする”という意味で用いられていたが、江戸時代には、“望みを断念する”という用法が生まれ、やがてそれが主流となっていった(時代別国語大辞典、他)。中国では“諦”は“つまびらかにする”、“まこと、さとり”を意味し(諦視、諦観)、“望みを断念する”という意味で用いるのは、もっぱら我国に限られていているとされている(諸橋大漢和)。このようにして、明治時代には、“あきらめる”、“諦念”などの語義・ニュアンスには大きなゆらぎがあった。

(2)渡辺義雄、文芸研究、一0五、一九八四・一。

(3)竹盛天佑、鴎外 その紋様、小沢書店、昭和五九・七。

(4)「特集・日本におけるニーチエ研究」、実存主義、六十三、一九七三・六。 

高松敏男・西尾幹二編、「日本人のニーチエ研究譜」、ニーチエ全集別巻、

白水社、一九八二・九。特に、「日本における『ツアラトウストラ』の

受容と翻訳史」については、高松敏男、理想、五五七、昭和五四・十、参照。

(5)小堀桂一郎、西学東漸の門―森鴎外研究、朝日出版社、昭和五一・十。

同、森鴎外―文業解題(翻訳篇)、岩波書店、一九八二・三。

(6)杉田弘子、国語と国文学、四十三巻五号、一九六六・五。

(7)重松康雄、文芸研究、十三集、昭和二四・六。 同、国語国文、二二(五) 、

昭和二十八・五。

(8)金子武蔵、「和辻哲郎全集第一巻」解説、岩波書店、一九六一・十一。

(9)魯迅のニーチエ受容については、多数の論述がある.

例えば、伊藤虎丸、魯迅と終末論、竜渓書舎、一九七五・十一。

同、魯迅と日本人、朝日新聞社、一九八三・四、他。

(10)修斌、東アジア、六号、二000・三。

同、敬和学園大学研究紀要、十二、二00三・二。

(11)青木隆嘉、ニーチエと政治、世界思想社、一九九三・五。

(12)J・ホイジンガ(高橋英夫訳)、ホモ・ルーデンス、中央公論社、一九六三。

(13)R・カイヨワ(多田道太郎・塚崎幹夫訳)、遊びと人間、講談社学術文庫、

一九九0・四。

(14)信太正三、永遠回帰と遊戯の哲学、勁草書房、一九六九・八。

(15)木下杢太郎、森鴎外、岩波講座「日本文学」、昭和七。

 

 

 

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