『かのやうに』 を 巡って        安川民男

 

 

 

 

鴎外が大嶋次官に辞意を申出たのは、大正五年十月二十二日のことであるが、このことに関して、前報(鴎外誌 七七号)で、青島出兵隊の脚気対策が、期待したほどの成績をあげられなかったことから、鴎外に、しかるべき時に後進に道を譲るようにとの意向が伝えられたのであろうとの推測を述べ、さらに、大嶋次官との思想的対立が、この問題に微妙な影響を与えたのではないかと記した。ここでは、『かのやうに』の主題に係わる歴史認識についての大嶋次官との思想的対立を中心に、この問題を今少し検討して置きたい。

 

多くの鴎外の作品が、毀誉褒貶相半ばする議論を引き起こしてきているが、『かのやうに』については、特に厳しい批判の対象とされてきた。この作品については、大別して、二様の相反する見解が提出されている。その一は、当時の権力者山県に対しての阿諛・追従の意を含んだものと受け止めるもので、「官にある者を代表して、危険思想対策を語ってゐる」(唐木順三)、「山県に順応した折衷主義」(長谷川泉)、「鴎外自身も有効性を信じていない、お為ごかしの彌縫策」(三好行雄)、「弱々しい折衷的彌縫策」(生松敬三)、「見えすいた折衷主義」(渋川驍)、「敵にさきんじて自己陣営の精神的再武装をこころみた絶望的な努力」(中野重治)、「矛盾の解決に絶望した鴎外の諦念」(吉田精一)、などの様々な罵倒に近い、手厳しい批判を浴びせかけられてきた。しかしこれに対して、この作品を、政治体制に対しての批判や、山県に対する諫言の意を込めたもの、とする見方等があって、“大胆不敵な帝室否定論”(高橋義孝)、“将来の国民的精神構造にもたらすであろう近代的合理主義の破産への憂慮の念を込めた山県への訴え”(小泉浩一郎)、“権力に与する勢力から学問研究を守ろうとしたもの”(渡辺義雄)とするなど多彩な見方がある。鴎外が真に意図したところを探るためには、これらの錯綜する諸見解を念頭に置きながら、執筆当時の背景状況を詳細に検討することが必要であろう。

 

一. 創国神話と祖先神信仰

主人公の五条秀麿は、日本古代史の研究を生涯の仕事にしようと思い定め、ドイツに留学し、近代歴史学の方法を学んできた。しかし我国では、皇室の起源に関わる、創国神話の取扱に慎重にならざるを得ないという事情があったために、秀麿は、西欧諸国での、宗教と思想・科学や政治との対立と協調の関係を参考にすることで、この問題を解決する手懸かりを得ようとしていた。当時ドイツでは、学界で大きな影響力を持っていたハルナックが、キリスト教会史や教義史について実証的な研究を進める一方で、時のドイツ皇帝ヰルヘルム二世の宗教政策に、自らの学問の成果をいささかも曲げることなしに、適切な助言を行っていることに、大きな感銘を受け、自らの日本古代史の研究に於いても、「先づ神話の結成を学問上に綺麗に洗ひ上げて、それに伴ふ信仰を、教義史体にはっきり書き、その信仰を司祭的に取り扱った機関を寺院史体にはっきり書く方が好さそうだ。さうしたってプロテスタント教がその教義史を寺院史とで毀損せられないと同じ事で、祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はない」と考えていた。

 

 帰国後のある日、食事をしている時のこと、父子爵が「どうも人間が猿から出来たなんぞと思ってゐられては困るからな」と云ったことに、秀麿はぎくりとした。「此詞の裏には、こっちの思想と相容れない何物かが潜んでゐるらしい」、「まさかお父う様だって、草昧の世に一国民の造った神話を、その儘歴史だと信じてはゐられまいが、うかと神話が歴史でないと云ふことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るやうに物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思ってゐられるのではあるまいか」。そこで秀麿は、史実を科学的手法で解明しつつ、同時に、古代の豊かな精神世界の源泉を解明し、進化論などの近代科学の成果と両立し得る、新しい時代に相応しい精神文化を再構築する途を探るのに、当時西欧で広く注目を浴びていたフアイヒンガーの思想を援用することができないだろうかと思い巡らしていた。

 

二.      日本における近代歴史学の成立 (1)(2)

近代歴史学は十九世初頭に、ランケにより確立されたが、その研究法は、一言で云えば「事実は一体どうであったのか」を明らかにすることを目的とするものであって、その厳格な資料批判法、さらに広い関連領域(古文書調査、歴史地理、系図学、等)の総合に裏付けられて、歴史学は、それ自体として自立した、科学としての地位を確立していった。

我国の歴史学は、中国の影響を受けながら、正史の編纂、歴史理論の点で高い水準に達していたが、明治維新後、水戸藩の『大日本史』に続くべきものとしての歴史書を編纂すべきであるとの気運がたかまり、明治八年に修史局が創設され、十年に修史館と改称され、十五年から重野安繹、久米邦武ら漢学系の人達が中心となり、『大日本編年史』の編纂が開始された。 明治十九年に帝国大学が創設され、翌二十年に文科大学に史学科が設置され、ランケの弟子であったドイツ人リースが着任した。修史館は二十一年に大学に移管され、帝国大学文科大学史誌編纂掛となったが、リースの助言により、それとは独立した国史科が二十二年に設置され、重野、久米、星野の三編修官はその教授となった。また、編年史編纂事業は中止され、二十八年には資料編纂掛に組織換えされ、『大日本資料』、『大日本古文書』の編集・出版が開始され、実証史学としての成果が蓄積されていった。

『大日本編年史』の執筆の中心となった久米邦武は、さらに進んで、社会の変化について合理主義的立場を取っていたことは、岩倉使節団の視察報告書『米欧回覧実記』の執筆態度からも窺うことができるが、明治二十四年に『史学会雑誌』に発表した「神道は祭天の古俗」という論文では、神道には明確な教義も教典もなく、「只天を祭り、攘災招福の祓を為す」祭祀に過ぎず、宗教としての性格を欠いた古俗にすぎない、と主張したために、神道家達の反発を招き、論文の取消と辞任が要求された。松方内閣は、神道は天を祭る古俗にすぎず、皇位継承に係わる三種の神器も、単なる祭天の飾り物であろうとする久米の見解は、国家の在り方の根本理念に係わるもので、見過ごすことのできないとして、久米を休職とした。その後、早稲田大学の校外生のために書いた講義録を増補改訂し、明治三十八年に『日本古代史』として刊行し、大きな反響を巻き起こした。そこでは創国神話のかなりの部分を、譬喩・寓意と解釈し直し、科学的歴史認識との調和を試みていた。

また、明治二十四年に東京専門学校を卒業した津田左右吉は、大正二年に『神代史の新しい研究』、さらに大正八年には『古事記及び日本書紀の新研究』を発表した。これは、秀麿が意図した「先づ神話の結成を学問上に綺麗に洗ひ上げて、それに伴ふ信仰を、教義史体にはっきり書き、その信仰を司祭的に取り扱った機関を寺院史体にはっきり書く」ことを試みたものと云うことが出来るものであるが、初めのうちはほとんど反応がなかった。しかしその後、増補改訂版が刊行されると、次第に、古代史研究に批判的実証主義を導入した、新しい紀元を画するものと評価されるようになっていった。

 

三. 「かのやうに」の思想 と 生の哲学

日常生活では、通常目にし、手で触れる通りのものが実際に存在していると確信して行動している。このような外界認識は素朴実在論と呼ばれ、意識と外界に実在している対象との関係は「模写説」と呼ばれている。

このような考え方に対して、一八0度の「コペルニクス的回転」をもたしたのがカントであり、われわれの認識は、まず時間・空間という人間の側にある感性の直観形式と、分量、性質、関係、様相などの悟性の判断形式(カテゴリー)とを通して、感覚的情報を分析・整理することで、種々の概念にまで高めていくのであり、外界の事物をそのままに認識するのではなく、物自体を直接知ることは出来ないと主張した。十九世紀末になると、科学的認識や価値哲学のより厳密な考察を目指して、コーエン、リュッケルト、カッシラーらの新カント派の哲学が、種々の立場から議論を展開していった(理想、六四三号『特集新カント派』、一九八九夏)。

イヒンガーも、新カント派に属する思想家であり、一八九四年にハレー大学の教授となり、一九0四年のカント百年祭にはカント協会を創立している。しかし、その思想を、単なる認識論の範囲を超えて、広範囲の社会的活動に関わる、より複雑で実利的な問題にまで広げようとして、一九一一年に『かのやうにの哲学』を刊行し、さらに一九一九年には、「かのやうにの思想」についての専門誌を創刊し、広い分野の研究者を糾合していった。

著書『かのやうにの哲学』は一九一一年に刊行され、八百ページを越す大著にもかかわらず毎年のように版を重ね、普及版も出された。その後長く顧みられなくなっていたが、近年になって、カーモード、他によって再評価され、その擬制の思想は、現代文学理論の一つのキー概念として注目されるようになってきている(3)。また法学などの実利的分野では、擬制という概念は、重要な役割を果たすものとしてすでに定着している(4)。

 

われわれの日常生活では、厳密な認識を求めるのではなく、効率的に思考・判断するために、便宜的に構成された概念・枠組みを利用している。例えば、厳密な直線や円は現実には存在しないが、理想化された概念として、直線や円を定義し、あたかもそれが実在しているかのように考えることで、幾何学の体系を作りあげている。同様にして、宗教や道徳を基礎付けるものとして、現実には存在しない「神」という超越的存在概念を作りあげ、それを基にして、祭礼や社会制度を構築しているのだとする理解の仕方も可能であろう。このように、現実には存在しないが、あたかもそれが実体として存在するかのように見なすことで、種々の功利性を得ることができるものを、フクション(虚構、擬態、擬制)とよぶ。ここでは訳語として“擬制”を用いよう。

鴎外の創作『かのやうに』では、秀麿と綾小路の議論は、この擬制の問題を中心に展開していく。「宗教でも、もう大ぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのやうに考へると云ってゐる。孔子もずっと古く祭るに在すが如くすると云ってゐる。先祖の霊があるかのやうに祭るのだ。さうして見ると、人間の知識、学問は扨置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立してゐる。即ちかのやうにが土台に横はってゐるのだね」としてあらゆる思考や意志決定の根底に、“かのやうに”が横たわっていることを確認しつつ、「昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたやうに、僕はかのやうにの前に敬虔に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純粋な感情なのだ。道徳だってさうだ」。

しかし綾小路は、この秀麿の言葉を聞いて、「駄目だ」と簡単に一言いった。この作品について、秀麿が鴎外の分身であろうとするのが、一般的であるが、綾小路もまた鴎外の分身であると受け止めて置くべきであろう。そして、「なぜって知れているぢゃないか、人に君のような考になれと云ったって、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てゝ、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思ってゐる。………みんな手応のあるものを向うに見てゐるから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ」という言明から明らかなように、鴎外はイヒンガーの「かのやうにの思想」は、事実性や生の意識の裏付けがない限り、所詮そのままでは、力強い行動や生の充溢の意識へと、人を駆り立てる説得力を持ち得ないと考えていたのであろう。

 

二十世紀初頭に、ドイツ哲学会で正統的立場にあった新カント派は、認識論や文化科学について、精緻な思想体系を作りあげてはいったが、次第に思想界での指導性を失っていき、認識の本質についてのより精緻な分析を追求していった、現象学がこれに取って代わろうとしていた。しかしまた他方で、これと正反対の方向をめざすものとして、直接生の充溢をもたらすものにのみ価値を認めようとするデルタイやニーチらの、“生の哲学”や、さらには“実存思想”が関心を集めるようになっていた。

 鴎外は東洋の伝統的精神文化を継承しつつ、さらに新しい時代に即応したものへと再構成していくのが、自らの使命であると考えていたが、明治期の我国における道徳観や伝統文化の継承が、因習的な立て前に終始し、いきいきした創造性を欠いたものになっていることに飽き足りないものを感じていた。そして、鴎外はこの後、『興津弥五右衛門の遺書』、『阿部一族』などの、生の意義を直接追求しようとする文学領域へと転進していった。

 

四.      政治の狭間で

〈 教科書国定化 〉(5)

明治政府は、最初期のころから、義務教育制度を最重点政策として推進していったが、その教科書は、はじめは自由採択制であった。その後、報告制、認定制、を経て、十九年には検定制となった。しかし、明治三十五年に教科書疑獄事件が起こり、菊地文相が辞任すると、当時内相をしていた児玉源太郎が文相を兼務した。陸軍はもともと国民意識の昂揚が国防の基礎であるとして、教育問題に強い関心をもっていたので、その下で教科書国定化の動きが加速され、教科書調査委員会が設置された。このようにして作られた第一期国定教科書は、文部省が編修だけをおこない、刊行は民間にまかされた。しかし、第一期国定教科書は緊急に作られたものであるだけに問題も多く、とくに三十七年から使用が開始された国定修身教科書は、個人や社会倫理が重視され、推進されていたために、枢密院を中心に批判が持ち上がり、穂積八束がその中心になって、改訂を強く求めていった。

 

穂積八束は、伊予宇和島の出身で、明治十六年に東大文学部政治学科を卒業し、翌十七年に、欧州制度沿革史および公法学専修のために、鴎外と同じ船でドイツに留学し、二十二年に帰国、その直後に法科大学の教授に任じられた。

二十五年に発表した「祖先教ハ公法ノ源ナリ」で、我国の秩序、活動の原則は、祖先教に基づいた家族関係から生まれ育ってきたもので、祖先教は我国体の基礎であるとする、家族国家論を唱えた。このようにして、穂積八束は、山県有朋らの保守的伝統主義グループの理論的支柱の役割を担っていった。そして、我国では「国体」と「家制」そのものが倫理・道徳の基礎となっているとし、教育問題に強い関心を示すようになっていき、二十六年に教科用図書審査委員に任じられるなど、教科書問題にも早くから係わっていた。

このような立場からの批判を受けて、文部省は教科書の改訂に取り組み、四十一年九月に文部省に、新たに教科用図書調査委員会が設置された。小学校用教科書の修身(第一部)、歴史(第二部)、国語(第三部)について、各部の定員を九名以内とし、そのうち四名以内を起草委員とし、若干名の補助起草員を置いた(九月二十二日官報)。委員の一部は主査として、各部の起草委員が起草した案を評議した後に、総会に提出し、その議決を経て、文部大臣の裁可を得た後に印刷されることになるが、鴎外は第一部の主査委員に任じられた。また大島健一はすこし遅れて、第二部の委員となった。

〈 南北朝正閏問題 〉(6)

 日本史教科書での問題点の一つに、南北朝の取り扱いがあった。実証史学の立場に立つ『大日本資料』等の成果を踏まえた学会の大勢が、南北朝並立論であったことから、三十六年度版の「尋常小学日本歴史」では、両朝並立の立場がとられていたが、とくに問題を引きおこすこともなく、四十二年の改訂版でもこの立場が継続された。これらの教科書の起草に当たったのは喜田貞吉で、主査は三上参治であった。

教科書調査委員会内部では、北朝のみに正式の皇位を認める北朝論者、南朝のみに正式の皇位を認める北朝抹殺論者はいずれも少数で、大部分は、南北並立論または南正北閏論であった。これらの立場の違いは、史実の解釈の他に、法理論の差によるものもあり、一概にその当否を云々することはできない。喜田貞吉の教科書草案も、いろいろな要素を勘案し、さらに各方面の意見を徴した末のものであった(喜田貞吉、『六十年之回顧』)。

 

ところが、大逆事件が勃発すると、天皇制の正統性に関心が向けられるようになり、このような動きを受けて、代議士藤沢元造が質問書を衆議院に提出し、三種の神器と皇統の正統性の関係、南北両朝の並立と正当性、教科書の記述の妥当性などについて、文部省の見解を明らかにすることを求めた。しかし、政府としては「天皇ハ神聖ニシテ冒スヘカラス」との憲法の規定からも、議会で皇統問題が議論されることは由々しきことであるとして、それを回避しようと、藤沢代議士の説得・懐柔に努め、その結果として、藤沢は質問書を撤回し、代議士を辞職した。これを見た野党側は四十四年二月二十一日に政府弾劾案を提出し、犬養毅がその趣旨説明にあたった。また読売新聞、万朝報などが、「我国に於いて皇位は絶対なり、一あるべし、二あるべからず、天に二日無しと云へる如く…・・」と、南朝正統論の立場から、激しく文部省の姿勢を攻撃した。このようにして、一部の世論は、正確な史実を知らないままに、忠臣楠正成を抹殺しようとするものである、などの扇情的言論にあふられ、執筆者喜田真吉に、幸徳の一味、国体を破壊し国家の転覆を謀る者、というような脅迫状を送りつける有様であった。

このような騒然とした状況下に、井上通泰は常盤会仲間の賀古鶴所や市村瓚次郎を誘って山県公を訪問し(二月二十五日)、南朝正統論に決すべきことを説いた。山県公はそれまで、事態をそれほど深刻なものとは考えていなかったのであろう。この後の山県の行動はすばやく、徹底したものであった。もともと山県公は吉田松陰の薫陶を受け、水戸学の影響下にあっただけに、南朝に近親感を持ち、熱烈な天皇親政論者であり、皇位継承の名分を重視していたので、現皇統が北朝に属するとしても、「大義親を滅す」であるとして、桂首相を督励し、三月一日には、枢密院は北朝五帝は御歴代中に記載せず、政務上の関係は総てこの方針に依り処理すると決定し、三日には明治天皇の裁可を得てしまった。

 

一方これに対して、二月二十三日の鴎外日記には、「賀古鶴所来て市村瓚次郎、井上通泰の二人と古希庵を訪ひ、南朝正統論をなすべきを告ぐ」と書かれていて、賀古から一緒に古希庵へ行くよう誘われたにもかかわらず、行かなかったことを示している。鴎外は、後の大正十年に公刊した『帝謚考』でも南・北朝並記の立場をとっていて、多分に史実を無視した、心情的な北朝抹殺論に批判的であったのは明らかである。教科書委員会の歴史部門の主査を勤めていた三上参次は、二月十七日の「時事新報」の談話記事で、“歴史を以て道徳を説くのは甚だ必要なことである、けれども其れは歴史上の事実を曲げざる限りに於いての事である。事実を知らず若しくは誤解し曲解し之に基づいて道徳を説くやうなことがあっては、それは一時に有力であるかも知れぬが必ずや早晩其権威を失墜するのである”(要旨)と述べている。修身部会の主査として、総会にも立ち会い、問題点を熟知していた鴎外も、思いを同じくしていたのであろう。そしてこれこそが、鴎外が創作『かのやうに』で主張しようとした主題であった。

 

桂首相と小松原文相らは、山県公の意を受けて、二月二十七日に、北朝の光厳天皇以下の五天皇の歴代表からの削除を含む、教科書の改訂方針を閣議決定させ、起草者の喜田貞吉は調査委員を罷免された。続いて、三月六日の教科書調査委員会歴史部会、八日の同総会で、文部省は北朝抹殺論の立場を強引に押通し、同十四日には師範学校教授要目中の時代表記を「南北朝」から「吉野朝」と変更することを決定した。三月十一日に歴史部会の主査三上参治が辞任し、代わって穂積八束(兼任)、小笠原長生、三宅米吉、清水澄、ら北朝抹殺論に近い委員が歴史部門の新委員に任じられ、重田定一が北朝抹殺論の立場で起草にあたった。新委員による歴史部会案は、七月七日から二十一日に渉り、総会で審議されたが、加藤弘之調査委員会会長をはじめ山川健次郎ら東大系の委員は、『大日本資料』などに見られる史実を重視する立場から、南北朝並立論であり、他の委員の大多数は南正北閏の立場をとっていて、北朝抹殺論を主張したのは、穂積八束の他には、陸軍の大嶋健一、海軍の小笠原長生の他、船越衛ら、軍関係の少数者のみであった。しかし文部省は、小松原文相の責任で、北朝抹殺論の立場に沿った教科書改訂案に政治決着してしまった。

このような決定の背後にあったのは、一部の扇情的ジャーナリズムにあふられた一部輿論・政治家達、さらに、大義名分を重視する山県やその周辺にいた官僚と軍人達の動向であり、その理論付けを行ったのが、穂積八束であった。南北朝問題、教科書問題での、鴎外の立場については、いろいろの見方が提出されてはいるが、大嶋健一らの軍関係委員と一線を画する姿勢を取っていたことは明らかである。 

〈 帝国憲法と教育勅語の国体観 〉(7)(8)

 南北朝正閏論争は桂内閣の屋台骨を揺るがす大事件となっていったが、『かのやうに』はこのような紛争が、北朝抹殺論に沿うかたちで決着した後の、四十五年一月に中央公論に発表され、明治政府中枢部の歴史認識と皇室の問題が根本的に問い直されていった。

この作品に関連して、長男の森於菟は、『明治大正文豪研究』の座談会の内で、“山県公は、鴎外の「神様といふものは科学的に言へばないけれども、あるもののやうに考へなければいけない」、と言っているのを聞いて、こいつは何でも出来る人間だが危険な人物ではないといふ訳で気を寛かに心易くした。西園寺さんも褒められて、森といふ男は放って置けば駄目だけれども、叩けば叩くほどいゝ音のする男だと言ったさうです。山県さんも昔だったらこんな事を聞いても横を向くのだけれど、この時は喜ぶ側の人になってゐた、と賀古さんがが言ってゐました”、と語っている(9)。明治末年には、於菟はまだ医学生で、政界の状況などを正確に把握することが困難だったのか、この談話は全体にあまり正確なものではないが、近親者にしか知り得ない情報を含むものとして貴重であり、山県、西園寺両公が「かのやうにの哲学」に肯定的な関心を示したということは重要なことである。

すなわちこのことは、これら当時の最高権力者たちが、創国神話や万世一系の皇統を、その儘歴史とは信じていず、それらは実体を伴わない擬制でしかないことを承知の上で 、憲法や教育勅語、戊申詔勅をその上に作りあげ、国民にその遵守を強要してきていた事の居心地の悪さ、弱さを十分自覚していただけに、「宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立している」と主張する「かのやうにの哲学」が、そのような状況を肯定する理論として、関心をそそったことを示している。

 

明治維新の当初は、「神武創業の始め」の精神に立ち返るとして、祭政一致を唱え、神祇官に太政官と同等またはそれ以上の地位を与えていたが、神道に新しい時代に必要な指導性が欠けていることが明らかになっていき、また信教や良心の問題に国家が立ち入るべきではないとする開明的意見が強くなってくると、明治政府は“神道は宗教に非ず”と主張し、“国事のための祭典・儀式”、“国民のすべてが踏み行うべき倫理”であるとして、全国民にその遵守を求めていった。(110)

伊藤博文は、憲法草案の枢密院での審議に際して、“欧州に於いては憲法政治の萌せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心これに帰順せり。然るに我国に在りては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるものなし。………………・・我国に在りて機軸とすへきは独り皇室あるのみ。是を以て此憲法草案に於いては専ら意を此点に用ひ君権を尊重して成るべく之を束縛せざらん事を勉めり”と述べ、この当時憲法制定に係わった元勲達が、神道に思想的指導性が期待できないのを見て取ると、新しい時代に相応しい天皇制を擬制として構築し、それを中核とすることで、国際情勢に対応できるような政治体制を作りあげることを意図していたことを示している(稲田正次、明治憲法成立史)。

枢密院での審査が終了した後、その逐条説明書が作られ、伊藤博文の名義で二十二年六月に『大日本帝国憲法義解』の表題で、金港堂、他から発行された。そこでは、枢密院での審議過程での冷厳な国際情勢分析とは大きく異なって、「我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し、古今永遠に亘り、一ありて二なく、常ありて変なきことを示し、以て君民の関係を万世に昭かにす」、「文武天皇即位の詔に、…・・『天下を調へたまひ平けたまひ公民を恵みたまひ撫でたまはむ』とのたまへり。世々の天皇皆此の義を以て伝国の大訓としたまはざるはなく…」と、記紀に準じた表現で擬制像が語られていった。

このように見てくると、鴎外の作品『かのやうに』における議論の進行過程は、伊藤らのグループによる『憲法草案』作成時における国際環境についての現状分析と、擬制としての『義解』との間の関係と、完全な平行関係にあると云ってよいであろう。

このように、鴎外が『かのやうに』中で示した見解は、憲法制定過程を熟知していた、山県や西園寺から見れば、すでに自ら拳拳服膺してきた、当然の政治姿勢であり、したがって、それは元老達の目には、なにら目新しいものではなく、ただそこに示されている的確な政治の本質理解に、それなりの評価を与えたのであろう。後年、丸山真男が『かのやうに』について、「天皇制の虚構をあれほど鋭く鮮やかに表現した点で、鴎外は特殊な知識人のなかでも特殊であった」(11)と述べているのは、この点に係わるものなのであろう。

明治の元勲達は、天皇に人間的な親しみを感じていたが、神格化することはなかった。ベルツ日記の明治三十三年五月九日の条に、「一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤いわく『皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである」(岩波文庫)と書かれている。元勲達は天皇像を、『憲法』や『義解』に説かれているように、神格化して跪拝することはなく、それはあくまでも擬制でしかないという、擬制と実体の乖離の現実を、冷厳に直視する現実主義精神を備えていた。

しかし、擬制の本質について、鴎外が綾小路の口を借りて主張した、擬制は所詮擬制でしかなく、実体の裏付けや合理性を欠いた擬制は、畢には実効性を持ち得ないとする見解は、政治の場での理性の効用について、あまりにも楽天的に過ぎ、その後の歴史の経過の中で裏切られていくことになった。

 

たとえば、山県らの権力者たちが、憲法発布後に取った、思想善導策としての教育勅語は、「かのやうにの哲学」を先取りした思想教育であったが、それは時間と共にその効力を拡大していき、作成者の意図をさえ越える形で、國の命運を決定づけるものとさえなっていった。憲法発布後の二十二年二月に開かれた地方長官会議では、議会の開設を控えての民権運動の昂揚に、人心の動向を計りかねていた知事達から「徳育涵養の義につき建議」が提出され、文明開化の知育に偏した教育への批判と、倫理・道徳教育の強化の要望がだされた。山県首相は、地方長官会議の要望に応えて、文部大臣を更迭し、天皇から求められた「教育上の基礎となるべき箴言」の起草を促進し、井上毅と元田永孚の緊密な協力の下に『教育勅語』が完成した。この『教育勅語』の国民思想に及ぼした影響は甚大なもので、我国の以後の命運を決するものとなった、と評する論者が少なくない。例えば副田義也は、「教育勅語の冒頭に掲げられた国体の理念は、明治維新という社会革命を先導したユートピア思想であり、一君万民思想の平等主義にその第一義的特質があった。また、それにつづいて説かれている諸規範は、伝統的倫理規範と新時代の到来を感じさせる新しい倫理規範が組み合わされていた」と、その理念を高く評価している。おそらく起草者の井上や元田の脳裏には、そのような理想像が描かれていたのであろう。そして『かのやうに』のなかで秀麿が、敬虔に頭を下げると云った擬制も、このようなものだったのであろう。

しかし、 “この教育勅語の国体の理念は、政治の場で実行に移されたときに、国家官僚の統治を天皇の名によって絶対化するものであり、明治国家の支配体制を正当化し維持するためのイデオロギーに転化した。そしてまた、教育勅語が説く倫理規範には、市民社会の倫理規範のうちの重要な自治・自由の精神、権利の主張、貨財の利殖、の三つの規範が欠けていて、これら二つの基本的性格が互いに原因となり結果となって、半世紀のうちに日本帝国亡国の原因の一つとなった” と副田は結論している。(12)

もっとも、実際の亡国のメカニズムはもっと複雑であって、たとえば皇国史観のようなフアナテイックな思想が、どのようにして教育勅語から生み出されていったのかというプロセスも、もっと精緻に追跡されるべきであろうが、ここでは踏み込まない(11)(13)。

小泉浩一郎が「鴎外が山県に向かって訴えたかったのは、合理主義を梗塞して進行する天皇制秩序が将来の国民的精神構造にもたらすであろう近代的合理主義の破産―――ひいては天皇制フアッシズム到来の予感ではなかったであろうか」と書いているのも、このような認識に基づいたものであろう。

〈 『かのやうに』以後の展開 〉

穂積八束は、大正元年に、健康上の理由から退官するが、その国家論、憲法学の後継者となったのは上杉慎吉であった。上杉は明治三十一年に法科大学に入学し、尊皇論を背骨とする穂積八束の思想に感銘を受けたが、はじめは学説的には師の説に批判的で、国家法人説を奉じていた。しかし、欧州留学で昂まった国家意識、西欧と日本の断絶感、政党政治の現実から、帰国後は、師穂積八束の思想に回帰し、天皇統治の絶対性と天皇親政主義を中核とする思想を発展させ、国家法人説、君主機関説を排斥し、政党政治を批判し、政治活動の実践にも関心を示すようになっていった

大正初年に西園寺内閣が陸軍増師問題で総辞職し、替わって第三次桂内閣が発足すると、各地で増師反対護憲大会が開かれ、いわゆる第一次憲政擁護運動が全国的昂まりをみせ、遂に桂内閣は退陣に追い込まれた。このような情勢に危機感を抱いた藩閥系の政治家、官僚、軍人達は、上杉の政治面での活動を側面から援助する目的で、桐花会を設立した。大正二年四月に、その創立準備会が開かれたが、大嶋健一はそこで座長を務め、それ以後も、その運営に中心的役割を果たしていった(14)。このような援助の下に、上杉らは、その思想を広めるための講演会、地方出張演説会を開催するなどの活発な活動を続けていった。

 

大正四年末には、陸軍省医務局の人事は混迷状態にあって、同年十二月五日鴎外宛の賀古鶴所の書簡には、山県公がこの問題に心配している様子が記されている(15)。そこでの中心問題は補充規則改定で、これは各師団の軍医の人事権を、医務局長から取り上げ、各師団長に移そうとするもので、法的にはこのほうが筋が通っているとして、明治末年にも、軍首脳と鴎外の間が緊迫し、鴎外が辞意を表明したことがあったが、この問題が鴎外の辞任に絡んで再燃した。賀古書簡の内容は、鴎外の後継に以前から内定していた鶴田禎次郎も補充規則改定に強硬に反対していることから、朝鮮総督府にいる芳賀栄次郎が妥協的姿勢を示しているので、これを中継ぎとして呼び戻し、この問題にけりを付けようとしていた岡大臣の思惑に係わるものである。結局のところ、鴎外の辞任には、大嶋次官との思想的ずれ、脚気問題、補充条例改正問題、後進に道を譲る、などのいくつかの要素が複雑に絡み合っていて、陸軍首脳部の真の意図が奈辺にあったのかはっきりしない。唐木順三は、この辞任に係わる、鴎外の屈曲した心情について種々忖度している。

とにかく、大正四年十月二十二日に、鴎外は大嶋次官に辞任を申し出、翌五年四月十三日に辞任が正式に発令された。この辞任に絡んで、鴎外に貴族院勅撰議員推薦の件が取り沙汰され、いくつかの新聞辞令では選出は確実とされ、また賀古の鴎外宛書簡にも、何度か、確実であるとの情報がある旨が伝えられていたが、結局選出されなかった。

勅撰議員は、山県の貴族院工作の切り札として、極めて重要なものであり、その選出には、山県の意向が強く反映していた。鴎外は若年の頃から、士大夫意識が強くあり、政治に直接参画したいとの意欲を持っていたが、先にあげた森於菟の談話からも窺えるように、山県は鴎外が有能であることを認めてはいたものの、独自の思想を持ち、ときに権力に対して批判的になることも辞さない態度に、警戒心を抱いていたのであろう。そして結局のところ、直接政局に係わりを持たない帝室博物館総長・図書頭に任じられた。

 

鴎外の辞任と期を同じくして、大嶋は陸軍大臣に就任した。大嶋健一は岩村藩の出身で、長州閥ではなかったが、日清戦役では第一軍副官となり、ここで山県に認められ、以後参謀本部畑で累進し、山県公の秘蔵っ子と云われていた。大嶋が教科書調査会委員を勤めたのは、参謀本部総務部長の時期であったが、四十五年四月参謀次長、大正三年四月に陸軍省の次官に就任していた。

各種談話録や追想録から窺える山県公の国体観や政治観は、目配りのきいた、柔軟な度量を備えていて、決して昭和期に見られる、天皇を現人神とするような、皇国史観的な、フアナテイックな皇室論者ではなかったが(本記念会通信、一三二、平成十二・十)、教科書問題で北朝抹殺論にまで踏み切っていったのは、政治の場での混乱を収拾するためには、結果的に極論にまで走らざるを得ないと判断した結果だったのだろうか。そして、その周辺にいた大嶋らの追従者達には、柔軟な対応をとる雅量もなく、一層フアナテイックな過激な行動に走ることになったのであろうか。

一次大戦末期に、シベリヤ出兵問題がもちあがると、山県自身は慎重論を唱えていたにもかかわらず、大嶋陸相は参謀次長の田中義一らと組んでシベリヤ出兵を強行し、米騒動、ひいては寺内内閣瓦解のきっかけとなった。また第二次大戦前の日独伊三国同盟締結に積極的役割を果たすなど、外交関係に大きな問題を残した。一方、小笠原長生は唐津藩主小笠原長行の長男で、主に軍令部畑で勤務し、東郷元帥の側近と云はれ、大正年代に東宮御学問所幹事、その後宮中顧問官を勤めた。二・二・六事件では西田税との誼で宮中および海軍工作を行い、海軍のなかでは、陸軍の皇道派に最も近かったといわれている。(16)

結局、南北朝正閏論で北朝抹殺論を唱えた大嶋健一や小笠原長生らは、その後もフアナテイックな皇室論を保持しつづけ、昭和に入ると皇国史観と呼ばれる特異な思想の下に政治に関与し、日本の命運を左右していった。

 

(1)村岡 哲、レオポルト・フオン・ランケ、創文社、昭和五八・三

   岸田達也、ドイツ史学思想史研究、ミネルヴァ書房、一九七六・六

(2)大久保利謙歴史著作集7、『日本近代史学の成立』、吉川弘文館、昭和六三・十

大久保利謙編、久米邦武の研究、吉川弘文館、平成三・十一

(3)フランク・レントリッキア(秋山淳彦、他訳)、

ニュークリテイシズム以後の批評理論(上)、未来社、一九九三・二

(4)来栖三郎、法とフイクション、東大出版会、一九九九・五

(5)仲 新、近代教科書の成立(復刻版)、日本図書センター、昭和五六・四

三井須美子、都留文科大学研究紀要、三九、一九九三

(6)山崎藤吉他編、南北朝正閏論纂、帝国軍友会、明治四四・十一

喜田貞吉著作集十四、『六十年之回顧』、平凡社、昭和五七・十一

小松原英太郎君伝記編纂実行委員会、小松原英太郎君事略

(原著 大正十三年刊)、大空社、一九八八・十

山本四郎、史林、五六(三)、一九七三・五

小山常実、日本の教育史学、三十、一九八七・十

(7)稲田正次、明治憲法成立史(上、下)、有斐閣、昭和三五・四、三七・一

坂本一登、伊藤博文と明治国家形成、吉川弘文館、平成三・十二

(8)海後宗臣、教育勅語成立史の研究、東京大学出版会、一九六五

梧陰文庫研究会編、明治国家形成と井上毅、木鐸社、一九九二・六

(9)新潮社編、明治大正文豪研究、新潮社、昭十一・九

(10)草津珍彦、国家神道とは何だったのか、神社新報社、昭和六二・四

(11)丸山真男、日本の思想、岩波新書、一九六一・十一

(12)副田義也、教育勅語の社会史、有信堂、一九九七・十

(13)たとえば、丸山真男集第三巻所載、『超国家主義の論理と心理』、

岩波書店、一九九五・九

(14)吉田博司、近代日本の政治精神、芦書房、一九九三・一

(15)『賀古書簡』、鴎外、二、昭四一・三

(16)田中宏己、防衛大学校紀要 人文・社会科学編、通号五二、一九八六・三

 

 

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