武士道 と ニーチエ     安川民男

                  

 

  1. は じ め に

    鴎外はニーチエの我国への紹介・受容に最初期の頃から係わってきていたが、その立場は時とともに変化していた。それらについて、本記念会通信、他で、これまで断片的に何回かにわたって触れてきたが、ここでは初稿本「興津弥五右衛門の遺書」を中心に、鴎外の倫理観や武士道観とニーチエの関係について検討しておきたい。しかしその前に、何故ニーチエが特に問題にされるべきかについて、その意義を整理、確認して置こう。

 

十九世紀中頃に我国は開国したが、そこで当面したのは、当時その頂点に達しつつあった近代西欧文明であり、その科学・技術、産業力や近代的政治・経済システムは、すでにアジア、アフリカなどの非西欧諸国を席巻しつつあった。そのような状況に遭遇して、我国は、「脱亜入欧」のスローガンの下に、西欧文明の積極的採用に邁進していったのはそれなりに妥当な選択であった。しかし十九世紀末には、西欧諸国で、その文明が内包していた諸矛盾が、徐々に表面化するようになっていた。その一は、経済的・社会的矛盾であり、他の一つは、精神的・文化的閉塞状態であって、後者に対しての深い洞察を示したのがニーチエであった。すなわち、西欧文明の基礎になっている古典ギリシャ哲学の形而上学や、この思想により体系付けられたキリスト教神学が、永遠の真理や神の存在を確約したが、その嫡出子として、ルネッサンス以降に生み出された実証的合理主義精神が、やがて神を否定し、さらには神を根拠として形成されていた倫理観・文化的価値観をも揺さぶり、社会を混迷状態に陥し込んでいった、とニーチエは断定した。「悦ばしき知識」には、自らの手で、自分の導きの星である神を殺した男が、白昼に提灯を手に、市場の中を「俺は神を探している」と叫びながら駆け回っている情景が描かれている(「悦ばしき知識」第三書 一二五)。    

    それまで全く疑う余地のないものとされてきた道徳の基準や生の目的を見失った混迷状態を、ニヒリズムと呼び、西欧文明の根幹となってきたギリシャ的形而上学やキリスト教神学の枠組みを越えて、全く新しい思想を構築しようとすることを、ニーチエは積極的ニヒリズムと呼んだ。そこでは絶対的な価値の存在が否定され、それに代わるものとして、生の充溢の意識を最終的な価値判断の基準とすることが主張された。

 

一方、十九世紀末には、北欧、東欧などの周辺諸国や非西欧諸国は、西欧諸国から政治・経済的にまた文化的に、陰に陽に後進国として圧迫され、種々の面で歪みが増大し、顕在化するようになっていた。このような状況下で、その圧力をはね除け、自らのアデンテを確立しようとするときに、生の根源にまで遡って西欧近代を批判しているニーチエの思想が、有力な手懸かりを与えるものと受け止められるようになっていった。ストリンドベリらのニーチエへの敏感な反応はその例と云って良いであろう。鴎外の中期以後の、ニーチエや北欧の作家達への強い関心も、この線に沿ったものであった。

 しかも、ニーチエは、一切の伝統的な社会的・文化的制約を超えて、生の原理に直接基礎を置こうとしていたために、非西欧諸国での、民族主義や前近代的桎梏からの解放を求める動きにも有効な指針を与えるものとなっていた。例えば、魯迅が辛亥革命以後も依然として、前近代的な共同体意識と因襲に閉じこめられている一般大衆の精神の深淵を、鋭く解剖していくことが出来たのも、このような根源的な生の意識にまで遡り、それを原点としたためであった。

 

    このようにしてニーチエの思想は、その奇矯で逆説的な表現の多用にも係わらず、次第に広範囲の人々の注目を集めるようになっていった。「私が物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。この歴史はいまではすでに物語られうる。必然性自身がここでははたらきだしているからである。この未来はすでに百の徴候のうちにあらわれており、この運命はいたるところでおのれを告示している。未来のこの音楽にすべての耳がすでに耳をそばだてているのである。私達の全ヨーロッパ文化は長いことすでに、十年また十年と加わりゆく緊張の拷問でもって、一つの破局をめざすがごとく、動いている」(権力への意志、序言)と書き残しているが、誇大妄想とも見えるこの言説も、ニーチエの思想が、ハイデッガーやデリダらによる、その後の思想革新の火種となり続けてきているという歴史的事実が、その意義の大きさを確証している。(1)

 

2.「妄想」 の中の ニーチエ像

 

明治四十四年に「三田文学」に掲載された「妄想」は、精神的自伝の色彩の濃い作品であるが、鴎外の事績からずれている所が少なくなく、むしろ同時代を旅した、一つの仮想的な精神の閲歴と発展を示した「詩と真実」と捉えるべきであるとされている(2)。

 この作品の中に、主人公のニーチエに対する見解がまとまって示されていて、

「生の意志を挫いて無に入らせようとする、ショオペンハウエルのQuietiveに服従し兼ねてゐた自分の意識は、或時懶眠の中から鞭うち起された。それはニーチエの超人哲学であった。併しこれも自分を養ってくれる食餌ではなくて、自分を酔はせる酒であった。

 過去の消極的な、利他的な道徳を家畜の群の道徳としたのは痛快である。…・併し理性の約束を棄てて、権威に向ふ意志を文化の根本に置いて、門閥の為め、自我の為めに、毒薬と匕首とを用ゐることを憚らないチエザレ・ボルジアを、君主の道徳の典型としたのなんぞを、真面目に受け取るわけには行かない。その上ハルトマンの細かい倫理説を見た目には、所謂評価の革新さへ幾分の新しみを殺がれてしまったのである。そこで死はどうであるか。『永遠なる再来』は慰謝にはならない。ツラツストラの末期に筆を下し兼ねた作者の情を、自分は憐んだ」と書かれている。

これより少し前のところで、「自分は辻に立ってゐて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの後に付いて行こうとは思はなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢はなかったのである」と述べていることを考え合わせると、〈ニーチエの思想は、自分を養ってくれる食餌ではなくて、自分を酔はせる酒であった〉という言明は、ニーチエの思想から、直接骨肉となって、生涯にわたり思想の中核となる、指導理念や思想内容を得たというよりは、新しい視点や活性化エネルギーをそこから受け取ったという、批判的摂取を意味していると受け止めるべきなのであろう。それらを整理すると、

(一)「ツラツストラ」に示されている思想は、十分に成熟したものとは云えない、

(二)ニーチエの、「権力への意志」に基礎を置く政治思想や実践倫理は多分に奇矯であり、理念としてはとにかく、そのままでは実行に移せるものではない、

(三)永遠回帰の思想は、特別の新鮮さという印象を与えなかった、

としてよいであろう。

 

一般的に云って、ニーチエの真骨頂は、その鋭い近・現代文明の批判にあり、その点で批判精神をかき立てる強烈な酒ではあるが、実践倫理としての建設的指針を与えるものではなく、たとえば、最も具体的にその思想が述べられている「ツラツストラ」にしても、そこから、直ちに実践に移せるような具体的行動指針を得ることは困難であろう。この作品は未完であると考えられていて、この後に、己の思想を教え広め、さらに実践に移すという生涯が続くはずであったが、鴎外、さらに正確には主人公、が「ツラツストラの末期に筆を下し兼ねた作者の情を、自分は憐んだ」と書いたとき、ニーチエの思想は、この作品をそのような形で完成させられる程には成熟していなかったと考えていたのであろう。ニーチエはその主著を未完成のままに残して、四十四歳で精神錯乱に陥入っていった。

鴎外が、「ツラツストラ」を読むときには、比較の対照として、いつもゲーテの「フアウスト」が念頭にあったのではないのだろうか。鴎外はドイツ留学当時から「フアウスト」に強い関心を寄せていて、いつかは自分で翻訳したいと考えていた。そして四十五年一月に、鴎外は「フアウスト」の翻訳を完成させている。フアウストも、理想追求の激しい情念に突き動かされていたが、幾多の試練を克服しながら、最後には理想の政治を実現させるために領国を建設し、運営していく有様が、その末期に至るまで、具体的に描かれている。これと比較すれば、「ツラツストラ」には、人間の本性への鋭い洞察が見られるにしても、そこに未熟さ、物足りなさを感じていたのであろう。

チエザレ・ボルジアを君主の道徳の典型としたのは、マキアヴェリの「君主論」であるが、ニーチエはそれについて「トデスと、おそらくマキアヴェリの『君主論』とが、おのれをなんらごまかさずーー『理性』のうちに、まして道徳のうちにではなくーー事実性のうちに理性をみとめる無条件的な意志によって、私自身と最も血縁が近い」(「偶像の黄昏」、私が古人に負うところのもの 二)と書き、マキアヴェリの強い現実直視の姿勢を高く評価しているが、直接チエザレ・ボルジアの政治的行為を是認してはいない。したがって、「妄想」のこの部分の記述は微妙である。それはとにかくとして、鴎外は、政治思想としての所謂マキアヴェリズムに警戒心を抱いていたようで、小倉に在勤中に著した「倫理学説の岐路」の中でも、そのような君主道徳に批判的な見解を示している。これと同じ時期に書いた「人主策」は「君主論」の梗概であるが、これも歴史的背景から離れた、一般論としてのシニカルな君主の処世術としてまとめられている。

鴎外の理想とした君主像は、「貞観政要」や、「かのやうに」の中に描かれているドイツ皇帝と神学者ハルナックの関係に見られるような、君臣間の相互の信頼と対話を基礎にしたものだったのであろう(これは一種の理想化であって、現実のウイルヘルム二世が極めて“デモオニシュ”であることは鴎外も承知していた、「妄想」)。

一般的に云って、明治・大正期の我国では、ギリシャ思想やキリスト教文化の伝統についての素養がまだ乏しかったために、それを批判・否定したニヒリズムや永遠回帰の思想が西欧思想に与えた衝撃や、近代主義に対する批判の意義を、十全に把握することができず、さらに、儒教、佛教の伝統が人々の意識の奥にまで浸透していたために、ニーチエの理解や摂取に、自ずと影響を及ぼすことになった(3)。後に和辻哲郎は、〈西欧文化がキリスト教を基礎にした堅固な構造をもっていることに言いしれぬ圧迫感を受けていたので、ニーチエがキリスト教を根底から否定しているのを見て開放感を味わった〉と言っている。このように見てくると、鴎外がニーチエから受け入れたものは、もっぱらその根底にあった「生の哲学」だったと云ってよいであろう。我国における高山樗牛、和辻哲郎、阿部次郎とつながるニーチエ受容の歴史を通じて、この傾向が顕著に見られることが指摘されている(4)。

「生の哲学」はドイツ・ロマン主義を源泉として、十九世紀末に、ディルタイ、ニーチエ、ジンメルやベルグソンらを中心にして起こってきた思想潮流で、近世哲学が一貫してそれを基礎にしてきた、精神、理性、永遠の真理、などのギリシャ的な明晰な概念を否定し、人間の知能は、人間の本質である生命が、不断の創造を行うための手段であり、“生”にとっての価値こそがすべての価値判断の基準であると主張した。ニーチエは、この“生”を“大きな理性”と呼び、「わたしの兄弟よ、君が『精神』と名づけている、君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きな理性の小さな道具であり、玩具である」(「ツアラトウストラ」第一部、肉体の軽侮者、手塚富雄訳)と云っている。

 

3. 初稿本「興津弥五右衛門の遺書」の世界

 

 四十五年九月十三日の、明治天皇の大葬当日の乃木将軍の自刃は鴎外にとって大きな衝撃であった。乃木希典との交遊はドイツ留学以来のものであり、公私にわたっての、深い心の交遊があった。

 十六日に発表された、その遺書は以下のように書き始められていて、

「第一 自分此度 御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候段恐入候其罪ハ不軽存候然ル処明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死処得度心掛候モ其機ヲ得ス 皇恩之厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追ヾ老衰最早御役ニ立候時モ無余日候折柄此度ノ御大事変何共恐入候次第茲にニ覚悟相定候事ニ候」

自刃の第一の理由は明治十年の役の際に軍旗を敵軍に奪われたことであり、それにも係わらず、その後天皇から過分の御優遇を受け、心苦しく思い、死場所を求めていたがその機会を得ることができないままに過ぎてきたので、此度覚悟を定めたと、と述べている。

乃木将軍の辞世は

  うつし世を神さりましし大君の

     みあとしたひてわれはゆくなり

 

  神あかりあかりましぬる大君の

     みあとはるかにおろかみまつる

というものであった。

 大葬の前の九月八日に乃木は山県有朋を訪れ、自家版として刊行し、自ら朱筆で注を書き入れた、山鹿素行の「中朝事実」を、大正天皇に献上したいとして、その取り次ぎを依頼した。そのおりに山県が、天皇崩御に際しての乃木の歌について尋ねたところ、第一の歌を書いて示した。山県は、その時はなにも言わなかったが、後で夫人に「乃木は死ぬ気ではないだろうか」と漏らしたという(5)。明治維新以来、苦楽を共にし、日頃親しく交遊していただけに、山県には、この歌から、乃木の明治天皇との合体を求める古武士的な心情が、手に取るように読みとれたのであろう。

 

 乃木将軍の殉死に対して、軍上層部や華族達には、むしろ困惑の思いがあった。もっともこれには、乃木が跡継ぎがないことを理由に、乃木家の断絶を遺言で求めていたことも関係している。これに対して、国民のほとんどは、これを忠義の極みと受け止めたが、言論界、思想界などの一部には、前近代的行為、明治維新を成功させ文明国となった我国にとっての恥辱、などとして批判的見解を漏らす向きもあった(6)。

 鴎外日記には、九月十三日の条に、

「轜車に扈随して宮城より青山に至る。午後八時宮城を発し、十一時青山に至る。翌日午前二時青山を出でて帰る。途上乃木希典夫妻の死を説くものあり。予半信半疑す。」と書かれている。屍体の処置は男爵石黒忠悳に依頼する旨の遺言があったために、石黒の指示により、鴎外は十四日に鶴田禎次郎らを乃木邸に遣わし、翌十五日には納棺に立ち会っている。十八日の鴎外日記に、「午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を艸して中央公論に寄す。」と書かれていて、この作品は、この多忙な中で、僅か五日のうちに書かれたことを示している。

 

 細川藩士興津弥五右衛門は、茶事のための何か珍しいものを求めてくるようにとの三斉公の命を受けて、相役と共に長崎へおもむいて、丁度入港した南蛮船から香木を買い求めようとした。しかし、その余りの高値に、相役が、武具ならばとにかく、遊芸のために大金を使うのは却って不忠になるのではないかと言いつのり、挙げ句の果てに弥五右衛門は相役を斬り殺し、香木を買い求めて帰国した。

 弥五右衛門は、有能な藩士を死なせたことに責任を感じ、事件の顛末を報告した後で切腹する決心であったが、三斉公は、実利だけが尊重すべきものではないとして、弥五右衛門を庇い、以後も出仕を続けさせ、さらに度重なる恩寵を与えた。その後主君が病死した折りに、恩顧に応えて殉死することを考えたが、ご用繁多のため果たせなかった。主君の十三回忌の今、ようやく種々の懸案も片づいたので、人知れず自害したい、として書き遺したのがこの遺書である。

 

 この作品で用いられた資料や、背景事情については、すでに多くの考察がある(7)。その創作意図としては、乃木の殉死について、一部で表明された批判的見解に対しての弁護、顕彰を目的としたとする見方が、広く受け入れられているが、鴎外はこの当時、武士道の現代的意義について、考察を深めていたので、乃木の殉死に大きな感銘を受けて、身近にあった「翁草」のなかの素材を援用して、急遽この主題を作品に仕上げたという見方もできよう。いずれにしても、鴎外がこの作品に込めた想いを議論するためには、武士道についての、多少立ち入った考察が必要であり、ここでは相良亨の論考集「武士の倫理 近世から近代へ」(8)を中心にしながら、この問題を整理して置こう。

 

【 武士道の再生をめざして 】

今日一般に用いられている広義の武士道という概念は、鎌倉時代に起源を持つ、佛教の影響下に成立した、狭義の(古)武士道と、徳川時代に儒教の影響を受けて体系化された士道に大別できる。

独立した身分としての武士階級が成立したのは鎌倉時代であり、そこでは主君と配下の武士達は、一体となって戦闘を行うのが常態であり、主従の間に強い一体感があり、闘いに敗れ主君が戦死した場合、配下の武士が、その場で自ら後を追うことが希でなかった。古武士、とくに関東武士では、主従の間の一体感は、西国武士に比べて遙かに強く、自分自身ばかりでなく、家族の幸福をさえ主のために犠牲にすることを厭わない「忠あって私なし」という例が、多くの軍記物に描かれている。このような利己主義の克服と全身的献身は、功利的目的を超越した、絶対的価値を持つものであり、生命への執着を棄てることによって、より高次の生を承認しようとするその思想は、仏教によって養われたと、和辻哲郎は結論している(9)。

しかしそれは同時に、戦国時代の厳しさを反映して、人間的信頼関係と冷静な合理主義的判断を基にした現実的側面をも持っていた。そこでは「名」、「恥」が重視され、むしろ経済的利益である所領の拝領や、朝廷からの官位授与よりも優先されることが希でなかった。このような古武士達の倫理観は、各種の遺訓や教訓状に窺うことができ、また軍記、歴史書、などにも書き記されており、なかでも甲府の武田軍団の行跡を記録した「甲陽軍鑑」は広く知られている。

 

これに対して、元和偃武により、徳川幕府による安定した政権が生まれると、武士達には、武力よりも、支配階級としての政治的能力と道徳的師表としての性格が求められるようになっていった。徳川幕府は、このような事態に当面して、それまで武士の精神的支えとなっていた佛教に代わって、儒教に社会的、倫理的指導理念を求めようとした。その中で、武道と儒教を結合させることで、その倫理的側面を高度な体系にまでまとめ上げたものが士道であり、その確立に大きな役割を果たしたのが山鹿素行であった。

素行は、朱子学を林羅山に学んだ後、「甲陽軍鑑」の著者とされている小幡景憲に軍学を学んだが、その独自の立場を確立するようになったのは寛文年間(1660年代)以降のことである。そこでは、朱子学の思弁的性格が批判され、人間性の回復を求めて、直接孔孟の教えに学ぼうとする古学が主張され、さらにそれによる武士道の体系化が計られていった。また我国は支那よりも儒教政治の実現に適しているとして中朝と呼び、日本主義儒学を唱えた。そのようにして、儒教的な経世済民の意識と、武士道の倫理感が渾然一体となり、万民のための人倫の師表となることが武士としての務めであるとされ、一時の恥を忍んででも、道の実現に努めるべきであり、主君への忠よりも道を尊重することが説かれ、殉死も原則として否定されている。

戦場での死がなくなると、病死した主君への殉死が主君に対しての忠誠心の証であるとの意識が生まれ、「阿部一族」で言及されているような、義腹、商腹、犬死などの複雑状況が生まれ、種々の思惑を引き起こすようになっていた(10)。殉死禁止が、「武家諸法度」の改正により成文化されたのは寛文三年(1663)のことであるが、それ以前から、口頭や書簡で、禁令が伝えられていた。

 

この余りにも儒教道徳的な、厳格な倫理思想に反発して、本来の心情的忠へ帰ることを主張したのが、「葉隠」であり、享保元年(1716)頃に成立したと見られている。そこでは「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉が示すように、こちたき道理を斥け、ただひたすらに命を懸けた忠義を説く、心情倫理に強く傾斜したものであるが、古武士的な純粋なものと云うよりも、そろそろ閉塞状態に入りつつあった封建制度の下の、屈曲した心情を反映したものとする批判的見方もあり、その評価は大きく割れている。

 

 このように見てくると、興津弥五右衛門が、長崎に派遣されたのが寛永元年(1624)で、自刃したのが万治元年(1658)として描かれているので、その心情は、戦国時代の気風を色濃く残した古武士的なものから、儒教倫理の影響を受けた士道的なものへ移る過渡期のものであったと、鴎外は了解していたと受け止めてよいであろう。

初稿本「興津弥五右衛門の遺書」は、用いた資料からかなり離れた、自由な創作という色彩が濃く、弥五右衛門は主君の十三回忌に自刃する、という設定になっている。十三回忌ということであれば、死出の旅路の供という、古武士的な主君との一体感の意義は薄れ、また殉死という名誉を求めたものでもなく、遺書にも、ただ自分の主君に対する追慕の念と、かって壮年の頃に有能な相役を討つたという、負い目を晴らしたいとの心情からの行為であることが強調されている。

 

 この作品が、極めて多忙な中で、僅か五日の内に書かれていることは、このような主題についての思想的考察が、これ以前から心中ですでにかなり成熟していたことを示すものであろう。すなわち鴎外は、これ以前から、混迷状態を示すようになっていた現代社会の中で、武士道の再生が新たな指導的役割を果たす可能性について思いを巡らしていた。

鴎外は、四十三年三月から翌年にかけて「昴」に連載した、作品「青年」の中で、夏目漱石とおぼしき人物の講演という形を借りて、「日本人は色々な主義、色々なイズムを輸入して来て、それを弄んで目をしばたいてゐる。何もかも日本人の手に入っては、小さいおもちやになるのであるから、元が恐ろしい物であったからと云って、怖がるには当たらない。何も山鹿素行や、四十七士や、水戸浪士を地下から起こして、その小さくなったイプセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」と云っている。

 この言葉を延長して云えば、今後イプセンやニーチエの本質への本格的な理解が進み、一般社会に広がるようになってくれば、伝統的な道徳観との間で、摩擦や混乱は避けられないことになり、時代に即応した道徳の再構築が必要になるであろうが、そこでは武士道が中心的な役割を果たすことができると鴎外は考えていたのであろう、山鹿素行の思想が具体的に詳述されている大著「山鹿語類」を購入し、繙読している(11)。

 

【 「家常茶飯」 の 倫理観 】

四十二年十月に発表した、リルケの戯曲の翻訳「家常茶飯」の付録として書いた対話「現代思想」の中で、鴎外はすでに、このような確立した個人の意識に基づいた、新しい道徳に考えを巡らせていた。「家常茶飯」では、画家の姉が、結婚せずに献身的に母親の世話をしていることについて、姉自身が、介護に専念しているのは、母親だからという義務感や報謝の念、ないしは伝統的な戒律・道徳からではなしに、一人の助けを必要としている可哀想な老人を介護することに、自分が喜びを感じるからであると云っていることを巡って、議論を展開している。

このような見返りを期待しない献身について、ニーチエは、「贈る者の羞恥。 ― 与える者、贈る者としていつもふるまって、その際、自分の顔を見せるのは少しも気前のいいことではない!。与え、贈り、その名も行為も隠すのだ! あるいは自然のように名前をまったくもたないこと。自然の中では、贈る者や与える者、あるいは『恵み深い顔』に出会う事は決してないが、そのことこそ、何ものにもまさって、われわれを爽快にするのだ!」(「曙光」 四六四)と云い、また「前景に現れているのは充実の感情、溢れるばかりの権力の感情、高く張りつめた緊張の幸福感、恵み与えようとしたがる富の意識である。――高貴な人間も不幸な者を助けはする。だがそれは同情からではなく、ほとんどそうではなくて、むしろ権力の充溢から生まれる或る衝動からするものである。」(「善悪の彼岸」 二六0)とも書いて、見返りを期待しない行為がもたらす爽快な充溢感を讃えている。

 鴎外は「現代思想」の中で、この新しい倫理観について、「われわれの教えられてゐる孝といふ思想は跡形もなく破壊せられてしまってゐます。決して母だから大切にするのではないのです。……………深く考えて見れば、倫理上教育上の大問題です。………一体孝でも、又仁や義でも、その初に出来た時のありさまはあるいは現代の作品に現れてゐるやうな物ではなかったのだろうか。全く同一でないまでも、どれ丈か似た処のある者だったのではあるまいか。それが年代を経て、固まってしまって、古代宗教の思想が、寺院の掟になるやうに、今の人の謂ふ孝とか仁義とかになったのではあるまいかと、こんな風に思はれるでせう。何故といふに、現代詩人の中には随分敬虔なやうな、自家の宗教を持ってゐるらしい人があるのですからね。リルケなんぞも其方ですよ。かうなると、一面解決の端緒が見えさうになると共に、一面問題はいよいよ大きくなるでせう」と云っている。

 一時期ニーチエと親交があり、後に「ニーチエ ― 人と作品」を書いたルー・ザロメと、若年の頃のリルケは親しくしており、またニーチエの著書も読んでいて、その思想の影響を受けていた。原著の「家常茶飯」は1902年に出版されたが、当時リルケはまだ無名に近く、その上演も試みられたがみじめな失敗に終わっていた(12)。それにも係わらずこの作品に注目したことは、鴎外が因襲的心情から解放された、新しい生活感覚に基づく人倫の再生というテーマに、いかに敏感に反応したかを示している。

 しかし、旧来の戒律や伝統的風習に依存した道徳が、いかに形骸化し、原初にそれが持っていた生き生きとした情感を失うようになっていたとしても、それに代わって、ニーチエ的な感性的な喜びや生の充溢の意識を、そのまま人倫の基礎に置こうとするのは、あまりにも放逸にすぎるのも明らかである。「家常茶飯」に描かれているような、無償の介護それ自体に喜びを感じるという感性は、人間性への鋭敏な感受性を備えた精神の裏付けを待って始めて機能するものであって、そのような背後精神を欠いたまま、それを形だけ模倣しようとしても、混乱を招くだけであろう。その解決のために、鴎外は「青年」の中で、個人の主体的自我の確立と、その社会的機能の調和を計るものとして、“利他的個人主義”を提案しているが、その詳細な具体像は示されていなかった。

 

 士道は、本来武士という強い自我意識を持った主体を対象にした倫理であり、各個人の主体性の追求と、集団の内部での協調や全体の機能の維持とを、どのように調和させていくのかについて、それなりの合理性を備えた実践的体系を作り上げていた。鴎外は、そのような士道的行動原理を、ニーチエの生の思想で裏打ちすることで、形骸化した旧道徳に、原初のみずみずしい人倫の活力を復活させ、現代社会で指導性を発揮させることが可能になると考えていたのであろう。

 初稿本「興津弥五右衛門の遺書」は、このような背景の中で書かれたもので、云ってみれば、「家常茶飯」の続篇、ないしは「利他的個人主義」の具体像を示すことを意図したものであろう。そこでは後年の「安井夫人」と並んで、献身と自らの主体的な生き方への自敬の念に支えられた生涯が描かれている。

 

【 実存意識 と 士道 】

 大正二年に刊行された和辻哲郎の大冊「ニーチエ研究」は、我国での最初の本格的ニーチエ研究書と云うことのできるものであった。そこでは、“実存”という言葉は使われていないが、和辻の研究テーマがショウペンハウエル、ニーチエを経て、この後キルケゴールへと移っていったことからも窺われるように、和辻は我国での最初の実存思想の開拓者と云うことができると、金子武蔵は主張している(13)。

 “実存”とは、一言で云えば、確立した自己責任の下に、どのような危機的な現実にもたじろがずに、主体的に立ち向かおうとする生き方であり、第二次大戦後、サルトルらの主導下で全世界的に風靡したが、この概念が、明確に意識して用いられるようになったのはハイネマン(1929)以降のことである(14)。その起源はパスカルまで遡るが、実質的な思想の形成は、キルケゴールとニーチエに始まっており、前者が有神論的であるのに対して、ニーチエは無神論的であり、神や永遠の真理のないニヒリズムの深淵に立って、自らの生の意識のみを拠り所にして、敢然と生の現実に立ち向い、運命を、自由をもたらすもの・遊戯と、前向きに受け止めることを説いている(15)。

我国での実存理解の萌芽は、鎌倉新佛教にまで遡ることができるとの指摘があり(たとえば、湯浅泰雄、「道元・親鸞における日本的・実存的なもの」、引用文献(14所載)、これは古武士道にみられる実存意識と関係しているが、ここでは踏み込まないでおこう。明治三十四年以降、登張竹風や高山樗牛らにより活発なニーチエ紹介が展開されたが、それは感覚的な本能主義に偏ったもので、実存の意識からほど遠いものであった。むしろ、明治三十六年の藤村操の自殺が、青年達に大きな衝撃を与え、それ以後、“生”の本質を主体的なものとして、真剣に追求しようとする気運を生んでいて、和辻の「ニーチエ研究」もその延長上にあるものであった。

 

さきに触れたように、鴎外はニーチエの思想を批判的に摂取しようとしていたが、やがて士道に関心を寄せるようになっていった。士道は朱子学の延長上にあり、“理”、“道”を基本に置いているが、素行は、朱子の“理”中心の思想はあまりにも思弁的であると批判し、「人欲を去るは人にあらず」として、より生命意識に密着した、生々発展する主体的な“誠”を重視しようとしていた(16)。またそこでは、義や恥が重視されていたが、この“恥”は、なによりも自ら(天)に対して恥ないことであり、自ら顧みて疚しいところのない、自足できる境地こそが最も確実なものとされ、虚栄心は武士の最も卑しむものであった。素行は、自らの武道の能力への確信と、自ら顧みて負い目や疚しさのない、高く貫んでているという意識を合わせ備えた「大丈夫の気象」を「卓爾と立つ」と表現しているが(11)、これはある面でニーチエの“超人”に極めて近いものと受け止めることができよう。ニーチエは一貫して“生の充溢”を追求し、また“高貴さ”がもっとも重要な価値判断の基準となっていたが、これらの価値基準は、世俗的な身分や教養などの外面的条件とは無関係なものであって、もっぱら心構えに係わっていて、自らを“良い”と確信できることであり、他者の評価に依存しない、一切の虚栄心から自由な、自敬の念を持つことが出来ることが基本とされていた(「善悪の彼岸」、第九章 高貴さとは何か?)。

また、士道では“死の覚悟”が中心的な役割を果たしていた。山鹿素行の弟子筋にあたる大道寺友山は「武道初心集」に「武士たらむものは、正月元旦の朝、雑煮の餅を祝ふとて、箸を取初るより、其年の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕候」と記している(17)。しかし「葉隠」が、「武士道とは死ぬ事と見付けたり」と主張し、死を問題解決の捨て身の手段としようとしていて、滅私奉公的であるのとは反対に、士道は、今の瞬間々々に、“死に心を集めつつ”、前向きに生きることを説くものであり、公私いずれの生活においても、常に自らの生き方を顧みて、心に恥じることない自敬と自足の生き方を求めようとしていた。

 

 興津弥五右衛門が自刃の途を選んだのは、三斉公への報謝・追慕の情もさることながら、むしろ役に立つべき藩士を死に至らしめたという自責の念からであり、その負い目を晴らすためにいずれは切腹を、という決意を抱きながら出仕を続けていたが、ようやくすべての懸案が解決した。この上は、負い目を残したままむざむざと老病で果てるのが口惜しい、自らの運命は自ら決したいとして、船岡山の麓の形ばかりの草庵で、月光の下に人知れず自刃する途を選ぼうとした弥五右衛門の身の処し方は、実存的な色彩の極めて濃いものであるが、さらにそれをも超えて、自らの生き方に確信を持ち、“卓爾とした”自足の念が実現されているとして描かれている。

 

 次作「阿部一族」にも、このような強い主体的自我と自敬の意識を持つ人間像が描かれている。しかし、鴎外はこの後、史実の尊重、“歴史其儘の世界”、へと踏み込んでいき、改稿「興津弥五右衛門の遺書」を皮切りに、歴史小説、さらに史伝へと移っていき、人間存在の更なる深淵に、存在論的視点から目を向けるようになっていった。それには小倉時代以来関心を寄せていた大乗思想、とくに唯識の影響が大きかったのであろう。

 

 

 

【 参考文献 】

 

引用は、とくに明記したもの以外は、岩波書店版「鴎外全集」、白水社版「ニーチエ全集」または、ちくま学芸文庫版「ニーチエ全集」によった。「 」は原文のまま、〈 〉は大意を示す。

(1)(一)「ニーチエ特集」、思想、九一九号、二000・十二。

(二)実存思想協会編、ニーチエの二十一世紀、理想社、二00一・十。

(2)例えば、小堀桂一郎、森鴎外の世界、講談社、昭和四六・五。

(3)高松敏男・西尾幹二編、「日本人のニーチエ研究譜」、ニーチエ全集別巻、

白水社、一九八二・九。

(4)「大正哲学史研究」、船山信一著作集第七巻、こぶし書房、一九九九・六。

(5)徳富蘇峰、公爵山県有朋伝(復刻版)、原書房、昭和四四・二。

(6)大濱徹也、乃木希典、河出書房新社、昭和六三・一。

(7)例えば、(一)尾形仂、森鴎外の歴史小説 資料と方法、筑摩書房、

昭和五四・十二、

(二)福本彰、鴎外歴史小説の研究 「歴史其儘」の内実、和泉書院、

一九九六・一、参照。

(8)相良亨著作集第三巻、ぺりかん社、一九九三・六。

(9)「日本倫理思想史(上)」、和辻哲郎全集十二巻、岩波書店、一九六二・十。

(10)山本博文、殉死の構造、弘文堂、平成六・一。

同、武士と世間、中央公論社、二00三・六。

(11)山鹿素行、山鹿語類 一―四、国書刊行会、明治四三・四―四四・二、

(鴎外文庫所蔵本には、鴎外自身によると思われる傍線が、「君道」の諸章、とくに“民政”、“治談”などの項を中心に、方々に見られる)。

(12)富士川英郎、ユリイカ、四巻十一号、昭和四七・十。

(13)金子武蔵、和辻哲郎全集第一巻、解説、岩波書店、一九六一・十一。 

(14)飯島宗亨・吉沢伝三郎編、実存主義講座 I 、

実存思想の歴史、理想社、昭和四三・七。

(15)「ニイチエに於けるニヒリズム=実存」、

西谷啓治著作集第八巻、創文社、昭和六一・十。

(16)田原嗣郎、徳川思想史研究、未来社、一九六七・八。

(17)「武道初心集」、武士道全集第二巻(復刻版)、国書刊行会、一九九八・八。

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