横井小楠 と 森鴎外 における 西洋の克服 と 東洋の再構築

 

                  安川民男

 

        

 

ま え が き

 

このホームページは、筆者が森鴎外記念会刊行の『森鴎外記念会通信』および『鴎外』誌に発表した、横井小楠および森鴎外に関する研究ノートおよびそれ以外の未発表のものを含めて、会員以外の一般の方々に公開することを意図したものであるが、鴎外の活動分野が極めて幅が広いことから、医学・科学に関係したものは別のホームページ「医学者森鴎外の科学思想と脚気問題」として切り離し、ここには、それ以外の芸術や社会・思想関係のうち、特に横井小楠と森鴎外について、その西洋文明の受容と克服の問題を取り扱ったものを中心に集めてある。そこで、そのまえがきとして、これらのノートの執筆のいきさつ、およびこれら各小論文の概要とそれらの間の関係を示しておきたい。

 

 

ここで、筆者の鴎外や小楠との関わりについて簡単に触れさせていただきたい。筆者が森鴎外という名前に特別の関心を持つようになった切掛けは、高等学校の国語の時間に、鴎外の「寒山拾得」が取り上げられ、そこで「和魂洋才」という言葉に始めて接したことにあった。これは昭和二十五年頃のことであったが、この当時は第二次大戦での敗北の痛手がまだ色濃く残っていて、“日本は四等国”というような言葉が自嘲的に語られていた。しかしこの時代はまた、日本の未来について、明るい希望に溢れていた時でもあって、科学技術や物質文明の点で、いまだ欧米に劣っているとしても、それを学び取ると同時に、東洋にはそれとは異なる高い精神文明の伝統があるので、この両者を融合させることで、欧米を凌ぐすぐれた文明を築くことができるとの教えに強い感銘を受けた。

この言葉が心に残っていて、大学では科学技術系に進学しつつも、東西文明論やとくに鴎外に深い関心を寄せ続けていった。そして工学部の教職を定年退職した後は、かねてからの念願に従って、鴎外および東西文明論の研究に専念することを志していった。このために、森鴎外記念会に入会させていただくと同時に、そこで中井義幸氏が主宰しておられた「あまね会」に参加し、西周の当時まだ未解読であった、晩年の日記の活字化、および岩波書店から刊行された「鴎外歴史文学全集」の中の『西周伝』の注釈作成に加わった。この参加が認められた事は、筆者が理系出身であることが何かの役に立つかも知れないと、中井さんが思われたせいかも知れない。しかし筆者にとっては、それまでこのような文系の基礎訓練を受けたことがなかっただけに、文献調査法やあ論証の進め方などで、大変な勉強となり、今でも「あまね会」の方々には感謝している。

 

これまで鴎外研究の中心になってきていたのは、国文系およびドイツ文学系の人達であったこともあり、鴎外の文芸活動に関心が集中していて、理系や中国文化関係の側面についての研究が、相対的に手薄であると感じられた。これまで、我国や中国が近世以降西欧諸国に比べて、殆どすべての分野で遅れを取るようになっていた主な原因が、儒教、とくに硬直化した朱子学にあると一般に受け止められてきていたが、それが直ちに儒教の本質的欠陥によると即断することはできないであろうと思われ、学生時代から中国文明や儒教に関心を持ち、その関係の本をかなり読んできていた者の目には、鴎外の儒教的エートスについての理解が不十分であるとの印象をもっていた。

たとえば、鴎外が活発な文芸活動を展開しながら、依然として官界に身を置き続けていたことについては、立身出世を目指したものとして、生前からしばしば冷たい目を向けられてきていたが、これはむしろ、儒教的政治意識に基づいた士大夫的使命感に支えられたものであり、また芸術活動についても、鴎外が「なかじきり」のなかで「わたくしには始より自己が文士である、芸術家であると云ふ覚悟は無かった」と述べ、たとえば漱石が「命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」という職業的芸術家としての意識をもっていた(明治39年、鈴木三重吉宛書簡)のとは異なっていて、芸術活動はあくまでもよい意味での「ヂレッタンチスム」的なものに留まっていたのも、士大夫的エートスに支えられた芸術観によるものと受けとめるべきであろう、と考えていた。

幼少期に素読などの本格的儒教教育を受けた体験を持つのは、鴎外らの世代までであるが、この世代を境として、政治意識や種々の精神的特長が変化することが指摘されていることを踏まえて、鴎外の精神的姿勢における多様な士大夫的側面を、小論『最後の士大夫・鴎外』(一〜八)(文末の研究ノート・リスト 5−12)にまとめ、鴎外記念会通信に掲載してもらった。

また鴎外の医学関係の業績については、これまでにすでに多くの論考が発表されてきていたが、それらの内でも脚気問題については、多分に不十分な調査や不注意な即断をしたものが少なからず見受けられたことから、これまで取り上げられることがなかった一次大戦時の青島出兵に際して鴎外がとった半搗米と麦の併用などの対策を紹介し、より慎重な取扱いが必要なことを示した(12)。これら一連の論文の連載については、記念会内部でも異議を唱えるむきもあったようであるが、当時通信の編集を担当されていた故吉倉煌事務局長の好意的な配慮で、自由に最後まで書かせてもらうことができた。

 

これらの小論は準備不足の点もあり、また字数制限もあって、論旨を十分詳細に述べることができなかったことから、記念会通信で取り上げたいくつかのテーマについて、より詳細な考察を進め、その発表の場を「鴎外」誌に求めた。しかしそうなると、これまでに先人たちにより主張されてきた鴎外観との間に、大きなズレや対立が表面化することになり、「鴎外」誌への掲載に際して、編集委員達から種々の異議や修正要求が出されてきた。

二次大戦後の鴎外研究にはいくつかの大きな潮流があった。その一は中野重治に代表される、唯物史観に基づいたもので、思想の階級性を強く主張し、明治政府の高官であった鴎外の思想は、所詮権力に奉仕するものでしかなく、その活発な芸術活動は、そこでの満たされぬ心の飢えを芸術で癒そうとしていた、と捉えようとしていた。

これに対して、文芸関係者の多くは、鴎外の本質は芸術至上主義であり、出世間的な隠遁生活への憧れもあったが、他方でこれと矛盾するような立身出世への強い意欲があり、この両者間の相克の結果として、その特異な“あきらめ”の心情や“傍観主義”が生まれてきたとする第二の見解があった。

またこれらとは別に、実証的考察を重視しようとする立場が生まれてきたが、これは、主として作品および書簡、関連資料などの文献情報を基に、その積み上げにより、客観的な作者の人物像、思想さらには作品論を展開しようとするものであった。鴎外記念会は、昭和40年に長谷川泉氏を中心にして設立されたものであり、その学風は穏健な実証主義を基本とするもので、その伝統は現在にいたるまで維持されてきている。しかし文科系の学問分野では、実証主義という立場は必ずしも事実の的確な把握や理解に直結するものではなく、多くの根本的な問題を含んでいることが、実証主義史学などに関連して、詳細に議論されてきている。具体的には、資料を片寄りなく収集したり、逆に多様な資料の中から問題の本質を的確に示すものを選別し考察を展開することは極めて困難なことであり、資料の解釈に必然的に伴ってくる人間観や思想が絡んできて、卓越した史眼・人間理解の裏付けがない限り、実証主義を標榜する人達が主張するような的確な本質の把握は保証されなくなる。

また一方で、作品論に係わる文芸思想の一つに、文学作品を一つの独立し完結した自律的な世界と受け止め、作者の思想や閲歴から独立したものとして、それら個人的な状況に特別の配慮をする必要はないとする主張があるが、この場合、そこで拠り所となるものは、それまでに築かれた伝承的思惟・概念を基にすることになり、これでは新しい思想的展開は期待できないであろう。特に、小楠や鴎外晩年の史伝などの文業についての議論においては不可欠と考えられる、思想史的および政治・社会的背景など、より広範囲の視点からの考察に対しての重要性の認識が欠けているように思われる。

 

このような状況から、鴎外の思想の根底には儒教的な士大夫意識があり、それを基に西欧近代文明を批判・克服しようとしていた、とする筆者の主張には種々の異論が出されてきた。すなわち、二次大戦後の鴎外研究の主流となっていたのは国文学系とドイツ文学系の人達であり、その思想的立場が、もっぱら近代主義的、あるいはマルクス主義的なものであったことから、ほとんどの場合、鴎外に見られる儒教的エートスは、前近代的な、むしろ克服されるべき尾骶骨的側面であると受け止められていて、それに積極的な意義を認めようと姿勢は稀であった。しかし鴎外は、ドイツ留学中から、西欧近代文明、特にその科学技術や文芸等に対して憧憬に近い感情を抱きながらも、それと同時に、批判的な目を失うことはなかったという、複眼的な思考の立場を保っていて、帰国後、西欧近代主義の欠陥を克服するために、しだいに東洋の伝統文化を再評価しようとする姿勢を強めるようになっていった(18)。

鴎外が晩年に、偶然の切掛けからその思想の再評価に踏み込んでいくことになった横井小楠も、徳川末期の社会の閉塞状況を打開するために、積極的に西欧文明の達成に学ぶことを唱えながらも、その欠点に目を閉ざすことなく、儒教を再構築することで西欧近代文明の欠陥を克服することを主張しており、鴎外は小楠の内に優れた先達の姿を見る思いがしたのであろう。すなわち、小楠はギリシャ的主知主義と超越的人格神に基礎を置く近代西欧思想が、外面的で硬直化した倫理感をもたらしたと捉えた。そしてまた、近世儒学、とくに朱子学の硬直化した道徳観も、主知的な「理」の重視によるとして、原始儒教の「三代の治」に見られる柔軟な「天」の思想を基にして、儒教の再構築を計ることを唱えた。このような柔軟な感性に裏打ちされた「超越」の重視が、鴎外の歴史文学の到達点である後期の歴史小説や史伝三部作を生み出す切掛けになったと考えられる(20)。

20世紀後半になると、西欧近代主義の限界が顕在化し、欧米でもその克服が模索されるようになってきているが、小楠や後期の鴎外の思想をこの観点から再評価することで、現代思想が当面している閉塞感の克服に有益な指針が期待できるであろう。

 

結局、横井小楠および鴎外像に関する基本的な問題として、明治維新という政治的・文化的大変動の切っ掛けとなった西欧文明について、その本質をどのようなものとして理解し受容すると同時に、その限界を批判し、克服するために、伝統的東洋文明をどのように再構築しようとしたのかを具体的に考察することが中心的課題となるであろう。

まず取り上げるべき問題点として、(機棒床な弧世旅酩を計ろうとした、そのエネルギー源は何であったのか、(供望楠および鴎外において中核的な意義を持っていたと考えられる政治思想の本質はどのようなものであったのか、(掘砲箸に鴎外の場合には重要な意味をもっていたと考えられる芸術観が、近代的な芸術至上主義的なものであったのか、西欧でのルネッサンス期までの全人的人間性の確立、ないし中国の士大夫的心情に見られるようなジレッタンチズム的なものであったのかを詳細に検討すること、などをあげることができるであろう。

 

 鴎外を「テーベス百門の大都」と評したのは木下杢太郎であったが、その本質を全人的な統一体として捉えるのは至難の業であるためか、近年の鴎外理解にはそのような意欲が消失しているように見えるのは、惜しむべきことと思われる。

 本シリーズの論考は、これらのテーマについての筆者の試みのために作成した研究ノートであり、異論の余地が多々あることは自覚しているが、今回新発表の論文(20)「横井小楠と森鴎外における東洋の再構築」もその一環としてこのホームページに採録した。

 

 

                          ( 2009・2・25 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    横井小楠および森鴎外関係の研究ノートのリスト

 

 表 題      発表誌     号   発行年月 

 

1)*「 況斉と鴎外(一) 」( 石黒忠悳の人物像)

           『森鴎外記念会通信』 122,平成10・4

2)*「 況斉と鴎外(二) 」( 蘭学の習得 )

  同上、   123,平成10・7

3)*「 況斉と鴎外 (三)」( 鴎外の生活世界 ) 、

     同上、   124,平成10・10   

4)「 況斉と鴎外(四) 」( 和魂洋才の模索 )、

   同上、   125,平成11・1

5) 「最後の士大夫・鴎外」   同上、   126,平成11・4

6) 「最後の士大夫・鴎外(二)」 同上、   127,平成11・7

7) 「最後の士大夫・鴎外(三)」 同上、   128,平成11・10

8) 「最後の士大夫・鴎外(四)」 同上、   130,平成12・4

9) 「最後の士大夫・鴎外(五)  同上、   132,平成12・10

10)「最後の士大夫・鴎外(六)」 同上、  134,平成13・4

11)「最後の士大夫・鴎外(七)」 同上、  135,平成13・7

12)*「最後の士大夫・鴎外(八)」 同上、  136,平成13・10

 

13)「 鴎外と魯迅の“諦念” 」、 『 鴎外 』、 74, 平成16・2

14)「 武士道とニ−チエ 」、     同上、  75, 平成16・7

15)「 鴎外と唯識 」、        同上、   76, 平成17・1

16)*「 鴎外と脚気問題  、     同上、  77, 平成17・7

17)「 『かのやうに』を巡って 」、  同上、   78, 平成18・2

18)「 『大塩平八郎』と『津下四郎左衛門』 」同上 、79,平成18・7

19)「 鴎外最後の遺言状 」、     同上    81, 平成19・7

 20)「 横井小楠と森鴎外における東洋の再構築 」     平成20・2

 

 

このリストの内 *印の付けられたものは、これから独立した別のホームページ 

「 医学者森鴎外の科学思想と脚気問題 」

http://book.geocities.jp/yskw103/

に採録されている。