最後 の 士大夫 ・ 鴎外 (八)

 

                       安川民男

 

 

 

8. 脚気問題 と 官僚鴎外の苦悩

 

 鴎外の医務局長退官については、脚気問題がきっかけの一つだったであろうと先に述べた(本通信一二六号)。鴎外と脚気の問題については既に、山下政三、明治期における脚気の歴史。板倉聖宣、模倣の時代。白崎昭一郎、森鴎外。坂内正、鴎外最大の悲劇、等の著作があり、また「鴎外」誌にも、坂本秀次 、山下政三、浅井卓夫、他の諸氏による報文がある。それらの中には鴎外をスケープゴート化した安直な言説がまま見られるが、鴎外と脚気との関係は日本文化の有様に係わる、より本質的な問題を含むものであった。

 

 陸軍にとっては、日露戦争での全傷病者四十四万人余のうち脚気患者が二十四万人以上に達したとも云われる事態は由々しき状況であった。そこでこの問題の最終的決着を求めて、当時の陸軍大臣寺内正毅は「陸軍中から金を掻き集めても」という意気込みで臨時脚気病調査会を発足させ、その会長に鴎外が就任した。

 この時期、政界や軍の上層部にも麦飯を常用していた人が少なくなかった。これに対して、医学界の実権を握っていた石黒忠悳や青山胤通は伝染病説を採り、強硬な反麦飯派であった。石黒は、明治三十五年には貴族院勅撰議員となり予算委員会委員になる等、隠然たる政治力を持ち明治医界の権現様と呼ばれていた。鴎外も若年の頃には、一時期反抗を試みたが、結局その強大な政治力から終生逃れることはできなかった。一方、青山は三十五年に医科大学学長に就任するや持ち前のきかん気と政治力で医学界の実権を握り、「帝大の他の内科教室をも支配したばかりか、………医科大学全体をおおいつくし、あまつさえ全国の官公立医学校にもその巨大な影響力が及んだ」(神谷昭典、日本近代医学の定立、医療図書出版、1984)と評されるまでになっていた。この二人が麦飯に反対したのは、師であるベルツやコッホが伝染病説をとっていたばかりでなく、これらの医学者達が準拠していた、細胞病理学、細菌学や生理学を基礎とした当時の近代医学体系では、麦飯の効果を説明することができず、このことが、自分達の医学体系に、根本的な欠陥があることを認めねばならなくなることに通じることを見て取っていたためだったのであろう。

 これに対して鴎外は、祖父を脚気で失ったこともあり、問題の複雑さを十分に感じ取っていて、初期の「日本における脚気とコレラ」から、中期の「脚気減少は果たして麦を以て米に代へたるに因する乎」を経て、晩年の「衛生新編・第五版」に至るまで、脚気の病因の特定を慎重に避けていた。すなわち、それぞれの説の欠点をよく把握していて、単純な麦飯論や伝染病説では説明できない、複雑な様相を呈していることを十分認識していた。しかし、医務局長就任時には青山から「君が医務局長になったからと云って脚気予防に麦飯が必要だなどといふ俗論にマサカ化せられはしまいね」と牽制されていて、調査会の運営はもっぱら伝染病説の検証に向けられていった。

 石黒況斉にせよ青山胤通にせよ、医学者として極めて優れた能力を持っていた人達であったが、何故このような抜き差しならぬ対立が生まれたのかを考えるには、科学論争の本質について、少し立ち入った考察をしておく必要がある。近代科学の基本原理は、ベーコンの提唱した帰納的推論による法則性の発見、および、仮説を立てそれを実験で確認するという、仮説検定ないし論理実証主義により確立していった。しかし十九世紀末頃から、この近代科学思想に行き詰まりが見られるようになり、一切の先入観を捨てて、虚心坦懐に自然を観察し、そこで得られた結果をもとに、合理的考察を進めれば、自ずから真理に到達できるという神話が崩れてきた。

ジャストロー図形と呼ばれる線画は、あるときはウサギに見え、別の時はアヒルに見える。エッシャーの騙し絵でも同様のことが起こり、同一のデーターが、同等の確からしさで複数の異なる結論を支持できることが示されている。一般に複雑な知識体系では、ある実験結果についての対立する複数の解釈のいずれが正しいかを一義的に決定することはできないというデユエム・クワインのテーゼが成立する(たとえば、野家啓一、科学の解釈学、新曜社。また拙文、本通信、一二四号参照)。

 学術上の意見の対立は進歩を斉らすものとして尊重すべきであり、ここで反麦飯派の名誉のために補足しておくと、脚気様症状を示す疾病には、単純なビタミンB1不足によるもの他に、変質米カビ毒、ビタミンB1分解菌の存在、遺伝性のビタミン依存症や吸収不全症候群、等に起因するものがあることが、その後次々に明らかにされていって、麦飯派が主張したように、麦飯の採用で脚気問題が基本的に解決できるというような、単純なものではないことが示された。

 明治末年には、次第に麦飯派に有利なデータが増えつつあった。調査会の委員の一人であった都筑甚之助も、始めは伝染病説を取っていたが、やがて米糠の抽出物が脚気の治療に有効なことに気付き、米糠製剤の製造を企てたところ、研究協力者の一人が、都築に無断で一般人に頒布した。このことが調査会内部で問題となり、明治四十三年末に都築は委員を解任された。

 この間のいきさつについて、「都筑ドクトル余影」には「都筑氏に好意を有せざる脚気病調査の某委員はあたかも我が意を得たるが如く、この攻撃材料を引っ堤げ、ついに医界における有力者を動かし、陸軍省に抗議をなし、有無を言わさず、氏を脚気病調査会から放逐せしめたのであった」と書かれているという(板倉聖宣、模倣の時代、からの引用)。この時期、志賀潔も栄養障害説を唱えていたが、既に世界的名声を得ていた志賀は別として、一般には、調査会内部で石黒や青山に公然とタテ突くような言動をすることはタブーだったであろう。調査会の大勢が都筑の解任に動いている以上、鴎外も都築を庇いきれなかったのであろう。鴎外は、都築を陸軍軍医学校の教官に転任させることで、研究に専念できるように取り計らおうとしたが、都築は陸軍内部での自分の将来に見切りを付けたのであろう、自費で外国留学する道を選び、鴎外の好意を辞退している。鴎外は、都筑が洋行するとき見送りに行くなどの心遣いを示している。

 

 鴎外は、ドイツ留学から帰国後まもなく、傍観機関論争などを通じて、ドイツ大學躍進の基礎になってきたフンボルト・フイヒテの精神にみられるような科学研究のエトスが我国に欠け、また学界内部の根強い因襲的支配意識が学術研究の進歩を阻害している状況を強く批判し、これが一因となって小倉師団へ転勤になるという経験をしている。M.ウエーバーは、近代科学がなぜ西欧でのみ生まれ育っていったのかという問題をより根源的な立場から考察し、近代西欧文明を形作っている、政治・経済システムや近代科学の根底には、ピューリタニズムとギリシャの主知主義の融合で形成された、理性への信頼と、それに基づいて積極的に自然界に働きかけようとする、特異な禁欲的なエートス(精神的情念)が存在し、これが近代主義推進の主要な推進力となってきたと主張した(M.ウエーバー、宗教社会学論集、創文社、1973)。

鴎外は、明治四十四年に書いた『妄想』の内で、留学当時を回想して、「帰って行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少なくも『まだ』無い。その萌芽も徒らに枯れてしまひはすまいかと気遣はれる。そして自分はfatalistischな、鈍い、陰気な感じに襲はれた。」と書いているが、ここでの「雰囲気」はウエーバーの言う、特異なエートスを指しているのであろう。このような状況は、その後の諸制度の改革でも改善されず、「…………・只奮闘してゐる友達には気の毒である。依然として雰囲気の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のやうに喘ぎ苦しんでゐる」と書いている。都筑が調査会委員を解任されたのは四十三年十二月であったが、鴎外が『妄想』を三田文学に発表したのは翌年三、四月のことであり、この作品が、都筑の処遇を巡っての感慨を下敷きにしていることは明らかであろう。もっとも鴎外は、日本の科学の未来像については楽観的であって、「併し自分は日本人を、さう絶望しなくてはならない程、無能な種族だとも思はないから、敢えて「まだ」と言ふ。自分は日本で結んだ学術の果実を欧羅巴に輸出する時もいつかは来るだらうと、其時から思ってゐたのである」と続けている。

 

 昭和十一年にナチスに追われ来日し、東北大学で教鞭を取っていたレヴィットは、そこでの自らの体験を基に、そのような状況を“階段のない二階建の文化”と評した(本通信、一二四号)。研究技術の基本が既に確立している分野は、それに固有の論理や体系が整備されているので、それを習得し、そのまま異文化圏に移植し、実用の場で生かすことは、それほど困難なことではない。これに対して、これまで当然のこととして受け入れられてきていた基本原理を根底から改変し、現状を超えた新しい体系を構築するという、パラダイム変換のためには、別の視点に立っての新しい論理体系を創立する必要がある。このように、これまで全く存在していなかった概念を生み出し、それを育てようとする場合には、種々の概念が未だ固定化せず、自由な発想が許容されている生活世界こそが、新しい視点や新しい論理体系を供給する源泉であると、フッサールは主張した(フッサール、ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学、中央公論社、1974)。

これまでの学術研究の枠組を超えて、新しい体系を組み立てようとする創造的エトスと、それを支える筈の大学・研究機関等のインフラ部門の運営や日常の生活世界の心情とが、異質の論理に従って乖離し、階段のない二階建ての建物のように、互いの交流のないままに動いている状況下では、学術研究も新しい芽を見出すことができず、真に創造的な学問の進展を期待することはできないことになる。鴎外が研究の雰囲気が無いと嘆いたのもこのような状況を指していたのであろう。

 

 第一次大戦が始まると、陸軍は大正三年九月に中国に出兵した。これより先に、陸軍は戦時兵食令を改訂して、半搗米と麦の混用を定め脚気対策を強化していた。鴎外は若年の頃から脚気に強い関心を持っていて、脚気が複雑な様相を呈することに注目してきていたが、この時期に出版した『衛生新編』改訂第五版の内で、脚気が複数の異なる病因によるものの総称名であろうと示唆し、治療・予防に玄米、半搗米、麦が有効であることを認めていた。今日の知識からすれば、半搗米と麦の混用は、白米と麦の混用の二倍以上のビタミンB1を含むことになるが、食味はかなり悪くなり、兵士達の強い不評を蒙ったであろう。それでも鴎外がその採用に踏み切ったことは、その並々ならぬ決意を示すものであろう。

 当時の医学関係者達が、息を殺して青島出兵隊の健康状態を窺っていた様子が、医海時報などの医学雑誌の一連の記事から窺われる。始めのうちは順調に見えた出征兵達の脚気の入院率は、間もなく上昇し始め、やがて日露戦争の後半時と大差ない値にまで達した。死亡率は減少したが、入院率がほとんど低下しなかったことが明らかになるにつれ批判の声が高まり、脚気病調査会の解散の声さえ出るようになっていった。

 半搗米と麦の併用で脚気を押さえ込もうとした期待は裏切られたが、これは陸軍の副食物の質が海軍に較べ低いほかに、ビタミンの摂取必要量が生活条件・作業条件で大きく異なることがまだ十分解明されていなかったことによる。戦場での陸軍兵士の作業条件は、海軍兵士や一般人よりも格段に厳しい。脚気の発病率が作業条件で大きく異なることが、その後の詳細な研究で次第に明らかにされていった(大森憲太、脚気、吐鳳堂、昭和二年)。また、変質米のカビ毒と衝心性脚気様疾病との関連についての究明が詳細に行われたのは昭和十年代以降のことである(辰野高司、カビがつくる毒、東京化学同人、平成十一年)。

 日露戦争末期に較べ、脚気による死亡率は低下したとはいえ、入院率がほとんど低下しなかったことに、陸軍上層部は大きく失望したであろう。もともと師団長達は鴎外の活発な文芸活動に対して好意を持っていなかった。現実に数万人の部下を預かっている立場からすれば、何時爆発的流行に見舞われるか分からない、という不安に脅かされていることになる。

 大正四年中頃から、鴎外は「齠齔」など自己の来し方を回想する漢詩を多く書くようになっていった。おそらくこの時期に、軍首脳部から、然るべき時を見て善処するように求められたのであろう。鴎外が辞意を表明したのは同年の十一月である。しかし鴎外としては、自分として出来るだけの措置はとった、「高圧の下に働く潜水夫」とは自分のことだ、という想いを拭い切れなかったであろう。

 結局、我国では鈴木梅太郎、都筑甚之助らの他にも何人かの研究者達が、脚気ないしビタミンの研究に、的確な見通しと高い研究技術を持っていたにも関わらず、まずなによりも、その研究を評価し支援する社会的エトスが欠けていたために、研究を大成させることが出来ず、云ってみれば、我国は惜しいところでノーベル賞を逸したことになった。必須微量栄養素という概念は、単に新しい治療法の発見ということだけではなしに、それまでの医学体系とは全く別の生化学、分子生物学という新しい学問分野を切り開く、パラダイム転換のきっかけをなすものであった。

 しかし、鴎外は状況の漸進的改善と、科学の進歩に将来への希望を託して、「凡ての人為のものの無常の中で、最も大きい未来を有してゐるものの一つは、矢張科学であろう」(『妄想』)と云い、この考えは終生変わらなかった。

 

 

 

 

9.       書き残した事ども。

 

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このシリーズの報文の表題「最後の士大夫」について、ある人から“最後の”というのはどういう意味か、と尋ねられた。ここでは“士大夫”に込めた意味も含めて、問題を整理して置こう。

 士大夫は中国周代の身分「諸侯、卿、大夫、士、卒、庶」からきたもので、士は仕と同音で、官に仕えるものを意味し、庶から区別され、君主の意を受けて、その実践に当たる、中程度の地位のものであった。その後、随唐時代から科挙が実施され、門閥によらない人材登用が進むにつれ、その地位が向上し、宋代以後には科挙合格者が政治の実権を握るようになり、士または士大夫と呼ばれた。これらの士大夫は宋学(朱子学、陽明学)の素養を身に付け、人間の本性は善であると確信し、人の踏み行うべき「道」を、現実の政治世界に実現させるべきであるとの、強い経世済民の意識を持ち、そのために士は政治に携わる責務があるという信念を持っていた。

宋学の代表的なものである朱子の「理気二元説」では、宇宙の森羅万象は、物質的な資料である「気」と、それを統べる「一理」からなり、この「一理」は状況に応じて多様な特性を示す「理一分殊」という作用を持っているとしている。これだけから見ると、西欧近代科学の自然観に近い側面を持っていることになり、M.ウエーバーは、儒教は無神論であると断定している(『儒教と道教』、創文社)。しかし、「朱子語類」などの見られる朱子の自然観は生気論的色彩が極めて濃い点に留意しておく必要があろう。

 ところで朱子学では、森羅万象を統べる「一理」があるとしているが、このような合理主義的思想を政治の世界に持ち込もうとすると、現実の政治権力との間で種々の摩擦を引き起こすことになる。事実、朱子自身も、晩年に「偽学」のレッテルを貼られ、種々の圧迫を受け、排斥されている。一般論として、儒学は君主制との間に強い緊張関係を孕む危険性を内包していて、「義の合わざるは去る」として、君主と義や理の点で意見が合わない場合は、身を引くべきであるとしている。これに対して、我国の君臣関係は、義ではなしに、君主への奉仕、忠を優先させようとしていて、思想としての一貫性の点で大きな差がある。

 このような「理」への過剰なまでの信頼は、道徳的な厳格主義、政治的保守主義と結びつくときに、社会の停滞を招くことになるが、その本質は自由や人間性の尊重にあったとWm.ドバリーは論証している(『朱子学と自由の伝統』、平凡社、1987)

 このような精神に支えられた士大夫たちにとって、書、詩文、絵画、音楽、等の技芸の高い素養を持ち豊かな人間性を身に付けることが、政治に携わる者として不可欠の要件であるとされていて、韓愈、司馬光、王安石、蘇軾、王陽明、曾国藩、等にその典型を見ることができる(吉川幸次郎、「中国の知識人」、「士人の心理と生活」など、全集第二巻、筑摩書房)。しかし、現実にはこれらの人達の殆どが、再三にわたり左遷・追放の憂き目をみているように、その理想の実現は困難であった。

 

 我国では、維新期や明治初期の政治社会の中核となった人達の多くは、幼少期に儒教の基礎教育を通して士大夫の理想像を学び取った上で、西欧近代文明を積極的に取り込んでいき、明治精神と呼ばれる進取の気性や骨太な人間性を形成していった。しかし、維新以後に近代主義教育を受けた世代になると、このような明治精神は漸次消失していった。

西欧文明の根源には、プラトン的イデア、あるいはキリスト教的人格神という「超越」的存在が想定されていて、その上に、強固な主知的思想体系が構築されていた。 M.ウエーバーが主張するような西欧型近代精神はこのような精神的基礎の上に築かれたものであった。これに対して、 儒教においては、森羅万象の根源にあるとされる「理」は「内在」的なものであると了解されていて、実証性を欠いた思弁的体系へと傾斜していった。その結果として、我国でも中国でも、十九世紀以降のグローバルな世界情勢・社会情勢に対して、適切な指導理念を示すことが出来なくなっており、我国では明治中期以後、西欧思想を基本とする学術思想が大幅に取り入れられていった。このような思想状況の結果として、横井小楠や佐久間象山に見られたような、儒教思想が持つ特性を継承しつつ、新しい状況に指導性を発揮できるように再構築することで、西欧近代文明が内包している欠陥を克服しようとする動きは、ほとんど見られなくなっていった。

 

 

 

 ( この原報は 平成十三年十月に『鴎外記念会通信』一三六号 に掲載。

 その後  平成二十年十二月に改稿した。)

 

 

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