石黒況斉 と 森鴎外( 掘 法_外 の 生活世界 

 

                      安川民男

 

 

 

 

3.1  鴎外の生活世界

 

 鴎外がドイツに留学したのは二十三歳の「内には嘗て挫折したことのない力を蓄へ」ていたときのことであった。鴎外の留学の目的は「衛生学を修め、兼ねて陸軍医事を詢る」ことであったが、当時軍医本部次長の石黒況斉から「殊に兵食の事について専ら調査する」ようにとの指示を受けていた。

 この兵食問題については、鴎外はミュンヘン大学のフオイトの蛋白質摂取量の分析結果やその修正説を援用することで、従来の日本食に多少の改良を加えれば、十分な栄養が確保できるとの結論に達した。もちろんこの基準を満たせば、それで十全なものとなるとしているわけではないが、鴎外には「何千年もの間満足に発展してきた日本人がそんなに反理性的生活をしていよう筈がない」という確信があった。

 留学や仕事で外国で生活するようになった人の多くが、それをきっかけにして、改めて自国の文化について根本的に考え直すようになる例が稀でない。学術世界では、そこで用いられる概念や言葉の意味・内容を明確にし、あるいは相互理解を基にしつつ、普遍的な妥当性をもつ知識の体系化・共有化を進めることを最終目標としているのに対して、生まれ育った文化圏の内部での日常生活では、多くのことが半ば無意識の内に、深い考察や反省のないままに行われるのが普通であり、大きな社会変動や異文化との接触によりはじめて、これまで当然と受け止めてきていた無意識的生活世界に新たな眼差しを注ぐようになるという、多層構造をもっている(シュッツ、現象学的社会構造)。

 食生活についてみれば、我国では稲作が古くから定着し、また神道や仏教の影響下に肉食が忌避されるという条件の下で、健康維持や嗜好に沿った食品の選択や調理法、メニュー等が作られていった。そしてさらに、貝原益軒の「養生訓」などに見られるような日常生活への細やかな眼差しに支えられた生活感情を育み、整合性のある食文化が築かれていった。「守貞漫稿」(岩波文庫)に見られるような江戸期の庶民の食生活は、小金井喜美子の「鴎外の思ひ出」に見られる森家のメニューと大差ないものであった。

 江戸時代の平均寿命は三十歳以下であったが、これは乳幼児の異常に高い死亡率のためで、六十歳の平均余命は約十四年であったという資料もあり(立川昭二、近世病草紙、平凡社、1979)、現在の栄養学・食品科学の知識に照らしても、伝統的な日本食が成人食として優れたものであることが確認されている。鴎外は、欧米人に比べて日本人の体格が劣るのはメニューの為というよりも、貧しさのための栄養不足によるところが大きいと確信していた。

 

 明治維新という大きな社会変動の結果、それまで存在しなかった生活様式が生まれてきて、特に徴兵制のよる兵士や学生達を中心に脚気が蔓延し、明治期の医学界にとって最重要課題となっていった。脚気は江戸時代にも、特に地方から三都へ上京した者の間で多発し、「江戸患い」、「上方患い」などと呼ばれていて、そこでの経験をもとにして、遠田澄庵は、維新前後に、小豆粥を中心にした処方を案出し、脚気治療の専門医として名声を得ていた。

 森家が千住に移転すると、鴎外は近所に住んでいた佐藤元萇のもとを頻繁に訪れ、漢詩の手ほどきを受けた他に、和漢方の古典を借り出して読みふけるようになった。元萇は幕府の医学館で渋江抽斉の後任者となった優れた漢方医であった(中井義幸、「鴎外」誌、十二号、昭和四十八・三)。鴎外が大學の教科書に、漢方について書き込みをし、主任のシュルツエに叱責されたこともあった。鴎外のドイツ留学中にも二人の間に文通が続いていたが、帰国後、鴎外は漢方に対して否定的な態度を示すようになっていった。この点については後で詳細に検討しよう。

 

3・2 ドイツ留学の医学者たち

 明治政府は多数の留学生を海外、特にドイツに送り出した。そのうちでもベルリン大學への留学生は、維新以後の五十年間に七百人以上に達した。ドイツの科学・技術は十九世紀半ば以降、急速な進歩を遂げ、医学、化学、物理学などの分野で世界の主導権を握るようになっていったが、それにはベルリン大學の創立に係わるフンボルトの理念が大きな役割を果たしていた。ナポレオンとの戦いに敗れたプロシヤでは、国家の再建を精神の再興に求めようとする気運が高まり、フイヒテの「ドイツ国民に告ぐ」の連続講演やベルリン大學の創立が大きな刺激を与え、このような精神の高揚の内に、目先の利益ではなく、普遍的な真理の探求を目指す「学問のための学問」が推挽されていった(ベン・デービット、科学の社会史、至誠堂、1974)。

 医学について見れば、フランス大革命により、パリに大病院が創られ組織的な医療が行われるようになったことを背景として、個々の病人を治療しようと務めるだけではなしに、抽象化・普遍化された病気という現象を、「構造」として捉えようとする眼差しが生まれてきた(フーコー、臨床医学の誕生、みすず、1969)。このような視点の変化を受け継ぎつつ、より厳密性を備えた生理学や細菌学とむすびつくことで、「学問のための学問」という理念に支えられた「研究室医学」生まれ、これがドイツを西欧医学の中心へと押し上げていった。

 それまで我国には全く存在しなかった、この沸騰するような学的雰囲気を体験した留学生たちは、そのような研究法や学術体制を我国にそのまま移植しようとした。明治二十二年に二十七名の教授達の連名で発表された「帝国大學組織私案」もこのような試みの一つであり、これは小金井良精の起案、森鴎外の修文であると見られている(東京大学百年史、通史(一))。

 明治二十年頃の大学卒の医師の数は千名未満でしかなく、この他に医学専門学校卒や各種医学校・私塾出身の洋医が約五千名いたが、これとは別に約五万人の和漢方医がいた(日本科学技術史大系24・医学、第一法規出版、1965)。これらの専門学校出身の洋医達に最新の西洋医学情報を伝え、再教育することは、全国的な医療水準の向上のために必要なことであった。このような状況の下に、明治二十三年に、医学講演会を開催することが企画された。この講演会の推進者となったのは、当時の医療行政の中枢にいた、池田謙斉、長与専斉、石黒況斉らの蘭学系の医学者、および英国で医学教育を受けた高木兼寛らの乙酉会のメンバー達であった。その内でも、石黒況斉は大學東校に奉職していた当時、このような再教育を担当していたこともあり、その重要性を良く認識していた。そして、この企画が発表されると全国的な反響を呼び、実際の参加者は千七、八百名に達した。

 しかし、このような動きに対して、ドイツ流の医学を定着させることこそが、我国の医学の進歩に不可欠であると考えていた大学系の医師達から、批判の声があがった。その最初の動きは、明治二十二年八月に、医事新聞に天随子の名で発表された『黄金と日本医学会』であり、その中で、乙酉会のメンバー達が、各自が百円宛を拠出したことを取り上げて、黄金の力をかりて医学界を左右し、自分たちの勢力を扶植しようとしていると批判した。この後を受けて、鴎外は『日本医学会論』を「東京医事新誌」に掲載し、医学会の企画・運営が不明朗であり、単なる知識の交換会でしかないと断定した。この後まもなく、鴎外は「東京医事新誌」の主筆を解任されるが、その一因はこのような医学界の長老批判にあったと見られている。鴎外はこれに対抗して、自費で「衛生療病誌」を発刊し、科学研究の根底にある近代科学精神の我国への定着を計ろうとする立場から論陣を張っていったが、次第に医学界の中で孤立するようになっていった。

 

 近代科学の誕生のきっかけとなった天文学や物理学に関連して、ガリレオは「自然は数学の言葉で書かれた本である」と述べているが、自然科学の中でも最も整然とした体系や厳密性を誇っている天文学や物理学の普遍妥当性は、数学との結びつきにより保証されていると云うことができる。これに対して医学では、そこで用いられる概念それ自体があいまいで、普遍性・厳密性に欠けている。しかし十九世紀に入ると、各種の物理化学的手法が導入されるようになり、また症例データの統計学的解析による数値化などにより、疾病を「構造」として捉えようとする見方が表面化してきて、医学も厳密な学問としての性格を備えるようになってきた。ピアジエは「構造」を、その要素が完結性、交換性、自己制御の条件を満たすことと定義しているが(ピアジエ、構造主義、白水社、1970)、このような性質は、ある点では、自己限定につながることになる。鴎外が明治四十四年に発表した『妄想』の内で、自らのドイツ留学中のことを回想しつつ、「自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしてゐて、exactな学問といふことを性にしてゐるのに、なんとなく心の飢えを感じてくる。生といふものを考える。自分のしてゐる事が、その生の内容を充たすに足るかどうだかと思ふ」と書いているのも、このような近代科学の性格に、反省を込めて触れていることになる。

 近代科学は、その厳密性、完結生と引き替えに、閉鎖性、排他性を助長することに繋がりがちであり、自己の限定された論理に従わない事象や言説を、非科学的なものとして排除することが稀でなかった。このような教育を受けた医学者達にとっては、もっぱら経験に依存した、あるいは思弁的色彩の濃い和漢方を、学問として受け入れることは困難であり、鴎外が帰国後まもなくの明治二十二年一月に発表した「日本医学の未来を説く」や、翌二十三、四年に展開された、いわゆる「和漢方医論争」はこの線上にあるものであった。

 鴎外はこのような医事啓蒙活動の一環として、研究法の一つとして注目を集めるようになっていた統計学の本質についての考察をすすめていった。この「統計論争」は、始め“統計”という訳語が、原語の“スッタチスチック”の訳語として適切なものか否かを巡って、今井武夫との間で開始されたが、やがて統計的量が実質的内容を現すものか否か、統計学が物理学などと同じような実質科学であるのか、便宜的な手段に留まる補助科学にすぎないものか、という本質的な問題へと展開していった。訳語の問題は、明治初期に他の多くの言葉についても論争が繰り返され(柳父章、翻訳後成立事情、岩波新書)、その過程で意味・本質が掘り下げられ、新しい概念の創出に結びつく実りの多い問題であったが、ここでは立ち入らないでおこう。

 これに対して、統計学の本質については、両者の間に根本的な対立があった。今井が念頭に置いていたのは、国政調査や産業統計などの社会統計学であり、そこでは人口動態や国民総生産額を実体的なものとして受け止め、その動向や各種の統計値の間の相関を調査し、政策の立案や経済活動の基礎資料としてそのまま利用されている。一方、鴎外が主な対象としていたのは自然科学の分野であり、そこでは現象が数値化されたとしても、その段階に留まることなく、より深くその本質、ないし基本的法則を明らかにすることを目指すのが普通であって、数値データそのものは、その最終目的のための補助資料として扱われることが多い。

 鴎外が関係した問題に、脚気の病因や治療法の解明があった。そこである因子、例えば麦飯とか小豆粥の摂取量と予防効果との間に比例関係があることから、直ちに予防・治療効果について結論を出すのは早計であり、それ以外の共存している因子についての慎重な検証が必要であると考えていた。

鴎外の脚気論については別途詳細に述べるが、大學および陸軍の関係者の多くは、石黒況斉やベルツらのお雇医師の多くが伝染病説を採っていたことから、全明治期を通じて、伝染病説に左袒していた。究極的には、科学の進歩は基本原理や因果関係の解明によってもたらされるものであり、脚気についても、その根本的な解決のためには、その病理・薬理の研究が不可欠であるが、ベルツが離日に際して行った告別講演で指摘したように、現象論的な対処療法の重要性にも目を向けるべきであろう。

 

 ユークリッド幾何学や古典物理学を典型とする厳密な論理の連鎖と実証性を基礎とする近代科学は、十九世末になると種々の面で破綻を示すようになっていった。それを克服するために導入された非ユークリッド幾何学や量子論を基礎とする現代科学の誕生に当面して、フッサールは、その最晩年の著作『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のなかで、真の理性主義の再生への道を模索しつつ、一切の学問の出発点である生活世界への回帰による、現象の本質理解のための基本的方法論の再検討を企てた。

ところで我国では、明治維新が外国からの武力による強要という緊急事態のもとに進められたこともあって、「脱亜入欧」すなわち伝統的文化からの脱却と急速な近代西欧文明の摂取が、スローガンとなっていた。近代西欧諸国の諸制度や科学技術が、合理性を基礎としていて、論理的整合性が極めて高かったために、その移植は表面的にはかえってスムースに進行し、明治中期には、外見的には一応の近代化がそれなりに定着していった。

 しかし現実には、表層的に移植された西欧文明と、精神の奥底に定着していた因習的生活感情が、個々人の内部に、ほとんど批判抗争なしに、不整合のまま共存するという状況が出現しいていた。後年、ナチに追われて来日し、東北大学で教鞭をとった経験をもつレヴイットは、自ら体験したこのような精神状況を、「階段のない二階建ての文化」と捉え、このような状態では、真の創造的な営為は期待できないのではないかと、危惧の念を表明した(レヴイット、『ヨーロッパのニヒリズム、日本の読者に与える跋』、思想、二二二号、昭和十五・十一)。

 『妄想』に書かれている、鴎外の留学中の特異な心情「自分のしている事は役者が舞台へ出てある役を勤めているに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めている役の背後に別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる」は、このような「階段のない二階建ての文化」という文化につながる、精神的不確かさの反映なのであろう。しかし、“その勤めている役の背後に存在していなくてはならないはずの別の何物か“をはっきりと見定める手だては、留学からの帰途の行李の内になかったばかりでなく、『妄想』を書いている時点の鴎外にもなかったのではないのだろうか。乃木将軍の自刃をきっかけにして歴史文学へと大きく転回した鴎外が追い求めようとしたものは、このような存在の真理だったのであろう。

 脚気問題についての陸軍・大學の対処の失敗は、このような「階段のない二階建ての文化」という状況に起因するものであり、真に創造的な科学の建設のためには、フッサールの説く、「生活世界への回帰」による根本的な思想・文化の再構築が必要であろう。

 

 

  

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