石黒況斉 と 森鴎外( 供 法〕学 を 巡って

                 安川民男

 

 

 

  石黒況斉と森鴎外の意見の対立が始めて表面化してきたのは、日本医学会を巡ってのことであったが、これに関連した鴎外の言説には、見掛け上大きな矛盾があることに前報で注目した。すなわち、食・住などの生活文化については「何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしてゐよう筈はない」と言明していた鴎外が、他方では「日本固有の医学は一個の零点なり」と断定し、西欧医学への全面的な追従を主張していた。このような見掛け上の混乱や矛盾は、明治期の学術・思想界に広く見られた現象であり、慎重な考察が必要であると思われる。

 情念や倫理感覚が基本的な役割を果たしている日常的あるいは宗教的生活世界と、学術研究や経済活動のような合理主義が支配する理性世界との間の相関を始めて本格的に考察したのはウエーバーであったが、その後、フッサールやシュッツらは、現象学的手法を導入することで、さらに精緻な議論を展開していった。

 ここでは、医の理念を巡っての況斉と鴎外の対立を念頭に置きながら、徳川期、明治時代における我国の科学思想の特質とその問題点を検討しておこう。

 

  2.1 蘭方医たちのエートス

我国における洋学の本格的な始まりは、杉田玄白らによる「解体新書」の翻訳にあるとすることに異論はない。それ以前にも、医学ではガスパ流などの南蛮医学や紅毛医学が一部で知られていたが、それらは全くの経験的技術でしかなく、体系的な知識の習得の気運がようやくこの時期に芽生え、その中でも解剖学という直接医療に結び付かない分野に取り組んだという姿勢こそが画期的なものであったと云うことができよう。この当時は比較的開放感の溢れていた田沼時代であったとは云え、「新規一切御法度」が社会全体の基調となっていた江戸時代に、一群の蘭学者達を「櫓舵なき船の大海に乗り出せし如く」という冒険的事業へと駆り立てたエトス(情念)はどのようなものであったのだろうか。

 

当時、我国の医学の中心となっていたのは漢方で、徳川初期には「天人合一、陰陽五行説」を基礎とした、思弁的色彩の濃い宋金医学(後世派)が盛んであったが、次第に現実の医療実態からのずれや形骸化の限界が意識されるようになっていた。儒学においても、朱子学の硬直化した思弁性を乗り越え、より柔軟に現実に向き合うべきだとする気運が高まり、伊藤仁斉や荻生徂徠、等が、直接孔子の教えに学ぼうとする古学を唱え、政治倫理や社会制度は、天より与えられたものではなく、堯舜等の先王達が治国平天下の為に定めた作為的な道であると主張した。政治学者丸山真男は、朱子学の格物究理は思弁的な空論に過ぎないとして天の支配を否定し、人為的作為として政治・社会制度をとらえようとする古学の興隆は、我国における近代精神の萌芽を示すものであるとして、徂徠学を高く評価した。

 徂徠の父は医師であり、自らも医学を学んでいたが、その「医家之言」で、医は儒と並んで聖人の道に通じる崇高なものであるとしつつも、儒が大道であるのに対して、医は「気」に直接関わるものであり、経験的実学としての独自の完成を目指すべきであると説いた。しかし、仁斉や徂徠の学説は、本質的には、実践倫理に強く傾斜したもので、自然の理については「風雲雷雨に限らず天地の妙用は人智の及ばざる所に候」とし、このようにして統一的な理の体系を否定した結果として、実学の意義はもっぱら社会組織内の功利的役割により評価されるという相対主義に傾いていた。

このように見てくると、丸山正男の主張するように、徂徠学は政治・社会の面では主体的・近代的思考への歩みに大きな役割を果たしたと言い得るのであろうが、その主体性は反理性的、情緒的な側面を多分に含んでいて、近代人のもう一つの特徴である、理性を信じそれを基に自然に働きかけ、あるいはそれを体系として把握し利用する姿勢の確立には繋がらなかった。

このような時代精神の影響下に、「親視実験」を重んじる古医方が、山脇東洋や吉益東洞らにより提唱された。そこでは後漢の張仲景の「傷寒論」などの、実証的古典が重んじられ、また山脇東洋らにより人体解剖も試みられた。しかし東洞の「医は方技(処方・技術)のみ」という言葉が示すように、実用的な成果に重点がおかれ、基礎的あるいは体系的な把握には関心が薄かった。

 

玄白は若狭藩の蘭方外科の家に生まれ、儒学を徂徠派の重鎮服部南郭の弟子宮瀬竜門に学んでいる。性格的に世故に長けた人で、「日本一流の外科建立致す可しと若年の頃より心懸け」ていた、名利の念の薄くはなかった人であった。しかし功名心だけで前人未踏の大事業ができるものではなく、玄白に対しての徂徠学の影響が多くの研究者によって指摘されている。玄白らが初めて腑分けを視て、それまでの漢方の教えが事実と大きく異なっているのに気付き、「苟しくも医の業を以て君に仕ふる身にしてその基本とすべき吾人の真形をも知らず今迄一日一日この業を勤め来りしは面目もなき次第」と痛感してターフエル・アナトミアの翻訳を思い立ったが、このような職業的倫理観と実証精神の昂まりには徂徠学の影響があると考えてもよいのであろう。

一方、解体新書の翻訳に当初から関わり、とくにその語学の面で、指導的な役割を果たした前野良沢は、その刊本に共訳者として名を連ねることを拒否し、以後名利をよそに清貧のうちに一生を過ごした。その真の理由は明らかでないが、翻訳の内容に多くの学術的な疑問点を残したままに、出版を急いだ玄白の実利的な姿勢に批判的であったのであろうと推測されている。しかし良沢は、世を拗ねるという狷介な性格ではなく、玄白の要請を受けて、その弟子の大槻玄沢の指導を行い、また医学書だけでなく兵学、地理学などの分野の書の翻訳も行っている。その名利を度外視した静謐な生活の内に、後の優れた洋学者杉田成卿にも見られたような、鋭い社会批判が籠められていたのかもしれない。 

解体新書が刊行された翌年に来日したツユンベリーは、次の年に江戸に参府し、共訳者の桂川甫周や中川淳庵らと親密な交遊関係を結んでいる。この時期、平賀源内らにより開催された物産会が盛況で新規なものが持てはやされていたが、これらの人達に世界の果てまでの総ての生物を分類・命名し体系化する事こそが博物学者としての使命とするリンネの使徒としてのエトス(西村三郎、リンネとその使徒たち、人文書院、1989)がどの程度まで理解できたのであろうか。

 

この時代には、朱子学と不可分的に結びついている陰陽五行説が、現実から遊離した空理空論に流れがちであることが指摘され、批判されるようになっていたが、高度な体系性・理念性を備え、主体的な自己意識を持ち、さらに「朱子語類」に見られるような精緻な自然観察や柔軟な思考は、同時代の西欧の思想家(トマス・アクイナスら)よりも近代的な側面を備えており、再評価が必要であろう。幕末になると、強い理念性や体系性を備えた西洋文明に対抗するための思想的根拠として、朱子学が見直されるようになり、横井小楠や佐久間象山が指導的な役割を果たすようになっていった。

 

解体新書の成功が刺激となって、大槻玄沢、宇田川玄随ら、第二世代の優れた蘭学者たちが輩出し、さらに幕府は文化八年(1811)に浅草暦局のなかに「蛮書和解御用」という翻訳専門の部所を設け、次の世代が養成されていった。しかし世俗的成功は先駆者たちが持っていた厳しい倫理観を低下させることに繋がっていき易い。大槻玄沢の開いた「芝蘭堂」では、学塾への入門者に誓紙血判のうえ他者への伝授を禁じるなど、芸道の家元的を思わせるような閉鎖的色彩を残している例がみられ、また医療に当たってもいろいろの問題が生じたりした。 

玄白の孫で、当時最高の洋学者と認められていた杉田成卿が、嘉永二年に医の倫理書「医戒」を刊行したのは、このような風潮に対しての警世の意味を込めたものだったのであろう。「医戒」は、ベルリン大學教授フーヘランド(1762−1836)の最晩年の著書「エンシリデイオン・メデイキュム」の最終章を翻訳したもので、原著は医学必携といった内容の大冊本であり、鴎外文庫にも所蔵されている。学風は自然良能的なもので、その蘭訳書は当時我国で広く読まれ、何種類かの抄訳が刊行されていた(杉本つとむ、教養文庫「医戒」、解説)。成卿も良沢と同じく晩年を隠逸の中に送ったが、酔えば「フレイヘイド(自由)」と叫んでいたという。このことは、単なる道義的低下というだけでなく、洋学を通して西欧思想の一端に触れ、当時の社会の状況に暗然たる思いに取り付かれていたという側面もあったのであろう。

 

シーボルト事件、蕃社の獄などで冬の時代を迎えていた蘭学は、その後アヘン戦争、ぺりー来航をきっかけにして、広く西欧の事情や科学技術を学ぶ必要があることが明らかとなるや、幕府もその重要性を認めるようになり、安政二年(1855)に「蘭書和解御用」を「洋学所」に改め、更に翌年には「蛮書調所」と改称した。長崎での海軍および医学伝習もその一環をなすものであり、長崎医学伝習所でのポンペや松本順の業績が、それ以後の我国の医学の進路に大きな影響を与えることになった。

安政五年に江戸在住の蘭方医達が神田お玉が池に作った種痘所は、その後幕府の官立の西洋医学所となり、文久三年には医学所と改称され、緒方洪庵が頭取に迎えられたが、過労のため急死すると、松本順がその後を引き継いだ。この時期に、後に軍医総監として鴎外の上司となる石黒況斎(忠悳、越後片貝村の出身)もこの医学所で学んでいる。その回想録「懐旧九十年」には、維新前夜に蘭学を学んだ若者達の生活が生き生きと描かれていて、「福翁自伝」に劣らない優れた伝記となっている。この当時、医学所では物理、化学、解剖、生理、病理、内科、外科の基礎科目を重視した浩瀚な「医学七科書」が争って筆写され学ばれていた。これはポンペの長崎医学所での講義を松本順が筆記した講義録で、当時最も新しい体系的教科書であった。

鴎外の父静男が学んだのは、松本順が医学所に隣接していた頭取役宅で開いていた私塾のほうであったが、教育の内容は大差ないものであったであろう。森家は代々津和野の藩医であったが、代々直系の継嗣に恵まれず、医学修行のために白仙の下に弟子入りしていた周防国植松村の庄屋の五男吉次泰造が、温厚で篤実な人柄が見込まれて、その娘ミネの婿養子となり、名を静泰と改めた。白仙は漢方医であったが、藩主亀井慈監に従って参勤交代のために江戸へ出向し帰国の途中に、近江国土山で脚気衝心のために急死した。このため静泰は典医としての地位を継ぎ、その後、蘭方を学ぶために文久三年十一月から慶應元年末(帰国の時期については異論もある)までの二年間、その前半は江戸医学所頭取の松本順に、ついでその後、佐倉の順天堂で、当時の最高水準のオランダ医学を学んだ。

鴎外は千住時代の父について、「翁の医学はフウフエランドの内科を主としたもので…・」と記しているが、静男(維新後改名)の医学の基礎はこの時期に作られた。況斎と静男は同時期に同じく松本順に学んでいるので、二人の間に接触があった可能性が考えられる。

 

2.2 ドイツ医学の採用

維新後教育制度が改革され、明治二年に、蛮書調所の後身の開成所は「大學南校」と、また医学所は「大學東校」と改称された。慶應三年に医学所を卒業した後、医学所教官の末席である句読師となった石黒況斎は、維新後しばらく郷里の越後に戻っていたが、明治二年に上京し大學東校に奉職し、医道改正御用係の相良知安と岩佐純の下で医学教育制度の策定に携わった。入り組んだドラマ的経過の末に、我国の医学教育の体制をドイツ医学中心のものとすることが決定されたが、その最大の決定要因は、十九世紀中頃にフランスの病院医学から西欧での医学研究の主導権を奪い取ったドイツの研究室医学がその絶頂期を迎えつつあったこと(ベン・デービット、科学の社会史、至誠堂、1974)、さらにそれまで我国の蘭方医達が主に蘭訳されたドイツ医学書を用い馴染みが深かったことがあげられる。

ドイツ医学の採用が決定される前に、一時ウイリスを中心としたイギリス医学を採用する案が有力だったことがある。いろいろのいきさつの後、ウイリスは藩立鹿児島医学校へ移り、ここで高木兼寛ら後に海軍医学の中心となる人材を育てた。このようにして、ドイツ流研究室医学を中心にした大學・陸軍に対して、イギリス流の経験主義を重視する海軍という色分けが明確になった。このことが後年、脚気病で両者が対照的な対応を採る遠因となった。ドイツ医学採用を決定した大學東校は、明治四年にドイツ軍医ミユレルとホフマンを招き、軍隊風の厳格な規律の下で大幅な教育体制の改革を押し進めていった。

松本順は明治四年に、先に兵部省大輔に任じられていた山県有朋の懇望により軍医寮頭に就任し、軍医制度創設に当たった。このための有能な人材を物色中のところ、石黒況斎が大學を辞任し洋行しようとしているのを知り、兵部省に招いた。これ以後況斎は松本順、林紀、橋本綱常の三代の陸軍軍医総監の下で軍医制度の確立に行政的手腕を発揮していった。

 

しかし況斉は、行政面ばかりでなく、医療の実務面でも不断の勉強を続けていった。当時、我国の医学界にとって、最も重要な課題は脚気対策であった。働き盛りの若者を中心に蔓延するようになってきた脚気は、西欧では稀な病気であっただけに、お雇い医師たちも適切な助言をすることができず、自らの手で解決の道を探る必要があった。そこで、伝統的な和漢方と西洋医学による治療法の優劣を比較するために、明治十一年に、いわゆる脚気病院が開設され、和漢方三名、洋方三名の医師が選ばれて治療にあたり、況斉は治療成績を総括する編集専務に就任した。

このような経験を基にして、況斉は「脚気談」(明治十一年)および「脚気論」〔同十九年〕を刊行した。脚気の病理がほぼ完全に解明された今日の目から見て、これらの著作の欠点を指摘することは容易であるが、むしろ、脚気の本質が全く明らかにされていなかった当時の状況下で、あらゆる可能性を勘案しながら、綿密にその対策を検討した綜合報告として、況斉の医学者としての力量を示すものと云って良いであろう。

明治十二年三月に医学部綜理の池田謙斉からの求めで、医学部綜理心得を兼任することになった。鴎外は明治十四年七月の卒業であるから、学生生活の最後の二年間を況斉の下で過ごしたことになる。明治五年に改正された医学部の学制による卒業生がこの時期に出るようになり、況斉は医学士の学位授与式や卒業生の海外留学の制度化に尽力した。すなわち、医学部本科生の卒業生十八名の最初の学位授与式が十二年十月に行われ、この内から三名が官費ドイツ留学生に選ばれた。以後、多少の変動はあるが、毎年数名の学生が、大學や陸軍から官費留学し、これらの人達がやがて帰国し、漸次外国人教師に代わって医学界の中心になっていった。

いわば況斉は、最後の蘭方医の一人として、新しい学生たちのドイツ留学に筋道を着けたことになるが、送り出した留学生達が、近代科学の新興国ドイツで身につけた科学研究のエートスは、やがて批判の目を蘭方医たちの医務行政や学界運営の在り方に向けることになっていった。

 

 

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