石黒況斉 と 森鴎外 (I) 石黒忠悳 の 人物像

 

    安川民男

 

 

 

  況斉石黒忠悳(1845 ― 1941)は陸軍省医務局長、貴族院議員、日本赤十字社長、枢密顧問官、等を歴任し、広い分野で大きな功績を残した人であるが、森鴎外とはその陸軍省出仕、ドイツ留学、帰国後の勤務等、節目、節目で深い係わりを持っていたことから、この視点からの論及が多くなされてきている。しかし況斉関係の資料に関して「時に研究者の好都合な部分のみが利用され、一方的な解釈の材料される場合がある」ことが指摘されており、このことが況斉自身だけでなく、ひいては鴎外の理解にも歪みをもたらしている可能性が無視できない。

 況斉の生涯の概略は、その自伝「懐旧九十年」(岩波文庫)により知ることができるが、とくにその少壮期の記述がまさに光彩陸離としていて、我国自伝文学の傑作とされている「福翁自伝」にも見劣りしないものであるのに対して、後半生の維新以後の記述が、まだ生存している関係者に配慮したせいか、当たり障りのない、通り一遍の生彩を欠いたものになっていて、また資料としての価値も低いのが、惜しまれている。

 鴎外の陸軍省出仕が、小池―石黒の主導の下に進められたとする通説には、疑問も呈されるようになってきているが、出仕初期の頃には、況斉と鴎外の間の関係は、個人的にもかなり親密なものであり、鴎外が妹喜美子といっしょにお茶会に招かれ、鴎外がその際自宅にあった貫名海屋の書を贈り物として持参したこと、況斉が高価な茶道具を嫌ってすべて新品で廉価なものばかりを揃え、庵を「半円」と名付けていたこと、などが喜美子の「鴎外の思ひ出」に記されている。

 このように、況斉は諧謔味を解する人であり、その号況斉・況翁も、どのような状況にも対応できるようにとの心がけを表したもので、朝令暮改が日常的であった維新創業期の明治政府の上層官僚として生きた人の心情を、ユーモラスに表明したものであった。この逆の例が、ドイツ医学導入に中心的役割を果たした相良知良であり、自ら最善と信じた道を頑なに貫こうとした生き方のせいで、その晩年には裏長屋に逼塞するようにさえなっていたが、況斉は零落したかっての上司に、最後まで細やかな心遣いを欠かさなかった。

 鴎外も自ら恃むところが多く、政治的な配慮は不得手であった。況斉との齟齬が始めて表面化してくるのは、明治23年以降の、日本医学会の開催や医学行政を巡ってのことであった。日本食論や日本家屋説では、「何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしていよう筈はない」という柔軟な態度を取っていた鴎外が、西洋医学、とくに研究室医学と称されていた、高度な体系性を備えるようになっていたドイツ医学の受容に関しては、厳格な追随主義の立場をとり、「日本固有の医学は一個の零点なり」とさえ言明したことについては、精緻な分析が必要であろう。

鴎外としては、個々の知識の習得に止まることなしに、まず何よりも科学研究に不可欠な精神的姿勢の体得が先決であると考えていた。これに対して、明治初期に日本の医学界の実権を握っていた蘭学系の長老達が、西欧ですでに確立している医療技術を即戦力として伝習することで事が足りるとしていることを、それでは自らの研究を軽視し、ひいては西欧の学術精神の真の体得には繋がらない、として批判していった。

 論争それ自体については、軍内部にも、明治初期には、自由闊達に議論を闘わせる気風があり、例えば桂太郎も、若い頃はしばしば火の玉のようになって上司に反論し、このことが却って軍上層部の桂に対する信頼を厚くしたと云われている。況斉も、批判・反論は大いに結構であるが、それは面と向かってなすべきであって、一方的に新聞・雑誌などに発表するのはいかがなものか、と云っている。

鴎外の烈しい医学界批判が、明治32年の鴎外の小倉師団への転補の一因であり、その黒幕に況斉があったとする見方があるが、すべてに慎重な況斉が、そのような見え透いた措置をとるとは考え難い。新しく医務局長となった小池正直は、「意志剛健で自信が強く、所信を貫徹せねば已まぬ」と評されており、軍人たるものはすべからく軍務に専念すべきである、との信念の基に、大幅な人事刷新や、軍医の公余の民間人診療の抑制などの措置を進めていった。鴎外の小倉師団への転補もこのような「小池粛軍」の一環だったのであろう。

明治34年に、医学界革新の盟友であった青山胤通が医科大学学長になると、鴎外の医科大学への転出のはなしが浮上してきた(母峰子宛書簡: 明治34年10月、35年1月)。しかし、鴎外を手放すことを惜しんだ陸相荒木源太郎の裁定により、35年3月に東京の第一師団軍医部長に転補となった。

鴎外を官途に繋ぎ止めたものは、おそらく幼少期教育で「刷り込み」された士大夫意識、すなわち国家の経綸に参画することこそが、選ばれた者としての使命とする潜在意識だったのであろう。明治期の青年達には、広く政治への志向性が見られ、「乃公出でずんば」という強い使命感が見られた。ドイツ留学から帰国後の鴎外は、まず西欧文明の紹介者、啓蒙主義者として活躍したが、これも、圧倒的な力を持って迫ってくる西欧文明に対峙するには、まず何よりも相手を知り、その長所を身につける必要があるとの意識によるところが大きかったのであろう。しかしその精神は、大攘夷という、最終的には異国を克服することを目的としたという偏狭なものではなしに、もっと開かれた、すぐれた文明の成果を率直に評価し、受け入れようとするものだったのであろう。しかしこの間にも、ユングのいう超自我として深層化されていた東洋的心情が時折噴出し、それは晩年になるほど顕在化するようになっていった。

 

 況斉は昭和16年に97歳で没するが、晩年には「不円」という語を愛し、家人に、「人は多少いびつなところや圭角があったほうがよい」としばしば語っていたという。この言葉は、「況斉」と号し、変転極まりない状況に積極的に適応しようとしていた壮年期とは異なる心情を示唆している。昭和3年に田中義一内閣が治安維持法の改正を強行しようとしたときに、枢密院にあって少数派として最後まで反対を続けたという事実は、我々に種々のことを考えさせる。

 

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