医学者森鴎外 の 科学思想 と 脚気問題     

 

 安川民男

 

                       

       

 

            ま え が き

 

 このホームページは、筆者の現在の研究テーマ「幕末・明治期における我国での西洋の受容と克服の試み」に関する試論のうち、これまでに森鴎外記念会刊行の「森鴎外記念会通信」および「鴎外」誌に断続的に発表してきた研究ノートで、鴎外の科学思想および脚気問題に関するものを取りまとめて、鴎外記念会会員以外の一般の方々の閲覧に供するために作成したものであるが、そのまえがきとして、これら一連の小論がどのように関連しつつ、その主題を取り扱おうとしたのかを概観しておきたい。

 

森鴎外は明治17年8月24日に、陸軍省の海外留学生として、ドイツで医学・衛生学を学ぶために、横浜からフランス船メンザレー号に乗って出発した。この当時は海外渡航は船便に限られていて、その便数も少なかったためもあり、この船には鴎外の他に九名の留学生が同船していた。この当時国費で海外留学生を送り出すことは、国力から云っても、国家的事業であり、国家の期待がその肩に懸けられていて、出発に先立つて、鴎外は7月28日に明治天皇に拝謁している。
 足かけ5年にわたる研鑽の後、明治21年9月に帰国した鴎外は、直ちに陸軍軍医学舎教官に任じられ、まもなく陸軍大学校教官を兼務するようになった。それとともに、「東京医事新誌」の主筆に就任し、翌22年1月から紙面を大幅に改革し、以後それを主舞台として、活発な医事評論活動を展開していった。そこで取り上げたテーマは多岐にわたるが、その眼目は、西欧の医学界の最新情報を紹介することを通じて、まだ江戸時代の遺風を色濃く残していた我国の医学界の在り方を批判し、近代西洋医学を受容し根付かせるのに必要な精神的風土を作り上げようとするものであった。しかし、明治23年に開かれた「第一回日本医学会」の企画、運営に関する鴎外の論調が、当時の医学界の実権を握っていた長老達の忌諱に触れ、鴎外は「東京医事新誌」の主筆の座を追われた。

これに対抗して、鴎外は22年12月から、新たに自費で「医事新論」を刊行し戦闘的な医事啓蒙活動を継続していった。これより先に、鴎外は一般国民を対象とした衛生啓蒙のための「衛生新誌」を刊行していたが、23年秋にこの両誌を合併し「衛生療病誌」と改称し、この雑誌に「傍観機関欄」を設けて、以後直接医事行政の衝に当たることのない者としての自由な立場から、活発な評論活動を展開していった。そこでのテーマは多岐にわたるが、鴎外が一貫して主張しようとしたことは、近代科学の成果を社会に定着させ、さらにそれを発展させるために不可欠なエートスを社会に根付かせることであった。

近代西欧文明は整然とした合理主義的な体系を備えていただけに、優れた記憶力と論理的思考力を備えた所謂秀才達にとっては、その成果を学び移植することはそれほど困難なことではなかった。これに対して、それまで無かった新しい学問領域を、自らの力で開拓するには、特異な精神的情念(エートス)が必要である。鴎外は留学中の研究ノートに“大學の奨励すべき点は自身の研究業績を通じて独力で学問形成を続けること。欧州医学の受け売りと買い出しはいとうべきことだ”と書き記している。そして、明治24年9月に「衛生療病誌」に加筆再掲載された「大學の自由を論ず」の中で、自ら見聞したドイツの大學の教職員および学生の自由闊達な気風こそが、学問の進歩の源泉であると強調している。我国における西洋医学の定着に中心的な役割を果たしたベルツも、明治33年にその任を解かれて帰国するに際して、後に残る学徒達に餞として行った演説の中でこの問題に触れて、学問は機械のように単純に移植することができるものではなく、学問の芽が育ち実を結ぶためには特異な大気が不可欠であり、これは西欧においても、優れた先人達のたゆまぬ血のにじむような努力の結果として築かれたものであることを強調した。

しかし我国では、江戸時代の蘭学学習以来、維新後も、すでに確立している知識や制度としての西欧文明の吸収には熱心であったが、その根柢にある学問研究のエートスに関心を向けることはほとんどなかった。その結果として、このような一見迂遠に見える精神論は、留学生仲間からさええ理解されることもなく、次第に孤立していき、これが鴎外の小倉師団への転補の一因となったと見られている。

その後、鴎外に東大医学部教授への転出問題が持ち上がってきたが、鴎外を手放すことを惜しんだ陸相荒木源太郎の裁定により、東京の第一師団軍医部長に転補された。このような経緯から、鴎外は自らの科学思想への確信を堅くし、小倉を離れるに際して、偕行社で「洋学の盛衰を論ず」と題した講演を行い、我国に足りない知識だけを西欧から選択的に採り入れ補えば良いとする、採長補短的風潮を批判し、根源的な真理探求精神の体得の必要性を強調した。・

 

明治の我国の医学界にとって最重要課題は脚気問題であった。この疾病は西欧では希なものであったために、自らの力で対応することが必要であり、その病因や治療法についてさまざまな説が唱えられていた。鴎外も初期の頃から脚気問題に深い係わりを持ってきていたために、その脚気観について、多くの論者により種々の見解が提出されてきてきているが、そのほとんどが、鴎外を強硬な伝染病論者、反麦飯論者と捉えている。しかし、鴎外は祖父を脚気衝心で失っていて、家族は鴎外をその生まれ替わりと信じていたなどのためか、脚気の症状が複雑な様相を呈することに早くから注目していて、病因についても終生慎重な姿勢を保ち、断定的な発言を避けていた。すなわち、鴎外の脚気論の特長は、いずれの病因論・治療法についても、単純な断定を避け、それぞれが内包している難点を指摘するという傾向が顕著な点にある。

日露戦役でも、直接の戦死・戦傷者数よりも、疾病による入院や死者の数が遙かに多く、中でも脚気によるものが突出していたことから、根本的な解決への努力を求める世論が高まり、陸軍を中心にした臨時脚気問題調査会が設置され、明治41年5月30日に官制公布され、その前年11月に陸軍省医務局長に就任していた鴎外がその会長となった。

この当時、脚気の病因として、伝染病説と栄養障害説(麦飯論)が鋭く対立し、この他に食中毒やカビ毒によるとする説も出され、混沌とした状況にあった。鴎外の脚気観は、調査会発足時に鴎外が委員達に配布した資料『脚気問題ノ現状ニ就テ』や大正3年に刊行した『衛生新編』(第5改訂版)にも示されているように、“脚気の名称の下には、種々の原因より生じる疾病の一群が含まれているのであろう。予防法は栄養に重きを置くべきである”と要約して良いであろう。

しかし伝染病説は、ベルツやコッホが支持し、また東京大学医学部綜理心得や陸軍省医務局長を歴任し、我国の医学界に隠然たる影響力を保ち続けていた石黒忠悳、さらに東大医学部長を長年勤めてきていた青山胤通も強硬な伝染病論者であっただけに、東大やその系列に属する研究者のほとんどが伝染病説を採っていたために、鴎外としては慎重な対応が必要であった。

この対立が鮮明に現れたのが都築甚之助の調査会委員罷免の問題であった。都築は陸軍二等軍医正・陸軍習志野病院長であり、はじめは伝染病説を採っていたが、調査会委員に選ばれ、日本以外で脚気研究が盛んであったオランダ植民地ジャワに調査のために派遣され、そこでは脚気の予防や治療に食事療法が用いられていることを知り、帰国後、次第に食事療法に関心を寄せるようになっていった。そこで都築は、玄米や半搗米が有効であることに注目し、米糠の中に有効成分が含まれていると考え、その抽出を企てた。この脚気観の転換は他の委員達の反発を引き起こし、烈しい非難・中傷を浴びることになった。その後、その民間の協力者が、都築に無断で製剤を一般人に配布したことを口実として、都築は調査会委員を罷免された。鴎外が、この問題に種々心を労したことが日記からも窺えるが、調査会の大勢が定まっている以上、辞任はやむを得ないと考えたのであろう、都築を軍医学校教官に任じ、研究に専念できるように取計ろうとした。しかし、医学界の現状に失望した都築は、鴎外の好意を謝絶し、自費でドイツに留学し、以後民間にあって活躍する道を選んだ。

鴎外が明治44年2月に発表した小説『妄想』は、鴎外の精神的成長の半自叙伝として、貴重なものであるが、そのきっかけの一つが都築の罷免だったのであろう。若くして選ばれて海外に留学し、抱負に燃えつつ帰国した主人公が、その後医学研究の管理者の立場に立って改めて祖国の状況を見回してみると、自然科学を育てていく雰囲気がないままに、「高圧の下に働く潜水夫のように喘ぎ苦しんでいる」友人達の姿が目に付くようになった、と書いているが、発表の時期から云っても、この文言が都築の問題を踏まえたものであることは明らかであろう。

大正3年に勃発した第一次大戦で、我国は青島に出兵したが、陸軍では戦時食糧令を改訂して、戦地での兵食を半搗米と麦の混用と定めた。これは味覚的に極めて不味なもので、兵達の強い不満が予想されたが、そこに鴎外の強い決意が窺われる。この措置により、脚気による死亡者数はほぼ十分の一に激減したが、入院率は日露戦役後期とあまり差のないものであった。今日の知識に照らしてみれば、半搗米にしても大麦にしても、有効成分であるビタミンB含有量はそれほど高いものではなく、調理の際の損失や腸での吸収効率を考えると、成人男子の1日当たり最低必須摂取量1.1mgにかろうじて達する程度でしかなく、副食からの補給が重要となる。一方ビタミンBの摂取必要量は、生活環境に大きく左右され、戦場などの過酷な条件下では日常生活に比べて遙かに大量の補給が必要であったが、このような複雑な要因は、当時はまだその詳細は明らかになっていなかった。脚気問題の完全解決を期待していた陸軍首脳部は、このような結果に大きく失望したであろう。そしてこれが、その後間もなくの鴎外の医務局長辞任の遠因の一つになったと考えられる。

 

西欧諸国でも19世紀末になると、その植民地経営と絡んで脚気研究が盛んになり、やがてその予防・治療に有効な成分が単離され、ビタミンと銘名された。その後これ以外にも、各種の必須微量栄養素があることが明らかにされ、ビタミン学が成立し、脚気に有効なものはビタミンBと呼ばれることになった。

 その後、一部の魚貝類の内臓やワラビ・ゼンマイ等に、ビタミンBを分解する酵素が含まれていることが見出され、チアミナーゼIあるいはアノイリナーゼと命名された。これらの食品を生で多量に食すれば脚気になることが示されたが、これは食中毒と捉えることができる。さらに人の大腸内からこの酵素を分泌する細菌が見出され、脚気菌が存在することが確認された。また貯蔵米に見られる黄変米が、脚気衝心に似た症状を引き起こすことが見出された。さらに20世紀後半になって、遺伝子科学の進歩に伴い、遺伝子異常により、複雑な脚気症状が引き起こされる例が見出された。

このように見てくると、鴎外が大正3年に刊行した『衛生新編』(第5改訂版)の中で「脚気ノ単一ナル病ナルカ数多ノ原因ヲ有スル類症ノ総名ナルカハ疑問ニ属ス」と書いたのは、この当時としては極めて的確な見通しであったと云ってよいであろう。

 

                      ( 2009・2・24 )

 

 

 

 

 

 

 

 

    横井小楠および森鴎外関係の研究ノートのリスト

 

 表 題      発表誌     号   発行年月 

 

1)「 況斉と鴎外(一) 」( 石黒忠悳の人物像)

           『森鴎外記念会通信』 122,平成10・4

2)「 況斉と鴎外(二) 」( 蘭学の習得 )

  同上、   123,平成10・7

3)「 況斉と鴎外(三 」( 鴎外の生活世界 ) 、

     同上、   124,平成10・10   

4)「 況斉と鴎外(四) 」( 和魂洋才の模索 )、

   同上、   125,平成11・1

 

5) 「最後の士大夫・鴎外」   同上、   126,平成11・4

6) 「最後の士大夫・鴎外(二)」 同上、   127,平成11・7

7) 「最後の士大夫・鴎外(三)」 同上、   128,平成11・10

8) 「最後の士大夫・鴎外(四)」 同上、   130,平成12・4

9) 「最後の士大夫・鴎外(五)  同上、   132,平成12・10

10)「最後の士大夫・鴎外(六)」 同上、  134,平成13・4

11)「最後の士大夫・鴎外(七)」 同上、  135,平成13・7

12)「最後の士大夫・鴎外(八)」 ( 脚気問題と官僚鴎外の苦悩 )

                 同上、  136,平成13・10

 

13)*「鴎外と魯迅の“諦念」  『 鴎外 』、 74, 平成16・2

14)*「武士道とニーチエ」     同上、  75, 平成16・7

15)「 鴎外と唯識 」、       同上、   76, 平成17・1

16)「 鴎外と脚気問題 」、      同上、  77, 平成17・7

17)*「『かのやうに』を巡って」   同上、  78, 平成18・2

18)*「『大塩平八郎』と『津下四郎左衛門』」同上、 79,平成18・7

19)*「鴎外最後の遺言状」、    同上   81, 平成19・7

 

20)*「横井小楠と森鴎外における東洋の再構築」     平成21.2              

 

 

 

 

  

このリストの 13 ― 20)のうち *印 のあるものは、鴎外の思想を取り扱った別のホームページ

「横井小楠と森鴎外における西洋の受容と克服」

http://book.geocities.jp/yskwongjp/

に採録されている。