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歳時記  


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    平成30年(2018)5月 歳時記
 花言葉  今月の歌  酔いどれ親父の妄想・妄言  酔いどれ道中記  

花言葉 

 
躑躅(つつじ)  花言葉:節度 慎み 恋の喜び(赤い花のつつじ)

 
赤い花色のつつじの花言葉が「恋の喜び」であるのは情熱的に咲き誇る様子からなのでしょう。因みに白い花色のつつじの花言葉は「初恋」。「節度」「慎み」がつつじの花言葉として伝えられているのは何故なんでしょうか。艶やかに咲き競うつつじの花、その花に香りがないことから、自己主張をちょっと抑えた、そんな気遣いが感じられるからでしょうか。それとも、つつじの花に、それに相応しいストーリーがあるのでしょうか。
 大学二年生の時の春、高校時代のクラスメートの女子と公園を散歩。突然彼女はツツジの花をつまみ、唇に運んで蜜を吸う仕草。「甘いよ」と言って彼女が口付けしたつつじの花を僕に手渡した。どぎまぎしながら僕は、つつじの花に、そっと唇を触れた。そんな”物語”を思い出す。

今月の歌 

 
いつの間に さつき来(き)ぬらむ あしひきの 山郭公(やまほととぎす) いまぞ鳴くなる
                                          読人しらず(古今和歌集 巻第三)

 作者は「ほら、山郭公が鳴いているぞ」と、おそらく山郭公の鳴き声を聞くのが楽しく、5月を待ちわびていたのでしょう。だが私には「え、もう山郭公が鳴いているのか」と、慌てふためいた心境になる。梅が咲き桜が咲いたのが昨日の事のように思う。何かを成す訳でもないのに、春があわただしく去っていくことに、ちょっとした苛立ち、焦りを感じる。ただただ無為な時間を過ごしたことのうしろめたさが、そんな心境にさせるのか。
 慌てることもあせることも、それとは無縁な生活をしているのに、こんな心境になるのは何故なんだろう。次々と花を咲かせ、そして散ってゆく春の花。なぜだか春の季節はせわしなく通り過ぎていくようで、それにつられて自分の心もせわしなくなる。もう5月が来てしまった。

酔いどれ親父の妄言・妄想 
 離合集散は人の世の常。とはいうものの年中行事のように繰り返され、それもそのこと自体が目的化され、それに全精力を使い果たしている様は、それを大真面目で報道するメディアの姿勢も含めて、うんざりするだけだ。言い訳のように結ぶ政策合意書の類も、見栄と自尊心、空虚な目標の羅列でしかない。もっともらしく書き綴っていはいても、その場限りで実現性など露ほどにも感じられない。私がサラリーマンの時代に毎年提出する業務申告書の中身と似て業務目標、達成手段など自己弁護と見栄と自尊心の塊でしかない。違うのは、私の場合は業務申告書に記載通りの目標が達成出来なかった場合、年収に影響が出るということだ。彼等にはそれがない。付け加えれば、業務申告書を熱心に、最大の時間をかけて作成する奴ほど、目標の達成率は低く、その時の言い訳も用意周到である。
 それと同じく彼等のこれまでの、そして今の行いを見れば、その政策目標が達成できるか如何かと考えることすら無意味に思う。そしてまた自分たちの要求が受け入れられないなら審議に応じられないというのは、それが法的に認められているか否かといった議論は別にして、正しい手段なのだろうか。審議を拒否しながら、その時間を使い、自分たちの都合だけの離合集散の駆け引きを繰り返す彼等の行いは、彼等が政権担当政党を非難する時の常套手段としえ口にする”国会軽視”そのものではないのか。
 50年も前のことだが、私が少なからず政治に興味を持っていた学生時代、左翼政党の地域担当者との懇談会に出たことがある。私は「政府の議案に反対なのは理解するが、自分たちの要求を受け入れられるような議論を通した努力は必要ではないか」と質問。「仮に我々の要求が受け入れられ、法案が成立した場合、それは政府に協力したことになり我々の手柄にはならない。そんなことはしたくない」と言い返され、私の質問そのことを批判された。今の野党の姿勢を見る限り、その時と全く変わっていない。国会での政策議論、法案審議など、ハナから重要視していないのだ。やることはただ一つ、政権担当政党を非難中傷することだけ。審議や議論を拒否しておいて法案が可決されれば多数派の横暴と声高に騒ぐが、裏返せば自分たちが政権を得たら数を頼りに反対意見など一蹴して自分たちの正当性だけを主張するに違いない。彼らの行動様式は隣国の共産主義政党、社会主義政党の振る舞いに似て、不安を感じる。
 民主的政治の理念とは全く異なる50年前の亡霊に取りつかれたような政党が、それは政権担当する政党も含めてだが、未だに存在しているのはいったい誰のせいなのか。民主主義、民主的政治が日本に定着していないとするなら、それは政権担当政党だけの責任ではなく、野党やそれをリスペクトするメディアにもあるのではないか。いや、畢竟その責任は等しくそれを選択する我々にあるのだろう。

  世の中は さてもせわしき 酒の燗 ちろりの袴 きたりぬいだり

 江戸時代の狂歌師・四方赤良(よもやあから・本名:太田覃・別号:太田南畝)の狂歌である。狂歌の意味は「世の中はちょうどせわしい酒の燗をするときの”ちろり(酒徳利の燗をするときに用いる金属製の容器)”のようなもので、袴を脱いだり着たりして、誠に煩わしいものだ」と一般的には解釈されている。赤良は幕府の公職にあり、退屈で多忙な日常生活を嘆いた狂歌として捉えられているが、皮肉屋の赤良の心をもう少し掘り下げて狂歌に託した意味を考えてみる。おそらく当事者は大真面目で仕事をしているつもりだが、はたから見れば、忙しいのは自分たちが作り上げた旧式の効率の悪いシステムを頑なに守っているだけで、それが仕事でありそのことに疑問すら感じていない役人の意識をからかっているのではないか。赤良の見た江戸時代の官僚機構、政治の仕組みは、赤良の死後200年を経た今の日本の政治システムに通じるものがある。官僚は与野党を問わず政治家と結託して忙しさを演出し、改革など考えようともしない(考えたくもない)今の日本の政治の姿に似てはいないか忙しい忙しいと騒ぐ奴ほど仕事の中身を理解していない。もっともそれを許している最大の貢献者は、やはり我々なのだろう。(2018.4.28)  

 酔いどれ道中記
 ほぼ1年ほど酒を飲むのを止めていたが、今年の初めごろから口にするようになった。寝酒程度のことだが、それも毎日ではなく気が向いた時だけだが、酒が胃の中に染み渡る感触は、大袈裟に言えば生きてる証拠を自分自身で確認している気分である。とはいえ、拒否はしないが酒をどうしても飲みたいという強い思いはない。酒を飲むことに限らず物事に執着しなくなるのは、やはり年老いたからかもしれない。そんなわけで、このところの外出も酒にまつわる話題がない。
 去年の初秋、退院して一か月後に温泉旅館に泊まったことがあったが、旅館で出される料理のほとんどを残す結果になった。美味い不味いの問題以前に、出される量そのものが私には多すぎる。これまでは好き嫌いは問わず出された料理は全てを食べていたが、胃の2/3を摘除した今は物理的に胃の中に食物を入れる量が限られてしまった。貧乏性の私には残すことで罪悪感を感じるが致し方ない。温泉旅館に泊まれば必ず温泉につかる。それも一度や二度でなく、最低でも三度は入ったものだ。しかし、退院後は一度入って、二度目は入る気にならなかった。お腹の縦一文字に切られた手術跡。10キロ以上痩せたためにだぶつき波打つ皮膚の姿を他人に見られる気恥ずかしさ。当分温泉旅館には泊まりたいとは思わなくなった。
 それでも旅には出ている。宿泊を伴わない旅が多くはなったが、旅館、いやビジネスホテルに泊まることも何度かある。一人旅なら元からビジネスホテルを利用していたが、夕食はホテル近辺の居酒屋風の店でとるのが常だった。このごろはコンビニのおにぎりや弁当で済ましている。お金のこともあるが、外食して料理を残すことを考えると鬱陶しい。
 少し前、3月下旬のことだが、ビジネスホテルに4泊ほどして関西方面のお城や三重塔を訪ね歩いた。外食しないとなるとホテルで過ごす時間が長くなる。早寝するしかないが、そのおかげで早朝の旅立ちは気分爽快である。もっとも老人は朝が早いのが通り相場。常に一番電車に乗って目的地を目指す。3月の終わりのまだ薄暗い観光地。人影のない広場のベンチに座って、太陽が登るのを待つ。そんな自分の姿を想像していたが、あいにくの雨模様。もう少しホテルでのんびりしていた方がよかったかと後悔。(2018.04.30)

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    平成30年(2018)4月 歳時記
 花言葉  今月の歌  酔いどれ親父の妄想・妄言  酔いどれ道中記  

花言葉
  
 
こぶし  花言葉:友情 友愛 自然の愛

 「こぶし」は3月から4月にかけて咲く花。筆の穂先のように見える太くて柔らかなつぼみがゆっくりと開いて純白の花びらを見せてくれる。つぼみの形(実の形という説もある)が幼児の握りこぶしに似ていることが「こぶし」の名前の由来と言われている。早春の雑木林、まだ多くの木々は芽吹いていない寂しい風景の中で、ひときわ高い小枝に白い花を咲かす。子供のころ近所の雑木林の中で見たこぶしの花は、決して華やかではないが、穏やかな暖かな季節の到来を告げて優しさと希望を与えてくれた。そしてまた他の木々に先駆けて花をつけ、ときに春の嵐に抗しきれずに、いさぎよくそしてはかなく白い花びらを散らす姿は、私には幼児の握りこぶしではなく「古武士」の姿を連想させた。
 今、私の身近には雑木林や里山はない。近所の庭先に咲くこぶしは昔のように高木ではなく、栽培用、観賞用に適した低木になっている。それでも花の美しさは変わらない。純白の花びらは友情、友愛の花言葉に相応しい。

今月の歌 

  
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
                      在原業平朝臣(ありはらのなりひらあそん) 古今和歌集巻第15
  
昔見し 春は昔の 春ながら わが身ひとつの あらずもあるかな
                      清原深養父(きよはらのふかやぶ) 新古今和歌集巻第16

 「月よ、お前は昔の月とは違うのか。春よ、お前は昔の春とは違うのか。私の身はもとのままの身なのに」 
 「春は、昔見た春と同じ春なのに、私の身だけが昔の身ではないようだ」 
 いずれも春は華やかな季節であることを認め、その春の訪れに詠んだ歌であるが、全く違った感情を表わしている。一つは自分を取り巻いている環境が変化していることを気づいてはいるが、それを認めたくはない情熱を示している。もう一つは、変わらぬ春の訪れに、自分だけが取り残されているような哀れさがにじみ出ている。厳しい寒さの冬のが去り、訪れし春は梅や桜が咲き誇る華やかな季節。春は全ての人に等しく訪れるが、その受け止め方は人それぞれであり、それぞれの春への思いがあるようだ。昔も今も人の思いはさまざま。時代が変わろうが、人の心の有り様はいにしえも今も変わってはいない。

 酔いどれ親父の妄言・妄想
 近頃「老害」という言葉を聞かなくなった。高齢化社会の到来で増々老人の比率が高くなっている。それにも拘らず「老害」という言葉が消えたのは、老人に対する何らかの忖度が働いているのか。まさか、今の老人が昔よりも優れているのではあるまい。今の老人が自己主張を止め、いたずらに地位や権力の座を固持することを止めたのではあるまい。若い世代が真の気持ちから老人をリスペクトしているとも思えない。それなのに「老害」という言葉を久しく耳にしなくなったのは何故だろう
 そんな疑問をもって、ネットで「老害」の単語を検索してみると、いやいや、決して「老害」という言葉が消えたわけではなかった。「老害」という言葉が消えたのは、私が日常的に見聞きする大手マスメディアの世界の中だけの出来事のようだ。
 ネットへの投稿者は主に若い人たちと思えるが、その投稿内容にちっと気になることがある。従来の会社や組織内での先輩あるいは高年齢上司と若い部下の関係からくる世代間の対立といった図式ではない「老害」が目立っているように感じる。

 日常生活の中での高齢者の独りよがりで時代錯誤の行動、社会的ルールの欠如。そんな指摘が若い世代から増えているように感じる。ターゲットにされる高齢者の層は、残念ながら私も属しているいわゆる団塊の世代が中心だ。まるで団塊世代がこの日本から消え去れば日本の社会が明るくなるかのような書き込みもある。これも一面では事実であると、私も認めるところではある。後10年たてば、我々の世代の多く者はこの世からいなくなる。若い世代の人にはそれまでの我慢だと言っておこう。これ以上医療技術が進化して平均寿命が延びないことを祈る。
 それはともかく気になったネットでの書き込みは「ごく普通の安売りスーパーマーケットで店員に商品説明を求め、それが不十分だと怒り出す。或いは自分の知識を得意げに披露して店員の仕事の邪魔をする。また、スーパーマーケットや安売り店なのに昔の百貨店のような過剰なサービスを要求する」等々だが、確かに指摘されるようなことは一度ならず複数回私も目にしたことがある。そんな老人の我儘にも店員は笑顔を絶やすことなく対応するが、迷惑そうにしているのは傍目にもわかる。「またか」と店員は諦め顔だが、多分、気持ちは即座にこの場所を離れたいと思っているのに違いない。私なら「気に入らないのなら他へ行ってくれ」と言い返しそうだが、若い(少なくとも私よりは)店員さんは我慢強く老人の話を聞いている(聞くふりをしている)。こんなことは日常茶飯事だと、そんな様子も感じ取れる。
 暇を持て余した老人の気紛れか、孤独老人の憂さ晴らしか、それとも頼まれもしないのに、はた迷惑を顧みず店員教育をボランティアでやっているつもりか。いずれにしろ本人は自分が間違っているとは考えてもいないだろう。他人に迷惑をかけているといった認識は更々ないのだろう。
 もっとも、かく言う私自身もちょっと気に入らないことがあると、一言二言嫌味を言うことがしばしばある。私自身に自覚はないが、ひょっとして若い人には「老害」老人の一人に数えられているのかもしれない。「他人のふり見て我が身を直せ」と、そんな声が聞こえてきそうだ。
 近頃私も、暇を持て余している所為か、カミさんに付き合って近所のスーパーマーケットにたびたび足を運ぶ。身に着いた性分なのであろうか品物を吟味する前に、ついつい商品の並べ方やプライスカードの書き方や間違いに目が行ってしまう。声には出さないまでも”なにやってるんだ”と小言を心の中で呟く。もっともこの業界に精通しているわけでもなく、商品の陳列方法にしても私が気に入らないだけかもしれないし、間違いといっても大したことではなく、そもそも私が間違いだと思うだけで本当は正しいのかもしれないが、である。
 しかし、ちょっと待ってほしい。「老害」と指摘される老人の行為にもそれなりの理由がある。「老害」行為の一つだと、そんな簡単に片づけないでほしい、と無意識な反応が頭の中で叫び声をあげる。それじゃあ「老害行為でないと言うなら、それはどんな理由からだ」と、強い言葉が返ってきそうだが、残念ながら私自身も明確な答えを持ち合わせていない。ただ「それだけではないだろう」と口ごもるしかない。答えを出せないことに、実に情ないことだと考えながらこの文章を書き綴っていると、ますますストレスが高じてくる。今日も夜半を過ぎた、グラスの焼酎も飲みほした。寝ることとします。おそらく、こうして好き勝手なことを「言いっ放って」逃げ出すことも「老害」の一つに数えられるに違いないのでしょう。(2018.3.27)


 世の中を 思えばなべて 散る花の わが身をさても いづちかもせん
   
 西行法師 新古今和歌集巻第16
 世の中を思うと すべて散る花のようにはかない そのはかないものの一つの我が身を どこへやったらいいのだろう



 酔いどれ道中記
 JR各社が発売している青春18切符というものがある。3年ほど前からしばしば利用している。老齢に達しても今なお青春時代を謳歌している。今年の3月この切符を利用して関西方面を旅行した。青春切符は一枚で5日或いは5人が利用できる切符で、その余りが2回分あったので、カミさんと二人でお花見見物に出かけた。目的地は御殿場線の山北駅。
 通勤時間帯を避けて午前9時少し前に最寄り駅を出発。大船駅で東海道線に乗り換え国府津駅へ向かう。さらに国府津駅で御殿場線に乗り換え山北駅まで。通勤時間帯は避けたが、私と同じ目的地を目指した乗客が結構多い。私とカミさんは座席に座ることができたが、座れなかった乗客もいる。まだ学校は春休みだ。乗客は児童や幼児を連れた家族連れと私と同じような高齢者。割合で言えば高齢者が7割くらいに見えた。自分のことはさておき、近頃の高齢者は元気である。ハイキング姿の高齢者も目に付く。
 山北駅には10年以上前に仕事の関係で一度立ち寄ったことがある。季節は夏。もちろんその時は桜の花はなくここが桜の名所

であることも知らなかった。その時の駅舎の様子も街並みもあまり覚えていないが、人の姿もあまりなく閑散としていたと思う。夏なのに秋か冬の風景であったような思いがかすかに浮かんでくる。それが今日は全く違う印象だ。列をなす花見客と鉄道線路沿いに植えられた巨木の桜が満開に咲き、まさに春爛漫の趣である。 今年の桜は例年より1週間近ほど早く開花したようだ。訪れたのは3月30日。すでに桜は満開で、少し風が吹くと桜吹雪が舞う。2月下旬から3月初めは冬の厳しい寒さが舞い戻ったようであったが、3月中旬以降は初夏を思わせる暖かい日もあった。山北の桜も例年なら3月下旬に開花をして4月になって満開となる。今年の桜祭りも3月25日から4月8日ころを予定しているようだが、この分では最終日には花は散り葉桜になっているのではないか。
 2時間ほど山北に滞在し桜を満喫。山北駅から御殿場に向かう。御殿場は山中湖、富士方面に向かう時の中継地点だが、今までは車を利用しての旅行がほとんどであり、何度も通過したが一度も街中を訪れたことがなかった。鉄道を利用して御殿場を訪れた
のは初めてのこと.
 青春切符は自動改札を利用できず駅員のいる改札で切符を見せる必要があるのは多少不便だが、目的地までの切符を購入する必要もなく気儘に途中下車しても、行き先を変更してもその都度切符を購入する必要もない。当初の予定では御殿場で途中下車せず沼津まで行く予定であったが、急に思い立って下車する。山北で昼食をとらなかったので、気の利いた店でもあれば御殿場で昼食をとることも考えてのことでもある
 御殿場の駅周辺を歩いてみたが、昼食を求めての観光客にはちょっと物足りない。飲食店は居酒屋風のものが多く、その多くは都会でよく見かける看板がかかっている。このところのブームもあってかカミさんはパン屋の看板を探したが、これも見つけられなかった。仕方なく次の列車で沼津まで行くことにした。次の列車と言っても、下車してから50分ほどの時間はあった。
 沼津について、今度は真剣に昼食をとるための飲食店を探す。沼津はサラリーマン時代にはたびたび訪れた街である。とはいえ退職してから十年。仕事で頻繁に訪れていたのは退職する15年以上も前の事なので、最後に訪れてから20年以上の時間が経過している。事実街並みもかなり変わってしまっていた。それでも駅前の商店街は何となく記憶に残っている風景である。ここで何度かうなぎを食べた思い出がある。駅から歩いて然程の距離でもなかったと思う。うなぎを食べる気満々のカミさんを従えて、そのうなぎ屋を探す。ところがそれらしい店にたどり着かない。それらしい店もあったのだが、うなぎ専門店ではなく居酒屋風のメニューしかない。しかも営業は午後5時頃からのようだ。もっとも残念そうな態度をするカミさんと違って、私はちょっと安心した。近頃のうなぎ飯の値段は年金生活者の私にはちっと厳しい。かわりに海鮮丼のメニューのある、これも居酒屋風の飲食店であったが、そこで割安の定食を食べる。まぐろ主体の海鮮丼より小鉢のかつおのアラ煮が美味かった。これにビールか焼酎のお湯割り、それとも冷酒の一杯でもついていれば文句はないが、今日もそれは諦めた。
 沼津から東海道線で大船駅に向かう予定であるが、熱海どまりの列車がホームに入ってきた。新幹線と違って東海道線は熱海でJR東海とJR東に管轄が分かれる。静岡方面から来るほとんどの列車は熱海を超えて運行はしていないようだ。
 日帰りの旅だが時間の制約はない。熱海までくれば、普通列車しか利用できない青春切符でも不安はない。深夜になることを覚悟さえすれば熱海で途中下車して日帰りコースの温泉につかっても十分な余裕はある。ただし今日はそのつもりはない。
 熱海を訪れたのは久しぶりの事ではない。我住まいから東海道線の普通列車を利用しても1時間半ほどの距離にある。昨今、熱海の温泉街も活況を取り戻しつつある。手近に観光気分が味わえる街でもある。毎年一度か二度は必ず訪れている。駅から海岸へ降りる道沿いに作られた商店街の馴染みの店で温泉まんじゅうを買う。干物を買おうと品定めをしたが値段に見合う干物が見当たらない。今日は買わないことにした。駅に戻り、2年ほど前に開設された駅舎に隣接した土産物街で駅弁を買う。自宅に戻って夕食代わりにする予定だ。ついでに買った練り物が伊勢にある会社の加工場で製造されていたのは、味はともかくとしてがっかりとする。土産物街で売るなら、その土地の産品だけで商品をそろえるべきだ。ともあれ、熱海駅から高崎行列車に乗り込む。行き先が東京駅でなく、東京駅からも随分遠い高崎なのはいまだに違和感を感じるが、文句を言っても仕方がない。座席に座って目を閉じ、ひと眠りすれば大船駅に着く。ちょっと疲れた足もその頃には元気を取り戻しているだろう。(2018.3.30)

 

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    平成30年(2018)3月 歳時記
 花言葉  今月の歌  酔いどれ親父の妄想・妄言  酔いどれ道中記  

花言葉
 
 
菜の花  花言葉:快活 明るさ 小さな幸せ

 子供のころ、菜の花は3月末ごろに咲くものだと思っていた。ちょうど桜の花も咲くころで、住まいから少し離れた畑のあぜ道に植えられた満開の菜の花の蜜を求めて、ミツバチやモンシロチョウが飛び回っていた情景を思い起こす。今、関東地方の菜の花の開花は1月初旬、場所によっては12月から咲いているところもあるようだ。温暖化の所為なのか、それとも菜の花自体が早咲きに変化したのだろうか。いやいや、子供のころの私の記憶が曖昧であっただけなのだろうか。いずれにせよ今でも私にとって菜の花は春の訪れを告げる花であるこに変わりはない。

 菜の花の「菜」は食用であることを意味する。観賞用ではなく古来から菜種油を抽出し、花のつぼみや若葉を食用としていた。青い空をバックに、さわやかな春風を感じさせ、少し控え目に咲く花の姿が「快活」「明るさ」「小さな幸せ」といった花言葉につながっているようだ。 


 菜の花や月は東に日は西に  安永3年(1774)与謝蕪村

今月の歌 
  
 
我がやどの 梅咲きたりと 告げ遣(や)らば 来(こ)と言ふに似たり 散りぬともよし

  我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 来云似有 散去十方吉(万葉集第六巻1011)
   我が家の庭に梅が咲いたと知らせれば、それは来て欲しいと催促するようなものだ。それははしたないことだ
  から告げるのは止めよう。梅が散ってもかまわない。

   告げようとする相手は誰なのか。告げるのを躊躇うのはどんな理由か。詠み人はきっと来てほしいと願ってい
  るのだろう。千年以上昔の万葉人もシャイな心の持ち主が結構多くいたようだ。
   残念ながら我がやどには庭がなく、従って梅の花も咲かない。されど告げる相手もおらず、悩むこともない。

 酔いどれ親父の妄想・妄言
 このところ在日米軍や航空自衛隊の軍用機事故が多発しているようだ。資料がないのでよくわからないが、これは例年に比べて多いのか、それともメディアがこれまで報道しなかった微細な事故をも意図的に報道して拡散しているのか。マスメディアの報道にしか接することができない私のような者は不安しか感じない。だが、今日日本を取り巻く状況を勘案すれば、事故の多発は必然の事のようにも思う。事故は非常事態を意識した緊急的でより高度(危険)な訓練が頻繁に実施されている証拠ではないか。
 私は昨年の秋、日米が共同で使用する青森県三沢基地で行われた自衛隊の航空ショーを見学した。
 北朝鮮の弾道ミサイル発射が想定されていた時期だけに基地内は緊迫した空気に包まれているのかと思ったが、拍子抜けするような長閑な雰囲気であった。朝方に豪雨があったにも拘わらず何万人という多くの見学者が訪れ、基地内に入場する際の持ち物検査も通常と変わることはない。米軍隊員や関係者による飲食屋台や物品販売の出店も盛況である。私がこれまで訪れた日本各地で行われる航空ショーと同じく、ただただお祭り気分が漂うイベントでしかなかった。それから半年ほどの時間が過ぎた。
 メディアの在日米軍、自衛隊の事故報道は機材の劣化、整備の不備がその原因であるとの論調でしかない。基地の存在自体が危険であることを情緒的、日常的な視点でしか報道していないように思う。報道に接する限りでは日本を取り巻く軍事的な状況が急変したようには感じられないが、私には何かの条件が変わってきたような胸騒ぎを覚える。
 メディアの報道を裏読みすれば、少し気になることもある。事故が起きれば在日米軍や自衛隊の関係者が謝罪会見を行うのはこれまでと同じだ。しかし、その報道に接して私の印象はこれまでとは少し違う。謝罪はするが、その態度は少し淡白になったのではと感じる。”緊急事態を想定した訓練が頻繁に行われている状況で多少の事故が起こるのは当然だ”といった不遜(?)な態度が見え隠れするような印象を持つ。
 勿論これは情報や知識の乏しい私の”印象”でしかない。が、これまでと違ってメディアの報道姿勢も、記事そのものからは読み取れないものの少し違っている様にも感じる。事故が起これば執拗に何度も何度も後追い記事を連発するメディアも今回は(一部メディアを除いて)謝罪会見の淡白さに呼応したように静か(?)になったように感じる。メディアも記事にはしないが事態の変化を感じ取っているのだろうか。
 北朝鮮を巡る軍事的な緊張は平昌オリンピックで改善したのだろうか。昨夜(2月25日)閉会式が行われた。IOCの会長が
記者会見で「オリンピックは成功裏に終わった。今度は政治の番」と述べたとの報道があった。外国語を理解できない私には
翻訳されたコメントを見るしかないが、この発言は本当なのだろうか。確かに平昌オリンピックは閉会したが、3月9日から18日までパラリンピックが開催される。IOCとパラリンピックの開催団体は別の組織のようだが、実態としてオリンピックとパラリンピックはセットで行われている。”政治の番”が北朝鮮を巡る緊張を意味しているなら、北朝鮮も参加するというパラリンピックを無視した発言ともとれる。それでなくとも政治に利用されたオリンピックと評価されている今回のオリンピックにさらに泥を塗るようなものだ。
 この発言はさておき世界はパラリンピック終了後に起こる事態を見守っている。ほんの数年ほど前まで、北朝鮮の核兵器開発は極東アジアの一部地域の感心事でしかなかったが、今は全世界(少なくとも先進主要国のあいだでは)の緊張を高める重要な問題と意識されている。北朝鮮が今回のオリンピックに参加したことが「対話」を促し緊張緩和の切っ掛けとなるとの報道もあるが、しかしながらこれまでの経緯から推測すれば北朝鮮は現政権が続く限り核兵器開発を止めたり、現に所持する核兵器を放棄することは有り得ないだろう。
 「対話」による解決は北朝鮮の主張に耳を傾けることでしかない。それでも当面の危機を回避するためには北朝鮮と「対話」して核兵器を放棄しないという北朝鮮の主張に沿って妥協することを世界は望むのだろうか。
 日本と関係の深い隣国である中国は核兵器を実戦配備している。また安全保障上も経済面でも最大の関係国である米国も同様に核兵器を所持し実戦配備している。そうなら北朝鮮が核兵器を所持して実戦配備しても現状から大きく変わることではないと世論は認めるのだろうか。いや、それでいいのだろうか。今の日本の周りは民主的な選挙で選ばれた政権ではない国々に囲まれているのが現状だ。その中でも最も強固な独裁国が北朝鮮であることは誰でも認めることだろう。その独裁国に核兵器の所持を断念させるには選択肢が限られているのは自明のことだと誰でも認識しているのではないか。と同時に、その自明のことを実行するリスクは当然にある。民主的な国家であれ独裁国であれ、戦争を回避したいという思いは(その意図は違うとしても)共通した意識に違いないが、そうであっても回避できない状況もあり得る。もっとも経済制裁や関係断絶は実質的な戦闘行為に他ならないから、すでに戦争が始まっていると理解する方が正しいのかもしれない。そしてまた政治・外交は軍事力を背景として行われるのが世界の常識であることは認めざるを得ない。日本は他国を攻撃する軍事力を持たないことを前提としているが、その範囲内であっても圧力をかけることは可能であり必要なことだと思う。日本人の世論がしばしば頼る国連という組織はユートピアを創造するものではない。それを求める組織体系にもなってはいない。
 などなど、真っ当さを装いながら無知を承知で書き綴ってみたものの、むなしさだけがのこる。国と国との争いごととはいえ、しょせんは人間の性がなせる業。せんじ詰めれば巷の人間模様と変わらない。(2018.2.26)

  丸腰は胸を剣の空鞘か (まるごしは むねをつるぎの そらざやか)
 
 江戸時代・元禄年間(1688〜1703)の川柳。刀を持たぬ姿は敵意を持っていないことを示しているように見えるが、そんな表面だけで人を信じるのは愚か
  なこと。胸は心を包み隠して何を考えているか分かったものではない。仮に心底敵意を持っていないとしても、それを相手が信じることはない。
  空鞘は中身の刀より長くこしらえた鞘のことで、相手を騙すためのもの。

  金見せる客に貰うためし無し (かねみせる きゃくにもらう ためしなし)
  江戸時代・宝暦年間(1751〜1763)の川柳。手練手管に長けた遣り手婆と、傲慢な金持客との騙し合いか。嫌味たっぷりに札束を見せる客は、それで気
  を引かせるだけで実際には金を使うことはない。
遣りて婆の長年にわたって培った、心に刻み込んだ経験則。

 酔いどれ道中記
 いつもの年より寒さが募る。歳の所為かと思ったが、記録的には三十数年ぶりの寒さのようだ。そんなこともあって、この頃は外出も控えがちである。去年までは日課にしていた一時間ほどのウオーキングも二日に一回、三日に一回と回数が減っている。それでも、この時期になれば毎年欠かさず何処かの梅林を訪ね歩いている習慣を閉ざすことはないとネットで各地の梅林の開花状況を調べる。残念ながら今年訪ねようとしていた梅林は、この低温気候の影響でまだ満開を迎えていない。あちこち探して、結局近場の梅林を訪れることにした。
 大倉山公園は横浜駅から東急東横線の各駅停車の電車に乗り、6つ目の駅「大倉山」で下車。、時間にしたら十数分の所要時間で到着する。実に身近な距離にあるが、身近さ故にこれまで訪ねたことはなかった。
 駅舎を出て線路沿いの急坂を登る。短い距離なので急坂でもそれほどの負担はない。10分ほどで急坂を登りきるとギリシャ様式のピロティ―を持つ特異な建物が目に入る。昭和7年(1932)に創建された大倉山精神文化研究所の建物で、現在は大倉記念館として横浜市が運営して一般開放されている。
 建物を創建したのは東洋大学の学長で実業家でもあった大倉邦彦氏。大倉山公園が所在する丘陵地はもともとは観音山と呼ばれていたが、この建物が建てられて以降、大倉山と呼ばれるようになったようだ。

 大倉山公園は三つの区画に大別される。大倉記念館が建つ区域。梅林区域。散策を中心とした区域の三つ。

 梅林区域と散策区域は大倉山記念館の裏側の斜面にある。現在は横浜市が管理しているが元々は東急電鉄が造営した梅林であった。東急は東横線が昭和7年(1932)に渋谷から桜木町まで開通したことを記念して、また集客目的のためにも3ヘクタールの土地を買収して梅林を開設したようだ。
 大倉山記念館へ立ち寄るのは後回しにして、まずは梅林に向かう。梅林の最盛期は昭和12年(1937)頃で、園内には白梅を中心として約千本もの梅の木が花を咲かせていたという。しかし太平洋戦争の戦中、戦後に荒廃し、昭和62年(1987)に横浜市が東急から土地を購入して再整備。現在は約150本の梅が植えられている。最盛期の8分の1程度だが、それでも古木も多くあり、密集して植えられてた区域は壮観である。

 花見に酒はつきもの。出店もあり、つまみのおでんや蕎麦うどんといった軽食も用意されている。ちょっと前ならためらうことなく手を出していたが、寄る年波か、出店のメニューを見ながらどうしたものかと迷う。
 梅の花は満開だが、ちっと寒い。それでも野立ての椅子に座って梅見酒を飲むのも悪くはないと思うのだが、酒を飲まない同行のカミさんはハナから寒空の下でおでんや軽食を食べる気はないようだ。お昼を少し過ぎた時刻だが、急いで食事をするほど腹は減っていないという。どうせなら駅前の商店街の飲食店でランチを食べたいともいう。やむを得ず、多少の未練心を残しつつ、出店の前から立ち去る。
 梅林を後にして大倉山記念館に立ち寄る。ギリシャ神殿風の外観だが、内部は木組も多用されて東洋的な雰囲気もある。建物の設計は旧北海道銀行や日本銀行の広島支店を手掛けた長野宇平治氏で、同氏は古典主義建築の第一人者として著名な設計家だという。総工費は現在の価格に換算すると数十億円にもなるそうだ。80名ほど収容できるホールを備え、いくつかの小部屋が配置されている。いずれも貸し出し可能なようで、訪れたとき小部屋で年配者のグループが主催する版画展が行われていた。プロの作家ではなく、アマチアのようだが出来栄えはなかなかのもの。私も余裕があれば、こんな余生を送ってみたい。(2018.2.23)

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    平成30年(2018)2月 歳時記
 花言葉  今月の歌  酔いどれ親父の妄想・妄言  酔いどれ道中記  

花言葉 

 
水仙(すいせん)  花言葉: うぬぼれ 自己愛 気高さ 

 最寄りの駅へ向かう道路際の空き地に水仙の花が咲いている。去年の暮れから咲き始めていたが、今も枯れることなく可憐な姿を見せていてくれる。冬枯れの空き地に寒さに耐えて咲く花は、可憐さの奥に隠した、弱々しさではない懸命に生きる人の生き様を思い起こしていとおしく感じる。

 スイセンの学名は「narcissus ナルシサス」というそうです。ギリシャ神話に登場するナルキッソスがその語源と言われています。ナルキッソスは美青年で多くの女性の心を虜にしていたが、自らは人を愛することはなく森のニンフ”エコー”の熱愛にも冷たい態度をとり続けた。エコーはこの苦しみ耐えかねてやせ衰え、ついには肉体を亡くして声だけの存在になったといいます。これに復讐の女神”ネメシス”が怒り、人を愛せないのであれば自分自身を愛せよと呪いをかける。ナルキッソスは水面に映る自分の姿に恋をして、その苦しみに憔悴して、水辺にうつむいて咲くスイセンになったという。なおスイセンは有毒で、ギリシャ語ではスイセンをナルキッソス(narkisssos)と呼び、その語源は「麻痺させる」「昏睡」「無気力」「無感覚」という意味のナルケー(narke)と言われています。

今月の歌 
 
 思うこと侍りけるころ 初雪の侍りける日(に詠む)

 
ふればかく 憂(う)さのみまさる 世を知らで 荒れたる庭に 積る初雪 

 辛さばかりが積み重なる世であることを知らないで、荒れた庭に初雪が積もる。悩みのない人にはすがすがしく思う初雪も、悩み多き私には恨めしく感じる。 (紫式部 新古今和歌集第6巻)

 1月の下旬、関東地方に4年ぶりの大雪が降った。大雪と言っても最大で20cm程度の量であるが、雪に備えのない都会の交通網は大混乱に陥った。とはいえ、私は都会生活者であっても人ごとのようにニースを見るだけだ。悩みがないわけでもなく、浮世に不満がないわけでもないが、降り積もる純白の雪は、すべてを覆い隠してくれる魔法のじゅうたんに見える。このまま解けずに、しばらくの間は闇を隠した白いベールだけを見ていたい。

 酔いどれ親父の妄想・妄言
 ホームページのタイトルは”酔いどれ親父”であるが、70歳に達した自分には”酔いどれジジイ”の方が相応しと思うようにもなった。とはいえタイトルを変えることはそれはそれで面倒なことでもある。もっともタイトルを変えようが変えまいが他からクレームがあるわけでもない。そんな思いは自己満足、自己弁護でしかない。そうなら面倒なことはしない方がいい。そのうち気が向いたら変えることにして、今しばらくはこのままで過ごすことにする。
 私の知人に、現在を生きる老人は自分の年齢に八掛けした数字を実年齢として生活すべきという人がいる。現在の60歳を超える老人の体力・知力は、60歳定年を前提とした時代とは大いに違って進化しているというのがその理由である。とすれば私の実年齢は56歳である。まだまだ現役で、働けということか。80歳になってやっとリタイヤを迎えることになる。それはそれで結構なことであるが、素直に同意する気にはなれない。知人は現在の私の生活状況を見て励ましのつもりで「八掛け論」を言ったのであろうが、私は70歳として、今の境遇のまゝでも不満はない。
 70歳の老人の年相応の生活スタイルが世間的にはどういうものかは知らないが(知るつもりもないが)今の自分の生活に不満はない。現在の自分が置かれている生活水準は、おそらく平均的かそれよりやや低い年金生活者であろうと思う。ひょっとして、もっと下層に位置するのかもしれないが、そうであっても意に介さない。それもすべてこれまで過ごした自分の人生の結果である。自分のこれまでの生き様に後悔をしていないと同様に、自分の今の、そしてこの先の境遇に不満をとなえるつもりはない(多少は突っ張った気分ではいるが)。この先何年も生きられるわけでもなく、今更今の境遇を変える必要もなく、従ってその為に56歳に戻って努力をするつもりはない。知人の励ましは、私にとっては大きなお世話で迷惑でしかない。畢竟、人生は「成る様にしか成らない」そう思ってこれまで生きてきた。無責任な言葉のようだが、これが真理だと私は思う。

 年金受給額だけでは生活が成り立たないというマスメディアが発信する記事を度々目にする。近頃始まった話題ではなく、従来から繰り返し報道されてきた事柄だが、近年はそれに多くの若い世代が反応するようになってきた。現在の年金基金を負担する層が、自分たちの年金受給に不安を持っていることがその根底にある。不安を打ち消す材料を明確に提供できない施政者に第一次的な責任があるものの、政争のプロパガンダに資している部分も大いにあると思う。将来の年金が安定して運営されるのかどうかは私には知る由もないが、現在の年金支給額が少ないという受給者の意見には賛同できない思いもある。多ければ多いほど良いというのは、これこそ無責任な意見だ。
 私の親父は零細な個人事業主で年金の掛け金もわずかだった。結果として月額7万円程度の最低支給額でしかなかった。個人事業主として苦労した結果の蓄えはあったが、通常の生活は年金の範囲内で可能であったようだ。親父からは不平不満を一切聞いたことがない。親不孝の私は親の面倒を一切見ることもなく、親父も最後まで一人で生活することを選んだ。最期は孤独死であったことは、さすがの私も慚愧に堪えないが、これも親父の「覚悟」であったと、自分に言い聞かせ、言い訳としている。それなりに蓄えがあったことが親父の老後生活に安定感をもたらしていたことは事実だが、生涯ぜいたくな生活を嫌い、質素、倹約が身に着いた生活態度は、私には、おそらく他の誰にでも容易く真似できるものではないだろう。賭け事はせず、酒も飲まず、外食もほとんどせず、電気、水道、ガスをこまめに切ったりつけたり、エヤコンは無く、灯油の暖房費さえけちったりする。私はそのすべての生活態度に共感するものではないが、自分の生活習慣の戒めとはしている。誰にも健康で文化的な生活をする権利はあると、声高な叫びが聞こえてきそうだが、親父が決して健康で文化的な生活をしていなかったのではない。わずかな年金受給額での生活であっても親父は親父なりの信念をもって健康で文化的な生活を維持して87歳まで生きた(と、私は思っている)。年金の少なさに不満を述べる人に親父を見習えと言うつもりは更々ないが、生きるための自らの努力や工夫は必要だと思う。むしろそのことが健康で文化的な生活をする第一歩ではないだろうか。

 日本の社会保証制度は先進国の中では最低レベルだというマスメディアの発信する記事も目にする。近頃はその度合いも増えたような気がする。本当にそうなのだろうか。大手のメディアといえども、最近のマスメディアの資質は押しなべて週刊誌程度のレベルであると、そんな私の思いが記事の内容に疑問符をつけているだけなのだろうか。
 半年ほど前、胃がんの手術を受けた。私は20年前にも大腸がんの手術を受けたが、その時支払った医療費は数十万円であったと記憶している。その当時は現役のサラリーマンであり収入もそれなりにあり、従って負担する保険料も高く、支払う医療費の負担割合も高かったと思う。今回は無職で年金以外の収入はない。手術を受けたとき私はまだ70歳に達していなかったので、国民健康保険での医療費の負担割合は3割であった。それでも月額医療費の支払いに上限額があって、支払った医療費は6万円程度であった。今は70歳に達して2割負担になったので、今ならさらに低額で済んだのではないか。幸いに民間の医療保険にも加入していたので健康保険対象外の差額ベッド代を支払ってもおつりがきた。手術を受けた病院の担当者から、仮にこの医療費の支払いが困難な場合は相談に応じると、わざわざ丁重に案内も受けた。その必要はなかったので詳しい内容は聞いていないが、支払い困難者にはそれなりの制度があるようだ。このことだけを捉えて、日本の医療保障制度は万全であり、他の先進国と比べて決して引けを取らないと言うつもりはないが、実感として私には日本の医療保障制度に、報道されるような深刻な不足があるとは思えない。
 つらつら書き綴ったが、浮世の騒ぎに我関せずと思いながら、読み返せば結構不満を書いている。まだまだ俗物である自分から逃げ出すことはできないようだ。

 隠遁も浮世不首尾の悪仕舞 (いんとんも うきよふしゅびの わるじまい)
 
  江戸時代の川柳。作者:流枝。出典:不角評「二息」元禄6年(1693)
  隠者的な生活に入る人は、外から見れば世欲から離れた清い人に見えるが、実際は現世(浮世)から落後した人の逃避行にすぎない。



 酔いどれ道中記
 我が住まいから江の島へ行くには幾通りかの方法がある。どの方法をとっても、いずれも時間的には一時間程度の所要時間で大差はない。時間的な差はないが、観光気分を味わうのであればJR大船駅から湘南モノレールで行くのが最適である。普段乗り慣れていない交通機関を利用することは、それだけで旅をしている気 分に浸ることができる。ただし観光気分と言っても車窓から見る景色が素晴らしいわけではない。ただ乗り物が珍しく、少し高い目線で見る街並みがちょっと違った雰囲気を作り出している程度の事ではある。それでも意外に感じるほどスピードを出し、カーブの多いレールを必死に懸垂しながら走り抜ける車体には遊園地の乗り物以上の満足感を得ることができる。
 1月の中旬の平日、午前10時ごろ大船から湘南モノレールで終着駅の江の島へ向かう。モノレールに乗ってゆけば観光気分を味わうことができると書いたが、そもそも江の島は私にとって観光地としての意識はない。所要時間一時間程度で行くことのできる場所にあり、思い付きで訪れる場所である。今日も、他にすることがなく、退屈しのぎに、穏やかな天候を目にして、特に目的はないが、強いて探せば海辺に行ってみたいと、そんな、なんとなくの思いで出かける、そんな場所である。

 湘南モノレールと同様の懸垂型のモノレールが商業運転しているのは日本では2か所しかないという。千葉市が運営するモノレールとこの湘南モノレール。湘南モノレールの運行会社は江ノ電か小田急の関連会社ではと思っていたが、違っていた。現在の経営主体は日本を代表する商社や金融機関がバックとなって新しく設立された企業のようだ。この企業は主に北関東地域でバス運行の会社を複数傘下に収め、湘南モノレールは平成27年(2015)にその企業の傘下になっている。 湘南モノレールが運行を開始したのは昭和45年(1970)。三菱重工が車輛を含む設備機器を製造し、その関係で三菱グループが90%以上の株式を所有していたという。おそらく懸垂式のモノレールを拡販するためのモデル路線の意味もあったと思われるが、残念ながらその目的は達成されなかったようだ。
 それはともかく、モノレールは江の島への観光客が利用するだけでなく沿線住民の貴重な足となっている。3年ほど前に朝の通勤時間に利用したことがあるが通勤通学の乗客で満員状態であった。昼間は(今日の利用状況は)満席ではないものの、観光目的だけではない住民の利用客の方が多いように感じられる。因みに観光客の半分は東南アジア系を中心とした外国人の旅行客だ。日本人の観光客は、私のような老夫婦が数組。若い女性の少人数のグループが2組くらいいるようだが、観光客か近隣の住民なのか判断が付きかねる。余計なことだが、この程度の乗客数で経営的に成り立っているかどうか分からないが、地方の観光地の公共交通機関と比べれば、結構な賑いだと思う。
 モノレールの終着駅、湘南江の島駅で下車して江ノ島へ向かう。500mほどの一直線の小道に土産物や飲食店が並ぶ通りを抜けて海岸通りに出る。そこからさらに約500mほどの弁天橋を渡れば江ノ島に到着する。
 江ノ島には江島神社(えのしまじんじゃ)が鎮座し、弁財天が祀られていることは知っていたが、日本三大弁財天の一つに数えられていることは今日、初めて知った。後日調べたことだが、江島神社では元々は天照大神と須佐之男命が誓約した際に生まれた三姉妹を祭神とし「江島明神(えのしまみょうじん)」と呼ばれていたそうです。それが仏教との習合によってこの三姉妹の女神は弁財天として信仰されるようになったという。因みに日本三大弁財天の他の二つは「安芸の宮島」「近江琵琶湖の竹生島」の弁財天だそうです。

 現在の江島神社の三姉妹の女神は「奥津宮」に多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、「中津宮」に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、「辺津宮」に田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)として祀られいる。また辺津宮の脇にある八角のお堂(奉安殿)に裸弁財天として有名な妙音(みょうおん)弁財天が安置されている。妙音弁財天は全身裸の弁天様で立膝に琵琶抱えた姿で、鎌倉時代中期の作とされる。江戸時代には江の島詣でとして多くの参拝客を集め、現在でも、琵琶を持った姿から音楽芸能の上達を願う多くの参拝客を集めているようです。
 昭和39年(1964)に開催された第18回オリンピック東京大会の時、江の島はヨット競技の会場として使用されたが、2020年に開催される第32回オリンピック東京大会でも江の島が競技会場として使用されることに決定したようです。因みに「ヨット」という呼称は2000年開催のシドニー大会から「セーリング」という名称に代わっている。
 前回東京オリンピックが開催されたの時、私は高校1年生だった。当時私は名古屋に住んでいたが、実兄は東京で社会人生活をおくっていた。その兄から、どんな種目でもいいから入場券を買い集めてくれと依頼された。スポーツにさほど関心があるとは思わない兄貴の依頼に、おそらく仕事上の接待で必要なのだろうと言う親父と一緒に前売り券売り場に並んだ記憶がある。前売り入場券を朝早くから並ばなければ入手できない程、初めて日本で、そしてアジアで開催されるオリンピックに日本中ががフィーバーしていたようだ。今回もそんな雰囲気があるのかどうか。浮世から遠ざかった我が身にはよくわからないが、伝わってくる空気に、前回の様な熱気が感じられない。1964年の経済の高度成長真っただ中にあった日本と、現在は安定した経済環境の違いかなのか。それとも、日本人の民度が向上し、お祭り騒ぎに浮かれることを恥と思っているのだろうか。ともあれ、浮世とは無縁と言いながら、そしてまた当事者になるのは御免という卑怯者ではあるが、傍観者として、私はお祭り騒ぎが無条件に理屈抜きで好きだ。2020年の夏、江ノ島のどこかで、のんびりとした気分で、ビール片手にヨットの帆が揺れるのを眺めているつもりだ。

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    平成30年(2018)1月 歳時記
 花言葉  今月の歌  酔いどれ親父の妄想・妄言  酔いどれ道中記  

 花言葉 

 
いちご  花言葉:幸福な家庭、尊重と愛情、誘惑、甘い香り、無邪気
 
 私の部屋の日当たりのよい場所にイチゴの鉢植えを置いた。観葉植物でも置けば、その方が部屋が華やかになるとも考えたが、近所の花屋の前で、脳内の思考回路より手の動きの方が早かった。答えを出す前に、すでにイチゴの苗を手にしていた。12月の始めに2株のイチゴの苗を買った。買ったときには花はなかったが、温室効果があったのか12月の末になって、一つの蔓に三つの花が咲いた。屋外に置いた自然の状態なら、花をつけるのは3月から5月にかけてのことのようだ。
 イチゴはバラ科の多年草。食用となるのは花托(かたく:被子植物の茎が厚くなった花が育つ部分)で果実ではないという。また現在世界中で広く栽培されているイチゴは”オランダイチゴ”属という。
 ギリシャ神話に登場するイチゴは、愛と美の女神アプロディーテが恋人のアドーニスの死を悼んで流した涙がハートの形をしたイチゴであった。古代ローマではイチゴは愛の象徴とされていた。

 今月の歌
 行く年の をしくもあるかな ます鏡 見る影さへに くれぬと思えば

  去ってゆく年が惜しまれる。朝夕目にする鏡に映る自分の姿が暮れる(暗くなる)様に感じるから(紀貫之)
  行く年への愛惜と年の瀬の心細い心境に、鏡を見て老いを感じて嘆いている様子を重ねている。ます鏡は真澄
  の鏡=よく澄んでいる鏡のこと。


 わがまたぬ 年は来ぬれど 冬草の かれにし人は おとづれもせず

  私が待ってもいない新年が来てしまった。枯草同様に枯れた(離れた)人は訪れても来ない(凡河内躬恒)
  作者は老人であろうか。それとも恋人を待つ若い人か。それによって歌の解釈も大きく変わる。老人であるなら
  私の心境にも似ている。
 
 掲載した2首は古今和歌集(巻第六)に収録されたもの。

 酔いどれ親父の妄想・妄言
 前回、歳時記のページを更新したのは平成25年(2013)の9月のこと。それ以来更新しなかったのはただただ面倒になったから。かれこれ4年以上もの間、ページを閉鎖することもなく放置していたのも、それをする手間すらも面倒に感じていたからに過ぎない。それが本日になって急に更新することにしたのは、特段の理由があるわけでもない。いつもの気紛れ心にそそのかされた、ただそれだけの理由だ。気紛れ心は私であっても私の意志で動いているものではない。だから、今後このページの更新が継続的に行われるかは気紛れ心の気分次第だ。
 今年の年の瀬は、私にとっては初めて経験するような平穏な空気に包まれている。何もすることがない。いや、すべきことはきっとあるに違いないが、何もしなくとも誰からも叱責の声は聞こえない。気紛れ心は勤勉(?)であろうとする私の意思を押さえつける。そればかりか無為な時間を過ごすことを強要する。それはそれで心地よい時間でもあるのだが心の奥では少々戸惑いも感じている。
 定年退職から10年が過ぎた。退職後に小さな会社を立ち上げたが、思惑通りにはいかず見事に失敗。撤収するに、やむを得ず全ての資産を処分した。今年の6月までは不定期にアルバイト的な仕事をしていたが、それも辞めた。辞めた理由は胃癌が見つかり、手術をする羽目になったから。
 癌の進行状態はステージ3だと手術前に言われ、それなりに覚悟はしていた。残すべき資産は何もないので遺言書のような大げさな文書はしたためていないが、後始末の依頼とこれまでの感謝、それに手術の後遺症で寝たきり状態になった時の過剰な治療や延命治療は止めるようにとだけ書置きした。幸か不幸か手術は無事に終わり、今は抗癌剤治療を受けている。ステージ3と言われた進行状況も、手術後にはステージ2に変更されていた。癌細胞が他の臓器に移転してはいなかったようだ。この分なら少なくとも5年は生き永らえそうである。もっとも、これが喜ばしいことかどうかは今の時点では分からない。
 手術で胃の三分の二が切り取られた。残った三分の一の胃で生活するのは想像していた以上に不便なものだ。ただし、このおかげで太り気味であった私の体重は10キロ以上減量し、半世紀前に運動部に所属していた学生時代の体重とほぼ同じになった。このことだけは満足している。身体が軽くなって元気も出た。筋力は衰えたが、軽く走る程度ならできそうな気がする。ただし今はウオーキングに留めて、走ることは実行していない。ほぼ毎日飲んでいた焼酎も、癌を宣告されて以来飲んでいない。アルコールで胃を洗浄すれば回復も早まるのではという私の思いは「馬鹿なことは言わないで」というカミさんの罵倒であきらめた。とはいえ、医者から飲酒を止められているわけでもない。飲酒について当方より何の質問もしていないが、同時に医師からもこれまで飲酒について何等のアドバイスもない。適度な量なら構わないのだろうと勝手に解釈している。新しい年を迎えたら飲み始めようかと思っている。”酒なくてなんで己が人生かな”である。
 抗がん剤治療の不快さを紛らわすため、押入れの奥に仕舞い込んでいた本を取り出して、読書の時間が増えた。これは良い傾向なのか、末期症状の現れか。

 すかし屁の 消えやすきこそ あわれなれ みはなき物と 思ひながらも

 紀定丸(きのさだまる。本名:吉見義方。宝暦10年・1760〜天保12年・1841。江戸の人)の狂歌である。「すかし屁」は音のしない放屁。これを頭に持ってくるとは、狂歌とは言え下品な歌である。しかも人生無常を悟った振りをして、人知れず消え去ろうとする自分の人生に未練たっぷりである。・・・なんとなく我が思いと重なる。(2017.12.28)

 酔いどれ道中記
 久しぶりの東京駅である。サラリーマンであった頃は毎日のように通勤に利用した駅であるが、前回訪れたのがいつの事であったのか忘れるほどに遠のいている。横浜に住んで、東京は距離を感じる場所ではないが、日常的にあえて訪れる場所でもなくなっている。
 私が退職する頃、レンガ造りの駅舎は創建当時の姿に改修する工事が行われていた。丸の内側の駅前広場は工事用の資材置き場になっていて防護壁に囲まれていた。退職後の、それがいつだったのか確かな記憶がないが、レンガ造りの駅舎が完成した直後に東京駅を訪れてはいる。その時はまだ駅前広場の整備は完了していなかったが、少し前に東京駅から皇居に続く行幸通りの改修が終わり、同時に駅前広場も整備されたというニュースを見た。また12月の始めに表参道の並木がイルミネーションで飾られたというニュースも耳にした。その両方を見てみたいと急に思い立ち、気乗りのしないカミさんを連れ出して横浜から東海道線に乗る。
 通勤に東京駅を利用していた頃は東京駅は東海道線の始発駅であり終着駅であったが、今は東京駅を通り越して常磐線、宇都宮線(東北本線)、高崎線方面へも繋がったしまった。便利になった人もいるだろうが、私には残念に思う気持ちの方が強い。これまで在来線で水戸、宇都宮や高崎方面に行くのに東京駅で乗り換えるのだが、それを不便に感じたことはない。横浜から東京を通り越して訪れる地域は私にとっては地方である。商用であれ行楽であれ、地方を訪れるにはそれなりの気持ちの切り替えが必要だ。東京駅で乗り換える時間は頭の切り替え・整理ににちょうど良い時間を提供してくれた。と思いつつ、そんなことを感じるのは、いまだにスマホではない携帯電話を使用し続けている取り残された旧式人間のノスタルジャーでしかないと、自分自身でも自覚はしている。それでも、どうにも説明のつかないうっとうしい気分がつきまとう。もっともこんなことは酒でも飲めば瞬時に忘れる程度のことではある。昔立ち寄った駅近くの蕎麦屋でちょっと一杯ひっかければたちどころに不満解消となるのだが、残念なことに今しばらくは自ら飲酒を禁じている。同行のカミさんもいることだし、飲んだつもりでうっとおしい気分を忘れることにする。
 東京駅に着いたのは午後2時ごろ。一杯ひっかけるのは諦めたが蕎麦屋で遅い昼食でも食べようと私は勝手に八重洲口方面に歩き出す。しかしカミさんは空腹を感じていないという。このまま表参道に行ってもイルミネーションが点灯する時間にはずいぶんと間がある。八重洲の地下街をそぞろ歩きはしたが、それでもたいして時間は過ぎてくれない。あてもなく地下街をうろつく老人二人。はた目には田舎から上京して道に迷った老夫婦の姿に見えたに違いない。
 駅前広場から皇居に通じる行幸通りも整備されたことでもあり、久しぶりに二重橋まで足を延ばすことにして丸の内側に戻る。

 行幸通りは内堀通りまでを一直線で結んでいる。途中の外堀通りの和田蔵門の交差点から振り返れば東京駅がテーマパークの入り口のように見える。江戸時代の城郭跡を色濃く残す皇居と対比するように丸の内に高層ビルが林立する。その両方を同時に眺められるこの場所は近代都市のテーマパークといっても過言でないように思う。
 和田蔵門から二重橋に向かう。一週間後には天皇誕生日である。広大な皇居前広場にはその準備のためのテントが何張りも並んでいた。二重橋に着き、お決まりのポーズの二重橋を人の姿を入れないで写真に収めようとするが、難渋する。今も昔も二重橋は東京観光必須の名所なのだろう。平日の午後ではあるが観光客の姿が想像していた以上に多い。私が初めて二重橋を見たのは中学生の修学旅行の時。あの時は団体旅行の学童や学生で二重橋は人で満ちていたと記憶に残るが、今も人の多さは変わらないものの、人の姿は変わっている。修学旅行生らしい少人数の学生のグループを目にすることはできるが、圧倒的に多いのは海外からの団体旅行客。東京ばかりでなく、今では地方都市や辺鄙な観光地でも頻繁に目にする光景で、決して珍しくはないが、それでも異文化の集団として過剰に意識して構えてしまう。偏見は持っていないと、自分に言い聞かせてはいるが、とっさに本性が出るのは、やはり社会的に落ちこぼれた我が身の性なのかもしれない。

 ずいぶんと昔、バブル経済といわれた時代が始まろうとしていた頃、表参道の並木が今のLEDの光でなく豆電球の光で覆われていた時期がある。イルミネーションで彩られた表参道を訪れるのはその時以来のことだ。山手線の原宿駅で降り表参道に向かう。時刻は午後4時半頃。東京駅を離れるときは曇り空ですでに夕闇の雰囲気であったが、原宿に着くと晴れ間も覗く。まだ夜が訪れるには少し間がある感じだ。
 「暗くなるまで待って」はオードリー・ヘップバーン主演のサスペンス映画の題名。老夫婦の会話には似つかわしくない台詞だ。「暗くなるまでお茶しよう」と若い子の言葉使いでカミさんが先に立って歩きだす。東京駅や皇居では私が主導して先に歩いていたが、ここでは主従が入れ替わる。ここはカミさんにとって勝手知ったる街のようだ。カミさんは紅茶と何やら派手な彩りのケーキのようなものを注文する。私はというと、メニューをめくって特製カレーを注文。その場の雰囲気を考慮することなど、空腹には変えられない。
                                                                                イルミネーションで飾られた並木道を見ようと集まった人の数は想像していた通りで、車道も歩道も混雑していた。それでも、時刻はまだ6時、この街では早い時刻であるのだろう、人の動きも車の列も整然としている。かつての私のように酔っぱらってそぞろ歩きする人の姿が見られない。ちょっと寂しい気分だ。もっともそんな酔っ払いに行く手を遮られれば、自身のことは棚に上げて、しかめ面で睨み返すに違いない。
 原宿から青山通りの表参道口まで歩く。2Kほどの距離でしかない。僅かな時間だが、久しぶりにイルミネーションで飾られた並木道を歩くと、それだけで気分は高揚する。少しだけ若返った気持にもなる。これでアルコールでもあれば何の不満もないのだが、監視つきでは、今日のところは諦めるしかない。
 とはいえ監視役のカミさんも、多分、久しぶりの夜の街の散策なのだろう。私同様に気分はハイになっている様子だ。高い場所から街の灯りが見てみたいという。それならスカイツリーに行こうといったが、東京タワーがいいと言う。カミさんなりのこだわりがあるようだ。
 そういえば、30代の後半に東京に転勤になり、真っ先に訪れた場所が東京タワーだった。展望台に上り大都会を目の前にする。まだ小学生低学年の子供を連れて、これからはじまる東京での生活(実際には横浜に住居を構えたのだが)を思い描いたことがあった。過ぎ去った日々はすべてが懐かしく、そして美しい。聞いてはいないが、おそらくカミさんもそんな思いでいるのだろう。と、勝手に想像したが、カミさんの心はもっと現実的だ。道々、ショーウインドウを覗いてはため息をついている。(2017.12.15)

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