与謝野晶子レヴュー

 
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与謝野晶子記念文学会

 与謝野晶子といえば、日本の教科書にも出てくる日本を代表する女性歌人です。その作風は浪漫主義と言われ、晶子の熱い思いを情熱的に伝えるものであり、今尚その愛好者は多くいます。晶子は歌人、詩人として活躍しただけでなく、小説家、童話作家、評論家、教育者でもありました。その裏にあったのは、与謝野家の経済的理由があり、執筆は晶子にとっては生きる糧であったと言えるでしょう。ここで、簡単に与謝野晶子の生涯を振り返ります。

 

与謝野晶子は、1878年(明治11年)127日、大阪府堺市の菓子商「駿河屋」の三女として生まれました。9歳で漢学塾に入り、琴、三味線もたしなんでいます。堺女学校(現大阪府立泉陽高等学校)入学後は家業を手伝う傍ら、尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉などの小説、また「文学界」など新しい文学のみならず、『源氏物語』や『栄華物語』『和泉式部日記』などの古典にも親しみ、このときの経験が後の晶子の古典文学講義や訳本出版の礎となっと言われています。

 

晶子の創作は20歳の頃より、和歌の投稿で注目されるようになりました。1900年(明治33年)に歌人・与謝野鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表、後の夫となる鉄幹や山川登美子と出会い、翌年1901年(明治34年)、『みだれ髪』を刊行、この秋、鉄幹と正式に結婚しました。晶子は歌人として活躍する中で、鉄幹との間に11人の子どもを得ています。ロシアでは、10人以上の子どもを持つ女性は、「мать героиня」と呼ばれるそうですが、晶子は11人の子どもを生み育てたまさに「мать героиня」であると言えます。

 

晶子はまた旅の人でもありました。晶子が生涯において旅に出た回数は実に172回にも及びます。その中で夫鉄幹を追ってのヨーロッパ旅行と満蒙旅行が海外への旅です。自然とのふれあいは晶子に歌を作らせ、旅もまた晶子に歌を作らせます。

 

その晶子がウラジオストクを訪れたのは1912年明治45(大正元年)5月のことです。パリへ赴いた夫鉄幹を追って、シベリア鉄道でパリへ向かう途上、晶子34歳、日本に6人の子を置いての旅でした。その旅費の工面のため、晶子は『新訳源氏物語』の執筆を急ぎます。晶子の旅は、1920(大正9)末女藤子の誕生以降、増加しています。それは、旅の性格が吟行や帰省から、自身が「旅かせぎ」と称するように、訪れた地でその自然風景を詠み、晶子の目を通して、平凡な町や村が新鮮に歌われることによる「町おこし、村おこし」の効果を期待しての招待旅行であったとされます。

 

極東国立総合大学の詩碑に刻まれているのは、パリ旅行を挟んだ37歳の晶子による歌集『夏より秋へ』に収められている『旅に立つ』です。与謝野晶子といえば歌集『みだれ髪』が有名です。『みだれ髪』は24歳の晶子による歌集であり、鉄幹との恋愛、結婚までの過程における晶子の恋愛風景を歌った399首が収められています。『みだれ髪』という歌集名から見ても、それは古典を愛読した晶子が窺えます。情熱的かつ奔放な愛情表現は現代においてもそのセンセーショナブルで強烈なインパクトをもって高く評価されますが、装丁にもこだわりが見られ、晶子の芸術的なセンスも窺われる歌集と言えます。一方、歌集『夏より秋へ』は、10年の歳月を経た晶子の変貌を感じさせる歌集として評価されますが、それでも尚、『旅に立つ』という歌にあって、妻としての晶子の鉄幹への愛情の深さが窺われます。

 

このヨーロッパ旅行は晶子に多大な思想の変化をもたらしています。実に、帰国後の晶子は、ただ歌人としてのみならず、評論家として、政治や教育の評論を行っています。ウラジオストク来訪1年前の1911年(明治44年)、すでに史上初の女性文芸誌『青鞜』の創刊号に「そぞろごと」を発表し、青鞜社の賛助会員にもなっていますが、帰国後はさらに女性の自立支援活動を精力的に行い、文化学院の創立にも尽力しています。

1942年(昭和17年)52965歳でこの世を去るまでに残した歌は、5万首にも及び、その功績は、没後65年を経た今日でも、その新鮮さ保っているように感じられます。

 

*本文内容に誤りがありましたら、事務局までご連絡ください。


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