攝津正による、濱口桂一郎『新しい労働社会──雇用システムの再構築へ』(岩波新書、2009年)の書評(2009年12月30日(水))

 濱口桂一郎(ホームページブログ)を初めて知ったのは、友人である文芸批評家の倉数茂から教えられてのことだった。畏友倉数は慧眼であり、文学に限らずありとあらゆる事象について幅広く知り、僕を啓蒙してくれている。倉数が現在注目しているのが濱口だということで、濱口の新しい著作である『新しい労働社会』を手に取った。ただ、僕は非常に貧乏で本を買う金がないため、図書館で借りた。

 一気に読み通したが、その論旨の明快と透徹には驚かされた。労働問題に関する著作では出色のものだと感じた。著者自身が語るように(ii-iii)、本書は雇用システムを多様な観点から総体的に捉え、また常識を重んじた議論である。

 現代社会では、多くの人々が労働に基づいて生活を成り立たせています。これを「労働社会」と呼ぶことができるでしょう。部分部分の改善は全体像を常に意識しながら行われなければなりません。また、雇用システムは法的、政治的、経済的、経営的、社会的などのさまざまな側面が一体となった社会システムであり、法解釈学や理論経済学など特定の学問的ディシプリンに過度にとらわれることは、議論としては美しいが現実には適合しない処方箋を量産するだけに終わりがちです。
 わたしは、労働問題に限らず広く社会問題を論ずる際に、その全体としての現実適合性を担保してくれるものは、国際比較の論点と歴史的パースペクティブであると考えています。少なくとも、普通の社会人、職業人にとっては、空間的および時間的な広がりの中で現代日本の労働社会をとらえることで、常識外れの議論に陥らずにすみます。
 本書は、日本の労働社会全体をうまく機能させるためには、どこをどのように変えていくべきかについて、過度に保守的にならず、過度に急進的にならず、現実的で漸進的な改革の方向を示そうとしたものです。それがどの程度成功しているか、興味を持たれたらぜひページをめくっていただければ幸いです。

 倉数茂はまさにこのような姿勢に共感して濱口を僕に紹介してくれたのだと思う。過度に保守的にならず、過度に急進的にならず、現実的で漸進的な改革の方向を示そうとしたというところが重要である。労働問題では、例えばベーシック・インカム論など、「過度に急進的」で「常識外れの議論」が横行している。それをもう一度、現場に、足元に引き戻すこと。本書の狙いはそれだと言える。

 では、内容に入っていこう。まず、「序章 問題の根源はどこにあるか──日本型雇用システムを考える」から。僕は、この部分で最も重要なのは、日本型雇用システムをジョブ制と区別されるメンバーシップ制として把握したところだと考える。

 しかし、どういう種類の労働を行うか、例えば旋盤を操作するとか、会計帳簿をつけるとか、自動車を販売するとかいったことについては、雇用契約でその内容を明確に定めて、その範囲内の労働についてのみ労働者は義務を負うし、使用者は権利を持つというのが、世界的に通常の考え方です。こういう特定された労働の種類のことを職務(ジョブ)といいみあす。英語では失業することを「ジョブを失う」といいますし、就職することを「ジョブを得る」といいますが、雇用契約が職務を単位として締結されたり解約されたりしていることをよく表しています。これに対して、日本型雇用システムの特徴は、職務という概念が希薄なことにあります。これは外国人にはなかなか理解しにくい点なのですが、職務概念がなければどうやって雇用契約を締結するというのでしょう。
 現代では、使用者になるのは会社を始めとする企業が多く、そこには多くの種類の労働があります。これをその種類ごとに職務として切り出してきて、その各職務に対応する形で労働者を採用し、その定められた労働に従事させるのが日本以外の社会のやり方です。これに対して、日本型雇用システムでは、その企業の中の労働を職務ごとに切り出さずに、一括して雇用契約の目的にするのです。労働者は企業の中のすべての労働に従事する義務がありますし、使用者はそれを要求する権利があります。
 もちろん、実際には労働者が従事するのは個別の職務です。しかし、それは雇用契約で特定されているわけではありません。あるときにどの職務に従事するかは、基本的には使用者の命令によって決まります。雇用契約それ自体の中には具体的な職務は定められておらず、いわばそのつど職務が書き込まれるべき空白の石版であるという点が、日本型雇用システムの最も重要な本質なのです。こういう雇用契約の法的性格は、一種の地位設定契約あるいはメンバーシップ契約と考えることができます。日本型雇用システムにおける雇用とは、職務ではなくてメンバーシップなのです。
 日本型雇用システムの特徴とされる長期雇用制度、年功賃金制度および企業別組合は、すべてこの職務のない雇用契約という本質からそのコロラリー(論理的帰結)として導き出されます。(p2-p5)

 僕はここが最重要の認識だと考える。そして、上記メンバーシップ契約とは、非正規雇用ではなく正社員のみのものであり、非正規労働がむしろ典型になってきた現代においては基本的に崩壊していると考えている。例えば僕はパートタイマーだが、長期雇用は保障されておらず、昇給はなく、企業別の組合もなく企業横断的なフリーター全般労働組合に加入している。濱口も、序章が記述するメンバーシップ型とは基本的に大企業のものであり、企業規模が小さくなればなるほどジョブ型に近付くと述べているが、中小企業の、それも非正規の労働者は基本的にジョブ型である。良かれ悪しかれ。僕もそういう働き方をしている。正社員幻想が崩れ、フリーター的働き方をしている人は多いはずだ。濱口の著作の限界を一つ指摘すれば、議論が大企業の正社員中心になっている、ということが挙げられると思う。例えば、第1章は「働きすぎの正社員にワークライフバランスを」と題されている。僕もそのことに反対ではない。しかし、僕自身の関心は、「非正規労働者に一人前の賃金を」ということのほうにある。

 濱口は、「採用における新規学卒者定期採用制と退職における定年制が日本の特徴になってい」ると述べ、「日本以外の社会では、企業が労働者を必要とするときにそのつど採用を行うのが原則」であり、「日本以外の社会では、企業が労働者を必要としなくなれば解雇するのが原則」と述べている。これもいまや揺らいでいると言うべきだろう。リストラの嵐は、早期退職を促し、新卒採用も年々厳しくなっている。そして僕のように新卒採用に乗り遅れた人間には、正社員への扉は固く閉ざされる。望むと望まざるとに関わらず、フリーターとして労働し生活するよりほかないわけだ。

 非正規労働者については、第3節「日本型雇用システムの外側と周辺領域」で言及される。

 高度成長期以前は臨時工の存在が大きな社会問題だったのですが、高度成長期の人手不足によってその大部分が正社員化し、代わって非正規労働者の主力は、主に家事を行っている主婦パートタイマーや、主に通学している学生アルバイトとなりました。彼らは企業へのメンバーシップよりも、主婦や学生といったアイデンティティの方が重要でしたから、このような正社員との格差は大きな問題とはなり得ませんでした。しかしながら、近年、学校卒業後も非正規労働者として就労するフリーターと呼ばれる若年労働者層が大量に出現するとともに、家庭責任のためにパートタイム就労によって生計を立てざるを得ない女性が増加し、このような格差の不合理性がクローズアップされてきました。(p18)

 その通りである。夫なり親といった収入を得ている人に扶養されている非正規労働者ではなく、それで生計を立てている非正規労働者が問題なのだ。働きづめに働いても生活できるだけの賃金が得られないような、そういう労働者こそが。雨宮処凛は、「難民化する若者たち」と語ったが、この豊かな日本にあって、生存自体が困難な層が確実に激増している。

 いろいろ論点はあるが、一旦ここでアップする。