
[ホーム][福田英子][清水紫琴][聖子の影ふみ][作品リスト][ブログ][メール]
| 1885年(明18)、自由党左派の領袖(りょうしゅう)大井憲太郎が主となって起こした事件。首謀者は他に、小林樟夫、磯山清兵衛らがいた(小林樟夫は岡山民権運動のリーダーで、もともと英子の婚約者であった)。 日本の近代化をうたった明治維新も、薩摩・長州による藩閥政治で、いっこうに世の中は明るくならなかった。そこで国会開設、憲法制定、地租軽減、条約改正などを求めて立ちあがったのが自由民権運動である。 (明治7年頃から高揚し、14年頃がピーク) これは国民が起こした日本初の民主主義運動であった。 しかし自由党の成立とともに、運動は政党を中心としたものに移行。すでに各地で過激な行動にはしり、運動にゆきづまっていた過激派は、朝鮮改革に乗じて一気に日本政府の転覆をはかろうとした。それは壮士数十名を養成して爆裂騨をもたせ、朝鮮の要人を殺してクーデターを起こし、清国との緊張関係を利用して日本国内の改革をしようとする革命幻想であった。 しかし、計画は仲間の密告により、朝鮮に渡る直前に発覚。英子が捕まったのは、出航直前に泊まっていた長崎の旅館 であった。大井、小林ら首謀者が大阪で捕まったことから「大阪事件」と呼ばれる。英子は紅一点、わずか21歳の乙女で、女だから目立たないという理由でただひとり爆裂騨をもってい た。 事件は政府に不満をもつ国民から強い支持をうけ、特に女だてらに爆裂騨をはこんだ英子は、国民的人気者となった。獄中にいる間の同情は大変なもので、京都祇園や東京湯島天神の芸妓らは花柳演説会をひらいて、その義捐金を差し入れしている。英子の正義感とまっすぐな生き方が、花柳界で働く彼女たちを刺激したのだろう。 |
![]() 40年たった大阪事件のメンバーたち(大正14年) 東京芝の紅葉館にて 紅一点の英子、前列左端 英子と深く関わった大井憲太郎はすでに故人となり、 右手中央に肖像写真が飾られている。 (写真は東京町田市の村野順三さんからお借りしました) |
・ 自由民権運動
![]() |
明治維新になって約束された公議世論、四民平等は人々につよくアッピールした。 しかし維新から10年たっても国民の政治参加は認められず、憲法もなく、国会もなかった。一方で、徴兵義務や租税負担はきびしく課せられるという封建時代と変わらないものであった。 そこで板垣退助らは民選議員設立建白書をおこし、この運動は各地に広まっていく。 自由民権運動は、国民が起こした最初の民主主義運動である。 運動は当初の士族から豪農商をもまきこみ、各地で小さな結社をつくって勉強会がおこなわれた。それらの中心となるのは、新しい思想に目覚めた青年層の農民や教師たちであった。 政府はこれにたいして、讒謗律(ざんぼうりつ)や集会条例などをさだめて厳しく取り締まった。板垣退助が岐阜で遊説中、刺客におそわれて負傷し、「板垣死すとも自由は死なず」の名言を吐いたというエピソードは有名である。 女性でも岸田俊子や景山英子のように、男性に負けず劣らずの活躍をする人もいて、多くの女性を勇気づけた。 やがて板垣退助が自由党を、大隈重信が改進党を結成するなどして、運動は政党を中心としたものに変わっていく。これらにたいして政府はより厳しい弾圧をくわえたため、各地で過激派のおこす福島事件、高田事件、秩父事件、加波山事件などが相次いだ。大阪事件も運動にゆきづまった急進派が起こしたものである。 しかしこうした事件も政府の弾圧に抗しきれず挫折せざるを得なかった。 |