
戦国武将と『源氏物語』

明治以降、たくさんの源氏絵が海外に流出した。
石山寺には末摘花の帖(じょう)があるが、それからすると全部で200巻以上にも
なるというもの。(ふつうの源氏絵巻はせいぜい10〜20巻くらいである)
一体、誰が何のために、これほど壮大な黄金の絵巻きをつくらせたのか、それはいまだナゾとされる。
絵具は中国やアフリカから取り寄せたもので、いずれにしても莫大な費用がかかる。
さらに、当世一流の絵師によってつくられたものだ。
先におこなわれた「源氏物語の1000年展ーあこがれの王朝ロマン」をみても、
江戸時代の将軍家がきそって源氏絵を描かせたことが分かる。
それは、姫君たちの婚礼道具となった。
源氏絵の9割が16〜17世紀、戦国時代から江戸時代に描かれている。
(それ以前は平安時代の源氏絵が中心だった)
しかし、ニューヨークで見つかったという源氏絵はまた、これらとはちがう。
光源氏が空蝉にせまる場面(これまでの絵巻きには性的なシーンはない)
法要の席で大勢の僧侶が見守るなか、光源氏最愛の藤壺が出家するシーン
火葬の暗い場面
武将たちがお祝いの席で青海波(せいがいは)を舞っている
(青海波はもともと天皇家の繁栄を祝うもので、これは武将が天皇より上だということを誇示するため?)
といった場面が描かれていて、異様といえば異様である。
この背景には、後水尾(ごみずのお)天皇(後の白河院)と、徳川幕府の対立があったようだ。
後水尾天皇(1596〜1680)は、ときの権力者・徳川幕府に翻弄された。
権力者とは、2代将軍秀忠。
秀忠は娘を水尾の妃にしようとしたが、天皇は側近の女に子どもを産ませて、それを拒否。
それから秀忠は、禁中公家御法度を決めて、天皇が政治に口出しできないようにする。
天皇を二条城に上洛させ、武将が青海波を舞う場面を見せつけるなど、の嫌がらせ等々。
天皇にとっては屈辱的なこと。
水尾は1629年、上皇となって院政をしき、幕府と徹底的に対峙した。
このように、源氏絵には、ときの権力者が深くかかわっていたのだ。
これは作者の紫式部も全く考えのおよばぬことだったにちがいない。
『源氏物語』1000年とはいっても、これまで戦国時代の武将とは結びつかなかった。
みやびで華やかな物語と戦国武将ーーおよそ、かけはなれた存在ではないか。
ところが、ところが、である。
両者は密接な関係にあった。
あの織田信長は他の武将に先駆けて上洛し、ライバルの上杉謙信に『源氏物語』の屏風をおくっている。
いち早く都をおさえたことを見せつけるためだ。
このように、武将にとって『源氏物語』は権力を誇示するものだったのだ。
他にも男たちの権力あらそいが如実にあらわれた「黄金の源氏絵」がある。