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![]() 与謝野晶子 明治11年(1878)〜昭和11年(1936) |
大阪堺で和菓子をあつかう老舗・駿河屋の生まれ。堺女学校時代から店番をしながら古典に親しむ。東京から聞こえてくる樋口一葉の名はまだ遠い存在でしかなかった。 地元の短歌会に所属して古くさい歌をつくっていた晶子は、関西にきた与謝野鉄幹にはじめて逢って衝撃をうける。鉄幹は新詩社をつくって歌集「明星」を発行する新進歌人であっ た。鉄幹、晶子、山川登美子の3人は京都の紅葉をみにいって、一泊。師と女弟子2人の妖艶な一夜の後、登美子は結婚のため帰郷。翌年1月、晶子は鉄幹に誘われて京都を再訪、2泊したと思われる。 鉄幹には女学校時代の教え子の林滝野という妻と、生まれたばかりの男の子がいたが、滝野は夫に愛想をつかして実家に帰る。一方の晶子は入れ違いに上京、処女歌集『みだれ髪』を出したのは同棲して2ヶ月目のことであった。その後、正式に結婚。 次々と子供が生まれるなか、競うように歌集も発表する。「君死にたまふこと勿れ」が大町桂月に攻撃されたのは晶子26歳の時。山川登美子が若き未亡人となって復帰、晶子、登美子、増田雅子の共著で『恋衣』発刊。やがて自然主義文学の台頭により「明星」は百号で終刊をむかえる。 ジャーナリズムの寵児として引っ張りだこの晶子と、失意の鉄幹、この頃から夫婦間の葛藤が絶えなくなる。夫婦の危機を打開するために夫外遊(旅費は晶子の奮闘による)、半年後には晶子も寂しくなってパリへ。 帰国した晶子は身重の体で朝日新聞に「明るみへ」という小説を連載。これは前借りした旅費を返済するためであった。 鉄幹は1年以上の外遊から帰国しても世間の評価は変わら ず、日増しにいらだちをつのらせ、夫婦喧嘩の果てに選挙に出たりする。 晶子と平塚らいてうの間で「母性保護論争」が起こったのはこんな時であった。これに対しても晶子は、仕事と相変わらずの妊娠、出産とつづく中、真摯にとりくむ。 失意の夫のために「明星」を復刊させ、晩年、「新新訳源氏物語」を完成させた。 |