第二章 過去の切れ端

 夢の中にいる。
 今はもう遠い過去の残滓。
 戻りたくとも戻れない。
 失ったものは戻らない。
 もう二度と…

 海理が一番つらいときに手を離してしまったのは俺だった。
 そして、守りたかったものを奪ったのは海理だった。

 きっと、海理も、親父も、誰も悪くない。
 お互いに選んだ道を、間違えてしまっただけなんだ。
 ただ…それだけ…


























 空は快晴。どこまでも続く青い空の下、リヴィオヴェルク・サルヴァムはこの上なく不
景気な顔をしていた。
 「はぁぁぁぁぁ〜〜〜……」
 更にため息までプラスされて一層不景気に磨きがかかる。
 「あのなぁ〜…息子の就職が決まったメデタイ日にそこまでガッカリするこたぁねーだ
ろ?普通もっと喜ぶぞ!?親なら」
 横を歩くアルトフォード・サルヴァムは予想していたとはいえ複雑な心境だった。
 今日はグナハーン騎士団の入隊式。
 しかも、剣士として高い評価を受けているアルトフォードは弱冠一八歳にして異例の特
務隊配属。
 俗な言葉で表現するならば『エリート』待遇。
 「…………」
 それなのにこの親父ときたら…
 「嘆かわしい……」
 の一言だ。
 一発ぐらい殴っても罰は当たらないと思う。
 「国家魔法師の息子が何で騎士団なんだよ!?国で一番の魔法師の息子なんだからちょ
っとくらいおとーさんの才能を受け継いでくれたっていいじゃないか!?それなのに魔法
の才能はからっきしで剣の修行ばっかりして気がついたら特務隊なんかに…うぅ〜アルく
んの親不孝者ー!!」
 「アルくんゆーな…。それから親父が特務隊の隊長と仲が悪いからって俺にまでとばっ
ちりを喰らわせようとするな。公私混同もいいところだ!」
 
 まぁ親父の気持ちも分からなくはない。
 『国家魔法師』というのは国で一番優れた魔法師に与えられる称号で、魔法師の超エリ
ートのことを指す。
 そしてわが国の国家魔法師と騎士団のエリート特務隊の隊長殿はそれはもう犬猿の仲と
称されるほどに仲が悪い。
 親父にしてみれば、ライバルに息子を奪われたような心境なのだろう。
 まぁ仮にも国家魔法師の息子である俺は幼い頃から魔法師としての英才教育を受けてき
た。
 しかしその才能が開花することは殆どなかった。
 親父譲りの強大な魔力を持っていても、それを扱う術はあまりにも拙かった。

 魔法の基本は元素の組み立てにある。
 五大元素、架空元素をいかに精巧に組み立て、発動させるかで威力が決まる。
 その基本である元素の組み立てがアルトフォードは苦手だった。
 魔法師とは別名『知識の探求者』。
 一寸の狂いも許されない元素の組み立ては高い処理能力を要求される。
 つまりとても頭を使う作業であり、優秀な頭脳を必要とした。
 アルトフォードが父親から受け継いだのは魔力のみで、優秀な頭脳までは受け継がれる
ことは無かった。
 つまり『バカ』。
 いつまでも魔法師のしての才能を見出すことが出来なかったアルトフォードは、自分自
身に折り合いをつける為に剣術を学んだ。
 瓢箪から駒と言うのはこの事か。
 頭よりも直感で行動することを要求される剣術は見事にアルトフォードの才能にヒット
した。
 それからは剣術の修行に本腰を入れた。
 しかし魔法師としての教育も最低限続いていた。
 アルトフォードとしては剣術だけを学んでいたかったのだが、一応は国家魔法師の息子
としての体面を保つことも必要だと理解していた。
 結果として落ちこぼれ、とまではいかなくても並みの魔法師としては通用するくらいに
は成長した。
 しかし半端な能力で魔法師団に所属するよりも、自分の才能を活かせる場所を選んだ。
 国家魔法師の息子がこの程度、と思われるのも何となく嫌だったし、何よりも父親の後
ろ盾のきかない、自分の実力のみで評価される場所がよかった。
 だから魔法師ではなく騎士になることを選んだ。
 『リヴィオヴェルク・サルヴァムの息子』ではなく、『アルトフォード・サルヴァム』
として個人を評価してほしかったから。

 決してこの公私混同甚だしいノーテンキ親父へのささやかな反発などではない。 
 ……多分。

 「いつまでも過ぎたことをウジウジ言ってんじゃねーよ。国家魔法師の名が泣くぞ!?」
 「うー。アルくんはつめたーい。おとーさんはかなしいよぅ…」
 …蹴っていいか?
 …こいつ蹴ってもいいか!?

 「さてと、入隊式も終わったしそろそろ仕事に戻るよ」
 「さっさと行け」
 気がつけばリヴィオヴェルクの職場である魔法師棟のすぐ側まで来ていた。
 「アルくん。もう少しおとーさんに優しくしてくれても罰は当たらないと思うよ?」
 「『オトーサン』。もう少し父親としての威厳があってもいいと思うぜ?」
 「…………」
 「…………」
 「アルくんのバカー!!」
 リヴィオヴェルクは涙目で魔法師棟に駆けていった。

 威厳のカケラも無い。
 あんなのがグナハーン随一の魔法師だというのだから世の中絶対間違っている。

 威厳が無いのは年齢にそぐわぬ童顔の所為でもあるのだろうけど。
 
 魔法師は通常の人間よりも歳を取るのが遅い。
 魔法の行使を繰り返すうちに肉体が自然界と同化して、人間よりも精霊に近い存在にな
る為である。
 リヴィオヴェルクは今年で四七になるが、外見だけを見れば二三、四といったところか。
 優れた魔法師ほど肉体の老化は緩やかになる。
 下手をすると数十年後には並んで歩くとアルトフォードの方が父親に見られるという可
能性がある。
 何とも恐ろしい未来予想図だ。
 今でも親子というよりは兄弟に見られがちだというのに…

 「外見関係なくあの親父に威厳を求める方がどうかしてるかもな…」
 威厳のカケラも無いあの性格はリヴィオヴェルクの長所でもある。
 誰に対しても気さくで、物腰柔らかく、笑顔を絶やさないリヴィオヴェルクは多くの人
に好かれた。
 ただし、厳格を重んじる特務隊のジオクライスト隊長には大いに嫌われていたが…
 アルトフォード自身もそんなリヴィオヴェルクを決して嫌いではなかった。


 「……う……ん……あれ…?」
 どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。
 さっきまで真上にあったと思っていた太陽はすっかり沈みかけている。
 「う〜ん…中々治らないものだな…」
 考え事をするとすぐに寝てしまうバカ特有の癖は成長しても中々治る見込みが無かった。
 特務隊へ入隊早々魔法師棟の敷地内で居眠りしていたなんて相当にばつが悪い。
 「……ってゆーか、」
 さっきから膝の辺りに感じるこの温もりは、
 「誰だー!?こいつはー!!?」
 気がつけばアルトフォードの膝の上には六、七歳くらいの女の子が横になって眠っていた。
 「っつーか誰!?マジで!!?」
 どれ程記憶を手繰っても見覚えは無い。
 なのに何故このガキ…もとい女の子は俺の膝枕で熟睡こいてらっしゃるのだ!?
 「………ん」
 むにゃむにゃ、という効果音がいかにも似合いそうな仕草で半分寝ぼけながらも女の子
が起き上がった。
 「…………」
 「…………」
 と思ったらまた寝た。
 しかもまた俺の膝の上で。
 「Zzz…」
 「…………」
 えーと…
 何と言おうかこの状況…
 謎!?
 「訳が分からん」

 「アルくん?」
 謎いっぱいの状況を打破すべく現れたのはノーテンキ国家魔法師、もといリヴィオヴェ
ルク。
 「親父…」
 助けてくれ、とよりにもよってこの親父をアテにした俺がバカだったとつくづく思う。
 「わぁ〜アルくんモテモテだね〜♪でもアルくんが幼女趣味だったなんておとーさん初
耳…いだ!!」
 「しばくぞテメェ…」
 「しばいてから言わないでよぅ…」
 微妙な親子のコミュニケーションが繰り広げられる中、当の女の子はアルトフォードの
膝の上でいまだに爆睡中。
 「おや、この子は…」
 「知ってんのか?だったら早くどうにかしてくれ」
 リヴィオヴェルクは女の子の体を揺さぶって覚醒を促す。
 「海理様。起きてください」
 「〜〜〜〜〜」
 「海理様」
 「…リヴィオ?」
 海理と呼ばれた女の子はゆっくりと目を開けた。
 「お目覚めですか?海理様。アルくんの膝の寝心地はいかがでした?」
 「…ちょっとかたい」
 「…………」
 勝手に人の膝を寝床にしといてその言い草かい…
 「そうですか、それは残念でしたね。アルくんにはもっと太ってもらいましょうか?」
 それ以上言ったらぶっとばす…
 「リヴィオ、このひとだぁれ?」
 「ああ、紹介が遅れましたね。彼はアルくんもといアルトフォード・サルヴァム。僕の
ちょっと可愛げのない息子です」
 「…………」
 ほっとけ… 
 「なんか俺だけ蚊帳の外?ってゆーか今更だけどこいつ誰?」
 どうやら親父には懐いている様だがまさか隠し子なんて事はありえまい。
 「あぁ、ごめんね。彼女は海理・ルナリス・グナハーン。なんとこの国のお姫様なのです」
 「…………」
 お姫様…?
 コレが…!?
 「よろしく…えっと、アル…フォード?」
 しかも早速人の名前間違えてるし…
 「アルトフォード」
 「アルトード?」
 「……呼びにくかったらアルでもアルトでも好きに呼んでくれ」
 「アル…アルト…アルト!」
 お姫様はアルトで決定したようだ。
 「ヘイヘイ。よろしくな海理姫サマ」
 「かいりでいーよ」
 「…わかった。海理」
 なんだか調子を狂わされる子だな。
 「海理様。そろそろ戻りましょうか」
 「うん」
 「アルくん。ちょっと海理様を部屋まで送ってくるから。待っててくれる?」
 「ああ」
 リヴィオヴェルクは海理の手を引いて魔法師棟の方へ向かう。
 「ばいばいアルト」
 「おう」
 振り返って手を振ってくる海理にアルトフォードも手を振り替えした。
 そして二人の姿は遠ざかって行く。
 「…魔法師棟に住んでるのか?」
 でも一国の姫が何で王宮じゃなくて魔法師棟にいるんだ?
 それにこの国に王女がいたというのも初耳だ。
 現在公式に発表されている王位継承者は緋星殿下ただ一人。
 「じゃあ海理は緋星殿下の妹…?」
 でもなんで公にされていないんだろう?
 海理の着ていた服もとても王族が着るものとは思えない。
 「……色々裏があるってことか」

 「お待たせアルくん」
 「……ああ」
 そんなことを考えていたらリヴィオヴェルクが戻ってきた。
 「それにしても何でアルくんが魔法師棟にいたの?めずらしいよね」
 「……知らないうちに寝てたらしい」
 「あーなるほど。それで起き上がったときには海理様が膝の上でおねむだったわけだ」
 「…………」
 「あれ?アルくんどうしたの?機嫌悪い?」
 いつになく暗い息子を心配してリヴィオヴェルクが下から覗き込む。
 「アルくん?」
 「……何で、俺に海理のことを教えた?」
 
 世間から存在を隠された姫。
 隠されるからにはそれなりの理由が存在する。
 一兵卒に過ぎないアルトフォードはそれを知るべきではなかった。
 おそらくは国の機密に関わる事だから。
 それなのにリヴィオヴェルクはあっさりと海理の存在をアルトフォードに暴露した。
 それは国家の中枢を担う者としてあまりに軽率すぎる行動だった。

 「誤魔化す方法なんていくらでもあった。それなのに、なんで…」
 「あの子が、アルくんのことを気に入ったみたいだったから」
 「……それだけの理由かよ」
 怒るの通り越して呆れた。

 「あの子は、とても重い運命を背負っている」
 「親父?」
 目の前にいるのはいつものノーテンキな父親ではなかった。
 国家魔法師としてのリヴィオヴェルク・サルヴァムの顔。
 息子であるアルトフォード自身も数えるほどしか見たことの無い真摯な表情だった。
 「いつか、あの子の力になってあげてほしい」
 「……俺に出来ることがあれば力になるのは構わねーよ。でも所詮知れてるぞ?俺魔法
師としての能力低いし、騎士としても駆け出しだし」
 「大丈夫!君は僕の自慢の息子だから!!」
 「…………」

 何だか、久しぶりに『親父』の顔を見た気がする。
 幼い頃からずっと憧れていた。
 いつか追いつきたいと、願っていた。
 俺の、目標だった。
 いつの日か、あの能天気な性格に慣れてしまって忘れがちだったけど…
 リヴィオヴェルク・サルヴァムは確かに俺の理想だったんだ……

 「……俺にとっても…あんたは自慢の親父だよ」
 「……アルくん」
 「…………」

 ああ〜、慣れない事は言うもんじゃない。
 急に照れくさくなってきた。
 あー親父の顔がまともに見れねぇ…

 「うわっ!」
 そんなことを考えていたら唐突に首に腕をまわされた。そのままぎゅーっと抱きついて
くる。
 「親父!!?」
 「大好きだよ!アルトフォード!!」
 「分かった!分かったからはーなーれーろー!!!」
 いい年した親父が往来で息子に抱きついてくるんじゃない!!
 それから『大好き』はねーだろ…
 「やだ!」
 「『やだ!』じゃねぇ!!」
 あー…
 コレさえなかったらほんっとーに自慢の親父なのにな……


 それからアルトフォードは暇が出来れば魔法師棟に足を運んで海理の相手をしていた。

 陽だまりの下、海理、アルトフォード、リヴィオヴェルクで弁当を広げてちょっとした
ピクニック気分だ。
 「海理。そこ食べかすが付いてる。食うなら行儀良く食え」
 口のまわりを食べかすでいっぱいにした海理を見かねて、アルトフォードが海理の口元
を拭いてやる。
 「ありがとー、アルト」
 「ありがと言う前にちゃんと食えるようになること」
 「はーい」
 とかいいつつやっぱり海理は再び口のまわりを汚していた。
 …だめじゃん。

 「そうやってるとかいがいしく娘の世話をやいてるおとーさんみたいだね♪」
 「誰がおとーさんだ…」
 十八の青少年を掴まえて勝手に一児の父にするんじゃない。
 っつーことは何か?
 親父はジーサンか?
 孫発生!?
 「アルト、おとーさん?」
 「ちがう!」
 「じゃあおかーさん?」
 「何でじゃ!!?」
 「うにににに〜〜〜〜」
 トンデモないことをサラリと言ってのけるお姫サマの頬をお仕置きと言わんばかりにぐ
に〜っと引っ張る。
 そんなことをヌカすのはこの口か!?…みたいな。
 「らって、アルトのごはんおいひーから。ごはんをつくってくれるのはおかーはんじゃ
ないろ?」
 引っ張られながらもしゃべる根性は見事。
 しかしそれは一体どういう認識だ!?
 ああ、でも子供にとってはそんなものかもしれないな。
 「ウチは親父が料理ダメだから俺が作ってるんだよ」
 「うんうん。料理上手な息子でおとーさんはうれしい!」

 リヴィオヴェルクの料理は壊滅的に不味い。
 あれを料理と呼ぶのは食べ物への冒涜といっても過言ではないだろう。
 彼に調理器具を持たせた日には、食中毒者が何人発生するか分からない程に酷い。
 七年前、母親が他界してから初めてリヴィオヴェルクの手料理を食べたアルトフォード
はそのあまりの不味さに昏倒し、そして賞味期限切れの材料など一つも使っていなかった
のにいったいどんな不思議調合をしたのか、一週間寝込むほどの食中毒に陥った。
 そしてベッドから起き上がれるようになった頃には、味覚と命を守るために自身が料理
を覚えることを決意した。
 そして二度とリヴィオヴェルクを調理場には立たせまいと誓った。
 
 親父の手料理で命を落とす息子なんて、あまりに惨過ぎる…

 「俺だってどうせならおふくろの手料理が食べたい。でも親父は再婚する気無いみたい
だし」
 「僕はラクスさん一筋ですとも!」
 「ハイハイ。俺が作ればいいわけね」
 結局はこうなるのだ。
 でもそれでいいと思っている。
 母さんを大事にする親父は、やっぱり俺の好きな親父の姿だから。

 「あー、でもおとーさんの料理が恋しくなったらいつでも言って!頑張るから!」
 「あの世が恋しくなったらお願いするよ」
 「……酷っ!!」
 何が酷いもんか。
 一度息子を殺しかけておいてよく言う。
 「わたしたべたーい。リヴィオのごはんもたべたーい」
 「海理様……」
 「死にたくなかったらやめとけ」
 「…………」
 海理に希望の光を見たリヴィオヴェルクにすかさずアルトフォードの鋭い突っ込みが入
る。
 「そんなにひどいの?」
 「あのな…」
 あの殺人料理の恐ろしさをまったく分かっていない幸せなお姫サマに具体的な教授をし
てやることにした。
 丁度、そばを通りかかったゴキブリを指差す。
 「あのゴキブリを食べて『おいしい!』と言える位じゃないと親父の料理に挑戦するの
は不可能だ」
 「…………」
 海理は真っ青になってぶんぶん、と首を振った。
 当然の反応だ。
 それでいい。
 チャレンジ精神旺盛だったらどうしようかと思っていた。安心安心。
 
 リヴィオヴェルクは既に隅っこでいじけていた。


 剣を振る音が風を切る。
 向かってくる相手の剣を受け流し、そのまま懐に入り込んで剣を止めた。
 「それまで!勝者、アルトフォード・サルヴァム!」
 周りから歓声が上がる。
 アルトフォードは剣を収めて、対戦相手と握手を交わした。
 特務隊では毎月、こうやって隊員同士の模擬戦が行われる。
 自分の実力を確認する意味でも、腕を磨く意味でも、この模擬戦は大いに役に立つ。
 アルトフォードはいまのところ全戦全勝。
 負け知らずだった。

 パチ、パチ、パチ、パチ。
 「…………」
 「いや、大したものだ。もううちの隊員では相手にもならぬか?」
 戻ろうとしたところに拍手とともに声を掛けてきたのはジオクライスト・ライトハ−ツ。
 この特務隊の隊長だった。
 騎士団の最高責任者がこんな一兵卒にわざわざ声を掛けてくるとは。
 「ジオクライスト隊長御自ら模擬戦の視察ですか?」
 「ああ。自分の隊の実力は常に把握しておくのが隊長としての務めだからな」
 責任感あふれるジオクライスト隊長らしい発言だ。
 「アルトフォード・サルヴァム。入隊早々模擬戦でうちの副長補佐をのした期待の新星。
いや、実に頼もしい」
 「恐れ入ります」
 そういえばそんなこともあったか。
 更に驚いたことといえば、あれでナンバースリーだったということだ。
 もちろんそんな失礼なことは口が裂けても言えない。
 「父君はさぞかし残念だろうが私は有能な人材が入ってきてくれてうれしいよ」
 「ええ、入隊式の日にはそれはもうぶちぶちと文句を言われました」
 正確にはいじいじといじけまくっていたのだがあえて言う必要はあるまい。
 「魔法師になろうとは思わなかったのかね?」
 「……同じことを、多くの人に言われました。俺は自分自身の才能に折り合いをつけた
だけです」
 「なるほど。ところでひとつ提案があるのだが」
 「何ですか?」
 次にジオクライストが言った言葉はある意味爆弾発言といってもいいものだった。
 「私と模擬戦で戦ってみないかね?」
 「……は?」
 聞き違いだろうか?
 というより空耳だと思いたい…
 「私と戦ってみないか、と言ったんだ」
 「隊長!?」
 ありえない。
 こんな新米騎士と、騎士団の最高責任者が戦うなんて…
 模擬戦とはいえありえない…
 「君ももっと骨のある奴と戦ってみたいだろう?副長は今審判で手が離せないし、何よ
りも私自身君と手合わせしてみたい」
 「……え、遠慮しておきま…」
 「そーかそーか!やってくれるか!」
 「…………」
 人の話を聞けオッサン!
 「もちろんタダでこんな無茶を聞いてもらおうとは思っておらん。私と戦ってくれたら
これを君にやろう」
 ジオクライストが出してきたのは小さな箱。
 『トラジェメータ』のケーキの入った箱がそこにはあった。
 最近オープンした人気菓子店『トラジェメータ』。
 開店一時間足らずで商品が売り切れると言われる超人気店。
 「確か、予約は受け付けていないって聞いたんですけど…」
 「そんなものこの特務隊隊長のコネでどうにでもなるのだよ」
 「…………」
 それは職権濫用というやつでは……
 「うちの娘に食べさせようと思って取り寄せたのだがね。君が私の申し出を受けてくれ
るのなら君にあげよう」
 「…………」
 海理が喜びそうだな…
 俺も食べてみたいし…
 「分かりました。『トラジェメータ』のケーキの為、もとい隊長たっての申し出、謹ん
でお受けしましょう」
 「そうこなくてはな!」
 フッと不敵に笑うジオクライスト。
 彼自身もアルトフォードに興味があるらしい。


 「隊長。本当にいいんですか?」
 「構わん。審判はお前がやれ。タラリア」
 「……分かりました」
 ジオクライスト隊長とアルトフォード・サルヴァム。
 誰もがこの一戦を見逃すまいと、息を呑んで開始を待つ。
 「アルトフォード、君も災難だったね」
 「いえ、ケーキの為ですから」
 「え?ケーキ?」
 「……いえ、何でもありません。聞き流しておいてください」
 いきなり隊長と戦う羽目になった自分の部下を慰めに来たタラリア副長だが、思いの外
楽しそうなアルトフォードの様子に少しだけ安心した。
 まさかこの戦いの裏に『トラジェメータ』の密約があることなど思いもしないだろう。

 「それではジオクライスト・ライトハーツ隊長対アルトフォード・サルヴァム、始め!」
 ついに始まった。
 「…………」
 「…………」
 しかり両者一向に動く気配は無い。
 「どうした?向かってこないといつまでもこのままだぞ」
 「それもそうです…ね!!」
 そこから大きく踏み込んでアルトフォードの攻撃が始まった。
 すばやくジオクライストに接近して斬りつけるが、その剣は寸でで止められ、再び剣撃
が繰り返される。
 両者とも一歩も譲らない。
 互角の戦いが続いた。
 「いいね。予想以上だ。最高だよアルトフォード!」
 「隊長も中々に嫌な攻撃をしてくるようで」
 「いや、君の顔を見ているとついリヴィオヴェルクのことを思い出してな。君は父君に
よく似ている。お陰で剣にいつも以上に力が入る!!」
 「……俺は身代わり…っつーか生贄ですかーー!!?」
 し…信じらんねー!!
 これが目的だったのかこのオッサン!?
 普段親父で溜め込んだストレスを俺で解消しようという魂胆か!?
 公私混同甚だしい通り越して人としてどうよそれって!!?
 この二人が何で仲が悪いのか分かった気がする。
 きっとあれだ!
 似たもの同士、とか同属嫌悪とか、そういう類のものなんだ!
 質が悪すぎるー!!

 二人の実力は拮抗していて、中々決着がつかないでいる。
 と思われたが、地の利がジオクライストに味方した。
 連戦により地面が僅かに陥没した場所にアルトフォードが運悪く嵌ってバランスを崩し
た。恐らくは余程強く踏み込んだ人間がいたのだろう。
 ちょうど足跡一つ分にへこんでいた。
 「………!!」
 「もらった!!」
 その隙をジオクライストが見逃すはずが無い。絶妙のタイミングで剣を振り下ろされる。
 その顔がものすごく嬉しそうだったのはあえて見なかったことにしておこう。
 「……くっそ!」
 しかしこのまま終わるアルトフォードではない。
 バランスを崩した足を強制的に固定させ、多少無理な体勢ではあるが攻撃を繰り出す。
 「…………」
 「…………」
 ジオクライストの剣はアルトフォードの首筋で、アルトフォードの剣はジオクライスト
ののど元で止められていた。

 「……えっと、両者引き分け!」
 ワァァー、と今までで一番大きな歓声が上がった。
 一気に緊張感がほぐれる。
 「見事だった。アルトフォード」
 「いえ、地形にまで気を配れなかったのは俺の落ち度です」
 「まだ十八の若造にそこまでは求めておらん。それにあの状態から引き分けにまで持っ
ていったのは逆に驚嘆に値する」
 「……それはどうも。でもこれから親父へのストレスは本人に向けてくれるようにお願
いします。俺の身が持ちませんから」
 「善処しよう」
 善処かよ!
 「そんな顔をするな。私は楽しかったぞ」
 そりゃあんたは楽しかっただろうよ。
 親父の憂さを存分に晴らしたんだからな。
 「思っていることがすぐに顔に出るところも父君譲りだな」
 「……スイマセン。まだ若輩者ですから余裕が無いんです」
 「可愛げの無いところまでは奴に似なくてもいいぞ?」
 「……善処します」
 そんなに似てるかな…
 ううむ……
 立ち上がると足に痛みが走った。
 「足は大丈夫か?あんな無理な体勢から反撃に出たのだから確実にひねっているだろう」
 隠していたつもりなのだがやはり気づかれていた。こういうところはやっぱり隊長なん
だなと思う。
 「大丈夫です。応急処置は済ませましたから。あとは帰ってからゆっくり治療します」
 「魔法剣士か。中々に便利なものだな」
 マルチな部下にジオクライストは素直に感心する。
 アルトフォードは本人が思っている以上にずっと有能なのだ。
 それはほかの隊員も、ジオクライストもよく分かっていた。
 「アルトフォード」
 「…なんですか?」
 「その、左耳のカフスは誰にもらった?」
 唐突に、ジオクライストはアルトフォードの左耳につけてある青銀のカフスについて問
いかけてきた。
 「入隊したときに親父から貰いました。それが何か?」
 「そうか……」
 「隊長?」
 「先ほどの戦い、実戦だったなら負けていたのは私の方だった」
 「え…?」
 「私の攻撃が君に当たる寸前に、魔法の力で弾かれた。おそらくはそのカフスによるも
のだろう。攻撃を弾かれたときに光っていたからな。普段はただのカフスのようだが、君
に危険が及んだときのみ発動するようになっているみたいだな。君に対する強い護りの意
志を感じる」
 「…………」
 このカフスにそんな力があったなんて…
 あの親父がわざわざ寄越してきたぐらいだからただのカフスじゃないとは思っていた。
 何らかの魔法力も感じたが、構成が複雑すぎて解明することが出来なかった。
 その謎が今ようやく解けた。 
 「親父の…護りの意志…」
 なんだかあの親父らしいな…
 少しだけ照れくさくなって、そしてとてもあったかい気持ちでいっぱいになった。
 「よい父君だな」
 「はい。俺の自慢の親父ですから」
 今度こそはっきりと、自信を持って答えることができた。


 その帰り、『トラジェメータ』のケーキを持って魔法師棟に足を運んだ。
 「親父、海理いるか?」
 「アルくん?どうしたの?今日は休みじゃなかったよね?」
 リヴィオヴェルクは息子の姿に気が付くと早足で駆け寄った。
 「ちょっとな。貰いもんなんだけど海理が喜ぶだろうと思って」
 「あー!!それは!!もしかしなくても『トラジェメータ』のー!!?」
 「……言っとくけど海理への土産だぞ」
 甘いもの大好きなリヴィオヴェルクは瞳を輝かせて訴えてきた。
 「三つ入ってたりしない?」
 子供かこの男は……
 しかも開けてみるとしっかり三つ入ってるし……
 「アルくん!僕たち親子だよね!!?」
 「…………」
 情けない…情けなさ過ぎる…
 これがさっきまで『俺の自慢の親父です』なんて言ってた相手かと思うと泣きたくなる
ね…
 「それは構わないけど、でもこれうちの隊長から貰ったケーキなんだ。それでもいいな
ら」
 「−−−−−−−!!!」
 ずざざざざーーーーー!!!
 リヴィオヴェルクは一瞬で三メートルは後ろに引いた。
 実に素早い。
 「うぐぐぐー!ケーキは好きだ!でも出所があいつかと考えると…」
 あーあ…やっぱりこうなったか…
 「あー、でも食べたいなぁ〜『トラジェメータ』のケーキ。あー!でもあいつからの施
しなんて受けたくないー!!」
 「いや、隊長から貰ったのは俺で親父に施すのは隊長じゃなくて俺だから…」
 「あ、そうか!」
 簡単に納得するなよ…

 「アルトー」
 情けないやり取りが続く中、いきなり海理が背中から抱きついてきた。
 「よぅ。海理。いいこにしてたか?」
 「うん。いーこにしてたよ。おくすりだってちゃんとのんでるし、まいにちがらすのな
かにはいってぶくぶくしてるよ」
 「そーかそーか。よしよし。…ん?ガラスの中?ぶくぶく?」
 今何か物騒な発言が混じってなかったか?
 「海理様。アルくんがお土産を持ってきてくれたみたいですよ。なんと、入手困難と言
われている『トラジェメータ』のケーキ!食堂で一緒に食べませんか?」
 「けーき!?たべる!」
 「とゆーわけで食堂にゴー!」
 ……今、思いっきり話をそらされた気が、
 ガラスの中とか、ぶくぶくとか…
 知られたくないってことか。
 だったら余計な干渉はしないでおこう。

 「お・い・し〜〜〜♪さっすが『トラジェメータ』!売り切れ必至は伊達じゃないね!」
 リヴィオヴェルクはおいしいケーキを食ることが出来てすっかりご機嫌だった。
 出所がジオクライストということで随分と葛藤があったようだが、結局はアルトフォー
ドの施しという理屈で折り合いをつけた。
 「〜〜〜〜〜♪」
 一方、海理はゴキゲンMAXで言葉も出ない状態だった。
 「確かに旨いな。隊長の理不尽な憂さ晴らしに付き合っただけの甲斐はあったかも」
 何よりも海理のこんな嬉しそうな顔を見ることができただけでも収穫はあったと思う。
 「ジオクライストの憂さ晴らし?そういえばアルくん何であいつにケーキなんて貰った
の?」
 ここにきてようやくその疑問にたどり着いたリヴィオヴェルクはかなり鈍い方と言える
だろう。
 「隊長が自分と模擬戦で戦えっていったんだよ。応じたらこのケーキをくれた」
 「戦ったの!?ジオクライストと?で、どうだった!?勝った!?」
 入隊一年にも満たない新米騎士に対して言う台詞ではないと思うぞ。絶対。
 「引き分け」
 「ちぇ〜」
 そこ残念がるところか!?新米騎士が国一番の騎士様に引き分けまで持っていけるなん
て逆に褒められてもいい位だと思うのだが…
 現に他の連中にはうっとーしーくらい賞賛されたぞ!!
 「どーせアルくんのことだから肝心なところでヘマしたんだぁ〜」
 「…………」
 何故分かる!!?
 「アルくんがジオクライストをのしてくれたらかなり気分よかったのになぁ〜」
 「うわ、やっぱり似たもの同士だよあんたら…」
 「何の話?ってゆーかあんなのとおとーさんを一緒にしないでくれる?」
 「隊長が言ってたんだよ。俺は親父とよく似てるから攻撃すると気分がいいって。つま
り今日の模擬戦は俺じゃなくて親父への憂さ晴らしってコト。いい迷惑だよまったく」
 「あいつー!!今度あったら覚えてろー!」
 うわっ、何か火に油注いだカンジ!?
 普段は物腰柔らかで『怒』の感情とは程遠いリヴィオヴェルクもジオクライストが絡む
と人が変わるらしい。
 普段が普段だけにもう少し覇気が欲しいところだが、これはこれで子供が駄々をこねて
いるようにしか見えないのが問題だ。
 「アルくん、今度は遠慮なくのしちゃっていいから!!」
 「無茶ゆーな」
 相手は隊長だぞ!?
 「アルト、がんばれー!」
 「海理……」
 リヴィオヴェルクが何を言っても素通りなのに対し、海理に言われるとまんざらでもな
いあたり現金な性格だ。
 「そしてまたけーきもってきて〜」
 「…………」
 そっちが目的かい!
 何だかなぁ〜。
 溺愛する妹のワガママをしょうがないなぁ、と聞いてやっている兄の気分になるのは何故だろう…
 深く考えてはいけない気がする。
 頭の中に浮かんだ『妹属性』という言葉は敢えて封印しておこう。
 「じゃあ俺はそろそろ家に帰る。親父は今日もどうせ残業だろ?」
 「うん。遅くなると思うかけど、でもご飯はちゃんと家で食べるからよろしく!冷めた
ご飯でもアルくんの作ったご飯がいい!」
 たまには外で食べればいいのに、と言っているのだが、毎日きっちり家に帰ってから食
べるあたり実にマメだと思う。
 「ハイハイ。ちゃーんと作っとくよ」
 「わーい!」
 だからその反応はやめろって…馬鹿っぽく見えるから…
 「アルトいっちゃうの?」
 そんな目で見るなよ…
 帰りづらくなるじゃないか。
 「今度はクッキー持って来てやるよ。俺の手作りな」
 我ながら甘い。
 「ほんと!?わーい!!」
 同じ『わーい』でもここまで違うのか、と実感できるほど二人には大きな差があった。
 もちろん言うまでも無く、聞いててなごむのは海理の『わーい』である。
 「じゃあな」
 「あ、アルくんちょっと待って」
 海理の頭を軽く撫でてから帰ろうとしたところをリヴィオヴェルクが呼び止めた。
 「どうした?晩飯のメニューのリクエストでもあるのか?」
 リヴィオヴェルクはアルトフォードの傍にしゃがみ込んで左足に手を当てた。
 「Sanatio」
 リヴィオヴェルクが呪文を発動させると同時に、アルトフォードの左足に当てられた
手が薄く光った。
 「…………」
 左足の痛みが暖かい感覚とともにに引いていくのが分かった。
 「はい。おしまい。もう動いても大丈夫だよ」
 さすがは国家魔法師。一瞬で捻挫が治った。
 「隠してたつもりだったんだけどな…」
 「うん。でも分かるよ。僕はアルくんのおとーさんだから」
 「そういうもんか?」
 「そういうもんです♪」
 「……さんきゅ」
 「どういたしまして!」
 その手が離れて言った後も、暖かさだけはしばらく残っていた。 
 こんな風に、不意に父親の顔を見せられるとくすぐったい気持ちになる。でも、嫌いな
感覚じゃなかった。
 こんな日が続けばいいと、願っていた。


 様々な出来事を経て、気がついたらアルトフォードが入隊して一年が過ぎようとしてい
た。
 相変わらず暇を見つけては海理のところへ足を運び、リヴィオヴェルクも交えて三人で
馬鹿言い合う日々が続いていたころ、思わぬ事件が起きた。

 「事件……っつーか、辞令…?」
 アルトフォードの聞き間違いでなければ、今目の前に立つ騎士団の最高責任者は『分隊
長』になれ、と言ってきたように思えた。
 「やってみる気はないかね?」
 「お断りします」
 「一秒くらい考えたまえ」
 即答
 両断
 迷う暇さえ必要なかった。

 グナハーンの精鋭百人程で構成される特務隊。
 『分隊長』とはそのうちの二十人程を任される責任者の事を指す。
 特務隊の中に五人存在する、実質的には隊長、副隊長、副長補佐、分隊長という順番で
この隊の中で四番目に偉いということになる。
 「考えるまでもありません。隊長こそ一体何を考えているんですか?」
 秒殺で断られたジオクライストは困ったように頭を掻いた。
 「君の実力を考慮した上での判断なのだが。出世のチャンスを即答で断る部下など初めて見たぞ?」
 男なら出世してなんぼだろう、と付け加える。
 「ですが、たかだか十九の若造を分隊長に据えるなんて通常ではありえませんよ?」
 「通常では、な。だが君を一兵卒にしておくのはあまりに勿体無いと私は考える」
 この一年でアルトフォードは大きく成長した。もう騎士団の中では敵無し状態である。
 それだけの実力者を若いという理由だけで底辺に燻ぶらせておくのは勿体無いというジ
オクライストなりの気遣いだったのだがアルトフォード自身の答えは実にはっきりとした
ものだった。
 「だったら、尚更お断りします。個人の戦闘能力と人の上に立つ能力は別物です。俺は
責任ある立場に身を置くには若すぎるし、またその経験も足りません」
 「…………」
 それだけ自身と物事を冷静に見る目があれば十分にやっていけると思うのだが、しかし
本人にまったくその気がないのであれば仕方がない。
 ジオクライストもこれ以上アルトフォードを納得させるだけの材料は持っていなかった。
 「分かった。では今回の話は聞かなかったことにしてくれ」
 「はい。我侭言ってすみません。隊長」
 「…………」
 我侭だと分かっているのなら引き受けてくれてもいいのに、と思うのだが今更言っても
仕方が無い。
 「そんな顔しないでください。後二年位したら考えておきますから」
 「そのときは覚悟しておきたまえ」
 「うっ…リョウカイシマシタ…」
 それでは失礼、とアルトフォードは自分の持ち場へと戻っていった。
 「…………」
 まだ幼さの残る後ろ姿を見送ってから、ジオクライストは大きくため息をついた。
 「やれやれ、頑固なところもリヴィオヴェルク譲りか…。嫌になるくらいよく似ている」
 ジオクライストはほんの少しだけリヴィオヴェルクがうらやましくなった。
 「私もあんな息子が欲しかったものだ」
 男の子が欲しかったジオクライストにとって、ライトハーツ家は妻と娘三人という皮肉
なまでに女系家族だった。


 「海理ー…っと、寝てんのか。相変わらずどこでも寝れる奴」
 非番だったのでいつものように魔法師棟へ足を運んだら、見覚えのある姿が芝生の上に
寝転がっていた。
 ちなみに爆睡中。
 アルトフォードも一緒に寝転がることにした。
 「かーわいー寝顔しちゃって…」
 うにうに〜っと海理の頬を指でつつくと、
 「ん〜…うみゅ…う〜…」
 「…………」
 うわっ!マジでかわいいよ!!
 妹万歳!
 兄馬鹿と罵られようとも構いませんとも!

 「……あれ?」
 ふと、妙なことに気がついた。   
 「海理の髪って、こんなに赤かったっけ?」
 元々少し赤みのかかった茶髪ではあったがここまで赤かっただろうか?
 髪に触れると海理が反応した。
 「……ア…ルト…?」
 「あ、悪い。起こしたか?」
 「…………」
 「海…理…?」
 「アルト…」
 気のせいじゃない。
 海理の茶の瞳は確かに紅く光っている。
 そしてそこから感じ取れる信じられない程の魔力。
 紅い髪と紅い瞳。
 一つだけ分かっているのは目の前にいるのはいつもの海理ではないということ。
 海理の小さな手が、ゆっくりとアルトフォードの頬に触れてくる。
 
 動けなかった。
 目の前にいる、よく知っているはずの人間が、とても遠いものに感じられて。
 そのことが、堪らなく怖かった。

 俺の知ってる海理が、どこにも見えない。

 「アルトフォード!」

 俺を引き戻してくれたのは、親父の声だった。
 「親…父…?」
 らしくもなく切羽詰った顔をしていた。
 駆け寄ってきたリヴィオヴェルクは海理の口に白い布を当てた。
 薬でも含ませてあったのか、海理はすぐに意識を失った。
 紅かった髪も、徐々に茶髪に戻っていく。

 「間に合って…よかった。立てる?」
 「ああ……とっ……あれ…?」
 立ち上がろうとした瞬間、眩暈がして急に目の前が真っ暗になった。
 体に、力が入らない。
 指一本さえ、動かすのが億劫になる。
 「アルトフォード!」
 倒れ掛かるアルトフォードをリヴィオヴェルクが支える。
 「親父…。どうなってるんだよ…これ…」
 「恐らく、魔力の大半を急激に奪われた反動だ。あと二日はその状態が続くと思う」
 「………!」
 何だよそれ…
 魔力を、奪われた…?
 誰に…?
 海理に…!?
 「……う…」
 だめだ…
 考えなければならないこと、聞かなければならないことが沢山あるのに、もう、目を開
けていられない…
 「ちく…しょう……」
 そこで意識が途切れた。


 「…う…ん……」
 意識が戻ったときにはベッドの上に寝かせられていた。
 「ここは…」
 「魔法師棟の医務室だよ。気がついてよかった」
 「親父…」
 アルトフォードが起き上がろうとすると、リヴィオヴェルクが肩を手で押さえて止めた。
 「まだ、起き上がらないほうがいい」
 「…………」
 「アルくん?」
 「海…理は…?」
 「……ここにいるよ。ちゃんと」
 リヴィオヴェルクの後ろに隠れていた海理が、遠慮がちに顔を出してきた。
 「アルト……。ごめんなさい、わたしが…」
 今にも泣き出しそうな海理に、力の入らない腕を何とか伸ばして、頭を撫でる。
 「良かった…」
 「え?」
 「ちゃんと…俺の知ってる…海理だ…」
 可愛くて、
 泣き虫で、
 ちょっとぼーっとしてる。
 いつもの海理だ。
 その事が、すごく嬉しかった。
 俺の知らないあの海理が、夢に思えてくるぐらいに…
 「もう泣くな。俺は、大丈夫だから」
 「うん。ごめんね。アルト、ほんとうにごめんね!」
 「泣くなって」
 「うん。う…うぅ…」
 返事とは裏腹に溢れ出す涙は勢いを増していた。リヴィオヴェルクも宥めようとするが
あまり効果が無い。
 アルトフォードはまだはっきりしない頭で、どうやったらこの泣き虫姫の涙が止められるのかを必死で考えた。
 「海理」
 「なに?」
 「今度、桜を見に行こう」
 「さくら…?」
 アルトフォードは窓から見える丘を指差す。
 「あの丘の向こうに、一本だけ大きな桜の樹があるんだ。ほかの場所と違って一本しか
ないから目立たないし、あまり見に行く人も多くないけど、その一本が毎年すごくきれい
に咲くんだ。今度一緒に見に行こう。俺の好きなものを、海理にも見せたいんだ」
 「いきたい!いっしょにいきたい!」
 「よし。じゃあ約束だ。来月あたりには満開のはずだから一緒に見に行こう」
 「うん。やくそく!」
 泣き虫姫の涙はすっかり止まっていた。
 それでいい。
 やっぱり海理には笑っていて欲しい。
 「寂しいなぁ〜。僕はまぜてくれないの?」
 「まぜてやらない。可愛い妹とのデートを邪魔するな」
 「アルくんってばやっぱりつめたーい!おとーさんはかなしーよぅ!!」
 リヴィオヴェルクもようやくいつもの調子を取り戻してきた。
 「リヴィオもいっしょにいこう。さんにんでいったほうがたのしいよ!」
 「海理様!いい子だなぁ〜!ぼくもあんなのじゃなくて可愛い娘がほしかった〜!」
 嬉しくて感極まったリヴィオヴェルクは、ぎゅ〜っと海理を抱きしめた。
 「……『あんなの』で悪かったな」
 そもそも息子に可愛げを求める方が間違ってるだろ…
 せめて格好よさとか男らしさとかを求めてくれ…


 まだ回復しきっていないアルトフォードを医務室に残して、海理とリヴィオヴェルクは
外に出た。
 「海理様。部屋まで送りましょう」
 「…………」
 「海理様?」
 海理はリヴィオヴェルクにしがみついてきた。
 「こわかった…」
 「…………」
 「アルトに…きらわれるかとおもったら…すごく…こわかった…!」
 リヴィオヴェルクは小刻みに震えている海理の頭をそっと撫でる。
 「大丈夫。アルくんは海理様を嫌ったりしませんよ。絶対に」
 「でも、わたし…もうすこしでアルトのこと…」
 「大丈夫です。間に合ったでしょう?ちゃんと…」
 「とめてくれて、ありがとう」
 「……三人で、見に行きましょうね。桜」
 「うん…」


 海理を部屋に送った後、医務室に戻ったリヴェイオヴェルクを待ち構えていたのは、ア
ルトフォードのこの上なく不機嫌な顔だった。
 「お待たせ。そんなに睨まないでほしいな」
 「だったら説明してもらおうか。何がどうなってる?」
 「答えられる事と答えられない事がある。それでもいいなら」
 「機密事項に関わる、か。構わない」
 目の前にいるのは父親としてではなく、国家魔法師としてのリヴィオヴェルク。
 アルトフォードとしても真実を問い詰めるにはその方が都合がいい。
 「結論だけ先に言っておく。アルトフォード。君はあのままでは海理様に殺されていた」
 「……だろうな」
 アルトフォードは大きくため息をついた。
 予想していた答えだ。
 「でも、俺を殺そうとしていたのは、海里の意思ではないんだろう?」
 でなければあんなに泣くはずは無い。
 「それは、海理様の意思ではないとも言えるし、海理様の意思そのものだとも言える」
 はっきりとしない返答に苛ついた。
 「もっと分かりやすく言ってくれ」
 「海理様は、アルトフォードを殺そうとしたときの事を覚えている。自分がやったとい
う自覚もちゃんとある。因子が発現した状態も、海理様であることに変わりは無いから」
 聞き慣れない言葉が出てきた。
 「因子?発現?あの桁外れの魔力と関係があるのか?」
 海理の髪と瞳が紅くなった時、とんでもない魔力を感じた。
 正規の魔法師ではない俺ですら、そうと理解できるほどの圧倒的な力。
 あれは、人間に許された力じゃない。
 「すまない。機密事項に関わる」
 「ちっ。話が進まない」
 「悪いとは思っている。立場上明確なことを教えるわけにはいかないんだ」
 親父の立場は分かる。
 でもこのままではどうしても納得がいかない。
 「だから、これから与えるヒントを元に自分で答えを見つけて欲しい」
 「親父…?」
 「このグナハーンがどうやって建国されたかは知ってるよね?」
 それぐらい子供でも知ってる。


 前文明の崩壊以降、かつてこの世界は竜と呼ばれる種族が治めていた。
 人々は竜を信仰し、竜も人々に恵みを与えていた。
 しかし、時の流れとともに竜はその歴史から姿を消してしまう。
 絶滅したとも、世界の狭間で人々を見守っているとも伝えられている。
 全ての竜が姿を消す中、最後に残った竜は姿を消す前に人間と交り、人間の中に竜の血
を引く者が誕生した。
 グナハーン王家はその竜の血を引く人間の末裔とされている。
 その血を示すかのように、グナハーンの王家の血筋には魔力の強いものが生まれ落ちる。
 グナハーンは竜を信仰し、その血を引く王家は国の象徴とされている。
 それゆえに、グナハーンは別名『竜の遺跡』とも呼ばれている。


 「そんな事、この国の人間なら誰でも知っている伝説だろう?」
 「そう、そして海理様はその伝説の具現化となる研究素材として生み出されたんだ」
 「…………」
 「僕が言えるのはここまでだ。これ以上知りたければ自力で何とかして欲しい」
 「…………」
 海理が、伝説の具現化?
 存在を隠された姫。
 研究素材として、いや、実験体といった方が的確なのかもしれない。ただそれだけの為
に生み出され、生かされている存在。
 竜の伝説の具現化。
 グナハーン王家に眠る竜の因子を人工的に操作された存在、という事か?
 そんな事、許されるはずが無い。
 無理やり起こされた竜の因子に、人間の脆弱な器が耐えられる筈が無い。
 「親父は、あいつを実験体として見てたのか…?」
 「…………」
 愚問だったかもしれない。
 研究の最高責任者は言うまでも無くリヴィオヴェルク・サルヴァムだろう。
 毎日帰りが遅くなっていたのも、海理を研究していたから?
 「………そうかよ」
 「すまない。僕が君と海理様を不用意に逢わせたりしなければ、こんな事にはならなか
った」
 −−−−−−−−!!
 その言葉を聞いた直後、アルトフォードはリヴィオヴェルクの胸倉を掴み、力一杯殴り
つけた。
 体が満足に動かないままだったが、そんなこと関係ない。
 生まれて初めて、リヴィオヴェルクに対して純粋な怒りを覚えた。
 「……ぐっ!」
 「ふざけんな!」
 倒れ込んだリヴィオヴェルクを乱暴に引っ張り起こし、そのまま壁に叩きつける。
 そして声の限り叫んだ。
 「ふざけんなふざけんなふざけんな!!そんな言い方、まるで俺と海理が出逢わなければ良かったみたいじゃないか!!俺は…俺は後悔なんかしてないからな!!あいつと出逢った事、絶対に後悔なんかしてたまるか!!」
 海理の声も、仕草も、笑顔も、泣き顔も、過ごした時間全てを否定することなんて、出
来る訳が無い!

 「俺は、あんたを信じていたい。国家魔法師じゃなくて、リヴィオヴェルク・サルヴァ
ムの良心を、信じていたいんだ…」
 アルトフォードはよろめく体を引きずって、医務室から出て行った。

 残されたリヴィオヴェルクは渇いた笑いを浮かべていた。
 「ははは…。すごい殺し文句だなぁ。そんな事言われたら、裏切ることなんてできない
じゃないか……」
 理不尽なことに対して真っ直ぐに怒ることが出来る心。
 昔から、ちっとも変わってない。
 「うん。やっぱり君は僕の自慢の息子だよ。アルトフォード…」


 その夜、アルトフォードはある事を決断した。
 「俺は、知らなくちゃいけない」
 今まで避けていたこと。
 逃げていたことから。
 本当に海理と向き合うつもりなら、真実から目をそむける訳にはいかないんだ。

 今、アルトフォードは魔法師棟の入り口付近に身を潜めていた。

 入り口に立っている見張りは一人。
 如何にして忍び込むか。
 もちろん策が無いわけではなかった。
 「よし。行って来い」
 予め捕獲しておいた猫を、見張りに気付かれ易いように放してやる。
 ガサガサと物音に反応した見張りが、警戒をあらわにする。
 「にゃ〜…」
 「…………」
 「……なんだ、猫か」
 おどかすなよ、と見張りは再び持ち場に戻った。
 一方、アルトフォードはその数秒の隙を見て魔法師棟内に入り込むことに成功した。
 「案外チョロイな」
 見張りを眠らせる事は簡単だったがそれでは侵入の痕跡を残すことになる。よく石を投
げたりして気をそらす方法も聞くが、予め目に入る対象となる動物がいた方が相手に警戒
心を持たせなくて済む。
 万が一にも痕跡を残すわけにはいかない。
 誰にも怪しまれてはならない。
 見つかってはならない。
 痕跡を残しても逃げ切れる泥棒はいくらでもいる。
 しかし、侵入したことすら気づかせない泥棒はそうそういるものではない。
 「……いや、別に泥棒に来たわけじゃないんだけどさ」
 ちょっぴり考え方が泥棒じみてきて情けなくなってしまった。
 
 目的はこの魔法師棟内で研究されている内容を保管してある場所。
 そこに間違いなく海理に関する情報がある。
 「……とはいっても、ここ広すぎ」
 魔法師棟は大掛かりな研究もしているので敷地内はかなり広いし、部屋数も相当なもの
だ。その一つ一つを調べてまわるなど一晩では不可能なことは分かりきっている。
 そうなると、一番手近な所から当たってみるのが無難だろう。
 以前、リヴィオヴェルクに連れられて来た事がある場所、国家魔法師専用の部屋。
 扉は特殊な方法で施錠されており、通常では侵入は不可能とされている。
 アルトフォードは懐から小さな石を取り出す。
 開錠石。扉にはめ込まれている施錠石と対なる石で、その石を施錠石に近づけると、扉
にかけられている施錠魔法が一時的に解除される。
 また、一定時間がたつと、また施錠した状態になるので実に便利な魔法である。オート
ロック万歳。
 ちなみに何故アルトフォードがこの開錠石を持っているかというと、医務室でリヴィオ
ヴェルクの胸倉を掴み上げた時に、スッたからである。
 「親父も気づいていただろうに…」
 それでもまだこうして俺の手の中にあるということは、つまりはそういう事なのだろう。

 俺が向き合わなければならない真実が、そこにある。

 「上等だ」
 アルトフォードは覚悟を決めて中に入った。
 部屋の中は研究室というよりは、ただの書斎に見える。未処理のままの書類の山が机の
上に散らばっていたが、そのいずれも目的のものとは関係なかった。
 棚に並べられている本を眺めてみても、アルトフォードの知りたい事柄は何一つ書かれ
ていない。
 いかにも機密を保管しています、といったような金庫も見当たらない。
 「となると、考えられるのは…」
 アルトフォードは本棚を凝視する。
 「やっぱりこれかな……」

 幼い頃、リヴィオヴェルクに教えられた事を思い出す。
 あからさまに魔力のみを使った結界ではなく、その場にある物の特性を利用して完成さ
れる結界魔法があることを。
 たとえば、大掛かりな魔法を使用するときに描かれる魔法陣は、微弱なれども描かれた
魔法陣そのものに魔力がある。
 目の前に並べられている本の数々は、そういったものの特性を利用して作られた一つの
結界。
 一見、ただ何気に置かれているだけにしか見えない本の数々も、その実緻密な計算の元
に配置されており、それが一つの魔法陣と成っているのなら、
 「その陣形を崩せばいい」
 アルトフォードは棚に並べられた本を、ランダムに取り出した。十冊ほど抜き取ったと
ころで異変が起こる。
 突如現れた地下への隠し通路。
 「ビンゴ。俺の記憶力も捨てたものじゃないな」
 幼い頃に父親から教わった魔力を使わない結界魔法。
 まだ魔力を上手く扱えなかったアルトフォードに、リヴィオヴェルクが特別に教えてく
れたもの。
 『これならアルくんでも使えるよ』
 そしてアルトフォードが初めて使った魔法でもあった。
 そうやって何気なく学んだ魔力を使わない結界魔法は、その実リヴィオヴェルクが何年
もかけた研究の末に導き出した理論の結晶だった。
 リヴィオヴェルクが創り出した新たな魔法で、魔力が使われていないため、そこに結界
があるということすら感知されない、完璧に近い結界魔法。
 そのことをアルトフォードが知ったのは、それから数年後のことで、長年の研究の結晶
を子供との戯れの中であっさりと暴露してしまったリヴィオヴェルクはある意味では大物
といえるだろう。
 非常に使い勝手のいいこの魔法、公表すればリヴィオヴェルクの評価は更に上がってい
ただろうに、結局のところ自分とその息子に分け与えただけだった。
 本人曰く、『ひとつくらいは内緒の研究があってもいい』ということらしい。
 よって、このオリジナルの魔法を解除できるのはそれを創り上げたリヴィオヴェルクと、
その術を学んだアルトフォードの二人だけとなっている。
  
 そうしてアルトフォードは地下への道に足を踏み入れた。
 そこにあったのは数々のサンプルと思われる血液や、髪の毛、そしてその研究を纏めて
いるであろう本の山。
 「やっと、見つけた」
 積み上げられている本を手に取る。
 そこに書かれていたのは知りたかった真実。
 そこで目にしたものは信じたくなかった内容。
 
 『竜の遺跡』と謳われるグナハーン。
 その血を受け継ぐ王家も、今は殆どその力を失っている。
 他者を圧倒する魔力を持つ子供が生れ落ちることも少なくなり、名ばかりの王家と成り
下がることを恐れて一つの禁忌に手を染めた。
 生まれてくる子供に人為的に手を加え、グナハーンに眠る竜の因子を強制的に発現させ
る。
 肉体に手を加え、魂すら操って、そうやって王家の妄執を一身に背負って生まれてきた
のが海理・ルナリス・グナハーン。
 そしてその研究の最高責任者に任命されたのがリヴィオヴェルク・サルヴァム。
 それから、魔法の研究に力を注いでいた魔法師棟は九割方『海理』という実験体の研究
施設に成り代わった。
 しかし、人を超えた強大な力は当然ながら人の手に余るものであり、どれほど優秀な研
究者をそろえたところでその力を制御する術など見つかるはずが無かった。 
 その力を制御するため、意のままにする為に様々な実験が繰り返されるがそのいずれも
失敗に終わり、人間には過ぎた力だということを再確認させられるだけに終わった。
 そうして禁忌に手を染めた代償を思い知ることになるのは『海理』が生まれて七年後。
 その大きすぎる力に人間の肉体と理性が耐えられなくなり、『海理』は暴走を繰り返す
ようになる。
 暴走するたびに肉体は大きく破損し、培養液の中で回復を図る日が続いた。
 そうして死の淵から呼び戻し、再び実験を繰り返す。
 人としての尊厳など既に無く、ただモルモットとしての扱いを繰り返された『海理』は
次第に暴走の際に変化が生まれた。
 以前はただ暴走しても周囲のものを破壊するだけに留まっていたが、そのうち破壊の対
象は自らを好き勝手に扱っている研究者へと変わった。普段は表に出ていない憎しみの感
情がこんな形で現れたのだろう。
 そうして暴走のたびに研究者を殺しかけておさまる。
 暴走の際に髪と瞳が紅く変色するのは因子の発現による副作用だと思われる。
 その際、本来の意識は反転し、残虐性が強く表に出てくる。しかし多重人格というわけ
ではなく、本人も反転したときのことを覚えているし、破壊を繰り返したという自覚も残
っている。
 暴走したときの能力に、周囲を破壊する風の能力と、人体に対して発動する魔力、生命
力の『略奪』が確認されている。

 「……何だよ、それ!!」
 勝手な都合で生み出されて、好き勝手に実験されて、人間としての尊厳すら認められな
くて、それなのに何で…
 「何で…あんな風に笑ってられるんだよ…」
 思い出すのはいつも無邪気に笑う海理の姿。
 嬉しいことがあると笑って、ちょっとからかうとすぐに拗ねて、泣きそうになる。
 そんな、普通の八歳の女の子。
 辛かった事なんて、一度だって表に出してない。
 おかしいだろ?そんなの……
 嫌なことは嫌だって、辛いことは辛いって、言ったっていいんだ。
 あいつはそんな事すら口に出来ないまま、今まで生きてきたって言うのか?
 「くそったれっ!!」
 手にした本を思いっきり投げつける。壁に当たって跳ね返った本は、中途半端に開かれ
たまま床に落ちる。

 「それが、君の知りたかった真実だよ」
 突然後ろから声がした。
 「誰だ…!?」
 「……とりあえずその剣をおろしてくれないか?」
 「……親父」
 リヴィオヴェルクは床に投げ出された本を拾って元の場所に戻した。
 「知りたかったことは分かったかい?」
 いつもと変わらない調子で問いかけてくるリヴィオヴェルクがこの上なく腹立たしく思
えてくる。
 「俺は、あんたを心底軽蔑する……」
 「…………」
 親父を、こんなにも憎いと思ったことは初めてだった。今まで能天気な振りをして、裏
ではこんな実験を続けていた。
 俺だって馬鹿じゃない。国家魔法師としての親父の立場は理解しているつもりだ。
 国王陛下からの命令ならば、逆らえるはずが無い。それがたとえ親父の望まないことだ
としても、従うしかない事ぐらい分かってる。
 ただ…それでも……
 「それでも…俺や海理に見せたあの笑顔を信じていたかったのに……!」
 「……言い訳はしない。たとえ立場上逆らえなかったとしても、それを受けたのは僕自
身の意思だから」
 それも分かっている。
 リヴィオヴェルク・サルヴァムはそういう人間だ。禁忌に手を染めたその瞬間から、自
身が報いを受ける覚悟は決めているのだろう。
 「あの時、俺を殺そうとしたとき、海理は俺のことも憎かったのかな?のうのうと日々
を生きている俺のことが、心の奥底では殺したいほど憎かったのかな…」
 自分で口にしておいて、泣きたくなった。
 だったら、殺されても良かったかもな…
 それで、少しでも海理の気が晴れるのなら、それでも良かったのに…
 「多分、その逆だよ」
 「逆…?」
 「海理様にとってアルトフォード・サルヴァムは誰よりも大切な人だったと思う。きっ
と、最後の拠り所だったんだ。海理様は今まで暴走して人を殺しかけたことはあっても、
決して殺してしまう事は無かった。それは心のどこかでアルトフォードに嫌われたくない
という想いがあったから。海理様にとってアルトフォード・サルヴァムは最後の理性の要。
だから殺してしまえば心のままに暴走して、憎むべき対象を殺してしまえると、そう考え
たんだと思う」
 誰よりも大切だから、だからこそ誰よりも殺してしまいたい存在。
 「…………」
 「実際、君に出逢うまで海理様が感情らしきものを見せたことは無かった。それこそ人
形みたいに…」
 「…………」
 「君に出逢えたからなんだよ。あんな風に普通の女の子みたいな顔をするようになった
のは」
 「……同時に俺がいたからこそ、海理はあそこまで追い詰められてるってことだよな」
 人形のままだったなら、辛いなんて考えることもなかっただろう。
 俺さえいなければ、苦しむことなんて無かった。
 殺したいほど憎んでいるくせに、その優しさが足枷になって、結果、更に追い詰めたん
だ。
 どちらが海理にとって良いことかなんて今の俺には答えられない。
 「親父、俺はあんたに失望してる」
 「うん…そうだろうね」
 「でも…いつかの約束は守るよ」

 いつか、あの子の力になってあげて欲しい

 一年前、そう約束した。
 俺に出来ることなんてまだ僅かだけど、出来る事からやっていく。
 「俺は、海理を守る。海理を助ける」
 たとえそれが国に背き、騎士としての道から外れることになっても、自分自身に胸を張
っていられるのなら、それでいい。
 「ありがとう。アルトフォード」
 リヴィオヴェルクはただ穏やかに笑っていた。その姿が、あまりにいつもと変わらない
ものだからつい殴りたくなった。
 「いいのかよ?俺は反逆者になるって言ってるんだぜ?」
 「いいよ。それがアルくんの決めたことなら、僕から言うことは何も無い」
 「バカ親父」
 アルトフォードは地下室から出て行こうとすると、リヴィオヴェルクに腕を掴まれた。
 「…何だよ?」
 「ごめん。少しだけ、このままでいさせて欲しいんだ」
 そのままアルトフォードをぎゅっと抱きしめる。
 「苦しい…」
 「うん。でも大目に見てよ。これで、最後にするから」
 「…………」
 「ありがとう。アルくんがいてくれてよかった。僕も、いま決めたよ」
 「何を…?」
 リヴィオヴェルクはそっとアルトフォードから離れて、
 「ヒミツ」
 とだけ口にした。
 言えない様な事なのかよ、と睨むと困ったような笑顔が返ってきただけだった。
 「もういい…俺は戻……?」
 あれ…?
 意識が…遠のく…
 とっさに支えてくれたのは親父の腕。
 「無理しすぎだよ。本当ならまだ動ける状態じゃないのに…」
 「……くそ」
 精神が肉体を凌駕する、なんていう芸当はまだまだ無理ってことかよ…情けねー…
 「いや、ここまで動いちゃってる時点で十分凌駕してると思うよ?並の人間なら明日の
夕方ぐらいまでベッドから起き上がれない筈なんだけど…どうなってるの?君の体って…」
 「…………」
 「気を失っちゃったか。頑張ったね、アルトフォード」
 意識を失ったアルトフォードをひょいっと抱えて地下室の階段を昇る。
 アルトフォードをソファーに寝かせた後、一冊ずつ本を棚に戻して結界を復活させる。
 自分の着ていた上着を眠っているアルトフォードに掛けてやり、その横に腰を下ろした。

 「こうやって、無防備な姿を見せてくれるのって何年振りかなぁ…」
 子供が成長してしっかりしてくるのは嬉しいけど、同時にそれがすごく寂しくなるとき
がある。
 十年ぐらい前まではおとーさん、って僕の後をちょこちょこついてきてたのにな…
 あの頃は可愛かった…
 「いや、今でも可愛いけどね、うん」
 なでなで…
 普段なら絶対こんな風に頭なんて撫でさせてくれない。
 今だけ、今だけはこうしていたい。
 もうすぐ、触れることすら叶わなくなる。
 せめて、今だけは愛する人の温もりを……
 「本当は、これ以上嫌われたくないんだ」
 仕方の無いことだと分かっていても、やっぱり子供に責められるのは色々な意味で痛い。
 「これから僕がしようとしてる事を知ったら、やっぱりアルくんは怒るんだろうな…。
でも君が海理様を守るというのなら、その道を切り開くのは僕の役目なんだ、きっと。そ
してそれが僕なりのケジメ」
 過去を清算しなければ、前に進むことは出来ない。たとえそれがどんな代償を伴っても。
 自らの罪から目をそむけたりはしない。
 「愛してるよ、アルトフォード。今までも、これからもずっと…」


 まって
 まってよ、おとーさん!
 ねぇ、ぼくおとーさんみたいなすごいまほーしになれるかなぁ?
 なれるよ。アルくんなら何にだってなれる。
 だって僕の自慢の息子だもん。
 ほんと!?ぼくがんばるね!

 やわらかく笑うその顔が好きだった。
 大きな手で撫でられるのが嬉しかった。

 大好きな姿をただ追いかけているだけで、
幸せに包まれていた。

 今はもう、ひどく昔のことに思える。

 「……何で泣いてんだ俺」
 目が覚めたときには涙が頬を伝っていた。
 別に悲しい夢なんかじゃなかったのに…
 十年前の、今と比べると信じられないくらい素直だった頃の夢。
 「何で今になってこんな夢見るかな…」
 過去を振り返りたくなるほど、今を嘆いてるわけじゃないのに。
 「これのせいかな……」
 眠っている間に掛けられていた上着に視線を移す。
 親父の上着、国家魔法師の制服。幼い頃にはいつも裾を引っ張ってたっけ。
 上着には暖かさだけが残っていた。

 そして国家魔法師の部屋は無人になる。
 まだ暖かさの残る上着だけを残して。


 海理をグナハーンから連れ出す。
 一国の姫、しかも国家機密そのものを連れ出すのだからもちろんタダで済むわけが無い。
 失敗すれば極刑は免れないだろう。
 たとえ成功しても一生反逆者としてグナハーンから追われる身になる。
 国への裏切り。
 この国の騎士として許されないことをしようとしている。
 それでも俺はやると決めた。
 海理をこのままにはしておけない。
 「絶対に……」
 「何が絶対なのかね?」
 「痛っ…」
 ボコっと鞘に納まった剣で後頭部を殴られた。
 「隊長」
 「三日振りに隊に復帰したと思ったら今度は上の空での警護か?らしくないなアルトフ
ォード」
 「すみません…」
 しまった。周りが見えなくなるぐらいぼーっとしていたらしい。
 不覚…。
 「まだ調子が戻っていないのか?無理はいかんぞ」
 「すいません。今後体調管理には気をつけます」
 「体調管理、というよりは危機管理だなこの場合」
 「…………」
 「そんな驚いた顔をしなくてもいいだろう?私はこれでもこの国の中枢を担う立場なん
だが…」
 今回のアルトフォードの不調の原因を知っている。
 目の前に立つジオクライストはそうはっきり言っているのだ。
 「ずいぶんと仲が良いそうだな」
 「…………」
 はっきりと答えるわけにはいかなかった。
 海理のことは表向きは存在しないことになっている。
 「これは君の上司としての忠告だ。後悔したくなければこれ以上『アレ』に関わらない
方がいい」
 「……『アレ』、ですか」
 この人も、結局は海理の事を実験体ぐらいにしか思っていない。
 ハラワタが煮えくり返りそうだ。
 「気に障ったのなら謝る。だが覚えておくといい。このままの状態が続けば、あとで泣
くことになるのは君自身だ」
 話はそれだけだ、とアルトフォードの肩を軽く叩いてジオクライストは去っていった。
 「もう、遅いですよ…」
 俺は、とことん関わるって決めたから。
 誰が何を言おうと関係ない。
 俺は自分の信じた道を貫く。


 グナハーンの桜がつぼみを出し始めた頃、一人の少女が空を見上げていた。
 「さくら、もうすぐさくかな…」
 少女の名前は海理。
 茶色の髪をなびかせながら、魔法師棟の向こうにある丘を見る。

 『今度、桜を見に行こう』

 そう、約束してくれた。
 「はやく、さかないかな…」
 そうすれば、早く一緒に見に行ける。
 三人で、一緒に見に行ける。
 頬を撫でる風を感じながら、その約束が果たされる日を夢見ていた。
 その夜、あの話を聞くまでは……


 「…………」
 眠い…
 これだから当直は嫌いなんだよ。
 夜もふけにふける午前二時。
 当直室で休憩を取っていたアルトフォードは大きなあくびで眠気を訴えていた。
 「元々夜型じゃねーんだよ。俺の体は…」
 早寝早起きがモットーといういまどき珍しいアルトフォードは当直が大嫌いだった。
 交代まであと三十分。
 仮眠でもとるか、と寝転がったとき、当直室の扉が勢いよく開け放たれた。
 「うおっ!?」
 びっくりした〜。何だよ人がせっかく寝ようとしてたのに…
 「アルトフォード!!」
 慌てた様子で当直室に入ってきたのは今日の当直責任者のタラリア副長。
 「ど、どうしたんですか、副長!?そんなに慌てて…」
 「緊急事態だ!すぐにシレンティウムの森に向かってくれ!!」
 「何があったんですか!?」
 「魔法師棟から研究途中の実験体が逃げ出したらしい。俺も詳しいことは知らされてい
ないが、とにかく陛下の命令は見つけ次第捕獲、それが無理なら抹殺しろとの事だ」
 「…………」
 魔法師棟から実験体が逃げ出したって……
 それってまさか……
 そのとき頭をよぎったのは海理の姿…
 「今、魔法師部隊が先行して追跡をしている。とにかく急いで……アルトフォード?」
 「抹殺しろ…!?陛下が、そう言ったんですか?」
 「あ、ああ」
 タラリアはアルトフォードの様子がおかしいことに気がついた。
 しかし大丈夫か、と声を掛ける前にアルトフォードは当直室から剣を持って飛び出して
いった。

 アルトフォードは当直室から飛び出してシレンティウムの森へと駆け出している。
 「……くそっ!何でなんだよ!?」
 海理が逃げ出した。
 逃げ出さなければならないような何かがあったんだ。
 それだけは分かる。
 約束を優先して後手に回ってしまった俺の落ち度だ。
 でも、それでも…
 「自分の子供だろ!?何で、平気でそんな事言えるんだよ!!」
 捕獲しろとか、抹殺しろとか…
 おかしいだろ!そんなの…!
 絶対、間違ってる……!!
 「海理…!俺が、俺が助けるから…!!」
 誰もあいつを助けないのなら、俺が助ける。
 誰もあいつを救えないんだったら、俺が救ってみせる。
 海理と過ごした時間を嘘にしない為にも、俺が今行かないといけないんだ!
 

 一方、シレンティウムの森では海理が必死になって逃げていた。
 「…………!」
 魔法師達の追っ手を振り切りながら足場が悪い道を走り抜ける。
 今、どこを走っているのかさえ分かっていない。
 今まで魔法師棟から出たことの無い海理は外の世界を何も知らない。
 それでも、辿り着きたい場所だけははっきりしていた。
 「わたしは、いかなくちゃ…!あのばしょに、いかなくちゃ……!!」
 やくそくしたから…
 さんにんで、さくらをみにいくって…
 やくそく…したから…!


 時間は一時間ほど遡る。
 午前一時、中々寝付けなかった海理は、リヴィオヴェルクの部屋に行こうとしていた。
 いつも、海理が眠れないときにはリヴィオヴェルクが睡眠薬を調合してくれる。
 海理がいつものようにリヴィオヴェルクの部屋のドアを開けようとしたとき、それは聞
こえてきた……

 「処分しろ、だって!?陛下がそう仰られたんですか!?」
 部屋の中ではグナハーンの国家魔法師リヴィオヴェルク・サルヴァムが珍しく声を荒げ
ていた。
 「は、はい。これ以上被害を増やすわけにはいかない。期限は一週間。再び暴走を繰り
返す前に処分するように、とのことです」
 「………!」
 リヴィオヴェルクはダン、と壁を殴りつけた。
 「リ…リヴィオヴェルク殿!?」
 国王からの命を伝えに来た部下が一瞬びくっとなる。目の前にいるのは、いつもの温和
な上司ではなかった。
 「人の命を…何だと思ってるんだ…!!」
 勝手な都合で生み出しておいて、都合が悪くなったら切り捨てる。
 そんな事、納得できるはずが無い。
 あの子は王家の道具なんかじゃない。
 一人の人間なんだ。


 「…………」
 そっか、わたし…ついにころされるんだ。

 扉の向こうでリヴィオヴェルク達の会話を聞いていた海理はその場に立ちつくしていた。

 海理自身、分かっていたことではある。
 いつか、自分は両親に殺されるだろうと、心のどこかで理解していた。
 役に立たない道具は棄てられる。
 数えるほどしか顔を合わせたことの無い父と母。海理に向けられたその眼差しからは、
一片の愛情さえも感じ取れなかった。
 暴走を繰り返す頃には『失敗作』なんていう言葉も耳にした。
 そのとき理解した。
 自分は人ではないのだと。
 父と母とは血は繋がっていても、決してこの人達の子供にはなれないのだと。

 殺される
 死んでしまう

 ここに居た証すら、遺せないままに……

 「……やだ」
 わたし、まだしにたくない。
 まだ、いきていたいよ。
 まだ、ここにいたい。
 だって、やくそくしたんだ…
 アルトと、リヴィオと、さんにんでさくらをみにいくって…!
 そのやくそくすらはたせないまま、
 たにんのつごうできえていくのはいやだよ。

 「とにかく明日、陛下に謁見して何とか考え直していただく様に説得してみる。話はそ
れからにしてくれ!」
 こんなことをしてる場合じゃない。
 早く、早くアルトフォードにこの事を伝えないと。一刻も早く、海理様をこの国から連
れ出さないと…!

 扉を開けたときだった。
 その幼い泣き顔を目にしたのは…
 「海理様…」
 まさか…聞かれていた?今の話…
 海理の髪の毛が半分くらい紅く変色する。
 「リヴィオ、ごめん。わたし…まだいきていたい」
 「海理様!待ってください、話を…!」
 説得を試みたが既に遅かった。
 海理は魔力を集中して、風の魔法は発動寸前だ。
 「あのひとたちをせっとくしたって、むだだよ。あのひとたちはもう、わたしをころす
ってきめたから。だから、ごめんね…」

 「Dirumpo」

 次の瞬間、魔法師棟が半壊するほどの破壊力を持った魔法が発動した。
 そして、その混乱に乗じて海理は姿を消した。


 シレンティウムの森に入ったアルトフォードが目にしたものは、数々の破壊の痕と深手
を負って倒れている魔法師達。
 そして強力な魔力の残滓。
 「これを、海理が一人でやったていうのか…!?」
 むせ返る血の匂い。
 深手を負った魔法師達の呪いめいた呻き声。
 「あいつを…こんなになるまで追い詰めやがって……!!」
 本当は、こんな酷い事が出来る奴じゃないんだ…!
 きっと海理は今も哭いている。
 「闇雲に捜しても時間が過ぎるだけか…」
 シレンティウムの森は広い。
 深夜に人一人を探し出すのは短時間では難しい。
 時間を無駄には出来ない。

 「Principium Scrutor Devenio」
 手っ取り早く海理の魔力を探し当てる。
 大地に手を当て、全ての変化を感じ取る。
 そして、よく知る魔力の流れを汲み上げる。
 「……みつけた!北西約三キロ!!」
 アルトフォードは再び駆け出した。

 待っていろ…
 もう少しで、もう少しで辿り着くから…
 守るって、決めたんだ
 助けるって、誓ったんだ
 誰でもない、俺自身に…!


 森の中を幾人もの人影が走りぬける。
 その中にはリヴィオヴェルクの姿もあった。
 「待って…待って下さい!話を聞いて下さい、海理様……!!」
 追いかけ始めたときには三十人はいたはずの魔法師部隊も、今はもう五人にまで減って
いた。
 残りは全て海理に返り討ちに合った。
 リヴィオヴェルクは海理の攻撃を何とか凌いでここまで来ている。残りの人間も、あと
十分と保たないだろう。
 「こないで!しにたくなかったらこれいじょうちかづかないで!!」
 暴走しつつもまだ何とか理性が残っている海理は、そう叫ぶので精一杯だった。
 これ以上近づいて欲しくない。
 油断すると、すぐに殺してしまう。
 ただ、逃げたいだけ。
 ただ、生きていたいだけなのに…
 誰かを傷つけたいわけじゃない。
 だからもう、放っておいて欲しいのに…

 「海……理様…!!」
 精一杯の拒絶を受けながらも、それでもリヴィオヴェルクは諦めることなく海理へと歩
を進めた。
 捕まえる為じゃない。
 殺す為でもない。
 ただ、助けたいと思ったから。

 「いや……やめて…こないで……」
 「おちついてください。どうか…」
 リヴィオヴェルクの訴えも空しく、海理はすでに限界だった。
 「こないでぇぇぇーーー!!!」
 海理の中の感情と、魔力が爆発した。
 

 「………え?」
 アルトフォードが海理のもとに辿り着いたとき、そこで目にしたのは赤い、紅いセカイ。
 視界が染まる。
 紅く染まる。

 よく知る人の赤い血で…

 紅い髪、紅い瞳の少女が放った魔法により、腹部を貫かれ、鮮血を撒き散らしながらゴミの様にその体を投げ出されたのは……
 「親父……!!」
 宙に投げ出されたまま、地面に堕ちる刹那、リヴィオヴェルクはアルトフォードに視線を移した。
 「……アル……く…」
 「親…父……!?嘘…だろ…?」
 あの親父が、こんな簡単にやられるはずが無い……!
 だって、俺の尊敬した国家魔法師が、こんな……
 こんな、成す術も無いまま斃れるなんて…
 
 俺は、まだ親父に何一つ返してない。
 まだ、伝えてない言葉も…伝えられなかった言葉も…沢山あったのに……
 絶対だと思っていた存在が、こんなにも簡単に、こんなにも突然に失くしてしまうもの
だったなんて、気づきたくなかった。

 「う……あ……」
 「…だ……だめだ……アルト…フォー…」
 海理を守る
 海理を助ける

 そう、心に決めたはずなのに…
 手にした剣は守ると決めた存在に向かって攻撃を繰り出していた。
 リヴィオヴェルクの声さえも、もう届かない。
 駄目だと、頭では分かっているのに、感情がそれを許さない……
 「うあぁぁぁぁーーーー!!!!」
 怒りの感情が支配する。
 制御を失った肉体はかつて守ると決めたものに剣を向け、そして振り下ろす。


 その刹那
 瞳に映ったのは、どうしようもなく顔をぐしゃぐしゃにして泣いている海理の姿。
 僅かに唇が動いたような気がした。
 アルト…と。
 その直後、剣は振り下ろされる。
 海理の膨大な魔力をもってすれば、その魔力放出のみで十分に防げるはずだった攻撃は、
弾かれる事無く小さな肉体を斬りつけた。

 再びセカイは紅く染まる。
 小さな少女の撒き散らす鮮血の花で……

 
 いたい…
 いたいよ…アルト……
 なんで……?
 わたし…ただ、アルトとのやくそくをはたしたかっただけなのに……
 ああ…そうか……
 わたしが、リヴィオをきずつけちゃったから……
 アルトのたいせつなひとをきずつけたから、
 だからアルトはわたしをきらいになったんだ。
 わたしが…わるいんだ……
 ぜんぶ…わたしが……
 アルトはもう、わたしのことなんかきらいなんだ。
 だからあのやくそくも、もうはたせない。
 まもれない……
 うまれてはじめててにいれた、あたたかいもの。
 もうにどと、わたしのてにはもどらない…
 
 だったらもういいや…
 わたしなんか…いなくても……
 べつに、いいや…

 意識が、反転する。


 なにも、いらない。
 すくいも
 あたたかさも
 やさしさも
 すがるものも
 じぶんさえも

 なにひとつ……もう、いらないんだ……


 海理の髪が更に紅みを増して、身の周りを取り巻く魔力の渦も更に密度が上がった。
 それは、爆発寸前の爆弾を思わせる光景。
 「……あ……俺……海…理……?」
 血に塗れた剣
 海理を斬った感触の残る手
 今更になって、ようやく今自分が何をしたのかを理解した。
 海理を、斬った。
 守ると決めたものを、この手で。
 海理を…裏切った…!
 「海理……」
 手に持っていた剣は、地面に堕ちる。
 体中の力が抜けていく。
 海理は今にも、襲い掛かってきそうな雰囲気で…
 完全に、反転してる。
 もう、殺意しか感じ取れない。
 俺が、壊した。
 俺が、海理をこんな風にしたんだ…
 「俺を、殺したいんだったな……。いいぜ、くれてやるよ。俺の命、海理にやる……」
 「…………」
 紅に染まった海理は、笑っていた。
 それは、八歳の少女には似合わない、酷く妖艶で、残酷で、今までのどんな顔よりも殺
意に満ちた……
 その在り方を、ただ…美しいと感じた。

 目の前が真っ白に染まっていく。

 激しい熱の奔流が襲い掛かってくる。
 もうすぐ、それはこの肉体に死を刻む。
 しかし熱が体に到達する寸前でバシッと音をたてて結界が発動した。
 親父がくれた左耳のカフス。
 親父の護りの意志。
 それが今、俺を海理の攻撃から護っていた。
 しかしそれも十秒と保たないだろう。
 パキン、と音を立ててカフスが割れた。
 
 アルトフォードを護っていた結界が消滅して、堰き止められていた力が一気に襲い掛か
る。
 一番最初に痛みを感じた場所は左眼の少し上……
 額が裂ける。
 そのまま瞳を閉じた。
 一瞬で終わるだろうと、思っていた。
 「…………」
 思っていたのに……
 「な…んでっ……!!」
 目の前にあったのは一瞬の死ではなく、全身を血まみれにしてなお、自分の息子を護ろ
うとしたリヴィオヴェルクの姿。
 「親父……なんで……!!」
 「……よかった…怪我……ない…?」
 もう、生きているのが不思議なくらいで、だんだんと熱を失っていく体が助からないこ
とを語っていた。
 「バカヤロー!!人の怪我なんか心配してる場合か!?自分が今どんな状態か分かって
んのかよ!!」
 「顔…ひどい…傷……」
 一秒ごとに冷たくなっていくその手で、血でどろどろになった額にそっと触れてくる
 「俺は…大した事無いから…!それよりも親父が……!!」
 「……ごめんね。守ってあげられなくて」
 いやだ…
 死なせたくない!
 たった一人の、大切な家族なんだ!!
 「Revivifico!」
 ありったけの魔力を込めて回復呪文をかける。
 しかし、傷が深すぎて回復が追いつかない。
 「……Resurrectio!!」
 更に高度な回復呪文を紡ぎだす。
 それでも、深すぎる傷口が塞がる事は無かった。
 「ちくしょう!もう一回…!!」
 それでも諦めることなく再び回復呪文をかけようとするとリヴィオヴェルクの冷たい手
がそれを止めた。
 「いいんだ……。助けようとしなくて…」
 その言葉が、この上なく腹立たしい。
 「諦めてんじゃねーよ!クソ親父!!誰がこんなケジメのつけ方しろっつった!?こん
なところで死ぬなんて俺が許さない!!」
 「アルくん…ごめんね……」
 まっすぐな言葉はとても痛くて、今にも泣き出しそうな瞳を見るのが、辛かった。
 愛する人を目の前にして、決心が鈍りそうになるぐらいに苦しかった。
 でも、ここで引き返したら何も始まらない。
 せめてこの魂が、僕の大好きな子たちの未来を護れるように……
 「親父…何……を……!?」
 リヴィオヴェルクの魔法によって意識を失ったアルトフォードはそのまま倒れ込んだ。
 「カフス、割れちゃったね……」
 かつてリヴィオヴェルク自身が身につけていたカフスのひとつ。
 一つは割れて、もう一つはリヴィオヴェルクの右耳についたまま……
 「形見みたいに、なっちゃったな」
 そのカフスを外して、アルトフォードの手に握らせる。
 「捨ててもいいから」
 でも、アルトフォードは持っていてくれると思う。
 本当に、とても優しい子だから。
 「これが、命を弄んだ代償。でもね、こんな僕でも最後に君を守れて良かった」
 ずいぶんと、血を流してしまった。
 傷は深い。
 残された時間は短い。
 でも、本当はそんなこと関係ない。
 今から行う魔法は、命が代償になるんだから。

 今この瞬間さえも自由が失われていく体を引きずって、紅い少女と向き合う。
 「海理様、これが…僕なりの貴方に対するケジメです」
 海理はただ笑っている。
 さっきまでと同じ、殺意に満ちた笑顔で。

 「Meus Anima Pro Nobilitas Sanguis Obsig
natio Meus Animus Pro Principium Via Nec
are Signo Obsignatio Fungi」
 詠唱の終わりと共に大封印が起動する。
 「……う……あ……」
 海理の動きが止まり、その体から紅い輝きが喪われていく。
 リヴィオヴェルクの発動させた魔法が体に侵蝕していく。
 開かれていた無数の回路が強制的に閉じていく。
 その力はさらに海理の魔力の源にまで到達した。
 「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーー!!!」
 様々なものが頭の中を駆け巡る。
 かつて、大事にしたかったもの。
 ずっと続けばいいと願っていた大切な時間。
 守りたかった約束。
 そして、間違えるはずがない、流れ込んでくる命の感触。
 「だめ……だめだよ…リ…ヴィオ…!こんなことしたら……リヴィオが…!!」
 こんな大がかりな封印、人間一人で制御できる訳がない。いくらリヴィオヴェルクが優
れた魔法師だからってこのままでは…
 「リヴィオー!!!」
 紅い輝きが喪われていく分だけ、リヴィオヴェルクの命が流れ込んでくる。
 そして海理が完全に元に戻ったときには、リヴィオヴェルクはその場に倒れていた。
 「リヴィオ!リヴィオ!!」
 海理が慌てて駆け寄ったときには既に虫の息で、あと数分と保たない状態だった。
 「海…理様……。良かった。戻ったんですね……」
 「うん。でもリヴィオが……!!」
 今この腕が動けば、この少女の涙を拭ってあげられるのに…
 もう口しか自由に動かせない。
 「いいんです。こうなる事は分かっていましたから」
 「どうして!?リヴィオがしななくちゃいけないりゆうなんてどこにもないのに……!」
 アルトフォードも、海理様も、どうして僕の周りにはこんなに優しい子達ばかりなんだ
ろう。
 本当に、もったいないぐらい幸せで、自分の醜さを呪いたくなる。
 「海理様……。最後に…あなたに謝らせてほしい。初めてあなたに逢ったとき、僕はあ
なたを実験体として扱う覚悟を決めました。それが陛下の命令であり、同時に僕の魔法師
としての更なる高みへの答えがそこにあったから。人道に反していると分かっていても、
この醜い好奇心を止めることができなかった。それでも、どこかで割り切ることができたのは、アルトフォードに出逢うまでのあなたが人形と変わらないと思っていたから。どんなに痛くて、苦しくて、辛くても、ただその感情は凍ったままで、実際あなたには感情なんて無いのだと思っていました。でも、違ったんですね。アルトフォードに出逢ってからのあなたは本当に、歳相応の子供みたいでした。泣いて、笑って、怒って。アルトフォードとの出逢いによってあなたは変わった、いえ、本来のあなたになることができた。それを見て、本当に今更だけど、あなたは一人の人間なんだって、実感できました。本当に、酷い話ですよね……」
 ゴフッと体内の血が逆流する。
 勢いよく出てきた血は海理の頬を紅く塗らす。
 「リヴィオは、いつだってやさしかったよ!ほかのひととちがって、いつもこころをい
ためてたのしってるもん!!わた…わたしは…リヴィオとアルトといっしょにいられるま
いにちがあれば、ほかに…なにもいらなかったのに……!!」
 「それに気づいたとき、僕はあなたを人間として生かしてあげたいと思った。その方法
を一年間、ずっと探してきたけど、思いついたのはこれだけでした。あなたの背中に刻ま
れた封呪刻印は、あなたの回路を封じて、魔力の発動を不可能にします。それと同時に魔
力の発動が出来ない為にあなたの因子も発現出来ない。つまり、その封呪刻印が保つ間は
魔力が使えない代わりに反転もしないんです。反転しなければ暴走することもない。恐らくこれが、唯一あなたを人として生かせる方法……」
 そして唯一、自分の重ねてきた罪に対して報いる方法。
 「リヴィオ……わたし、こんなことしてほしかったわけじゃないよ……」
 「ええ。海理様が心を痛める必要はありません。これは僕が勝手にやったことですから。
大丈夫、いなくなる訳じゃない。その封呪刻印は僕の魂で刻まれていますから。その刻印
と共に、僕の心はあなたと共にある」
 この封印の理論を完成させたとき、本当は迷っていた。
 海理様が人として幸せになる為には必要不可欠だと知っていても、踏み出すことが出来
なかった。
 確実に自分の命が代償になると分かったとき、思ってしまった。
 これが正しい選択だと知っていても、願ってしまった。
 まだ、同じ時間の中に居たいと。
 同じ光の中で笑っていたいと。
 でも、アルトフォードが海理様を守ると言ったとき、覚悟を決めた。
 国に背き、騎士の誓いを破って、故郷さえ無くしても、海理様を守ると言ってくれた。
 だったら今が動く刻なのだと、理解したから。
 この罪にまみれた命でも、大好きな子達の未来を少しでも護ることが出来るのなら、こ
れ以上の幸せはないんだ、きっと……
 「海理様。僕を、許してくれとは言わない。でも、覚えておいてほしいんです。僕も、アルトフォードも、海理様が大好きなんです。海理様の幸せを願っているんです。だから、これからは血に縛られることなく、自由に生きてください。あなたが思うように、願うままに、自分らしく、生きてください」
 本当に難しいかもしれないけど、これからのこの子の人生が、少しでも幸せなものであ
るように、ただ願っている。
 「うん……」
 「これは『約束』じゃなくて『お願い』です。でも、聞いてくれたら、うれしいな……」
 「うん」
 「ああ……そろそろ、本当に限界…かな…」
 死が、もう目の前まで来ている。
 血も随分流れた。
 魂の大半を、封印に費やしたから、
 あとは静かに永眠るだけ……
 「リヴィオ、さいごに…きいてほしいことがあるの」
 「……なんですか?」
 「あのね、わたし…リヴィオのこともアルトのことも、ほんとうにだいすきだよ。アル
トはもう、わたしなんかきらいになったかもしれないけど、わたしがかってにすきでいる
ことぐらい、かまわないよね?」
 「……ありがとう」
 体は冷たくなっていくのに、こみ上げてくる涙からは暖かさを感じた。
 こんな終わり方なら、悪くない。
 幸せだとさえ、思えてくる。
 「うん。でもきっとアルくんは海理様のことが今でも大好きですよ。今はまだ、色々あ
りすぎて…心の整理がつかないだけで、大丈夫です。いつかまた、一緒に笑いあえる刻が
きます」
 そしてそれは僕自身の願いでもある。
 ただ、自分の愛した人を信じていたいから。
 「いつか、くるといいな…。そんなひが」
 「保証……します……」
 その未来に僕は居ないけど、せめて、僕の大好きな子達が幸せであるように。
 それだけを願いながら、永眠りにつく。

 「さよなら…リヴィオ……」
 海理の瞳からは止まることなく涙が流れ続ける。
 もう、リヴィオヴェルクの体が動くことはなかった。
 冷たい体。
 開かない瞳。
 「わたしは、だいじょうぶだから。だから、もういくね……」
 だいじょうぶ。
 リヴィオはここにいる。
 せなかのこくいんがそういってる。
 わたしはひとりじゃない。
 だからいまは、ひとりでもたちあがれる。

 この場から立ち去る前に、海理は一度だけアルトフォードを振り返った。
 「アルト…ごめんね……」
 わたしが、アルトからリヴィオをうばった。
 ふかく、きずつけてしまった。
 ゆるしてもらえるなんて、おもってない。
 でもいつか、こんなわたしにてをさしのべてくれるひがくるかもしれないって、ユメを
みるくらいならいいよね?
 たとえげんじつにならなくても、ユメをみることだけはゆるしてほしい。
 それだけがいま、わたしがみらいにふみだすちからになるから。
 「わたしのこと、きらいでもいいよ。でもわたしはアルトがだいすきだから。だいすき
でいさせて……。いまのわたしには、アルトとリヴィオだけだから……」
 

 そして海理はグナハーンを去った。
 置き去りにしたもの、失くしたもの、今は振り返らない。
 いつかまた出逢えたのなら、すべてそのときに精算するから。


 「海理……親父……」
 目が覚めたときにアルトフォードが見たものは動かなくなったリヴィオヴェルクと、い
つの間にか握らされていた青銀のカフス。
 海理の姿はそこにはなく、ただその二つだけが遺された。
 「割れたと…思っていたのに……」
 ちがう。
 あのカフスは確かに割れた。
 青銀の欠片が地面に散らばっているのがその証拠。
 「だったら、これは親父の……」
 それが分かった瞬間、手に持っていたカフスを投げつけようとした。
 でも、出来なかった。
 「こんなもんっ!!いらねーよ!!形見なんかいらない!!」
 そう、形見なんかいらない。
 ただ、生きてさえいてくれれば、それでよかったのに……!
 
 『僕も、いま決めたよ』

 あの時の言葉の意味はこういうことだったのか?
 俺は、あの後海理と親父の間に何があったのか知らない。
 でも、親父が納得して逝った事だけは分かる。
 きっと、俺に未来を託したんだ。
 「こんな、勝手な期待に応えてやる義理なんて無い……!!」
 でも、これが親父の最後のワガママだっていうんなら、きいてもいい。
 俺には、他に返せるものがないから。
 あんたはもういないけど、あんたの遺した想いは俺が受け継ぐよ。


 それから一週間後、リヴィオヴェルクの葬儀を済ませたアルトフォードはグナハーンか
ら姿を消した。
 特務隊の隊舎にはアルトフォードの制服と、辞表と、ほんの少しの言葉が綴られた置き手紙が遺される。


 今はまだ、立ち止まらない。
 辿り着きたい未来が、その先にあるから。