『しばらくしたら、迎えに来るから……』
 

 母だった人はそう言った。


 『ここで待っていてね……』

 
 私の目を見ずに、そう言った。


 海の見える町で、

 海を眺めながら、

 その言葉のとおり、

 私はその場所で待ち続けた……

























 第一章 おきざり


 冬の空。
 雪が降り積もる中、はー、はー、と手を温めながら歩く。
 「うー、さみー。何で冬っていうのはこう意味もなく冷えるんだ?」
 千鐘陸水(ちかねりくみ)は海沿いの道をいつものように文句を垂れながら歩く。
 寒いのは嫌いだ。
 温暖化が進んで最近はあったかくなってきたって言うけれど、まだまだ寒いことに変わりはない。
 むしろこの寒さから逃れられるのなら温暖かもっと進めってゴーサインを送りたくなるぐらいだ。
 かんきょーはかいなんのその。
 人間やっぱ太く短く。
 「温暖化だーいかーんげーい♪」
 正義の味方ならず、地域の味方にあるまじき発言である。
 陸水の職場までアパートから徒歩十五分。
 車で行くには近すぎる、自転車で行くにはちょうどいい。
 しかし、いい運動になる、ということでこうして徒歩通勤にしているのだ。
 えらい?
 誰か褒めて?
 「ん?」
 海沿いの道。
 ぽつぽつと立っている石柱の上に、所在無さげに座っている子供を見た。
 年は十三、四くらい。
 肩より少し長いくらいの髪を風に揺らしながら、海を眺めている子供。
 「朝の散歩か?っていうか学校は?」
 本日は平日、土曜でも日曜でも祝日でもない。
 この年頃の子供は学校にいなければならない時間帯である。
 「サボりか……」
 学校に言っていないということはサボりということになる。
 いや、なんと言うか……
 今日は月曜日。
 つまり休み明け。
 初日からサボるなんて結構いい根性してやがるな。
 「…………」
 それとも不登校児なんだろうか?
 「…………はは」
 不登校児にしてもサボりにしても、ここは地域の味方としては口を出しておくべきなのだろう。
 正しい答えとしては。
 「どーでもいーけど」
 そして陸水はここで口を出す大人ではなかった。
 不登校児だろうがサボリだろうが所詮他人事である。
 他人の事情に首を突っ込むほど暇人では……
 「……いや、結構暇だけどな」
 暇人ではあるのだが、情に厚いわけでも決してない。
 あの子にはあの子の事情があるのだろうし、ここは見て見ぬふりというのが俺の人生において最善の選択だ。
 「大体関わったところで何を言えばいいのか見当もつかねーし」
 仮に不登校児だとしよう。

 『世界各地には学校に行きたくてもいけない子供がたくさんいるんだよ?日本は義務教育、給食費以外はタダなんだ。素晴らしいじゃないか!さあ、こんなところで腐ってないで学校に行こう!今でしか味わえない青春が君を待っている!!』

 「……げろげろ」
 そんな台詞を吐く自分を想像しただけで吐き気がした。
 無理、ずぅえーったい無理!
 心にも無い事真顔で言うほど俺は演技派ではない。

 パターンその二。
 サボりだとしよう。
 
 『…………』

 「無理。言葉すら浮かばねー……」
 サボりはいけないことだ、なんて学校サボりまくっていた過去の自分を振り返れば言えるはずも無い。
 説得力ゼロ通り越してマイナス五八四ぐらい白々しくなるに違いない。
 「…………」
 結論。
 関わらぬが吉。
 
 「よし、仕事仕事」
 陸水はもう一度だけ少女を振り返って、仕事場に向かうことにした。


 「ふ……あぁ〜〜〜……」
 ん〜、と伸びをして安っぽい事務椅子にもたれかかる。
 人口も並。
 特に栄えているわけでもない。
 コンビにも無いほど田舎というわけではないが、そこら辺に高層ビルが立ち並ぶ、と言うほど都会でもない。
 どこにでもある、どうでもいい港町。
 そこの派出所。
 つまりお巡りさんの仕事など、大して無いのである。
 地域の味方。
 町のみんなの便利屋さん。
 ひと昔前なら子供が『おまわりさ〜ん』なんて声を掛けに来たりもしただろう。
 しかし最近の子供はかわいげも無い代わりに社交的でもない。
 みんな他人との関わりを必要以上に持ちたくないようである。
 たまに来るのは道を聞きにくるおばあさんとか、そんなもんである。
 財布の落し物なんて警察に届けるぐらいならガメる人間が大半だろうし。
 っつーか俺でもガメる。
 警官失格でもいい。
 落とした奴が悪いのだ。
 陸水は暖房の効いた所内でうとうとと舟を漕いでいた。
 何も無い一日。
 のどかな日常。
 平和って素晴らしい。
 「…………」
 ぐー……
 そして陸水は居眠りを開始した。
 不真面目一直線。
 町のお巡りさん失格。
 千鐘陸水は今日もこうして給料泥棒な仕事ぶりで一日過ごしましたとさ。


 そして定時。
 「ん〜……今日もよく寝た」
 仕事終わりに言っていい台詞では断じてない。
 陸水はのそのそとした動きで机の上を片付けて帰宅の準備を始める。
 戸締りをして、寒い冬空のもとに出る。
 「さみぃ……」
 朝も同じことを言っていた。
 とにかく寒いのは嫌いだ。
 さっさと家に帰ってあったかいカップスープでも飲んであったまりたい。
 「…………」
 もちろんインスタントである。
 独り者のアパートにそんな気の利いた作りおきがあるわけが無いのである。
 そうして海沿いの道を朝と同じように歩く。
 「は……?」
 いま、あるはずの無いものを……
 いや、居るはずの無い人を見たぞ?
 「あの子は……」
 朝、ここで意味もなく海を眺めていた子供。
 間違いない。
 間違いないのだが……
 「何でまだここに居るんだ?」
 朝からずっとここに居たのか?
 いくらなんでもそれは……
 「…………」
 恐る恐る少女に近づくと……
 「うわー!?つ……積もってる!?雪が積もってんじゃねーか!!」
 初めから白い服装に白い帽子だから分からなかったが、近づいてみると少女の体には結構雪が積もっていた。
 「お、おい!生きてるか!?おーい!!」
 雪を払い落としながら声を掛ける。
 「…………」
 返事は無いが生きているのは確かだった。
 しかし意識を失っている。
 「うわ、めんどくせー……」
 このまま放置したら間違いなく凍死するな、この子。
 だからといって今の時間病院なんて開いていないし。
 「あー!めんどくせー!!」
 ぶつぶつと文句を垂れながら少女の体を抱き上げる。
 「何で俺がこんなめんどくせーことに関わらなければならないんだよ……」
 遭遇してしまった以上見捨てるのは寝覚めが悪すぎる。
 善人ではないが悪人でもないつもりだ。
 明日の通勤時に女の子の凍死体なんて見つけた日にはさすがに良心がちくちくと痛んだりもするだろう。
 そんなわけで陸水は泣く泣く少女を自分のアパートで介抱する羽目になった。


 「重てぇ……」
 アパートにたどり着いたころには陸水はくたくたになっていた。
 少女を片手で担ぎ上げてドアを開けて、玄関先で膝をつく。
 「眠っている人間ってのはこんなに重たいのか……」
 それともこの子が着やせするタイプで実は結構体重があるのか?
 「とにかく疲れた……」
 何とかもう一度立ち上がって、部屋の明かりを点ける。
 「さて、まずは布団だ」
 押入れをあけて布団を敷く。
 それから少女の体についた雪を払って、服を脱がせ始める。
 「…………」
 勘違いはしないでもらいたい。
 これはあくまで介抱である。
 やましい気持ちはこれっぽっちも無いと訴えておこう。
 というかやましい気持ちを起こすにはあと五年ほど必要と思われる。
 俺は変態さんではないのでぺたーんではなくむちーんが好みなのだ。
 「これでよしっと」
 少女の服を全部脱がせて、だいぶ大きいポロシャツを着せる。
 そのまま布団へと運んで寝かせる。
 「はっ……しまった……!」
 少女を寝かせたところでふと思い当たる。
 今俺の布団でちょっと熱にうなされながら眠る女の子。
 病院に連れて行くほど酷い状態ではない。
 このままあったかくしておけば明日には意識が戻るだろう。
 問題は……
 「俺は今日どこで寝ればいいんだ?」
 一Kの狭いアパートの部屋で、お客さん用の布団など当然あるはずも無く……
 「厄日だ……」
 陸水は文句を垂れながら少女とは反対側に雑魚寝することにした。
 枕は安物のクッション。
 敷布団は無く、掛け布団は……
 代わりにコートをかぶって寝る。
 「…………」
 眠れるわけねー!
 やっぱりひろわなきゃよかった。
 寒い部屋の中で、気分最悪のまま陸水は眠りについた。


 「    !!      !!」
 「              !!!!」
 「              !!」
 いい訳じみた情けない声と、ヒステリックな金切り声が聞こえる。
 いつもの光景。
 慣れた日常。
 そしてその様子をどうでもいい様子で眺める二十年前の俺。
 当時六歳。
 泣くわけでもなく逃げるわけでもなく、タダどうでもよさそうに夫婦喧嘩を眺めている。
 今にして思うとすっげー可愛げのない子供だったかもしれない。
 六歳って言ったらまだ小学一年生ほどだぜ?
 もっと情緒豊かでいいんじゃねーの?
 と我ながら思うのだが過ぎてしまった過去の自分に文句を言っても仕方が無い。
 可愛げが無いには無いなりの理由があったはずなのだ。
 きっかけは自分でもよく分からないが。
 理由はなんとなく想像がつく。
 うちの父と母は俺が生まれたときからこんな感じだったらしい。
 喧嘩の内容はいつも同じ。
 浮気性の父にいつも怒りをぶつける母。
 どっちが悪いのか、といわれればもちろん父のほうだろう。
 しかしあんな疲れる奥さんを相手にしていれば他の女に癒しを求めたくなるのは分かる気がする。
 小さい頃のことなので記憶の正確さには自信がないが、とにかく俺の母は嫉妬深かったようだ。
 仕事が終われば寄り道は許さなかったし、仕事でも他の女と一緒にいるのを見かけたら言い訳の余地なく文句を言っていた。
 終いには父の携帯のメモリーやメールまで日々チェックしているという徹底ぶりだ。
 仕事の都合で必要な事だろうと他の女のアドレスや番号など一日待たずにメモリーロスとしていた。
 これではもう監視同然である。
 母は父に一途だったがそれも大分いきすぎていた。
 こうなると父が疲れてくるのは当然であり浮気の一つもしたくなっても仕方がないといえるだろう。
 そんな繰り返しで俺が覚えている限り家の中が平穏だったことは一度もない。
 いや、最後の一週間ぐらいは静かだったかな。
 嵐の前の静けさとでも言おうか。
 ある日を境に父と母は全く会話がなくなっていた。
 同じ家で暮らしているだけの他人みたいだ。
 そして……
 
 「だから    私が      いや   あの女が   全部    全部なくなれば      ああ そうよ     そうだったんだわ    ふふふ    」
 「おかあさん……?」
 その間、一人の時に母がぶつぶつと独り言を言っていた。
 目が正気でなかったことは子供の俺でも感じ取れた。
 そう、怖かった。
 怖かったのだ。
 突然変化した家の中。
 喧嘩ばかりしているのは平和ではなかったが、普通ではあった。
 だから、そのケンカが終わると言うことは、何かが壊れたと言うことなのだ。
 とても大切で、限りなく無価値な何か。
 それが……音もなく壊れていく……
 そして……
 
 終わりは突然やってくる。

 「もう……いい……」
 「ーーーーーー!!?」
 仕事から帰ってきた父を、包丁を持った母が出迎えていた。
 「おかあさん……おとうさん……?」
 そしてそれを不安そうに見つめる六歳の俺。
 何かを叫びながら後ずさる父に、母も何かを叫びながら包丁を刺した。
 「        」
 「           」
 「あ……」
 何か言ってる。
 何か呻いてる。
 だけどそれは、もうすぐ終わる。
 「    !!    !!!!      !!!!!!」
 そして、一度だけでは飽きたらず何度も何度も父を刺す母。
 懇願する父。
 狂った母。
 穴だらけになる父の体。
 血にまみれる母の包丁。
 そして、赤く染まる小さな小さな箱庭の世界。
 飛び散る紅い血は、俺の体にも飛んできた。
 「あ……あ……」
 こわい……
 おかあさんが、こわい。
 おとうさんはもう、なにもいえないにくになってしまった。
 つぎは……
 つぎは……?
 「陸水……」
 「おかあ……さん……?」
 返り血をべっとりと浴びて、近づいてくる母。
 「お父さんは死んだわ」
 「…………」
 泣きながら、近づいてくる。
 泣きたいのはこっちだ。
 俺まで巻き込むんじゃない。
 思いだしたユメの中で、二十六歳の俺が突っ込みを入れる。
 これはもう変えられない過去。
 過ぎてしまった出来事。
 忘れた方が楽なのに、
 未だ抱え込んでいる傷痕。
 「……やめて……おかあさん!!」
 泣きながら後ずさる俺。
 「大丈夫。お母さんも一緒にいってあげるから」
 「…………」
 いや、っつーかむしろ一人で逝け!
 「ーーーーー!!」
 あ、刺さった。
 血の付いた刃物が新たな血で塗りつぶされていく。
 小さな体に、大きな刃物がざっくりと。
 お腹から、紅い血がどくどくと……
 うわー、これはやばい。
 その光景を眺めている今の俺。
 我ながらよく死ななかったと感心する。
 「さようなら、あなた、陸水……」
 そして、母だった人も喉に包丁を刺して絶命した。
 
 一家無理心中。
 やれやれ。
 次の日の新聞にはある事無い事書かれているのだろう。
 そうして、かろうじて生き残った俺は病院で意識を取り戻したらしい。
 「生き残ったのは君だけだ」
 と、刑事さんに言われたときも、特に何も感じなかった。
 父はあれだけ穴あきにされていたのだから、生き残っている方がむしろ恐ろしい。
 母だって喉をひと突き。
 生きていたら化け物だ。
 「…………」
 むしろ生きていない方がいい。
 そして、唯一急所から外れていたのと、たまたま発見が早かったので助かったらしい俺。
 しばらくは病院に缶詰めで、それから施設に預けられた。
 今はもう、思い出すだけで腹がちくちくと痛むロクでもない思い出。
 だから、ユメなんて見たくない。
 というわけで、早く目を覚ましたかった。
 
 「うーん、うーん……」
 寝心地が悪いせいか、覚醒はまもなくのようだ。
 「うーん……うーん……」
 そりゃー、雑魚寝だから寝心地はいいはずがない。
 しかし何か違和感が……
 「うーん……」
 重い……
 そして、コートしか着ていないので寒いはずなのに、何故かあったかい。
 そうして、うっすらと目を開けると……
 「ああ……やっぱり……」
 陸水は溜息混じりに人を抱き枕にしていたお子様を引き剥がす。
 布団に寝かせていたはずの少女はいつの間にか陸水の所まで転がってきていた。
 寝相はかなり悪いと思われる。
 そして少女を布団に戻し、掛け布団をかぶせる。
 「…………」
 その数秒後。
 「う……ん……」
 「…………」
 ばふっ!
 十秒もせずに掛け布団を蹴り飛ばされた。
 そして足をガニ股に広げ大の字で眠る少女。
 「…………」
 色気の欠片もない。
 むしろ気分は萎えまくり。
 「はぁ……」
 気分を切り換えて台所へと移動する。
 ご飯は炊きあがっているのでみそ汁をたてる。
 男の一人暮らし。
 最低限カレーとみそ汁と雑炊ぐらいは作れないと今頃は栄養が偏って体調を崩しているだろう。
 だからといって難易度が高い料理は手を出せずにいるのだが……
 壁に立てかけてあったテーブルを横にして、朝食を一人分ならべる。
 「ん……」
 くんくん……
 鼻をひくひくさせながら大の字少女が起き上がってくる。
 食べ物の匂いで起きるとは……
 ますます女らしさとはかけ離れていくな……
 「起きたのか。腹減ってるならメシ食うか?」
 「……うん」
 陸水はもう一人分の朝食を準備してテーブルに着く。
 「いただきます」
 「いただきます……」
 もぐもぐ……
 はぐはぐ……
 もっきゅもっきゅ。
 「…………」
 「…………」
 ずずー……
 「ごちそうさま」
 「おそまつさま」
 しーん……
 「…………」
 「…………」
 沈黙……
 「あのさ……」
 「何だ?」
 「ここ、どこ?」
 「……遅っ!」
 しかり満腹になって頭が回り出したのか、起床二十分後にやっと現状確認の言葉が出てきた。
 「で?どこ?」
 「…………」
 しかもこっちの突っ込みはスルーときた。
 薄々感じてはいたが中々にいい根性をしたお子様である。
 「俺ん家」
 「あんただれ?」
 ああ、間髪ナシですか。
 いいですよ。
 間髪ナシで付き合ってやろうじゃないか!
 「俺ん家の主」
 「…………」
 「冗談だ。千鐘陸水。ここの住人」
 ちょっとふざけてみただけなのに本気で睨んでくるとは何ともかわいげのないガキである。
 「ふーん……」
 しかも聞いておいてどうでもよさそうなその態度。
 実に気にくわない。
 「あのさ、こっちが名乗ったんだからお嬢ちゃんも名乗ってくんない?不公平だろ?」
 「……橘…空」
 嫌そーな顔で少女、空は名乗った。
 「ふーん、空ちゃんね……」
 「私何でここにいるの?」
 「そりゃー、倒れてた空を俺が運んで介抱してやったからだろう」
 「いきなり呼び捨て……?」
 空、と呼び捨てにされたのが気にくわないらしい。
 「いや、だってちゃん付けできるほどかわいげがあるように見えないし?」
 無表情、無感動。
 かろうじて感じ取れるのは怒りの感情だけ。
 これでかわいげを見つける方がどうかしている。
 「…………」
 そして空も自覚はあるのかそれ以上追求してくることはなかった。
 
 「私の服は?」
 「ベランダ。びしょ濡れだったから洗って渇かしている最中。昼には完全に乾いてるだろ」
 「…………」
 ベランダに干されている自分の服を見つけて空は溜息をつく。
 「ありがとう、と言っておくべきかもね」
 「……どーいたしまして」
 ああ、ちっとも感謝されている気がしないのは俺の見当違いではないと思う。
 「今度はこっちの質問。空は何でずっとあんな所にいたんだ?学校もサボりだろう?」
 「…………」
 空は黙り込む。
 聞かれたくないことらしい。
 「別に、言いたくないなら無理に聞く気はないけどな」
 「…………」
 「まあ、拾った手前面倒は最後まで見てやるよ。家はどこだ?送ってやるぜ?」
 「…………」
 空を送っていくので今日は有休を取ることにした。
 「空?」
 「…………」
 空は最後まで何も言わなかった。
 
 昼間でゆっくりくつろいで、空の服が乾いた頃、
 「よし。そろそろだな」
 陸水はベランダに出て、空の服を取り出して放り投げる。
 「行くから準備しろ」
 陸水は脱衣所で着替える羽目になった。

 「空。準備できたか?」
 「…………」
 空は返事することなく黙って頷いた。
 拾ったときと同じ、真っ白い服。
 「じゃあ行こう」
 「…………」
 空は黙って陸水の後に付いてくる。
 「家はどの辺なんだ?」
 「…………」 
 「…………はあ」
 空は答えないまま陸水を追い抜いて、雪の積もった地面を歩く。
 空について行けば家に着くと言うことだろうか。
 しかし空は……
 「オイ……」
 昨日空が倒れていた場所に再び座り込んだ。
 「あのさ、空。お前の家に行こうって言ってるんだけど?」 
 「…………」
 無視。
 ああ……血管ぶち切れそう……
 「おーい、おじょーさーん!人の話きーてますかぁー!?」
 あからさまに呼びかけるが反応はナシ。
 「あー……もー……」
 何で俺がこんな目に……
 拾わなきゃよかったこんなガキ……
 「家に帰っても意味がないと思うから」
 「は……?」
 そろそろ本気で一発ぐらいハタいてやろうかと考えだした頃、空が口を開いた。
 「どういう意味だ?」
 「言葉通りの意味」
 「…………」
 全然分かんねー……
 「それに、ここで待ってろって言われたし……」
 「誰に?」
 「母親に」
 「いつ?」
 「おとついの夜」
 「…………」
 なんか、トラブルの予感がしてきた。
 きっと、空が赤子だったら問答無用で駅前のコインロッカーにぶち込まれていたような、そんなトラブルの匂いがぷんぷんと……
 「来ないとは思うけど」
 「…………」
 一日以上待っても来ない母親。
 事故とかでもない限り導き出される答えは一つだけだろう。
 この少女が家に帰りたがらないのは、もしかすると決定的な答えを突きつけられるのを先延ばしにしたいからなのかもしれない。
 「空。家に行ってみないか?」
 「…………」
 「これ以上待っても時間の無駄だと思うんだが……」
 残酷なことを、口にしていると思う。
 それでもここで待たせてまた凍死寸前になられても困る。
 「…………」
 空は無言で立ち上がる。
 すたすたと、自分の家に向かって歩を進めるが……
 空は向かったのは家ではなく駅だった。
 「陸水」
 「呼び捨てかい」
 「陸水だって呼び捨てじゃない」
 「…………」
 どうやらこのお子様には年上に対する礼儀とやらを教え込んだところで空振りするだけのようである。
 仕方なく呼び捨てで妥協する。
 「お金持ってる?」
 「は?ああ、電車代か。いくらだ?」
 「…………」
 空は現在位置の確認をして、目的地までの代金を計算する。
 そして……

 「マジかよ……」
 「…………」
 なんと、空の家はここから二つほど県を超えたところにあるらしい。
 
 がたんごとん
 がたんごとん

 長距離用の新幹線に乗って、陸水はがっくりとうなだれる。
 「…………」
 ま……まさか交通費だけで諭吉が数枚飛ぶ羽目になるとわ……
 指定席に座り、陸水は財布の中身を確認する。
 「おぅ……」
 今月ピンチだ……
 予想外の出費で今月の食費をどう切りつめようか頭を抱えた。
 しかも二人とも往復切符を買ってしまったし……
 空は片道でもよかったのだが陸水の予想が正しければ必然的に往復切符が必要になると思ったのだ。
 「空……家に帰りたくないのか?」
 「……別に。帰っても意味がないと思ってるだけ」
 「…………」
 空は分かり切っている結果を確かめに行くだけだ。(俺の金で)

 がたんごとん
 がたんごとん

 「…………」
 空にとって、何よりも長い時間。
 窓の外、高速で流れる景色を見つめながら、五時間の道程を無言で過ごした。


 長い、新幹線の旅。
 ようやく目的地に到着して、陸水と空は外の空気を吸う。
 南に下ったためだろう。
 寒さはあまり変わらなかったが、雪は全く積もっていなかった。
 「…………」
 「…………」
 無言で歩く空。

 すたすた
 すたすた

 「…………」
 やっぱり、この先の結果が確信に変わる。
 空をあんな遠い場所に置き去りにした母親。
 凍死するかもしれなかった空。
 結果へと足を進める小さな体。
 その速度は、一度も衰えることはなかった。
 そうして、辿り着く。
 みずほらしいアパート。
 錆び付いた階段をとんとん上がっていき、ポケットの中から鍵を取り出す。
 「…………」
 一度だけ躊躇して、空は鍵穴を回す。
 そして……
 ドアを開けたその先には……

 「うわ……」
 「やっぱりね……」
 やっぱり、予想通り。
 部屋の中に母親らしき姿は見あたらず、家具の一つすら置いてはいなかった。
 つまり、引き払った後。
 「あのー……空……?」
 さすがにこの状況ではザ・無表情も泣いたりするんじゃないかと顔をのぞき込んでみると、
 「…………」
 そこにはやはりザ・無表情。
 泣くどころか冷めた目をした空がいただけだった。
 「空。お前、哀しくないのか?」
 さすがに心配になって聞いてみるが、
 「さあ、人並みには哀しいんじゃないかな……」
 「…………」
 などと言ってはいるが、人並みにと言うのは激しく間違っている。
 この状況で涙一つ流さない冷血少女が間違っても人並みなんて言葉を使ってはいけない。
 空は靴を脱いで何もなくなった家の中に上がり込み、再び大の字になって寝転がる。
 「あの人は出て行った。うん、多分、最近出来た男と一緒にどっかに行ったんだと思う」
 「…………」
 「私は邪魔だっただろうし、あの人も私を邪魔者としてしか扱わなかった」
 「…………」
 本来はどうして?と疑問を投げかける言葉は、諦めと共に受け入れている。
 「相手の男はコブ付きと結婚はできない、とか言ってたしね。しかも私に聞こえるように」
 「…………」
 「まあ、あの人も仕方なく私を育てていたみたいだし、捨てるには丁度いい機会だったんじゃないかな」
 「空……お前さ、そーゆー言葉を淡々と言ってて、哀しくなったりしないのか?」
 人として大切な感情がかけているような気がする。
 しかし空は無表情なまま、
 「そうだね。敢えて言うなら、あそこで凍死し損なったのが残念と言えば残念かな」
 「…………」
 そして、出てくる言葉はそんなふざけた言葉だけだった。
 「空。さすがに怒るぞ……」
 「怒れば?」
 「…………」
 やめた。
 怒っても、びんたしても、間違いなく暖簾に腕押し馬の耳に念仏糠に釘だ。
 「別に死にたかった訳じゃないけど、あの人は私にそのまま死んで欲しかったと思うから。だから期待に応えてあげられなくて残念だなって言っただけ」
 「そこは残念がるところじゃねえ!」
 陸水も靴を脱いで上がり込む。
 しばらく空に付き合って、何もない部屋でぼーっとしていた。
 
 「空」
 「…………」
 「いつまでここにいる気だ?」
 何もない
 誰もいない
 置き去りにされた空っぽの部屋。
 空はそこに留まったまま……
 「空」
 「困ったことに、行くアテがない」
 「…………」
 親戚とかいるはずなのだが空は知らないらしい。
 母親は男と蒸発して行方不明。
 空はひとりぼっち、どこに行けばいいかも分からずに、ここで止まっていた。
 「母親に会いたいか?」
 「会いたいな……」
 「…………」
 おう、少し意外だ。
 てっきり別に、とか言うと思ったのに。
 少しは人間らしいところもあるじゃないか。
 「会って、一回ぐらいは刺してやりたいな……」
 「…………」
 前言撤回。
 冷血少女は所詮冷血少女に過ぎないのだった。
 「あー……気持ちは分かるがやめておこう。刺されたらもの凄く痛い」
 「まるで刺されたことがあるみたいな言い方だね」
 「あるぞ」
 「…………」
 空が怪訝そうな顔をするので証拠に腹に傷痕を見せてやった。
 「うわっ……結構大きい……いつ?」
 「六歳の時。うん、あの時は死にかけた」
 「誰に?」
 「母親」
 「…………」
 「…………」
 空は陸水の傷をまじまじと見ながら溜息をつく。
 「お互い、母親に恵まれてないみたいね……」
 「まったくだ」
 出てきたのはそんな言葉。
 陸水は空の手を引いて立ち上がらせる。
 「行くアテなら心当たりがある」
 「どこ?」
 「俺の居た施設。先生もそこそこ優しかったし、中々に悪くないところだぞ?」
 「ふーん……」
 空は仕方なく立ち上がる。
 一度だけ振り返って、空は十四年間住んでいたアパートを後にした。
 

 そうして、二人が陸水のアパートに帰ってきたのは日付が変わった頃だった。
 「もう少し家に泊まっていけ。先生には今週中に連絡取るから」
 「…………」
 「早くしてやりたいが俺にも仕事があるからな。さすがに二日連続で休みたくはない」
 いくら大して仕事をしていない給料泥棒とはいえ……
 「仕事って、何の?」
 「おまわりさん」
 「…………」
 「…………」
 なんか今、すっげー失礼な反応をされている気がする。
 「似合わなさそう……」
 「このクソガキ……」
 ぼそりと呟いた言葉はしっかりと聞こえていた。
 「とにかく、もう寝ろ!俺も寝るから!!」
 布団は空に譲って、今日も陸水は雑魚寝した。
 空は背を向けて眠る陸水を眺める。
 一人、譲って貰った布団。
 「陸水……」
 「ん?」
 「寒くない?」
 「さみー。でも予備の布団なんて無いからな。我慢するさ」
 「だったら陸水が布団で寝ればいい」
 「…………」
 驚いた。
 空にそんな気遣いがあるとは夢にも思わなかった。
 うん。割と当たり前の一面が意外に思えてくるぐらいびっくりした。
 「いい。女の子雑魚寝させて自分だけ布団で寝れるか!」
 「…………」
 この冷血少女だって一応は女の子なのである。
 男である俺が譲るのは当然なのである。
 「じゃあこうすればいい」
 「空?」
 空が陸水の腕を引っ張って布団に寝かせる。
 「…………」
 「おやすみ」
 「…………」
 掛け布団を掛けて、陸水の横に潜り込む空。
 「…………」 
 狭い……
 元々一人用の布団に二人寝れば狭いに決まっている。
 しかし根本的な問題は勿論そんなことではない。
 それは……
 「お前、自分は女だって自覚あるか?」
 そう、ガキとはいえ年頃の女の子が自分から男の布団に潜り込むなと言うことなのだ。
 「何かまずい?」
 「普通はまずい」
 「ふーん」
 ぐー……
 「早っ!」
 寝た。
 空はあっさりと眠った。
 「別に……いーけどさ……」
 布団に寝れるのなら寝させて貰おう。
 生憎とこんなガキに何かを我慢するほど野獣ではない。
 たとえ横で寝息を立てられようと、腕枕をさせられようと、寝相が悪くて抱き枕にされて胸がばっちりあたろうと関係ない。
 関係ないのである。
 ……おやすみ。


 「ん……うぅ……」
 そして今日も抱き枕状態で目が覚める、
 「?」
 だろうと思っていた。
 居ない……
 空が居ない……
 布団の中に陸水だけが横たわっていた。
 「空……?」
 まさか夜中の家に黙って出て行ったとか?
 「うわ……」
 あり得そうな気がしてきたとき、台所からいい匂いが漂ってくる。
 「何やってんだ?」
 空が、台所で料理をしていた。
 何か、もの凄く意外なモノを見た気がする。
 「見て分からない?」
 「いや……そう言うわけではないんだが……」
 この……人を小馬鹿にした態度はどうにかならないものか。
 「ちょうど良かった。これ持っていって」
 ぽん、と渡されたのは卵焼き……にしてはやけにふわふわな仕上がりっぽい。
 「これ、もしかしてだし巻きか?」
 「そうだよ」
 みそ汁が煮立つ前に火を止めて、きざんだネギをお椀に入れながら空が答える。
 そうして、陸水がテーブルに着く頃には丁度豪華な朝ご飯が出来上がっていた。
 「すげー。ちょっとかんどー……」
 ご飯、みそ汁、納豆、焼き魚、だし巻き卵と完璧な朝食に陸水は素直に感心した。
 「空って料理上手いんだなぁ」
 ご機嫌に食べる陸水の横で空も黙々と箸を進める。
 「普通だと思うけど」
 「いやいや上出来だって」
 普通なんてとんでもない。
 その年でこれだけ料理が出来れば大したものだ。
 米をとぐのに洗剤をぶち込む女が跋扈する時代にこの若さでこれだけの腕があるのは素直に誇っていいと思う。
 「…………」
 「空……?」
 「な……何でもない……!」
 ぼーっとしていた空ががつがつとご飯をかっこむ。
 そんなに急がなくてもご飯は逃げないと思う。
 
 「ごちそうさま。うまかったよ」
 「おそまつさま」
 「片付けは俺がやる」
 「…………」
 空は黙り込んだまま何かを考え込んでいた。
 「空?」
 どーした?と顔をのぞき込むが、
 「…………」
 「おーい……」
 ちょっと心配になってぱたぱたと顔の前で手を振ってみるが……
 「熱でもあるのか?」
 「うん。何だろう。変な感じ」
 「!!?」
 空が……
 あの空が……!?
 あの冷血少女が顔を赤くしながら俯いている!!?
 風邪か!?
 風邪なのか!!?
 「空?大丈夫か……?」
 「風邪じゃない……」
 「…………?」
 「ただちょっと、新鮮だっただけ……」
 「????」
 ますます分からない。
 空の顔が赤いのは風邪ではなく別の理由らしい。
 「誰かと食事をしたのは初めてだったから……」
 「……は?」
 初めて?
 いや……いくら何でもそれは……
 「学校……そう、学校は!?給食!!給食はみんなで食べていただろう!?」
 「学校、行ったことない」
 「…………」
 あっさりと……
 荒んだ家庭環境を暴露してくれました。
 「…………」
 まさか義務教育まで放棄するとは……
 空の母親も中々にとんでもない。
 「不思議だね。いつもと同じなのに、いつもより美味しい気がした……」
 「…………」
 わ……
 笑った……!?
 空が笑った……!!?
 「…………」
 そこで陸水も思い至る。
 も…もしかして……
 空は冷血なんかじゃなくて、知らないだけなんじゃないか?
 当たり前の日常
 当たり前の感情
 うれしいこと
 たのしいこと
 学校にも行かせてもらえずに、孤独を孤独と知らずに過ごした少女。
 「…………」
 何となく……
 空の頭を撫でてみた。
 本当に、ただの気まぐれだった。
 「陸水?」
 いきなり何をするのか、と空が不思議そうな顔で見上げるが、
 「空、質問。今どんな気分だ?」
 「どんな気分って……」
 知らなかった感覚を手探りで考え込む。
 そしたら……
 「悪く……ないかな……」
 また笑った。
 「…………」
 やっぱり。
 空は知らないだけ。
 これから色々なことを教えていけばもしかしたら……


 「じゃあ俺仕事行ってくるから。留守番よろしく。外に出たかったらこれを使え」
 予備の合い鍵を空に渡した。
 「…………」
 「じゃあな」
 「…………」
 陸水はアパートに空を残して職場へと急いだ。


 「陸水」
 ばこーんと、居眠りしていたところを思いっきり叩かれた。
 「ボス……いきなり何するんですか……」
 丸めた雑誌を片手にふんぞり返っているのは相馬一也(そうまかずや)。
 この派出所のボスだった。
 通称ボス。
 「有給取った次の日に堂々と居眠りか。いくら暇な部署とはいえ起きて本読むぐらいのことは出来んのか?」
 「はぁ……」
 どっちにしろあまり大差ないような気がするんだが……
 「すんません。ちょっと寝不足でして……」
 あくびをかみ殺しながら言い訳らしきものをしてみる。
 「なんだ?女か?」
 「いや、女というよりガキですけど……」
 「…………」
 冷や汗混じりに引いていくボス。
 ちょっとまて。
 とんでもない誤解を招いている気がする。
 「ボス?」
 「陸水……まさかそーゆー趣味だったとわ……」
 なんか、酷く哀れみの眼差しで肩を叩いてくる相馬一也。
 「ボス……それすっげー勘違い」
 「なんだ違うのか……」
 「…………」
 なんでそこで残念そうな顔するんだよぅ。
 「成り行きで少し面倒見ているガキがいるだけですよ」
 「ふーん。白い服着た?」
 「え……ええ……」
 「髪は肩までのストレートで、大体中学生ぐらいの?」
 「ボス?」
 なんでそんなに特徴細かいんだ?とボスを見上げると……
 「いや、なんかそれっぽいのが外にいたから」 
 「……は!?」
 慌てて陸水は指さされた先を見る。
 「…………」
 いる。
 白い服着て肩までのストレートの見た目無愛想な中学生ぐらいのガキがこっち見てる!!
 「そ……空ーーー!?」
 慌てて陸水は外に出る。
 「陸水……」
 「何やってんだよ……こんなところで……」
 「何って……」
 「…………」
 「ひやかしに」
 「帰れ」
 ロクでもないお子様である。
 「まあまあ。せっかく来たんだし、茶ぐらい出してやれよ」
 「ボスー……」
 「♪」
 こっちの事情などお構いなしに上がり込む空。
 「お嬢さん。名前は?」
 「橘空」
 「…………」
 ボスは慌てて新聞を広げる。
 「ボス?」
 「……マジかよ。こんなところにいたのか」
 「ボス?って、うわ!もうニュースになってるんですか!?」
 全国の新聞に行方不明になった親子の記事が書かれていた。
 
 『突然の親子失踪。
  ●●県●●市に在住の橘楓さん(三十二歳)とその娘橘空さん(十四歳)が二日前より行方不明』

 などと書かれていた。
 場所も、先日空と行った場所と一致している。
 他にも、最近出入りしていた男のことや、子供を置いて行方不明など好き放題に書かれている。
 「まさかこんなところで本人にお目にかかるとは思わなかった。なんでお前の所に居るんだ?」
 「俺の家の近くで凍死寸前だったんです。さすがに見捨てたら寝覚め悪いですし」
 「はっはっは、お人好し。まさかお前が面倒見てやるつもりか?」
 「まさか。俺が居た施設の先生に頼もうと思ってますけど」
 週末に空を連れて行くつもりだと言うことも説明した。
 「そうかそうか。それで寝不足だったのか」
 「ええ、まあ。昨日も空の家に行ったんですけど蛻の殻でしたよ」
 そして、空のアパートでの出来事を話す。
 だが話す家にボスの顔がだんだんと険しいものとなっていった。
 「ボス?俺何か気に障ること言いました?」
 「……いや。世の中ふざけた親が多すぎると思ってな」
 「ふーん」
 そう言えばボスは二人の娘を持つ父親だ。
 家族は仲良し。
 とてもいいお父さんらしい。
 時々娘さんが弁当もってここにやってくるぐらい。
 「こら!陸水!!」
 「?」
 「お前は腹立たんのか!?」
 「何がですか?」 
 「だから!!子供をないがしろにする親に対して!!空ちゃんが可哀想じゃないか!!」
 真剣に怒っている。
 これはこれで、あったかい人なんだと思う。
 しかし……
 「はあ、すんません。俺そーゆーのよく分からないみたいです」
 「分からないって……」
 「いや、子供をないがしろにする親って普通にごろごろいますし?」
 「ああ……そうか……悪い……」
 そこでボスも思い至った。
 陸水も空に負けず劣らず酷い環境にいたという事を。
 母親に殺された分空よりも状況は酷い。
 「いや、別にボスが謝ることはないと思いますよ。俺から見てもボスはいいお父さんだと思いますし」
 「…………」
 「俺はただ実感が持てないだけですから」
 「よし!陸水!!俺の息子になれ!!」
 陸水の肩を掴んでボスはとんでもない事を言った。
 「え?何?娘さんくれるんですか?」
 「!!」
 確かに、そう聞こえなくもない。
 「……やっぱり、取り消し」
 「ちっ」
 パパはあっさりと前言撤回した。
 きっと娘さんが彼氏を連れてきた日にはすっごい事になるんだろうなぁ、と他人事ながらも興味が湧いた。
 「空……?」
 そのやりとりを不思議そうに眺めていた空。
 「こういうお父さんもいるんだね……」
 「ああ。確かにこういう親バカ丸出しの態度ってちょっと新鮮だよな……」
 「…………」
 二人して親の愛たっぷりなボスを見て頷くと、親バカ当人は二人を一緒に抱きしめた。
 「?」
 「ボス!?いきなり何トチ狂ってんすか!?」
 「いや、お前等ほんっとーに恵まれてないんだなぁー……」
 およよよよ……
 少し涙目になっていた。

 「なぁ、いっそお前が引き取ったらどうだ?」
 ボスがいきなりとんでもないことを言ってきた。
 「はあ!?」
 「いや、お互い情緒を育むいい機会じゃないか。大分若い父親だが」
 「ボスー……俺のせっまいアパートに二人暮らしは無理がありますって……」
 「広いところに引っ越せばいいじゃないか」
 「俺の給料知ってて言ってます?」
 ただでさえ不景気で給料カットが進む中でこれ以上出費が増えたらさすがに困る。
 「無理か?」
 「無理です」
 「…………」
 残念そうにうなだれるボス。
 空は黙ってお茶を飲んでいた。
 
 「空?」
 話題が尽きると空は陸水をじーっと眺めていた。
 「やっぱり……」
 「?」
 「似合わない……」
 「てめぇ……」
 真面目な顔して何を言いやがるかと思ったらこのお子様は……
 「はっはっは!確かに陸水は警官ってガラじゃないよな。不真面目だし!」
 そして大笑いする失礼なオヤジ一名。
 「…………」
 「……あ」
 空、また笑ってる。
 そうか。ここはここであったかい場所なんだと思う。
 空は今、自分が笑っていることにも気がついていないだろう。
 でもそれは、いい変化だと思う。


 「じゃあお先にあがります」
 「おう。また明日な。空ちゃんも元気でな」
 「お邪魔しました」
 結局定時まで空が居座っていたので連れて帰ることになった。
 「空。買い物寄っていくけど先帰ってるか?」
 「行く」
 「何か食いたいものとかあるか?」
 「……っていうかそんなに色々作れるの?」
 「…………」
 うわ……
 今……言葉にすっげートゲがあった。
 俺何か悪いことしましたか?
 「そりゃー……空に比べたら俺の料理はちょっとアレだけど……」
 陸水の料理は決して下手というわけではない。
 普通に作れている。
 ただ美味しいか、と聞かれると微妙である。
 陸水自身細かいことに気が利く方ではないので、味付けとかかなり大雑把なのだ。
 例えばみそ汁の場合。
 味噌の味はするが、風味が足りない。
 ジャガイモはちゃんと入っているが、角を取っていないので煮くずれしている……など。 陸水本人は胃袋に入れば何でもいいのでこだわりなど無いのである。
 「いいよ。泊めて貰ってるし。私が作る」
 「…………」
 それは、助かる。
 すごく、助かる。
 だけど何故だろう……
 軽い敗北感が……

 「うわっ……やっぱり勝てねぇ……」
 敵は恐ろしく強かった。
 今度は中華で攻めてきた。
 麻婆豆腐に海老焼売、トドメにこんがりとニラ饅頭、
 百均によって細かいものをいくつか買っていたのはこーゆー事か。
 現在の家の台所装備では蒸し料理は出来ない。
 朝の家にそれを看破して装備を追加したのか。
 あと俺にはよく分からない調味料も買っていたな。
 豆……なんだっけ?何か、赤いヤツ。
 
 「うまい……悔しいけど……すごくうまい」
 「それはどうも」 
 黙々と食べているがフフンと勝ち誇っているのは見て取れた。


 「おやすみ」
 「……またか」
 結局、また俺と空は二人一緒の布団で眠ることになった。
 危機感というものが無いのかねーこの子わ……
 まあ俺も雑魚寝よりはマシなので文句はないが……

 
 そうして、週末まで慌ただしく過ぎていった。
 成り行きで拾ったが、正直に言えば、少しだけ楽しかった。
 親の情は知らないが、妹がいたらきっとこんな感じかな、なんて思ったりもした。
 だから少しだけ、寂しかった……

 「空、行くぞ」
 「うん」
 そして土曜日。
 空を連れて隣の県の施設まで電車で約二時間。。
 先生には電話で今日訪れることは伝えてある。
 ただ、電話先の先生の声が酷く疲れて聞こえたので空のことは切り出せずにいた。


 『太陽の家』
 ここが陸水が六歳以降世話になった施設であり、第二の実家だった。
 「陸水君……!」
 「お久しぶりです。由佳先生」
 「ええ、お久しぶり。大きくなったわね。三年ぶりぐらいかしら?」
 「それぐらいですね」
 陸水の姿を見つけると、由佳は中に入るように促した。
 空と一緒に中へと入る。

 「あ、りくみにーちゃん!!」
 丁度庭で遊んでいた子供が陸水に駆け寄ってくる。
 「圭吾か。久しぶりだな」
 「うん!りくみにーちゃん今日はどうしたの?」
 「ちょっと用があってな」
 「りくみにーちゃん、俺今度レギュラーでサッカーの試合に出るんだ」
 「おっ、そりゃすげー。よかったじゃねーか」
 圭吾はサッカー少年なのでレギュラー入りはさぞ嬉しかっただろう。
 「うん。だからにーちゃん今度試合見に来てくれよ!」 
 「あー……そりゃちょっと厳しい……」
 「えー!!?」
 あからさまに不満そうな顔をする圭吾。
 しかし……
 「いや、俺いま結構遠くに住んでるしな……」
 「うー……」
 「また今度な」
 悪い、と言って圭吾の頭をくしゃくしゃ撫でる。
 「絶対だぞー!」
 「おう」
 ばたばたと手を振る圭吾。
 うむ。孤児とは思えないぐらい明るい元気なお子様だ。
 どっかの無愛想お嬢さんとは大違いである。
 
 「どうぞ」
 「あ、どうも」
 陸水と空は出されたお茶に手をつける。
 由佳は久しぶりの家族に会えて機嫌がいいらしい。
 「陸水君、今日はどうしたの?みんなの顔を見に来たって訳ではなさそうだけど……」
 「はい。実はお願いしたいことがありまして……」
 陸水も由佳と顔を合わせて話を切り出す。
 由佳は空の方に目をやる。
 「その子の……事……?」
 その声は僅かに震えていた。
 「ええ。ここで引き取ってもらえないかと思いまして」
 「…………」
 由佳は申し訳なさそうに俯く。
 「先生……?」
 「ごめんね。陸水君。悪いけど……」
 「経営……厳しいんですか……?」
 「……ええ。最近、予算が削られてしまって。今はこれで精一杯なの……何とかやっていけているけど、今新しい子を受け入れるのは……無理なの……」
 「…………」
 確かに、ここ数年の不景気は色々なところに影響がいっている。
 市の援助を受けている太陽の家も例外ではない。
 さっき見た圭吾の服も、所々ほつれていた。
 新しい服を買う余裕もないのだろう。
 「ごめんなさい。陸水君。せっかく、頼ってきてくれたのに……」
 「いえ。こちらこそ無理を言って済みません。余計なことかもしれないですけど、俺に出来ることがあったら言って下さい」
 陸水の言葉に、由佳はすまなさそうに首を振る。
 「いいえ。陸水君。あなたにはとても感謝しているわ。予算が削られて、ここ数年あなたの仕送りのお陰で、とても助かっていたから」
 「…………」
 陸水は就職してから、出来る範囲で太陽の家に仕送りをしていた。
 ずっと面倒を見て貰ったお礼もあるし、家族同然とはいえやっぱり他人なので借りは少しずつでも返したかったためである。
 「自分のためにやっていることですから、気にしないで下さい」
 「陸水君……」
 由佳は目に涙を溜めて、陸水に頭を下げた。
 長い間、この家のために力を貸してくれた陸水に対して、何も返せないのが辛かった。
 「えっと、空さんでしたっけ?彼女のことはこれからどうするの?」
 「う……正直ここをアテにしていたのでその先は考えてませんでした……」
 「…………」
 「ご……ごめんなさい……」
 由佳が更に落ち込む。
 「あー、あー、せ、先生は悪くないですから……」
 放っておくとまた自分を責めかねない由佳を必死でなだめる。
 「まあ、成り行きとはいえ拾った以上は引取先が見つかるまできっちり面倒は見るつもりです」
 「陸水君……」
 「忙しいときに無理を言ってすみませんでした。あと、先生もちゃんと休んで下さい。目の下のクマ、せっかくの美人が台無しですよ」
 第二の母に、陸水が笑いかける。
 由佳は一度目を閉じて、
 「ええ、大丈夫よ!私こう見えてもタフなんだから!」
 「それを聞いて安心しました」
 由佳は二十人以上の子供を持つお母さんだ。
 その負担は大きいだろうが、彼女ならうまくやっていくだろう。
 陸水は由佳のことを家族だと思っているが、それと同じぐらい尊敬もしていた。


 陸水と空は太陽の家をあとにする。
 「陸水君。帰り、気をつけてね」
 「はい。先生も体をお大事に」
 「ええ」
 由佳は空と目が合った。
 「何か……?」 
 「空さん」
 「?」
 「ごめんなさいね。あなたを、見捨てるようなことをしてしまって」
 由佳は引き取れなかった子供に対して、深く頭を下げた。
 「気にしないで下さい。その気持ちだけで十分ですから」
 「…………」
 年に似合わない、大人びた言い方をしていた。
 空がこんな態度がとれることも意外だった。
 なんというか、俺の前とは大違いというか……いつものふてぶてしさがなりを潜めている。
 「空さん。陸水君は……分かりづらいけど、とても優しいいい子なの」
 「先生……分かりづらいって……」
 いい子だと言ってもらえるのは嬉しいが、分かりづらいは少し傷ついた。
 「だから、きっと空さんにとって一番言い選択をしてくれるわ。信じてあげてね」
 「…………」
 勿論、いい加減な選択はするつもりはないが、そこまで信頼されると照れくさくもあった。
 大体空がそんなこと気にするわけ……
 「知っています」
 「!?」
 そこには、当然のように由佳に笑いかける空が居た。
 柔らかく笑う空。
 陸水の知らない笑顔だった。
 「雑多な人となりで分かりづらいのは否めませんが、その奥にあるのは信頼できるものだと、ここ数日で感じ取れましたから」
 「空さん……」
 「…………」
 思わず、空から目を逸らした。
 照れくさいのもあった。
 でもまさか、空が俺に対してあんな顔であんな事を言うとは思わなかったのだ。
 「失礼します」
 ぺこりと頭を下げて空は太陽の家をあとにした。
 「そ…空……!」
 固まっていた陸水が慌てて空を追いかける。
 そんな二人を、由佳が穏やかな眼差しで見守る。
 「陸水君、気づいてる?あなた昔は、あんな顔で笑わなかったわ」
 由佳の言葉は聞こえない。
 しかし、空という少女の存在が、陸水にとっていい変化をもたらしているのは確かだった。
 

 「空……お前な、あんまりびっくりさせんなよ」
 「ん?」
 帰りの電車の中、ぐったりとなりながら陸水が抗議した。
 「何が?」
 「何がって、先生に最後に言った言葉」
 「あー……」
 「あー……って……」
 「割と本気だけど?」
 「…………」
 普段かわいげがないくせに不意打ちで素直になると攻撃力が何倍にもなるって、本当だったんだな……
 「それにしても、手詰まりか……」
 「…………」
 正直、太陽の家がアテに出来なくなったのは参った。
 他の施設なんて心当たりないし、どうしていいか分からなくなったのが現状だ。
 「陸水、そのことなんだけど……」
 「ああ、心配しなくても途中で放り出したりはしねーよ」
 「そうじゃなくて……」
 「ん?」
 「あと二ヶ月、三月末まで陸水の家に置いて欲しい」
 「?」
 空が、真面目な顔で陸水に切り出す。
 「空……?」
 いやまあ、長期戦になればそれぐらいは覚悟してるけど、なんで三月までなんだ?
 「四月からは就職先を探してみる。寮付きの所を見つければ住むところも確保できし」
 「はあ!?」
 このお嬢ちゃん……いま、働くといいましたか?
 十四で!?
 「いや、普通に無理だろ!!どこの会社が十四のガキを雇うんだよ!?」
 「陸水。私は来月で十五になるんだけど」
 「…………」
 来月……十五……?
 つまり、普通に中学卒業できるお歳ですか?
 それは……初耳……
 「だから四月からは社会人として働くことも出来る。工場関係の派遣会社なら寮付きの所はいくらでもあるだろうし」
 「え……ええ!?」
 いきなりすぎて頭がこんがらがる。
 いや、空を拾ったときから色々いきなりの連続だが、これは今までで最大だと思う。
 うん。
 「待て待て待て。確かにそれなら働けるが未成年が一人暮らしをするには保護者の確認が要るんだぞ?空の母さん行方不明だろ!?どうすんだよ!?」
 自らの経験を元に問題点を指摘する。
 ちなみに陸水の身元保証人は由佳である。
 「よっぽどちゃんとした所じゃない限りそこまで細かく調べないでしょ?誤魔化す方法ぐらいいくらでもあるよ」
 「……聞きたくないが……例えば?」
 「まず保護者のサインは橘楓の名前を筆跡を変えて使う。自分の携帯と、もう一つプリペイド携帯でも買って、プリペイドの方を橘楓として使う。そっちの電話に確認の連絡が入ってきたら声を変えて橘楓のふりをする。初期の誤魔化しはこんなもんで十分なんじゃないかな」
 「お前……詐欺師の才能あるんじゃねーか……?」
 綿密かつ悪知恵全開の計画に陸水がいささか呆れる。
 ロクに学校も行ってないくせに無駄に賢いというか……
 「確かに……製造関係の派遣会社はその辺ぞんざいだから十分通じると思うけど……」
 「だから三月末までは陸水の所に置いて欲しい」
 「…………」
 ここで俺が嫌だと言ったら(言わないけど)間違いなく空はホームレスでもするつもりだろう。
 こいつなんだかんだ言ってホームレスでも四月まで乗り切りそうな気がするし。
 違う……
 俺が嫌なのはそんな事じゃなくて……
 「ちょっと待て。今考える……いや、家に居るのはいいけど……」
 うーんうーん……と額に指を当てて考え込む陸水。
 このまま他の施設を探しても、空はすぐに出て行くような気がする。
 なんか働く気満々っぽいし。
 他人に頼るぐらいなら一人で生きていくって考えてるヤツの典型だな……
 親に恵まれえない分考え方が随分と捻くれてるし……
 うわ……なんかあんまり他人事じゃねーなぁ……
 昔の自分を思い出してちょっと自己嫌悪。
 中学卒業してすぐに働こうとした俺を先生が必死で止めたっけ。
 お願いだから高校ぐらい卒業してちょうだい!!なんて怒鳴ってきたっけ……
 今になって思うと、高校生活は義務教育じゃなかったけど、無駄なことはなかったと思う。
 それなりにバカやったし、楽しかった思い出もある。
 そう言う思い返してバカやったなーって感じるような思い出が、学生生活にとって大事なことだと思う。
 でも、じゃあ空は……?
 今まで学校にも行ったことがなくて、俺ぐらいの歳になったとき、振り返るべきバカな思い出もない。
 「それは……ひどく……」
 寂しいことなんじゃないだろうか……
 俺もロクに学校には行ってなかったけど……
 でもやっぱり、そういう事も含めて楽しかった。
 空は、そんなことも、知らないまま……
 それは駄目だ。
 とにかく駄目だ。
 「空」
 「陸水?」
 「空は、学校に行きたいって思ったことはないのか?」
 「ないよ」
 「…………」
 なんでそこで即答するんだよぅ!
 「い……一度くらいは?」
 「だからないって」
 「…………」
 あっさり玉砕。
 「初めから行かせてもらえなかったし、無い物ねだりが出来るほどあの人と会話があったわけでもないし」
 「…………」
 既に橘楓は空にとって母ではなく『あの人』になっていた。
 仕方のないことだけど、その事実が哀しいことに思えた。
 「今更だけど、とんでもねーな。空の母親って」
 「そうでもないよ」
 「は?」
 しかし空は母親に対してそこまで腹は立てていないらしい。
 「十四年間ロクに関わってこなかったけど、その上で私を飢え死にさせなかったのは上出来だと思うけど」
 「……いや……それは」
 考え方の違いってのは恐ろしい。
 空の中ではどのあたりが普通の母親としての基準なのだろう。
 「それに……」
 「それに?」
 「六歳の息子刺す母親よりはマシだと思う」
 「うわっ、今さらっとすごいこと言ったな……」
 「うん。陸水に比べたらまだ私はマシな方だと思うよ」
 「…………」
 ネガティブなのかポジティブなのか判断に迷う発言である。
 こう、もう少し身近な所に真っ当な母親像というのがあればいいのだが……
 由佳先生は……ちょっと違う。
 よくできた人だがあの人はみんなの母親だ。
 敢えて表現するならマリア様。
 個人の母親像とは微妙にかけ離れている。
 「とにかく、今更学校に行きたいなんて思ってないし、誰かに迷惑かけるぐらいなら稼いだ方が自分のためにもなるし」
 「う……あ……」
 返答に困る。
 空は学校に未練も羨望もない。
 そもそも知らないものに憧れたりは出来ないのだ。
 「陸水……?」
 「うー……」
 なんか嫌だ。
 なんで嫌なのかは分からないがとにかく嫌だ。
 空を学校に行かせたい。
 勉強をさせたい訳じゃない。
 どこぞの教育指導員みたいに学校のすばらしさ(らしきもの)について語る気もない。
 ただ……
 「…………」
 この、ただ生きてきただけの少女に楽しいと思えることを一つぐらいは見つけて欲しい。
 そう、思っただけ。
 それが学校の中にあるかどうかは分からない。
 でも、俺が振り返れば楽しかったと思えるように、空にとっても何かが変わるかもしれない。
 このまま、無理矢理社会人になって、ただ生きていくだけの日常を過ごさせるのは嫌だ。
 「断る!!」
 「…………」
 「…………」
 空は一瞬眼を見開いたあと、数秒俯いて考え込む。
 「うん。分かった。じゃあホームレスで何とか生き延びてみる」
 「待て待て待て待て!!」
 なんでそこで百パーセント予想通りの答えを返してくれるのかこいつはー!!
 「?だって陸水は私をおいておくのが嫌なんでしょ?」
 「いや、そうじゃなくて、人の話は最後まで聞け?」
 がっくりとうなだれながら空の肩を掴む。
 「家にいるのはいい。拾った以上可能性の一つとして考えていたことだから。俺が言いたいのはそう言う事じゃなくてだな……」
 「?」
 「家で暮らしてもいい。ただし、学校には行け」
 「……は?」
 「その歳で無理に働かなくてもいいだろ。一度ぐらいは学生生活もいいもんだぞ」
 「…………」
 空が、かなり嫌そうな顔をして黙り込む。
 「陸水……」
 「なんだ?」
 「私を学校に行かせたいというのはとりあえず分かった」
 「そうか」
 「しかしそれには問題が二つほど」
 「お…おう。言ってみろ……」
 どーんと来い!とまではさすがに言えなかった。
 我ながら情けない……
 「陸水は安月給の国家公務員だよね?」
 「……だからお前はなんでそう言う人の心を抉るようなことを」
 しまいにゃ泣くぞぅ?
 「自分の生活とは別に私を学校に行かせる経済的余裕なんてあるの?」
 「……それは……頑張る。空を学校に行かせたいのは俺の我が儘みたいなもんだからな……」
 「ふーん……」
 「あー……でも出来れば奨学金制度などを活用してくれるとすごく助かる……かな……」
 「甲斐性無し……」
 「ぐはっ!!」
 言った!
 言いやがった!!
 甲斐性無しって言った!!
 畜生!!
 どーせどーせ!!
 「もう一つ」
 「ど……どうぞ……」
 ごくり……
 「学校に行ったことがない私にいきなり高校に入れるだけの学力があると思ってる?」
 「…………」
 あう……
 後頭部をがつーんと叩かれたような衝撃。
 それはなんというか……根本的というか……深刻な問題です……ねー……
 「い…いや……ほら……空ってなんかずる賢いし、何とかなるんじゃねー?……とか」
 「へえー、私ってそんなにずる賢そう?」
 ぴきっ……
 なんか今、聞いてはいけない擬音がしたような……
 「いや……まて……うん。訂正する。賢い、普通に賢い。だから青筋たてながら笑顔で拳を震わせるのはやめてくれ……」
 なんっつーか……怖い……
 「ふん」
 空は怒ったままそっぽ向く。  
「でも学校行ってなかったわりには頭悪そうに見えないというか、むしろ色々知っていそうな感じなんだが」
 「……学校、行ってなかった分暇だったから。近くの図書館でたくさん本を借りて読んでただけ」
 「あー……なるほど」
 その悪知恵は数多の書物から得たものでしたか……なんて言おうものならさっきの二の舞なので黙っておいた。
 「じゃあ受けるだけ受けてみろよ!受からなかったら無理強いはしない」
 「…………」
 空は黙って陸水を見る。
 「空……?」
 「それは……私の為……?」
 空は、陸水の真意を知ろうとする。
 同情か、憐憫か。
 そんな、他人を見下した感情で動いているのかどうかを。
 「ちがう。自分の為だ」
 見くびらないで貰いたい。
 俺はそんな不出来な感情で動くほど善人ではない。
 「同情や憐憫じゃない。怒りと興味からだよ」
 「どういう事?」
 「今の空は……あまり言いたくないんだが、昔の俺にそっくりなんだよ。だからバカだった頃の自分を思い出してムカツク」
 「…………」
 あ、怒ってる怒ってる。
 まあ怒るだろうとは思ったけど。
 「んで、同じだからこそ興味がある。これまでと違う世界を知ったとき、空がこれからどう変わっていくのかが……」
 それを知ることが、俺にとっても一つの答えを得ることになるだろう。
 「…………」
 空はしばらく考え込んだあと、
 「いいよ……受けるだけは受けてあげる」
 「ホントか!?」
 陸水の顔が一瞬で晴れやかなものになる。
 「ただし、落ちても文句は聞かないからね!」
 「お……おう!そん時は、仕方ないよな……うん」
 「でも……」
 「空……?」
 「努力は……する……」
 目を逸らしながら、顔を赤くしながら、口を尖らせながらそんなことを言う空が、とんでもなく可愛く見えた。
 

 それから、本格的に陸水と空の共同生活が始まった。
 まずはその準備だが……
 「…………」
 さすがに本格的となると一組の布団に毎日二人で寝るのは精神衛生上よろしくない。
 よろしくないので布団をもう一組買おうとしているのだが……
 「…………」
 空はあからさまに不満そうだった。
 「空ー?何か言いたいことでもあるのかー?」
 予想は出来ているが一応問いかける。
 「別に……」
 「…………」
 嘘つけ……
 だったらそのいかにも不満ですって顔はなんなんだよ?
 そりゃー……年頃の女の子の寝具だし、ちょっとはこう、女の子らしい可愛いのとか、選んでやりたいけど……
 俺にもお財布事情というものがあるのだ。
 近くのホームセンターでの特売品。
 敷き布団、掛け布団、枕、シーツのセットで四九八〇円は、まあ、色々不満はあるかもしんない。
 見た目結構しょぼいし。
 金がないんだよ!金が……!!
 

 そして今度は食器類。
 陸水は最低限の食器しか置いていない。
 なので空専用のコップとか、茶碗とか、お箸とか、そういう小物が必要になってくる。
 んで、そういう小物を最も手軽に揃えやすいところは……
 
 ザ・百円ショップ!
 略して百均!!
 
 「…………」
 「…………」
 空はますます不機嫌な顔になる。
 「本当、何かいいたそうだな……」
 「じゃあ一つだけ」
 「どうぞ」
 「甲斐性無し……」
 「うぅ……」
 っていうか仕方ないだろー!!
 俺は高給取りじゃねーし!!
 ここ数日で諭吉が何人消えたと思っている!?
 これ以上余計な出費がかさめば間違いなく一ヶ月カップラーメン生活通り越して袋ラーメン生活確定だぞ!!
 それは俺も嫌だし、空だって嫌に決まってる!!
 だから今日の所は我慢して貰うしかないのだ!!
 

 「空、重くないか?」
 「平気」
 陶器が沢山入っている袋を持っている空が心配になって聞いてみたが、意外と力持ちさんのようだ。
 ちなみに陸水は空の布団一式を抱えて歩いている。
 傍目から見るとすごく恥ずかしい光景だが車がないので仕方がない。
 通勤に必要がないので初めから買わなかったのだ。
 大して乗りもしないのに維持費だけがバカみたいにかかるなんて無駄もいいところだ。
 「…………」
 そして、空の機嫌もまだ直っていなかった。
 「空ー、いい加減機嫌直せって」
 「怒ってないよ」
 「…………」
 青筋たてながら笑顔で言われても説得力無い……
 女の子には女の子なりのこだわりがあるようだ。
 

 一度家に荷物を置いて、今度は食料品の買い出しに行った。
 「空、料理どれぐらい出来るんだ?いや、ここ数日で結構色々出来るっていうのは何となく分かったけど……」
 「和洋中は一通り」
 「おお!!」
 これには陸水も感心した。
 図書館であさった本の中には料理の本も何割かあったに違いない。
 「イタリアンはパスタぐらいなら。細かいのは無理、っていうか好みじゃないから作る気もなかったし」
 「上出来上出来」
 「少なくとも陸水よりは出来るはず」
 「…………」
 人が素直に感心しているところにどうしてこいつは余計な一言で台無しにしてくれるのだろう……
 
 「陸水」
 「なんでしょうか……」
 ダメージ三百ポイント状態の陸水はジト目で空へと振り返る。
 「これから家事全般は私がやるから」
 「は?」
 「置いて貰うんだからそれぐらいは当然でしょ?」
 「い…いや……それは助かるけど……任せっきりってのは気が引ける。料理は空がやった方がクオリティーが上がるのは認める。でも洗濯とか掃除とかは別に分担でもいいんじゃないか?」
 「…………」
 何故そこで俺を睨む!?
 「洗濯は駄目!」
 「へ?あ……ああ……!そうだな!うん、それは俺が悪かった……」
 ガキとはいえ女の子の洗濯物を毎日男が扱うのは嫌に決まってる。
 うう……気が利かないなぁ俺……
 「家賃代わりなんだからそれぐらいやらないと割に合わない」
 「いや……その……」
 空を引き取るって決めたのは俺だし。
 働くつもりだった空を俺の都合で学校に行かせようとしてるんだし……
 正直そこまで気を遣ってもらう必要はないんだが……
 「そうじゃなければ私が納得できない」
 「……分かった。好きにしろ」
 全く、律儀なんだか扱いづらいんだか……
 正直家事をしてもらえるのは助かるし、ここは空の好きにさせておこう。


 「さ……さすがに……せまいな……」
 「そうだね……」
 一Kのアパート。
 六畳の部屋に二人分の布団を敷くとかなり狭くなる。
 テーブルは勿論台所に移動した。
 「まあ、昨日までよりはマシか……」
 昨日に比べたら一人で布団を占領できるのは十分に有り難い。
 陸水は灯りを消して布団に潜り込む。

 「陸水……まだ、起きてる……?」
 「ああ」
 暗がりの中、空の声が部屋の中に響く。
 「その……ありがとう……」
 「空……?」
 「…………」
 それっきり、空は眠ってしまった。
 「やれやれ……」
 不器用なんだか素直じゃないんだか……
 この先の苦労も今は考えず、ただ眠りにつこう……


 「で……」
 まずはどこの学校を受けるか、ということになった。
 一通り学校のパンフレットを持って帰ってきたが、空はあっさりと決めてしまった。
 
 『私立 盟青学園』
 何故ここを選んだのかと聞いてみれば、

 「近いから」
 なのだそうだ。
 「…………」
 確かに近い。
 盟青は俺のアパートから三十分ほどで辿り着く。
 自転車なら早くて十分。
 この地域の高校の中ではダントツで近い。
 近い……のだが……
 実はレベルも高い。
 「ここの特別進学コースっていうの受けてみようと思うんだけど」
 「はあ!?」
 さすがに一瞬我が耳を疑った。
 だて、ただでさえレベルが高い学校だというのに特進って……
 まともに学校に行ってないくせにどうしてそんな博打を打ちがたるんだ?
 もしかして大学行きたいのか!?
 「特別進学コース、待遇、授業料制服、入学料無料……」
 「…………」
 そうですか。
 別に進学希望というわけではなくもっと現実的な理由からでしたか……
 「空……普通科はどうだ?別に大学行くって訳じゃないんだから……それに特進って結構ハードル高いぞ?」
 「たってタダ……」
 「まず金の問題から離れよう!世の中には奨学金制度という便利なものがあるんだ!」
 「…………」
 「っていうか俺は学校生活を楽しんで貰いたいんだよ!特進なんかに行ったら部活は禁止だし、勉強以外何もするなって環境だし、楽しくなんか無いと思うぞ!!」
 「それ……結構偏見入ってない?」
 「……微妙に偏見入ってるのは認めるがあながち嘘でもない」
 なぜならこの俺が盟青出身だからだ。
 もちろん施設からは遠いので寮に入ってたけど。
 子供心に一人暮らしっぽいものがしてみたかったのだ。
 
 なので盟青の実態は少し詳しい。
 はっきり言って特進の空気は別物だった。
 クラスメイトは既にライバル。
 むしろ試験結果のランキングで友情が成り立っているという恐ろしい魔窟。
 部活もバイトも勿論禁止。
 授業は割と洗脳に近かったのではないだろうか。
 
 「と言うわけで、受けるなら普通科にしてくれ。頼むから……」
 あんなギラギラした環境に空を放り込むような真似はしたくない。
 「……分かった。別に大学に行きたい訳じゃないし、陸水がそういうならそうする」
 「ほっ……」
 助かった……


 それからが微妙に苦労の連続だった。
 まずは学校に在籍していなかった空の事情を何とか伝えて受験手続きを済ませる。
 そしていくら何でも私服で試験を受けに来るのは目立つので狩りの制服が必要になった。
 なったのだが……
 受験の為に制服を買うのは出費として無駄が多すぎる。
 だからといって制服の貸衣装なんてあるわけがない。
 コスプレ用の制服など論外である。
 結局……

 「ありがとうございます!!クリーニングして返しますから!!」
 ボスに頭を下げた。
 ボスの娘さんの中学時代の制服がまだあったので借りることにしたのだ。
 ボスは事情を話すと条件付きで快く制服を貸してくれた。

 「…………」
 ちなみにその条件とわ……
 『空ちゃんの制服姿を写真に収めてくること!』
 だそうだ。
 随分と空のことを気に入ったらしい。
 どっちかというと孫の晴れ姿を見たがるおじいちゃん……に見えたような気がしないでもない。

 あとは空の頭脳次第なのだが、実はそう悲観したものでもないらしい。
 図書館のおじさんは空の事情を知っていたらしく、空よりも三つ年上の息子の使い古しの教科書を空に譲ってくれていたらしいのだ。
 だから中学三年生までの教育内容はそこそこ頭に入っているらしい。
 なのであとは出題傾向さえ分かれば割といい線までいけるのではないだろうか……というのが陸水の個人的見解なのだが。
 「いらない」
 「…………」
 出題傾向と対策に過去問とか予想問題集とかを買ってやろうとしたのだが、あっさりと一刀両断されてしまった。
 しかもそのあとに出てきた言葉ときたら……
 「そんな物を買う余裕があるのなら百均以外の生活雑貨を揃えてよ」
 ……だそうだ。
 畜生……
 悪かったな百均で!俺だって百均だぞ!!
 最近の百均はなかなかいいものあるんだぞぅ!
 
 しかし……
 「…………」
 空は過去問を手にとってぱらぱらと一ページずつゆっくりと立ち読みしている。
 「…………」
 本気であんな方法で頭に入っているのだとしたら恐ろしい記憶力の持ち主である。
 「陸水」
 「ん?」
 過去問を手にとって空が振り返る。
 「しばらく時間潰してていいよ。私もうしばらく立ち読みしてるから」
 「分かった」
 しばらく、という事は本気でこの立ち読みで数冊分の内容を頭にたたき込むつもりらしい。
 恐るべし橘空!
 俺は凡人なので漫画の立ち読みでもしてきます。
 「…………」
 本当に、空なら特進でも受かったかもしれないな……とか思ったりもした。
 
 そうして、時間を潰すこと約一時間。
 参考書コーナーに戻ってくると、空が丁度過去問を閉じて本棚に戻していた。
 「空、何冊目?」
 あまり聞きたくないことを聞いてみる。
 「ん、三冊目。大体分かった」
 「…………」
 この一時間の間に三冊……
 いや、本気で末恐ろしいお子様だこと。
 まともに学校に行っていたら今頃は天才児、なーんて呼ばれていたのではなかろーか。
 ザ・ミス・パーフェクト!みたいな感じで……
 「うわ、本当にあり得そうな気がしてきた……」
 想像に容易いあたりがまた恐ろしい。
 「陸水?」
 「いや、なんでもない。帰るか?」
 「うん」
 ここにきて落ちる心配は全くなくなった。
 空はきっと、どこを受けても受かるような気がする。
 だから俺の願いはただ一つ。
 今までただ生きてきただけの空が、心から楽しいと思えることが見つけられますように……


 「陸水……」
 空が仏頂面で陸水を睨みつける。
 そして、
 「はい、そのままそのまま」
 空の制服姿をパシャパシャとデジカメに収める俺。
 色んな角度から、空の顔(主に怒った)を撮影する。
 「なんで……私写真撮られてるわけ?」
 「だから、レンタル料」
 そろそろ殴られそうなので理由ぐらいは教えてやることにした。
 「はあ!?」
 容赦なく睨みつけてくる空さん。
 はっきり言って、おっかない。
 「その制服、ボスの娘さんからの借り物だって事は知ってるだろ?で、ボスからの貸与条件は、空の制服姿を写真に収めること!だそうだ」
 「…………」
 今度は苦虫かみつぶしたような顔になった。
 「と、いうわけで諦めろ」
 パシャパシャ……
 「ちっ……」
 パシャパシャ……
 「…………」
 どうでもいいが、年頃の女の子が人前で『ちっ』などとあからさまに言ってはいけない。
 パシャパシャ……
 これは空には内緒だが、プリントアウトするときは俺の分も確保するつもりである。


 そうして、陸水の気が済んだ頃、仏頂面の空が盟青学園へと向かっていった。
 「がんばれよー」
 「…………」
 遠ざかる背中。
 返事は帰ってこない。
 「…………」
 空らしいと言えば、それまでか……
 きっと、あっさり受けるのだろう。
 定員割れの試験に紛れ込んだので結果はその日の内に発表されるらしい。
 勿論陸水は見に行ったりしない。
 帰ったときに自信満々の空を迎えてやるのだ。
 しかし……全てが予想通りに行くほど世の中甘くなかった。
 

 がちゃり。
 アパートのドアが開く。
 「おっかえりー♪」
 そして出迎えたのはノリノリの陸水。
 出迎えられたのはげんなり顔の空。
 「…………」
 「…………」
 おかしい……
 予定では自信満々に受かったに決まってるでしょ!などとふんぞり返る空を迎えるはずだったのだが……
 「うぅ……」
 「そ、空!?どうした!?も、もしかして落ちたとか……?」
 「受かった……」
 「???」
 そりゃー…空なら受かるとは思ってたけど……
 じゃあなんでそんなに落ち込んでるんだ!?
 まさか、今更学校行くのが嫌になったとか……!?
 「油断した……」
 「はい……?」
 油断……?
 一体どうしたのだろう……
 「空……何があった……?」
 「うぅ……」
 がっくりと疲れた顔をして空が語った内容はこうだった。
 
 試験を受けた。
 出てきた問題は予想以上に簡単だったらしく、何も考えずに全問回答したらしい。
 空としてはこれで問題なしに受かるだろうと安心していたのだが……

 そして事実受かった。
 昼に張り出された掲示板にはしっかりと、空の受験番号が表示されていた。
 しかし安心したのも束の間。
 空は帰る直前に試験官に呼び止められた。
 少し話があると言われて仕方なく残ったのだが、その話によると空は五教科満点だったらしい。
 試験時間の半分も消費せずに残った時間居眠りしていた空を覚えていた試験官は、普通科ではなく特進コースへの入学を強く勧めてきた。
 このまま普通科で過ごすのはもったいなさ過ぎるとか、うまくすれば東大だって狙えるとか、とにかくそんな口上を三十分ほど延々と語られたらしい。
 勿論断ったが、それでも試験官はなかなか引き下がらずに、結局逃げるのに一時間ぐらいかかったという。
 そして、今に至る。

 「なんかしつこくって、何回かぶん殴ってやりたくなった……」
 勿論我慢したけど……と付け足す。
 「そ……そうか……それは、災難だったな……」
 そんなことをしたら入学取り消しになっているところだ。
 「あー、疲れた……」
 陸水が居ることも気にせずに空は制服を脱ぎ始める。
 「…………」
 空が気にしない分、陸水が妥協して、台所に移動する。
 せめて二LDKに移りたいなぁ……とか思いながら。
 
 「終わったよ」
 「おう」
 そして、綺麗に折りたたまれた制服と、ジャージ姿の空が居た。
 「…………」
 うむ、さっきの制服姿とはもの凄いギャップだ。
 制服を陸水に渡して、今度は空が台所に入る。
 食事の支度をするらしい。
 その途中、
 「それとも、受けた方がよかったのかな……タダだし……」
 「…………」
 今更になってそんなことを言い出す空に対して、陸水は何も言えなかった。
 「でも何かあの試験官ヤな感じだったし……」
 「ヤな感じ?」
 「うん。何かうまく言えないけど、上から物言ってるというか、自分に従うのが当然だ、みたいな……特進ってあんな教師ばっかりなのかな……」
 「……多分、そんなのばっかりだ」
 思い出した。
 そういえば特進専用の教師はそういう性格の奴らばかりだった。
 ライバルは蹴落とせ、お前等は黙って勉強だけしていればいいんだ!みたいな。
 とにかく偉そうな奴らだったっけ……
 俺が空を特進に行かせたくなかったのはそういう理由だ。
 はっきり言って青春を台無しにされる。
 「じゃあしょうがないか。諦めて明日制服買いに行こう」
 「了解」
 せっかくだから入学祝いも買ってやろう……なんて思ったり……
 何か考え方が本気で父親じみてきたなぁ……
 

 制服のサイズチェックは割と早めに終わり、陸水と空は携帯ショップに来ていた。
 「どの機種がいい?」
 「?」
 「入学祝いに携帯買ってやる。どうせ必要になるだろうしな」
 今時携帯を持っていない学生の方が珍しい。
 この先空に友達が出来たときにも必要になるだろう。
 それに空が携帯を持っていた方が連絡が取りやすい。
 何しろアパートには電話がないのだ。
 携帯を持っていると普通の電話なんて必要ないしな……
 なので空と外で連絡を取るときにはどうしても必要になるのだ。
 「名義は俺になるけどな」
 まじまじとサンプルを眺める空の横で、陸水も新機種コーナーを見ていた。
 「陸水も機種変更するの?」
 「しない。まだ十分使えるしな」
 壊れてもいないのに機種変更するほど裕福ではない。
 「陸水はどの機種使ってる?」
 何の意図か、空は陸水の使っている携帯の機種を聞いてきた。
 「ん、P502」
 一年前に機種変更したのでそんなに古くはない。
 まさか同じ機種にする、とか可愛いことを言ってくるのかと思いきや……
 「じゃあこれにする」
 「…………」
 空が手に取ったのはP504。
 俺の携帯の最新機種だった。
 フフン、と勝ち誇った笑みを浮かべているあたりかなり性格が歪んでいる。

 微かな敗北感に苛まれながら空に携帯をプレゼントする。
 「ありがと。大事に使うね」
 「どういたしまして」
 でもまあ、空の満足そうな顔が見れたから良しとしよう。
 「えーっと、他に必要な物ってあったっけか?」
 「…………」
 制服は頼んだし、携帯も買った。
 体育気や教科書などは学校側が用意するのでこっちで揃える物は一通り全部……
 「かばん……」
 「あ……」
 そうだ。学校に行くなら鞄だよな……
 いかんいかん。
 俺としたことが……

 「すまんな……かいしょーなしで……」 
 携帯に予想以上の出費だったので一番安いリュックを買うことになった。
 「いいよ。使えれば何でも……」
 そして空もこの状況に慣れたらしい……というか既に諦めている様子。


 あと二週間。
 あと二週間で空の学校生活が始まる。
 「げっ!スーツクリーニング出しとかないと……」
 そこで思い出した。
 入学式と言えば保護者も出席しなければならない。
 俺の時も由佳先生が来てくれた。
 「…………」
 そして俺のスーツと聞いて笑いを堪えているお子様にチョップをくらわせながら家路へと急いだ。


 「くっ……くっくっく……」
 涙目になりながら笑いを堪えているのは他でもない橘空。
 盟青学園入学式当日。
 スーツ姿でいつもはぼさぼさの髪をビシッとセットした陸水の前で、空が必死で笑いを堪えていた。
 「この野郎……そこまで笑うか……」 
 「陸水……デジカメ貸して……」
 「断る!」
 写真を見返す度に笑うつもりだこいつわ……
 しかし空の制服もなかなかに似合っていた。
 写真に収めておきたかったがそうなると俺のスーツ姿も撮られることは確実なので行動には移せずにいた。
 
 そうして、二人で盟青学園へと向かう。
 陸水と空、二人して校庭に入ると、やはり周りの視線がちくちくと刺さる。
 「…………」
 「…………」
 当然と言えば当然か。
 俺と空。
 どう見ても親子には見えない。
 兄妹にしても年が離れすぎている。
 どう見ても不自然な組み合わせだった。
 そうして、周囲の視線に耐えながらも会場である体育館へと向かう。
 「千鐘!?」
 「ん?」
 その途中、老年のオッサンに呼び止められた。
 「千鐘陸水だろう!?久しぶりじゃないか。覚えてるか?俺のこと」
 「…………」
 うーん……と記憶を十年ほど遡ってみると確かに一致する顔があった。
 「高音先生……?」
 「おう。忘れてたら小突いているところだ」
 がっはっはっと笑いながら物騒なことを言ってくる高音。
 「ところでめずらしいな。どうしたんだ今日は?」
 「どうしたって、入学式の付き添いですが」
 「は……?」
 高音は一瞬固まったあと、まじまじと空の方を見る。
 「まさか……千鐘の娘さん……とか?」
 「…………」
 とんでもないことを言ってくれるじじいである。
 「そうなると俺が十歳の時の子供と言うことになりますね」
 「やるなぁ……千鐘……」
 マジで感心するご老体。
 「呆けるのはその辺で。事情があって俺が面倒見てる子です。名前は橘空」
 「あー!長門の言ってた満点少女!?」
 「…………」
 満点少女のネーミングがお気に召さなかったらしい空は激しく嫌そうな顔をした。
 長門というのはあの時の試験官のことだろう。
 「長門すごい残念がってたぞ?」
 「はあ……俺は知らないッスけど特進の専任教師ですよね、その口ぶりからすると」
 「ああ。生徒にはあんまり人気無いけどな」
 「でしょうね……」
 長門というのが空の言ったとおりの人間なら好きになるヤツはそうそう居ないだろう。
 「俺は空に学校を楽しんで貰いたかったんで」
 「あー、確かに特進じゃそれは無理だろうな」
 うんうんと納得する高音。
 ちなみにこの先生は俺が居た頃から割と生徒には人気があった。
 「高音先生はまだ普通科ですか?
 「ああ、確か橘も俺のクラスだったな」
 「うわ……すっげー偶然。空のことよろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる陸水。
 「変わったなぁ、千鐘。昔からは想像付かないよ……」
 「いや、さすがにこの歳でアレってわけにも行かないでしょう……」
 昔を思い得出して少し恥ずかしくなった。
 学校サボるわケンカはするわ、由佳先生は呼び出されるわで……我ながらとんでもない問題児だったと思う。
 あの頃色々あって荒れてたしな……
 「いや、成長したなぁホントに……」
 「はは……じゃあ俺はこの辺で……」
 保護者の席は生徒とは別の場所なので早めに空と離れることにした。
 これ以上空と……というかじじいと一緒に居たら何を暴露されるか分かったもんじゃない。
 とっとと逃げるにかぎる。


 「…………」
 「…………」
 うう……思い出すなぁ……
 まさか俺と全く同じ事をやってくれるとわ……
 百パーセント血の繋がりはないはずなのだが……
 「Zzz……」
 こっくりこっくり……
 前の方で居眠りしている女の子は間違いなく空である。
 目立つ……
 目立ちまくりだ……
 周りの目を気にすることなくぐーぴー眠っていらっしゃる。
 「…………」
 あ、じーさん俺を見て苦笑いした。
 だよなー……
 俺も入学式ん時全く同じ事やったもんなぁ……
 まさか空まで同じ事をやらかしてくれるとわ……
 気持ちは分かるけどな。
 話は長いし眠くなるのは当然だ。
 うん。強いて言うなら……
 終わるまでには目を覚まして欲しい……

 空は式が終わるまでには目を覚ましてくれた。
 「…………」
 覚ましてくれたのだが……
 あからさまに伸びをするのはやめて欲しい……
 目立つ。
 すっげー目立つから……
 周り笑ってるヤツ多いなぁ……
 あんなんで本当に友達できるんかいな……
 ぞろぞろとそれぞれの教室へと向かう生徒達。
 その中で歩いている空は、何というか、すごく違和感があった。
 学校が初めてと言うこともあるのだろう。
 馴染んでいない感じだ。
 纏っている空気が他人とは違う。
 だから誰も空に話しかけようとはしない。
 「…………」
 前途多難だった。
 

 生徒達が教室に案内され、保護者は外で終わるまで待つことになっていた。
 帰る人もぽつぽつと出てくる。
 陸水はエントランスの方で煙草を吸って時間を潰していた。
 丁度、斜め前に職員室がある場所だ。
 「はぁ……」
 さて、あとどれぐらいかかるのやら……
 なるべく早く終わって欲しい。
 何しろスーツなんて着慣れていないので来ているだけで疲れるのだ。
 早く家に帰ってラフな格好になりたいというのが正直なところである。
 「お……?」
 職員室から見覚えのある人物が出てきた。
 重そうな箱を抱えてふらふらしている。
 大丈夫かよ……
 「高音先生……腰やっても知りませんよ……」
 仕方なく箱を代わりに抱えてやることにした。
 「千鐘か……いや、助かった。これだけ教室に運び忘れとってな」
 悪い悪いと謝ってくる六十二歳。
 あんまり誠意を感じないが気にしないことにしよう。
 「運ぶのはいいですけど、入り口までですよ。俺が中に入ったらさすがに目立つ」
 「はっはっは。入ってくれてもいいぞ?」
 「冗談」
 身軽になった高音は肩をコキコキしながら陸水の前を歩いていった。
 「はぁ……」
 やれやれ。
 まったくあのじーさんは……
 
 箱を高音に引き渡し、陸水は外へと戻ろうとする。
 「じゃあ俺はこれで」
 「ああ。ありがとうな」
 一ーDの教室を開けて、中に入っていく高音。
 「…………」
 この中に空が居る。
 そう考えるとちょっとだけ気になったが……
 「…………」
 結局そのまま外に出ることにした。


 「Zzz……」
 エントランスの椅子で空を待つうちにすっかり寝入ってしまった。
 「陸水」
 「ん……」
 「陸水!」
 「うう……あと五分……」
 「起きなかったら置いていくから」
 「ーー!!」
 がばっ!
 「空……?」
 「やっと起きた。終わったよ」
 「あ、ああ……そうか……」
 気怠い体を何とか動かして立ち上がる。
 「やっと起きたか。大変だな、橘も」
 「…………」
 後ろで高音が苦笑いをしていた。
 「何で先生がここに?」
 「職員室に戻ろうとしたんだが、あんまりにも豪快な居眠りをしている保護者を見かけてな。つい観察しとった」
 「……悪趣味」
 「まさか二人揃って同じ事をしてくれるとはな。いや、懐かしいなぁ……」
 悪びれもせずに、笑いながら十一年前を思い出しているようだ。
 「大きなお世話です。帰るぞ、空」
 「あ、うん」
 高音に挨拶をして校門へと向かう前に、
 「千鐘、言い忘れてたんだが……」
 「?」
 「スーツ、似合ってないな」
 「ほっとけっつーの!!」
 まったく、久しぶりに来た母校はケチが付きまくりだった。
 「……くっ」 
 そして、横でも笑いを堪えている失礼なお子様が……
 「ったく……俺だって自覚ぐらいはあるさ」
 どーせスーツの似合うようなビシッとしたタイプの人間じゃありませんよ!!
 陸水と空が校門を出ると、見覚えのあるボロイ車が一台止まっていた。
 嫌な予感がしたので蒸しして通り過ぎようとしたのだが……

 プップー!!
 
 「…………」
 そう簡単に逃がしてくれるつもりは無かったようだ。
 「陸水ー!!上司を無視するたぁいい度胸してんなぁーオイ!」
 「ボス……仕事は……?」
 車の中にはボス……もとい相馬一也が乗っていた。
 「今日は店じまい。いーんだよ。どーせ誰も来ないんだし」
 「…………」
 とんでもない警察官である。
 俺は有給取ったけどこの人は一体どうやったのだろう。
 
 「陸水、お前ら写真撮ったか?」
 車の中からボスが問いかけるが……
 「は?」
 「?」
 何のことかさっぱり分からなかった。
 「だーかーらー!写真だよ写真!せっかくの空ちゃんの晴れ姿なんだから写真に収めなくてどーすんだよ!!」
 くどくど文句を言ってくる二児の父。
 「晴れ姿って……成人式じゃあるまいし……」
 「だぁー!!先が思いやられるなぁ!父親失格だ失格!!」
 「…………」
 ボスはかばんの中からデジカメを取り出す。
 「陸水、空ちゃん、ほら!そこ並んで!」
 車から降りたボスがデジカメ片手に二人を並ばせる。
 「…………」
 「…………」
 逆らうと後が怖そうなのでおとなしく従うことにした。
 「ハイ。撮るぞー……チーズ!」
 パシャ……
 なんつー古典的な掛け声……
 「…………」
 「…………」
 液晶ディスプレイに映った二人を見てため息をつくボス。
 その理由は……
 「おまえらさぁー……笑顔は!?えーがーお!!何だよこの仏頂面は!!」
 ぷんすか怒りながら二人に液晶ディスプレイに映った画面を見せる。
 「う……」
 「…………」
 確かに、笑っていない。
 入学式の写真とは程遠い絵だった。
 「もっとさー、めでたいなーとか、うれしーなーとか、顔に出せねーよかよ!?」
 デジカメを受け取りながらぶつぶつと文句を言ってくるボス。
 まあ、気持ちは分からなくも無い。
 「そう言われてもなぁ……元々俺笑うのって慣れてないし……いきなり笑顔って言われても……」
 「だよね……意識的に笑えって言われても難しいな」
 むむむ……
 二人して唸る。
 「……はぁ」
 何の血の繋がりも無いくせにどうして似なくていいところが似ているのだろうこの二人は……
 「ってゆーか空、初っ端から寝るなよ。すっげー目立ってたぞ」
 笑顔にはなれそうにないので代わりに笑い話を思い出してみた。
 「えー、だってアレって催眠効果じゃなかったの?すっごいそんな感じがしたんだけど……」
 「……いや、あながち間違いではないが」
 ものすごい認識力の持ち主である。
 「それに……」
 「それに?」
 「高値先生が教えてくれたよ。陸水だって十一年前まったく同じ事してたって」
 「う……」
 あのじじい……余計なことを……
 「ほら、陸水だって人の事言えないじゃない」
 「う…うるせーよ!俺は自他共に認める問題児だったからいいんだよ!」
 かなり苦しい開き直り方である。
 しかし空も甘くなかった。
 「じゃあ私も問題児になるー」
 「なるな!!じじいに呼び出し喰らっても俺は行かないからな!!」
 怒鳴り返しながらも想像すると笑えてしまった。

 パシャ……

 「ん?」
 「あれ?」
 唐突に聞こえてきたシャッター音。
 完全に不意打ちだった。
 「うん。いい顔じゃないか二人とも」
 不意打ち大成功のボスは上機嫌に液晶ディスプレイを二人に見せる。
 「…………」
 「…………」
 そこには、言い合いながらもしっかりと笑っている二人が映っていた。
 「はは……アホ面……」
 「だね」
 二人で顔をあわせて呆れた。
 父親には程遠いけど、これはこれで悪くない関係だった。
 ここ数ヶ月で、空は些細なことでも笑ってくれるようになったし、変化は確実にいい方向へと進んでいる。
 最初の頃の、ロクに笑顔どころか言葉すら交わさなかった頃に比べたら格段の進歩だと思う。
 ただ……
 素直にものを言うようになった分、元々の性格の歪みっぷりも発揮してくれるので少し困っているが。
 最近人をからかうのが趣味になっていないかこのお子様は……?
 笑ってくれるのは嬉しいが、ニタリ……みたいな邪悪な笑みはあんまり見たくない……かも……
 
 「陸水、空ちゃん。このあと暇だろ?メシ食いに行こう。入学祝いに奢るよ?」 
 ボスは車のドアを開けて二人に乗るように促す。
 「マジで!?やりぃ!俺焼肉食べたい!」
 「アホ!空ちゃんの希望第一に決まってんだろーが!!」
 「ちぇ……」
 後部座席に乗り込みながら舌打ちする。
 「私は、何でもいいけど……」
 陸水の隣に乗り込みながら、空はドアを閉める。
 「遠慮すんなって。なんか食べたいものとかないのか?」
 「何でもいいの?」
 「ああ。空ちゃんの好きなもので行こう」
 どーんと来い!と胸を叩くボス。
 実に頼もしい。
 「じゃあ蟹」
 そして空も遠慮なく食べたいものを口にした。
 「…………」 
 「…………」
 「陸水……」
 「何スか?」
 「空ちゃん、将来絶対大物になれるぞ……」
 「俺もそんな気がしますよ……」
 遠慮しなくて言いといわれたらとことんまで遠慮はしないらしい。
 これなら陸水の焼肉案の方がまだ出費が少なかったかもしれないと思いながらも、男が一度言った言葉を覆すわけにもいかず、ボスは泣く泣く高級蟹専門店へと車を走らせた。
 「楽しみだなぁ空。腹いっぱい食おうな。奢りだし♪」
 「いっぱい食べていいんだ……」
 「…………」
 出来れば少しは遠慮してください……とは言えない自分が悲しかった。
 こうして、ボスの財布を破産させながら、空の学校生活がスタートしたのだった。


 余談だが、言葉の通り一切合切遠慮しなかった空は見事にボスの財布を空にしてくれた。 次の日、ボスの机にいつもあったタバコがしばらく消えて、昼飯はホカ弁の幕の内が定番だったのだがいつの間にかコンビニのおにぎり一個にまでランクダウンしていた。
 「ボス……吸います?」
 さすがに少し責任を感じて、二箱買ってきたタバコのうち一箱をボスに渡す。
 「おう……」
 受け取ったボスは早速タバコを吸い始めた。
 
 ぐぎゅるるるる……
 
「あ、腹の虫」
 しかし、タバコで腹は膨れない。
 おにぎり一個ではとてもじゃないが満腹には程遠かった。
 「……飯のほうが良かったかな」
 微妙な選択である。
 ニコ中にとっては金が無い時はタバコを削るぐらいなら食費を削る、という人間も少なくはない。
 客観的に見ればとんでもなく馬鹿な感じだが、事実そういう輩が存在するのだ。
 ボスはどっちのタイプなんだろう……
 「…………」
 タバコかもしんない……
 腹減りつつもさっきよりは幸せそうだ。
 人間ってつくづく馬鹿だと思う。
 「陸水」
 「何スか?飯は分けられませんよ」
 そして残酷にに切り返す俺。
 「う……それはそれで残念だが、空ちゃんうまくやってるか?」
 「ああ、今のところは問題ないみたいですよ。せいぜい授業中居眠りして教師にハタかれたぐらいで」
 「あっはっはっは!何からしいなぁー!似てるなぁー!!」
 タバコを片手に大笑いするボス。
 むう……
 そんなに似てるかな……
 否定できないけど。
 しかも教卓のまん前の席で堂々と寝ているのだからやっぱり空は大物だ。
 「で?お前は?いいお父さん出来てるか?」 
 「さあ。どうでしょう。自信はないですね」
 空を引き取ると決めた時から、空にとって必要だと思ってもらえる人間になろうと心に決めた。
 実際、そこまで頼れるような存在になれているかどうかは、自分でも分からない。
 それでも、今の俺にとって空がなくてはならない存在になっているように、空にとっての俺もそういう存在になれていたら嬉しい。
 「大丈夫だろ」
 「そうですかね」
 「だってなぁ……」
 ボスは外の方を指差して笑う。
 コンビニの服をを持った空が手を振って近づいてきた。
 「人間、大切でもない相手に対してあんな顔は出来ない」
 「…………」
 「こんにちは、ボス」
 「こんにちは、空ちゃん。今日は何の用事?」
 「はい。ちょっと陸水に頼みたいことがあって」
 ごそごそと袋から紙を取り出す空。
 「頼みたいこと?珍しいな」
 空は一通りのことは何でもこなせるせいで滅多に人に頼ろうとしない。
 その空が俺に頼みたいことって、一体どんなことなんだ?
 「これにサインして欲しいんだけど」
 「…………」
 目の前に出されたのは履歴書。
 現在の学歴以外は全部でたらめだ。
 保護者の欄にサインが欲しいらしい。
 「バイトするのか?」
 「うん。駅前のネットカフェ。面接予約してきたからあとは陸水のサインだけ」
 「…………」
 陸水は保護者欄にサインした後、履歴書を空に返す。
 「バイトはいいけど、何か欲しいものでもあるのか?」
 「欲しいものは特にないけど、しいて言うなら二LDKの部屋に引っ越したい」
 「う……」
 そうだ……
 一Kの部屋は二人で住むには狭すぎる。
 空は女の子だし、四六時中俺と同じ部屋というのもいやだろう。
 「いや……そのうち引っ越そうとは考えているんだが……」
 さすがにこのままというわけにもいかない。
 というのは分かっていたのだが現実問題先立つものがない。
 「だから私もバイトする。自分の部屋の確保のためだから陸水は気にしなくていいよ」
 「……ハイ。甲斐性なしですんません」
 空の収入に頼らなければ引越しも出来ない現状。
 これで父親っぽいなんて胸張れないよなぁ……
 
 「じゃあ行ってくる。バイト始めたらご飯は交代制だから」
 「……へいへい」
 ご飯交代制はいいのだが、また俺の作った飯に色々ケチをつけられるかと思うと今から気が重かった。
 
 「何だ、うまくやってるじゃないか」
 「そー見えますかね……」
 正直、娘にバイトをさせなければ生活が潤わないというのはパパとしてかなり情けない。
 「いいんだよ。陸水のところは特殊なんだから、空ちゃんが自分の意思で力になりたいと思ってくれてるんだから素直に喜んでろよ」
 「はあ……」
 そんなもんかなぁ……
 まあいいけど。
 空楽しそうだし。
 バイトもいい経験になるだろうし。

 こうして、不完全ながらも、でこぼこ親子は日々を生きていく。
 楽しいこと
 嬉しいこと
 消えない傷もあるけれど
 一人じゃなければ、それはいつか強さへと変えることが出来るだろう。