第二章 安らかな終わりの為に

 世の中お金じゃない。
 お金で買えないものは確かにあるし、
 お金なんかよりも大事なものもたくさんある。
 それでも、お金でしか買えないものも確かにあって、
 お金が無い為に失っていくものもたくさんある。
 それが大切なものならなおさら、
 目の前の現実に押し潰される。
 だけどね、アルティオ……
 それでも俺は、
 綺麗事の方を信じていたかったんだよ……



























 「アルティオー。おーきーろー」
 朝食の準備が終わったディートは、朝に弱いアルティオを起こしに来ていた。
 サラサラの黒髪を乱しながら、うーん…と悩ましげな寝姿。
 こんな美しい寝姿を晒されては男といえども悩殺され……
 「るわけねーだろ。おーきーろー!」
 ゆさゆさと寝ぼすけの体を覚醒させようと試みる。
 「うー……」
 ぼー、っとうっすら目を開けはじめる。
 「やっと起きたか?飯だぞ」
 「…………」
 アルティオは半目を開けたまま、しばらくディートを見つめる。
 「おい……まだ寝ぼけて……!!?」
 アルティオはいきなりディートの服をはだけさせて、首筋に口をつける。
 ちゅー、と吸われて……
 「オ…オイ!!?アルティオー!!!??」
 襲われたディートが慌てるが……
 「いいからいいから。俺に任せて?」 
 「〜〜〜!!」
 耳元に甘い声で囁かれ、ディートの無い胸を揉みほぐされる。
 しかも乳●まで甘噛みされて、上半身に舌を這わせられ、鎖骨から腹筋のあたりまで……
 「〜〜〜〜〜〜!!!」
 ディートは全身鳥肌が立った。
 そして、トドメに下半身のズボンに手が伸びたのが限界だった。
 「き……」
 「ん?」
 ズボンの中に手が突っ込まれる直前……
 「気色悪ぃマネすんなぁーー!!この馬鹿ーーー!!!!」
 寝ぼけたままのアルティオに、ディートの容赦の無い蹴りが炸裂する。
 「ーー!!」
 がったーん、とベッドから蹴り落とされたアルティオはここでようやく本当に目が覚める。
 「あ…あれ……」
 自分の状況がよく分からないまま、きょろきょろとするアルティオ。
 「はー……はー……目、覚めたかよ……?」
 上半身裸で涙目のディートはアルティオを睨みつける。
 「んー……?」
 ぽりぽり、と頭を掻くアルティオ。
 「あれ?俺さっきまでムチムチ巨乳のサラちゃんとベッドインしていたはずなんだけど……」
 「…………」
 誰だよサラちゃんって……
 夢の中のベッドイン。
 そして現実で被害を被った少年が約一名。
 「っつーか、何でお前が俺のベッドにいるんだよ?しかも半裸で」
 「お前がいきなり襲いかかったんだろうがぁー!!!」
 「俺が……?」
 アルティオがディートの胸元を見る。
 間違えようの無いキスマーク。
 「…………」
 ものすごくバツの悪そうな顔をするアルティオ。
 珍しく謝ってくるのかと思いきや……
 「うっげー。よりにもよって男抱きかけるなんて最悪!いくら寝ぼけてたとはいえありえねー……!」
 心底嫌そうな顔でおえーっとその場で吐く仕草をした。
 さすがのディートもこれには参った。
 っていうかキレた。
 「てめー!!それはこっちの台詞だー!!ボケー!!」
 怒りここに極まれり、そばにあった枕をアルティオの顔面に力一杯投げつけてやった。
 しかし顔面にヒットする前にアルティオの手によってキャッチされ、投げ返された。
 そして無言で部屋を出ていき……
 「がらがらがらがら〜……ぺっぺっ!!おえぇぇぇ〜……」
 念入りに消毒(!?)していた。
 「…………」
 お前はいいよ。うがいで済むんだから……
 「どうすんだよコレ……」
 ディートは自分の首筋を鏡で眺める。
 そこにはアルティオ作の無惨なキスマークが五個ほど散らばっていた。
 「しばらく消えねーぞこれ……」
 はぁー、ため息と共に泣きたくなった。
 何が悲しゅーて朝っぱらから男に襲われかけて、こんなキスマークまで付けられにゃならんのだ……
 しかも襲った本人がこの態度なのが何よりも納得がいかない。
 どう考えても被害者は俺だろう?
 「あーくそ!朝っぱらから悲惨な目に遭ったぜ……」
 嫌そうにパンをかじりながらぶつくさと文句を垂れるロクデナシ。
 「…………」
 そりゃ俺の台詞だっつーの。
 どーすんだよこのキスマーク……
 しばらく首出して外歩けねーじゃん。
 「…………」
 アルティオが黙り込んだまま更に嫌そうな顔をした。
 「何だよ!まだ根に持ってんのかよ?言っとくけど被害者は俺だぞ!絶対!!」
 「あー……いや、男を襲ったって考えてちょっと嫌な奴思い出しただけ」
 「?」
 「あー、気にすんな。大した事じゃない。俺もあいつの事は極力思い出したくない」
 アルティオは苦々しい顔をしたまま、再びパンをかじる。
 「…………」
 珍しい。
 アルティオが他人に対してこんな避け方をするのがすごく珍しい。
 大抵受け付けない奴はうぜぇだのムカツクだの分かり易いのに、あんな苦虫噛み潰したような顔で黙り込むなんて……


 「ディート。この紙に書いてあるものを調達してこい」
 アルティオはメガネを装備した状態で何かの調合をしながらディートに紙を渡す。
 ちなみにアルティオの視力はどこも問題はない。
 それなのにメガネをわざわざ装備している理由は、
 『その方がカッコイイから!』
 だそうだ。
 特に大した意味もない、ロクでもない理由である。
 「いいけど……」
 ディートはアルティオから材料の書かれた紙を受け取る。
 その内容を見ると……
 「ってオイ!これ劇薬ばっかじゃねーか!また物騒なモン造る気じゃねーだろうな!?」
 実験台にされた嫌な思い出が甦ってくる。
 冗談じゃないぞ!
 いくら命の恩人だからってあんな暴挙が許されるものか!
 ディートが警戒心を露わにするが、
 「大丈夫。今回はお前で実験したりしねーよ。実験して眺めたところで何の面白みもない薬だからな」
 「お…おも……」
 ちょっと待て!
 じゃあ何だ!?
 今まで面白がる為に俺で実験してたのか!?
 「いーからいーから。ホレ、とっとと行って来い」
 追い払うように手を振るアルティオ。
 「…………」
 いつもの事ながらこの性格はムカツク。
 「…………」
 で、いつもの事ながらその辺の物をテキトーにアルティオに投げつけて言われた通りに出ていった。

 アルティオに頼まれた材料はどれも魔法具屋で普通に手に入る材料だが、そのどれも、単品で人をしに至らしめるものばかりだ。
 「毒薬づくり……ハマッってんのかなあいつ……」
 危ない奴……とか思いながらも、言う事を聞いてしまう自分はやっぱりどこかでアルティオに逆らえないんだと思う。
 
 案の定……
 商品を会計まで持っていったら店員さんにすっげー不審な顔をされた。
 その気持ちはすっげーよく分かる。
 俺だってそんなものしか買わない客を見たら同じ顔をするだろう。
 でもこれを必要としているのは俺じゃないんだ。
 俺のロクデナシの相方なんだよ。
 そこのところをどうか理解してくれ……るわけないよな……やっぱり。
 実際に購入しているのは俺なんだし。
 ちぇ、そんな役回りだよな。
 アルティオのバカヤロー!
 「…………」
 しかし、律義に買って帰る俺!
 我ながら見上げた忠誠心だと思う。ホントに。
 その帰り道……
 「…………」
 「…………」
 なんだかものすごく沈んだ顔をした青年とすれ違った。
 「あの人……」
 何か、泣く寸前のような……
 診療所から出てきたみたいだけど……
 家族とか入院してるのかな……
 「うーん。考えても仕方ないか。ただの通りすがりだし」
 俺も人様の心配するほど余裕がある訳でもないしな。
 「…………」
 ただ、あの誰かに助けを求めているような瞳が、昔の自分と重なっただけ。
 やっぱり、誰かの悲しむ顔は見たくない。
 自分が、あの日アルティオに助けられたように、俺も、いつか誰かを助けてあげたい。
 「綺麗事って言うのは分かってるんだけどさ」
 いつかそうなれたらいいなって思うだけ。
 今は…まあ、こんな物騒な使いっ走りだけどさ……
 「…………」
 考えたら悲しくなってきた。
 帰ろっと……


 「ただいま……って何だこの臭い!!」
 ドアを開けた瞬間襲いかかってきた悪臭。
 奥にはメガネとマスク完全装備の元凶が二ヤリと笑っていた……ように見えた。
 「丁度良かった。ハイオル粉出してくれ。使うから」
 こっちの状況もお構いなしに紙袋の中身を催促する鬼一人。
 うう……と鼻を押さえながらハイオル粉を投げ渡す。
 「♪」
 さらさらー……
 楽しそうに調合する錬金術師。
 「♪♪」
 「ーー!!」 
 うっげー!!
 ハイオル粉を加えたらさらに酷い臭いになったぞー!!?
 何なんだ一体!?
 アレか!?
 臭いだけで人を殺せるモノでも造ってんのかぁ!?
 「♪♪まっぜれっばまっぜーるほーどぉ臭っくなるぅー♪これぞこの薬が成功している証なのだぁ♪」
 「…………」 
 こ…この馬鹿!
 何でそんな恐ろしいモン楽しそうに造ってやがる!
 鼻がひん曲がりそうだー!
 アルティオは残りの材料もどっぱどっぱと景気よく調合する。
 「ひー!!」
 そして臭いはさらに酷くなりました。
 ディートは奥の部屋に逃げ込み、アルティオは鼻歌まじりに更に悪臭をまき散らしていた。

 ようやくアルティオが薬を完成させた頃、ディートは全力で部屋の換気に務めていた。
 「な…なんで……」
 何でこいつはこんなとんでもない臭いの中であんなマスク一つで涼しい顔してられるんだよ……
 魔法か!?魔法仕様なのか!?
 アルティオはソファーに座って満足そうに小瓶を眺めている。
 あれが例の悪臭の完成品らしい。
 頼むから開けるなよ……
 せっかく換気したんだから。
 「アルティオ、それ、何の毒薬?」
 聞く前から毒薬限定の質問である。
 「ん?よく分かったな。毒薬だって」
 「そりゃあ、あの材料見ればな……」
 あれで栄養剤なんて出来上がった日にはしばらくショックで立ち直れん。
 「これはな、名付けて『三途の川へいらっしゃ〜い♪』だ」
 「わけわかんねー!!」
 とりあえず至死毒だということは分かったが……
 あとそのネーミングセンスは何とかしろ!
 「えー?良い名前じゃんかぁ!」
 「どこが……」
 「ふん。凡人にはこの卓越したセンスが分からないんだよ」
 「…………」
 そんなモンが分かるようになるぐらいなら凡人で結構だ。
 「ちなみにどんな逝き方ができるかって言うとな……」
 「そこまできーてねーよ……」
 「いや。これはこれで引き手あまたな妙薬だと俺は思うわけよ」
 「なんでだよ……」
 『三途の川へいらっしゃーい♪』が引き手あまただったら世の中問題ありすぎだろ……
 
 『うぎぇあヴぉぁぁぁぉぉぉおお!』
 
 そんな事を二人で話していると、地の底から這い上がって来るような悲惨なうめき声が聞こえた。
 「あ、客だ」
 「みたいだな」
 ちなみにこの声、信じられないことに『まるち』のれっきとした呼び鈴である。
 店主の性格が窺える。
 「いらっしゃいませー。ようこそ『まるち』へ!」
 ディートがお決まりの営業スマイルで客人を迎えた。
 「……どうも」
 「……あれ?」
 ドアの向こうに立っていたのはディートが先ほどすれ違った青年だった。
 やはり今も沈んだ顔をしている。
 「…………」
 まあ、困ってなければわざわざこんなところまで来ないよね。
 他は……まあ、アルティオ目当ての女の子とかよく来るけど……
 でも久々のまともな客だ!
 笑顔でお迎えしなければ!
 「中へどうぞ」
 ディートは笑顔で青年を迎え入れるが、
 「何だよ男かよー」
 当の主はこんな暴言を吐いていた。
 「アルティオー!お前はそれでも商売人かぁ!!売上になるなら男でも女でも関係ないだろー!!」
 「売上にならなくてもいいから俺は女の客がいい」
 「…………」
 このロクデナシだきゃあ……!!
 「でもせっかく来たんだし?百歩譲って用件くらいは聞いてやるよ。ほら、とっとと座れ」
 「はぁ……ありがとうございます……」
 青年は言われた通りに座った。
 「…………」
 アルティオ……
 客に対して態度でかい……
 っつーか男相手だとどーしてそんなに態度が違うんだよ!?
 これが女の子だったら甘い囁きと共にソファーに押し倒しているくせに……
 「で?あんたの用件は?」
 アルティオがふんぞり返ったまま青年に尋ねる。
 「あの……」
 青年は口を開きにくそうにしていたが、意を決したように頭を上げてアルティオを見た。
 「妹を!妹を助けてもらいたいんです!」
 「妹?」
 「はい。俺の妹は去年からずっと入院しています」
 「妹さん……?」
 そうか。あの診療所には妹さんが入院しているのか……
 でも、助けてほしいって……
 そんなに悪いのかな……
 「妹は、カナイはロキシク病なんです」
 「…………」
 ロキシク病。
 十代の子供がよくかかると言われている若年性の病。
 原因不明の身体機能の低下。
 血を吐いて病院にかかる頃にはすでに手遅れだと言われている。
 「今のところ、治療法は確立されていません。でも……ここならば、何か助ける手立てがあるかもと聞きました。ここには変わった薬がたくさんあるとも。カナイの、ロキシク病を治せそうな薬はありませんか!?」
 「…………」
 アルティオは黙っていた。
 青年は必死なのだろう。
 どうでもよさそうに聞いているアルティオの顔をじっと見据えていた。
 「アルティオ……」
 どうなんだろう……
 この人は、妹さんを助けてあげたい、医者も見捨てた病気を治してあげたくて、ここまで来たんだ。
 「……助ける手段がないわけじゃない」
 アルティオは希望の言葉を口にする。
 「……本当ですか!?」
 諦めかけていた青年の目に希望の光が宿る。
 しかし、アルティオは難しい顔をして青年を見る。
 「でも、お前には助けられない」
 「え?」
 「アルティオ?」
 アルティオは希望を告げたその口で、同じ大きさの絶望を告げる。
 「本来助からない命を助ける為には、何が必要だと思う?」
 「…………」
 助からない命を助ける為に、必要なもの?
 「えっと……奇跡……ですか?」
 「……ふん」
 アルティオは青年を馬鹿にしたように笑った。
 見下している、とも言える目で、
 「おめでたい奴だな。そんな都合のいいもの、本気で信じてるのか?」
 「アルティオ!!」
 あんまりな言い草にディートが怒鳴るが、アルティオはお構いなしに続けた。
 「奇跡は何も救わない。『神様』って呼ばれる存在が何もしてくれないようにな。目の前にあるのは逃げられない結果だけだ」
 アルティオは冷たく言い放つ。
 しかし青年は、
 「助ける方法、知ってるんですよね!?俺にできることなら何でもします!お願いです!教えてください!」
 青年は土下座して頼み込む。
 「やめろよ。土下座なんてされたところで一ナムスにもならない。見苦しいだけだ」
 そしてアルティオも一切の容赦はなかった。
 「…………」
 アルティオはソファーから立って、薬棚から一つの小瓶を持ってきた。
 テーブルの上に置かれた小瓶。
 「これが、あんたの妹を助ける方法。ロキシクってのは細胞の壊死だからな。再生させてやれば回復は出来る」
 「じゃあ、これがあれば……」
 青年が小瓶に手を伸ばそうとするが、
 「二億ナムス」
 「え……?」
 「その薬は二億ナムスでしか売れないと言ったんだ」
 「二億……」
 青年の手が引っ込む。
 「奇跡は起こらない。人為的に奇跡を起こしたければまずはそれに見合う対価、つまり金が必要なんだよ」
 「…………」
 これが、現実。
 奇跡に見合う対価。
 二億ナムス……
 とてもじゃないけど、一般人が一生働いたところで稼げる金じゃない。
 「と、いうわけだ。あんたには無理って言った理由、分かったか?」
 アルティオは慰める訳でもなく、ただ事実だけを告げる。
 そして青年は再び土下座した。
 「お金なら、お金なら何年かかっても必ず払います!だからその薬を俺に売ってもらえませんか!?」
 「あー、無理」
 即答だった。
 そこでディートに胸倉を掴まれる。
 「アルティオー!!」
 がくがくと体ごとゆさぶられる。
 「な…何だよディート……苦しいぞ?」
 「払うって言ってんだから売ってやれよー!二億ナムスなんて現金一括払い出来るわけねーじゃん!!」
 「……払えるなら売ってもいい。でも冷静に考えてみろ」
 「こんな状態で冷静になんかなれるかぁ!!」
 「あー、分かった分かった。落ち着け。順を追って説明してやるから」
 つんざく声に耳を塞ぎながらアルティオは説明を始めた。
 「いいか?仮にそいつが一生をかけてこの対価を払うとする。こいつが五十年働くとして、せいぜい収入は月に二十万ナムス程度だろう。で、五十年の合計が一億二千万ナムス。これに生活費を差し引いてみろ。せいぜい六千万ナムスがいいところだ。こいつは特別な才能がある訳じゃなさそうだし、普通に考えてこれ以上の金額は望めないだろう?」
 「こ……この……!」
 嫌になるぐらい現実的な事実だけ述べやがって……!
 「と、いうわけでどうやってもこいつからは二億ナムスの金は期待できない。それに利子まで考えるとほら、まだ遠ざかるだろう?」
 ぶちっ……
 何かが切れる音がした。
 「利子まで付けるなぁ!このド悪党!!」
 「いてっ!」
 今度こそディートのパンチがアルティオの後頭部にヒットした。
 「とにかく、今にも先にも対価を期待できない奴には売れない。諦めるんだな」 
 「あ……」
 青年は力無くその場にへたり込んだ。
 「アルティオ!いーじゃんか!譲ってやれよ!」
 ディートがアルティオに訴えるが、アルティオは耳を貸そうとしない。
 「くどい。対価に見合わない事は出来ないんだよ」
 「…………」
 アルティオはその言葉だけで黙らせる。
 「あ…あの……いい…です。無理を言って、すみません……」
 青年は憔悴しきったまま、頭を下げて店を出ていこうとする。
 「あ、まって……!」
 ディートが追いかけようとするが、
 「!」
 アルティオによって止められる。
 「やめておけ。せっかく諦めようとしてるんだ」
 「…………」
 こんなときも、冷静でいられるアルティオが嫌いだった。
 「この……人でなし!!ロクデナシ!!最低ヤロー!!!」
 ディートはアルティオを思いっきり蹴飛ばして、外へと飛び出した。
 「いっててててー……あの、馬鹿……」
 容赦無く蹴飛ばされたアルティオは家具ごと床に倒れた。
 尻持ちついた直後に椅子が頭に直撃したりで悲惨だった。
 「…………」
 一人取り残されたアルティオはため息をつく。
 「願いを叶える為には、それだけの代償がいるんだよ」
 ディートのように、可哀想だから助ける、じゃ駄目なんだ。
 その理由だけで動くには、この技術は大きすぎる。
 あいつは、何も分かってない。
 「馬鹿……のままでいいよ。お前は……」
 ディートが出ていった扉を眺めながら、アルティオは一人呟いた。
 

 一方ディートは……
 「ま……待って!!」
 「…………」
 青年を必死で追いかけていた。
 やっと追いついて、青年の手を掴む。
 「!」
 「はぁ…はぁ…!やっと、追いつけた……」
 ディートが息を切らせながら青年を見上げる。
 「すまない、今は…放っておいてほしいんだ……」
 青年は震えながら、ディートの手を振り払おうとしたが……
 「ごめん!」
 ディートが一言目に発したのは謝罪の言葉だった。
 「どうして、君が謝るの……?」
 「アルティオが、あなたに酷いことを言ったから……」
 「それは……違う。彼は、正しい。奇跡には相応の代償が必要になる。考えてみれば、当たり前のことだった」
 青年はベンチに座る。
 ディートもその横に座った。
 「そんな……お金で命を買うなんて……間違ってる!」
 「…………」
 しかし青年は静かに否定する。
 「いや、奇跡でなくても、全てのものには対価が必要なんだ。服を買うにも、食べ物を得るにも、それに見合ったお金が必要だ。命の対価が二億ナムス。考えようによっては安いよね。つまり、お金さえあれば助かるってことなんだから……」
 「…………」
 「ただ、俺がカナイを助けられないのは、俺の力不足なだけで、君にも、そして彼にも何の責任もない」
 青年はさみしく笑っただけだった。
 諦めはついた、とでも言うように。
 「ディート……」
 「え?」
 「俺の、名前……」
 「ああ。俺は、イノリって言うんだ。ディート君……でいい?」
 「うん……」
 ようやくお互いに名乗り合うことができた。
 「ありがとう。ディート君」
 「え?」
 「心配、してくれたんだよね?俺の事……」
 「あ…うん……でも俺、何の力にもなれなくて……」
 結局、追いかけたところで気の利いた言葉をかけられる訳でもなく、ただこうして隣に座っているだけ。
 「もう、いいんだ。もう、諦めるから……」 
 「そんな……」
 目の前に、すぐそばに助かる方法があるのに、それを手に入れる為の手段が果てしなく遠い。
 「せめて最期まで、カナイの傍に居ようと思う。俺には、それぐらいしか出来ないから……」
 「イノリさん……」
 イノリは震えたまま、こぶしを握りしめる。
 「でも、傍に居るのも結構きついんだ。ロキシク病は、とても痛みを伴う病気だから……」
 日に日に痩せていく体。
 いつも、痛みに苦しんでいる顔。
 叫び声を聞くたびに、やりきれない気持ちになる。
 「せめて、助けられないのなら、これ以上苦しめたくない。医者は、余命一カ月だと言っていたけど、つまり……カナイは後一カ月もあの苦しみを味わい続けるんだ……」
 「…………」
 避けられない終わり。
 止められない苦しみ。
 それを、何もできずに傍で見ているというのは、どんな気分なんだろう……
 「ごめん。俺はもう、カナイのところに戻るよ」
 ディートの肩を叩いて、イノリはその場から立ち去る。
 「…………」
 折れそうな、弱々しい背中だった。
 「イノリさん……」
 ディートは結局、何もできないままだった。
 

 「おい、いつまで怒ってるんだ?」
 「…………」
 晩ご飯を無言でもくもくと食べ続けるディート。アルティオと一切会話をしようとはしなかった。
 時折目が合っても、睨みつけるだけ。
 「今、アルティオとはしゃべりたくない」
 「…………」
 再び無言に戻るディート。
 「俺がイノリとかいう奴の妹を見捨てたのがそんなに腹立たしいか?」
 「!」
 ディートはがたん、とテーブルを叩いて立ち上がる。
 今にもアルティオに掴みかかりそうな顔で、しかしアルティオはそんなディートの視線も顔色一つ変えずに受け流す。
 「図星か?分かり易い奴だな。だが俺の答えは変わらない。イノリが二億ナムス払えない以上、あの秘薬を売ってやる気はない」
 「……そんなに!そんなに金が欲しいかよ!?その気になればいくらでも稼げるくせに!!」
 ディートがアルティオを怒鳴り付ける。
 金なんてどうでもいい、とは言わないけど、でも人の命がかかってるんだ!
 少しくらい大目に見てやろうという気はないのかよ!?
 「あのな、ディート。俺に技術と知識は前文明のものなんだよ」
 「知ってるよ!そんなの!!それが何だよ!!」
 「つまり今在ってはならないものだということだ」
 「何が、言いたいんだよ?」
 アルティオが何を言いたいのかが分からない。
 今ここに存在してはいけないもの?
 でも、現実に存在しているじゃないか!?
 「禁忌には制約がつきまとう」
 「…………」
 「そしてその制約を破れば、待っているのは二度目の破滅だ」
 「…………」
 分からない……
 それと、今のアルティオと何が関係あるんだよ?
 「……頭悪ぃな」
 「何だとー!!」
 アルティオは腕組をしてディートを見据える。
 「つまり、俺の技術は禁忌そのものだっていってるんだよ」
 「…………」
 「俺の技術は、この時代に簡単に存在させてはいけないんだ。可哀想だからって安売りは出来ないんだよ。感情に流されれば、奇跡が事実に成り下がる」
 「分かるよ……アルティオの言ってること。でも……こんなの納得出来ないよ!!」
 あんな泣きそうな顔を見た後で、あんな苦しむ姿を知っているのに、何も出来ないでいるイノリさんの気持ちが……すごく痛いのに……!
 「こんなのって……ないよ……!!」
 だん!!と力一杯テーブルを叩いてディートはうなだれる。
 「まあ、近いうちにまたここに来るだろうさ……」
 「え……?何で?秘薬は手に入らないのに……?」
 「だから、手に入れる為に来るんだろ……」
 「…………」
 アルティオはマイペースにお茶をすすった。


 その頃イノリは……
 「う……あ……苦しい…!痛いよ……お兄ちゃん……!!」
 「カナイ!!」
 病院で、いつものようにもがき苦しむ妹の傍にいた。
 定期的に襲いかかる発作。
 日が経つごとに周期が短くなっている。
 「カナイ……!!」
 イノリはカナイの手を握って願い続ける。
 せめて、せめてこれ以上苦しまないように。
 誰か助けて!誰でもいいから!!
 カナイも、そしてイノリも限界だった。
 体も心も擦り減って、正しい判断なんて出来ない状態だった。
 「お兄……ちゃん……うっ!」
 ごふっと血を吐き出すカナイ。
 いつものようにそれを拭いてやるイノリ。
 涙を流しながら、痛いと訴えてくるカナイを前に、イノリはこんな事ぐらいしか出来なかった。
 そして、次の言葉がイノリの中の何かを壊した。
 「お兄ちゃん……ごめんね……」
 「カナイ……?」
 「カナイ……悪い子なんだ……」
 口元を血で汚しながら、イノリを見つめて、
 「もう、こんなに苦しいなら、辛いなら、死んじゃいたいって、思ってるんだ……」
 「……カナイ」
 死にたい。
 そう訴えかけてくる妹に対して、イノリは何も言えなかった。
 「お父さんと、お母さんに貰った命なのにね……もう、諦めたいんだ……悪い子で、ごめんね……」
 ぽろぽろ泣きながら謝り続けるカナイ。
 辛いことから、苦しいことから逃げたいと思うのは当たり前で、あがいても希望がないと分かっていたら、それは自然と諦めへと繋がる。
 「悪くない。カナイは悪くなんかないよ……!」
 ずっと、苦しみ続けているカナイに対して、それが悪いことなんて言えなかった。
 「お兄ちゃん。私……もう一回だけ、お兄ちゃんとおいかけっこ……したかったな……」
 「カナイ……」
 睡眠薬が効いてきたのか、カナイはそのまま眠りについた。
 「カナイ……」
 イノリはカナイの手を強く握って、泣き続ける。
 もう一度だけおいかけっこがしたい。
 そんな、ささやかな願いさえ、もう叶うことはないのだろう。
 「カナイ……俺、どうすればいい?」
 どうすれば、もう一度カナイの笑顔が見られる?
 もう一度……
 「あの、薬さえあれば……」
 イノリの心の中に黒い感情が芽生える。
 届かないもの。
 目の前の可能性。
 それでも…… 
「俺、カナイを助けたい……」
 涙が止まる頃には、イノリの姿は病室になかった。
 夜の街に、狂気に取りつかれた青年がさまよう。


 「オイオイ……」
 深夜に、アルティオはため息まじりにベッドから起き上がった。
 「せっかちな奴だな……」
 面倒くさそうに頭を掻きながらディートを起こしに行く。
 ベッドの中で熟睡しているディート。
 手っ取り早く起こすか……
 「…………」
 鼻と口を手で塞ぐ。
 むむむむ……
 ディートの顔がだんだん赤くなり……
 「んがぁ!!?」
 窒息死する前に起き上がった。
 「おはよう」
 「おはよう、ぢゃねー!!てめー俺を殺す気かぁ!!?」
 がぁーっとアルティオに掴みかかろうとすると、
 「ハイハイ。文句は後で聞いてやる……かもしれないから今はとりあえず起きろ」
 「……かも?」
 言葉に大分不審なものを感じながらも、何かが起こったことは確かなようなので言われた通りに起きることにする。
 店の方にアルティオが向かっているので先に行って灯りを付けようとしたのだが、
 「つけなくていい」
 「……アルティオ?」
 「ディート、お前外見張ってろ」
 アルティオが珍しく真面目な顔で指示を出す。
 「死なせたくないだろう?あいつのこと」
 「……まさか」
 ディートは一つの可能性に思い当たる。
 「そのまさか。侵入探知に引っ掛かった。いつもなら死んでも傍観するんだがな。お前、あいつ見捨てたら恨むだろう?」
 「……うん」
 ディートは言われた通りに入り口付近で見張ることにする。
 外へ出ていくその前に、一度だけアルティオを振り返った。
 「ありがとう……」
 一言だけ、照れくさそうに告げた。
 アルティオはさっさと外に行けと手振りで返す。

 「…………」
 どうして……
 気持ちは、分からなくはないけど……
 こんなことは、良くないよ……
 それに、ここを見くびりすぎだよ。
 ディートは侵入者が死んでしまわないように入口を見張り続けた。


 「俺が……助けるから……」
 深夜に『まるち』への侵入を試みた男は入口に近づこうとした時……
 「それ以上近づかないで」
 聞き覚えのある声に止められた。
 「…………」
 そして、ディートが茂みから出てくる。
 「イノリさん。それ以上は、近づかない方がいい……」
 ディートは静かに告げる。
 しかし……
 「ディート君。ごめん。どうしても、譲れない。君を傷つけてでも、あの薬を手に入れる……!」
 イノリは懐に忍ばせていたナイフをディートへと向ける。
 「…………」
 イノリさん……
 そこまでカナイさんの事……
 でも、ごめん……
 「俺をここで動けなくしても、薬は手に入れられないよ。イノリさん」
 「手に入れる!絶対に!!」
 イノリの、ナイフを持つ手は震えていた。
 罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、カナイを助けるためならどんな罪だって背負う覚悟で、その場に立っていた。
 「…………」
 ディートが地面の小石を拾い上げて入り口付近に投げる。
 「え……?」
 投げられた小石は、地面に転がることなくずぶずぶと地面の中に沈んでいった。
 「店の周りに結界を張ってあるんだ」
 「…………」
 イノリが僅かにひるむ。
 「しかも、それは仕掛けた本人が悪趣味、としか言い様が無いんだけど、呑み込まれた先はアルティオの専用空間に繋がっていて、何匹ものキメラがうごめいている場所に出るんだ」
 「…………」
 「そして、もちろんそのキメラたちは肉食で、少しずつ捕われた人が体を食べられていく。そしてさらにその様子をアルティオが酒の肴に楽しむって仕掛けなんだ」
 「……あ、悪趣味…だな」
 「うん。俺もそれに関しては同感。と、言う訳でこの先に進むとケダモノの晩ご飯にされた揚げ句にその様子をアルティオの暇潰しに眺められるだけだからお勧めしない」
 「…………」
 イノリは何かに耐えるように店の方を見る。
 「もう……嫌なんだ。カナイの、あんな姿を見るのは……」
 イノリは涙を流しながら、その場に座り込んだ。
 「イノリさん……」
 「……カナイ」
 イノリは再び店の方を見る。
 険しい目をして、今にも動き出しそうに……
 「!」
 その前にアルティオに肩を掴まれる。
 「やめとけって。あれはお前程度がどうにかできる代物じゃねーぞ?せっかく助けてやった命を無駄にすんな」
 ため息まじりのアルティオによって止められる。
 「…………」
 ここで今度こそ、イノリは断念した。
 
 「……すみません。こんな事、して」
 秘薬を盗みだそうとした事を正直に告げ、二人に謝るイノリ。
 ディートは大して気にしたふうもなく、
 「無事で良かった」
 とイノリに笑いかけた。
 そしてアルティオは、
 「悪いと思うなら今度適当なイケニエでもつれて来い」
 と結界の方を指さした。
 「…………」
 「アルティオー!!」
 すかさずディートの後頭部パンチが食らわされる。
 「いてーな……」
 「あー、気にしないで!こいつの言う事は真に受けなくていいから!!」
 呆気にとられるイノリを前に、ディートが慌ててアルティオの言葉を否定する。
 「失礼な。俺はいつでも本気だ」
 「なお悪いわー!!この非人間!!」
 「そんなに褒めるな。照れるじゃないか♪」
 ここで喜ぶロクデナシ……
 「褒めてねー!!」
 泥棒(未遂)を前にしていつもの光景を繰り広げる二人。
 「あ……あの……」
 イノリが気まずそうに声をかけるが……
 「ん?あぁ、生きてんならもう帰っていいぜ。命が惜しかったら今後は控えた方がいい。イケニエになりたいなら大歓迎だがな♪」
 「え、遠慮しておきます。すみません……」
 笑顔で怖いことを言う人だ……
 「イノリさん。ごめんなさい。力になってあげられなくって……」
 「いや。ディート君は悪くない。ただ、カナイに申し訳なくって……このままカナイが苦しんでいるのをただ傍で見ている事しか出来ないのが、耐えられなかった……」 
 無力な自分を嘆きながら、残りの時間を過ごすのかと思うと、いっそのことカナイを楽にしてやりたくなる。
 「カナイが……言うんだ。終わりにしたいって……こんなに苦しいなら、終わって楽になりたいって言うんだ……」
 でもカナイを楽にしてやる事すら、俺には出来ない……
 ごめん、カナイ……
 本当に、酷い兄貴でごめん……
 「…………」
 ディートは泣き続けるイノリの傍でじっとその言葉を聞いていた。
 「…………」
 そしてアルティオは……
 腕を組んでイノリを見下ろす。
 「アルティオさん……」
 「命は助けられないけど、楽にしてやる薬なら売ってもいいぜ」
 「楽になる……薬……」
 つまり、死ぬ為の……薬……
 毒薬……
 「アルティオ!?」
 「どうする?」
 「…………」
 イノリがアルティオを見上げる。
 何かに、すがるような目で……
 「本当に……売ってくれるんですか?」
 カナイがこれ以上苦しまなくて済む。
 たとえ、終わってしまうとしても……
 カナイの願いを叶えてあげられる……
 「安くはないけどな」
 アルティオは確実に売ってやる、とでも言うように笑った。
 「ちょ…ちょっと待って!」
 そこで慌ててディートが止めに入る。
 「ねぇ、イノリさん!分かってる!?カナイさんを殺す薬だっていってるんだよ!!?」
 何考えてんだよアルティオの奴ー!!
 「……いいんだ」
 しかしイノリは首を縦に振った。
 「どうせ、助けられないんだったら、せめて、これ以上苦しませたくない……」
 「…………」
 「そしてそれが、カナイの願いでもあるから……」
 助けられなくてごめん…… 
 でも、カナイの最期の望みは、俺がきっと叶えてみせるから……
 「イノリさん……」
 ディートは納得がいかないままだった。
 「よし。商談成立だ。結界解除してやるから中に入れよ」
 アルティオが一言呟いただけで、店の周りの結界は解除された。
 そうして、安全になった入口を通って店の中へと招き入れられる。
 「ねぇ、アルティオ。本気?」
 「何が?」
 「だから!本気でイノリさんに売るつもりなの!?カナイさん死んじゃうんだよ!!?」
 あんなに助けたいって言ってたのに、自分から殺すなんて間違ってる!
 「さぁ?俺は欲しいと言われたモノを売ってやるだけだぜ。その背後の道徳や倫理観なんざ俺の知ったことじゃないね」
 「…………」
 こういう奴なのだこいつは。
 でも、イノリさんがそれを望んでいるのも本当で……
 「…………」
 イノリさん……
 本当に、それでいいのか?
 「…………」
 イノリは困ったように笑っただけだった。

 アルティオが薬棚から別の小瓶を持ってくる。
 「……げっ!それは!!」
 すっげー見覚えがあるというか、最近の被害ランキングダントツで一位というか……
 「じゃじゃーん!ズバリ!『三途の川へいらっしゃ〜い♪』だ!」
 「三途の川……」
 フフン、とアルティオが得意気に語る。
 「これは安楽死を目的とした毒薬だ。ひと口飲めば一切の痛み、苦しみから解放され、次の日には眠るように逝けるっていうスグレモノ!さぁ!三途の川が君を呼んでるぜ!」
 アルティオがガッツポーズで熱く語る。
 「呼んでねー!!っつーかなんつー説明だよ!!」
 「えー?分かり易かったろ?」
 「分かり易過ぎ!!っていうかこんなもん蓋開けた瞬間に臭いで死んじゃうよ!!」
 ディートは調合途中のあの悪臭を思い出す。
 うう……
 思い出しただけでも鼻が曲がりそう……
 「…………」
 アルティオが小瓶をディートに近づけて間近で蓋を開けた。
 「ア、アルティオー!?」
 いきなり何をー!!!?……ってあれ?
 「……?」
 あれだけ悪臭をまき散らしていたものが……何の臭いもしなくなってるぞ?
 「……どうなってんの?」
 「完成品はこんなもん」
 「ーーー!?どういう魔法!?」
 って突っ込みたくなるくらい不思議だ。
 少なくとも臭いに関しては無害だということは分かった。
 いや……毒薬に対して無害もくそもないけどさ……
 
 「イノリ。お前今働いてる?」
 「え……?はい。カナイの入院費もありますし、一応働いてますけど……」
 「ひと月の給料いくら貰ってる?」
 「???えっと、手取りで十五万ナムスほどですけど……それが何か?」
 質問の意図がいまいち掴めない。
 支払い能力の確認でもしたいのだろうか。
 でもそんな事は前の時点で分かってただろうし……
 「よし!」
 アルティオはぽん、と手を叩いた後イノリを指さす。
 「???」
 「アルティオ……?」
 「じゃあお前の一カ月分の給料でいいや。十五万ナムス」
 「十五万……えっと、一括ですか?」
 予想していたよりはずっと安い金額だが、一括で払えるかと聞かれるとかなり厳しい。
 「…………」
 ディートも意外だったようだ。
 黙り込んでアルティオを眺めている。
 「いや、期限は……そうだな、一年でどうだ?」
 「えー!?アルティオが珍しく寛大……これは明日火山噴火でも起こるんじゃないかぁ!?いてっ!」
 「一言余計なんだよクソガキ……」
 失礼なことをヌカす相方にはとりあえず蹴りを入れておいた。
 「うう……俺嘘は言ってないぞ……」
 「…………」
 理不尽だ、などと言われているが今だけは俺の方がよっぽど理不尽だぞコラ……
 「いいんですか?一年、待ってもらっても」
 「っていうか一年はかかるだろう?」
 「え?」
 「お前これから金要るだろうし」
 葬式とか、墓とか、あと入院費の精算も結構かかりそうだし。
 「あ……」
 アルティオの言おうとした事を理解したイノリは再び泣きそうになった。
 「アルティオー!!お前はどうしてそんなに無神経なんだよー!!?」
 「えー?事実だろ?俺なりに気を遣ったつもりだぞ?」 
 「そんな気の遣い方は認めーん!!事実でも敢えて避けてやるのが思いやりってもんだろー!!」
 「俺にそんなもんあると思ってる?」
 「…………ない」
 そうだ。こいつにまともな人間性を期待した俺が馬鹿だったよ……!
 いや!でもここは文句を言っておくべきだろう。イノリさんの為にも!
 「それに……」
 「それに……?」
 「思いやりの心ならもう十分に発揮したぞ?命を助けてやった」
 「う……ぐ……」
 そうだ。アルティオはイノリさんが結界に呑まれる前に教えてくれた。
 助けてくれた……
 いや、それは仕掛けた罠に問題がありすぎる、というのもあるが……
 うわー!何か言いくるめられているだけのような気がするのは俺だけかぁー!?
 駄目だー!負けるな俺ー!!
 
 しかしイノリは……
 「ありがとうございます。アルティオさん!必ず一年以内に払いますから!」
 素直に礼を言った。
 「イノリさん……」
 そこは少しぐらい怒ってもいいところなんだよ……
 お人好しだなぁ……
 「ちなみに利子は『トイチ』な♪」
 「え……?」
 さっきとは一転してイノリの顔が青ざめる。
 十五万の一割は一万五千……
 十日で一万五千……
 三六五日で……
 うわぁ……

 そしてディートは……
 「おーまーえーはぁー!!どこの悪徳金融業者だぁ!!?」
 胸倉掴んでがっくがっく。
 おおー♪世界がゆーれーるー♪
 「はっはっは。だって無利子って訳にもいかんし?せめて十カ月に一割ぐらいは貰っても罰は当たらないと思うんだが?」
 「へ……?」
 「え……?」
 二人とも硬直…… 
 十日じゃなくて十カ月で一割……?
 つまり一年で一万五千……
 ディートとイノリが顔を見合わせる。
 「…………」
 「…………」
 「なんだよ。不満か?」
 「い、いえ。ありがとうございます」
 「……やっぱり明日あたり火山噴火」
 ぼそっと呟くが地獄耳にはしっかりと届いていた。
 「あはははは。くたばれ?」
 にこにこしながら近くにあった本をディートに投げつけてやった。
 「がっ!」
 きゅーー……
 口は災いの元。
 ディート君御臨終……
 死して屍拾う者無し。
 ……じゃなくてただの気絶です。ハイ。
 「ほら。持って帰れ。いつ使うかは任せる」
 「…………」
 イノリは手渡された『三途の川へいらっしゃーい♪』を難しい顔で眺めていた。
 決心がつくまではまだ時間がかかるだろう。 

 「イノリさん……本当にいいの?」
 やっぱり納得の出来ないディートが最後に確認するように問いかける。
 「……うん。カナイともよく話し合ってみる。ごめんね、ディート君。心配ばっかりさせて」
 「…………」
 ディートは最後まで納得ができないままだったが、イノリ自身が決めたことならこれ以上何も言えないことが分かってしまった。
 それはとても悲しいけれど。
 やっぱり、それしか方法が無いのも本当だから。
 
 「ありがとうございました。アルティオさん。ディート君も」
 「ま、これからキリキリ働いてくれればいいさ」
 「…………」
 イノリは少し気まずそうにアルティオ達を見る。
 「どうした?」
 「イノリさん?」
 「すみませんでした!!」
 イノリが二人に勢いよく頭を下げる。
 「その……未遂とはいえ……あんな事をしてしまったのに……」
 「気にしないで。生きてて良かった」
 「あー、ちなみに……あのまま何も知らずに侵入していたらどうなってたかというと……」
 アルティオは楽しそうにイノリに話し掛ける。
 「アルティオさん……?」
 アルティオの人差し指が光りだして、その指をイノリの額に当てる。
 「…………」
 そのときに、見たものは……
 
 「あ……ぎぇああああおあぁぁぁああーーー!!ひ……た…たす……たすけて……ごめんなさ……!いや……いやだぁぁあああああーーーーー!!!」
 突然闇に呑み込まれた人間。
 ずぶずぶと沈んでいく体。
 出口の無い闇。
 見た事もないおぞましい肉食動物たち。
 生きながらにして、咀嚼されていく体。
 少しずつ、少しずつかたちを失っていく。
 悲鳴が懇願に変わり、
 懇願はやがて意味すら失う。
 食い散らかされた肉片は、闇の中を漂うゴミとなる。
 
 「…………」
 せ……凄惨なものを見てしまった。
 あ……あれが、数時間前に俺が味わうはずだった地獄……
 「い、今のは……?」
 つくりものとは思えないリアルさだったんだけど。
 頭の中に直接流れ込んできた映像。
 「前の馬鹿な侵入者の映像記録♪」
 アルティオが楽しそうに答えた。
 きっと本人はこのときリアルタイムで楽しんでいたに違いない。
 あの……人間が仕掛けたとは思えない、とんでもない地獄絵図を。
 「って、いたのかよ!?犠牲者!!?」
 ディートは初耳だったようだ。
 びっくりしながらアルティオを見る。
 「ああ。見たいか?」
 アルティオが指を光らせながらディートの方へと近づく。
 「ーーー!!い、いい!!結構!!断じて遠慮する!!」
 大げさに手を振って後ずさるディート。
 「……うん。見ないで正解だよ。ディート君」
 ……しばらく肉料理が食べれなくなるから。
 アルティオさん……
 これを、心から楽しめる神経の持ち主かぁ……
 いい人なんだか、悪趣味なんだか分からなくなってきた。
 「…………」
 そんな事を考えていると、ディートが軽く肩を叩いてくる。
 「いや、迷う余地無くこいつは悪党で悪趣味だから!」
 確信を持って言い切るディート。
 それを面白くなさそうに眺めながら、
 「ふん。まあ断じて善人なつもりはないがな」
 と言いながら底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
 「…………」
 「ド悪党め」
 ふんぞり返るアルティオを前に、ディートは一言だけ返した。

 「じゃあ俺、そろそろ行きます」
 イノリは二人に別れを告げて、夜の闇へと消えていった。
 「行っちゃったね……」
 「ああ」
 「使う、のかな……やっぱり……」
 カナイさんを殺す薬……
 家族を殺すのって、絶対に迷わないはずが無いと思う。
 でもイノリさんは、苦しみから救うために使うんだ……
 分かってる……
 「使わなきゃ無駄金になるな……」
 「…………」
 「でも使うだろ。近いうちに。イノリはそういう奴だ。そして妹もおそらく、それを望んでいる」
 「…………」
 やりきれない想いを抱えたまま、ディートは再び眠りについた。


 「お……兄ちゃん……?どこに……行ってたの?」
 夜中に姿を消したイノリを目が覚めてからずっと待っていたらしい。
 「カナイ。起きてたのか?」
 「うん。お兄ちゃんが、いなくなったのが分かったから……」
 イノリはカナイの頭をそっと撫でる。
 「ごめんな。ちょっと用事があったんだ」
 「今日はもう、出ていかない……?」
 「うん。ずっと、カナイの傍にいるよ」
 そう言って、カナイの手を握る。
 「うん。お兄ちゃんが傍にいてくれたら、何にも怖くないよ……」
 カナイは笑って目を閉じる。
 「カナイ……」
 イノリは穏やかな口調でカナイに話し掛ける。
 「なに?お兄ちゃん……」
 カナイは首だけ動かしてイノリの方を見る。
 「カナイの願い、もうすぐ……叶えてあげられるかもしれない……」
 「お兄ちゃん……?」
 イノリが泣きそうな顔で、懐に入れていた小瓶をカナイに渡した。
 

 その五日後……

 『うぎぇあヴぉぁぁぁぉぉぉおお!』

 いつもの呼鈴が鳴る。
 既に鈴ではない気がするが……
 いつ聞いてもまともさのかけらもない。
 「はーい。今出まーす」
 ディートがドアを開けると、
 「こんにちは、ディート君」
 そこにはイノリの姿があった。
 「イノリさん?どうしたの?」
 「うん。今日、カナイがあの薬を飲むって言っていたから……」
 「え……?」
 それはつまり、きょうがカナイの命日になるということ。
 「そ…それじゃあ傍にいなきゃ!何でこんなところに来てるんだよ!?」
 こんなところで呑気にあいさつしてる場合じゃないよー!!
 「…………」
 イノリは困ったように笑った。
 「最期に、会いたいって言うんだ」
 「え……?」
 「薬をつくってくれた人に、会いたいって……会って、お礼が言いたいって……」
 「…………」
 イノリはアルティオの方を見る。
 「アルティオさん。もし迷惑でなければ、カナイに会ってもらえませんか?ディート君も」
 「…………」
 アルティオは黙り込む。
 そして……
 「いいぜ。故人の頼みぐらいは聞いてやらないとな」
 「まだ死んでないだろ!」
 アルティオとディートはイノリとともにカナイのいる診療所へと向かうことにした。
 
 「イノリさん。大丈夫?」
 「……うん。今はだいぶ、落ち着いたよ」
 診療所へ向かう途中、ディートが心配になってイノリに話し掛ける。
 「全部、話したよ。薬の事も、飲んだらどうなるかも。苦しむことなく眠るように逝けるって言ったら、カナイうれしそうに笑ってた……」
 「…………」
 「でも……」
 「?」
 イノリが気まずそうにアルティオの顔を見る。
 「あの名前だけはちょっと言いだせなかったんだけどね……」
 イノリが複雑そうに笑った。
 「その気持ちはすごーく分かる!」
 ガッツポーズで頷くディート。
 「……ふん。どいつもこいつも」
 アルティオだけが一人、面白くなさそうな顔をしていた。
 ぶつぶつと呟く内容の中には、『なぜこのスバラシイネーミングセンスが分からん!?』とか『これだから凡人どもは……』とか聞こえてきた。
 「…………」
 天才だからいいってもんじゃないよなぁ。
 この場合……
 「あははは……すみません。凡人で……」
 素直に謝るイノリ。
 「ふん」
 「…………」
 必要ないよイノリさん。
 放っておくとつけあがるだけだから。
 これぐらいがこいつにはちょうどいい。
 

 イノリが病室の戸を叩く。
 「入るよ。カナイ」
 ドアを開けるとそこにはイノリとよく似た女の子がベッドに横たわっていた。
 「カナイ、調子は?」
 「うん、大丈夫。お兄ちゃん。えっと、この二人がそうなの?」
 カナイが見知らぬ二人に視線を向ける。
 「はじめまして、カナイさん。このロクデナシの相方のディートです」
 「そしてその薬を作った超天才錬金術師のアルティオだ。死後もお見知りおきを♪」
 「…………」
 なんつー自己紹介だ。
 死後ってゆーな。ロクデナシ。
 しかしカナイは気にしたふうもなく、
 「あなたが……」
 アルティオをうれしそうに見つめた。
 「ありがとうございます」
 「いえいえ。どういたしまして」
 自分を殺すものを作った相手に対して礼を言うカナイ。
 何かが間違っているような気がするが……
 アルティオはカナイに近づいて囁きかける。
 「カナイちゃん。ちなみにその薬、なんて言う名前か知ってる?」
 「え?」
 カナイは首をかしげる。
 ただの毒薬としか知らされていないらしい。
 「ア…アルティオ!!」
 「それは、ちょっと……」
 苦笑いで止めようとするディートとイノリ。
 しかしカナイは……
 「知りたい?」
 アルティオが極上の笑みで問いかける。
 「知りたいです」
 「よしよし。では教えてあげよう」
 アルティオはご機嫌な様子でカナイの頭を撫でる。
 「…………」
 「………うぅ」
 頭を抱える二人を背に、
 「ズバリ!『三途の川へいらっしゃ〜い♪』だ!!」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 三人とも沈黙。
 うん。普通固まるよね。
 しかしカナイは……
 「わぁ!すてきなお名前ですね!」 
 とのたまうた。
 「…………」
 カナイさんのセンスって……
 「…………」
 イノリもさすがに絶句した。
 そしてアルティオは、
 「カナイちゃん。君だけだよ!この素晴らしいセンスを理解してくれたのは!!」
 超ご機嫌でカナイの頭をなでなでしていた。
 「えー?そうなんですかぁ?」
 「うん!君には天才の素質がある!あー、惜しいなぁ。生きてさえいたら絶対気が合いそうなのに……」
 くっ、と悔しそうに涙ぐむ仕草のアルティオを前にディートが更に睨みつける。
 「まだ生きてるだろ……」
 アルティオはカナイの事がかなり気に入ったようだ。
 しかしだからといって秘薬を使う気はまったくないようだが。
 その場の感情に流されないのがアルティオ・トーディロスという人間だということを、ディート自身よく知っている。 
 そして、別れの刻はもうすぐ近くまで来ていた。
 なるべく、泣かないでいようと決めていたけれど……
 「カナイ……」
 呼ぶ声は遠く、
 その心までは届かない……
 そしてカナイは……
 薬を持って、目を閉じる。
 「お兄ちゃん。今までありがとう。何も出来ない私なんかの傍にいてくれて。痛くても、苦しくても、お兄ちゃんがいてくれたから、私、頑張れたんだよ……」
 最期に、今までそばで支えてくれた存在に感謝の気持ちを告げる。
 「今までいっぱい迷惑かけてごめんね……」
 そして謝罪も。
 イノリはカナイの傍に来て、小さな体を抱きしめる。
 「俺は、カナイの事、迷惑なんて思ったこと一度もないよ。カナイは……いつだって俺のかわいい妹だった」
 「お兄ちゃん……」
 涙で、カナイの服が濡れていく。
 その温かさが、心地よかった。
 そして……
 「アルティオさん、ディートさん。すてきな薬を作ってくれて、ありがとうございます」
 自分を殺すモノを作った相手に、心からの笑顔で礼を述べる。
 「…………」
 「カナイさん……」
 言葉が見つからない。
 何を言っても薄っぺらにしかならないような気がした。
 だから、何も言えない。
 アルティオも、何も言わなかった。
 「ありがとう。ごめんね。バイバイ……お兄ちゃん……」
 それはまた明日、というような気軽さでカナイは薬を飲み干した。
 「……カナ……!!」
 無意識のうちに止めようとしたイノリをアルティオが制止する。
 「…………」
 ……分かってる。止めたらいけない。
 分かってるよ……
 でも……!!
「カ……イ……」
カナイは、瓶を置いてイノリに笑いかける。
「お兄ちゃん……大好き……」
眠りにつく前、アルティオがカナイに近づく。
 「アルティオさん?」
 「カナイちゃん。最期に、思い残したこと、やりたかったことってある?」
 アルティオが優しくカナイに語りかける。
 「……私、お兄ちゃんともう一回、おいかけっこ、してみたかったです」
 もう叶わない夢を口にして、カナイは困ったように笑った。
 「願ってごらん。最期に、きっと君の望んだ夢が見られる」
 アルティオはカナイの頭をそっと撫でる。
 「本当に、そうなれたら……うれしいな……」
 「アルティオさん……?」
 イノリが、アルティオの言葉の意味するところが分からずに戸惑う。
 「もう、眠るといい。カナイちゃんの望みはきっと叶うよ」
 「はい。アルティオさんの言葉だから、信じてみます……」
 カナイは最期にうれしそうに笑って、眠りにつく。
 「カ……ナイ……」
 イノリは涙しながら、カナイの手を握る。
 ディートも何も言えないまま、横で泣いていた。
 そしてアルティオはイノリの肩に手を置いて、
 「傍にいてやれ。しばらくはまだ、眠っているだけだから……」
 それだけ言い残した。
 「……カナイ」
 こくん、と頷いてカナイの手をより強く握る。
 「あ……」
 アルティオはディートの手をとって病室を出ていく。
 「…………」
 ディートはアルティオに手を引かれながら、止まることのない涙を必死で拭っていた。
 「うっ……く……」
 おえつ混じりに何かを言おうとするが、やっぱり何の言葉も出てこない。
 心だけが、苦しくて、押しつぶされそうなまま、まだ賑わいのある廊下を歩いていた。
 「イノリさん……カナイさん……」
 何も、出来ないまま……
 想いだけが、残酷なかたちで遺る。
 これは痛み。
 これは傷跡。
 イノリさんが抱えていくものは、俺なんかの比じゃない。
 でも……今は……今だけは泣かせてほしい。
 イノリさんと、カナイさんの哀しい結末に……
 「……気の済むまで泣いておけ」
 アルティオはディートの頭を乱暴に撫でる。
 アルティオなりの、不器用な慰め方なのだろう。
 「……うん」
 ディートもそれが分かっているから素直に頷く。
 この、蒼い空の下、のどかな風景のすぐそばで、一つの命が終わろうとしている。
 静かに、穏やかに、眠りにつく……
 「アルティオ……」
 「何だ?」
 「カナイさん……笑ってたね。イノリさんにも、俺達にも……」
 もうすぐ死んでしまうのに、あんなに穏やかに笑っていた。
 「死を受け入れた人間っていうのは、穏やかな最期を迎えようとするんだろう」
 「…………」
 「遺された人間が、なるべく悲しみに囚われることの無いように……」
 笑おうとするんだろう……
 「……なんか、哀しいね。そういうのって」
 ディートはイノリとカナイのいる病室の方を見てそう呟いた。
 「そうだな……」
 このときアルティオも一瞬だけ辛そうな顔をした。
 「…………」
 でもそれは、カナイさんの事じゃなくて、別の何かを思い出したから。
 そんな気がした……
 「…………」
 俺は二年前以前のアルティオの事をまったく知らない。
 アルティオには、アルティオの生きてきた時間があって、彼だけの哀しい記憶も、あるのかもしれない。
 こんな風に、何も出来なくて、悔やんだりした事も……あったのかもしれない。
 

 その夜カナイとイノリは……
 「お兄……ちゃん……」
 「カナイ……!?」
 眠っているはずのカナイが、意識を取り戻した?
 「…………」
 カナイは静かな寝息を立てている。
 「……なんだ、寝言か」
 もうすぐ、本当に覚めることの無い眠りについてしまう。
 カナイ……
 さみしい……
 さみしいよ……
 目を、開けることもなくなって、
 声も、聞けなくなる。
 もう一度、カナイの笑顔が見たいよ……
 カナイ……
 カナイ……
 「だ…めだ……これは、カナイが望んだこと。俺は……受け入れなくっちゃ、だめなんだ……」
 「お……兄…ちゃん……」
 「カナイ……!」
 また寝言か?
 でも……
 「お兄ちゃん……待って……」
 「カナ……イ……?」
 夢を……見ているのか……? 
 俺に、置いていかれる夢?
 「待って、お兄ちゃん……」
 違う。
 カナイは、笑ってる。
 うれしそうに……
 これは……カナイが最後に望んだ夢。
 カナイ……
 「お兄ちゃん……掴まえた……」
 カナイは意識が無いまま、イノリの手を掴んだ。
 夢と同じように、得意気に笑うカナイ。
 「えへへ……掴まえたよ……」
 「ああ。掴まった。カナイの勝ちだ」
 眠っているカナイにそう伝えると、カナイはまたうれしそうに笑った。
 カナイは今、最期の夢を見ている。
 カナイが最も望んでいた夢を。
 「俺は、ここにいるよ。カナイ……」
 握られた手の上から、さらにカナイの手を握る。
 「お兄ちゃん……」
 「…………」
 また、寝言だろうか……
 うとうととなりかけた目で、カナイの方を見る。
 せめて最後だから、幸せな夢を見てほしい。
 「カナイ……?」
 カナイが目を開けていた。
 「お兄ちゃん。アルティオさんの言った通りだった」
 「カナイ?」
 カナイは心からうれしそうに笑っていた。
 「私ね、夢の中でお兄ちゃんとおいかけっこしてたんだよ。たくさんたくさん、走ったんだ……」
 「そうか、よかったな……」
 「いつも、体を動かすだけですごく痛いのに、自由に動いてた。夢だって思えないくらいリアルだったんだよ?」
 カナイは少し興奮気味に話す。
 本当にうれしかったのだろう。
 夢の中とはいえ、自分の体が思うように動くことなど、もうずっと無かったのだから。
 「よかったな。カナイ……」
 「うん。お花がいっぱい咲いてて、とってもきれいだった。お父さんと、お母さんもいたんだよ……」 
 「父さんたちも?」
 もうずっと前に死んでしまって、まだ小さかったカナイは、顔すら覚えて無かったはずなのに……
 「うん。お父さんとお母さんだった。本当だよ?」
 「ああ。良かったな。カナイ……」
 「うん。私の、一番見たかった夢だった……」
 「…………」

 君の望んだ夢が見られるよ……

 アルティオの言葉を思い出す。
 あれは、本当の事だったのかもしれない。
 偶然だと考えるには、都合がよすぎる。
 彼は、カナイに最期の夢と、安息をくれたんだ。
 ありがとう……
 アルティオさん……
 ディート君……
 もう、泣いた顔なんて見なくていい。
 もう、苦しみに耐える様を見て、やりきれない悔しさに囚われることもない。
 だって、カナイはこんなに幸せそうに笑っているから……
 「お兄ちゃん……私、幸せだったよ……」
 「カナイ……?」
 カナイは再び眠りについた。
 「…………」
 しかし今度はもう、二度と目覚めることはない……
 その死に顔はとても満ち足りたものに見えた。
 「……カナイ、俺も……幸せだったよ……」
 止まることの無い涙は、行き場をなくして、やがて自身の中に積もっていく……
 でも……カナイがこんな顔で逝けたのなら、俺も泣いてばかりはいられない。
 「カナイの分も、笑えるようになるから……俺、頑張るよ……」
 まだ温かさの残る手を、そっと離した。
 カナイの体温が完全に失われる頃には、きっとこの涙も止まっているから……


 カナイの葬式がささやかに行われた後、埋葬されたカナイの傍でイノリが手を合わせる。
 「カナイ……もう、大丈夫だから……」
 イノリは前を見つめる。
 立ち止まらないと決めた。
 だから、振り返らない……
 「俺も、手を合わせていい……?」
 「ああ。カナイもきっと喜ぶ」
 いつの間にか傍に来ていたディートが、イノリの横で手を合わせる。
 そしてアルティオは、一輪の花を墓前に添える。
 「いい夢、最期に見れたろ?」
 確信を持って問いかける。
 答えは返ってこない。
 でも、そよ吹く風が代わりに応えてくれたような気がした。
 「アルティオさん、あれはやっぱりあなたが……」
 「まぁな……」
 最期に望んだ夢を見せる。
 カナイの、小さな願い。
 アルティオがカナイに掛けた夢見の魔法……
 カナイの最期の願いを、この錬金術師は叶えてくれた。
 「ありがとうございます……」
 まだ、悲しみは拭いされないけど、今は笑って言えたと思う。
 「『祈』に『叶』。いい名前じゃん……」
 「え……?」
 アルティオは懐かしそうに笑った。
 「お前らの名前、元々は古語からきてるんだろ?『祈』と『叶』。兄弟揃って似たような名前でさ……」
 「……知ってたんですか?」
 イノリ自身も、両親が死ぬ前に教えてもらったのに……
 古語を知る人間は少ない。
 失われた言葉。
 前文明の言語。
 「古語を使った名前が許されるのは皇族だけだからな。イノリとカナイ、こっちは隠し名として名付けたんだろう」
 「…………」
 そう。俺たちの本当の名前は祈と叶だと、父さんと母さんが教えてくれた。
 「アルティオさんの言う通りです。俺達の本当の名前は、祈と叶。どんな想いで父さんと母さんがこの名前を付けたのかは知りませんが、俺はこの名前が好きです」
 胸を張って、笑う。
 誇れるものだと思うから……
 「幸せになってほしかったんじゃねーの?」
 「え……?」
 「祈りも、叶えることも、どっちも幸せになろうとするための言葉だろう?」
 何かに祈ったりすることは、自分や、誰かの幸せを願うこと。
 何かが叶うということは、幸せに近づいたということ。
 だからこの二人の名前には、そんなあたたかい想いがたくさん詰まっている。
 「幸せになれよ。それが、お前の両親や、そしてカナイに対してお前が唯一返せるものだ」
 「……はい」
 

 その帰り道……
 「…………」
 「どうした?ディート」
 珍しく神妙な顔をして黙り込んでいるディートに不審なものを感じる。
 「いや、アルティオがさ、今回珍しくまともなこと言ってたなぁーって思って……」
 「…………」
 真面目な顔をして何を言いだすかと思えば……
 このガキ……普段俺様の事をどういう目で見てやがる……
 「仕方ないって分かってるんだけどさ……」
 「ん?」
 「人が死ぬのって、やっぱり悲しいね……」
 「……そりゃー、嬉しかったら色々問題だな」
 死んで喜ばれる奴なんて極悪人か、財産たんまりの金持ちぐらいのもんだろうし。
 「俺もさ、あの時死にかけてたんだよな……」
 「…………」
 『あの時』とは二年前の事を言っているのだろう。
 二年前、死にかけているディートを俺が拾った。
 「アルティオ……俺、よく覚えてないんだけど、あの時、きっと放っておいたら死んでたよな……?」
 「ああ……」
 「それぐらい、俺は重傷だったんだよな……」
 ディートは何かを訴えるような目でアルティオを見る。
 「何で、助けてくれたの?」
 「…………」
 今回、それがずっと心のどこかで引っ掛かっていた。
 助からない命を助けるためには、大きな代償が必要になる。
 だから、カナイさんの事は助けられなかった。
 でも、俺は、俺だけ……アルティオに助けられた。
 あの時アルティオがやったことは、禁忌にはならなかったんだろうか……
 「…………」
 「アルティオ……?」
 アルティオが立ち止まって黙り込む。
 無言で空を見上げて、少しだけ、辛そうな顔をした。
 「お前の言う通りだ。お前はあのままでは死んでいた。それを、俺がねじ曲げた……」
 「…………」
 どうして……
 どうして俺だけ……
 「アルティオ……俺は、お前に対して何の対価も払っていない。払えない……」
 何も持たない俺は、アルティオに対して何も返せるものが無い。
 自分の記憶さえも、無いのに……
 「…………」
 「どうして……」
 「………った」
 アルティオが小さな声で呟いた。
 こぶしを握りしめて、声を絞りだす。
 「もう……もらった……」
 「え……?」
 アルティオ……?
 どうして、そんな……泣きそうな顔をしてるんだよ……?
 らしくないだろ?
 俺の知ってるアルティオは、いつだって俺様で、自信家で、認めたくないけど天才で、ロクデナシの女ったらしで……
 別人を、見てるみたいだよ……
 「……なんでもない。いいんだよ。お前にはこれから払ってもらうんだからな」
 「はぁ!?」
 「コキ使う。そして実験もする。ほら、これで結構割に合うだろ?」
 「…………」
 つまり、コキ使うのはとにかくとして、また俺で毒薬の実験でもするつもりですか?
 おそるおそるアルティオの方を見ると、当然とでも言うように不敵に笑っていた。
 「……合うかぁー!!助けた命をまた殺す気かぁーー!!?」
 「俺が助けたんだから生かすも殺すも俺の自由だろ?」
 「んなわけあるかぁー!!こんのロクデナシ!!」
 「はっはっは。何とでも言え♪」
 ようやくいつもの調子を取り戻したアルティオは、軽やかな足取りで自宅へと向かう。
 「…………」
 何か……はぐらかされたような気がするけど……
 「ま、いっか……」
 いつか、話してくれるよな……
 その時が来るまで、俺は待ってる。
 「あんまりトロトロ歩いてると締め出すぞ?」
 「…………」
 やっぱり素は意地悪のロクデナシだこいつは。
 うん、間違い無い。
 仕方ないから少しだけ足を早めてアルティオに追いつく。
 不安も不満もたくさんあるけど、とりあえずはこのロクデナシとやっていくことになるだろう。
 それもまた、悪くない日常かもしれない。