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夕空の中で:目次
 

 

 

 

 

 

 冷たい潮風にさらされているひび割れた壁、汚れた窓ガラス、古びた校舎は変わらずそこにあった。前庭に植えられた木々も、それが作る日陰も、その周りの芝生も、体育館の赤い屋根も、なにもかも、色あせてはいるが、あの時と変わっていなかった。

 ただ、変わってしまったものも、もちろんあった。それは、すでに校内へ踏み入る権利を失くした自分や、自身を取り巻く環境、人間関係。そして、あのころの自分と、親しかった友人。それは、遠く輝く星であり、手の届かないものであり、もう見えなくなってしまったものだ。手を伸ばしても、それを掴むことはない。指先でかすめることさえできないのだ。それはたぶん、自分の進む道と、それらのものが重なり合わなくなってしまったからだ。たった一本でも道を間違えればすぐに迷ってしまう樹海の中に、自分はいる。そしてもうすでに、道を違え、樹海の中に踏み込み、迷ってしまっていた。目的地に着くことも、正しい道を進むこともできない。立ち止まって休憩すれば、さらに迷うことになる。後戻りしようと後ろを振り向けば、さらに道はこんがらがる。ただひたすらに、前へと進むしかなかった。先に行け、と他人に責任転嫁しようにも、代わりに背負ってくれる人は一人も見当たらない。もう疲れた、と地べたに寝転び、やがて死ぬのを待つことは絶対に許されないことであった。だから、前へ前へと足を進めたのだ。

 そして、その結果が――

 ため息を一つつき、空を見上げる。目線の先には、屋上。記憶が鮮明によみがえる。あの日の光景が、ありありと浮かんだ。

 唯一、自分にできることといえば、置き去りにしてきたものを振り返ることぐらいだった。そうして、懐かしむ。だけど、それだけだ。届きようのない距離が、そこには開いていた。だから、振り返っても、立ち止まらずに、歩んできたのだ。

 凍てつく風が、体を貫くように吹きつける。

 この時間帯では、さすがに生徒の姿は見受けられなかったが、遠くのほうに人影があった。おそらくは教師だろう。

 ここにいると、実に様々な過去を顧みることができた。辛い思い出ばかりではない。楽しい思い出、嬉しい思い出。苦い思い出もある。それらすべてが、自分という存在を作り上げていた。この、壊れた自分を。首が取れかかって、片腕がもげて、糸がほつれて使われなくなった人形のような。ここで培った思い出がなかったら、隻眼(せきがん)となっただけでは済まされず、今この場に原形を留めていることはなかっただろう。このままの関係がずっと続くと信じていた、あのころの遺産が、自分のパーツの一部となっている。そして、あのころは、とてつもなく大きななにかが、自分たちの間に働いていたのだと、思い知る。それが、正のもであっても、負のものであっても、だ。その力に揺り動かされ、行動してきたのだ。今、その力はどこに働いているのだろうか。矛先はどこへ向かっているのだろうか。今も、自分に働いているのか。支えてくれているのか。それとも、力は霧散して消えてしまったのか。今の自分では、まるでわからなかった。

 校舎から目線を切り、踵を返す。

 同時に、虚しく舞う風が吹き上がった。

 

 

 少しばかり早く、仕事場に到着した。すでに出勤してきていた所長やマネージャーに挨拶し、ロッカールームへと入る。そこでつなぎに着替え、事務所の椅子に座り、所長、マネージャー、そして自分と、三人分のコーヒーを淹れる。

 コーヒーをそれぞれの前に置き、また椅子に座る。

 そこで所長から、昨日の成果について言及があった。

 すいません、と頭を下げる。社長いわく、別に責めているわけではなく集中していなかったから、なにかあったのか事情を聞きたいだけ、だそうだ。

 これについて、自分からいえることもなく、もう一度謝罪とともに頭を下げるとそれ以上、なにもいってこなくなった。

 コーヒー一杯を飲み終えるころには、ほかの業務員たちが出勤してきていた。彼らとも挨拶を交わす。定刻まで、雑談などで暇を潰す。時間がくると、ヘルメットを持って持ち場に移動する。恒例の注意事項などを責任者が話し終え、仕事が開始される。ベルトコンベアーが流れ始めた。

 

 

 今日は、眠さと闘いながらの作業であった。昨日よりかは格段に良い成果であるが、通常の量にはほど遠い。

 お疲れ様でした、と挨拶をし、帰る直前、所長に呼び止められ、もう一日休暇をとらないか、と問われた。

 いえ、と首を振り、それ以上なにかをいわれる前にその場を立ち去る。事務所から一歩出ると、槍と化した風が、コートという盾を貫き、体に深深と突き刺さる。思わず身を竦ませる。ふと夜空を見上げると、今日も変わらず冬の大三角形が瞬いていた。思わず、手を伸ばした。

 

 

 

 


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