『アジアの熱風』 作 石島利秋
乾燥した風が吹き、通りを行き交う人々の目は白濁として、生活の苦しさを物語っているようだ。彼らの衣服は質素で、砂埃の侵入を防ぐために襟が高くなっており、機能性に着目してごく普通に衣料品として売られている類のものだ。
派手さはないが、生きるために懸命になることを知っている、地道で着実な歩みが通りを埋め尽くし、マーケットの喧騒を形作っている。果物を売る露天商の前で、少年が立ち止まって値段交渉をしている。少年は林檎五個を購入した。
林檎をかじりながら、泰斗は人ごみで肩がぶつかりそうになるのを機敏に避け、人ごみの中を掻き分けて定宿に向かっている。父親の仕事の都合で辺鄙な土地の暮らしが長いが、この地は彼にとっては過ごしやすい環境だった。ほとんど総ての人々が生活に追われており、泰斗には関心を示しても付きまとうことがないからだ。
土地の人たちが腹を空かせているのを知っていればこそ、贅沢をするのは気が咎める。もっとも、口当たりがいいのは豊富な果物くらいで、泰斗は旬のものが手に入るマーケットが好きだった。金持ちが来ないのは当然であろうが、飛びぬけて貧乏な物乞いもいない。皺の深い疲れた顔をしていても、客を呼び入れる売り子の声はかん高く響く。
コンクリート製の古い建物が泰斗の居所である。建造技術は比較的新しいものだが、建物自体は寒さや暑さから逃れるには不十分だ。冬ともなると、壁が結露してカビが生えるまで暖房を焚かなければならない。
泰斗の母親は毎年皸に悩まされており、加湿器と石油ストーブを頻繁に利用している。戸を開けると、むっとするほどの湿った空気が流れ出してきた。仄かに甘い香りが含まれていることから、我が家に帰ってきたと、これで端的に分かる。
「母さん、林檎買ってきたよ」
片手で紙袋を抱えながら、泰斗はかじっていた林檎にもう一度かぶりついて芯だけにした。
「テーブルの上に置いといて。シチューが煮えたら食事にしましょう」
母親はジャガイモをさいころ切りにして、手際よく鍋の中に移している。紙袋をテーブルの上に、林檎の芯をゴミ箱に放り込み、泰斗は台所を出た。
二階の自室から外を眺めると、猥雑で貧相な街の光景が見える。ガラス戸を開いてステンレスの窓枠に両肘を乗せ、暫く換気をした。冷たい空気が泰斗の気分を研ぎ澄ましてゆく。
彼の父親は考古学者で、砂漠に沈んだ古代文明を調査しており、遺跡に通うのに便利なこの地に引っ越してきた。発見自体は画期的なものではないが、周辺民族が中央王朝にどのような影響を与えたのかを探る上で貴重な資料になりうる。考古学者としての立身を考えるとき、めぼしい成果として発掘の成功を夢見ているのだが、息子を相手に土器や木簡の出土を無邪気に喜んで見せる、少し不器用な男ではある。
発掘調査が始まって一年が経過しており、学校を移った泰斗も生活に慣れてきたところだ。勉学には不自由しないようにと、参考書は父親が厳選したものを与えており、オアシス都市の生き残るための向上心とも相まって、泰斗はよく勉強している。
学校は刺激が少なく、少し栄養失調気味の子供たちが、腹の底から笑う事もなく、黙々と教科書を読んだり、雑話に興じたりする静かなところだ。泰斗も華奢な方だが、同世代の子供よりは背が高く、放課後に教室にぽつねんと取り残されていると、年上の学生が紛れ込んだかのように大人びて見える。
寂しく街並みを眺める目は、歳相応にはしゃいだり、喧嘩をしたりする子供たちとは明らかに違う。何がそうさせるのか、泰斗は自覚していないが、いつまでも子供ではいられないという危機意識のようなものが働いているらしい。
押し寄せる砂漠化でオアシス都市の水源は枯れつつあり、人々が交易で潤うのとは裏腹に、向上心がなければ土地に根ざした生き方はできないであろうとの、周辺の大人たちが持つ価値観を引っ被る形で、泰斗の精神は必要以上に理性的なのだ。
友達と話しているときも、泰斗はにこにこしているだけで雰囲気を盛り上げる側に加わることは稀であり、積極的に面白おかしさを求める都会っ子のように気の利いた真似は、最近ではしていない。郷に入らばというとおり、少しくたびれた大人のように不安げな顔をしている子供たちの中で突出しても、いいことはないだろうとの判断がある。
強力な施政が軍備の乏しい地域の安寧と経済を支えているという実態があっても、国政批判をしようものなら身柄を拘束される世の中だ。大人達は銃剣に向かって文句を言えないことを泰斗は知っている。子供たちも自然に閑寂な空気に慣れて、命綱となっている貿易に参加するためには、外国語を覚えなければいけないという切実な生活知識に従って日々を送っている。
確かにここ数年で近隣界隈は急激に豊かになり始めている。マーケットは物資を求める人々でごった返し、通貨は各国のものが入り乱れるといった光景が日常になっている。質のいい物は遠出をして貿易センター街で買うのが良いと、泰斗の母親は家事にかかりっきりで疎かになっている身繕いなどにも知恵を絞る。安いものはマーケットで、高価なものは問屋直売でといった暮らし向きが泰斗の周辺にもある。
この日の父親はやや興奮気味に自宅の食事風景に加わった。腹が減っているのか、パンをかじった後、シチューで水っ気を補ってがつがつ食べてから息を吐いた。
「泰斗、凄いものを発見したぞ。兵馬俑だ。かなり高貴な人物の墓があったかもしれないんだ」
「中央王朝と関係があるの」
シチューをスプーンで口元に運び、上目遣いになりながら泰斗は父親の夢想に付き合った。
「墓地の構造に類似性があれば、中央との縁戚関係も証明できる。これは凄いことなんだよ」
「アジア一帯に王朝文化が広まっていることになるね」
スプーンを手首を使ってぶらぶら揺らし、興味なさそうに答える。父親の方はすっかり上気し、やる気になっている。
「明日だ。今日は暗くなって作業を中断したが、明日は歴史的発見に私の名を刻めるかもしれない。こういう日を私は待っていたんだ」
嬉しそうに母親は仕事ぶりをからかう。
「あなた、どうせお金にならない仕事なんですから、慌てなくても良いんじゃありません」
破顔一笑し、父親は参ったという顔をする。
「いや、名誉はお金では買えないから」
父親は食事後も、泰斗を相手に歴史の講釈をした。眠くなるまで聞いていた泰斗は、欠伸をして眼差しがしょぼけているのを擦って我慢したが、父親はようやく彼を解放する気になった。母親が差し入れたホット・ミルクを飲んで、気持ちも体も温かくして泰斗は床に入った。
王朝文化の華やかな錦を思い出しながら、泰斗はまどろみを深めてゆく。かすかな記憶にある、美しい装束の女を脳裏に描いて、触れるのが憚られるほどの神々しさを、少年期の男性の目覚めと重ね合わせつつ、それを慈しんだ。
次の日、学校の校舎の入り口に見慣れない女の子の姿を見つけた。泰斗は既に知り合いではないかと思うほど親しみを感じたが、傍目に困惑気味の顔で人を待っているのを認めながら校舎に入った。冷静な泰斗には珍しく、気分が高揚して落ち着かなかった。
朝の挨拶を交わすと、担任教師は出席名簿を閉じて机に伏せた。
「皆さんに新しい仲間を紹介します。入って、梅沢さん」
呼ばれた少女は開け放たれたままになっていた扉から進み出た。ちらりと斜めに教室の中を見ただけで、教卓の隣に来ると伏し目のまま挨拶をした。
「梅沢樹です。宜しくお願いします」
簡潔だが、彼女が新しい環境に戸惑っているのは分かる。担任教師はすぐに後を引き継いで、どういった経緯でここに来たのか説明した。
「梅沢さんはお父さんの仕事の都合でこの学校に転入してきました。分からないことが多いと思いますので、皆さんで支えてあげてください。さて、梅沢さん。今日は取り敢えず一番後ろの席に座って」
教師の呼びかけに応じて、樹は机の列の合間を縫って席に着いた。転入も転校も珍しくはないので、生徒たちは無関心である。何人かが振り返って顔を確認した以外は、まったくといって良いほど相手にされていなかった。樹も仏頂面で真っ直ぐに黒板を見ている。
横目に樹の姿を眺めた泰斗は、懐かしいような悲しいような気持ちを抱きながら、記憶の中にある偶像と重ね合わせ、無意味なことだと察してからは授業に専心した。
放課後になり、生徒達は一斉に下校の途に就いた。精気のない青ざめた顔が多いが、樹だけは仄かに赤みがさして健康的だ。背も高く、泰斗の記憶にある限りでは、かなり器量のいい部類に入る。服装は派手過ぎないが、彼女が着ると毛糸のセーターが高価な品物のように見える。
興味と密やかな愛着を隠し切れず、泰斗は樹に声をかけた。
「梅沢さん。家はどの辺りにあるの」
首を捩って向き直ると、不機嫌そうに樹は答えた。
「マーケットの近く」
「じゃあ、同じ方向だ」
「そう」
素っ気なく視線を外す。歩みの早い樹に追いすがるように、泰斗は歩幅を広くした。
「僕は桂泰斗。僕も一年前に引っ越してきたんだ」
「桂君。あんまり馴れ馴れしくされても困る。私、男の子のこと分からないから」
からからと泰斗は笑った。そして、走り出してから振り返り、大きな声を出した。
「梅沢さん。また明日」
そのままどんどん遠ざかってゆく。歩きながら溜め息をついた樹は、泰斗が見えなくなると、薄っすらと微笑んだ。少年の活発さが眩しく思えるほど、樹は思索に沈む機会が多かった。
彼女が転校してきたのは、貿易商の父親が近郊貿易の拡大に将来性を見出し、事業に本腰を入れるために家族を連れて移住してきたからだ。さながら金のなる木を見つけた気分で、事業で得た利益をほとんど再投資に回し、有名な貿易センターを順次拡張している張本人が、樹の父親である。
農産物から衣料品まで、第一次産業の品目から軽工業の普及品など、ありとあらゆる流通品を扱い、近隣国から買い付けに来た商人を相手に価格交渉が一日中行われている。零細農業に携る貧しい家庭からすれば、信じられない額の収入を得ているが、近隣住民の生活は改善されており、発展の最中に身を置く熱気を感じられないわけではない。
水がないことから大規模農業はできないが、果樹園などの経営は古来より脈々と続けられており、こうした地域独自の産業を後押しする形で貿易センターは運営されている。樹の父の位置付けも大店の主人といったところだ。
ただ、不便なことに、物資が集まる割に生活設備がなく、樹の家は車で三十分ほど離れた市街地にある。古くからあるマーケットの近くなら食品も生活物資も手に入り、何より水を確保できる。学校もそうした定住者を考慮して設置されており、砂漠の都市としては十分な快適さを享受できる環境だ。
ほとんどの人が何らかの生活苦を抱えており、物資の不足や利便性の低下にも関わらず、改善しようとする意志は希薄だ。それでも生きることに疲れない程度に喜びを感じ、家庭を営むのには恋々としている。土地に生活の基盤を置くということが、彼らほど真剣さを帯びている例は都会では見られないだろう。
他の人はいざ知らず、樹の家は裕福だ。彼女の母親は贅沢をするのに懐疑的だが、食料品だけは手に入る限り潤沢に揃え、栄養状態の維持増進には気を配っている。樹が血色がいいのは蛋白源になる肉を食べているからで、マーケットで日常的に見られる鶏のみならず、牛や豚も口にする。この界隈の少年たちのように、腹が減って元気が出ないという経験を樹は知らない。
新築したばかりの鉄筋二階建ての家も、経済受益によって潤った人々による増改築の盛んな地区では目立たない。中継貿易で小売りの裾野は飛躍的に広がり、大家族を快適に養うために増築する動きは最近になってからのものだ。街並みに出現した金持ちの家としては、樹の家は質素すぎるくらいである。
学校から帰った樹は、家に一人きりなのを確かめると、ベッドに横たわって頭の中を真っ白にした。緊張感が解けて部屋の中の空気に少しずつ肌が馴染んでくる。学校のこと、父親のこと、街並みのこと、そして馴れ馴れしかった少年のこと。次々に思念に浮かべて、綺麗さっぱり忘れようとした。
自分は無力だということを樹は常に感じている。意欲的で正義感の強い父親に反発する気持ちがあっても、年端も行かない女の子がそれを否定するのは難しく、仮に納得いかないことがあったとしても、父親に守ってもらえば良いという俗論には勝てない。庇護下に置かれてすくすくと育つのが子供の仕事だと看做されているとおり、梅沢家でも俗な秩序が成立している。
だからといって逸脱行動を取るほど、樹は物事が成就する過程を知らないわけではなく、自らの努力と忍耐によって多くの事物が調うのを肌で知っている。父親が貿易の仕事に携っているからであろうが、勤労が生活を支え、原資を得た後は少しばかり名誉も残ることを、娘として幼い頃から見てきたのだ。
幸福はすぐ側の手の届くところにある。それが当たり前になったことが樹にはこそばゆくなるほどで、無目的に生きる貧者と自分を対置させながら、もっと広く識らなければ、目に見えない世界の果てで大陸が消えてしまうような倒錯感に襲われるのだ。世界は広く、細い足で進んでもたどり着けないほど先で、世界は毎日少しずつ暗闇に浸食されているといったイメージが、少女の意識に根を下ろしている。
追い立てられるように学びに向かうのは、樹が褒められたり、一目置かれたりするからではなく、暗いところが怖いといった抽象的な観念が日常を代表する事物にまで及んでいるからに他ならない。
案外と可愛いところもあるのだが、父親と対立する自分を受け入れられずに、男全般を毛嫌いしているようなところもある。泰斗が軽すぎるように感じたのも、男子には構えていないと落ち着かないという事情による。
それでも五月蝿い男の子が多くなくて良かったと、歳不相応な感想を持っており、やや屈折して陰のある少女であることには変わりはない。そういう女の子に神秘性を感じるのは、同じ年頃の男の子なら別段おかしくもないが、樹は泰斗に不快感を持っていない。変な男の子だなと、ベッドの上で誰に見せもしない苦笑いをした。
泰斗の父親は遺跡の発掘にいよいよ寝食を忘れるほど没頭している。風の強くなった砂漠の外れで、暗くなり始めた発掘現場の保存作業に熱を上げている。砂を掻き分けて兵馬俑を数点発見し、破砕した土器の断片なども出土して、いよいよオアシス都市の実像に迫ろうというのだ。
但し、発掘作業は難航するだろうというのが専らの見方だ。推測に依れば古代都市は砂漠の外輪に沿う形で成立していたと考えられるが、この当時の都市の土木技術では灌漑施設などは期待しえず、自然と砂漠化の波に抗しきれなくなって衰亡したと目されている。悪いことに砂漠化は進行し、都市は残らず砂の下に沈んだと、子孫の言い伝えなどから学説がほとんど争わないまでになっている。
現在のオアシス都市は、山岳の恵みで水利がある程度まで開発されているという事情の下で細々と存続している。それでも砂漠化が止まらない。一説には地球温暖化の影響とも言われるが、定かではないとして生活水準では不便さを被るのを甘受するだけに留まる。砂埃が酷く、水の枯れた井戸もある。生活への影響は忍び寄りつつあるが、為す術もなく翻弄されるがままだ。
鬱屈とした雰囲気に慣れてしまい、環境からの影響などは人々の念頭にはない。ただ生活があり、それに自身等を適合させる過程には疑問を持たない。生きていくのをためらうほどのものがあるのか、考えるだけでも煩わしいという気持ちがあるのである。
遺跡での日雇い作業員など、周辺の人間はその日を暮らすことに執着し、学者の頭にあるような自由で創造的な思索などはなんら役に立たないものとして忘却されている。彼らの従事する作業は淡白で拘りを持たず、唯一の熱意が現場指揮に当たる学者にのみ存するという事情の下では、進捗は命令に合理性があるかとの一点で決まる。
作業は順調であり、発掘物から刷毛で慎重に砂を払う姿などを見ると、有意義な仕事をしているとの実感が生まれるが、喜びを感じるほど誇りを持てる作業員はいない。出土品に傷をつけないように発掘を進めるようにとの指示が出てからは、やや緊張感を持ってシャベルを使っているというくらいの変化がみられるだけだ。
夕暮れになり、現場からの撤収が言い渡されると、道具を手に手に一堂は引き上げてゆく。薄暗くなり始めた一帯に涼しい風が吹きすさび、剽悍な顔つきの男たちがいなくなって、作業現場は静寂に包まれる。一日の終わりである。
冬の一日は短い。泰斗は父親の帰宅を知って階下に降りてきたが、窓の外は真っ暗だった。父親は両手をこすり合わせながら暖房に手をかざしている。母親が食事の準備を進め、いつでも食べられることを報せた。
食卓にはワンタンのスープと鳥の揚げ物、青梗菜のお浸しなどが並んだ。育ち盛りの泰斗は良く食べ、満足そうに息を吐いた。
「泰斗、今度の休みに発掘現場に来てみるか」
食べっぷりを見ていた父親は、箸を休めて聞いた。
「僕なんかが行って、邪魔にならない」
興味がないわけではないが、したり顔で説明をする父親の姿を思い描くと、余計に気を使わせているような気もする。母親がにこにこしながらお茶を入れてくれたので、泰斗は湯飲みを取って口を潤した。
父親は遠慮がちな泰斗に熱心に勧めた。
「僕は是非見てもらいたい。歴史のロマンはただ漫然と暮らしているだけでは分からないからね」
「じゃあ、連れて行って。なんか手伝えることがあればいいけれど」
さらっと言って、泰斗は真っ直ぐに父親を見た。
「歴史を知る。それだけでも来る価値はあるさ」
約束が結ばれ、週末の予定が決まった。
樹の家でも休みの日の使い方が話し合われている。
「学校に着ていく服はあるか。貿易センターで手に入るから休みの日に出かけるか」
樹の父親は食後のひと時に話を持ちかけた。
「派手好きだとか思われたくない。みんなと一緒でいいよ」
樹は乗り気ではないが、父親は熱心である。
「あんまり粗末な恰好をしていても人気は出ない。少しちやほやされるくらいの方がいいんだ」
「私になんか興味ないみたいだよ。色気づくのは早すぎるし」
「まあ、いいじゃないか。私はお前が着飾っているのを見てみたいんだ」
働き尽くめだった頃に比べればゆとりもあり、色んな願望をかなえる時期に来ていると見ていい。父親は娘可愛さを何らかの形で表現したくてしょうがないのだ。ただ、娘としては気持ちを酌んでも、疎ましさが勝ってしまう。
「じゃあ、適当に選ぶから連れて行って」
「顔が利くからたくさん買おうな」
普段陰気で理屈っぽい男が嬉しそうにしている。その不釣合いなほどの愛情に樹は戸惑った。
翌日、登校するとすぐに樹は泰斗に呼び止められた。
「梅沢さん。お早う」
「お早う、桂君」
ぼそっと樹が言うと、泰斗はいきなり質問をした。
「休みの日はどうやって過ごすつもり。こんなところじゃ、友達がいないと退屈だと思うよ」
「そうだね。でも、次の休みは買い物に行くことになっている」
「そうか。僕も遺跡を見物に行くんだ」
得意そうに泰斗は告げ、樹の反応を窺った。
「遺跡」
「古代人の墓だよ」
「そんなものがあるんだね。私ってば知らないことばっかりだから」
樹ははにかんでこの土地の事情を飲み込み、記憶に留めた。確かに街並みは古ぼけているが、歴史の遺物があるようには思っていなかったこともあり、泰斗が新しいことに取組んでいるように感じた。彼になら聞いてもいいかという気になり、樹は尋ねた。
「この辺の子達って元気がないけれど、どんなことして遊ぶの」
「男の子はサッカーをよくやっているけれど、女の子は刺繍とかをしているって言うね」
「そうなんだ。ありがとう、私も仲間に入れてもらえないか聞いてみる」
やや表情を明るくし、小さく手を振って樹は教室に向かった。
放課後に樹は三人組の女の子に囲まれた。樹は椅子に座ったまま彼女たちを見上げる。正面の女の子が話しかけてきた。
「梅沢さん。今日は真っ直ぐ家に帰るの」
「用事はないから、多分より道はしないと思う」
「じゃあ、ちょっと付き合いなさいよ。あなたの話を聞かせて」
「構わないけれど、面白い話はできないから」
あらかじめ断りを入れ、樹はさばさばと話ができるか試した。しつこく粘液質のように絡まれるのなら、さっさと帰るつもりである。
ちょっとばかりぴりぴりした雰囲気を気取って、通りかかった泰斗が話に割って入った。
「なんだよ、新入りいびりか。暇な奴は碌なことをしないな」
「桂君には関係ないじゃない」
話をしていた女の子が気勢を上げて、男子を除け者にすることで仲間と一致した。樹はどちらの顔も立てようと取り繕った。
「桂君。どうせ暇なんだし」
「梅沢さんを苛めるなよ」
泰斗はにやにやしながら釘を刺した。
「そんなことするもんですか」
女の子達は泰斗を相手に向きになっても意味がないので、年上であるかのように澄ました顔をして無言で抗議した。
結局、二時間ほど樹は話をして、話好きな女の子達を満足させた。教師が校舎を巡回し、残っている生徒を帰らせるために声をかけている。女の子達は仲良く返事をすると、帰り支度をしながらまだしゃべり続けている。鞄を手に取った樹が教室の出口に向かうと、一人の女の子が腕を絡めてきた。
「楽しかった。また遊ぼうね」
「うん。また今度」
ようやく打ち解けた樹は、新しい友達と学校を出たところで別れた。
休みの日、泰斗は寝ぼけ眼で朝食を取っている。父親は既にあらかた食べ終わって林檎をかじっている。牛乳を飲み干した泰斗は大きな息を吐いた。
「よし、いつでも出かけられるよ」
「車で二時間かかるから、寝ていけばいい」
「弁当は」
泰斗は母親の方を見やって尋ねた。
「できているわよ。はい、二人分」
「父さん、弁当を持ったよ」
「そうかい。母さん、行ってくるから」
父親はのんびりと立ち上がった。
「はい、お腹空かせて帰っていらっしゃい」
母親に見送られ、泰斗達は車で発掘現場に向かった。
市街地を抜けて、車は砂埃を上げながら西へと走る。道路は砂で斑模様になっており、四輪駆動車で荒地の一本道を走ると壮大な気分になってくる。空は晴天で白い雲が筋長く伸び、冷たい風が細かい塵を巻き上げて車のフロント・ガラスに礫のようにぶつかってくる。そのせいで車の室内にも細かいノイズのようなちりちりとした小さな音がひっきりなしに聴こえる。
うとうととしながら泰斗は時折り目を見開き、風の音を聴き、空と地平線を見た。初めて連れて行ってもらう発掘現場に、彼は目新しい発見があるとも思っておらず、感動するほどの衝撃があるとは期待していないが、父親の言うロマンがどんなものかには興味がある。この寒空を忘れて、遺跡などに夢中になる大人の考えが分からない。
だが、砂地はそんな細かいことを忘れるほど巨大で、人間存在を詰まらないものにしてしまうほど果てしなく続いているのだ。この気象と地勢を条件とするなら、古代人の生活が消滅を迎えたことを実感として得られるのかもしれないと泰斗には思える。ロマンとは、その乏しい可能性に挑戦することなのだろうということも、まだ幼さの残る彼の知性からでも推し量れるのだ。
やがて砂礫の固まった岩肌が露出するところに到着し、車を止めて二人は歩き始めた。
「多分この辺は大きな丘陵地だったと思うんだ。浸食の影響を受けにくい土地として神聖視されていたと考えられる。つまり、偉い人の墓なんかを作るのにはもってこいの場所だったんだ」
父親は泰斗に説明し、息子より長い足でさっさと進む。泰斗は追いつくために小走りになりながら続いた。
「どのくらいが経っているの」
「ざっと見積もって二千年。中央王朝で同じ様式の葬送が行われていた年代がちょうどその頃だから、群雄割拠の時代に融和政策に応じた部族の首長辺りが葬られているはずだ。出土品の科学的測定をすればもっと詳しいことも分かるよ」
「二千年か。凄く昔の話だね。何で都市が砂漠に沈んだの」
感心しながら泰斗は聞いた。彼の感覚では二千年の時の流れを推断するのに、自分の周辺には適当な尺度がない。父親は可愛らしい質問者に親切に応じた。
「燃料や建材にするために樹木の伐採が続けられたんだろう。今のオアシス都市が末裔の住む町だとしたら、人口の増加に耐えられないほど乱獲されていた計算になる」
「今じゃ、岩がごろごろしているだけで、何にもない」
「伝承では、山岳の西側に聖域があると信じられている。聞き取り調査と、砂漠からの工芸品の出土で今回の発見にこぎつけた。今では牧畜もできないし、見る影もないが、必ず都市文化があったという確証を得るために走り回ったんだ」
熱っぽく語る父親の脇で、大人にも夢があるということを泰斗は察した。父親の夢の後先に、遺跡の出土という大事業があるわけだ。話を聞く限りでは、周辺の騎馬民族などが東の王朝に感化されて、見よう見真似で窯業などを覚えたという事実の証左になる発見だが、姻戚関係の証明までは無理ではないかとも思える。それでも否定する気にならないのは、理詰めで考える父親が可能性として検証した上で、ありうる事実だと論を導いているからだ。
大学の客員研究員などをしていても、ごく一部の人間を除いて尊敬もしてくれないし、論文を引用してくれることもない。そんな大人の事情を知らなくても、泰斗は父親が苦労するあまり嘘をつくようになるとは考えない。一途な情熱だけが彼の目に映る世界の大部分であるというべきか、揺らぐことのない愛情を基礎にした物の見方が許される、幸せな時期を送っているのだ。
父と子は荒地を行く。
やがて雑話に興じる作業員たちの姿が見えてきた。現場の指揮をする学者の到着を認めると、彼らは厚い上着を脱いで取り囲んだ。現場に子供がきたことには違和感があっても、口にする者はいない。
「倅だよ。僕の子だ」
父親は脇に立っている子供を紹介した。そのまま続ける。
「昨日の続きから始める。構造物の外郭が分かってきたから、遺跡を想定した区画を中心に慎重に作業を進めてほしい。細かい指示を出すから付いて来てくれ」
シャベルを持って作業員達は無表情に追いかけた。後姿を見送りつつ、泰斗はその場に留まって発掘現場を見渡した。側溝のようなものが掘り起こされており、砂礫を綺麗に取り除けば貴人の墓だと思えないこともない。死後の世界で不自由しないようにと埋葬された兵馬俑は、どうやらこの掘り返された部分から出土したらしいことが分かる。現存するものだけでも相当数に上ることから、作業員への指示は遺物を毀損しないようにとの内容になっており、既に作業に取り掛かっている。彼らは、少し離れたところでいそいそと働き始めた。
学者の仕事は歴史に由来する出土品の発見と鑑定だが、何もせずに報告を待つだけではなく、構造物の全容を明らかにするために、手で砂を払って凹凸を手触りで確かめようとしている。忙しなく動いていたかと思うと、じっと目を凝らし、思案にふける。泰斗から見た父親の背中は玩具を与えられた子供のようで、邪魔をしては悪いようにも思える。
風が若干強い。砂埃が巻き立ち、遺跡の表層を撫でてゆく。シャベルで砂を掻き分ける音が荒野に単調に響き、草ひとつ生えていない砂岩質の地表をいよいよ寂しいものにしている。泰斗はなんら指示を与えられていないので、退屈をしないように遺物の見聞を深めようとしている。
何百人という工夫が鶴嘴をふるって墓を築いたのだろうが、地表にはめぼしい印がないことから見ると、丘陵地一個が神聖墓として崇められていたのだと考えられる。その丘陵も風化し、砂が堆積して地面の下だけは往時のままに保存されているらしい。それを掘り返す作業が途方もない労力だとして、見込みの正しさが証明されて佳境に至っており、一年の月日を費やしたのは無駄とはならず、報われている。
砂埃を吸い込まないように泰斗は立ち尽くめだったが、日が昇ると風が弱くなってきた。ポケットに手を突っ込んだまま胡座を掻くと、作業員たちを見つめた。彼らはシャベルの重量だけで砂に突き立て、軽快に砂を跳ね除けている。そのうちに一人が手を止め、片足を地面について砂を調べだした。声が上がる。
溝の形から玄室の在り処を検証していた父親が駆け寄り、両膝を折って地面に顔を近づけた。彼は喜色を浮かべて砂を払いのける。露出しているのは土偶の一部だった。赤茶けた色がくすんで黄土色になっており、年代物であることが傍目にも分かる。数分間砂を掻き分けていると、兵士の土偶であることが分かった。中央王朝で言うところの、いわゆる兵馬俑である。
すぐに指示を出し、重点作業区画を定め、数日内に棺を発見するのだと檄を飛ばした。その興奮の色調を帯びた声音に泰斗も気分が昂り、父親の仕事ぶりを胸が詰まる思いで見ていた。歴史の遺物にどれだけの価値があるのか俄かには判断できないが、子供にも現場の緊迫感は伝わるし、重要な局面に遭遇すれば感化もされる。
その後破砕した二体の土偶が出土し、いったん昼食のために作業が中断された。弁当を広げながら、泰斗は滅多にできない経験に立ち会っているのを実感した。
「これっていつ発表されるの」
「棺が出土すれば王墓であるかはっきりするんだが、まだ見つからないから確信が持てない」
「王様の墓なの」
「多分ね。しかも、中央王朝の影響を受けているのは間違いない。大発見だよ」
父親はゆで卵を頬張りながら、目尻を緩めた。
体中の血が四肢に行き渡って充満しているような感覚があり、泰斗は少しも体の冷えを感じない。その割に鼻水が出て、ハンカチで何度も拭いた。
昼食を終えると、彼は自分にも何か手伝いができないか思案をめぐらせた。力仕事では大人に適わないし、考古学の知識もない。思うに、出土した土器類の回収くらいならできそうである。
「なんか手伝えるかな。土偶の袋詰めとかをさ」
「どっちかというと、邪魔にならないところでじっくり見物していてくれた方がいいんだけれど」
「じっとしていると、役に立てないかうずうずしてくるんだけれど」
「泰斗くらいの歳なら大人に甘えておけばいいよ」
上手に言って含め、父親はすっくと立ち上がった。
「さあ、仕事だ」
手を後ろから前に振って見せ、作業員たちを促すと、彼らは一斉に立ち上がった。さながら勇姿というべきか、子供から見た大人の男が凛々しく見える瞬間がある。シャベルを手に立ち上がった男達は、細くて役に立ちそうにない泰斗に比べると、いっそう頼もしかった。彼らを率いる父親もなかなか立派に見える。安月給でうだつの上がらない研究員が、希望を見つけたように輝いていた日のことを、泰斗は忘れない。
同じ時刻に樹は郊外の大規模施設、通称貿易センターに来ている。
父親と母親とで連れ立って、外国製の車から降りて予定を話し合っているが、樹は少し離れたところで建物の外観を俯瞰している。鉄筋の構造物らしく、長方形で白い外壁材に囲まれているが、移転等の可能性を考慮して廉価に仕上がっているという印象だ。角ばっていて、申し訳程度に開かれた出入り口から内部の構造を考えると、天井がやたらに高くて、なのに品物がうっ積しているのではないかと樹は思った。
父親と母親が話を切り上げ、ぼんやり背中を向けている娘を呼んだ。振り返った樹はにっこりと笑っている。どうすれば両親が安心するのかを知っているということだ。一行は横一列に並んで貿易センターに入った。
巨大な建物であり、数回の増改築によって品物の数は数百万点とも言われるほどの容量を誇る。父親はこの建造物にありったけの資本を注いで利潤を上げるに至っており、顔が知れたオーナーであるにもかかわらず、鼻にかけることがなく信望は厚い。内部の事情にも精通しており、箱詰めの果実や飲料が山積みになった一角を抜け、生活雑貨のディスプレイがある店子を過ぎって、目的の衣料品の卸し元にたどり着いた。
品物を箱から出して値札をつけている業者に父親が呼びかけた。顔見知りの業者は気さくに答える。
「梅沢さん、ご家族で。何か必要なものがあったら安くしておきますよ」
「娘が着る物を探しているんです。この辺の町の子が着るような服があったら、見繕ってくれないかな」
「お安い御用です。お嬢さん、さあ、こっちにいらっしゃい。気に入ったものを選ぶといい」
手招きをして、商品のひしめく倉庫の奥に誘い、吊るしてある服を引き寄せては元に戻し、二三点を両手に抱えた。
「こんなのはどう。フードつきのコートは今、都会でも流行しているんだよ。こっちはウール百パーセントのピー・コート。赤色が似合えばどんな服も着こなせるんじゃないかな。軽い服がいいのならウインドブレーカーなんかもいいよね」
「ジーンズに合う服が欲しいんです。白色のウインドブレーカーはありませんか」
順繰りに見てから、樹は注文をつけた。
「何でも出てくるよ。ここで手に入らないものはないんだ」
卸売業者は段ボール箱を開いて、中から白いウインドブレーカーを取り出した。
「大人用だから少し体よりも大きいかもしれないけれど、セーターの上からでも羽織れるはずだ。着てみるかい」
手渡された服に手を通すと、ポリエステル製の機能性が発揮されていることが分かる。柔軟で体の動きにも抵抗がなく、断熱性が高い。樹は腕を曲げたり伸ばしたりしながら、顎を引いて全体の形状を眺めた。
「いいみたい。これにします」
脱いで二つに折りたたみ、業者に服を返すと、腕組みをして見ていた父親の元に歩み寄った。
「決めたよ」
「スカートなんかも必要だろう。他の店も見てみよう」
「学校にはあんまり気取ったのは着ていきたくない」
「家で着ればいいんだ。育ち盛りなんだから、着られなくなっても買い換えればいいから」
豪快な買い物をする気でいる父親は、少しでもいいものを着せたいという気持ちがあり、物資の集積地に集まる国産の既製品なら、安い買い物だと思っている。一度も袖を通さないうちに体が大きくなっても、子供の成長にはそれくらいの投資は必要だし、稼ぎからすれば許される範囲の贅沢はしたい。
ただ、樹は目立つのが苦手なので、清潔感を維持する以外には目配りをせず、お洒落を楽しむ習慣がない。スカートをあまり好まない女の子でもあり、父親の方が積極的なくらいだ。一緒にいる母親は、可愛らしい容姿の女の子が着飾れば周りがどういう目で見るか知っており、そういう目に晒されるのにも慣れておくべきだと考えている。スカートを穿かせることに関しては母親も乗り気である。樹はいかにも野暮ったい恰好を好んでするので、変身させたいという願望が投影されているのだ。
スカートが大量に並べられている卸問屋で、樹は渋々ながら赤と黒のチェック地、紺の花柄、ベージュのベルベットの三点を選んだ。どれも膝上三センチのスタンダードなスカートであり、母親が楽しそうに選んだものに相槌を打っているうちに決まったものだ。顎を撫でて父親は唸り、娘の器量がいいことに改めて感じ入った。
同じ要領で下着、靴、帽子、マフラーなどを買い揃え、両手一杯の荷物を抱えた父親はようやく目的を完遂した気になって、充実した吐息を漏らした。
「これで暫くは着る物には困らないな。しかし樹は女の子なんだから、もっと欲張ってもいいのに」
「疲れるだけじゃない。寒かったり暑かったりしなければ、何を着ていても一緒」
「それは違うぞ。着る物はその人の心だ。どう他人を持て成したいか、着る物は嘘をつかないものなんだよ」
母親はもう少し気長な目で樹を見ている。
「化粧をする年頃になれば、自然に洒落っ気も出てきますよ」
「他人に安っぽく見られるのに慣れてしまうのは問題だ。まだ分からない年頃なのかな」
なおも父親は不満そうだが、母親が往なした。
「そのうちにね。ね、樹ちゃん」
目を合わせて反論するのが無駄だと思った樹は、無愛想に口をつぐんだ。
この日、国を震撼させる出来事が起きている。
民族の独立を訴えてきた地域政党が中央政権と衝突し、軍事介入を招いたのだ。独立を理論的に支えてきた知識人、財界人が何人か粛清の刃に倒れ、凄惨を極める革命戦争の火蓋が切って落とされた。
当初、辺境の軍備を甘く見た中央政権は、装甲車で歩兵を輸送して局地戦を展開していたが、ロケット弾などで組織的に抵抗するゲリラの掃討に手こずり、戦車部隊を投入するに至る。市街戦により市民の犠牲が出ることも厭わず、機甲師団が席巻した後には瓦礫の山が築かれた。戦車砲がビルを破壊し、数時間に亘って土埃が舞い続け、耳を劈く砲弾の音が散発的な小銃の音を駆逐していった。
泰斗らが住むオアシス都市には、夕方に号外で第一報が届けられている。遺跡の発掘を終えて帰宅した親子は、狼狽する母親の出迎えによってこの事実を知らされている。樹の家族もレストランで食事を取っている最中に、避難勧告を受けている。身も凍る出来事に、誰もが判断力を奪われ、逃げ遂せることだけを考えて自宅に退避した。
一日中人通りの絶えないマーケットが、この日だけは暗くなる前に人っ子一人いなくなった。マーケットの外れにある泰斗の家では、食料の確保が真剣に話し合われている。
「とにかく雑穀のスープだけでも作れるように、伝を当たってみる」
苦りきった父親は、家族を前に悲愴感を隠そうともしない。戦闘が何日続くのか、市民生活にどこまで影響が出るのか、誰にも分からない状況では、静観する以外に手段がない。武器を取って独立戦争に参加するでもなしに、民族対立を沈静化し、冷静な話し合いを求める声を上げるでもない。
民族の間の経済格差は以前からあったが、巨大な軍事力によって辺境の安定がもたらされている状況では、不満をぶつけようにも、その後の筋道がつかない。勢い宗教的原理主義などが台頭し、武装組織を率いるまでになる。一国としての体裁と、少数民族の自立と誇りという問題は、現代の国際情勢においても深刻な人権侵害が現れる場面として注視が必要だが、大国のエゴに隠れて弾圧は静かに進行することが多い。
それがまさか独立戦争などという大それた手段に訴えるとは、情勢を読んでも暴発の仕組みは解明されないまま事実が風化していくものと思われる。怒りが頂点に達して暴力装置の引き金を引いたのなら、原因と因果があるはずなのだが、不都合な事実のみが隠蔽され、現実には武装民兵の蜂起という形で鎮圧が成されるのみだ。
市街地での大規模戦闘が終結してから、中央政府側の鎮圧作戦が夜半を推して進行している。遥か彼方の地での出来事だが、民族融和の進むこの地域でも戒厳令が敷かれている。泰斗は感覚として大量破壊のイメージが掴みきれないが、大勢の人が死ぬのだと父親が言う意味は分かる。銃弾が人の胸をえぐり、砲撃の音が恐怖を伝播させる現場にいないことをもって、すぐには辺境にまで影響はないだろうと見ているが、静かで底知れない不安が少年の胸にもあった。
一方、樹にも自宅の外に幾重にも重苦しい空気が重なり合って倒れてくるような危機感がある。聡明な分だけ野蛮な戦場には不快感を持っているが、安全な地に居てなお、衣服を剥ぎ取られて鈍器で打たれるような恐怖感が消えない。父親は貿易センターの事務室に詰めて即応体制をとっており、自宅には母親と樹の二人きりである。武装組織が壊走して、空腹と欠乏から略奪をしないとも限らず、自宅は戸締りが徹底されて静まり返っている。
日が昇ると起き出し、日が沈むと床に就く、健康的な生活を送っている少年たちには、眠りの安息が奪われるような過酷な日にこそならなかったが、不恰好な形の輪転機にかかって運命が紡がれるのを喉をからからにして見守るような、日常に打ち込まれる巨大な楔となった事変である。彼らにはそれが悪夢となって寝床に現れるのを拒む力はない。
しかも悪夢は、荒唐無稽な暴力の原始のエネルギーに満ちており、形がないまま日常を犯してくるのである。恐怖に蹂躙され、人は行動の意欲を失い、少年たちは長い夜の寄る辺なさを知る。たったの一夜で、世界と対峙する自覚を求められてしまうのは、自らを誇大に装うことを知らない者には辛いはずだ。
緊迫した夜が明けた。
朝早くから起き出した泰斗は台所で母親とほとんど変わりなく挨拶を交わし、テーブルについて朝食を取った。揚げパンと牛乳だけだが、緊急時には食事も満足に取れないであろう事は想像がつく。この先どうなってしまうのかという疑問が彼にはあるが、文句を言うでもなくただ食べている。
父親が外から戻ってきて、椅子に腰掛けると新聞を開いた。太い字で戦争の勃発を知らせる文言が躍っている。政府系の新聞らしく、書いてあるのは武装組織への非難が中心であるが、戦闘自体は収束しつつあることは文脈から見ても疑いようはない。新聞を持ったまま父親は牛乳を飲んだ。
「どうやら鎮圧されたようだな。この地では僕らは肩身が狭い立場だが、放火や打ち壊しがなかったのは幸いだった」
「学校は授業をするかな」
無邪気な質問を泰斗はした。
「今日は休みなさい。まだ、戒厳令が敷かれているはずだから、先生方も学校に来られないだろう。危ないから家の中にいるべきだ」
「いつになったら家を出られるの」
「安全が確認されて、政府が戒厳令を解除するまでだ。ここは僻地だから、検問に引っ掛かるゲリラが居なければ、明日にでも外出できるようになるだろう」
樹の家はもう少し深刻だ。朝早くの電話に母親が飛びついた。
「あなた、無事なんですか」
「大丈夫だ。仕事場にも混乱はない。今日一日様子を見て、夕方に帰るよ」
「こちらはマーケットにも人が居ないんです。食料は三日持たないかもしれません」
「何とかするよ。貿易センターにある物資を持って帰る」
「お願いします。新しい情報が入ったら連絡をください。声を聞くだけでも気分が替わるから」
「不安なのかい」
「戦争なんかが始まれば、どこも人の親は必死です」
「家のことを宜しく」
電話が切れると、母親は深い溜め息を吐いた。それを見ていた樹は目を逸らし、竃の火を見つめた。細かく火花が散って木炭が赤く燃えている。
「温かいものを食べて、楽しい事を考えましょう」
母親はとうもろこしの粥を器に盛り、樹の前に差し出した。無言で俯いている彼女は、スプーンを取ってひと掬いし、口元に運んだ。そして無愛想な顔つきのまま言う。
「お母さん。戦争を始めた人たちって、みんな死んじゃうの」
「あなたはそんな怖いことを考えなくてもいいのよ」
真に受けずに母親は聞き流した。
戦争はその日の日暮れと共に収束宣言が出された。商売をし損ねた人々が夜のマーケットに溢れ出し、活況を呈した。独立の気運はあるのだが、同じ民族でも辺境まで来ると政府の弾圧等は影が薄くなってくる。勢い、その日の暮らしに情熱を費やすほうが理に適っているのだ。
泰斗は母親とマーケットに買出しに出た。空腹を癒すために鶏を買い、泰斗に持たせて、それとは別に根菜や果実を山ほど買った。人の流れが熱気を孕み、吐息が渦巻いて湿った路地の空気を作っているかのようである。煉瓦で舗装された地面に座り込んで商売をする人々の声と、人の衣服が擦れたり、足元で小石がはじかれた音までもが渾然一体となって雑踏をいっそう騒がしくしている。
戦争があっても民衆は生活を維持するエネルギーを失わないということを、泰斗はマーケットの喧騒から学んだ。生きようとする力は、理屈など関係なく、人を前進させるために肺腑から沸きあがってくるものらしく、歓喜の声を上げるよりもさらに力強く、足腰でどっしりと支えて保つべきもののようだ。通りを行く人々の目的を失った目にも、確実に生き抜こうという意志がある。それらに触発されるうちに、泰斗の中にも強い意識が醸成されていった。
学校が再開されると、子供たちは雲霞のようにどこからともなく湧き出してきた。校舎に円らな瞳がたくさん揃い、彼らが目を大きく見開いて見ようとする世界は紛れもなく眼前に存在し、その世界に適応するために知恵を振り絞る。腹が減って荒んでこそいるが、子供らしい条件反応は営みの中にある。
教師は戦争の惨禍については多くを語らない。
「よりよい国を作り、参加しようという希望が皆さんにありさえすれば、この国はもっといい国になります」
呼びかけは熱狂的なものではなく、地道に、社会の基盤を担う人物を涵養しようという目的意識に支えられている。学校とは本来中立的で、生徒を鼓吹して戦場に追いやる場所ではないが、まさに率先して学び舎の役割を果たそうとする気概があり、泰斗には反骨の精神に勝る意気込みと映った。
動乱を超えて、日常生活は平穏さを取り戻す過程にある。だが、余波は国中に爪あとを残し続けている。泰斗の身の上にも影響が生じたが、それは一本の電話から始まっている。
戦争終結後、一週間経ち、軍部のみならず各部で戦後処理が行われていたのだが、重機で瓦礫の撤収が行われる市街地よりも切迫した空気があったのは、大学だった。別段、大学構内で戦闘があったわけでも、反戦デモがあったわけでもないが、一部の教授が民族独立に理論的根拠を提供したとして解職されるという騒ぎが起きていた。愚にもつかない理由で職を追われる側も悲惨だが、政府の強腰に反論する口先ひとつないのが衰退した学問の府の実情だった。渋い顔で大学を去る教授に、送別会ひとつ催されないという後味の悪いもので、遺恨となって残る事件だが、独立戦争という発端からして超法規の措置を許す目が揃ってしまったという事情の下では、在職の権限を総て行使しても守れないものがあるという古い時代の記憶が甦ってしまったのかもしれない。
電話は大学からだった。
先ず泰斗の父親宛に伝言があり、続いて正式な打診が為された。解職された教授に代わって教壇に立って欲しいという申し出があったのだ。客員研究員という不安定で薄謝の仕事を続けるのは辛いし、願ってもない申し出だったのだが、遺跡の発掘を引き継ぐ人員はおらず、心残りは偉業に名を残すことが適わなかったことだ。
遠く離れた都会の大学に呼び戻され、泰斗の一家は間もなくオアシス都市を離れた。彼らの住んでいた家は別の借り手が入居し、何事も無かったように近所付き合いをしている。目と鼻の先にあったマーケットの喧騒は相変わらずで、生活物資が安く手に入るということで、変わらない賑わいを見せている。
少女が紙袋を抱えてマーケットを歩いている。白色のウインドブレーカーを着て、ジーンズの足を小気味よく運ぶ姿は土地の子供そのものだ。近寄ってよく見れば頬が桜色をしており、器量もいいことが分かるが、なにぶん暗い表情をしている。彼女はマーケットの人波から逃れるように自宅に戻った。
「ただいま」
「樹、すぐご飯にするから手を洗っていらっしゃい」
母親は手を休めずに背中越しに呼びかけた。言われた通りに手を洗い、樹は台所の椅子に座って物思いに耽った。
学校では友達もできて充実している。しかし、軽薄なくらい気安く声をかけてくる男の子が急に居なくなった。泰斗のいた席は空席になっており、一日中誰もそこに座る者はいない。樹は午後の日差しに白く染まる彼の席を見て、早すぎた別れに憂い顔になったのだった。
忙しそうにエプロンを外した母親は、料理を装いながら樹の顔をちらちらと見ている。
「樹ちゃん。美味しいものは美味しくいただきましょうね」
「うん」
上の空で樹は答えた。
六年後。樹の背丈は随分と伸び、同い年の女の子と比べてもかなり高い部類に入る。肩の長さで切りそろえたショート・カットの毛先が、皮のジャケットの上でさらさらと流れ、よく手入れされていることを物語っている。細い足はタイト・スカートとブーツでいっそう長く見えるが、一見大人しいように気分良く運ばれる歩調は勇ましさまでも感じさせる。
どこから見ても都会っ子だが、樹は西部の出身である。大学には寮から通っているが、男子学生には彼女に取り入るために涙ぐましい努力をする者もいる。例えば寮の前で待ち伏せて贈り物をしたり、同じ講座を取って隣に座る機会を窺ったり、彼女がそれと気付いただけでも数人居る。
だが、男嫌いかと揶揄されるほど素っ気なく、せめて罵られるくらい熱心な男が現れない限り振り向かないだろうと友人の女の子達は話している。樹にしてみれば、近くに擦り寄ってきて好意があると認められることに冒険と呼べるだけの情熱があるのか、大抵の男ははっきりさせないままにしておきたがるので、その一線を軽々と越えてくるくらい野蛮な男の方が異性としては有望だと思っている。
もっとも、いまどき野生の馬を乗りこなすようなワイルドな男などいない。安全であっても、興奮だけはしたい飼いならされた家畜のような惨めな恋心を、好きな異性に見せても平気なのかと樹は憤るくらいで、彼女には人を思う心は生命の根幹に関わるところから滲み出てこなければ伝わらない。雄叫びを上げて身を震わすほどの激情がないことには、乾いた心に訴えかけるものはないのである。
切実に、心から異性を必要とする男が泣いて縋るのを見たいわけではないが、最近の男性諸氏はひ弱になった感じがする。殺伐としたオアシス都市で思春期を過ごしただけあって、樹は求め合う以前に、どれほどの意志が原動力になっているのか見極めようとする。砂漠地帯で気持ちが枯渇するということは、生命を維持する手段を放棄するに等しいことで、少年たちが苛酷な環境に適応するために秘めた意志の力を蓄えながら育っていることは、一緒に成長した少女なら分かることだ。
恋をするほど力が有り余っているのに、なよなよとして自分で戸惑ってしまっているのが滑稽で、樹は親しげに口を利いても惚れこむのは無理だ。都会の子はもっと洗練されていて、巧みに相手の気持ちを探り当てるテクニシャン揃いかと思いきや、拍子抜けするほど朴訥で、大人びた顔つきにはそぐわないほど不器用なのだ。
高望みをしていなくても、見詰め合って二言三言交わしただけで気まずくなってしまうような、どうもすっきりしない関係がいくつかあるだけで、これはと思える出会いはない。樹は明らかに交際を望んでいると思われる相手に、取り繕うような優しさが必要かどうか迷っているが、接触自体は拒むほどのことではなく、漫然と日常会話をしているうちに馴染んでくるのが都会の男女なのかと、あれこれ考えもする。
単純に充実した時間を過ごしたいだけなら、友人たちと戯れているだけでも楽しいし、勉学に励む時間もそれなりに有意義だ。ただし、それだけでは道楽のひとつも嗜まずに無為に過ごすのがもったいなく思え、型破りの面白さは分からない。男に提供してもらうのではなく、血潮が沸き立つ瞬間に立ち会うためには自らが行動を起こすのだと、日頃から樹は退屈だけはしないようにと気を配っている。
そんな彼女だが、都会の目新しさにも飽きてきて、洒落たカフェのある通りを歩くのにも脇目を振らなくなった。通りは真っ直ぐに大学構内に向かっており、いわゆる
懐かしい気持ちがする相貌だ。むっつりと口元を引き締めたまま、樹は三秒間だけ視線を絡めた。そのままただの通りすがりの人になりきり、男とは何の関係も期待しなかったが、印象だけは胸のうちで温めるほど強く残った。
人が多いだけあって、個性的な人も居るには居るのだと、なにやら嬉しくなりながら樹は学校の門をくぐった。無論、行きずりの男に目を奪われたなどと話すはずもなく、この一件は彼女の記憶にのみ留まった。
ところで、樹の入っている寮は学校に隣接しており、食事の世話から学習のガイダンスまで何でも受け付ける便利な施設だ。授業が終われば仲間と懇話するために、何はともあれ寮に帰るという行動様式が一般的なのも、入寮者相互の信頼が成立しているからだ。厳しい倍率の入学試験を通過儀礼として、肩を並べるに値する優秀な学生が集まってくるので、切磋琢磨による知識水準の底上げが期待できるのも、主に互いを見る目が常に真剣味を帯びているからである。
学校から戻った樹は、仲間たちと食堂で談笑し、ホールにがやがやと話し声をこだまさせている。食事を取り、詰まらない話もし、一日の終わりを締めくくるのに必要な充足感を友と共有しようとする。ごく普通の学生生活だが、ここで満足すべきだというような目安は存在せず、総て自分の責任で、自立のための猶予期間として大学に在籍する意欲的な同輩に、気分的には揉まれている感じだ。
取り敢えず一日が終わってしまうと、遠地で暮らす両親のことや、古い友人たちの日常には滅多に思念が届かず、疲れて深い眠りに落ちることが多い。後ろめたさを樹が感じるのは、大して苦労した記憶もないのに前途洋々として道が開かれていることだ。著名大学だけあってあらゆる面で引き合いは強い。優秀な人は星の数ほど居るし、その中から自分の比較の対象に上がる人物がいても、非力に打ちのめされるほど挫折を味わうことはなさそうだ。
何かに夢中になったり、大掛かりな将来展望を持ったりしても、女にはどこかしら限界を許容しているところがある。女は家庭を持って子供を育てるのが一番の幸せだというような風俗が、安全網として眼下に広がっていれば、目の眩むような高台に上ろうとする女子が居ても、分不相応だからと止めるにはよほどの覚悟が要るものだ。
普通は挫折する前に能力の限界に足を引っ張られるのだが、樹の伸び盛りの知性はまだ二段目、三段目の補助ロケットを連結しているように推進力に富んでいる。痛快なほど知力が肥えてくるのを彼女は疾走感と共に自覚しつつあるのである。
こういうときは強気一辺倒で負の連想などはしないものだが、有頂天になるほど浅はかでもないので、心を静めて恥ずかしくない行動を取ろうと努めてはいる。元来、樹は自己欺瞞を嫌う性分で、燃えるような情念を抱えていても冷静に自省することを忘れない。能力を発揮する機会があれば、進んで身を投じるのが今どきの女性の気質であり、彼女もためらいがちながら生き方を選ぶのにどこまで負荷に耐えられるか、真剣に考えている。若干、その真摯さが周辺の男子と上手くかみ合わず、浮いているような印象を与えるが、男を追い掛け回すような破廉恥さがないだけでも、樹に人気がある理由は納得がいく。
翌朝、学校に出かけようとすると、寮の前で例によって男子が待ち構えていた。入学以来親しくしているのだが、恋人気取りをしたがるので最近は煙たがられている。
「おはよう」
「おはよう。また待っていたの」
樹は苦笑して男を見た。男は白い歯を覗かせて爽やかな笑顔を作った。
「寮っていうのは規則ばかりで息が詰まらないかい」
「故郷を離れて勉強しに来ている人には頼もしいけれど」
「一緒に夜遊びもできないんじゃ、物足りないよ」
ふてて見せると、なかなか愛嬌があって憎めない。敢えて機嫌を損ねるようなことも言い出しにくく、樹は宥めた。
「寮にも親睦のパーティーがあるから、こちらに参加してみてはどう」
「そうだね。でもなんか違うんだよな」
「なにが」
「二人っきりになりたいんだ」
「今も二人っきりよ」
にっこりと樹は微笑んだ。男はがっくりとうな垂れて抗議しようとした。
しかし、この日に樹を待ち伏せしていたのは彼だけではなかった。もう一人、背の高い青年が樹を見つめている。目が合うと、人懐っこく口角を引き上げた。
「誰、樹の知り合い」
先に樹と話していた男は水を差された気分だ。
「さあ、初めて会うけれど」
背の高い青年は樹に歩み寄り、顎を突き出してまじまじと見た。
「やっぱり梅沢さんだ」
「あなた、誰」
怪訝そうな顔をする樹と、間近で見つめあう形になった。役に立たなくなった神経回路に電流が走るような感覚がある。樹の記憶が結合し、喉元まで名前が出掛かっている。
「桂、君」
「桂泰斗だよ」
「桂君、何で」
目を丸くして笑顔を咲かせ、無愛想な泰斗とはまったく波長が違うのも構わずに樹は喜んだ。女心の不可解さというべきだが、次には泰斗を詰っている。
「何の音沙汰もなかったのに、いきなり現れるなんてどういうつもり」
「ご免。僕も連絡先を知らなかったし、そんなに親しくもなかったでしょう」
「誰も桂君がどうなったのか知らなかったのよ」
眉をひそめて往時を偲び、泰斗の粗放さを責めた。
「急だったからね。まるで夜逃げみたいに引っ越してきた」
「今はこちらに」
「家族と暮らしているよ」
樹は手を背中側で結び、髭の薄い泰斗の若々しい相貌を慈しむように見た。
「背、高くなったね」
「君だって。最初に見たときは確信が持てなかった。コーヒーを飲んでいた時に見かけたんだ」
記憶をたどればガラス越しに対面している。しかし、たったのあれだけで察しをつけるのもかなり思い切ったことをしたようだ。
「大した行動力ね。見つけ出そうなんて思うかな」
「身近に居るのに、知らん顔はできないでしょう」
少し気まずそうに泰斗は視線を逸らした。樹は穿った聞き方をする。
「何か用事があったんじゃないの」
「いや、今日は確かめに来ただけだ。彼氏に悪いからもう行くよ」
「用事があるときは、寮で伝言を預かってくれるから」
立ち去ろうとする泰斗に、樹は寛容な態度で臨んだ。泰斗は鼻先で頷いてから背中を向けた。
泰斗に声が聞こえない程度離れてから、朝から待っていた男は溜め息をついた。
「仲、いいんだな」
「そう見える。昔の知り合いよ」
喜色を帯びている通り、樹は晴れ晴れとした気分でいる。男はやっかむように言った。
「厭味がなくて、腹が立つくらいだ」
「だからといって、あなたが変わる必要はないんじゃないの」
「まあ、そうなんだけれどさ」
不承不承納得しようとする男は、斜めに樹を見遣って、もう一度溜め息をついた。
その後暫く、泰斗からの連絡は来なかった。彼の存在だけがまとわり付いてくるような苛立ちを覚えた樹は、次に会ったらあの無精者の連絡先を聞き出さなければいけないと、胸に誓って待ち構えるような体勢を取った。
年末が近くなって恒例の寮のパーティーの準備が進んでいる。会場となる食堂ホールの飾り付けを手伝っている樹は、同級生の仲間たちと雑話に興じている。飾りつけは八分方できあがって、照明を反射してきらきらしている。仲間の一人が体を寄せて樹に耳打ちをした。
「あんたも隅に置けないね。あんないい男を捕まえていたなんて」
「いい男ね。どこから湧いて出たの」
樹はせせら笑って取り合おうとしない。
「寮の事務室に来ていたわよ。今日はパーティーだって言ったら、伝言だけ置いて帰っちゃったけれど」
伝言と聞いて、樹は俄かに顔を曇らせた。
「背の高い男だった」
「うん。綺麗な顔をした男だったな」
「ちょっと事務室に行ってくる」
樹は飾りつけの手を休めて、群がって作業に没頭している女子学生の間をすり抜けて廊下に消えた。
忙しいときに会いに来たものだなと、舌打ちしたくなる気分を抑え、樹は事務室のドアを開いて中に入った。
「梅沢宛に伝言があるそうですが」
「梅沢さん。ええ、確かに若い男の方が言付けていかれましたよ」
事務員から便箋を手渡された樹は、厳しい目つきでそれを読んだ。午後三時に会いに来るとだけ書かれている。神妙な顔をして便箋を折りたたみ、頭の中では午後三時に何を話すことになるのか、思念が届かないか奮闘している。すぐに微笑を伴って諦めると、樹はその表情のまま食堂ホールに戻っていった。
パーティーの会場には参加者の三分の一ほどが既に集まって、お菓子を食べたりしている。樹も混ざっていたが、時計の針が三時に近づくと、寮を抜け出して門の前に立った。風は吹かないが冷え込む午後で、セーターを着ていても身震いをする。左手で右手の甲を擦っているうちに足が震え始め、門の側でしゃがみこんで両手に息を吹きかけた。
白い息が目の前で広がる。樹はぼうっと思案に暮れることの多かった少女時代を思い出していた。何が気に入らないというわけでもなく、ただ頭の中に自分が存在した軌跡だけでも残そうとする時間。誰にも迷惑をかけず、そして誰の役にも立たない自分ひとりのためだけの思惟。思い切り良く踏み出していくためだけに足元を見続けた時間に連続し、今の日々がある。
何度目かの呼吸を整えていると、スニーカーを履いた青年が側で立ち止まった。顔を上げた樹は彼の顔を見た。
「桂君」
「外で待っていてくれたんだ」
「寮は今、女だらけだから」
「ああ、なるほどね。パーティーだっけ」
「中に入る。それともどこかに足を運んでみる」
「うちに来ないか。母さんが会いたいと言っている」
「桂君のお母さんが」
立ち上がりながら疑問を口にし、不安げに樹は上目遣いの目線になった。背の高い泰斗とはそれでようやく釣り合いが取れる。泰斗は照れくさそうに理由を話した。
「母さんに話したら、是非連れてきなさいって聞かないんだ」
「興味があるっていうことかな」
「ごく親しいというわけでもないと言ったんだけれどね」
「行きましょうか。ここで話しているのもなんだし」
二人は並んで歩き始めた。言葉は交わされず、黙々と歩き続ける。やや緊張した面持ちの泰斗を見るにつけ、樹は恋人を紹介する心境を推して測らずにはいられない。ぶっきら棒にしている割には繊細さもあるものだと、無性におかしくなる。
三十分ほど歩いて、とあるアパートにたどり着いた。
「狭いところだけれど、上がっていってよ」
泰斗は扉を開いて、樹を招き寄せた。
部屋の中は物が少なく、さっぱりとした印象を与える。あまりじろじろ見るのも失礼なので、樹はゆっくりと居間まで足を止めずに入った。テレビやソファーがあり、気持ちの良さそうなクッションが三つ並んでいる。その端にやや大柄な女性が腰を据えている。
「梅沢さんね。初めまして、でいいのかしら」
「はい、初めまして」
樹は泰斗の母親に挨拶をした。
「座って、梅沢さん。今、お茶を入れますから」
勧められるままクッションにもたれかかると、改めて部屋の中を見渡した。傍らに座った泰斗は片膝に両手を宛がって伸びをする。
「鬱陶しいと思ったら僕に合図を送ってよ」
「問題ないと思うけれど」
何を聞かれるのか想像してみるが、初対面の中年女性が好奇心をむき出しにしたりすると気圧されそうだ。もっとも、物腰はそういった女性像とはほど遠い。男性的ではきはきとしゃべる気前のいい女性だ。彼女はお茶を注いで戻ると、カップをロー・テーブルに置いた。
「お母さんとそっくりになってきたわね」
「母をご存知なんですか」
思わず樹は聞いた。驚きを含んだ問いかけになった。
「あなたとは幼い頃に何度か会った事があるのよ。三つの頃だから憶えていないでしょうね」
「そうですね。おばさんのことは記憶にありません」
申し訳なさそうに断りを入れ、桂夫人の話の腰を折ってしまったかと恐縮している。
「泰斗は覚えていたのよ。あなたのお母さんにすっかり懐いちゃっていたから、母親の顔を覚えるくらいに鮮明に記憶していたみたい」
「面影だけは忘れようがなかったのが本当のところだよ。綺麗な人だったから」
泰斗は白い歯をこぼして笑んだ。その様子を脇目に見て、樹は少し打ち解けた雰囲気になった。
「西域で行き違いになったときには、もうご存知だったんですか」
「いいえ。友達にお別れをしてきたかって聞いたら、梅沢さんには何も言ってこなかったって。名前が出たのはそれが初めてよ。こちらに着いてから、私は知りました」
夫人は何の頓着もないといった潔い話しっぷりだ。泰斗が調子を合わせて話を引き継ぐ。
「君の事を初めて見た気がしなかったのも、幼い頃に見たお母さんの印象が強かったせいだと思う。因果で繋がっていたらしいね。母さんがどうしても会ってみたいという根拠も、その辺にあるみたいだ」
再び夫人が曖昧になっている点を補って聞かせる。
「あなたみたいな綺麗な子が知り合いで、泰斗も鼻が高いのよ。浮かれているから何かと思えば、偶然にしてはできすぎているって、ぺらぺら喋ってくれたわ」
「ご覧になれば、そんな大層なものではないでしょう。けど、母とお知り合いだったということは、比べられているんでしょうね」
「服も食べ物もなかった頃でも、あなたのお母さんは上等の女でしたよ。少し儚げに見えるのがまた庇護欲を刺激して、男が放っておくはずがなかった。今のあなたのようにね」
茶目っ気を出して、迂遠な褒め方をしたが、夫人は何ひとつ嘘は言っていない。事実をありのままに告白しているのであって、この人が虚飾を嫌う性格がにじみ出ている。聞いていた泰斗は、にやにやしながら樹の風貌を眺めつくした。
「確かに人気はあるようだよ。ボーイフレンドを寮の前に待たせていた」
「そんなんじゃないわよ。彼はただの友達です」
「持てるんだろう」
「それは、まあ、否定はしないけれど」
口ごもる樹を見て、泰斗は母親と一緒に笑った。
寮まで送るために、泰斗は帰り道に随伴している。気が抜けたように歩く樹とは、大股で歩くとちょうど横に並ぶ。歳の離れた相手と話して樹は少し疲れていたが、歩みはしっかりしている。暫し無言で歩いた後、昔のことを泰斗は尋ねた。
「反乱の後、辺境は騒がしかったかい」
「子供の世界は相変わらずだったけれど、大人達はスパイ探しでぎすぎすしていたわよ」
「こちらも更迭騒ぎがあって、緘口令が敷かれていた。悲しいことに、体質自体はなんら変わっていないんだ」
真顔で国政批判する泰斗を見て、樹は年月の流れを感じた。ためらった後、自分の身辺に起こったことを話した。
「お父さんがね、資金の出所を疑われて調べられたんだけれど、役人は賄賂であっけなく引き下がったというから、規律なんてあったのか怪しいものだと思う。彼らの理屈が国を守っているのかと思うと、寒々しくなっちゃう」
「金持ちは国策との合致とやらで特赦されたそうだ。そういう時代なんだよな」
歯痒そうに唇をたわめ、目を細めた泰斗はそれ以上は拘らなかった。再びまっさらで灰汁抜きしたような顔つきになり、樹に微笑みかけた。
「でも、後進がそういう時代に迎合するとは限らない。不都合な事実を隠蔽するだけでは、人の生き方までは変えられないんだ」
「反発しているんだ。そういうふうには見えなかったけれど」
何らかの義侠心がそうさせているのだと見ているのだが、泰斗はあっさり否定した。
「反発というか、納得していないというだけでね。考えてみれば、僕もまったくの無関係ではいられないのだし」
「危ないことはしない方がいいんじゃない」
「しないよ。ただ、信念を持っている人には、それなりの待遇が必要になると思う。鬱々と過ごすしかないとしたら不幸なことだからね」
重い話題になって、泰斗は必ずしも楽しそうには見えない。楽しく嬉しいだけが人生の喜びではないが、樹には泰斗のことをよく知らないという負い目があり、どこまで付き合えるか自信がない。
「優しいばかりでも、人の力にはなれないことって多いよ」
「志を高く持つべきなんだろう」
「強いのね。でもさ、一人の力には限界があるから」
「分かっている。梅沢さんとはこういう話もできるんだって、ちょっと驚いている」
意気を通じ合って見つめあうと、二人はまた無言で歩いた。
寮の近くまで来て、樹は立ち止まって向き直った。
「送ってくれてありがとう。もう一人で帰られる」
「付き合せて悪かったね。そのうち、また会おう」
「忘れないうちに誘わせていただきます」
面食らったような顔をした泰斗の視線を思い切り良く振り切って、樹は足を踏み出した。薄暗がりの中で、真意を確かめる術を失った泰斗は、早々に諦めて家路に就いた。
寮の中では年末パーティーが行われている。嬌声が飛び交い、女同士で異性関係を暴露しあったりと、大騒ぎだ。樹が冷えた体を抱えながら食堂ホールに入ると、目ざとく見つけた仲間が黄色い声を飛ばす。
「お帰り、樹。見慣れない男だったけれど、どこまで許した」
「何もないってば。私がそんな軽い女に見える」
樹はけたけた笑う仲間たちに歩み寄り、側のテーブルにあったジンジャーエールを手にとって喉を潤した。
「でも、やっぱり寮は居心地がいいね」
にかっと頭の悪い女のように笑うと、樹も羽目を外して夜中まで騒いだ。
夜が明けた。不確かな記憶をたどって、昨日のパーティーの盛況を思い出すと、樹は思わず苦笑した。鏡台の前に座って、髪の毛に櫛を入れながらにこにこしている自分の姿を見ていると、悩みも何もない平和すぎる日常が毒のように体を蝕みはしないかと不安になる。一般には怠惰は体の切れも張りも奪うが、まさに紙一重という感じがしないでもない。
着替えて食堂に向かうと、廊下で幾人もと顔を合わせ、なんとなく挨拶を交わした。あれだけ騒いでも規則正しい生活にはなんら影響せず、眠そうな顔をしていても自室から出てくるのだから、寮生活の浸透は大したものである。大掛かりに誘導する仕掛けでもあるかのように、食堂には続々と人が吐き出されるように集まってきた。
まだ飾りつけが残っている食堂で、一同は雑談をしながら食事をするのか、食事をしながら雑談するのか、決めかねるというふうに余韻を味わっている。脳天まで突き抜けるほど痛快な会話を楽しんだだけあって、ほとぼりが覚めやらぬという気持ちは樹にも分かる。規則に縛られた生活を苦痛だとは思わないが、羽目を外すのには爽快感があるのだった。
ごく平凡な日常を過ごす樹にとって、泰斗は非日常の使者というべきであり、騒いだ後でも存在が色濃く滲むような主張の明確さがある。気になる異性というより、無二の親友になれるような親しみが優先されているが、関係が深まる予感だけは力強く意識の中に留まっている。
付き合い方を考えるべきかと、少し生真面目に振り返ってみると、樹は体が熱くなってくるのに困惑した。しかし、その程度の女だと思われたら、赤っ恥どころでは済まないなと思い直す。女の毒気に当てられるような男ではないだけに、泰斗の歓心を買うのは難しく、深みに嵌るように体を任せる事態を思い描いてしまう。
朝からこんなことを考えていたら堕落してしまいそうなので、食事を急ぐと、外の空気に辺りに寮を出た。休暇中ということもあって、さすがに待ち伏せる男子の姿はない。暖気から逃れて神経を呼び覚ますために、早足で裸の街路樹の下を通り過ぎる。段々と女の性から逃れて、自由で透徹した理知の境界線を跨ぐ。
鼻歌交じりに歩きながら、樹は冷静で可愛げのない女に戻りつつある。そこが本来の自分が価値ある存在として認められるための地平なのだと、流動的だった気持ちを、脳裏で品性を伴って安定した形状にまとめ上げる。蝋が溶け出して器に充ちるように、静かに、しかし確実に自負として心を構成し始める。満ち足りるために必要なものを既に持っていることに、樹は満足と安堵を感じ、自己革命を起こすような激しい情念の炎は、朝の冷えた空気の中には存在しなかった。
夜が明け、新年が来たが、寮は静まり返っている。朝の五時という時間に、話し相手が見つかるはずもなく、暗い部屋の中で新年を迎えるに当たって必要な気構えを形作る。樹はいったんは帰郷しようと思っていたのだが、泰斗と会ったことでどんな顔をして帰ったらいいのか分からなくなり、電話だけでもしようと考えている。
窓の外を見ると真っ暗で、不適切な時間帯に起き出して活動しているような気がしてくる。時間が長いと感じる一方で、急きたてられるような行動の意欲があり、その狭間で秒針を見つめるほど時間の経過に神経質になった。
起きてから半日ほども経っているかのごとく、樹は疲れた顔で寮の事務室に来た。朝七時である。寮の警備員が事務室の開錠をしているところだった。挨拶をして備え付けの電話の前に立つと、故郷のナンバーをダイアルした。電話には母親が出た。
「おはよう。樹です」
「新年おめでとう。帰ってこれば良かったのに」
「なんか、ばたばたしていて」
「そう。お父さんも心配していたわよ。ちゃんと食べている」
「うん。元気は元気なんだけれど、時々迷ったりしている」
「女の子は喋れなくても、気立てさえ良ければいいのよ。あまり深く考え込まないで、楽しいことに打ち込んで御覧なさい」
「楽しいことね。最近ないなあ。ところでさ、桂っていう人が知り合いにいない」
「桂さん、そうねえ、ええいるわね。昔付き合いのあったご家族が桂さんというけれど」
「息子の泰斗君とお母さんに会ったわよ」
「まあ。都会には不思議な縁があるのね。小さな坊やがどう育ったのかしら」
「背の高い、ちょっと見当たらないくらいいい男になっている。それだけの年月が流れているっていうこと」
「あなたのお相手になりそうね。恰好いいんでしょう」
「そういう目で見ていたら気持ち悪がられるってば。最近は自然体じゃないと成就しないの」
「頑張ってね、樹ちゃん」
「うん。ありがとう」
「お父さんが電話口を気にかけているから替わるね」
電話は父親に受け継がれた。
「樹、帰って来られないくらい忙しいのか」
「そういうわけじゃないけれど、こっちにいれば何も困らないから、遠路電車に揺られて帰るっていうのもね」
「困ったことがあったらすぐに連絡するんだよ」
「分かった。仕事は順調なの」
「周辺国からの引き合いが強い。まだまだ業績は伸びるはずだ」
「あんまり無理しないでね。ただでさえ政情不安で睨まれやすいんだから」
「政府に阿って仕事をしているわけじゃないよ」
「辺境って、まだ武装組織が活動しているんでしょう」
「最近はとんと聞かないね。対話路線に転じたという話もないみたいだが」
「とにかく、気前よく寄付をして、良からぬ相手への援助を噂されるような馬鹿な話は聞きたくありませんから」
「なるほど。そういう可能性もあるわけだ。だが、地域密着でやっているとしがらみも多いし、全部渋っていたら評判が落ちてしまう。最後は真心だな」
「付け込まれないようにね」
「お前こそ、詰まらない男に引っ掛かるなよ」
「じゃあね、また電話する」
「ああ、元気でな」
電話を切った樹は、深く息を吸って体に精気を行き渡らせた。寮の事務員が出勤してきて挨拶をする。食堂の方から話し声がぽつぽつと聞こえている。背筋を伸ばして颯爽とその場を離れ、樹は朝方の習慣に従った。
アパートの一室で、泰斗は食事を取っている。正面に座っている父親は黒く艶々した髪の毛が寝癖で乱れているが、食べる手はきびきびしている。会話はないが、ごく日常的な和やかな食卓の風景である。
父親は乱れていた胸元に注意を回し、外れていたシャツのボタンをはめながら聞いた。
「趙先生に新年の挨拶に伺うが、泰斗も一緒に来るか」
「どうせ僕も行くんだから、まとめての方が先方も手間がかからないんじゃないの」
「食事が終わったら出かける用意をしてくれ。母さん、手土産は用意してくれているな」
母親は席を立って、棚から包みを取り出した。
「お菓子を買っておきましたから、先生に召し上がっていただいてください」
「久しぶりにお目にかかるが、あの方は変わっていらっしゃらないだろうな」
やや楽しそうに父親が思いを口にすると、日頃から出入りしている泰斗は感想を言った。
「相変わらずの反骨の人だよ」
「反骨か。そうだな。先生は挫折する時間さえも惜しんでいるからな」
「政治に翻弄される生涯を否定したい、という気持ちが趙先生の信念にある限り、業績も朽ちないだろうね」
泰斗は我がことのように自慢げに言った。趙は意志の力に充ちた瞳をしており、舌鋒もそれに比例するように鋭い。青年が感化されるには十分な理由があるのである。しかしながら物腰は品がよく、不遇を託っていなければ辛辣な物言いは不要ではないかと思われるほどだ。最近は人に不満を漏らすよりも、業績を更新するために執筆に傾注している。
大方の事情を知っている泰斗は、雑用を請合うつもりで顔を出しているが、知識が豊富で機転の利いた話をする趙を慕って、つい長居をすることもある。今回の新年の挨拶は、文字通りお邪魔をするという形になるだろう。
食事を終えて、上着を羽織った父親が泰斗に呼びかけた。
「そろそろ行こうか」
「バスの時間は平常どおりかな」
「急ぎではないから、待てばいいさ」
小脇にお菓子の包みを抱えた父親と、マフラーを巻きつつ泰斗は悠々と自宅を出た。空は灰色をしており、雪が降ってきそうな気配である。辺りは静まり返っており、歩く音が二つ混ざり合っている。爪先を放り出すように進む泰斗には、趙の家までの行程はそう遠いものでもない。ぶらりと出かけていって、本を借りてきたりするのに適した距離である。
二人はバスに乗り、暫く揺られているうちに郊外に出た。趙はこの辺りの大地主で、アパートを幾つも持っている。自宅はその敷地の一角に豪勢な門を構えている。バスを降りて歩くこと十分、南側に面した門前に出た。通用口の横にインターフォンが着いているので、泰斗は慣れた調子で訪問を告げた。
前開きの着物で寛いでいた趙は、感動がないふうでもなかったが、平板な顔つきで桂親子を迎え入れた。座敷に案内して茶を振る舞い、背筋を張って対面した。
「桂先生、今年も一年、宜しくお付き合いください」
「趙先生こそお体を労わって、息の長い活動をしていただきたい」
穏和で伸びやかな声が発せられる。
「私なんぞは隠居の身ですからね。世間様のお役には立てますまい」
桂氏とにこやかに挨拶を交わし、趙は思案顔になって聞いた。
「西域の研究は仕上がりそうですか。発表の時期にも鮮度というものがあるんですよ」
「そうですね。あと三ヶ月もあれば新説を唱えることができそうです」
自信の裏打ちがある桂氏は、しかしながら学識のみを誇ることはない。謙虚に、学問の徒であることを重々自覚しているからこそ、多くの先人の実績無しには成果を誇れないのだ。実のところ大学の教職は、趙の解職によって転がり込んできた地位であって、序列を考えれば趙ほどの英才が燻っている理由はないのであるが、不条理を受け入れた先にしか未来がないという暗たんたる現実を凝視し続けるわけにもいかないのだった。
趙こそ、先の独立戦争で民族の自立を擁護した弁士である。大学の教師でありながら、過激な民族独立運動に指針を与えたことが仇となり、まだ若く余力を残しているにもかかわらず、教職を解かれたのだった。趙への気配りはかなり繊細さを必要としているが、桂親子は当然の配慮と敬意は具備しており、良好な誼を結ぶに至っているのだが、未だに政治の話がしにくいのは否めない。
民族のルーツと政治権力の複合線に触れるのが危険な時期はしばしばあり、偶然に趙の学説が武装集団の教義に引用されていたとしても、人々が熱狂していなければ熱病のようなものとして忌み嫌われることもなかったであろう。こうした一時的な病的心理の犯人探しを始めると、為政者というのは事態収拾のためなら自身も冷静さを失ってしまうものらしい。経緯と原因からして不当な解職である事は疑いようがないが、趙は恋々と地位に固執することがなく、正当な理由のない解雇だと訴えることさえなかった。戦地で人が死に、幕引きを図りたい怒り肩の役人たちの形相に人間の醜さを見たからだとか、学問の府に土足で踏み込んだ小役人に抗議するためだったとか言われている。
教職に就き、後進の指導に情熱を持って当たれる桂氏は必ずしも納得してはいなかった。何度か趙の元を訪れ、せめて復職の道筋だけでも残すべきだと説得に当たったが、未練があればしがみついているよと笑って往なされた。懇意な付き合いはその頃から始まっている。
六年である。その間、泰斗も趙の家を訪れるようになっている。どんどん背が伸びる泰斗を見て、竹の子のようだなと嬉しそうにする男が怨恨を持つ人間には到底見えないだろう。実際、趙は泰斗を息子のように可愛がる一方で、執筆にも情熱を持っていたが、それは鬼気迫るといった表情を持つものではなかった。代償を得て穏和になる人は数多いが、彼は好事家として生きることを選んだだけで、自分の人生が犠牲になったことを誰のせいにもしなかったのである。
桂親子が敬意を持っているというのは、趙の人間としての品性と生き方についてであり、学問がなくても結果は変わらない。各地の発掘報告を取り寄せては考古学的推断を下す仕事ぶりも、豪胆とさえ映る。職を失ってなお知識欲が衰えないというのも、俗世離れした超人振りを窺わせるに足る。
能力が枯渇するまで研究に勤しみ、およそ学究者らしく、生涯を賭して取組むべき研究さえあれば寂しさを感じる暇などないのだろう。趙の生活姿勢は禁欲的で嗜好品さえも口にせず、同僚から人生を楽しんでいないと憐れまれるほどだったが、今となっては素朴な暮らし向きはむしろ知的能力の低下を回避するために必要だと看做されている。
無常な時の流れと見るか、充実した余生と見るか、様々な観点から判断できるはずだが、ひとつ変わらないのは、趙は欲求の希薄さゆえに一事に専心しているという事実だ。欲まみれで、他人に負担をかける生き方を望み、現実を歪めながら固執する俗人とは違う。心を平静に保ったとき、寂しさとも年輪とも似つかわない風の通り道があり、風の向かう先に向き直ると学問があるという、ある種の幸運が彼を生かしている。
裕福なことも幸いした。酒色につぎ込めば消えてしまったであろう収入の道を、荒んだ心を慰める必要もなく、嗜好品も口にしないという潔癖な身上が守りきったかの観がある。膨大な資料を広げて、本来なら啓蒙に使われるはずだった知性をより純化させ、歴史渉猟という作業に費やしているのである。趙の幸福な失脚生活は美談にすらなりうる事後談を備え、泰斗に言わせれば若隠居の道楽にしては随分と格調高いということになる。
現時点では、挨拶に訪れる同好の士は数少なくなったが、桂氏のように公私ともに亘って支援しようという篤志家もいる。その思いに報いるように趙のペンは走り、驚くべき知識の蓄積と大胆な仮説の提唱を誇る。怜悧で含蓄のある言葉は、彼が厭世家ではないことを物語っているし、再起を図るという意味では不断の努力を払っていると見ることができる。
努力を愛でるのは、どこの世界でも常識的で安定した世相を望むステータスホルダー等によって当然のこととされている。果たして趙の仕事が世俗的に認められるか、泰斗には大いに興味があることであり、もし光が当たることがあるのなら、喝采をもって送り出せることを嬉しく思うことだろう。
趙に向けられた、泰斗のやや緩んだ眦にどんな含みがあるのかというと、やはり業績に対する辛辣な目でないことは確かで、ある程度までは全方位的に人物を肯定しているところに主眼がある。彼が趙に語りかける。
「趙先生はもう西域には興味がないんですか」
「西域の騎馬民族は土器も文献も積極的に活用しなかったからね。いくら発掘の記録を調べても西域に関しては謎だらけです。だからといって伝承を集めるのは、やはり私くらいの歳になると放浪する覚悟がないとできない仕事だ。遺跡の存在に当たりをつけるだけでも、学術的な価値はある。桂先生の功績は称えられるべきだね」
和やかな語り口で趙は泰斗の質問に答えた。謙遜した桂氏は、持ち上げられても浮かれることはなく、返って申し訳なさそうにした。
「伝承をたどって、墳墓を発見したまでは良かったんですが、途中で作業が断絶したきりです。機会を見て調査団を派遣したいんですが、予算の都合が付かない。私の発言力では大学から搾り上げるなんて豪胆な真似はできませんから、事実の裏づけがないまま仮説を唱えなければなりません。西域の政治がどう機能していたのかは、まだ霧の中と言わざるを得ませんね」
「砂漠近縁に国家があったことに関しては異論がないんだから、政治によって機能していたと証明することも理屈からいえば可能なはずだ。政治のない国家なんてありえないんですからね。民族の分布が国家の成立に深く関連していることを人文学的に説明できるが、必然的に中央集権との対立が爪痕を残した事実に触れなければならない。そうなると、現代国家も四苦八苦するような、同化政策による締め付けを暴露するような論調に似てくる。政府に目を付けられたのは、方法論で注意が足りなかったということだよ。苦い経験をしても、まだ情熱は冷めないが、現地で見聞できる若い学者を育てないことには、どうにもならないだろうね」
見識を披露し、桂氏と学術交流を楽しむ趙だが、人材の不足を痛感しているというふうだ。若手の台頭が囁かれる学会でも、政治における民族のアレルギーは深刻な影響があり、農耕民族の研究が主流を占めている現状では、騎馬民族の研究に人員を動員するのは難しそうである。
しばしば軍事的に膨張して辺境を侵した騎馬民族について、伝統的に中央王朝は朝貢外交で抑制できないと分かれば、遠征軍を組織して強硬路線をひた走り、結果的に財政が破綻するという循環で王朝が交代するのが常だった。時が移ろっても色褪せない戦果の記録と違って、今日で言う賄賂を意味する供物のやり取りを実証するのはかなり困難だ。国家が他国に媚びているという証拠を記録として残す理由がないし、騎馬民族は地勢的に紙の原料となる植物の不足から、そうした記録文書を作成する能動的姿勢は希薄である。事実上、政治外交の履歴は生活物資などから推測するしかない。その土地になかった作物の存在は有力な証拠になるだろう。
趙が考える西域の研究は、推測と整合性による仮説の提唱から、さらに踏み込んだ実体像の把握にまで及ぼうとしている。無論、切っ掛けとなっているのは桂氏の研究である。彼の研究は趙が民族独自の主権を歴史的に証明しようとしたのとは違って、中央集権に対する地方政治の模倣を出土品から実証しようというものだ。趙の研究が頓挫したから路線を転換したのではなく、初めから辺境の政治に中央王朝との類似性を見出していたことによる。
言語圏の異なる砂漠地帯の民が、民族の自立を考える際に、影響の強い中央王朝の政治構造を踏襲して国家を建設しようとしたのは、物資の交易によるところが大きいと考えられる。生活の近似性から政治の流儀も接近したとすれば、桂氏の着眼である、ある時期における中央と地方の相思相愛という風景も成立するのである。
しかし、いくら推測が現実味を帯び始めたといっても、人材不足は考古学上の趨勢に原因があり、桂氏にもどうしようもない。
「いまどきの学生は律令政治の都市建設構想や、戦国期の王陵などに興味を持ちますからね。華々しく顕彰される仕事がどのようなものかちゃっかり知っている。うちの息子も騎馬民族にはあまり関心を持ってくれない」
屈託なく趙は笑った。
「国家の礎は足元の国民ですからね。膝下の歴史を学ばなければ、国の歴史群像を解明する学術の本旨ではないのかもしれない。その意味では今の学生は賢いんでしょう。私が教えていた頃も、聡明な学生は中央王朝をテーマに論文を書いていましたよ。民族の融和なんていう、現実の寒風を感じる領域で頭を使う気にはならなくても仕方がない」
「けれども、いつまでもタブーにしておけば学究者の使命を忘れていることになりませんか。政府に媚を売らなくてもいいんですが、擦り寄って愛想を使ってまで不愉快になる事実を指摘しなければいけないのに、学者が躊躇したら社会が停滞しますよ」
懸念は学校に依然として残る緘口令のことである。桂氏も教職に付く際に念を押されており、場所を選ばなければ口外できないという不幸がある。学者は本来自由な意志で研究対象を選び、発表の場を得られるものであるが、暗黙裡に政府の干渉を容認するかのような風潮を許すのか、学術の真価が問われているのだ。
もちろん、科学技術のように独占できる制度があれば、国家の繁栄に直結したものとして尊重されるのだが、生憎と考古学はただ輝くばかりの財宝でしかない。万人にとっての宝であり続けることは、過去に学ばないものにとっては骨董趣味と道義だ。
それでも考古学の命脈が絶えなかったのは、歴史の実在に現実の繁栄が無関係ではありえないからだ。何たるかを問うなら、人の営みを人文、社会、科学のあらゆる領域から照らし、現代文明に呼応し、連結できる現象か検討する試みである。知識そのものが食物や衣服を生み出すのではなく、検証の結果から未来を選択する際の指針を見出す、地味な作業であって緊急性はないが、必ず必要になる思索の果実である。
趙も桂もその果実の潤いと滋味に惚れこんでおり、少年のように純粋に知識を生かす道を模索している。政府のご意向伺いなどをしなくても、知識そのものが呼びかける価値が優先されるものと信じたいのだが、まだ国家の掌中に握られた一握りの知識人が不満を感じる程度だ。社会が怒りの矛先を向けるには、機が熟していないという見方が主流である。
政府の介入に危機感がないわけではないのだが、趙は遠くで時局が動く音が聞こえるのか、いたって平静である。
「物質の豊かさが国家を平準化するとも言う。私たちが見届けようとするなら、国民の粒が揃ってくると縦に押し潰そうとするより、横に束ねた方が楽に操縦できると気付くだろう。国家は命令と服従という縦の関係だね。民族は緩やかな横のつながりだ。これを力ずくで束ねるのが政府のやり方だというのなら、分断できない先祖と子孫というつながりまで解体することも必要になる。常日頃、考古学がやっていることです」
頷きながら桂氏は受け継いだ。
「縦の関係で国家に拉がれない個人を確立するとしたら、生存の証こそが切り札になる。ところが民族融和というのは、軟らかく煮た豆のように、個人を何の抵抗力もない従順な粒に還元してしまうことです。与えられた枠組みの中でしか感情を持てない国民が、各自の尊厳を守るために無意味に徒党を組むとしたら、民族的規模というのは魅力になるでしょう。何しろ反対するものは見渡す限り誰一人としていないのですから。しかし、弱い。尊厳を伴った生存が責任を伴うことを知らないんです。やはり人は、嗣子代々受け継がれるという古典的儀礼に則っていないと安定しませんね。これは考古学的思考の目指すべき姿かもしれません」
「豊かになれど、歴史だけは変えられない。ここいらで民族を語るタブーが解かれるといいね。泰斗君は政治に失望することはあるかい」
にこにこして趙は聞いた。泰斗は繊細な問題を含んでいることを感じて、慎重に答えた。
「国家分断の危機に対応して、民族融和政策が採られてきたんだと思っています。国民生活は着実に向上していますから、あまり神経症的に国策を糾弾する気にもなれないのが僕らの世代の甘さでしょうね。でも、幸福を選べないとしたら、やはり失政だったと咎めるべきじゃないでしょうか。個別に唾を飛ばして議論するだけでは政府の腰は上がらないはずですから、その時は否定できない人の生き様がなければいけません」
これを聞いた趙は嬉しそうであった。
「若い子はいいね」
ほの明るい月の下を歩くように不安と希望が入り混じっている語調を、拙いとは決して言わない。後進は不十分だからこそ可愛いのである。
この次の日、樹は泰斗に電話をかけた。泰斗は趙に借りた本を読んでいるところだった。
「桂君、お昼ご飯を一緒に食べない。実は退屈をしていて」
「構わないけれど、僕は女の子が喜ぶような洒落た店は知らないよ」
「そんなの、全然平気。野暮ったくてもお腹が一杯になればいいのよ」
外見から特異な存在と見られることがあっても、樹は実質的な満足を取る方だ。かなり薄汚い食堂で、分量だけはある食事を取ることもたまにある。学生街にはそうした豪胆な商売をする店も何軒かあるのだ。
話を受けて、泰斗は提案をする。
「焼肉屋でいいかな。取り敢えず不味くはないけれど」
「豪勢に盛り付けてくれるような」
「まあね」
「案内してくれる。私が桂君の家まで行くから、待っていて」
「分かった。いつでも出られるようにしておく」
「じゃあね、三十分後に」
電話を切って、樹はコートを羽織った。むっとするほど暖房の聞いた室内から出ると、清々しい空気が取り巻く。じっとしていたので体中が鈍ってしまったように重いが、それも歩いているうちに解消された。
きっちり三十分後に泰斗の住んでいるアパートに着くと、呼び鈴を鳴らして返答を待った。着替えてから再び本に当たっていた泰斗は、樹の到着を知ってのっそりと立ち上がった。大きな体が筋肉によって力強く駆動しているという印象だ。
扉を開けた泰斗は正面に樹の顔を捉え、見知った相手であるのを確認した。
「いらっしゃい。少し休んでからにする」
「ううん。すぐに行こう」
「割と近くだから、そのほうがいいか」
靴紐を結び、外に踏み出した泰斗は、呼吸を合わせて樹と一緒に歩き始めた。
「冬休みなのに実家に帰らなかったんだ」
「遠いんですもの」
「不精をしていると、親のありがたみを忘れるよ」
「そうね。でもさ、至れり尽くせりっていうのも疲れるんです」
悪戯っぽく樹は両親のもてなし方を揶揄し、故郷の景色を思い描く。猥雑で土臭い街並みを歩いた記憶は、今も彼女の心を満たしている。離れても忘れえぬ故郷は、決して上等なものではなくともかけがえのない価値がある。
満ち足りた樹の表情を見て、心配するほど都会に幻想をもって生きているのではないと判断した泰斗は、それ以上は追及しなかった。
焼肉屋の門構えは質素で呼び込みに熱意があるようには見えない。地元の学生に人気のある大食漢向けの食事処らしいが、外観からは品定めをするほどの材料がない。泰斗に促されるままに入店した樹は、並んだテーブルを見渡し、手狭に感じるほど客席がひしめいている間を通り抜けようとした。
すると、既に食事を終えて烏龍茶を飲んでいた学生が樹に気付いた。
「梅沢さん、こんなところまで食事に来たの」
「うん。友達に案内してもらったの」
「友達か。今日は違う男だね」
随分と尖った言いがかりだ。しかし、泰斗は嫌な顔ひとつせずに愛想を良くした。
「どうも」
「彼女は同級生だよ。桂君、奥に座ろう」
気まずさがあった樹は、こちらもそそくさとその場を離れた。
席に着き、緊迫感から解放されて一息ついた樹は、泰然としている泰斗に目を遣った。まったく動じずに、白けているとさえ思えるほど単調にメニューを眺めている。ひと通り流し読みすると彼は聞いた。
「何にする」
「お勧めは」
「サーロイン・ステーキ」
「意外と豪華な品があるのね」
「でも、安いよ。良心的値段設定という奴だね」
店に入って初めてにこやかな顔をした泰斗に合わせ、樹も気を取り直した。給仕を呼んで注文を出すと、寛いだ雰囲気になって話をした。
「ここ数日、何をしていた」
「本を借りてきて読んでいた」
「そうなの。私の場合、学校が休みだとすることがなくって。本って学校の図書館で借りるの」
「知り合いに借りたんだよ。碩学の本棚っていうのは何でも出てくる感じがするよ」
冗談めかして泰斗が言うので、樹は目を細めた。
「どんな本」
「古い社会制度の研究書。リポートとも違うし、学術書というには少し掘り下げ方が足りない。素人が興味を持って読める本だよ」
「凄いのね。勉強家なんだ。やっぱり試験があるから備えているというわけ」
「いや、単に無知を恥じて。面白いから苦にはならないんだけれどね」
「私も翻訳の宿題が出ていたから、真面目にこなしたんだけれど、いざ終わってしまうと自分で課題を見つけるのって無理みたい。桂君みたいに勉強熱心な知り合いがいるのって、刺激になるんでしょうね」
「どうかな。歴史について語りだしたら止まらない人でも、僕が相手では物足りないみたいだ。歯ごたえがないって言うか、青いんだろうと思う」
すっかり体の力を抜いて椅子の背もたれに寄りかかっている泰斗には、自分を大きく見せようとしたりする欲求があるようには見えない。率直な言い方が魅力的で、樹は他の男子とは毛色の違いを感じた。
「相手にされないくらい知識に開きがあるっていうこと」
「学校の先生をしていた人だから、興味を引くことに関しては一流だ。それでも知識の薄弱さを思い知らされるんだよ」
「意識していないのだろうけれど、残酷なくらい賢さに自覚がない人なんだ。桂君が及ばないっていうのも、ちょっと可哀想な話ね」
「だから努力しているんだ。無駄に講釈させているなんて認めたくないでしょう」
不甲斐なさから思わず失笑してしまった泰斗を見て、同じ年頃の男の子の抱える葛藤とその艶っぽさを樹は感じた。彼女もくすくす笑った。
「背伸びするなんて桂君もませているのね」
「事情があって説明できないけれど、知性が埋没するのを許せない気持ちが僕にもあるんだ。どうにかして一部分だけでも代弁したいんだけれど、これは勝手な思い入れなのかな」
「愛情をもって接することに、理由なんていらないんじゃないの」
「簡単に言うね。それだけでは解決しないことも、世の中にはたくさんあると思うけれど」
「あら、私は一般論で、相手への好意がコミュニケーションを円滑にするとだけ言っているのに、目くじらを立てるんだ。根底に苛立ちのようなものがあるのかしら」
言われっぱなしではいけないのだが、趙の事情を説明していいものか、安売りするようで憚られた。足を組みなおして泰斗は言う。
「厳しい人だな。確かに僕は義理だけでは説明の付かない怒りを感じている。誰かに話して慰めてもらいたいなんて思わないけれどね」
「怒りって、純粋に人を突き動かすような腹立たしさを。そうは見えないな」
真っ直ぐな瞳で樹は向かい合った。居住まいを正すのがわざとらしく思えるほど、泰斗は気まずさを感じている。
「僕は無力だから、耳たぶまで怒りに染まっていても、様にならないんだ。そんなふうに同情を誘ったり、媚びたりするのはみっともないじゃないか」
「力ずくでも分からせたいと思わない。特に私みたいな軽薄な女は」
違うと言わせたくて誘いをかけているのだが、泰斗は扇情にもあまり動じない。
「可愛くていいんじゃないの。突っかかるのは大人気ないけれど、君みたいに道理をわきまえた人の言葉ならすんなり耳に入ってくるし」
「やだな、桂君って女っ誑しみたい」
「持てないのに色気づいても意味がないさ」
燻るように味気なさを抱えて、泰斗は僅かに笑んだ。その子供のような理屈と、大人の陰影のアンバランスさに樹は惹かれた。
料理が運ばれてきて、樹は男子の食べっぷりというものに感心することになる。食欲があっても、見ていて痛快になるほど食べた記憶はない。手を休めて見とれていると、泰斗は視線に気付いた。
「熱いうちに食べた方が美味しいよ」
「うん。人が食べているのが美味しそうに見えた」
「同じ料理でしょう。面白いこと言うね」
多少、樹の見る目が変わっているのだが、楽しく話していると時間だけがどんどん過ぎてゆく。泰斗の言うとおり、時機を見極めないとすれ違ってしまうものらしかった。
新学期が始まり、試験の準備で学校は普段とは違って人が多い。学部事務室の掲示板には試験の日程が張り出され、人だかりができている。樹もその中に混じってメモを取っていた。ひと通り手帳に写し取って、漫ろ歩きをしながら日程を確認していると、声がかかった。
「梅沢さん、ちょっといいかしら」
「はい、なんですか」
向き合った相手は、先日食事処で出くわした同級生だ。
「あなたも、ああいう大衆的な店に来るのね」
「いかにも学生相手に商売をしているという感じですね」
「一緒にいた彼氏、桂って言ったっけ」
「桂君です」
「桂教授の息子さんよね」
「教授の。知らないけれど」
「桂教授は解任された趙教授の後釜に座った人よ。国家に対する反逆を噂されて追放された、趙教授との付き合いが未だに濃密だとか。その息子さんと付き合うのなら用心したほうがいいわ」
冷たく言い放つのに警告の意味が含まれているが、害意はない。しかしながら、泰斗との関係を色目でみることに躊躇はしていない。
「ご忠告ありがとう。でも、大袈裟じゃないのかしら。だって親御さんの事情が即座に子息に影響するなんて、常識的には考えにくいでしょう」
こちらも冷静だ。意識する水準ではないが、負けん気があるのかもしれない。
「臭いものには蓋をするのが政治よ。身の回りを調べられたりしても、かっかしないことね」
呆れたように息をつくと、同級生は立ち去った。
手帳を弄びながら、立ち尽くして悶々と思案をめぐらせていたが、樹は政府の腐敗に効果的な対抗策を思いつかず、楽観することで気持ちの負担を軽くした。泰斗が国家を危機に陥れるような真似をするのか、考えれば馬鹿げているのは誰にでも分かりそうである。この件を頭の隅に追いやって留め、試験に集中することにした。
年に二度の試験は学生の取り組みが評価される数少ない機会だ。授業の理解と学習の達成度が試されるのだが、基本的には問われたことを忠実に言語で表現できる術を身に付けていれば高い評価がつく。質問と回答はひと括りになって講義の内容を為していることから、要領のいい学生はカリキュラムを見ただけで試験の山を当てられるし、それほど難しい設問はないので決定的な差がつくことはない。学習の積み重ねが重要であると理解している解答をできるかが分かれ路になる。
寮に住んでいると学習に取組む姿勢は自ずと意欲的になるのだが、都会暮らしにも関わらず樹は熱中するような遊びもなく、雑談に興じる以外の大半を勉学に費やしてきた。能力的に洗練されることが学生の本懐なら、漠然と目的もなく過ごすよりは有意義に過ごしているはずだ。自ずと教材が要求する実力には到達が容易になるという環境にある。
二週間に亘る試験が始まった。普段の弛緩しきった空気が嘘のように、誰もが息を潜めているかのような真剣さを多かれ少なかれ持っている。時計の針を気にし、ペンを走らせては緊張のあまり唇を何度も湿らせるような、人によっては辛抱を要する過酷な期間だ。樹の場合は普段から培ってきた教養を試験の設問にぶつけるだけなので、加熱するほど必死にならないし、社会に出るまでの猶予期間が残されているという余裕が窺われる。彼女を見ていると、趣味人が遊行の途中で立ち寄ったかのようだ。
様々な思いがあり、将来のために一言一句まで実力を証明するのだと意気込む者もいれば、二度とない青春期には思い出作りの方が重要だと片手間でしかない者、夢のためには通過儀礼くらい何でもないと強かな者など、学校が多元的な人物で構成されていることを知らしめるには十分だ。これだから面白いのだが、そんなことは試験に臨む学生には関係のないことである。解答用紙が文字で埋め尽くされ、幾人もの学生が肩の荷を下ろした気になっている光景を目の当たりにして、多様な価値など唱えるに値するのか、少なくとも学生たちは知っているはずである。
一元的管理の下に学識を試す。まさに個性の没却のようにも聞こえるが、真実は、多様な解答が言語的手段によって実現されるのを期待されている場面だ。推奨された無難な解答が一番得点が高いが、それ以外の試行錯誤の結晶のような解答も尊ばれる。樹も冒険心がないわけではないが、独自の思索を温めるほど学問に熱中しておらず、普通の解答を提出した。
試験が終わってしまうと、学生たちはアルバイトや自習のために学校には寄り付かなくなる。校区は一挙に静かになり、学生街を除いて若者の屯する姿は消える。休みが明けて活気づいていた寮も再度の帰郷で人が減り、樹もいくぶん無口になったことを自覚していた。
彼女が帰郷する気になったのは、泰斗と口論をした後である。偶発的で、望んだことではなかったが、心を弾ませて会いにいったのに肩透かしをされた恰好だ。数日前の出来事である。
泰斗の家を訪ね、樹は趙のことを尋ねたのだった。
「桂君って趙教授の知り合いだそうね」
「父さんが懇意にしているんでね」
「桂教授の息子だなんて私、知らなかった」
ふてたような顔をすると、泰斗は素っ気なく言った。
「聞かれでもしない限り、話すことでもない」
「趙教授って解職されたって聞いたよ。しかも政治が絡んでいるんでしょう。大丈夫なの」
「どうなんだろう。危ない目に遭ったことはないんだけれど、不利益を被らない代わりに、積極的に支援もしてもらえないのかもしれないね。国の現金さは、君も知っているだろう」
「名前が忘れられるまで圧力をかけ続けるっていうこと」
「それもある。社会的に抹殺するに等しい待遇をしても、同じ価値を実現できると分かれば別の人を後押しする。取替えが利くのが、人的資源の元締めたる国の強みなんだ」
「じゃあ、趙教授はその犠牲者」
心配そうに眉を曇らせて樹は聞いた。
「そうだよ。だけど、研究の意欲は衰えていないし、取って代われるほどの慧眼がすぐに現れるわけでもない。取り敢えず大学の職は桂が継いだことになっているけれど、誰が学会を主導できるかは自ずと明らかだ。趙先生は圧力に屈していない」
「でも、政府にも面子がある。追放が誤りだったとは認めないでしょう」
不信感が露骨に表れるのを怖れず、果敢に政府に対する畏怖を炙りだそうとする。
「まあ、ある日突然、褒めて称えるというような挙動に出る見込みはないだろうね。なし崩し的に、意欲が消滅するまで緘口令を維持することくらいしかできないはずなんだけれど、騒がれたら思い切って財産の剥奪までするかもしれない。僕は政府が盗賊に豹変する可能性を疑わない」
半ば冗談で言っているのだが、不安心理には何の薬にもならない。
「弾みで桂教授まで解職されたらどうするのよ」
樹は泣き出しそうなほど感情移入してしまっている。
「だから、趙先生は論文の引用を断っている。かねてからの父さんの願望だったんだが、市井の研究者が学会に色目を使うなんて、とんでもないとおっしゃっているんだ。強引に引っ張り出すなんて無謀だよね。やっぱり、意に反してそんなことはできない」
「大らかというか、政府と対立しても、まだそういうやり取りができるのね。大人同士だと友情の種になるのかしら」
「面白くは思っていないようだよ。僕も傍観者でいるより、怒れる陪審員になることを望む。裁きを下すなんて傲慢なことを言ったら追放した側と同類だけれど、声なき声が押しつぶされていいとは思わない」
静かだが決意を秘めていることは泰斗の口調から察せられる。
「少なくともひ弱ではないのよね。皆が皆、停滞を望んでいない」
「だけれど、政府が強硬路線に転じたら一溜まりもないだろうな。正直に言って、怖さはあるんだ。しかし、君みたいな人にまで心配されているようじゃ、どんなに虚勢を張っても始まらない」
「私だって、父にスパイの嫌疑がかかったときは腹が立ったわよ。真面目にやっている国民を虐げる気かってね。桂君が賄賂で役人と折り合いをつける人だとは思わないけれど、拳を叩き付けたいような怒りを騙し騙し生きていたら、男としては価値が下がってしまうのかもしれないわ。器用に生きることはできそうなの」
一縷の願いを込め、樹は聞いた。泰斗が敗北感を感じてしまうようなら、炎上するくらい激しく心残りを吐き出させてやりたい。付きっ切りで尽くす立場でなくとも、気に入った男が茫然自失になるよりは増しなはずだ。
これに泰斗はささくれ立つものを感じて、突き放した言い方をした。
「女性に優しくされても、何にも変わりはしないよ」
「そんなふうに考えないで、便利な女だと思ってくれればいいのに」
「甘えろって言うのかい。やっぱり君は自分の立場が脅かされるなんて、これっぽっちも考えないんでしょう。僕の誇りを守れるのは君じゃない、僕自身だ。気持ちは嬉しいけれど、放っておいてくれないか」
「桂君だって、不安になることはあるんでしょう。肩肘張っても、誰も守ってくれやしないわ」
心の底にある光を手をかざして見つめるような、儚げな気持ちである。もしも手が届くのなら、包み込んで胸に掻き抱いてしまいたいというような心理に樹はなった。
「だから、僕は守って欲しいなんて思っていない。そんな憐れむような見方しかできないのなら、もっと広い世界に目を向けるんだね」
泰斗は自らが城砦とも呼べる堅固な意志に守られていさえすれば、女性一人に理解されることは重要ではない。
「分からず屋」
ぼそっと樹は恨み言を言った。
「君だって、自分を大切にすべきだ」
「分かっていないよ、馬鹿」
勢いよく立ち上がった樹は、振り向きもせずに桂家のアパートを飛び出した。体の芯が熱くなるくらい力がこもり、足もぎこちなくしか動かない。息が続かなくなって立ち止まると、灰色の空を仰ぎ見た。
それから二日後、樹は郷里に帰る列車の車上にある。
窓の外を眺めていると、瞳に映る田園風景が心の奥にまで転がり込んでくるくらい空虚だった。なんて無力なんだろうと静かに瞬きをし、緑色の草原に目を凝らす。まるで何かが見えなければならないとでもいう風に。
窓際にもたれかかり、熱心に外を眺めている姿は、都会の喧騒に疲れた若い女性と外見上は変わらない。憂い顔というものを意識的にしなくても、繰り返された思索によって自然に表情はできあがっている。それは澄んだ水を奥まで見通そうとするときの眼差しに似ている。
列車は西域奥地に向かってひた走る。カップ麺を食べる乗客や、子供をあやす母親などがいて、雑然と込み合っているという印象がある。走行の振動に揺られて疲れてしまっていたが、手持ち無沙汰で意識を研ぎ澄ますほどの必要性もない。そのうちにうつらうつらとし始め、樹は眠ってしまった。
目を開いたときには夕暮れだった。平原の果てに日が沈もうとしている。濃い赤が滲んで紫色に雲が染まり、物々しい雰囲気で気象が変化しているようだ。薄暗くて判別できないが、この辺りの平地は耕作地ではなく、仮に綿花などを植えても満足に収穫できないような荒れた土地のようだ。夕日はその荒野の隅々にまで這い渡っている。
やがて日が暮れた。視界が閉ざされ、列車のガラス戸には室内灯の明かりが反射してぼんやりと顔が映るようになっている。樹は鞄を開いてパンを取り出すと、もそもそと手元を動かしてかぶりついた。甘い味覚が唾液の分泌を刺激し、噛むほどに食感が得られる。丸ごと一個食べてしまうと、体に安息感が充ちて吐息が洩れた。
遠い道のりを行くのに、何も考えずにいられる時間を持つのは必然とも言える。旅の重厚な存在理由を思えば、小さな存在があくせくするのは、対置される世界地理の大きさを思い出させる切っ掛けになりそうだ。実際、郷里への道のりは大陸の奥地にまで踏み込むという、冒険性に彩られている。物質が溢れているわけでもない未開地に行くのなら、必需品の携帯や、流通貨幣への両替は、その旅程の完遂への目的に適っているのだが、樹はそれらの雑事にかまける事もなく、連続する地平に繰り出すというマラソン・ランナーの気分に近い。
言語が多少混乱している以外は、西域も国の一部である。異郷に行くような気分と、土地勘のある近隣界隈へ繰り出す気分が混在する、独特の旅路の途上に樹はいる。列車は真っ暗闇の中をひた走り、奥地への進行を確約している。文明上の旅人として、移動手段を信頼できれば、旅は随分と楽になる。樹は再び眠りに落ちた。
周囲が明るくなり、列車の外にはそれまでの地勢にはなかった山岳の影が濃厚になっている。丘陵地を抜ければ西域の砂漠地帯だ。暫くすると車内に光が差し込んできた。それとともに目的の駅に迫っていることを知った。
下車してバスに乗り換え、ようやく樹は郷里に帰ってきた。埃っぽい道を塞いだ気分で歩いていると、気持ちの高揚などがほとんどないこの土地の暮らし向きが思い出される。子供たちは無口で無愛想で、大人たちも希望を持って暮らしている気配はない。殺伐としていながら、寡黙に生きることを選んだ人々が日々の営みを続けているのである。
樹は細い路地を何度か曲がり、マーケットの近くの自宅に着いた。
「ただいま」
戸を押し開きながら鉄骨作りの堅牢な住宅に入ると、生ぬるい空気が肌に触れた。見ると母親がオーブンから焼き上げたパンを出しているところだった。
「早かったわね。おなかが減っていたら、何か作ろうか」
「ポタージュを飲みたいな」
「パンが焼けたところだから、一緒にお上がりなさい」
ミトンで掴んだトレーをキッチンに置くと、母親はお湯を沸かし始めた。棚からインスタントのポタージュを取り出し、カップに装うと樹のほうに向き直った。
「疲れているんじゃない。少し食べたら休む」
「ううん。ちょっとマーケットを覘いてくる」
「このあたりも増改築で綺麗な家が増えたけれど、マーケットは少しも変わらないわね」
「見たいの。牛乳や林檎が売られているのを」
「そう。ゆっくりしていくといいわ」
解せないという顔はせず、母親は食事の準備を進めた。
パンとポタージュの、ちょっと遅めの朝食を取った樹は、満悦で席を立った。
「外に出てくるね」
「行っていらっしゃい」
気分よく送り出され、変わったという街並みを眺めながら、マーケットの方に向かった。見たところ漆喰が塗りなおされたりした痕跡が随所にあり、光を反射して白さが際立っている建物が幾つもある。マーケットが開かれている通りは、六年前に初めて来たときからなんら変更されていない。参加者が陣取りで争いを起こしたとか、後継者難で規模が縮小されたとかいう話は聞かれない。当たり前のように通りを占拠して、生活の原資を作るための商売をしているのだが、値段は騰貴することもなく破格の安さである。ここでの競争原理は、品物が売れ残るという事態に対する回避目的でも機能している。
マーケットの喧騒の中に踏み入った樹は、目当てだった牛乳売りや果物売りを見つけ、歩きながら棚先をしげしげと見つめて冷やかすと、呼び込みの声を聞きながら元来た道を戻った。変わっていないことが嬉しくなり、湿りがちだった気持ちにもゆとりができた。
忘れ去られつつあるが、自由と独立をかけて政府軍と戦った武装組織は、この地の浮き足立たない生活観には介在する余地がなかったし、今でも不満を煽って構成員を集めようという活動は存在しない。そのことは物資の流通の要となる地域特性がもたらした現実主義の反映とも言えるし、歴史的に中央王朝に恭順せずとも生活を維持できた砂漠の民の矜持とも言える。艱難が丸くするというが、厳しい気候が貧困を生み続けることなく、共助の精神に基づいて生きる道を拓いた人間精神のばねの強さが存在する。
それを人々の営みの中に、取り分け牛乳売りや果物売りの店先に見出し、強かに生きようとする民心の象徴として誇りに思うなら、躓いて不安定になっている樹の心にも救いがある。故郷の温かい交流などは望めないので、せめて生活の気分だけでも共有しようという意図があったわけだが、マーケットに出向いたことで七分方は果たされた。郷里の町のからっと乾いた風の匂いを感じながら、樹の心は綻びを埋め合わせようと活発に働いた。
からから笑って、帰ってきたのだと主張したくなるような気分の高揚にまでは届かないが、心の筋肉が温まって瞬発力が生まれるような充実感はある。このまま都会に戻れば、泰斗に笑顔で語りかけられるような気がする。たかだか原点に戻る程度のことが、遠い地を踏まないとできないようでは幼すぎるのだが、樹は潤い豊かな心性から慈愛を分け与えられるのではなく、自らをもって任じ、分け与える側になれることを望んでいる。
ほんの数日前、意固地になってまで守りたかった友人の幸福が、胸のうちに熱い塊となって言葉を急きたてていたのが気恥ずかしくなり、先走ったのは自分可愛さゆえかと自問自答する。答えは決まっている。樹は泰斗と並び立って、同じ夢を共有することを密かに願っていたのだ。彼女の我儘がなければ、泰斗は拒絶の意志を明確にしなくても良かった。その我儘が愛嬌と映るかどうかは、人間としての成熟と、許容しうる範囲でのすれ違いかどうかで決まる。泰斗は簡単に手に入る幸福に妄執する程度の男子ではないし、堅牢な意志がありさえすればいくらでも人生を再構築できると信じる器量人だ。どうやら樹の人誑しの技量は未熟だったようだ。
今、遠地で樹が省察するに、小手先の修辞で失態を繕うよりは、根源的な部分で赦せるまで間を持つほうが現実的である。暫く頭を冷やせば、至らなかったのがさらによく分かるであろうし、次に繋がる切っ掛けをつかめる。難しいことではなく、内面的広がりの中に挑みかかるような粗暴な振る舞いを慎み、外部世界と丹念に照らし合わせる気長な交友であるべきなのだ。
たったそれだけのことができないとなると、男女という壁を乗り越えて誼を結ぶのは億劫になる。頬を寄せて体温を感じるといった単純な伝達手段が喜ばれ、人物として尊重されているというような観念的な幸せは、若い男女にはあまり縁がないのも事実だ。そこを敢えて難しいところから手始めにし、頭がくらくらするほど絆されるのは、刹那的な欲求に流される直情径行では手に入らない関係である。
多くの人が幸福を夢想し、身近なところにそれを求めるが、樹は泰斗に甘えるのは気が進まない。彼との出会いはもっと運命論めいているべきだと思われるし、即座に擦り寄っていくのはお手軽すぎる。忙しい日常からは、すぐに結ばれるように惹かれあう必然性はないし、理性的な男が世俗の名誉を一切忘れ、衣を脱ぎ捨てるように恋に生きるとは考えにくい。願望は秘められていても、明かされない。その微妙さが樹の揺れる心の正体だ。
ともあれ、郷里に帰ってきてから、樹は都会の風景を重ねて見ている。コンクリートの建物やアスファルトの道路がなくても、果てしなく進めば都会まで続いているはずの石畳を愛おし気に踏みしめる。鄙びた町への感傷ではなく、生活圏が広がったことへの戸惑いを素直に認めているだけだが、人の繋がりだけは漠然と心に留まっている。ややぎくしゃくしてしまった泰斗との関係もその中のひとつで、焼きつくほどの存在感はないが、淡くもやもやと意識の流れに浮かんでいる。
気持ちの整理がついてしまうと、田舎は退屈なので出歩くにしてもすぐに飽きる。すっきりとした顔で自宅に戻り、母親と雑談をしているうちに昼になり、食事を取ってから樹は貿易センターに出かけた。久しぶりの訪問だが、拡張に拡張を重ね、物資の集積所としては既に近隣国には知られた存在になっており、近いうちに見ておきたかったのだった。
バスで移動して暫く走り、停留所で降りるとすぐに建物が見える。何の洒落っ気もない質実だけを追求した鉄骨造りで、品揃えはほぼ万人が認める充実振りだが、ショッピングを楽しむには些か無骨すぎるのかもしれない。通用口もおもむろに開かれているという風体である。
天井の高い倉庫兼店舗の建物内を歩いていると、省力化によって人の姿はほとんど見当たらない。たまに人影が横切っていくが、手には段ボール箱を抱えていたり、貨物整理用の電子機器を持っていたりする。問屋として機能すれば足り、小売りの機能は地域に必要とされる分だけ、または見本品の展示に有利な分だけ活用すればいいのであって、呼び込み等は業務として重要性がないのである。
大量にある衣料品の倉庫で、外国人と思われる人物が買い付けをしているようだった。聞きなれないが、文節ごとに意味を理解できる外国語が耳に入ってきた。棚の影で店主と外国人が品物を手に交渉しており、値段交渉に入っていることまでは話の流れで分かる。盛んに数字が飛び出し、丁々発止のやり取りが静かな語調で交わされている。
いったん立ち止まって耳を傾けていた樹も、棚の商品を見回して寒冷地の仕様であるのを認めると、拘るほどの興味は続かなかった。再び倉庫内を歩き出す。一区画を通り過ぎ、鍋やら鞄やら文房具やら、ありとあらゆるものが揃えられているのを目の当たりにし、物質は辺境にまで充実し始めたのかと頼もしくなった。じきにこの地にも文明の恩恵が浸かるほど潤沢にもたらされるのだろうが、その水先案内人として樹の父親は交易を推進する立場にある。
倉庫の外れに、十数人の職員が詰めることのできる貿易センター事務所がある。樹は暖房の効いた事務所内に入り、目当ての人物を探した。その人は頭を抱えて電卓を叩いていたが、樹が近寄ると手を休めて顔を上げた。
「戻ったのか。疲れているだろうに物見遊山かい」
樹の父親はほっとする一方で、疲れた表情も混ざっている。
「平気。また大きくなったんじゃないの、ここ。計画して拡張しているという規模じゃないよね」
「いや、そんなことはないぞ。引き合いの強さを考慮して、必要な物資を集めている。商売は順調なんだが、稼いだ外貨の使い道がないという贅沢な悩みができた。結局は投資しないと金が回転しない」
「お金に困らないのはいいけれど、お金に追い回されるようでは本末転倒でしょう」
説教するつもりはないが、父親が金策に腐心している姿を美しい光景だとは思っていないのである。
「私は忙しくて、豊かな生活を楽しむ時間がない。代わりに樹が満喫しておいで。都会なら遊ぶ場所くらいいくらでもあるだろう」
労働に使役されるかのごとく、仕事にのめり込んでいく梅沢氏だが、娘可愛さだけは相変わらず変わることがない。
「悪い友達を作るかもしれないよ」
「信用している」
他に言い方がないと思っているのか、無骨に断じた。昔っから不器用な人だとは思っていたが、樹にはそれ以上心配をかけることもできず、やや間を置いてから話題を転じた。
「ねえ、お父さん。賄賂ってどう使うの」
「なんだ、いきなり」
「友達が政治がらみで苦労しているみたいだから、何か為になる話でもしてあげたくて」
「それで、賄賂か」
父親は苦笑した。相手にされないかと樹は思っていたが、意外にも彼は話をした。
「まず、相手が必要とするものを見極める。要求に見合った受益があることを仄めかし、食指が動くようなら見返りを求めずに与えるんだ。互いの利益になる関係を目指す合意ができれば、賄賂は成功だ」
「ちなみに賄賂の経験は」
「一度っきりだ。動乱の際にしつこく身辺調査されたんでね」
「後ろめたさってあるものなの」
「そりゃ、あるさ。でも、生き残るためと割り切ってしなければ、働いて生活を富ましめるという目的を果たせないこともある。しかし、同業者に圧力をかけるためにとか、有利に事業を進める目的で賄賂なんか使っていたら、人間が腐るよ」
往時を思い出して湿っぽい顔をしたが、それ以上に娘と際どい話をしているので気分がざわめいてしまっている。
「働かなければいけないから、賄賂も辞さなかったという美しい話なのね。身の潔白が証明されたような気分」
こちらは清々しい顔だ。整った顔立ちに癒されるのか、父親は穏やかに話を継いだ。
「樹は官僚の腐敗に異を唱えられるくらいの基盤から出発するといい。公明正大な交易には国の威信がかかっているから、食い物にしようという目論見は果たせないだろう。もっとも、事業を継ぐ気があればの話だが」
「他に継ぐ人はいないんでしょう。だったらしっかり勉強して、私もここで働きます」
おぼろげながら将来のことを考えたことはあったが、正面切って宣言までするには紆余曲折があった。将来のことを思うと、若い女が自信に溢れている一方で、不安がまるでないという状況は考えにくい世相だ。それでも樹には前に進もうとする意志が鮮明になりつつあり、働くという生活環境の充実まで想像できるようになっていた。
頼もしく思った父親は普通の女の子が考えるような将来の見通しを持ち出す。
「都会のぴかぴかしたオフィス・ビルで、綺麗な服を着て働きたくはないか」
「ここにもビルくらい建つじゃない」
「ああ、ホテルを建てる計画がある。事業は新たな船出の時期を迎えているんだ。退屈はしないと思うよ」
「あと何年か経ったら、面倒を見てね」
展望を抱えて、はきはきと気持ちよく言葉を交わした。
学生街は静まり返っている。鞄を肩に担いで、泰斗はバスに乗り込んだところだ。がらがらに空いていて、気持ちが萎んでしまうくらい緊張感がない。鞄の中には本が入っており、行き先はそれを返すべき相手、趙の自宅だ。
数日前に樹と口論をしたが、間違ったことは言っておらず、泰斗としては気詰まりだが時間が解決してくれるという期待がある。しかし、樹が向きになった理由を考えると、思考は停滞したままになってしまう。簡単に激するような女なのか彼は知らなかったし、もしそうなら今後の付き合いを考え直さなければいけないのだが、何にせよ、あの容姿で暴発されると刺激が強すぎるということだ。
情緒不安定ではないにしろ、気持ちが揺れだすと収まりがつかない人なのだろうかと泰斗は考える。近しく付き合っている人々とは明らかに種別が違うし、慣れないことを差し引いても、戸惑いは大きい。まさか優しい言葉をかけたいがために我を張ったというのなら、詰まらないことをしたに違いないのだが、肝心なのは、それをどう受け止めるかだ。心地よい涼風のような批判と見るべきなのか、気を惹くための演技なのか、経験に照らしてもすぐに答えが出るものではない。
泰斗はふと笑みを溢す。女に媚びなければいけないほど謎めいてくれば、術中に落ちたことになるのだろうか。彼には樹が不思議な微笑を浮かべているのと同じくらい、解せないものがある。しかも、嫌悪すべき姿態ではなく、洗練された女性のそれだ。この混乱が女性としての魅力に絆されてのものなら、泰斗もまだまだ経験が足りないのである。
趙の宅に着いた泰斗は、早速居間に通された。何度も来ているので、すっかり馴染み深くなった空間にぼんやりと座し、机の上に置いた本を見つめている。薦められたとおりに読んだが、蒙を啓くという意味で読むよりは、既にある知識を有益に活かすための手段を得る本だ。思い返すとじわじわと知識の奔流が意識下を流れ始める。それと同時に、樹の澄んだ声音が甦ってはっとさせられる。
目を瞬いていると趙が居間に入ってきた。
「泰斗君、ゆっくりしていけそうかい」
「いえ、本をお返しに来ただけなので、すぐに帰ります」
目に力を込め、意識から雑音を消した。
「もう読んでしまったんだね。役に立つといいが」
「学校が休みなので時間は余るほどあるんです。いつも本を貸していただいてありがとうございます。読むごとに賢くなったように思いますね。この本を読めば、基礎となる知識をもとに建設的な議論に参加できるようになります」
「私の見立てでは君くらいの学識があれば、こういう気の利いた本との出会いが視野を一気に広げることがある。目先が利かないからと、議論することを疎んでいる人には是非ともその喜びを知ってほしい。泰斗君はあまり論駁に熱中するような青年じゃないから、余計なお世話かな」
目じりを下げて微笑む趙には、気負いというものは見当たらない。各学際の膨大な量の論点を吟味すると、社会が構造としてどんな考察を必要としているのか分かるが、彼にはその一角に腰を据えても覇業を望まない謙虚さがあるのだ。必然的に社会は混沌としたままになるが、道具の鋭利さを誇るのが知識人の仕事だとは思っていない。泰斗は一歩退いて全体の考察を委ねるような趙の物腰が好きだ。
「議論に熱中するあまり、知識をカードのように扱うのはどうかと思いますね。発言を求められて口籠もるようではいけませんが、出しゃばりすぎて掘り下げを怠っていては進歩がない。僕は安易に認められるよりは、利口になる方が楽しみがあります」
「立派な心がけだ。真価を問われる場面で通り一遍等なことしか言えないとしたら、もどかしいだろうからね。若いんだから、世に出ることばかり考えていないで、夢を持つことも必要になる。どんな夢を描けるかで、成長の度合いも変わってくるのだと私は思う。思い返してみれば、私も随分と無茶をしてきた気がするな」
「それだけ才覚が伸びたんですね」
尊敬の色を含んだ言葉で、年輪を労わりつつ誉めそやす。
「ああ、恐らくはね。いつまでも若いつもりでいてはいけないし、落ち着くことも覚えなければいけない歳なんだが、隠遁生活は私の意欲を削ぐことはなかった。おぞましいほど貪欲になれることに気付いて、怖くなってきたところだ」
「誰にも迷惑をかけないのなら、学術に熱中するのは心の栄養になるんじゃないでしょうか。だから元気でいらっしゃる」
泰斗には歳の離れた英才がどれほどの知的興奮を求めているか分からないが、気持ちがかさついて潤いをなくすほど無関心ではないと承知しているつもりだ。
「萎れた中年男でいられれば、評価にも同情的なものが加わるんだろうが、なにしろ頭脳を酷使する習慣が抜けきらない。当面は大胆な論客として迎えられるんだろうね」
「もはや怖いもの知らずですか」
「いや、怖いよ。不安定な砂上の楼閣で大喝しても、見かけ倒しになるに違いないんだから。私の築いてきたものなど、栄誉に浴するには値しない。まだ、この先に成果を残すんだという私の意欲にくらべたら、従前の仕事などは前座程度でしかないんだ。この気持ちが虚勢だとしたら、何を信じて拠ったらいいのか、分からないな」
ささやかな幸福感があることは否定せず、感傷的気分に浸るように趙は目を細めた。経歴に傷があるのを一顧だにしないが、自身が置かれた立場と、未来のある泰斗への心配りを両立させようとすると、いかがわしい身の上を恥じなければいけなくなる。その辛さが気分としてあるのを、泰斗は感受してしんみりとした。
「父は大学の人事に疑問を持っています。趙先生さえ決断なされば、その場しのぎの解職などは撤回されると思いますが」
「そんなに簡単なものでもないさ」
「大学の構内でも噂されているようです。友人が僕や父の交友を咎めるようなことを言うんですよ。まるで趙先生は反政府主義者だとでも言うように」
樹の主張を改めて批判的に取り上げると、かなり認識に差があるようにも感じるが、悪意が有ったらそれさえも絶望的な隔たりになっていたはずだ。許せる範囲で仲違いしていたのに、泰斗はなにやら難しい顔をしている自分が少し滑稽にも思えた。
その内在的な含みは表面化しなかったものの、趙は飄々としている。
「形式上はそうなっている。世間の目を欺こうとすれば、手痛いしっぺ返しが待っているんだ。言い訳をしても何が変わるというわけでもないのだよ。だったら、私が引き下がれば済むことでしょう」
「しかし、それでは名誉を回復するという目的を共有している人たちを裏切ることになりませんか。僕も大学の自治を歪めるような決定は撤回されるべきだと信じています。政府の介入を認める人事などあってはならないはずです。悔しいじゃないですか」
趙は快活に笑った。
「心強い援軍だな。けれどもお友達には、噛み付く気力もない痩せた野良犬だとでも思わせておいたほうがいいんじゃないかな。知らずが華ということもある」
「そりゃまあ、だからといって図に乗るような女性ではないんですが、釈明も憚られるような事情をいつまでも放置しておいては、いずれ先生の自由が制約されます」
「おや、女性が私を噂するのか。悪い話じゃないのかもしれない」
「先生、悪乗りなんてしないでくださいよ」
泰斗が呆れて情けない顔をすると、趙は再び楽しそうに笑った。
春休みも残り数日という日になって、背の高い女が学生街を歩いている。ブラウンのロング・スカートに白のカーディガンを羽織った都会的風貌であるが、自信なさげにやや伏し目がちだ。憂鬱なことでもあるように、呼吸は浅く神経質に見える。喫茶店の前に差し掛かって、歩みを止めるとガラスを手の甲で軽く叩いた。中にいた青年が振り向く。
喫茶店の前で男女は向き合った。
「お久しぶり。呼び出したりしてごめんね」
樹は先ほどからずっと上目遣いに泰斗を見ている。
「いや、いいよ。どうせ暇だったし。少し歩こうか」
二人は寮のある方向に並んで歩き出した。恥じらいを含む微妙な表情で樹は切り出す。
「色々と考えたんだけれどさ、どんなに親しくても踏み越えてはいけない一線ってあるよね。私って少し無神経だったかなって」
「何のこと」
誤魔化す気はなくとも、心当たりを探る努力はいまひとつだ。
「だから、趙教授と関わることに横槍を入れたでしょう」
「ああ、そのことね。先生は寛大だから、噂程度ではびくともしないよ。周りが騒ぎ立てることじゃないような気がするが」
「そうね。私も試験とかで神経質になっていたから、必要以上に大きく取り上げてしまったのかもしれない。大人なんだから、いざとなったら、不相当な処分を争う気概くらいはあるのよね」
救いを求めて慌てて論駁している感じだが、樹は無条件に優しさを求めるほどの図々しさはなかった。
「どうなんだろう。あんまり世俗的な関心事には触れたがらないし、人気に気を揉むほど拘る気配はなさそうなんだ。むしろ僕や父は、政府の対応に憤るという構図に慣れてしまっているのに、先生は便乗することはない。他人が立腹するのに合わせて腹癒せをしようとするような俗人だったら、処分後に名前を囁かれることはなかっただろうね」
「ごめんなさい。私、何にも知らなくて」
「吃驚するような剣幕だったね。篤実さゆえかな」
静かに波打ち際に立つように、相手に寄り添おうとする意志がある。
「そんな大層なものじゃないわ。私はただ、政府との反目が為にならないということを主張したかっただけ。消耗する一方の闘争なんて、最後には私憤のレッテルを貼られてしまうじゃない」
「なるほど。僕らが争い方を間違っていないか、気にかけてくれたわけだ」
「親しく付き合う人が、泥沼にはまるのを見たいとは思わない。勝手な思い入れだったと反省しているけれど、私は政府官僚の横暴さを見限るのでなくとも、やっぱり権力を笠に着た行動には物凄く抵抗がある」
様々な経験が政治不信の背後にあるが、そのどれもを知らしめようとする趣旨では話していない。樹は政治が人民を救うと同時に害悪にもなることを肌で知っているだけだ。
「権力欲に取り付かれると、体制を維持するためだけに汲々とする役人は多そうだからね。信頼して沙汰を受けよという話になると、行政にそこまで人の命数を弄ぶ権利があるのかと腹も立つだろう。僕も、趙先生に処分に関しては、腑に落ちないどころか出鱈目だと思っている。同じ怒りに出発しているのなら、君の取った行動は責められるものではない」
「でも、押し付けがましかったでしょう。反省しています」
「何とかもっとすっきりした形に収まればいいんだけれど、この件は未だに圧力がかかっているからね。誰かを頼ろうとかしようにも、厄介ごとに巻き込むのは気が退けるんだ。できれば君にも陰鬱な世界を覗き見るようなことはさせたくない」
「私は見た目よりもずっと強いのよ。一緒に悩んであげられるなんて言われても嬉しくないかもしれないけれど、桂君に理不尽な扱いをするなんて黙っていられないわ」
勇ましく口角を引き締めて、樹は泰斗を見遣った。心情は微細に亘って伝わり、泰斗を力づけた。いったん俯き加減になって沈思した後、彼は思い切って切り出した。
「あのさ、梅沢さんは闇雲に突き進むより、足場を固めることを考えるべき時期だと思うんだ。確固たる基盤を得て生き生きとしている女性の方が、僕は幸せだと思うよ」
「協力してくれるの」
「僕が。いや、そういうつもりで言ったんじゃないんだけれど」
少し狼狽し、取り繕うために小さく笑った。意味ありげに樹は流し目を繰れる。
「なんだ、残念ね。桂君が応援してくれれば勇気百倍なのに」
「じゃあ、君の為に何ができるか考えてみるよ」
「いいわよ、気を使わなくても。いずれ、真心が形になるときまで贅沢は言いません」
少しわざとらしく拗ねて見せると、泰斗は悪くは受け止めなかった。
「僕らにはまだ先があるということだね」
「宜しくね」
「こちらこそ」
顔を突き合わせていると、青年達は体の底から湧きあがる熱情に満たされた。
四年の月日が経った。
大学を卒業した樹は西域の貿易センターで働き始めた。相変わらず繁盛しており、ホテルを建ててからは外国人の往来もいっそう盛んになっている。多額の納税をするようになった樹の父は、地元の有力者としても会合を重ねるようになり、政治のコネもできて順風満帆の日々を送っている。彼の下で翻訳の事務を請け負っている樹は、契約書類を精査するのを日課にしており、不備がないか目を光らせる姿は風格さえある。
この日も朝から十件近い契約が結ばれ、搬送作業に移すために係員に指示を出すのに樹は忙しい。倉庫に横付けされたトラックに段ボール箱が次々と載せられ、樹はその側に寄って積み込みの進捗状況を尋ねた。
「どのくらい進みましたか」
「七割がたの荷物を積み込みました」
「後三十分で出発です。急いでください」
パンツ・スーツ姿の女臭さを感じさせない仕事の風景だが、特別に厳しくするでもなく、精確に職務を遂行する姿勢には好感が寄せられている。トラックの荷積みをしている青年も樹の凛とした喋り方や歩き方が好きであった。
「樹ちゃん、いつ見ても綺麗だな」
「仕事をしろよ。彼女がお前なんかの相手をするわけがないだろう」
もう一人の荷積みの同僚が悪態をついて、頭を小突いた。
「でもさ、いいよな。最高だぜ」
「分かったから、仕事を済ませたらお前が報告に行け」
「そうだな。困らせたりしなければ、見ていてもいいんだよな」
「羨ましいよ、そのお気楽さが」
貿易センターでは日常的に物資の搬出入が行われているので、彼らの忙しさは樹の比ではない。その苦労を彼女が労わるので、慰撫されたような気持ちになる職員も少なくない。職場の仲間から慕われるのは幸せなことであるが、樹には忙しさにかまけて深く詮索するゆとりはない。曖昧で表面的だが、つくづく平和な職場が成立している。
午後の一時、仕事の合間に机に向かったまま一息ついていると、樹の携帯電話が鳴った。誰からなのか関心を持たずに、のっそりと手にとって電話に出た。
「はい、梅沢です」
「桂です、こんにちは」
「桂君」
素っ頓狂な声を上げて、携帯電話を握りなおす。樹は視界がぼやけるくらい慌てふためいている。
「なによ、忙しいんじゃなかったの」
責めるような口調になるのも無理はない。三ヶ月の間音沙汰がなく、油断しきっているところに電話をしてきたのだ。
「近いうちにそちらにいけるかもしれないんだ。一応、連絡しておこうと思って」
「休暇でも取るのかしら」
半信半疑で意地悪く泰斗の不精に恨み言を言う。彼はなおも堂々としており、段々腹立たしくなってくる。
「違うよ。遺跡の発掘をするんだ。仮説の立証といえば聞こえはいいけれど、放置されたままになっている墳墓を掘り返すんだ」
「呪われるかもしれないっていうこと」
冗談に泰斗は笑った。
「科学的には証明されていないけれど、墳墓を発掘している最中に突然死する人はいるらしいね。黴のせいだとか、防腐剤のせいだとか、色々と説がある。でも、大丈夫とは思うけれどね」
「そんなことは分かっています。それで、こちらに来るときには連絡してくれるわけ。遺跡まで来いなんて言わないでしょうね」
「あれ、見たくないの。僕は子供の頃に見て感銘を受けたんだよ。十年越しに発掘が実現して、これは梅沢さんにも教えてあげないと勿体ないと思ったのに、意外とつれない態度だね」
「どっちが愛想がないのか教えてあげましょうか。桂君って、本当に賢いのか抜けているのか分からなくなることがあるよ」
樹が情けない声を出すと、泰斗ははきはきと話を進めた。
「いい報せがあるんだ」
「ええ、あなたが西域まで来てくれるなんて嬉しいわ」
「真面目に聞けよ。趙先生が教授職に復帰したんだ」
間が空いたが、もちろん小さな驚きが声を詰まらせたのである。在学中にも繰り返し請願活動はされていたが、参加しても徒労感を感じるほど大学は政府寄りだったのだ。泰斗が伝えたかったのは、どうやらこちらの事実のようであった。
「念願叶ってのことなら、喜ばないとね」
一語ずつを噛みしめるように、泰斗の心の襞にそっと触れるように、樹は精一杯の優しさを声に含めた。
「君も努力してくれたじゃないか。僕からも礼を言う」
「よく大学が不始末を自認するような決定をできたわね」
「残念ながら就任する大学は代わったよ。だけれど、大きな前進だ」
「そうなの。報せてくれてありがとう。私、ずっと疑問に思っていたんだよ。心の澱が取り除かれていい気持ち」
胸のうちが空くような痛快さが、徐々に込み上げてくる。男だったら、雄叫びを上げて喜びを表す場面かもしれない。
「父さんなんてぐちゃぐちゃに泣いちゃってさ、大騒ぎだったよ。でも、腫れ物が取れた途端に発掘許可も下りるっていうことは、喜ぶべきことなのか分からない。喜んではいるんだよ。君にも会えるし」
歯切れは悪いが、今後の指針をどう定めるのかまだ迷っているからだ。今までの抑圧がすっかりなくなってしまうのなら、今度は自制的に振る舞わなければならない。
「今は考古学に夢中になっていて。私じゃ気の利いたことは言って上げられないみたい」
「そうか。じゃあ、そちらに着いたら、連絡するから」
「歓迎します」
「楽しみにしている」
感慨も一入であるが、電話はそこで切れた。呆然としながら、時の流れが無常なほど速く、それと同時に人心も変わることを樹は感じていた。泰斗も変わってしまうのか不安はあるが、誼を全否定するような浅薄な功利主義者なら付き合いはなかった。肝心なところでは度胸も必要だと、樹は気分を入れ替えるために唇をきつく結ぶ。
趙の教職就任は樹にとっても重大な事実だ。何しろ泰斗は趙の指導で研究者への道を歩んでいるのだ。請願活動に参画した同志なら知っていなければいけない情報だが、泰斗の知識は趙の知識を発展的に構築しなおしたものである。単なるカーボン・コピーだと揶揄するのが粗放者の限界なら、涵養の成果に刮目するのは友人なら当然だろう。
段々と泰斗が手が届かない人になっていきそうで、ごく普通のホワイト・カラーである樹には大きな節目となりそうである。劣情があるかどうかさえも怪しい男を気にかけなければならないのも哀れだが、まったく相手にされていないと考えると、これまでの付き合いとの整合性がなくなってしまうので、ごく自然に慕う気持ちを持っても不自然ではない。
ただし、程度を間違えれば怪訝に思われることはあるかもしれない。だが、今回の樹はそれでもいいのだと思えるくらい愛憎に囚われている。冷静にならなければいけないという感情を遥かに凌駕する熱量の蓄積を待って、調整弁が開かれたという感じだ。趙の復権によってもたらされた安堵が切っ掛けを作ったのかもしれなかった。
自分が不安定になると、無性に笑えることがあるが、確かに樹はくすりと笑った。そして、大きく息を吸い込むと背筋を伸ばし、いつ到着するかも明らかでない男のことを思念から追いやった。彼女が強いからではなく、声が震えるくらい不安定になってしまうのを、泰斗に見られるのが恥ずかしかったからだ。彼が到着するまでに冷静になれるか、樹は自らに問いかけるのだった。
西域への出発を控えて、泰斗は趙に助言を仰いでいる。
「先生、墳墓は野ざらしになっていると思いますが、もし玄室を発見したら直ちに保存作業に入るべきでしょうか。歴史的価値を考えると、粗末に扱っていいはずがないんです」
「そうだね。継続的な調査が施されるだけの価値は、兵馬俑の発掘で証明されている。桂先生の論文でその趨勢は決定的になったから、西域研究の一里塚として、真理解明の欲求以上に現状保存を優先しなければならない場合もあるだろう。保存状態を見て、研究スタッフの合議で決めなさい」
指導的立場にあることを最近痛感している趙だが、泰斗の知識水準はここ数年で飛躍的に伸び、考古学的推測を一人前にできる水準になっているので、そろそろ自立を急がせるべきかとも考えていたところだった。
「僕は古代の装飾や浄土信仰の具象化したものが出てきそうだと踏んでいるんですが、一度の調査では総て明らかにできないかもしれませんね」
「考古学だもの。存在が消えてなくなっても、痕跡を調べるのが学者の意地っていうものだよ。それはそれで考察の楽しさがあるんだけれど、やっぱり君のように、時代を超えて眼前に現れる遺物には私も魅力を感じる。時間が許せば私も同行したかったんだが、講義のノートを作るのに手間取っているんだ。人に教えるのは、学ぶ以上に難しいね」
初心に帰ることで、知識の構築に有益な方法を模索している段階だ。もちろん多くの手段を心得ているが、望まない挫折を通じて、今の自分に可能な講釈は何かを見つめなおしている。
「いい成果を持ち帰りたいと思います。帰ったらご報告に上がりますので」
どうやら泰斗は巣立っても趙の居宅に出入りしそうである。
「若いうちは研究が面白くてしょうがないだろうが、もっと大事なこともあるんだよ」
窘めるほどの切迫感はないが、趙は諭した。
「そうでしょうか」
「そうさ。若いんだから恋をしなければだめだよ。梅沢さんとは連絡を取っているのかい。悪くは思っていないんでしょう」
「西域で会う約束になっていますが、そんなに急がなくてもいいんじゃありませんか」
「子孫を残さないと楽しみがなくなってしまうじゃないか」
直接的な言い方に泰斗は笑顔を見せる。
「いつかは結ばれたい、というような色気を見せたら冷めてしまいませんか」
「私の若い頃は、強引な男の方が人気があったよ」
「今度会ったら、将来の願望を尋ねてみましょうかね。こちらも報告した方がいいんですか」
「是非聞きたいね」
趙は悪戯を成功させた少年のように目を輝かせた。言いくるめられた気がしないでもないが、泰斗は気分の中に仄かな温かみが宿らせていた。
西域の遺跡調査隊は早朝に集合し、オフロード・カーに分乗して出発した。郊外に向けてハイウエーを経由し、丘陵地帯を越えて砂漠近縁にまで到達するルートで、大まかな地図のほかは土地勘を頼りにする旅である。
既に遺跡のロケーションを確認済みなので、現地作業員の手配や宿泊施設の確保など、手際が要求される仕事を除けば心配されるほどの困難はない。スタッフの士気は高く、頓挫する心配もないことから行楽に向かうように和やかだ。
途中でばてないように抑制されているが、経験の浅い研究者たちは興奮で目が冴え渡っている。車中で交わされる会話の中で、しきりに引用されるのが姻戚外交説だ。泰斗の父が提唱した西域の支配構造の仮説だが、最近になって否定し得ないほど勢いを得ている。主に若い研究者に支持され、今回の有志の集結にも影響しており、仲間を嗅ぎ分ける符丁のように囁かれている。
ハイウエーの終点まで来ると、疲れから話は細り、誰からともなく沈黙した。車体が揺れる音が支配的になり、耳に残るのは単調なリズムばかりになった。当たり一面の平原を走りに走り、車は西に向かった。
調査隊の一行が西域のオアシス都市に到着したのは昼時だった。広いばかりで荒れ放題の一本道の彼方に街並みを認めると、運転していた若者は仲間に市街地の案内を頼んだ。安宿を取ってあり、そこを拠点に数週間の滞在をする予定になっている。近代的な建物が建ち始めており、時代に取り残された遺物のような印象は薄らいでいるが、泰斗は車中から街並みを懐かしく眺めた。
宿に到着し、食事を用意してもらうと、食卓を囲んで会話が交わされた。
「開発が進んでいると聞いたけれど、古びた生活様式がすぐに廃れるわけではなさそうだね」
「お陰で安い宿を確保できた」
「食事も悪くない」
「歴史に接する幸福のためなら、この程度の不便はなんでもないことさ」
「作業の手配は万全だろうね」
「抜かりはないよ。こんなところで立ち往生はしたくないでしょう」
「早速明日にでも作業員を召集して発掘を始めよう」
「天気さえよければ二週間もかからないんじゃないかな。私たちの目的は遺跡の確保であって、全容解明ではないのだから」
「でも、限られた予算で成果を上げなければ、能力を疑われないか」
「発掘チームの顔ぶれを見れば、誰かの指導の下に結論を出すべき人選ではないことは明らかだ。ここは客観的観察を加えて連名で発表しろということだろう」
「若い人ばかりが選ばれるわけだ。しがらみがないのが取り柄だろうからね」
「いずれにせよ、現地での指揮は体力勝負だ。今日はゆっくり休んで明日に備えよう」
食事を終えてから眠る者や、発掘の手配に奔走する者がいたが、泰斗は車に乗って出かけた。仲間には知人に会ってくるとだけ告げ、深夜に戻る予定で四輪駆動車を走らせる。色彩に乏しい寂しい雰囲気の街並みを駆け抜け、郊外に向けて進路を取った。
一日の仕事をあらかた終えて、樹は胸が圧迫されるほど息苦しい時間を過ごしている。昼過ぎに泰斗から近辺にまで来ていることを伝えられ、間もなく会いに来ることになっているのだ。電話や手紙だけのやり取りだったので、呼吸を感じるほど接近するのが照れくさい。そういう見方をするとますます気詰まりになって、気持ちの持ち方を考え直さなければいけなくなる。
少女のようにはしゃいだりできれば楽になれるのかもしれないが、それは心根に備わっている安定感を放棄することでもあり、一時的に浮かれるだけでは幸福を引き寄せられはしない。自戒を込めて、樹は溶け合うようにひとつになれる瞬間というものを極力考えないようにした。もしも願望に押し切られたら、軽薄な女になったように緊張の糸が切れてしまいそうなのだった。
どういう手順を踏むべきか。樹の目の前には階段状に次へと繋がるステップがあるとしよう。順調に駆け上がっていけば、どんどん先々が見えるようになるという具合だ。確かに総てのものを順番に並べて、全部一直線に並んだのを見届けるのは納まりがいいかもしれない。だが、現実には連続する事物を共通の観念で括りあげるのは無意味だし、固定化した人格などはありえないことから、視界に総てを収めて悦に入ろうなどと思うのは馬鹿げている。事実を整形して艶出しまでしないと身上が安定しないという幻想を見るのは自由だが、現実世界に持ち込める種類の願望ではないことくらいは誰にでも分かりそうなものだ。
となると、慕って寄り添いたいのなら、無様でもいいから出発点である自分自身を見つめなおすほかない。そこに自分がいるのを心から肯定し、受け入れてもらえる幸せを噛みしめようという気持ちに忠実になるべきである。もっとも、意識してしまえば媚びているのと外形上は変わりはない。飽くまで自らを安定させるための試みであって、人格内部で完結するのなら愛される資格だけはあるだろう。
樹が悶々としていると、父親が側にやってきて話しかけた。
「今日はもう帰ってもいいぞ。お疲れさま」
「友達と会う約束になっているの」
「遅くなるのか。物騒だからふらふら歩き回らない方がいいと思うが」
心配そうに軽く眉をひそめたが、不機嫌になったというわけではない。
「ホテルでお酒を飲んで話をしようと思っている。積もる話があるのよ」
「そうか。まあ、羽目を外し過ぎないようにしてくれよ」
「ええ、もちろん」
意外にはっきりした返事をするので、梅沢氏は訝りたくなったが、あまり干渉すると嫌がられるであろうから引き下がった。
終業間際に樹が出た電話は泰斗からのものだった。
「今、着いたよ」
「どこにいるの」
「駐車場。どこに行けばいい」
「敷地内にホテルがあるから、そこのバーで落ち合いましょう。私も今から事務所を出るわ」
「ああ、案内が出ている。多分迷わないで行けるはずだ」
「先に出て待っているから」
ホテルの前で遠方を眺めつくすように気を配っていると、果たして泰斗が歩いてきた。樹は手を掲げて軽く振った。気付いた泰斗は通路を過ぎって、エントランス前方に立っている彼女のところに近づいてくる。
「立派な建物だね。僕が滞在する宿とは大違いだ」
「長旅になったんじゃないの。疲れているでしょうから、座って話をしましょう」
二人は連れ立ってホテルのバーに腰を落ち着け、互いの顔を見合わせてくすぐったそうに笑った。
「桂君、本当に会いに来たね」
「そういう約束だったから」
「この数ヶ月って信じられないくらい色んなことがあったようだけれど、落ち着いて話をできる気分になれるものなの」
洒落た雰囲気の照明に泰斗の顔が照らし出され、樹は探り方が厭らしく聞こえないか気を配った。お陰で声は静かで扇情的ではない。
「とは言っても、やっていることはこれまでの生活の延長線上にあるから、驚きや戸惑いはないんだよ。まだじわじわと嬉しさがこみ上げてくるような実感もないし、これからが大事なんだって思うしかないのが現状かな」
関わり方はごく自然で、何かを期待したりしている人の喋り方ではない。
「逞しいわね。男って夢や事業に打ち込んでいる時って子供みたいに純粋になれるそうだし、案外と桂君も周りの雑音が気にならなくなるところまで達しているのかも。一世一代の大仕事って、そうでもなければできないでしょうね」
「一人じゃないんだよ。仲間が大勢いる。皆、選りすぐりの頭脳の持ち主ばかりでね。油断して思考を止めると劣等感に苛まれそうなくらい、立派な人間に囲まれて仕事をしている」
「桂君も優秀じゃない。若いのに研究者として認められているんでしょう」
さらには信頼もある。樹は泰斗の能力を高く買っていた。
「さすがに皆、分別がついているから、手柄の奪い合いということにはならないんだけれど、それでも実績を残して箔をつけようという気迫は感じるね。チームで仕事をする以上は協調しなければならないし、とりわけ共同作業であっても妥協を許さない気持ちは誰もが持っているんだ。本来なら僕も生半可な気持ちで参加してはいけないんだけれど、研究一色では人間として未熟だと趙先生がおっしゃるのでね」
「だから会いにきてくれたんだ」
「各方面に色気を出している」
自嘲して苦笑いをすると、グラスを傾けた。ウイスキーの芳醇な香りが口から広がる。一拍おいて樹は茶化しにかかる。
「趙教授に感謝しないとね。踏ん切りがつかなかったかもしれないでしょう」
「そうなんだけれどさ。でも、僕は好意があるのに誤魔化したりはしてこなかったでしょう」
「裏切りがないことを以って誠実な付き合いだったと。美しいなあ。でも、人肌の恋しさを忘れるくらい忙しくするっていうのも罪なことよね」
責めているのか冗談にしたいのか曖昧なままであり、泰斗を困らせるには十分だった。
「勘弁してよ。僕はまだ学生だよ。浮かれていると、頭の中身が真っ白けになってしまわないかと不安になるんだ。女に溺れたら、きっと根源的衝動は向上心に結びつかないと思う。女性と向かい合って好きだの愛しているだのと囁いているうちに、肉体を燃焼させる情念は衰えてゆくものじゃないかな。僕は女性にまめに愛情を注ぐことができないわけではないけれど、それのみに満足するほど刹那的にはなれないんだ。しかしね、君が寂しさを感じるというのなら、僕は白状しなければいけない」
真摯さを損ねないように、しかしながら張り詰めた空気にならないように泰斗は気を回した。今度は樹が視線を逸らしてウイスキーを呷った。
「どうやって埋め合わせてくれるというのかしら」
再び視線がからむ。
「僕は君に恋をしている。ずっと昔からだ」
樹は噴き出した。ウイスキーのグラスを弄びながら、微笑を薄くしてゆく。
「お母さんの姿に惚れこんだからかな」
「ずっと聖女のように崇めて、面影を追いかけてきた。僕は樹のことが好きだ」
「ありがとう。でも、約束して。面影だけでなく、本当の私を愛してくれると」
「きっと迎えに来るよ」
「待っています」
二人はウイスキーのグラスを掲げ、かち合わせて乾杯すると、琥珀色の酒をひと口ずつ口に含み、暫く無言で誓いの余韻を味わった。
荒野を四輪駆動車の一群が疾走している。助手席の窓を開けて、泰斗は風に髪の毛をなびかせながら乗り出して目を凝らす。目的のものを見つけ、彼は車の中に引っ込んだ。
「あの丘陵地が墳墓の目印になっている。論文で読んだと思うが、天然の岩盤を穿って作ったものだよ。裾野に停めて、後は歩きだ」
「諒解。後続車も停まれるスペースを探す」
縦列の車両は次々に路肩に駐車し、作業員が若い研究者たちの先導でぞろぞろと後に続いてくる。手に手にシャベルを持っており、砂埃を用心してマスクを着けている者が多い。辺りの岩盤には砂塵が固着して黄土色の肌を曝しており、見た目は軟弱な地盤が露出しているようにしか見えない。しかしながら砂礫質の丘陵は巨大であることによって、死後の世界では大海に浮かぶ船のような役割を果たしているのかもしれない。
一行は斜面を登りきり、比較的なだらかな頂上部で集合した。作業班を三つに分け、各々に指示を与え、散会して配置に着くと一斉に地面にシャベルを突き立てた。砂塵が降り積もっており、かつて顕在化していた側溝なども埋もれていたが、作業開始後にその影響も懸念するほど深刻ではないことが分かり始めた。細かい粒子の砂が風に運ばれて堆積しているだけで、比較的堅固で保存状態のいい墳墓の構造には浸食が及んでいないのである。
埋もれている遺跡を発見した人物にこそ第一の功績があるべきだが、砂の下にあることで昔日の姿を留めていることは、発掘チームにとっても推測を加えるのを容易にしており、歴史的発見に立ち会う興奮がいよいよ現実のものとなりつつある。彼らは連携して示し合わせると適確に段取りを組み、作業員たちを急かしはしないまでも、着実な進捗を得るべく自らもシャベルを取って眼光を鋭くした。
初日の作業の成果で、側溝が広い範囲で姿を現した。以前の発掘で探知済みの部分が多く、土器の出土など新たな発見はなかったが、遺跡の全容は確実に明らかになろうとしている。日が暮れる前に撤収を開始したが、暗くなれば丘陵には明かりひとつなく、闇の中に溶け込んでしまう。一日の疲れが肩の筋肉の張りとなって現れているとおり、日頃あまり運動をしない研究者にとっては過酷な労働だ。屈強な日雇い作業員たちは平然とした顔で車に乗り込んでいくが、研究者たちは疲れたことを否定し得ない鈍重な仕草を見せた。
次の日も引き続き側溝部分の掘り返しを続けたが、左右対称の方形構造であること以外はまだ判明していない。必ず玄室があり、死者の弔いの為に様々な宝物が埋葬されたはずなのだが、これだけ大規模な墳墓となると、どこにあるのか推定しても直ちに特定することは困難だ。研究者達は昼休みに集合して見通しを語り合った。
「方位に応じて墳墓の向きが決定されたのなら、太陽の位置から玄室の所在は分かりそうなものだが、やはりもう少し掘り起こすしかないのかな」
「山岳信仰があったとするなら、丘陵が楕円形であることを以って、そのまま墳墓の枠組みが決定されたという可能性もある」
「丘陵そのものが墓になったということか」
「そうすると、ますます玄室の在り処は分からなくなるな」
「掘り返して出てくれば、まだいい。もしかしたら中央王朝を真似て造った、単なる祭礼施設という可能性もあるんだ。本当に兵馬俑はこの側溝に埋める目的で設置されていたのか検証してみなければいけないんじゃないか。安置される場所として選んだだけだとしたら、墳墓ですらなく、端っから玄室などは存在しない。騎馬民族が土器を作るのにどれほどの燃料を要したか考えると、技術は不要なものとして忘れ去られたと考えるほうが自然だし、報告では西域の土が使われているとされているが、やはり祭祀儀礼で用いたにしても他に報告例がない。朝貢の見返りか、あるいは古代版の民族同化か。物証に目が霞んで、墳墓と思い込んでいないか注意すべきだ」
「技術そのものは中央王朝のものだと仮定すると、人質か捕虜の墓だという線もありうる。規模からすると王族に連なる将軍くらいの地位はあっただろう。かなり特殊な理由で造営されたのなら妥当な推測だと思うが」
「今は掘り進めるしかないと思うね。玄室が出てくれば推断の手がかりを得られるはずだ。幸いにも丘陵上に何らかの構造物が存在したことが分かっているのだから、時代考証から土木技術の水準も解明できる。石造りの玄室だとしたら、どの深度に埋まっているか、当時の技術から逆算するという手法を採れるだろう」
「今の段階では、あてずっぽうという手段さえも前向きに思えるね」
「考古学はいかがわしいくらいの方がロマンがあるのさ」
談笑しながら食事を終えて、彼らは午後の作業にのめり込んでいった。
一週間と四日後、ついに作業員が固い石版を掘り当てた。呼ばれた研究員が駆け寄ってしゃがみこんだ。石質からして遠方から切り出されて運ばれてきたものであると判別できる。
「人を集めてくれ。掘り出すんだ」
鋭い声質で招集をかけると、ほぼ全員が石版の周辺の土を運び出すのに参画した。固く乾いた土を周りに積み上げてゆくと、石室が露出して存在が確認された。
「玄室で間違いないか、開けてみよう」
「手を貸してくれ、入り口の石版を外す」
「まずはファイバースコープを用意するんだ。中の様子を撮影する」
ばたばたと機材が運び込まれ、密封するのに使ってあった漆喰を削り、ファイバースコープを挿し込んだ。奥に差し入れると石室の中の様子が映し出される。
「凄いぞ、石棺だ。今度は壁を映してくれないか」
「壁画だ。中央王朝の墳墓と同じ様式だな」
「やっぱりここは墓だったんだ。それも中央王朝所縁の人物の」
「忙しくなるぞ。この発見を報告しなければいけない」
大わらわの中、玄室の調査が研究者たちによって行われた。
発掘開始から二週間後、現場に人はいない。剥き出しになった遺跡を乾いた風が撫でてゆく。その様子を二人の人影が眺めている。
「寂しいところね。お墓ってどこもこんなものかしら」
樹はすらりと背の高い男に語りかける。
「たったこれだけの発見で、人は歴史を見つめなおすんだよ」
泰斗は感慨深げに彼女を見た。
「憎しみあったりする人たちにも、何かの切っ掛けになるのね」
「だからといって、戦争はしてほしくないな」
「豊かになれば、人を憎まずにいられるかというと、業の深さに悩まされて切々と人を呪ったりするもの。考古学が真実を暴いたから不要な争いが起こったと考える人たちもいるかもしれない」
意地悪く指摘し、樹は完全に世事と切り離された綺麗な事実などはないのだと迫った。
「歴史を一本の線で結ぼうという正統性の主張を際限なく許せば、そういう争いはなくならないだろうね」
「幾つもの歴史が折り重なって、偶然というものさえ歴史の所業に数えたりする。考古学の恐ろしさは誰の名誉に関わるか分からないところだと私は思う」
「前進するために、脱ぎ去るように過去を捨てるのが歴史ではないんだ。僕らは皆、過去にも未来にも繋がっている。父さんも、趙先生も、先輩達は歴史を編むことに誇りを持っていた。僕も彼らを継承したい。栄誉のためでもなく、知識欲のためでもなく、ペンが呼ぶ声に応えるためだけに」
力強いが、当人は凡庸な決意だと思っている。
「ありったけの情熱を、歴史の解明に注ぐのか。あなたが求めるものって、こんな砂漠で砂まみれになっていても、まるで損なわれなかったのよね。失われる一方の営みには、魅力を感じないの」
訝るように樹は斜めに見上げた。それに応じて泰斗はくすくすと笑う。
「ありふれた営みに根を下ろさないと、どんな大業も成し遂げられないよ」
「良かった。変な男だったらどうしようって思った」
「酷いな。僕は平凡で可愛い男だと思われていたいな」
「帰りましょう。こんなところに誘うなんて、色気も何もあったものじゃないのだから」
「そうだね。でも、ちょっと誇らしいんだ」
歩き出していた樹は、困ったような顔をしながら陽気な男を見た。
砂を蹴立てて四輪駆動車が荒野を走る。車中で泰斗は思い出したように付け加えた。
「知っているかい。伝承では聖地は西にあるんだ」
彼は愉快そうであった。
了 この物語はフィクションです