『冒険浪漫』

                                  作 石島利秋

 

 煌びやかに見える足取りも、小路に入れば覚束ない。徐朱の目から見た地の果てというものは、そんな、よく知っているようで、やはり初めて訪れるというのに、いつしか通った記憶がじんじんと熱を持つように甦る感覚を伴う。

 何度も見た空。どこまでも続く地平。そして、それは胸の奥に尖ったまま飛び込んでくる。

 彼にとって空は挑みかかるだけの価値がある巨大な質量を保っており、ただそれだけのことで多くの人達も空を仰ぐ。空を飛ぶという行為は無限に伸びる小路を全速力で突っ切って、その向こうにあるものに可能な限り接近しようとする営為であり、微かな不安感を代償に大きな満足に到達できるのだ。

 本当に総ての人が地の果てに希望を重ねて見ているのなら、誰もが清々とし、胸いっぱいに空気を吸い込み、目を大きく見開いて進もうとするだろう。だが、ほとんどの人は飛ぶ手段を持たない、もしくは飛ぼうとも思わない。二本足の生き物は飛ぶことの幸福を知る機会に恵まれず、生まれて此の方、空は天高くにあって落ちてこないというだけの、漠然とした地理的条件に過ぎないのだ。

 地に足のついた安定した実生活に、心を浸して洗浄するような大掛かりで荒唐無稽ともいえる営為は必要か。単純に答えることで必要十分だとするなら、家族や友と語らい、暖炉に薪をくべられる手近な椅子で安楽な時間を過ごすことの幸福は、否定されてはならず、突飛な行動はそのまどろむような穏やかな時間を壊しかねず、大人になれば地の果てに気持ちを持っていくよりは、全てが安楽な椅子なのだ。

 それでも徐朱は飛ぶ。

 雲の切れ間から、光が差し込むことの感激を知っているから。

 

 静謐な空間、器に盛られた野菜が新鮮なまま目の前に置かれたときの、溌剌とした人生の張りを感じるには静か過ぎると感じる空間だ。ただし、新鮮な野菜に喩えるなら、ハンド・マイクを向ける女性はごくそれに近い。

 インタビューは初めてではなかった。

「今回のフライトは以前にも況して危険な航路だったようですが、怖いと思ったことはありましたか」

 テレビ局の女性が突き出したハンド・マイクは、微細な音を拾うための道具だが、徐朱のよく通る声にはあまり性能の優秀さは影響していない。

「怖いと思う以前に、飛ぶことが幸せなんです。誰もが挑戦したいと考える冒険に駆り立てられたのですから、僕が飛ぶことには意味があるのだと、いつも思っています。人は守るべきものが多すぎて、よく臆病になりますが、冒険家はそれを嘲ることなく、彼らの内なる声を聴かなければいけません。本当は飛んでみたいんだという、密かな願望を全身で代弁するのが、僕の置かれた立場であり、役割だと思います。ですから、怖いと思っている暇なんてありませんでした」

 やや目尻を緩めて、徐朱は歯切れよく人気者を演じた。とはいっても、彼は根っからの善良人であり、本心を偽ることはなく、思ったままを語ったまでだ。

 インタビュアーは勇敢な冒険家に敬意を表し、少し畏まって質問を続けた。

「一段と名を上げて、プライベートの時間も限られているとは思いますが、今でなくては出来ない、今一番したいことなどはありますか」

「そうですね、フライトの後は身体を休めないといけないんですが、じっとしていることが苦手で、家にいるときも何かしら身体を動かしています。最近は料理もします。ガーッリクやオニオンを効かせたスパイシーな料理を時間をかけて作って、同じくらい時間をかけて食べます。でも、何をしていても、やっぱり次のフライトのことを考えてしまいますね」

 相槌を打った女性は、胸が躍るほど興奮しているといった口調で、話の続きを促した。

「お料理をされるんですね。誰も知らなかった徐朱さんの素顔に迫れた気がしますが、早速次のフライトを考えていらっしゃるということは、近日中にまた新たな冒険飛行をお伝えできると考えてもいいのでしょうか」

「ええ、飛びます。オファーも多くて、航路の選択には悩まされそうですが、空の玄関と玄関を繋ぐ大事な飛行になると思います。誰も挑戦した事のない、困難な事業になるとしても、僕の飛行技術はまだまだ役に立つはずです。最低限、事故が起こらないように万全を期して、関係者の方々の期待に応えたいですね」

 社会性も豊かなところを覗かせ、徐朱は鷹揚に受け答えをした。聞き耳を立てて聴いていても退屈しないようにすることは難しいが、飛躍しないで話の筋を追えることも重要な要素であり、彼の弁舌は専ら初めて彼の事を知る人を意識している。

 そんな気の利いたさりげない気の回し方を、くすぐったいように好意的に感じたインタビュアーは、直接視聴者にアピールする機会を提供した。

「視聴者の皆さんは憧れの徐朱さんの一挙手一投足を見守っていると思いますが、なにかメッセージがあればお願いします」

「初めて飛んだ頃は自分のためだけに、自分の目線でしか物を見られませんでしたが、今は多くの人と一緒に飛んでいるように感じます。声援が力になっていることは間違いありませんし、気分としてはいくら時が流れても駆け出しの冒険家なんです。ですから、良かれ悪しかれ危機に鈍感になって惰性に陥りやすくなるのを、初心に帰ることで上手く克服できています。今度のフライトも、自信を持って飛べるはずだと思えますし、力強く手を振って行って来ますと、心から伝えたいです」

 

 放送の影響は絶大であり、どこにいっても徐朱は握手を求められた。

 夜の歓楽街は妖艶な臭気を放ち、陶酔を分け隔てなく与え、明るすぎない電灯の光が雰囲気を作る。鉄製の看板で営業の内容は分かるが、そればかりを見ていても気分が高潮してくるわけではない。もちろん戸口を潜ってからが本番なのだが、その戸口で徐朱は出来上がった若者たちに取り囲まれた。

「徐朱さんもこんなところで、安い酒を飲むんだ」

 薄暗がりで分かりにくいが、徐朱は薄く微笑んで通り過ぎようとした。不意に幾つもの手が差し出され、それを順番に短く握りながら人垣を掻き分けると、歓声が上がった。若者たちは余りしつこくすることも興ざめと見て、口々に騒ぎ立てながら戸口への途を譲った。

 店の中はオレンジ色の光に照らされて、木目の黒く浮き上がった調度品が鈍く光っていた。いくつかは空席になっており、隣人の邪魔にならなければ席についても構わないように思える。徐朱は酒を注いでいたマスターに、カウンター越しに語りかけた。

「マスター、こんばんは。呂騎は来ているかな」

 物憂げだが落ち着いた視線をもたげたマスターは、簡潔に答えた。

「一番奥の席に陣取っていらっしゃいます」

 なるほど奥の方に、優男が足を組んでビールをジョッキで飲んでいる。テーブルとテーブルの間をすり抜け、ウェイトレスが器用にステップを踏みながら給仕をしているのを邪魔しないように、徐朱は遠慮がちに、時々周りの酔客に目を配りつつ奥に進んだ。

「呂騎、一人で飲む酒は侘しくないかい」

 人柄からして挑発的とまではいかなかったが、棘のある言い方を好んで仕向けた。声をかけられた呂騎は、愉快そうに笑みを浮かべると、組んでいた足を下ろした。しかし、ジョッキからは手を離していない。

「まあ、考えることが多いときには、酒の味は良くわからないものでしょう。取り敢えずは喉を潤すだけに留めるべきなんだろうね」

 そういって、ジョッキを呷り、喉を鳴らしてビールを飲み干した。

「考え事というのは、例えばどんな」

 向かいの席に腰を下ろした徐朱は、親しげな仲を思い出したかのように聞いてみた。呂騎は呼気にアルコール分が混ざっていることを自覚しつつ、周りの騒音に負けじと大きな声を出した。

「女だよ。外に何がある」

 それが冗談だと分かるため、二人は声を上げて笑った。

 好色は男の社交性ともいえるが、呂騎に限ってはその影は薄く、一般に紳士的と評される、大人しく害意のない安定感を表情から体躯の端々にまで漂わせている。若い割には老成していて、そこが徐朱との意気投合に現実味を与えているのだが、彼らが語らうときに、女性という素材は滅多に俎上に上らない。決して興味がないわけではなく、話題に上れば歳相応に活気づくのだが、二人の間には暗黙の約束事があるかのように、女性には慎重であるべきだという見解を失念するには至らない。人生の楽しみの半分以上を女性に捧げている世の男性諸氏からすれば、呂騎や徐朱は異端に属する。

 生きる意味を投影し、支え合い、より確かな手触りに縁を求める。

 それは女性に対して男性が望むひとつの理想だが、夢や冒険といった青臭い事業に関わっていると、奥手とは言わないが、関心の比重の置き方はいくぶん事情が変わってくる。内向的だとからかわれても、一つの熟しきった濃密な世界観を持っていると、そこから足を踏み出して方々に手を広げるより、腰を据えて得意げにしている方が恰好はつく。

 冒険事業に乗り出している徐朱は、刹那的な高揚感と盲目的な献身には事欠かないほど恵まれているが、それは一種の挨拶であり、傾倒するには理由に乏しいこともあって、女性にはあまり多くを望んでいない。しかし友人は多く、彼の勇気と行動力を尊敬する女性も少なからず含まれており、交友の発展の土台となる人間関係はあるにはある。

 一方、呂騎は徐朱の冒険飛行を支える優秀な技術者であり、飛行機の設計やエンジンの考案にまで携る技術面の後見人だから、頭の中は知識を鍛造する工場のようになっている。先端技術を形に変えるには金銭面の充実は欠かせないが、説得的に事業の企画を言葉にするユーモアと熱意を残して、生活をめぐる感覚はいささか鈍麻している。だからこそ女が必要なんだという議論には背を向け、取組んでいる事業に没頭し、夢を形にすることを誇りにしている。

 彼らは若い。

 宵の口の酒場は、猥雑で下世話なことばかりを語らう場になりやすいが、そういう場所を歓談の場に選ぶ呂騎にして、この日は特別な用件が念頭にある。生活を放棄するほど技術者の顔を大事にしていながら、彼の愛情が湧出するだけの意味があって、大切に保管されていなければならなかった事実とは。

「話してあっただろう。君が飛んでいる間に、妹が留学から帰ってきたよ。一度会わせたいから明日の昼にうちに来てくれないか。全く紹介しないのも気が咎めるんでね」

 徐朱は意外そうな顔もせず、義務的に対処した。

「君に妹がいるという話は何度も聞いたよ。泣き虫で、いつも君の後を付いて歩いていたんだろう。今はかなりの勉強家だっけ」

「いい女になったよ。ただ、臆病なのは変わっていないみたいだ。冒険家を直接紹介すると言ったら、困ったような顔をしていた。取って食われるわけでもないのにな」

 冒険を拒絶するような保守的な女であるといわんばかりであるが、具体的に結像させようとすればもっと多弁になっただろう。早速にでも会ってもらいたいという趣旨であり、会えば大抵のことが分かるであろうから、説明は省かれたのだ。そこには先入観を与えるのではなく、会ったときの驚きを楽しむでもなければ退屈だろうとの配慮もある。

 呂騎の兄妹なら頭脳明晰で容姿も秀麗であろうとは想像がつくが、徐朱は渇くほど強烈に惹かれはせず、ただ知り合いとの血縁関係にあることが整理すべき情報の第一になってしまうあたり、無味乾燥な出会いになりそうな気配である。

 大仰に喜んで見せれば、相手もその反応に感化されて好意的に接するのかもしれないが、今のところ徐朱には仕事で社交をするのと大差のない心持ちだった。仕事では夢のような冒険譚を的確な表現で伝えることが専らで、好意の呼び水になるかどうかは相手の関心次第という状況がほとんどである。もっとも、呂騎の妹が特別に厚遇して喜ばしてあげたくなるような蠱惑的な女だとして、徐朱がステータスを誇示するのをためらわないとしたら、立場は逆転しそうである。そういう想定外の状況もまた、社交の醍醐味ではある。

 諸々の思惑を瞬時に押し流し、さっぱりと徐朱は答えた。

「明日の昼に君の自宅に行けばいいんだね。どう接したらいいかは顔色を見ながら判断するよ。妹さんを辟易させるようなら、すぐにお暇しなければいけないだろうね」

「無作法をするほど我儘な女じゃないから、気軽に訪ねてきてくれればいいよ。一緒に昼飯を食べながら、詰まらない話をしよう。詰まらないって事は大事だよ。なにしろうちの妹ときたら平凡以外に取り得がないんだ」

 つまり、当たり障りのない話をする限りは、気分が害されることはないのだろう。しかし、大胆不敵な兄にして、妹が資質を受け継いでいないという保障はなく、徐朱としては何が出るか少しばかり不安ではある。何らかの理由で気まずくなったりすれば、事業のパートナーとして顔を突き合わせる呂騎にも影響が及ぶかもしれない。

「気に入られた方がいいのかな」

「妹に合わせて舞い上がる必要はないと思うよ」

 特に気を回すでもなく、呂騎は飽くまで客人として徐朱を招くことを強調した。

 

 正午前、石畳の街路をゆったりと一定の歩幅で徐朱は歩いている。太陽は高く昇りつめ、日差しが軒並みの影を小さくくまどっているだけで、日光の香りが晴れ晴れとした気分に導いてくれる。類稀な上天気であり、道行く人も苦悩から解放されたように元気に見える。

 呂騎の住むアパートは、噴水のある中央広場ちかくの好位置を占めている。見上げると二階の部屋から白いカーテンの縁がなびいており、風通しも良いことを窺わせる。徐朱は階段を上って呂騎の部屋の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。

 部屋の中から女性が立ち現れ、徐朱の顔を見るとはにかんだように微笑んだ。

「徐朱さんですね、お待ちしていました。中へどうぞ」

 招き入れられた徐朱は、幾度か訪れたときの記憶の断片を引っ張り出しながら、呂騎のアパートの構造を把握しようとした。記憶が確かならば、入ってすぐ右側がキッチンで、東の窓が明るく採光していたはずだ。そちらの方向からは良い香りがしてくる。

 キッチンではエプロンをつけた呂騎が料理の皿を並べているところだった。

「来たな、徐朱。紹介しよう、こいつが僕の妹の呂花だ」

「呂花です、初めまして。兄がお世話になっております」

 呂花はショート・ボブの髪の毛を揺らし、お辞儀をした。面立ちは呂騎に似ており、白皙の顔は可憐のひと言に尽きる。徐朱は滅多に人の容姿に感慨を覚えないが、久しぶりに愛着を感じる女性を見て、少し嬉しくなりながら手を差し延べた。

「徐朱と申します。お兄さんには公私共々お世話になっています。呂花さんのお話はかねがね」

 呂花と握手をすると、二人は目を合わせたまま瞳で語り合った。立ち尽くして僅かの距離で見詰め合っているので、配膳をしている呂騎が邪魔にして冷やかした。

「許さないとは言わないが、まずは座ったらどうだい」

 我に返り、慌てて目を逸らした呂花は、手近な椅子を引いて腰を下ろせるようにした。

「どうぞ、お座りになってください、徐朱さん」

「ありがとうございます」

 遠慮せずに腰を落ち着けた徐朱は、呂騎と目を合わせてにやりとした。呂騎は鼻を高くしていかにも誇らしげにし、その意味を余すところなく汲み取った。

「だから、いい女だって言っただろう」

「兄さん、やめてよ。恥ずかしいじゃない」

 堪らずに呂花は小さな声で咎めたが、呂騎は大笑して、その上下する肩を落ち着かせつつホットケーキを皿に空けている。

「さあ、用意できたぞ。シャンパンを開けるから、出会いと帰還を祝って腹いっぱい食べよう」

 それぞれ席に着いた三人は、グラスを傾けて乾杯し、気分よく食事を始めた。

 焼きたてのホットケーキを半分ほど食べてから、徐朱が切り出す。

「呂花さんは美術の勉強をされていたそうですね。僕は芸術の価値が分からないので、山とある芸術の中から名作を選りだすのは難しそうだと思うんですよ」

 呂花は整った顔立ちに知性の閃きを通わせながら、所見を伝えた。

「美術にもいろいろあります。絵画、彫刻、版画、陶芸、写真など、専門分野を持って分担しなければ、およそ総ての美術に精通することはできないのですから、学ぶにしてもその分業は避けられません。私は絵画を勉強したんですが、複製や修復を主に習いました。古くなった美術品に永遠の命を吹き込むと入ったらロマンチックなんですが、資産としての美術に担保価値を持たせるために私のような技術者が必要になるんです。私が思うに、名作は時間の流れに晒されて初めて真価が問われるんです。下手をすれば、古いほど価値があるという論調も、まるで的外れではないということになってしまうんですね。でも、やっぱり、見ていて美しいと思えるものが一番価値があると思います」

 自分の得意分野に関してはある程度饒舌になる辺り、会話そのものに背を向けてしまうような傾向は見られない。充実した駄弁には、精緻な弁論と同じくらいの価値があることを、全く知らない、心当たりもないという人物ではないのである。

 呂花の器量は兄の力量の影に入ってしまうのかと危惧していたのだが、徐朱はそれが杞憂であることを知って、気持ちが楽になった。依存しきっていたりしたら、壊れ物のように扱わなければならなかったが、綺麗なだけでなくて、自立心旺盛な現代女性であることがどれほど頼もしいか、彼女の口振りから感じるものは案外と大きかった。

 穏やかで満ち足りた顔をしている徐朱に対し、呂騎は老婆心なのか説明を加えた。

「呂花は就職が決まっているんだ。美術館の学芸員に採用されて、それなら一緒に暮らそうという話になってね。もともと部屋が余っていたからここに住んでもらうんだ」

「兄さんは忙しい上に不規則な生活をしているから、私が家事をしないと汚しっぱなしで平気でいるんですよ。男の人って皆こうなのかしら」

 愚痴ともつかない言い方で、暗に徐朱はそうではないでしょうと口添えを求めているようなので、彼は曖昧に呂花の肩を持った。

「散らかっていた部屋が見違えたのは君のお陰だ。でも、綺麗過ぎる部屋には女の影を感じるから、そのままでも良かったんだよ。今、この部屋には女が一緒に住んでいることが一目瞭然になっているってことです」

「難しいのね。あっ、そうか、兄さんったらいい人がいなかったんだ」

 兄妹ともなると遠慮がない直截的な言い方でも、十分に意思疎通はできているようだ。呂騎は僻みもせず、淡々と自虐的にならない受け答えで間を持たせた。

「余計なお世話だよ。全部自分で自分の世話をしていたんだから、あの程度は許容範囲だ」

「良かったね。可愛い妹に面倒を見てもらえるなんて、幸せじゃないか」

 徐朱が軽口を叩くと、呂騎は別の話を振り向けた。

「徐朱、お前の話をしてやれよ。有名人の話なんて滅多に聞けないんだからさ。ほら、この前のフライトの話をしてやれよ。あれは自慢しても罪はないはずだぜ」

「飛行機の話は女性には難しいかもしれないけれど、聞いてみるかい」

 徐朱は既に話の構想を練り始めている。呂花の積極性なら断られることはないと見ているのだ。実際、彼女はようやく重要人物に接するときの顔をした。

「お聞かせ願えますか」

「いいでしょう。南方航路を開拓した、つい先日の話です。僕は、飛行機で未知の航路を探索する冒険事業に従事しています。あちこちに飛んでは報酬を得ているのですが、ついこの間、僕は南に向かって飛んでいました。いつにも況して危険な行程になるということで、飛行機の機体整備や装備の更新には、呂騎と相談して十分な時間をかけましたが、誰も飛んだことのない空域には何があるのか分からないものなんです。念入りに準備した割には機体が機嫌を損ねて、強風に耐えられるか、机上の計算だけでは判断できない状況もありました。いわゆる南方の海域には積乱雲が多発生する場所がありまして、特に海の真上にいるときには視界も方向感覚も頼りになりません。コンパスを見ながら風に流されていないか、自然の力に抗うように飛ばなければならなかったんです。出立する前から想定はしていたんですが、海洋越えの航路を直線で繋ぐ以上は、そういう事態に遭遇して危険にさらされるのは当然なんですが、季節と天候によって基本的な条件も大きく変わります。僕は、経験と科学を駆使すれば、不可能ではないと不遜にも思っていたんですが、多くの人が南方航路の開拓に挫折したとおり、一筋縄ではいきませんでした。航路の半ばを過ぎるまで、自分ならできるはずだという確信は揺らぎ続けていました。しかし、航路の半ばを過ぎると、視界が開けて太陽がはっきりと姿を現しました。危機を脱したんです。そこから先の光景は実に感動的でしたよ」

 徐朱は思い出しつつ充実感でその相好を崩し、興味深く聞いている呂花の様子をほんの一時窺った。もったいぶった間の意味が分からなかった呂花は、どぎまぎしながら続きを促した。

「それで、危険を冒してまで飛ぶ価値はあったとおっしゃるのですね」

「そうですね。あなたは美術を嗜んでいるから、想像力は豊かでしょう。我が『東の暁号』は差し詰め紺碧の海を駆けるペガサスといったところでした。本当に素晴らしい光景でした。シルクの織物をご存知ですよね。スカーフの素材などとして出回っている、あれです。古ぼけた出店で手に取ったシルクが、埃を被ってくすんで見えるようなときに、素材そのものを傷つけないように柔らかい仕草ではたいて、さらには光にかざして、本物のシルクの輝きを発見したように目を瞠る、そういう色合いの空でした。南方の空は青いだけじゃない、艶やかなんです。この事実を知ったのは自分が初めてかと思うと、胸の底から感激が湧きあがってきました。本当に空が艶やかなんです」

 うっとりと自らの言葉に心酔するように、徐朱は艶めいた光に溢れる空を飛ぶ飛行機を思い出していた。エンジン音が心音に重なり、冷静でいながらも感受性は最大限に解放されている、涼やかで美しい鳥の心が宿ったのだと、彼はそのときのことを回想した。

 具体的な比喩によって想像力が試された呂花も、数々の絵画を鑑賞して、絵の具で溶いた紺碧色は経験として蓄積されている。それが艶めいて見えるのなら、さぞかし美しいだろうとは想像がつく。

「素敵なお話ですね。空に夢をかける男というのは、兄さんを見ていても良く分からなかったけれど、徐朱さんが語ると客観的に格好良いと思えます。いいなあ、男の人って。幾つになっても夢を追っかけていられて」

 わざわざ子供っぽく拗ねたような言い方をし、呂花は比肩できる相手ではないことを殊更に痛感していると、義務的に伝えようとしていた。いじらしいが、大抵のことに前向きな人間が、夢だけは急な坂道のように感じていることは寂しくもある。息を切らして駆け上がっていかないと、徐朱とは並んで歩けないと思っているのである。

 その性格を知っている呂騎は、翻意させることまではできないと分かっているものの、労わりの言葉を向けた。

「お前だって美術の仕事に就けたじゃないか。夢っていうのは、人を感動させるだけの価値がある、自分の信念のことを言うんだ。徐朱は空を飛ぶことが本当に好きなんだ。だから恰好いいのさ。それは美術に情熱を持つこととほとんど同じことだと思うぜ。お前だって飛べるんだよ。女が飛べないなんて誰が決めたんだ」

 にっこり微笑んだ呂花は、何を云わんとしているか察して、十分に承知した上でその意味するところには従わないと言明した。

「世の中には飛びたい人とそうでない人がいるのよ。私は飛べないし、飛ぶ必要のない人。だって地に足が着いていないのって、際限なく不安になりそうじゃない。目の前に確かなものがないと不安になってしまう人にとって、分不相応な望みを抱くことは、その確かなものさえも手放して奔放なままに生きるということでしょう。多分それは大きなリスクを伴うし、喩えるなら見渡す限りの美しい平原に立ち尽くして、自分の非力さと小ささに泣きたくなるような気分になるということです。美しすぎる物を前にして無力感に苛まれるということは珍しくもないけれど、そこに踏み止まれるかはやっぱり人それぞれなのよ。兄さん、私には飛ぶことなんて無理よ。怖くて足が竦んでしまうもの。今ある幸福にしがみついて、世界が広がるのを拒絶しては駄目だというなら、やっと独り立ちできると思えたことも嘘になってしまうわ。私には私の世界があるし、たとえどんなに詰まらなく見えても、そこから出て来いと連れ出されたら、きっと元の居場所に戻りたくて逃げ出したくなる。愛情が備わっていさえすれば、矮小でも構わないと思うし、そうでなくてはどこにも安定はないのではないかしら」

 安定した人生に遠望すべき地平はないという発想だろうかと呂騎は感じたが、呂花の器量で小さくまとまって幸福になりたいと願うことは、欺瞞や欲求の溢れる世界で生きる術を放棄することに等しく、場合によっては権力や策謀の犠牲になることを意味する。どう考えても欲望の餌食になりかねないのは呂騎の危惧するとおりであり、兄としての憂慮は決して的外れではない。

「踏み出す勇気がなければ、そのちっぽけな幸福が押しつぶされてしまうのが現実なんだよ。嫌なことを聞かせるようだが、安全で確実な人生なんて、簡単に食い物にされるのを僕は幾つも知っている。妹に、そんな不幸な目に遭わせたいと思う兄がいるかい」

「私はもう大人なのよ、自分が何を得て何を失うかは自分で決めなければいけません。私だって強引に望むままに奪うような人がいることは知っていますから、保身を図るにはどうすればいいのかも知っています。大丈夫よ、私は臆病だけれど、怖い目に遭わないように上手に立ち回れますから」

 快活さを滲ませて、呂花は説得的な雰囲気を作ったが、呂騎とのすれ違いは修復されるには至っていない。亀裂というには余りにもささやかだが、幸福に忍び寄る影を恐れるか、いっそのこと飛んでしまうかは、簡単には決着しそうにない。

 自分が呼ばれた遠因を推し量りつつ、過剰に議論の上に存在感を現さないように、徐朱は役割を果たそうとした。

「呂騎、気分だけで口を挟むのはなんなんだけれど、しっかり勉強もして、家事もこなす女性に、そうも容易く取り付ける悪い虫はいないとおもうよ。金と権威に物を言わせて、やりたい放題の男になんて、安定を望む人は魅力を感じないはずでしょう。僕はむしろ現状を放棄して、男のところに飛び込んで行きたいと考える女の方が危なっかしいと思うけれどね」

 鼻先で呂騎は笑い、思慮が浅いことを指摘した。

「この世のどこに安定した男なんているんだよ。家庭を持って、子供もいて、財産も築いて、そういう男は安定しているかもしれないが、恋の相手にするには不道徳だろう。結局、男を掴まえるために女もいつかは飛ばなければならないのさ。若い男と女は、飛ぶのでもなければお互いのことを知らないままだろう」

「まあ、劇的な出会いとかを期待するのでなくても、抱える論理の異なる男と女は飛躍しないと結びつくことはないだろうけれどさ、でも、信じ合えるとしたら互いの拠って立つものがはっきりしたときじゃないかな。だとしたら夢だとか勇気だとかを基準にするよりも、地に足のついた議論にこそ意味がある。そこから一歩も外に出ず、動こうともしない人にも信じ合うことくらいはできそうだよね」

 索漠として遣る瀬無い心情を互いに知っていれば、信じ合うだけで慰めにはなる。お互いを必要としているという状況が理解できれば、それが恋でなくても気持ちが離れてゆくことはない。ごく単純に、男と女はことごとく寂しいのだと結論付ければ、自らの領分を守ることに夢中で飛び方を忘れてしまったとしても、触れ合った指先から愛情が芽生えることはある。

 徐朱には痺れるような恋よりも、居場所を確かめ合うような悲しみの方が身近なのだ。その分には呂花の保守的な心象風景に寄り添っていけるのだが、飛ぶことは彼の全霊を鍛え上げてまるで別のものにし、明らかに異質な存在となっている。安定との親和性がほとんど感じられないのも、彼の覚悟が深いからである。

 一家言抱えても徐朱は別天地にいると、呂騎は思っているが、呂花にとって異質であることを期待して会わせたのだから、言葉巧みに和解されてしまうのも面白くない。刺激になるだけでなく、憧れが芽生えることがあれば会わせた甲斐があるというものだが、易々と偶像に祭上げられる徐朱ではなく、親しい仲でも扱いは難しい。

「信じるだけじゃ、容易く折れてしまうんだ。強い気持ちで結束しないと、親しみが増すごとに憎くなることもある。僕は呂花には幸せになって欲しいんだ。だからさ、どうせ出会って信じ合うなら、ぶつかり合うことを怖れていてはいけないでしょう。本当の愛は飛んだ者にしか分からないはずなんだよ」

 呂騎の言葉に呂花が反応し、いくらか楽しげに口を利いた。

「愛って最大の謎よ」

 これに徐朱が付け加えた。

「全力で人を信じるっていうことは、大人になると難しいよね。誰しも裏切りを知らないわけじゃないから、たとえ愛情があっても、どこかで力の入り具合を加減しているものじゃないかな。呂花さんのように、一歩距離を置くのも立派な処世術だと思うけれど、呂騎は大きな夢に身を委ねることの幸福を知っているから、そこに共感が欲しいんだろう」

 的を射ているが、呂騎には完成された社交性に焦がれる理由がなく、男も女もぶつかってゆくべきだという哲学がある。

「愛が謎のままでもいいとは思わないね。綺麗事がどれほど人を傷つけるか、徐朱だって知っているだろう。相手のことが分からなくなるまで見詰め合って、意味もなく疲弊して、それで信じ合っているなんて言うのは偽善でしょう。心の底では蕩けるような愛情に包まれていたいと思っているのに、そこに踏み出せないでいると歳を食うばかりだと思うね。それに、夢のような話には人に満足感を与える反面、人を嘲るような軽薄さが備わっていると考えた方がいい。夢は情熱を伴わない限り絵空事でしかなく、それを信じるかどうかは相対化しているし、愛情に値打ちがつくと考えてしまうのも過大評価だ。不恰好でも飛ぶべきなんだよ。飛ばなければ愛も夢も空虚なままさ。飛んでみて初めて愛の謎が解けるんだよ、分かるか呂花」

 熱っぽく問いかけ、呂花の信念を忽せにしない範囲で、それでもやはり真実は別のところにあるのだと訴えている。彼女は兄の気遣いが重荷ではないが、想像力を逞しくしても抽象論は心の平穏を下支えするようには思えず、異性への愛情が充実することを空想でしか知らないのを密かに恥じている。

 揺らぐのだ。呂花の若さでは愛に破れることも、夢に疲れることも、同じ位相で語られるべきであり、そして輪郭が余りにも曖昧で把握しきれない。突っ張って、愛情にどれだけの価値があるのかと斜に構えてしまうのも彼女くらいの年頃の若者には多く、生きることは困難と謎だらけなのだ。

「愛情に見返りを求めるのでなければ、愛そのものに価値があると、それが誤解にしろ信じていられる。兄さんは飛んでいることに満足感を感じるのでしょうから、愛情を信じるよりも飛ぶほうが易きことと簡単に考えてしまうんだわ。でも、一般には飛べるのはごく限られた幸運な人たちだけです。例えば徐朱さんや兄さんのように。恰好いいし、憧れるけれど、飛べない女には地を這い回って生き抜く知恵があるの。幼い頃から自分の身の丈に合わせた愛情を空想し続けて、大人になった頃にはその限られた小さな愛情を信じなければ、どこにも自分はいないと悲観するようになるけれど、でも幸福の掴み方は習わなくても知っているものなのよ。飛ぶことがすべてではないと私は思います」

 虚飾ではなく、非力な者が必死で生きようとしている無数の生き様の中で、やっとのことで愛を見出せたと喜びを語る、平凡な人生の象徴のような発想だから、無為に否定することもできない。もし、そんな考え方は不幸だと決め付けるなら、外に生き方を選べなかった者は、自分が全否定されたように不信感を持つだろう。互いのことを良く知っている兄妹にしても、礼節を外れて価値観を押し付ければぎくしゃくしないはずがない。気持ちが固まっているのなら、無理に覆そうとするのではなく、別の考え方もあるとそれとなく伝えるのが無難である。

 溜め息交じりに呂騎は諭した。

「お前は今ある幸福が手に入る幸福の総てだと考えているんだな。謙遜するのは美徳には違いないが、守りに入ると自分の取り分が目減りするたびに怒りを感じることになるぞ。歳相応に夢を持つことは、自分の可能性を信じて努力研鑽することに繋がるし、そうすることで人生は豊かになる。若いのに守勢に回ってしまうのは、勿体ないし疲れるんだ。あと十年経って、草臥れたような女になっていたくなかったら、少しは希望に胸を膨らませるような、晴れがましいことを常々考えていなければ駄目だ。間違っていなかったと胸を撫で下ろすのも重要だ。だけれど、間違いを怖れて何もしないことは、明らかに人生の無駄遣いだよ。飛べない、飛びたくないというのは自由だが、若さの可能性に目を閉ざすと未来が見えなくなる。何も手に入らない人生は安定しているかもしれないが、喜びの大半を見失っていることは自覚するべきだな」

 どちらが正しいとは一概には言えないが、徐朱には思うところがある。彼の生い立ちは、平凡さの中に数少ないチャンスが芽生えた稀な例である。

「僕にも心当たりがあります。うちの両親は突飛なことは何ひとつしないという信頼と安心感で繋がっていました。浪漫は不安の材料でもあるんですね。それを知っていながら僕は飛ぶことを選んだ。冒険に駆り立てられて、今ある幸福を全て失ってしまうかもしれない、再び大地を踏むときには自分のことを知っている人が一人も残っていないかもしれないと、不安に感じることが度々ですが、空の上にいるときは気分が壮大になって、人間が小さく思えるんです。飛んでみなければ、今ある幸福を客観的に俯瞰してみることもできなかったんじゃないかと、理由を付けてはまた飛び立つんです。空を知った男というのは、ちょっとやそっとでは自分の信念を疑いませんよ。だから呂花さんも呂騎を煙たがらずに、貴重な地図を提供してくれる水先案内人だとでも思っておいたほうがいいですね」

 言って含めるような追加意見に、呂花は困ったような顔をした。

「徐朱さんまで。飛べ、飛べって、私は男性じゃないんですから、いきなり飛躍したことを言ったりしたりしたら、周りが何事かと目を瞠りますよ。安定した目線で、当たり前のことが通用するありきたりな世界の住人にとって、飛ぶことは一大事なんですよ。兄さんは成功したからいいものの、もしうだつが上がらなかったら変人だって言われていたかもしれないんです。家族がどれだけ不安に感じるかなんて、お構い無しにのめりこんでいくんだから、男の人の夢ってちょっと厄介ですよ。返って私がしっかりしていなきゃって、守勢に入るのも仕方がないじゃないですか。だって兄妹揃って冒険にのめり込むなんて、既に社会的な評価を固めている人々にとっては考えられないことでしょう。私は普通の家に生まれた普通の女でいたいんです。過去から未来まで、一貫して同じ目線に立つことを誇らしく思うのって、変ですか」

 問いかけられた徐朱は、微妙な選択を迫られたが、最後には呂花の言い分を認めた。

「いえ、変えたくない信念があることは理解できます。それが家族の愛情や信頼の中で育まれたものなら、尚更でしょう。安泰と思える時間が流れていたのを、簡単に忘れてしまうのは薄情でしょうし、美しい音楽のように情操に結実していないとも限りませんから、何を価値あるものとするかは人それぞれ異なっているのも頷けます。呂花さんはきっと幸福な幼少期を過ごして、その延長線上に兄妹愛も置いておきたいんですよね。良いと思いますよ。あえて飛ぶ必要がないと仰るのもおかしいとは思いません」

「ほらね。兄さんが心配するほど、外の人は積極性を望んでいるわけじゃないのよ。今の世の中で女が出しゃばるとしても、飛んだりするのはよほどのことに違いないと皆が思っているんだから。だいたい、兄さんは守りに入ることを不安視しすぎです。冒険すれば驚くほど豊かな人生を歩めるとしても、総ての人が足元の暮らしを放棄したら世の中は成り立ちません。私は大勢の中の一人です。望んでも叶わないことを、他人の犠牲において実現しようとするほど傲慢になれない小市民ですから、小さくまとまってそれで良しとすることに不満もないんです。私はきっと忍耐の中に愛情を培うしかないんですから、助走をつけて飛んで見せろなんて無茶は言わないでください」

 これ以上呂花を責めるのは可哀想なので、呂騎は少年が悪戯を咎められたように、詰まらなそうな顔をして徐朱と視線を交わした。

「せっかく有名人に会わせたのに、これだからな。がちがちに守りを固めた女なんて、簡単に騙せると思われても仕方がないのに、いつだって普通が一番、無難が大事なんだよ。僕からすれば楽しい時間は飛ぶように早いのだから、同じくらい速く飛べる人間だけが歓楽を得られると思うんだが、いまひとつ分かってもらえないみたいだね。でも、穏やかで樽の中で熟成するような味わいも、欠かせない要素ではある。落ち着きを成熟の証とするなら、徐朱や僕もスローな時間を再評価すべき時期なのかもしれない。熱狂的な推進力だけでは、多彩な喜びの総てをみることはできそうにないのだし、何より呂花はそこに自分の世界を築こうとしている。ひとつの完成した世界観にして、妹のそれに関心を持たないというのでは、兄としては浅薄だろうからね」

 徐朱も概ね賛同し、二度三度と頷いて、立場の違いを超えて分かりあえるだろうかと思案をめぐらせるのだった。

 

 呂花の働く美術館は、町の中心部から程近く、観光客で賑わいを見せている。大理石で柱石が作られた豪壮な建築物であり、人はこの美術館を見て『時代』だという。もちろん風化したり、最先端の息吹が吹き込まれたりすることはあるのだが、変わらない価値が貫かれることで人の営みの中心にあり続ける、いわゆる時代の象徴なのだ。

 そんな美術館の経営方針は呂花の性格にも逆らわず、快適な職場になっており、彼女は美術品の保存や展示などに毎日精を出している。好奇心旺盛な観光客や、憩いの場とする市民によって、連日足並みが途絶えず、美術による街づくり、風格の維持は成功している。

人の営みのすぐ下に芸術があるという展示の光景は、畏まって高みから見下ろす美意識を忘れさせ、多様な評価を可能にしている。呂花が知る限りでは、毎日散歩の途中で立ち寄るお爺さんや、週末ごとに何時間も鑑賞する美大の学生たちなど、幅広い人々の支持も獲得しているのであった。

いわば芸術は人間の苦悩であり喜びであるが、歴史的な遺産ともいえる大家の絵画などは、ガラス・ケースに入れられて湿度温度共に管理されており、評価の上に立った財物の管理と同視できる。いかにも重要そうに設えられているので、鑑賞する者は圧倒されるのだが、本当に美意識を試されているのなら、冷や汗をかくほど完成されているのが、高価な、つまり評価の固まった美術品である。ここには、そういう美術品が数多くあった。

 人間性への回帰という意味で、美術に予算を投じる政治家の判断は間違ってはいない。その現場において、呂花は従事する幸福を噛みしめ、また価値ある事業に心酔するゆとりもそこそこはあった。入場者数を見ながら、予算を付けた議会に答申しなければならない経営責任者と違って、末端の学芸員には天国のような場所である。

 徐朱は呂花の仕事ぶりが知りたくて、余り縁のない美術館にふらりと訪れた。

 時間の許す限り案内を務めると約束していた呂花は、快く彼を迎えた。

「徐朱さん、お忙しいんじゃありませんか」

「いや、僕よりも呂花さんの方が仕事に縛られていると思いますよ。時間を取らせてしまって、すみません」

 軽く頭を垂れ、愛想を使った徐朱は、呂花のほうに注意を向けつつ体を捩って振り返った。そのまま斜めに視線を上げて、元の位置に首が戻ってくるとひと言感想を言った。

「大きな建物ですね。飛行機のドックとどちらが天井が高いかな」

「築造されて百年は経っていますが、聞くところによると直射日光を避けるためだといわれています。採光は美術館の良し悪しを決めているんですね。私は電灯の灯りで鑑賞するよりも、自然光で鑑賞する方が好きです。健康な感じがするじゃありませんか」

 はっきりとした物言いで、呂花は好意的に振る舞った。出会って間もないとはいえ、呂騎を介して互いに重要人物であると認識しており、敬意で引き締められた口元と、気心の知れた安心感にも似た目の光は、彼らの関係を物語っている。近すぎないが、遠くもないのである。

 著名な作品を紹介しつつ、呂花は徐朱と美術館の中を渡り歩いた。呂花の美術の造詣は言葉を豊かにし、単なる客観的観察の羅列ではなく、舞台演劇の背景のように効果的に盛り立てた。乗せられる側の徐朱は、自らの言葉の貧しさを痛感しながらも、精一杯の表現がもどかしくない範囲で喉から滑り出てきたときには疾走感と同じ興奮を感じた。

 慣れない芸術の品評は滅多なことではすべきではないなと思いながら、それでも徐朱は胸の躍る時間を過ごすことができた。歴史的な価値のある、記念碑的な絵画作品の前で、彼は呂花に質問をした。

「呂花さんは美術に関して話すときは生き生きしていますね。やっぱり、ホーム・グラウンドに帰ってきたと感じるんでしょうか」

 指摘を受けて大いに照れた呂花は、どう説明しようかと逡巡した挙句、本質を伝えるほかないと腹を決めた。

「美術にはひとつの完成した美意識があるから安心するんです。誰かが、そんな落書きには値打ちがつくはずがないと言ったとしても、描いた人はお金を稼ぐために義務的に描いたんじゃなくて、多分少しくらいは楽しんで制作したんだと思うんです。そう考えると、下手とか巧いとかは余り問題ではなくて、人が喜んだり悲しんだりすることの直接の意味がメッセージとして込められているのではないかと、勘ぐってみても的外れではありませんよね。それが訓練された美術家の手になるものならば、美しくないはずがないんです。美意識というのは、そんな作者の意図を拾い上げて、一緒になって楽しむべきものだと思います。だから、どんなに私が不見識でも、楽しいという気持ちだけは持ち続けられるんです。しかもそれは、揺るがされることのない共感ですから、迷いがないんですね」

 納得できた徐朱は、自分の判断がある方向に引き寄せられるのを感じ、抵抗するでもなくその判断に従った。

「潔いということでしょうか。確かに、美術は共通思念が結晶化したものでなくては共感を得られない。ほとんどの偉業は創作に向かう作者の知的興奮に支えられていたのかもしれませんね。しかし、共感を共感として自覚できるまでが大変そうだな。そういうのは勉強しないと分からないのでは」

「鑑賞のポイントとなる見所は、訓練しなくても漠然と一目で感じ取れるものですよ。ただ、それを言葉で表せるようにするには、ある程度体系的に創作の比較研究をしてみないと難しいかもしれません。もっとも、時間をかければ、誰の目からも芸術は均質化するという議論も盛んです。芸術の方から降りてくるというのでしょうか、言葉の壁が取り払われる感動の邂逅があるんですね。徐朱さんは冒険飛行で自然界の造形と出合っていらっしゃるでしょう。それと同じことが美術館でも起こり得るんです。そこまで顕現した特徴的な美は、もはや誰の共感でも獲得できると考えられます。ただ、共感が一般的になるに連れて陳腐化も始まりますから、新鮮な表現というのは実験的で分かりにくいこともしばしばです。単に分かりやすければ共感できるのではなく、造形に結実するまでの過程に、可能な限りの技量を盛り込むことで、意図的に主題の発見を遅れさせるか、もしくは困難にするのも腕のうちです。天邪鬼ですが、駆け引きがなければ楽しさはないと多くの大人は考えますから、美術鑑賞が好きだという人は、同時に実は恋多き人である可能性もあります」

 冗談めかして呂花は楽しませようと努力しており、その努力が心地よいと感じるくらいに徐朱は満喫できていた。ここではむしろ、呂花の話す言葉のリズムの方が、絵画の神秘性を凌ぐくらいの価値がある。

「一度絵を見れば納得できますから、僕はそんなに駆け引きが得意ではないのかもしれません。でも、呂花さんのお陰で楽しめました。視点を提供されるのは、状況が変わってもありがたいものなんですね。飛行機乗りに忠告は耳に逆らうことがあるけれど、美術鑑賞なら素直に聞けます」

「正解はないんですよ。その人の見たままが正しいんです。楽しんでもらえて何よりでした。またお見えになってください」

 職務時間中ということで、世間話はしづらい環境下にあり、徐朱は迷惑をかけることを怖れて退散することにした。

天井の高い美術館の廊下を相伴いつつ歩く。そうして外に出ると、徐朱の頭の中身は機械仕掛けのようにスケジュールの中に組み込まれた。ぼんやりしていた感性主体の意識から移行し、理詰めで考える論理性の雄を自己評価する時間である。

「どうも、ありがとうございました。またご自宅にお邪魔しますから、ゆっくりお話でも」

 随分と人の目があるので呂花は生真面目な顔でお辞儀をした。

「お待ちしております。気をつけてお帰りください」

 人いきれの中に歩みを進めた徐朱は、やがて振り返った。

 呂花はまだ美術館の入り口で見送っていた。

 

 飛行機のドックはある程度の空間を必要とし、工作の騒音などを考慮すれば街中に設えるのは難しい。実際、徐朱のドックは町外れの工業地域にあった。煤けた茶色い鉄粉が飛散してドックの大きな扉を迷彩色にしており、それほど古くないにも拘らず年代を感じさせる。

 乗機『東の暁号』は風に逆らわない流麗な曲線と、平衡を維持するための直線的な両翼を備えた、美しい機体である。呂騎の設計になるところであり、過酷な気候条件を乗り切るための無理な注文にも応じた、特注品である。

 ドックを訪れた際には、この『東の暁号』と対面するのが慣わしになっており、まずは機体の青い配色をじっくりと目に留め、それからプロペラ・エンジンの鈍色の重量感を引っ提げて、翼の安定感を舐めるように見渡す。徐朱はひと通り機体を眺めると、奥の事務室に向かった。

 そこには勲章や賞状が飾ってあり、華やかな冒険家としての実績を人知れず誇示するのに一役買っている。技術者の呂騎は、部屋の中央に設えた事務机で燃料費の計算をしていた。彼は徐朱が訪れたことに気付いて、一瞥したが計算を続けた。そして、ひと段落すると思いっきりよく息を吐いた。

「物価の高騰で燃料も高くなっているが、最高級品を使わないと命の保障はできない。今度の飛行は極寒の氷河越えだろう。混ぜ物の入ったガソリンなんかを使ったら、エンジンが機嫌を損ねる。となると、最優先で燃料を確保しろと、この時期から仕入先をせっついておく必要があるだろうな。信頼関係はもちろん疑っていないが、今のご時勢で騙し騙されは日常になってしまっている。意図しないところで不良品を掴まされないとも限らないから、明日にでも面会を申し入れて必要分を押さえてくるつもりだ。予算は先日の報酬をつぎ込んでもいいんだろう」

「構わないよ。オイルは一回たりとも安物を注ぎ込まないという方針でいかないと、上空で悲劇に見舞われないとも限らないからね。収入は別にあるのだし、飛ぶことに関しては報酬額をそのまま次回分に投入しなければ確実を期せないでしょう。極寒仕様に改修もしなければならないから、あと二週間は調整して、三週間後には実行に移ろう」

 机に片腕をついて、徐朱は計算の様式書を覗き込んだが、驚くほど高騰していることに渋い顔をしなければならなかった。スポンサーに報酬の上積みを要求するのは難しいので、ぎりぎりの条件で飛ばなければならなくなる日が近づいているのだった。

 暫く休業した方がいいのだろうかと徐朱は考えた。

「なあ、呂騎。僕が飛ばない方がいいと言い出したらどうする」

「なんだ、いきなり」と、呂騎は戸惑いよりも現実感覚の方が勝っている。「主役が降りたいと言い出したら客は帰るぜ」

「そうだよね。でも、条件的に厳しくなったら、呂騎の腕を以ってしても飛ぶのが難しくなるかもしれない。そうなったら休業を考えないと」

 萎れたように徐朱が細い声を出すので、呂騎は机上の計算で苛々したついでに乱雑に言い放った。

「飛びたくないのなら、飛べないとはっきり言ってくれ。そうでないと僕は辛い仕事を押し付けていることになってしまう。それに、一丸となって熱気に巻かれてくらくらするくらいの気持ちがないと、成功するものも成功しないんじゃないのか。決して無謀なことに挑むんじゃないのだから、せめてそれぐらいはやれると思っておきたいものだね」

 叱咤に対し、徐朱の目には本来の強い光が戻ってきている。金銭勘定には不安を感じても、飛ぶことに関しては勇敢そのものだからだ。

「飛べないなんていわないさ。それじゃあ自己否定だろう。飛べるには違いないが、翼を奪われたらどうしようという悩ましい問題が残っている。何年も飛ばないまま、過去の栄光に浸っていると老け込みそうだからね。そういうのは、僕もご免被りたい」

「大丈夫さ。何があっても俺が飛ばせてやる。君は行って帰って来ることだけを考えていればいいよ。吹っ切れないなら酒を飲むなり、女と遊ぶなり、有意義に時間を使ってほしいね」

 呂騎は徐朱にそういう趣味がないことを良く知っているので、これは反面的な激励に相当する。取り敢えずは面倒見が良いことだけは間違いがないので、徐朱にも安心感があった。

「飛ぶまでが憂鬱なんて、飛行機乗りの贅沢な悩みかもしれないね。氷河越えってどんなのだろう。それはそれで楽しみなんだけれど」

「縮み上がるほど寒いんじゃないのか。とにかく防寒対策だけはしておかないと、機体が氷結するならまだしも、徐朱が氷付けになってしまうのは洒落にならない。飛行服の調達は君がやってくれよ。身体を持っていかないと縫い子が困るはずだからね」

 二人の協議は小一時間ほど続き、飛行ルートの算出などに最も時間を掛け、大まかな指針を弾き出した。慣れたもので、もはや初心者ではないので、数字が弾かれるとそこに実体験の肉付けがされるという具合に、かなり飛行プランは具体化した。

 そして、各自が自らの仕事に没頭することで、彼らを悩ませる物価の問題はそれぞれに進行形の事務の中の差し障りに変換された。交渉などで苦労はしたが、冒険飛行の趣旨に賛同する業者は多く、苦労したなりに成果もあった。

 

 一週間後、両翼に改造を加えた『東の暁号』は試験飛行に臨んだ。

操縦桿を握って、滑走路の末端にまで機体を進めた徐朱は、眼下に見えるスタッフに指先で合図をしてから滑走を始めた。風圧で機体が細かく振動し、座席にも影響が及んだ。唇をしっかり結んでいないと目線が定まらないので、それほど緊張していないにも拘らず、徐朱は固い顔をしている。

加速して車輪が滑走路を離れると、機体はそのまま宙に投げ出されるように浮かんだ。寒冷地仕様で少し機体が重くなったようだが、問題ないくらい馳せる。ぐんぐん高度を上げ、エンジン音しか聞こえなくなると、いつものように徐朱は期待を前後左右に動かして具合を確かめた。不具合があればすぐさま引き返すためだ。幸いにも飛行には何の支障もなく、気分良く旋回して飛行場の上空めがけて舵を切った。

落ち着く。空を母体のように感じるのは、彼が名実共に飛行機乗りとして成熟しているからだ。若くして空を知り、今では恐れを押し退けるほどに経験も充実している。業界では初めてとなる氷河越えも、この機体なら成功裏に収められるように思えた。

 青い残影が空をよぎり、高速度で滑空しながら飛行機は着陸態勢に入った。見守っている呂騎を始めスタッフたちに緊迫感が漂う一瞬だが、車輪のゴムが摩擦で擦れる音がする以外は大事に至る予兆はなかった。

 ゆっくりと速度を落とし、滑走路の端まで戻ってくると、タラップが押し付けられて、そこに身軽な動作で徐朱は降りた。タラップの階段を下りながらヘルメットを外すと、さっそく呂騎から声がかかる。

「舵は重かったか」

「いや、機体の重量からすれば、あんなものだと思う。いい具合だったよ」

 徐朱は滑空の余韻で微かに頬を紅潮させ、緊張感を解きほぐしている。呂騎はその様子を見て施した技術について説明を加える。

「結露の対策に時間をかけたから、空の上で舵が利かなくなることはないだろう。航路もほとんど直線で考えればいいし、機体への負担は最小限で済むだろう。後は、風を捕まえる操縦技術次第ということになるね」

「季節風に流されなければ燃料の心配もない。天候と相談しながら日和を決めれば、航続距離の割には難しい飛行ではないってことだね」

「そういうことだ。最先端の技術を惜しみなく使ったから、羽の生え揃ったばかりの雛みたいに怯えなくてもいい。考えうる総ての動作不良をチェックするから、徐朱は体調だけには気をつけてくれ。僕は君の女じゃないから、暮らし向きにまでは口を突っ込めない」

 軽口に向かって徐朱は笑顔を見せ、デッキ・チェアに腰を落ち着けた。そのまま空を見上げると細かく千切れた雲が流れてゆく。

 

 その夜、徐朱は呂騎の家に招かれた。

 夕食を共にし、呂花が手料理を振る舞ってくれることになった。それは嬉しい誘いであったのだが、徐朱は空にかける思いが胸の中で膨らみ、意外と呂花に関しては期待するところは少なかった。愛おしいと感じる鍵穴に、鍵となる女が差し込まれるときの高揚感を、男なら感じないはずがないが、呂花を自分専用に造形された女だと考えるのは、ちょっと飛躍した感じがするのだった。

 呂花は若い女にありがちな、媚びつつも自分が一番大事という発想のない、非常に心を和ませる資質の持ち主で、情欲の中にひと匙加える程度の女の匂いをまとっている。この晩もタイト・スカートにカーディガン姿の、いかにも色気を隠しているという恰好だった。

「徐朱さん、もうじき氷河越えをなさるんですって。あの大氷壁を越えて飛ぶ人は初めてだって言うじゃありませんか。兄の作った飛行機で本当に大丈夫なんでしょうか」

 余り感情を含まずに、もちろん動転することはなく、徐朱は答えた。

「呂騎は優秀な技術者ですし、なによりこれまでの冒険飛行で彼がどこまでやれるかは実証済みです。絵画で見る大氷壁はいかにも目の前に立ちはだかる、巨大な障害のようにも思えますが、僕の心象風景の中では、すでに呂騎の整備した飛行機が軽々とその上空を舞っています。気持ちのいい風が吹いて、氷河の上空を飛ぶイメージは、そっくりそのまま成功のイメージですからね。心の準備はできているということです」

「でも、兄って緻密な構想の割には、妥協を選んでしまう世慣れたところがあるでしょう。ちょっとくらい手を抜いても、成功さえすれば批判を浴びないだろうとか、高を括ってしまって徐朱さんの希望通りの飛行機になっていないのかもしれないのではないかと、心配になってしまって」

 非難がましくする呂花に対して、呂騎がやんわりと弁明した。

「僕のどこを見てそんながさつな人となりを想像できるかな。僕の飛行機は徐朱の手足といっていい。尺寸から機動性能まで皆、徐朱のためだけに作ってあるんだ。つまり愛だよ。僕と徐朱は愛で繋がっているのさ」

「簡単に愛だなんて口にしていると、女の人の心は射止められないんじゃないの。俄か成金になって、口上の大安売りを強いられているなんて、言い訳はしないでね」

 なかなか辛辣な注文だが、呂花が心配しているのは徐朱の墜落死であり、直接に言及すれば彼のプライドにも関わるがために、気心の知れた兄に仮託して遠回しに気を使っているのだった。

愛と言ってみても、本当のところは互いの結束を表すには不十分であり、危険に見合った称賛と報酬があることを彼ら全員が共通認識としたとき、そこには失敗という影が割り込んでくるのである。恐ろしく長い、淡い闇色の影が気分に映りこむとき、人はほとんどの喜びが尻切れ蜻蛉になってしまうことを自覚する。

「何しろ愛だからな」

 意味するところを察知した徐朱が雰囲気から逃れようと軽口を叩き、一方で呂騎は妹の不手際を丁寧な論証で補った。

「科学には絶対の真理と、真理を成立させる無数の例外がある。飛行機というのは科学なんだよ。無茶な操縦をすれば例外的に墜落するし、逆に飛ぶことを唯一の目的とすれば、それを真理として条件を満たそうとする。意地悪く可能性を示唆すれば、もちろん落っこちることはあるんだが、大抵の場合は飛ぶための科学技術は基礎的条件の下でしか使われないのだから、ありえない失敗というものはなかなか具体化しないんだ。こんなことがあるはずがないといった、細かな例外の積み重ねだけが怖くてね、こういうのを摘み取る努力が確実性に結びつくのだと言える。つまり無数の例外が科学を進歩させている。事業としての希少性や現実性は、飛ぶという真理から直接に導かれるものではあるけれど、背面には必ず失敗の可能性という例外が存在するんだ。これを怖がっていたら、人類は何もできないまま老いるに任せるしかなくなってしまうんだよ」

 これはこれで面白い弁証ではあるが、呂花はひとつの真実を愛情という名の下に確信しているので、人間性が試されるのなら自分は意見を枉げるべきではないと思っている。

「飛ばなければ危険にさらされることはないでしょう。飛ぶことを職業にしているから仕方がないけれど、やっぱり危険には身を投じずに、人の真似のできない技量を元手に暮らしを立てるのが一番安心感があるわ。それが知識であったりすれば、机さえあれば生計が成り立つんですから、これからの時代は知の時代になるのではないかしら。名誉と引き換えに命を危険にさらすのは、なんだか悲愴感に近い、とっても気まずい感じがします」

 自負が忽せにされて、呂騎としては言わせっ放しにしてにやついていることのできない場面でもある。

「誰も危険を冒さずに、世界が広がらないというのは、不幸な時代だと思うがね。持たざるものは知識に怨念すら感じるものだから、案外と定評というのは当てにならない。耳に心地よい意見だけをありがたがる馴れ合いの最中に、何かきらりと光る素敵なものが見つかった験しがあるのかい。僕は、冒険は知性の最前線だと思っているから、止めろと言われても止めないよ。君もそうだろう、徐朱」

「ああ、そうだね。安定だけが人生の価値じゃない。胸がときめかなくてもいいなんて、すまし顔をしているのは無理だね。楽しむべきときは、肩の荷を下ろして、羽を生やすつもりでないといけない」

 斜めに顔を突き合わせて、お互いに笑いを堪えているので、徐朱と呂騎は悪ふざけをしているように見える。さすがに呂花も気付いて、少しふてたような顔をした。

「もう、心配しているのに」

「それは取り越し苦労に終わると思うよ」と、呂騎は軽く掌を上げて制止した。「たとえば、夜の闇は足元から這い上がってきて、平衡感覚を侵す。不可知の存在というのは概ねそんな夜間飛行のようなものじゃないのか。真っ直ぐに飛べるかどうかは、総て自分次第という状況に耐えられるかどうかだが、普段楽な道ばかり選んでいると、恐怖に我を忘れることもあるだろうな」

「兄さんったら、飛行機の話ばっかりなんですもの。そういうのって、物凄く隔たりを感じるものなんですよ。女に飛行機は難しいから、もう少し日常的なたとえ話にしてくれないと、共感も修正もできやしないんです。ただ面食らって、呆然としていて欲しいわけではないのでしょう」

 困惑して渋い顔をした呂花は、それでもいじらしく見える。本当に飛行機が分からないという事情そのままに、努力も虚しく空転してしまっているが、「それなら」と呂騎が切り出すと、目を瞬いて耳に留めようとした。

 呂騎は少年時代の頃の性悪な口振りになっていた。

「自分の理解できる範囲にいないと、人を好きになることもできないのか。それは寂しいね。一生かかっても、お前を相手に冒険してみようという気になる男が現れないかもしれないぞ。ここ一番では、自分から踏み込んでいく勇気がないと、黙って通り過ぎてしまうだけに終わるだろうな。いいのか、それで」

「それは良くはないけれど、大げさに騒ぎ立てたら道化ですし、それに、すれ違いを繰り返しても惹かれあう力が強ければ何度でも出会えると思います。奇跡的な出会いってあるはずよ」

 薄っすらと紅潮するように口走っているところを見ると、呂花も女だということが分かる。しかし、兄でいながら、いまひとつ呂騎は感覚的に掴みきれていない。

「冒険と奇跡はどこがどう違うんだ。さっぱり分からない」

 気の利いたジョークを聴いたように、徐朱は笑い声を立てた。

「女のロマンチシズムに逆らわない方が、一般に奇跡と呼ばれているんだと思うよ」

「なんだよ、女の事情で決まるのか。振り回される男は堪ったものじゃないな」

 呂騎はまだ少年っぽく毒舌を披露している。こう、あからさまに毛嫌いされると、女は冷静になるが、同時に偏見に抵抗を示さなくなる。

「男の身勝手が込められているのが冒険です」と、呂花も毒づいた。

 この件が初めてではないように、徐朱は鷹揚に仲裁を買って出た。

「大丈夫だよ。男も女も寂しいままではいられないから」

 兄妹達は寂しさの意味を知っていたので、その言葉の圧倒的な重量に、気持ちの昂ぶりが静まるのを感じ、ほんの一時の沈黙を共有した。

 

 すらりと伸びた足を、競走馬のように小走りに弾ませながら、呂花は街角を曲がったところだった。

 たまたま出くわしたのが徐朱である。彼は飛行機のドックに向かう途中だった。

「こんなところまで買い物に来たんですか」

「ええ、ちょっと知人に届けものをした序に。美味しいバケットを焼く店だって評判なのよ」

 呂花が胸に抱えているのは、それほど丈夫ではない茶色い紙袋に入ったパンだった。それ以上の情報は聞いてみないと分からなかったが、状況を考えて徐朱は手短に伝えた。

「僕も買ったことがあります。でも、空が涙脆そうだから、早く帰った方がいい。この雲はすぐに雨になりますよ」

「私もそんな気がして急いでいたの。じゃあ、またお時間があるときに」

 小走りの呂花は、見送っているうちに石畳の街路を横切っていった。踵を返した徐朱は大股でドックに向かった。

 しとしとと細い雨が降り、ドックの外は見る見る間に黒ずんできた。そこに人影が走りこんできた。

「降ってきたよ」と、徐朱は髪の毛の水滴を片手で払った。

「そのようだね。この雨が過ぎれば天気は回復するだろう。予定通りにフライトに出発できそうな気がするよ」

 迎え入れた呂騎はどことなく所在無さげに外の様子を窺い続けたが、やがて窓から目を離した。思うところがあり、思案顔が出来上がっているが、それを振り払うように饒舌だった。

「準備は万全といえるが、取材を受けたりしなければいけないし、そうこうしているうちに出発の日取りまで決めなければならない。これだけならいつものことだが、呂花のやつがいるとどうも調子が狂う。まるで僕が同乗して、徐朱と運命を共にしないといけないかのように言うんだよ。言っていることがまるで見当違いだともいえないし、なんだか勇気の置き場所に困ってしまっているんだ。こんなことは今までになかったからな、さて、どうしたものか」

 ハンカチーフで額に落ちた雨だれを拭った徐朱は、どのような含意があるか量りかねたが、取り敢えずは呂騎の迷いが真摯なものであることを認めた。

「無責任な人だったら迷わないだろうね。仕事を受け持って、十分に役目を果たして、自己満足と、非難の不在を以って事足れりとするだろう。それに比べたら呂騎は立派だよ。この兄にしてあの妹がいるんだから、僕に言わせれば仲の良さを当てられているような気になる。悩むところじゃないような気もするね。僕と呂騎はいつも心をひとつにして飛んでいるじゃないか」

 肩をすくめて皮肉屋の笑みを溢した呂騎は、気遣いに礼を言った。

「ありがとう、徐朱。君は色気よりも友情を優先するみたいだな。しかし、そうでなくては命を預かる気になれないよ。君がくだらない虚栄心の塊だったりしたら、僕らはここまで来られなかったし、そもそも冒険飛行に情熱を注げたかどうか。この先重大な岐路に立たされたら、今の言葉を思い出すことにする」

 真面目ぶったことを後悔はしていないが、照れた徐朱は自分のことに話を転じた。

「ここに来るときに、呂花さんに遇ったよ。急いでいたから話はほとんどしていないけれど、少しだけ哀しい気持ちになった」

 驚いた呂騎は慌てて詮索を入れた。

「何があった。嫌な顔でもされたのか」

「いや、違うよ。僕は飛行機乗りなんだな、と思って。街角で彼女にあったとき、バケットを抱えて歩いている彼女のすぐ上に、空があった」

 しんみりした徐朱の儚げな微笑を見て、呂騎は居た堪れなくなった。

「それは悲観しなければならないことなのか」

「僕にとっては意外だったんだ。今にも雨が降りそうだった。空は陽光を含んで遥か彼方で膨張し続けているような、僕にとっての希望なんだ。それが呂花さんのすぐ上にあることが、なんだか唐突過ぎてすぐには理解できなかったんだけれど、哀しいのは本当だった。何もかも嫌になるような哀しさではないけれど、楽しい事の半分くらいを一瞬思い出せなくなるくらい、僕は呂花さんに違和感を持った。哀しいだろう」

 もう徐朱は笑っていない。馬鹿げていると切り捨ててしまうことはできるが、徐朱は空想の中でしか飛べない男ではなく、危険と隣り合わせの現実の空に飛び出していける男だ。空の持つ意味には、彼にしか分からない、複雑なときがあるのである。

 思えば、男同士で空を共有していたのかもしれない。呂騎は徐朱の言う哀しさを理解することができた。飛ぶことでしか自分に回帰できない男が、一瞬とはいえ女の価値を見失ってしまったのである。

 自分が自分であるがために。

 それは突然の出来事とはいえ、急に定まった運命ではなく、安定と冒険という両極を結びつける道理に乏しい世情からすれば、当然とも言える。

 望みを繋ぐために騙し騙し生きることが可能なら、例えば呂騎にはそういう擬態も取れるが、徐朱のように嘘のつけない青年には厳しいのだった。呂騎の励ましは、不幸を知る前でよかったなどとはいわず、未来は選べないともいわず、ごく簡潔なものだった。

「女を帰る場所に選べるのが男だ。くよくよしないで、前向きに考えよう」

「そうだね。飛べば忘れるっていうのが、これまでのお定まりだった」

 明るく軽い声質で、徐朱は長く放心状態には留まらなかった。冒険事業に乗り出すくらいの活動家が、女に引きずられて意気消沈するということは、余り考えにくいことでもある。すっかり人心地がついた呂騎は、わざわざ気に障る言い方をした。

「飛びたくなくて神経質になっていたのかもな。取り敢えずは、今までと同じように飛べるものと信じていいんだろう」

「ああ、飛ぶよ。僕が飛ばなかったら、誰を飛ばせる気なんだ」

 乱暴な言葉の応酬に、徐朱は見事に適応している。呼気が胸にわだかまって、総て吐き出しきれないような状態でも、空の男達は気持ちの持ち方が大きいのだった。

 外はいよいよ本格的に雨が降ってきた。雨だれは昨日から明日へと降るものだと、詩人が語ったことがある。雨降りに今という時を留めるのは、詩人でも難しいに違いない。

 

 透き通るような快晴の下、冒険飛行を敢行すべく『東の暁号』は滑走路上に停止した。期待に胸を膨らませるでもなく、しかしそれでも遠方に視点を定め、容易には真似のできない大業を思い描く。人は勇敢にも飛んで見せたと評するだろうが、その詳細を記憶に留めようとまではしないだろう。

 想像力が行き詰まるくらいとんでもない冒険をしたのだと、町の外に出たことのない少女などは、大人たちの称賛とは別の次元で驚愕するのかもしれない。変わらないのは、帰ってきてもやはり吠える犬くらいのものであり、冒険を終えるたびに町は塗り替わる。

 そして旅立つときは、街の景色の中でも色の薄くなったごく一角から一気に空に飛び出し、街全体を置き去りにするのである。空が粗末な青い屋根を風になびかせていることは、飛行機乗りは先刻から承知しており、それを突き破る瞬間は、まさに痺れるほどの快感である。

 操縦桿を押し倒し、そのおんぼろな見慣れた空の中に浮かび上がった。馴らし飛行をした後、駆動力のすべてを注ぎ込んで、飛行機は東北東に舵を切った。

 飛行機雲が長く、長く伸びる。

 上空の空気は乾いており、飛行機の翼が激しい音楽を奏でるように摩擦で震えている。雲の上まで高度を引き上げ、ようやく本格的な長距離飛行の態勢に入った。雲の上を滑るように滑空してゆく機体は、可能な限り頑丈で、可能な限り軽くした特別仕様だ。技術者の腕を信じればこそ、不安は抱かない。

 やがて徐朱は、操縦しながら流行りの音楽を指先で刻み始めた。飛行機の振動が基本的な低音だと仮定すると、それに重ねるように活発で情熱的だった。瞬発的な動作が必要になるほど操縦は忙しくなく、さながら水面を漂うような穏やかな光景の中に、雷撃のような意志が貫かれている。小さく撫でる二拍のあとに、躍り上がる二拍。いつか聴いたボレロを彷彿とさせる旋律が指先から生まれた。

 飛行機の両翼は風を受けて斜めの方向に圧力を受けている。季節風が極北から吹き寄せているのである。それは寒気として知られる冬の権力者であり、何者に対しても高圧的で無理にでも膝を折らせる自然界の掟でもある。

 汗ばんでいた防寒用の飛行服が、裸体から発する熱を蓄えつつも乾いてゆく。緊張が長らく続き、視界が極端に狭く絞り込まれているので、上空の薄い空気を大きく吸ってしきりに瞬きをし、雲の切れ間から眼下を眺めた。

 寒々しい農村が、わずかな緑を点在させて地表を彩っている。あたりは徐々に勾配を増し、山岳地帯に差し掛かっているようだ。徐朱は航路を記した地図を思い出しながら、最大の難関である大山脈への挑戦が近いことを意識した。この山脈さえ越えれば、後は氷河の上空を体力を維持しながらゆるりと飛ぶだけでいい。

 多くの登山家を魅了した雪深い山岳が、いくつも峰を連ねて南北に走っている。その高さたるや、月並みな表現でさえも文学になるといわれている。凍傷で指を失ったとか、クレバスに落ちて帰らぬ人になったとか、地上を這うように進む登山家にとっても脅威と畏敬の的であり続けている。ちなみに山岳信仰により登山を拒む慣習もあるが、あえて禁を破る近代の科学への自負は、その聖域を忽せにしてしまった。

 そして、今は鳥の視点から見下ろしている。これも科学であり、有志による冒険である。

 これを許せるかどうかは山裾で自給自足の生活をしている人々によって決められるのではないため、真に信仰が民衆を敬虔にしているのなら、彼らの視点は文明間の修正として尊重されるべきだ。山羊の乳が蛋白源になるように、過酷な環境を克服するのにもその地に適した知恵が元来からあり、鉈を持って未開地を征服するように踏み込むべきではないのかもしれないのだ。

 いったい人が自ら機械を使って空を飛ぶなどと、荒唐無稽な空想が役に立った時代はあったのだろうか。すべては実践的な飛行機が開発されてから、やっとのことで現実の実際的手段になりうることを自覚し始めたのだ。

 大きく変わった。

 冒険は人の地平を開拓し、無限ともいえる可能性を自然の摂理を凌駕することで生み出してきた。人が人であるために多くのものを踏み台にしなければならないとき、冒険はある種の原始社会への冒涜までも意味するのではないかと、徐朱は戦慄することがある。特に未開地に降り立った時などに、その思いを強くした。

 山岳は神聖にして、登るものを拒み続け、さらにはひと跨ぎに上空を越えようとする者にも試練を課す。そこには人が困難に打ち勝つために膨大な時間を費やしてきた、努力と克服の軌跡がふんだんに込められているのだ。

 だからこそ、飛び越していけるものなら、今自分が人々に先立って先駆者となるべきなら、その価値を誇りながら行くことも許されるだろう。だが、徐朱は一介の飛行機乗りとしての自分自身を強く意識するようになっている。たまたま偶然が重なって、飛んでいるだけのおめでたい身の程知らずかもしれないと思うにつけ、操縦桿を握る手は悪夢の中に差しのべられているように錯覚する。

 刻むリズムは流行りの音楽だ。どこの酒場でもうるさく搔き鳴らされているような、人々が意識せずに口ずさむのと同じ音楽である。退屈している場合だろうかと自らの弱気の虫を皮肉りつつ、鼓動は激しく、そして冒険の終わりに向かって真っすぐに瞳が向けられる。

 眼下に白く化粧した山岳がうっすらと見えてきた。風が強い。

 不意に下方から突風が吹き、機体があおられて地上に対して斜めに傾いた。プロペラが嫌な音を鳴らして唸り、操縦がいっぺんに困難になった。

 そうこうしているうちに下方に押し流され、山岳の雪渓がくっきりと見え始めた。まさか落ちるのかと一瞬最悪の事態が頭をよぎり、指の力を何倍にも強くし、潜在的にはこんなにも強く操縦桿を握れるのだということを、肌で知った。

 操縦桿を目いっぱい引いて航路を上方に引き上げるが、機体が起き上がらない。息が止まりそうになるほど切羽詰まって、悪口に身を委ねそうになる。

「スキーをするにはいい条件なんだが」

 徐朱は制御不能になった飛行機とともに、雪深き山岳の霧の中に消えた。

 

 美術館の仕事を終えた呂花は、頭の隅で徐朱の冒険飛行のことを考えずにはいられなかった。氷河越えなんて、素人が考えても危ないことは分かっているのに、それを敢えて挑戦するから職業になるし、評価も得られる。理性では徐朱のことを評価したくても、経験の中に自然の脅威に対して何かしらの行動を起こすというものがなく、経験で代替できない事実は、恐ろしい偶然の嵐の中にあると考えている。

 偶然は不可避の脅威になることを、大人になれば痛いほど知っているのが普通だ。誰も、思いもよらない事態に遭遇して平然としていることはできず、何らかの不利な条件を甘受するか、さらに続けざまに不幸が及ぶことを回避したいと考えるのではないか。

 ほとんどの事実が自らの努力と理性の限界の内側にあるのが普通人であり、そうした人々は特殊な技能があるわけではないので職業人としては重宝されないかもしれないが、人物としては逸脱をしない常識家として重要であると考えられやすい。

 呂花は能力に関しては秀でているものの、行動力に関しては保守派を自任しており、現実世界を塗り替えて社会に影響を及ぼすような大事業には、手も足も出ない。これまでの人生で自分の知らない世界が、これほど強く干渉した例が一度でもあったかというと、兄が飛行機の整備をしている割に、予備知識も含めてほとんど無垢なままなのだった。

 怖くてしょうがなかった。呂花は徐朱の冒険事業を社会的に価値があるものと認める以前に、道理として聞き分ける経験的基礎がまるでなかったのだ。

 反面、徐朱の人柄については惹かれている。真面目で優しさに溢れた好青年であり、多くの女性がそうであるように、素直に寄り添うことを望めるのである。それでも、冒険の影が街いっぱいに広がって、その煤けた色で何も見えなくなるくらいに理解が曖昧だ。

 歩きながら、そもそも理解できるとしたら、今の暮らしを選んだだろうかと、自己肯定のためにいくらか時間を費やさなければならなかった。家の前にまで来て、ポケットの中の鍵を探り出すとき、激しい焦燥感で汗を掻きそうになった。

 そんな落ち着かない様子の呂花を、呂騎は料理の手を休めずに迎えた。

「帰っていたんだ、兄さん」

 疲れた顔で、呂花は兄の甲斐甲斐しさにやわらかい好意をむけた。「お帰り」と言ったきり、振り返らずに黙々とフライパンを手首で弾ませる呂騎は、呂花の憂鬱さを見越しているかのようだった。

「兄さん。徐朱さんから連絡はありましたか」

「まだ、ないよ」

 はっきりと、そう言った。他に言葉を持たないように、決して上機嫌ではないのを隠そうともせず、消息の明らかでない徐朱を呂騎は思い描いた。計画通りなら到着してもいい頃なのだが、安否の連絡はいまだ届けられていない。必然的に何かトラブルがあったことが想像されるが、その内容を推し量るには材料に乏しい。氷河越えは前途多難な計画であることが事前に明らかであったので、なにも起こるはずがないという結論がひたすらに弱く、不安が掻き立てられる。

 数々の冒険飛行に徐朱を送り出してきた呂騎ですら、腹が据わっているといっても、何もないはずだとは断言しきれないところがある。自らの手際を疑ってかかれば、際限なく失敗の芽は萌芽し続け、徐朱の運命を儚くしてしまう。

 実際には何らかの理由で連絡が途絶えているのだけは間違いなく、靄の中で手探りをすれば手がかりが得られるというものでもない。空で何が起こりうるか知悉している呂騎でも、緊迫感を伴わないではいられなかった。

「きっとどこかに不時着したんだろう。徐朱のことだから、可能なら目的地を目指しているはずだ。天候と相談しながらね」

「雹を降らせるような冷たい風が吹くんでしょう。空の上で凍えてしまわなければいいのだけれど。でも、英雄が英雄足る理由は、その決断力と想像力の豊かさにあると思う。だったら、危難も予知して、上手く回避する方便を知っているはず。なんてたって徐朱さんはこの国一の飛行機乗りなんですもの」

 楽観的な観測気球を上げる呂花の本心は、自分が関わることが無意味になるとは考えず、なおかつ偏見を押し付ける形にならないようにすることだ。非常に曖昧なままで、しかも活発に思考を働かせて関与するという困難を思うと、恥を忍んでも惨めになりそうである。

 冒険なんて女の身の上にあまりにも関連が乏しいのではないか、呂花の想像力は反発により熱を帯びて、錯綜するまでもなく頓挫に向かっていた。その懊悩は、彼女の真剣さを笑い飛ばすには、あまりにも深刻だった。

 フライパンから料理を下した呂騎は、そんな可哀想なくらい思いつめている呂花に食べることを勧めて皿を押しやった。

「考えても埒が明かないこともある。徐朱には危機に対処する冷静さと勇敢さがあるから、たぶん大丈夫だよ」

 強かに無事を肯定するには、呂騎くらいの付き合いの深さがないといけないが、それでも付き合いが浅いなりに呂花は特別な思いがある。大丈夫だと聞かされて、癒されるくらいに男の存在が膨らんでしまっているという経験は、呂花にとって初めてである。

 こんな胸の苦しさは胸をひりひりと焼けつかせるだけで、ずっと側にいられるという安心感と引き換えにするには酷すぎると、呂花は愚痴りたくなった。

「徐朱さんはきっと飛ぶことで自分を信じられるのだし、他の人とも分け隔てなく付き合える矜持のようなものを、その経験から獲得できるのだと思う。だから、飛んで欲しくないといったら、彼は自分の存在価値を別のところに見出さなくてはいけなくなってしまう。待つべき人がいるなら、行ったっきり帰ってこないなんていうのは、その人への裏切りだから、是が非でも帰ろうとするでしょう。その特別な人になるためには、待つことのできる人でないと駄目なんでしょうね。私なんて、彼のことを心配するに値するだけの、確実で変わらない故郷となる資格なんてないんです。それなのに、こんなにも体が熱い。きっと今徐朱さんに会ったら、恥ずかしいようなことを口走ってしまうに違いないんだわ。こんなのって、ちっとも恰好がつかないのに」

 上目使いに呂騎の判断を仰ぐ呂花は、かつての泣き虫な少女そのままに、兄の存在感を頼りに自分の領分を明け渡してしまうほど非力に見える。凛々しく振る舞えるようになっても、やはり呂花はおとなしい女だということを呂騎はよく知っている。

「呂花はいったん思い込んだら、目を逸らすこともできなくなるんだな。できる女は例外なく思わせぶりに目を逸らすぜ。押し留めたいのなら、追いかけてみなさいってな。呂花もかなりいい線にこぎつけているんだから、そろそろどこにいて何をしていても男が帰ってくることを知ったほうがいい。女が故郷だっていうのには僕も賛成だが、必ずしもひとりの女でいいというわけではないのも事実だ。誠実で嘘のつけない男には、連れ添うことに疑いを持たない女が相応しいが、そんな男は滅多にいやしないし、いたとしても先客が列をなしているだろう。徐朱だって派手な女にも受けはいいんだし、彼の人となりを過剰に清潔なものと思う必要もないんだよ。大勢の中の一人として、知人の付き合いを続ければ、もっと互いの深いところにまで手が届くようになる。そこで熱が引かないようなら本物だ。僕は呂花ならどこに出しても恥ずかしくないと思っているし、懇意な徐朱にも気に入ってもらいたい。もっと彼のことを知りたいというのなら、仲を取り持ってもいいよ」

 ゆっくりと呂花は首を振った。

「無理よ。私は知りたいんじゃなくて、逃げ出したいのだから。冒険家なんて、女を置き去りにして、自分は気分よく凱旋できれば御の字の人たちでしょう。そんな人を待つのって、きっと私みたいな退屈で自分の世界の狭い女には、困難なばかりで無い物ねだりと同じなのよ。そこまでして自分の殻を破るのって、破った後に行動力は残されているかという問題を、 いっそうのこと強調しているだけのような気もする。私は徐朱さんを一人占めにしたいとは思わないし、ただ心からお帰りなさいと言ってあげたいだけなのに、何かが欠落しているような感じをひしひしと受けている。これじゃあ、進展なんて考えられないわ。物事の性質からして、飛躍のない所に安息の地を見いだせないのなら、親しく付き合うのもよほど勇気を必要としているということね。兄さん、私、あの人が心配だけれど、大切に思い続ける自信がありません」

 落胆して言葉が消え入りそうになるのを、呂騎は堪えつつも妹の判断を否定できないと感じた。無謀さと勇敢さは違う。それがわかる年頃になれば、自分の信念から離れて男女の仲になることにも、慎重になるのだ。少なくとも、急かしても混乱するだけだろう。

 呂騎はもう一度料理を食べるように勧めた。今度は呂花も、黙って料理に口をつけた。

 

 夜が明けきらないうちに、呂騎は起きぬけてコップの水を呷って飲み干した。首筋から発熱するのを、窓辺の薄明かりの中で不快に感じながら、彼は着替えを済ませて椅子に座った。街角に人の気配が満ちるのはまだ数時間先のことだが、静けさは既に人の営みの中心から立ち去った後だった。

 雀が鳴いている。

 椅子に座ったまま、背もたれに体を預けて伸びをした呂騎は、眠気覚ましに深呼吸もした。自らが漏らした声の余韻に、朝のひと時の気だるさを実感し、彼の知識の練武場である頭脳が回転を始める。

 そこに電話が鳴った。壁にもたれかかって受話器を取った呂騎は目を瞠った。

「徐朱か。無事だったんだな」

 声が弾んだ。呂騎はほっとする暇もなく、徐朱から話を聞きだした。

「落ちたんじゃないよな。連絡がなくて、どうなったかと心配していたんだ」

「無事だよ」

 徐朱の声は穏やかで隙がない。電話越しで分かりにくいが、何らかの理由で緊張感を引きずっているのだった。

 説明によれば、こうだ。

「霧が濃くて滑走路に降りられなかったんだ。警察官に誘導されて飛行場に着くまでに半日以上かかった。おかげで町中がひっくり返したような騒ぎになってね。街頭にできた人だかりを交通整理しないと進めないほどだったよ」

 呂騎は安堵の息を漏らした。

「とにかく良かった。フライトは成功したんだな」

「ああ、成功だ」

 と、徐朱は控えめな声でいながら、重く力強さを兼ねた言い方をした。

「こちらでは呂花が心配していたぞ」

「呂花さんが、そうか。また彼女と話す機会があれば、もう少し信用してもらえるように努力するよ」

「会わなくてもいいのか」

 と、呂騎は聞いた。

「別の機会にするよ。彼女には居心地のいい自分の世界がある。今はただ誇ろう、僕らの翼を」

 徐朱は鮮明な暁光のように、気持ちよく告げた。

 

   了