『喪家の狗』 作 石島利秋
瓦葺きの屋根に雨粒が落ち、やがて黒々と染め上げた。雨垂れは軒先から落ち、細い筋となって地面を打つ。ぱちちと水しぶきが上がる音が、室内にまで聞こえてくる。その音に耳を澄まして、美代子は正座したまま中庭から見える暗色の空を見上げた。
雲が薄く幾重にも重なって、柔らかそうな質感とは裏腹に、重たい雨を大量に含んでいそうに見える。美代子は背筋をぴんと張った姿勢を崩さず、脛にかかる重量を疎みもせず、時の秒針が失われるくらいの沈黙の最中にいる。
沈黙は破られた。
「大変、降ってきましたよ。お母さん、窓は閉めてくださいましたか」
娘の優子が帰ってきたのだ。玄関先で喚いていたが、それでは埒が明かないことを知っているので、実際に足を運んで戸締りを始めた。
襖一つ隔てた部屋で、ガラス戸が閉められた音がした。小走りに廊下を移動しているのが、手に取るように分かる。すぐに美代子がいる縁側にも優子が現れ、美代子の見ている前で戸が閉められた。
「お母さん、雨が吹き込んだら掃除が大変なんですよ。お家のことはもう興味がないんですか」
作業をしながら、当て付けで優子が嫌みを言っても、美代子は表情を変えなかった。ぼんやりと優子の背中を見つめながら、入れ歯のかみ合わせを確かめるのだった。
一瞥したきり、次の戸締りに取り掛かった優子は、いったんは遠ざかり、再び雨音だけがかすかに聞こえるだけの静けさが戻った。美代子は戸締りがされて興が失せたため、諸手を突いて体重を支えるとよろめきながら立ち上がった。明かりの点いていない暗い室内に足を運ぶと、座布団の上に腰を下ろして再び瞑想状態になった。
しばらく後に、優子が障子越しに美代子に声をかけた。
「お茶を煎れました。一緒に飲みましょう」
そろりと障子が開けられ、薄暗い室内に入った優子は、湯呑の乗った盆を美代子の座った座布団の前に置くと、立ち上がって電灯の紐を引っ張って電気を点けた。静かな室内で蛍光灯は不釣り合いなほど陰影を奪った。
「後援会の斎藤さんが八つ橋を下さったんです。隆志によろしくとおっしゃっていました」
優子は手際よく八つ橋の乗った皿と湯呑を、美代子の前に差し出した。
その様子を虚ろな目で見ていた美代子は、爛熟した桃のような頬に皺を寄せてほほ笑んだ。
「隆志はちゃんと人様のために働いていますか」
「もちろんですよ。隆志は一生懸命ですから」
弁明染みた語調になったことに気づき、優子は一瞬顔を曇らせたが、すぐに相手が年寄りであることに励まされて笑顔になった。
「議長になったそうですよ」
非常に体面のいい情報である。人がどう評価するかを思えば、これ以上の面目躍如はないだろう。働きに疑問符が付いている隆志に、優子は気の利いた計らいをしたことになる。
だが美代子にとっては、隆志はいつまで経っても責任逃ればかりしている小心者であり、簡単には信用する気にはなれない。老いてよぼよぼになったとはいえ、気がかりは息子のことばかりである。
「あの子に務まるんですかね」
小声でぼやき、錯綜する思いを腹立たしく振り切ろうとしたが、余計に腹が立っただけだった。
「お母さん、隆志は随分と変わりました。お父さんの葬式だって、あんなに立派に取り仕切ったじゃありませんか」
膝の上に手を置き、遠慮がちに優子は隆志の肩を持った。姉である以上は、死ぬまで弁護するつもりでいるのだ。愛情の分量で測れる関係ではなく、亡き父、幸仁の課した家族の役割分担に、今でも従っているのだ。
幸仁は若かりし頃、豪胆で鳴らした政治家だった。彼の発言は村落で常に最大の尊重を持って迎えられ、それに慢心することのない潔癖な性格が人々に好まれ、七十で引退するまで村議会のご意見番であり続けた。
彼の存在は、小心な隆志には重荷だった。
事あるごとに対立し、無難な選択ばかりをする隆志に、深沈と説諭するという場面が、何度も見受けられたのである。豪胆な者と小心な者という、致命的な物別れを、尾崎家では内情として抱え続けていたことになる。
幸いにも幸仁には癇の虫が疼くということがなかったので、感情任せな叱咤はしなかったのだが、そのせいで同じことを幾度も説くという苦労をした。隆志がその情緒的安定のために選ぶ筋道が、折に触れて政治家としての信念に逆らったのである。息子としてなら、保守的な振る舞いは決して咎められるものでもないが、こと政治家の家系に生まれた者としては、衆目に先立って決断するという自覚がないことには、見苦しいのである。
当たり前のことを言っているだけでは、信用は得られない。幸仁の信念である。常識人打って、降りかかる災難を回避し続けるだけでは、困難に打ち勝たねばならない政治家の性として、明らかに見劣りしてしまうのである。
四十歳で幸仁の後を継いだ隆志は、この欠点を繰り返し指摘されるうちに、道化染みたことをするのが政治家なのかと、幸仁の論理を蔑むようになった。困難の真ん中に出しゃばって出ていって、何もできなければいい笑い草ではないかと、隆志は思うのである。困難を大衆と分かち合うという政治家の資質は、彼にはなかったのだ。
格好よく背広を着こなして、議会の椅子に威厳を伴って座っているのが、政治家だと、大方隆志の政治信念はそんなところだ。質問に立つこともほとんどなく、幸仁の代理人という名目で議会に派遣されていると思っている議員も多かった。過疎の進む村落では噂話が伝わるのは存外に早く、まず後援会の面々が聞きつけ、続いて尾崎家にも伝わった。
幸仁の息子は木偶だ。
素晴らしく歯切れのいい嘲りが、巡り巡って隆志の耳に届くころには、大勢が怪訝そうに出方を窺うという状況が出来上がっていた。通常であれば、平常心を失して喚き散らしたりするものだが、隆志は筋金入りの常識人で、まったく態度を変える必要性を感じなかった。
蛙の面に小便といった様の隆志を見た村民は、もしかしたら大物かもしれないと、幸仁の威光を重ねて見るようになった。親子鷹だな、と古参の議員も重たい腰をあげ、隆志の面倒をみるようになったのだ。
しかし、本質は変わっていない。隆志には困難に克つという経験がまるでなく、天賦のものを上手に活かして生きるという、恵まれた暮らしを続けてきたのだ。そう簡単に、人々の中に分け入って困難を共にしようという腹積もりになるものではない。
母親の美代子はそれを知っているから、隆志は駄目な子だと、彼が政治家になった時からずっと言い続けている。幸仁の妻という身分からすれば、後塵を仰ぐものが優秀であればあるほど気は楽になるはずだが、隆志は勤勉で才智も備え、優秀であるはずなのに気が晴れなかった。
素養の問題である。育て方を間違ったのかと、家を預かってきた美代子は、隆志のさっぱりとして灰汁の抜けた顔を見ると、憎々しささえ覚えるのだ。脂ぎって、欲求が満たされないことを常に恨んでいるくらいの雄々しさがないことには、政治家の背中に隠れたい民衆はまとめられない。政治家は泥水を啜って育たなければ、いずれ功利に走るだけの面汚しになると、美代子は不満が収まらなかったのだ。
幸仁が亡くなるまで続いた説教を、彼に代わってする者がいなくなった尾崎家は、不機嫌な美代子だけが取り残された格好になった。暮らし向きはいいし、満足もしているのだが、愚息の世話という課題が残され、美代子は黙りこくって無言で抗議をする日々を送っている。
「隆志は肝が小さくて政治家なんかには向いていないんです。私はお父さんに言ったんですよ。隆志は普通の勤め人にしかなれないって」
ぎろりと眼球を動かし、美代子は残された覇気をすべて注ぎ込んだかのように、隆志を非難した。
優子は困った顔をして、それでも微笑みを絶やさず、老いた母親に道理を説いた。
「向いていない仕事でも、一生懸命やることが大事です。隆志はよくやっていますよ。そろそろ認めてあげてもいいのではありませんか」
「上辺だけは飾れても、性根が村民に背中を向けているんじゃ、どうしようもないでしょう。議長になんか祭り上げられて、いい気になっていたら私が鼻っ柱を折ってあげます」
唸り声を上げる犬のような口調で、美代子は文句を言った。勇ましさだけは失われておらず、往年の憤懣を晴らさずにはおられないという具合だ。身の回りの世話をしてくれる優子には率直に話すが、幸仁が何度説教しても聞き入れなかった隆志には失望しており、彼に対しては蔑みに近い目を向けるのだった。
ただの近親憎悪かとも思えるが、根はやはり政治なのだろうと、優子は理解している。人と人を結ぶ因果を、甘い気持ちでお座なりになどしたら、政治家の顔は潰れる。隆志の保身には、こうした他人との距離を置きたがる性癖が含まれているのだ。人と人がばらばらになって、抵抗する手段も主張する手段もない時、一緒になって揉みくちゃにされるのが政治家だ。政治家が率先して逃げ回っていたら話にならない。
隆志の紛糾嫌いは、優子も幼い時から承知している。怒鳴り声をあげて家に乗り込んできた村民を、幸仁が太い声で宥めるのを襖越しに聞いて、隆志がむっつりと不機嫌になっていたことを、昨日のことのように思い出せる。政治家の息子は、怒声の飛び交う現場に怯えていてはならないと、幸仁が半ば職業自慢のように説くのを聞いても、隆志は火の消えそうな蝋燭のように細い光を目に宿していた。
だから優子は、隆志が政治家になると決心した時には、耳を疑った。困惑し、本気で幸仁の後を継ぐのかと、同じ意味の質問を繰り返した記憶がある。ただ、決意は固いと知った後の優子は、尾崎家で一番の理解者になった。
いくら政治が汚れ仕事になっても、理性と論理に秀でた人間が務める限り、醜悪な乱れ方はしないだろう。これが隆志が駆け出しの頃の感想であり、一言多い幸仁や美代子に優子が橋渡しするときの決め手であった。隆志は自分なりの判断で汚れ仕事も拒まないんだと、優子が口添えした効果は大きかった。いくらか幸仁の説教も影を潜めたし、美代子の愚痴も減った。
だが、大勢の人を同時に欺くことは、不可能である。後援会では幸仁の代との勝手の違いが表面化し、摩擦が生じた。他人の評価は相変わらず低いということが、幸仁や美代子を悲しませ、隆志を焦燥に駆り立てた。政治が尾崎家にひびを入れたのである。
そんな辛みを抱えたまま、優子は実際的な話をした。
「明日、隆志が家に来ます。地域の寄り合いがあるんです。心にもないことを言うのは嫌かもしれませんが、労ってあげてください。きっと励みになると思うんです」
美代子は何も答えなかった。小さな背中を丸めて湯呑を持つと、薄く目を開いて茶を啜った。熱さで舌が痺れたが、心地よい香気が口いっぱいに広がった。
外では雨脚が速まっている。ぱちちと地面を打つ音が、微かに聞こえてきた。
村落は今二つに割れている。ゴミ処理場の誘致を推進する派閥と、反対する派閥である。隆志は推進派の旗頭として、方々に駆り出されては演説をしている。困難を抱え込むのは本意でなくとも、現実的な雇用や地域振興の問題に関しては、政治家らしい発言ができるのである。
寄り合いは後援会の旗振りで集結することになった、例外的なものである。議長である隆志が推進派に加担したことで、関心は村内のどこに誘致するかというところに移りつつあり、全地域を巻き込んだ議論が活性化しているのである。
普段は滅多に議論などはしない村民が、しかめっ面で顔を突き合わせるという光景は、地域の過疎、没落という光景と重なると、途端に物悲しくなる。いくら力んでも、まるで肩透かしをされたように時代の趨勢に取り残されるという虚しさは、過疎の進む村落の住民ならだらしもが共有している。
向きになったら負けだという、諦めにも似た気持ちで、村民は不満を抱えても表には出さずに、その日毎を乗り切るために気力を振り絞る、一見して不毛にも思える日常を送っている。腹に鬱屈を抱えるだけでは解決にならないことを、理性での政治を信条とする隆志は早くから唱えていたが、それが誘致推進という立場を固めるまでの紆余曲折には、村落の落日に胸を痛めるという気持ち抜きには考えられないものがある。
村民たちは、明日を迎えるごとに不安が増大する、底なしの連鎖の中におかれ、救いを求めている。老いた身で安んじることのできる、社会と家族と商品経済を望むことが、過分だというのなら彼らは絶望するしかない。欲求は過大になりやすく、人生は満足に過ごすには長すぎるので、政治は彼らの絶望を和らげることでしか、存在意義を果たせなくなっている。体のあちこちが痛む、遊ぶ金もない、という老人ならではの不満が、高齢化の進む村落にペストのように広まっているのだ。政治家がその中に入っていって、自分も苦しいから耐えてほしいと訴えでもしないと、擦り切れてしまいかねないほど毎日が悩む時間に費やされているのである。
隆志がそういう泥臭い政治家ではないことは、後援会の面々は気づいていて、新しい世代の政治家だからとご機嫌をとってはいるが、内心は綻びが広がる村落の結束に、堪らなく不安を抱いているのだった。だから、事が荒立てられたときくらいは担ぎ出さないと、そろばんが合わないのである。
決して隆志は救世主としての働きを期待されているわけではない。むしろ、都会の匂いを漂わせる異質な存在であり、後援会の人々から見ても、幸仁のようには論座の中央に居続けることは厳しいのではないかと思わせる。損か得かという、誰にでもできる二元論ですら、隆志の顔色を見ずに決められてしまうほど、蚊帳の外という印象は強い。
それに不満を感じる灰汁の強い政治家だったら、剛腕を発揮して、まずは尾崎先生の意見から始めないことには話が進まない、という状況を作っただろう。だが、隆志は後援会を引き継いで言い成りにこそならなかったが、意見をすり合わせて合致させる、調整型の政治に終始した。誰かの意見がないと、村落が丸ごと停滞すると、危惧されていることにはあまり関心を持たなかったのだ。
従来は幸仁がちらり、ちらりと後援会を始めとする村民の顔を見て、私はこうすべきだと思うと公言していたが、議会でろくに質問にも立たなかった隆志には真似はできそうにない。それでも議長の座が転がり込んで、弥が上にも発言しなければならなくなっているのだ。公正な議論を運営する立場にあるのが、議長だからと、発言を回避する方途がないわけではないが、期待を込め、固唾を呑んで見守る村民を見るにつけ、男なら踏ん張りどころだろうと発奮しているのである。
今までになかったことであり、これを経て初めて隆志がかなり議論にも強いことが判明したのだが、彼の胸には政治家としての使命感よりも、試練にさらされて緊迫している空気のほうが重かった。壮年になって大抵の見聞は経てきたとはいえ、生活信条が伴わないのに根本から参加姿勢を問われることは、非常な気疲れとなって隆志の日常にのしかかっているのだ。
それでも見方を変えれば、隆志にもようやく幸仁並みに言質を要求される、格式ある立場が実現しつつあるともいえ、一人前の政治家としての責任感を鼓吹してきた美代子などには、坂道を登った後の爽快感のようなものまで期待されているのである。
本人は目いっぱい思考を働かせてやる気を証明しており、父親と比較されて政治家の虚像を押し付けられるのに反発しながらも、演説する口先から真っ当さが実っていくような、収穫の喜びがあるのだった。隆志はこれを、苦節の果ての檜舞台のようでいて、やはり自分は根っこが同じなのだと感じている。村落を停滞から救うために勉学に励み、交友を広げてきたことの結果として、いざとなれば気の利いた演説もできるのだと、才能の限界に挑戦する機会が遅まきながら訪れたことに、充実感もあるのだった。
後援会の面々は隆志の弁舌の冴えに気を良くして、地域の寄り合いで発言する機会を設けた。迷惑施設の建設を誘致するということは、助成金や道路整備など地域経済にとっては救いとなるが、生活に即していえばこれまでの恙無い暮らしが激変する可能性もあり、堅実に地域の産物を消費しながら生きていくのが、難しくなるのではないかと地域住民から声が上がっているのだ。そのもっとも肉声に近い、生の声が聞かれるのが寄り合いである。相互扶助の精神が村社会で一応の合議の形を取る必要があるときに、近所同士で集まって民主的な方法で決を採るのである。
寄り合いでの発言は、砕けた場だとはいえ、選挙の一票に影響する支持固めの場でもあり、隆志はいつも通りにネクタイをきつく締める程度の緊張感は備えていた。開催の場として選ばれた尾崎家には、昼間から人が出入りして挨拶が交わされ、その日採れた野菜や猪の肉などが続々と持ち込まれた。接待の手間への謝礼を兼ねて、主に婦人たちが交流するのが慣例となっているのだ。
杯の準備なども抜かりなく進める優子が、隆志の訪問に気付いたのは夕刻だった。彼は飼い犬のトキを連れて、散歩に出かけようとしていた。
「隆志、お母さんにはもう会った」
少ししょげた感じのする背中に、優子は呼びかけた。葬式の日は隆とした広い背中に見えたが、喪服を脱ぐと案外衰えがはっきりと分かる。
振り返った隆志は、面倒臭そうに鼻で笑うと、エプロン姿の優子にそれ以上時間を取らせなかった。
「後で話すよ。姉さん忙しいんだろう。そんなところにまで気を回さなくていいよ」
それっきりで振り切るように歩み始め、隆志はトキを伴って門から出ていった。素っ気なくされることは慣れっこだが、老犬と政治家という取り合わせに、優子は在りし日の父親の面影を重ねて悲哀を感じていた。隆志の出ていった門の空隙を眺め、吐息をつくと井戸端から離れて台所に戻っていった。
トキと散歩に出るのは、葬式の日以来だった。隆志はめっきり足の弱った老犬に急かされることもなく、揚々と歩みを進めていた。日は傾き始めており、日差しの暖かさに犬が活力を増すという状況ではない。しかも、老いぼれて歯の抜けだしたトキには、隆志を煩わせるほどの好奇心もないようだった。
石垣の谷間に水路があり、農業用水として活用されているが、昔のトキはこの水路にいる鯉にしっぽを振ってじゃれつこうとする、愛嬌のある犬だった。それが今ではとぼとぼと水路と平行に歩き続けるだけだ。
犬の散歩というのは、気まぐれな犬の歩調が恨めしいほどではなかっただろうかと、隆志は皮肉を言いたくなった。綱を引っ張りすぎずに、実に行儀よく歩き続けるトキの後ろを、革靴にスーツ姿の威容で隆志が続く。畑の脇を取り立てて目的もなく漫ろ歩きをする犬と人に、淡い色彩の背景は実に合う。
空には引きちぎられたような雲がかかって、陽光には波打つような陰影が付いている。鼻から胸いっぱいに息を吸うと、思考に冴えがかかるようで気分がいい。
目を細めた隆志は、人家の傍に人影を認めた。遠目にも知った顔だったので、立ち話を予期しながら歩み寄った。
向こう側も気づいて、背筋を伸ばして挨拶をした。
「やあ、先生。散歩ですか」
「はい、寄り合いの前に、この辺りの空気を思い出したくて」
立ち止った隆志に合わせ、綱が引っ張られたトキもお座りをした。
「何も変わりませんぜ。みんな年寄りになっちまった以外はね」
斎藤は少しぞんざいな口の利き方で、親しみを表現した。上品な冗談にも聞こえるので、隆志はにっこりとほほ笑んだ。
「年寄りが顔を揃えて、明日は晴れか雨かと話すだけなら、平和なんですけれどね」
「違いねえ。若いもんがどうしたいか知りたくても、肝心の若いもんが居やしない」
かっかっかと闊達に笑い、斎藤は仰け反った。
「まあ、私らで何とかするしかないでしょう」
若干しんみりと、自分を説得するように隆志は言った。
「先生、村の西側は自分のところに施設ができるんじゃないかって、疑心暗鬼になっているそうです。こっちで足場を固めたら、向こうに乗り込んでいかなくちゃならねえ」
「そうですか。取り敢えず寄り合いで東側を味方につけましょう。私ももう少し考えをまとめて夜に備えようと思います」
体裁を良くした上で、話の続きは夜にしようという文脈に導いた。ある程度は賢い斎藤はすぐに合点し、発破をかけた。
「頼みますぜ、先生。村の将来がかかっているんです」
足元ではトキが欠伸をして口元をもごもごとさせている。
「分かりました。やれるだけはやりましょう。では、夜にまた」
軽く会釈をして、綱を引くと出足は鈍かったがトキも歩きだした。悠々とした隆志の物腰は、犬にも分かるのかトキは決して慌てようとはしない。主人が薄らぼんやりと憂鬱そうな目をしているのまでも分かるなら、立ち止まって見上げたかもしれない。
隆志とトキは農家の沿道を気ままに散策した。
夜になり、寄り合いが始まった。
近隣の家々から主である男たちが顔を揃え、尾崎家の座敷に濃厚な空気が漂いつつある。話し合いが終わるまで酒は振る舞われないが、景気づけに一杯ひっかけてきた者もおり、理屈よりは情緒の問題だろうという申し合わせが具体化しそうな雰囲気だ。
こういうときに、情緒を理解しつつ肝心な締めどころでは躊躇わないのが主宰者の腕であり、政治家の尾崎家というのは、それができる家柄だと皆に思われている。幸仁の代ではぎらぎらと睨みを利かせるほど緊迫していても、彼が膝をはたと打って論を展開すれば丸く収まった。それだけ幸仁の政治感覚には信頼が置かれていたのである。
翻って隆志の代では、皆が遠慮して感情を抑制し、泥臭い闘争劇は見せられないという気配りが見られる。半ば無意識的なものだが、袋の緒を締められるかどうかに、漠然とした不安を抱いているのである。袋が閉じられなければ、中身が散逸して惨めな体裁をなすと、誰もが推測を働かせる通り、政治家を囲んで論議するのに中身に筋を通さなければならないというのは、出鱈目に論駁して後始末を任せてしまいたい人々にとっては負担なのだ。
どうも論議の後味がすっきりしない、という印象を後援会の面々は持っており、それが近隣住民の寄り合いという場に移されても同じことなのは、火を見るより明らかである。隆志は幸仁と並ぶ器かもしれないが、村民が好き勝手に話を紛糾させてもまとまっていた頃のようにはいかないと、誰しもが気づいている。
それを代替わりのせいだと言わないのは、世話になった幸仁への遠慮のせいであり、息子である隆志への期待のせいでもある。議論には強いのだから、慣れればいくらでも座談などは取り仕切れるはずだと、これまでの尾崎家での寄り合いの経験から、その安易さを夢想してしまう住民も多いのである。
話し合いというのはまとまるべくしてまとまるものではないかと、数十年来そう信じてきた住民にとっては、幸仁が欠けた後の寄り合いが紛糾することなどは、予期できるはずもなかった。村が二分される論議も、熱っぽく気に入らないことを非難しているうちに、何となく形になって、最後には政治家の決断に気持ちよく納得できるのではないかと、勝手な思い込みさえもがあるのだ。
隆志には自信がない。村には必要のない施設を誘致し、それが雇用と自治の基盤にとって重要な足掛かりなるなどと、村落を巻き込んだ議論ができるのなら、悩まなくてもいいのである。実のところどうなのか、本当に利益となるばかりなのか、最先端の物差しを使っても測り切れないのである。
学識のある隆志ですらそうなのだから、ありきたりな日常を送る以外に生きる道のない村民には、鬱蒼と茂る樹叢に分け入っていくように気が重い推測であり、それをしたからといって称賛される見込みすらない。だったら賛成も反対も留保して、議論の行く末を見守った上で、熟したところで果実だけは入手するという態度も許されそうだと、現金な考えも浮かびやすくなる。
頭に血が上った相手に咬みつかれるくらいなら、楽をすることも処世術として妥当するのではないかと、政治家が不在の状況では議論も尻すぼみになる一方である。辛うじて政治感覚を期待できる人が、有能であった人の息子であるというだけでは、どうも半信半疑を超えることはなかろうというのが、現実なのだった。
村落の未来をかけて議論するという土壌が、従来であれば壮士の血流のように村中を沸き立たせていたものが、いまでは鈍い疑心のみが足元に広がっているだけの、気分が滅入るような状況である。
これを後援会の斎藤などは、掛け声と血筋で議論を盛り立てる気分にまでさせないと、村は沈むと思っている。掛け声は粗野な自分が受け持っても何とかなるが、血筋だけは尾崎家に持ち込まないと何ともならない。隆志が結束の中心にいて、喧々囂々の議論に涼しい顔をして裁断を下せる器なら、今回のことで名実ともに村の首領になれる。幸仁を支えた後援会だからこそ、声を合わせれば大きな舞台にもすんなりと担ぎ出せるが、それだけになるほどと思わせる器でなくてはならない。
見込みが多少間違っていても、血筋は裏切らないだろうというのが、村社会の伝統でもある。斎藤もその信条に則り、後援会を動員して隆志の発奮を促してきた。やる気にさえなれば、勉強のできた人間はなんだってできるはずだと、妄念と呼ばれても揺るがないだけの切実な期待感があるのだ。村は、隆志に望みを託して、彼の主導で一つにまとまって未来に駆け足でなだれ込めばいい。重要な岐路では必ずと言っていいほど繰り返されてきた、村のやり方で今回も紛糾を収束できるはずだと、胸に宿せばたちまち活気づく信念があるのである。
ちなみに隆志はその期待感に応えることは、義務であると同時に唯一の突破口になると感じている。期待を裏切れば、村には自分の居場所はなくなる。そう思うと、背筋が冷え込んで武者震いがし、幸仁ならどうしただろうと退路も模索しながら、勇気凛凛で勢いに乗れない自分を惨めに感じるのである。
どれほど研鑚を積んでも、多数人の集合であるところの民意などは読み切れず、読んだからといって支持を受ける見込みがあるのでもないから、自ずと民意に完全に合致する政治信条などはない。隆志も誘致を推進するという立場こそ採っているものの、政治生命を賭して推進し、励み、説得に当たるという気風を持つものではない。どこかですれ違うのではないかと、常に不安を感じながら演説をし、不安であるがゆえに迂遠な断定しか用いずに、いわゆる緩い言質しか与えていないのである。
どこかで民意を見切って、一挙に攻勢をかけないとまずいことになると、隆志は自分の周囲の期待の高まりとともに、曖昧な態度が嫌悪すらされることに気付き始めているのである。
だが、寄り合いに集まった近隣住民は、議論の切り口がはっきりしていないことに苛立ちまでも感じているが、表面上は捌けた理解者であることも自らに課し、比較的平穏である。これに甘えれば、尾崎に期待はしたが信じたわけではないと、潮目を境に一気に離反していく恐れもある。穏やかに膝を詰めているという状況は、まとめ役の政治家にとって、油断した途端に思惑が外れる、気持ちの休まらない状況でもあるのだ。
広い座敷に人が車座になって顔を見合せ、議論がなかなか始まらないことにやきもきし始めた頃合いに、隆志が立ち現われて用意されていた座布団に導かれた。彼は腰を落ち着けると、すぐに口火を切った。
「皆さん、今日は意見を煮詰めるために集まってもらいました。この寄り合いで話がまとまれば、村の東側は一枚岩になりそうです。斎藤さん、経過の説明をお願いします」
「承知した」と、斎藤は応じた。「ごみ処理施設の建設が打診されてから、村中で議論はされてきたが、そんな得体の知れないものを作ったら生活はどうなるという不安の声が多かったらしい。しかし、尾崎先生が言うように、黙っていたら俺たちはじり貧だ。可能性があるのなら迷惑施設でも受け入れて、働く場所を作らないことには、食っていくことさえもままならないんだ。ここまでは正論として受け容れられているが、どこに作るかについてはまだ揉めている。村の西側は水源から離れているということで、誰からともなく建設適地ではないかという声が上がるようになった。西側は今、その話題の火消しに躍起になっているところだ。ここで建設を躊躇していたら、村の経済は干上がってしまう。何が何でも作るんだという意思を、西側の奴らと共有できない限り、村長は決断できない。ここは俺たちから率先して、推進の意思を示すべきだと思うんだが、皆はどう思っているのか忌憚のない意見を聞かせてほしい」
斎藤が周りを見渡すと、その中の一人が軽く手を掲げて発言した。
「ごみ処理場というのは大きなものなのかい。この辺りの畑を潰しただけで建設できてしまう程度のものなのか」
計画の全貌を把握している隆志は、不安にさせないように丁寧に説明した。
「大きいといっても、村中を呑みこむような施設ではないんです。区画整理で数軒が立ち退きを迫られるかもしれませんが、基本的には空き地を利用して建設したいと打診されています。この村にはそれだけの土地はありますから、不可能ではないと判断して、検討すると返事がしてあります。異臭などの問題はありそうですが、最先端の技術を導入すればほとんど問題にもならないそうですから、後は村の総意で受け容れられるかどうかの問題だけなんです。自分の家の隣には作ってほしくないというのが人情でしょうから、説得と協力という形で、行政と村民の信頼関係が試されるといっていいでしょう。皆で決めたことだからと、納得尽くで建設を見守れるようなら、村長も裁可を下せるはずです。今のところ議会は推進一色ですから、既に村民の説得の段階に移行しているわけですが、不安なのは誰でも一緒ですから、こうして説明とお願いに奔走しているのです。私は、作りたくない人の意見を、時間をかけてじっくり聞けば、もし採決を強行して建設に踏み出した時も、不信感を抱かれずに済むと考えています。ですから、いいんですよ。どんどん気に入らないところは指摘してください」
別の住民が渋い顔で本音を漏らした。
「先生が必要だというものに、俺たちが反対できるもんでもないと思うんだが、反対しているのは恩義のない奴らじゃないのかい。だったら、話し合いだなんて悠長なことを言っていないで、がつんと言ってやらなきゃ駄目ですぜ。お前らは村の未来に責任を持てるのかと、そう言われなければ気付こうともしないんだろうから、反対の横断幕を掲げていても構うことはないでしょう。先生がもう決めたことだと宣言すれば、それはもう既定事項なんです。俺は反対する連中の気が知れないね」
「あんた、そりゃ古いよ。今どきは学校でも話し合いだからな。頭ごなしに反対に反対するでは笑われちまうんだよ。この辺りの寄り合いも、尾崎さんや斎藤さんがいなければ、くだらない言い争いばかりしていなければならないんじゃないのか。西側には説得できるような人が思い浮かばないから、それなりに苦労があるのさ」
「まあ、そうなんだけれどよ。でもやっぱり、俺たちじゃごみ処理施設の建設なんて思いつきもしないだろう。そんな面倒臭い話を持ち込んだ先生方が、一番苦労するのは目に見えているんだから、先生方が何とかしてくれるもんだと考えるのが、順当なんじゃないかね。あんた、先生に意見できると思うのかい」
「意見できるとかそういうのじゃなくて、決めるのは誰かということになれば、まとまっていないところは勝手に意見しなければならないじゃないか。西側にも先生くらいいるだろうから、寄り合いでも何でも利用してまとめようとはしているだろう。それでもまとまらなければ、声の大きい奴が一番目立つのさ。建設反対の旗印を政治家が担いでいるんじゃないのなら、話し合いの場に引っ張り出して青くさせるのが一番だね」
「なんだね、あんたは話し合いかい。俺は尾崎先生を担いで上から意見を下ろしたほうが楽だと思うがね」
「そりゃ、あんた、話し合いでしょう。畑を潰して妙なものを作るんだ。そんなものが村のシンボルになるはずがないじゃないか。話し合いをしなければ、後々までいがみ合うことになって気分が悪いだろうしね」
「まあ、いいさ。最後には先生が出ていって、決定すればいいんだ。話し合いをするだけの時間的猶予があるのなら、いくらでも話し合いはすればいいよ。俺は地域の決め事は先生に任せるのが一番だと思うっていうだけでね」
「どうなのさ、先生。西側の連中と話をつけてくる自信はあるのかい」
村民に尋ねられて、隆志は苦笑いした。
「勇ましく説得に向かうとでも言わないと、皆さんは納得されないんでしょう。誰かが説得に赴かなければならないのなら、率先して行く用意はあります。ただ、どれだけ説得に時間がかかるかは、なんとも言えません。西側は生活の景色にごみ処理場が入ってくるのを警戒しているようですから、いかに有意義な施設かを説いても反対の声は上がるでしょう。その人たちに納得してもらってから建設するのか、押し切って建設を実行するのかは、説得の首尾を見て決めることでしょうが、理想がどちらにあるのかは明らかです。私が行くことになるのなら、必ず説得するんだという気構えで行くことになるでしょう。難しそうですがね」
やや滑稽味を帯びた答え方をし、隆志は車座を見渡した。興が乗らないという顔が大半であり、面倒なことを話題にしているのが見るからに分かる。
斎藤が湿っぽい空気を察して、必要以上に大きい声で一同に告げた。
「尾崎先生を出すからには、恥をかかせに行かせちゃならない。少なくとも東側はまとまっていないと、出るところにも出られないだろう。ちょっと決を採らせてくれ。ごみ処理場の建設に賛成の者は、手を挙げてほしい」
二人がすぐに手を挙げ、見渡した者が続いて挙げ、最後に迷っていた者が挙げた。寄り合いの参加者のうち、ちょうど半分ほどが賛成に回った勘定になる。残った者は反対しているか、積極的に賛成も反対もしないかのどちらかだ。
指先を動かして挙がった手を数えた斎藤は、寄り合いを一枚岩にするという目的のために、続けて質問をした。
「賛成も反対もしないという者も、念のため手を挙げてくれるか」
すると、ほぼ全員の立場が明らかになった。反対している者は、一人もいなかった。
「やっぱり東側は推進する気分になっているってことだな。もうちょっと情報が行き渡れば、確信を持って賛成できるといったところか。先生、どうする。この場で説き伏せてもいいと俺は思うが」
「そのための政治家ですよ。私が誘致の意義を話しますから、皆さんは疑問に思うところを遠慮なくぶつけてください」
朗々とした口調で、隆志は一時間近く質疑応答をすることになった。
寄り合いが終了したのは、夜の十時頃だった。
がやがやと熱っぽい議論の余韻に浸りながら帰ってゆく人々を、門まで見送った隆志は、何度頭を下げたか分からないほどお辞儀を繰り返して、ようやく最後の一人を送り出すと、家の中に戻って優子を呼んだ。
「姉さん、お茶を入れてくれませんか」
「はいはい、ただいま」
小気味よく返事をし、優子は台所で忙しく給仕の準備をした。居間で胡坐をかいて座った隆志は、呆けたように虚空を眺め、張り詰めていた気分をほぐした。熱を帯びていた身体が少しずつ冷め始め、達成感の残滓として心地よい疲労感が残った。
少なくとも尾崎家の近隣では、ごみ処理施設の誘致に賛成ということで一致をみた。強引に誘導したわけでもなく、意見を募って擦り合わせるという作業の果てに、何となく反対する気分ではないというところで皆が落ち着きたがっていたのだ。隆志はそれを後押しし、調整によって必要な取りまとめをしただけだ。
民衆の只中に入っていって、意見を取りまとめるのは、政治家の主要な責務であり、そこに醍醐味を感じなければやりがいも感じないはずだ。幸仁が鋭く対立する意見にも平然としていられたのは、泥沼に陥っても政治が機能するという自信があったからだが、隆志には理路整然とした政治にしか意見を調整する機能はないと思える。同じ政治でも、どこで本領を発揮するかについては、まるで異なった考え方がありうるのである。
紛糾すれば情緒であると、老練な政治家たちは赤子をあやすように議論の中に入っていけるのだが、隆志は議長という職を得ても、なお理屈を戦わせる議論の範疇から逃れられない。これが隆志が政治家として未熟であると、美代子が判断する原因である。歳を食って情熱に任せて論駁する機会が減ったとはいえ、理屈で勝利するしか日の当たる道を歩む方法はないと、目の前の論敵と情緒で通じ合う可能性を無視してきた付けは大きい。議論が下手で、泣き落としや恫喝を駆使する政治家ほど、晩年は情緒の扱いに精通しているものだが、隆志は下手に議論が達者なあまり、話に熱中しているうちに落とし所が漠然と見えてくる政治家にはなれなかったのだ。
だから、議論をすれば神経を使い過ぎて消耗する。隆志は大勢と議論をするたびに、気疲れで心の瞬発力が鈍くなるのを感じるのだ。夜も更け始めた時間に、議論を思い出しながらつく溜め息は、沈鬱ですらある。
その疲れた背中に向かって優子は呼びかけた。
「はい、お茶を煎れましたよ。一息ついてください」
「ありがとう。いただきます」
胡坐の前に差し出された湯呑を取って、ぐいと呷ると熱さで体の奥まで生気が行き届く。吐息をついて湯気を口から出し、唇を引き締めて一日の反省を気分にする。よく働いたが、今一つ納得しにくいのは、今日も議論に勝ち残ったせいだろう。
握った湯呑を腿の上に置いて呆然とする隆志と、脇に控えて寛ぐ彼を見守る優子は、政治という使命の大河に並んで船を浮かべているように、寄り添って一筋の頑固さで繋がっている。尾崎家は政治をする家だと、自負と責任感で張りのある意識は老いても盛んである。幸仁が残した遺訓は取り立ててないが、人格そのものが道標になるような人だったからこそ、受け継ぐものも多大なのである。
その姉弟の仲の良さに割って入るように、居間に美代子が現れた。
「聞かせてもらいましたよ。口は達者なようですね」
「寄り合いは我先にと話したがる人の集まりではありませんから」
隆志は掌が湯呑の余熱で熱くなるのを感じながら、鷹揚に構えた。その脇から優子が盆を目の前に据えたので、隆志は残りの茶を飲み干して、湯呑を盆の上に載せた。
「ずっと家にいるのに誘致の話を知っていたんですか。揉め事に顔を突っ込むのは俺だけで十分ですよ」
「しゃべった分だけ有利になるなんて、思ってはいないでしょうね」
穏やかだが厳しく問責するような眼差しで、美代子はゆったりと尋ねた。
面倒事が増えたとあからさまに嫌な顔はしなかったが、疲れが背中に貼りついている感じで億劫そうに隆志は答えた。
「べらべら喋って、言い負かせば足りるなんて思えるはずがないでしょう。俺は女じゃないんだから、口で負けても態度で勝てばいいんです」
重たそうな口の利き方に、美代子は薄い嘲りの色を浮かべてからかった。
「あら、女みたいな政治家でしょう、あなたは。泥臭いことは出来やしないじゃありませんか」
「努力はしています。格好がつかないのは、敢えて苦境に立つ必要性を感じないからですよ。なんでも綺麗にまとまってしまうんでね」
意図的な挑発にも応じず、簡単にかわしてしまうのが隆志の冴えである。幸仁に対してもそうであったように、泥まみれになっている人間からすれば、汚れ仕事を疎んでいるとしか見えずに、損をしている。体裁ばかり気にする軽薄人ではないかと、美代子に勘ぐられてしまうのも、知恵が付いて動じない性質のせいである。
政治家の体質として、口先一つで世渡りしていると思われるのは、立場が重いほど不似合いである。成り行きで議長にまで上り詰めた男が、母親に口達者を咎められる図というのは、物悲しさが募る一方である。
責めている美代子自身、気分がいいものではない。
「あんたはそんな利口な人間だと思いあがっていると、必ず大恥をかきますよ。死ぬまで後ろ指を指されるなんて、父さんに顔向けできなくなってしまうじゃありませんか」
眉根を寄せて、白髪だらけの老女が憤慨すると、壮絶な人倫背反を思わせる。すっかり気圧された隆志は、消沈して呟いた。
「どうしたら認めてくれるんですか」
目を伏せて美代子の顔を正面切って見ようとせず、電灯の光で頬に陰りが浮かんでいる。それを見下ろして、美代子は短くはっきりと伝えた。
「私は年寄りですよ。自分で考えなさい」
「滅茶苦茶だよ」
恨みがましく見上げた隆志は、年甲斐もなく拗ねて俯いた。母親というのはいつまで経っても、男の頭を押さえつけようとするものらしく、十分に目的を達したとみた美代子は奥の部屋に下がっていった。
後に残された隆志と優子はしばらく黙りこくっていたが、やがて優子が落ち込んでいる隆志を宥めた。
「目立った失敗をしていないのだから、恥じることはないわ。母さんは父さんと比べることに慣れてしまっているだけよ」
「父さんがいなければ、俺は政治家なんかになれなかっただろうしね。因果があるから、辛くもなるんだ」
背伸びをして、胸のもやもやを晴らそうとした隆志は、半ば果たし、それ以上は望めないと分かると膝に手をかけて立ち上がった。
「帰るよ。お疲れさま」
「ええ、ご苦労さまでした」
機敏に応じ、優子は玄関まで隆志に連れ添った。隆志は靴を履きながら、背中の気配を感じて話しかけた。
「また、集いがあったら、そのときはよろしく」
「いつでもいらっしゃいね」
軽く手を掲げて返事の代わりとした隆志は、玄関戸を開いて出て行った。
数日後、新聞の地方版に小さな記事が載った。
『村議会がごみ処理場建設について調査費を請求』とある。隆志が輿論を背景に議会を仕切っているのだ。
新聞を読んだ優子は、美代子に聞いてみた。
「お母さん、お父さんが政治家をしていた時には、誘致の話はなかったの」
「ありましたよ。そんなものに頼らなくても、村はやっていけると言っていましたがね」
感慨もなさそうに、淡々と受け答えた。美代子は幸仁の時代を共に生きた生き証人であるから、もっと思い出にしがみつく姿勢を見せるかと思いきや、意外なほどあっさりしているのだ。それは、幸仁は過去の人になったという愛惜の保ち方に関連して、無駄にエネルギーを消費して記憶を焼きなおそうとすることの、脱力を伴う虚しさを知っているからでもある。
すでに美代子は、亡き人には過大な関心を持って現実世界に押し留めてはならないという、心の健康を維持するための秘訣を会得しており、長年連れ添ってそれなりの覚悟が備わっていたことを思わせる。政治家の妻として、一時代を共にした年輪は、女の命の炎が弱々しくなってきても、簡単には揺るがない信念として美代子を活気づける。隆志などはその年輪の前ではひよっ子だという嘲りに近い感情が、時に表舞台に添うことしかできない女の僻みとして、時に物分かりの良過ぎる息子への不満として、精神を生温かく湯気が上がりそうなほど活動的にさせるのだ。老いた身にとっては、そんな精神の酷使の仕方は毒である。
それが分かっているから、余計に隆志には冷淡に当たってしまうのである。自分が本気で尾崎家を憂いだら、隆志はおろおろして口を閉ざしてしまうほど狼狽するに違いないのだと、ある程度の距離を置くことでしか表現できない、真に政治家が美徳を実現できる方途を、幸仁の面影を重ねて隆志に高邁な目標とさせたいのを堪えているのだ。
あんな小奇麗な女のような政治家は、美徳の手前で失速して、結局は手が届かずに評価もされずに終わるのだと、美代子は間もなく自分にも訪れるであろう死期を思い、批判がましい辞世の句でも認めたい心境になるのだ。
政治家はみっともなく、人一倍足掻いて、最後には自分の人生が大勢の人の手でまん真ん中を歩かされていることに気付くのが、一番美徳にも適うのである。腹が立ったら手放しで道の真ん中で大の字になってしまえば、助け上げなければ人情が損なわれるという状況ができる、それを知っているべきなのが政治家なのだ。
美代子の理想は決して大仰ではないし、実現不可能な空論でもない。むしろ、長年政治に携わってきた者が、乾坤一擲の大仕事をする時には、決まって駄々っ子のように人の愛惜を誘うのを、幸仁という配偶者の軌跡から知りえたからこそ、隆志にも人の真ん中にいることの難しさとありがたみを知らせたいのだ。
議長にまでなって、人の顔色を見ながらご機嫌取りのようなことをしていたら、軽しめられるだけで尊敬はしてもらえない。他人の介添えなしには、もはやまともに人生を歩めないところまで塵芥にまみれ、畏敬の念で見られるのが政治家の晩年であるべきだと、美代子は思っている。
尾崎家の政治家がこのまま小間使いのように村民の間を行き来するなど、矜持が許さないのである。美代子がわがままだからではなく、幸仁が残したものが馬鹿になどされないように、細心の注意を払って務めを果たさなければ、父親の七光りで仕事をしているだけだと見くびられるのである。
衰えて息をするのも苦しそうだった幸仁の最期を看取ったからこそ、美代子のその沈毅な眼差しの先に見えている隆志には、立派に生きた政治家の志を理解してほしいのだ。それも、風雪にも構わずに静かに笑っているような、幸仁の人柄を偲ぶとするならば、笑みで崩れた老婆の顔などは見せたくもないのだ。
返って不機嫌そうにむくれて見せるのが、屈折した親子の愛情の表れとして理解できるなら、隆志も気持ちが折れてしまうことはなかった。老人というのはどうしてこうも思いこみで生きようとするのだろうかと、遣る瀬無さに鋭気が挫かれるのを、隆志は哀愁を帯びて嘆いているのである。
そこには政治の理想の違いを超えた、人間としての生きざまの美醜という評価の食い違いがある。美代子は幸仁の名を出されると、ほぼ反射的に職業として政治に尽くすだけの志のことを思うのだ。その堅牢な信念は、隆志を前にすると蔑みと怒りに変わる。どれだけ人間として盛りを迎えても、志が貧しければすぐに人々の記憶から脱落する。地位や名誉だけでは、政治の晩節は憐れまれる一方で明るい話題の一つもない。
隆志は晩節を汚さないだろうかと、美代子は案じているのだ。口うるさく釘をさせるうちはさしておこう。そう思うのだ。
身の回りの世話をしている優子には、美代子の心配はそこはかとなく分かるものの、幸仁の死で幾分無口になった母親を憐れんでいる。年寄りの最期のわがままくらいは、子供が聞くものだろうと大らかでもある。
村の成り立ちを大上段から語ることのない控え目なところは、優子の気性を誰からも愛されるものにしているが、美代子も心を安んじることができるとおり、尾崎家の安定のために随分と寄与している。
優子は普段は政治には知った顔をしないのである。
「お父さんの現役の頃は、世の中は上り調子でしたもんね。何もかも上向いているという、お祭り騒ぎみたいな時にも、堅実な政治ができたのは立派よね」
「どうしたの。あなたお父さんにもそんなふうに称賛したことはなかったじゃない」
敏感に察知した美代子は、続きを促した。
人が良さそうな笑顔を見せた優子は、慎ましやかに気分を口にした。
「隆志はお父さんと違うやり方で皆の幸福を考えています。親子だなと思ったら、お父さんが急に小さく思えてしまって」
しきりに照れて傲慢には聞こえないようにしたが、美代子は呆れた。
「まあ。亡くなった途端に侮ってしまうなんて、お父さんが可哀想よ」
「違うの。なんていうか、大きすぎて視界に収まらなかった人が、やっと語るに落ちるところまで身近になったかなって。もちろん今でも尊敬はしていますよ」
口早に否定し、否定しきって人心地がつくと優子はにこにこした。親子だからできる会話である。門外に出れば、おくびにも出せない感想だった。
尾崎家で徐々に隆志の影響力が大きくなっているのを、美代子は堪え難いことだと否定するほど頑迷ではない。
「隆志はごみ処理施設なんか誘致して、大丈夫なのかい」
新聞の文面をなぞった美代子は、一考して答えた。
「どうも政敵はいないようですね。この調子だと本当にごみ処理施設ができるかもしれません」
「住民のほうを見て政治をしろと、お父さんなら言ったでしょうに」
投げやりに美代子は呟き、遠くを見るような目つきになった。諭されているのかと思い、優子は真っ直ぐな目で美代子を見た。
「痩せ我慢では食べていけませんしね。現実的な選択だとしたら、住民も受け容れるんじゃないでしょうか」
妥当な説明である。誰が考えても、政治が現実に即して妥結案を出すことくらいは想像がつく。優子の頭には、隆志がよくよく考えた上で受け入れを表明しているとの、政治的信念に対する信頼感があり、美代子ほどには懐疑的ではないのだ。
政治音痴ではないという自尊心のある美代子は、妥当な推測であることは認めても、政治決断として適当かどうかには疑問を呈した。
「長年に亘って、土地に根差した生き方をしてきた村民が、お仕着せの食い扶持を与えられて喜ぶでしょうかね。これまでは特別なことをしなくてもやってこられたんです。この村の名折れになりはしないか、考えたことがあるのかしら」
「あちこちで集落の機能が低下しているといいます。限界が見えてきたから手を打つ、ということだと思います」
飽くまで隆志の考え方を追認する方向で、優子は結論を見定めている。幸仁の代には誘致の話が持ち上がらなかったのは、喫緊の必要性がなかったからだろうと判断しているのだ。確かに村人の生き方への拘りとか、慎ましい暮らしへの矜持とか、主体的な面から把握できれば美徳の存在を確認できる。しかし、それは結果から見た辻褄合わせであり、本当は食うに食えない状況を助けあって凌いできただけで、そういう暮らしを望んだわけではない。
だから、村民は施設の建設の必要が説かれたなら、施設と共に生きる方途を模索するのが理に適っているだろうと、優子には思えるのである。
美しい一時代を生きたという誇りを汚されたくない美代子は、捌けた現代風の理屈を優子が持っていることを、寂しげに見てとった。
「あんたも昔の人が築き上げてきた伝統よりも、目先の利益を優先するんだね。私の若い頃は苦しくても身売りなんてしなかったよ。水路を整備して、畑の生産性を高めて、出荷の態勢も整えた。時代に合わなくなったのだとしても、食っていくことくらいはできるはずだよ。それが、何でごみ処理施設なのさ。まったく道理に合わないじゃないか」
いかにも口惜しいというふうに、しょぼたれた。時にはいがみ合いながらも、真っ直ぐな目で世相を駆け抜けてきた世代が、辛そうに回顧するのは痛々しい。優子はその気持ちを酌んで、受け継いでいく者たちは決して不真面目ではないと言おうとした。
「お母さん、昔の人は忍耐強くて、生活の知恵もあって、逞しかったとは思います。それが失われてしまうのかというと、案外そうでもありませんよね。文明の利器が増えても、私たちは昔ながらの生活を送っているじゃありませんか。きっと、この先の若い人たちは、いいところを受け継いで発展させてくれるはずですよ」
「そうかねえ。そうだといいねえ」
最後には満ち足りた温厚そうな顔を見せ、静かに感慨に耽るのだった。刻々と同時代を生きた者が老いゆくのを、美代子は淡い悲しみと共に思い出すのだ。
そして、幸仁のことを思うと、天寿を全うするまで煩う必要のない冥土で待っていてくれるのだろうかと、逝った人への沁みわたるような愛惜を覚えるのである。
村の西側では、ごみ処理場に関する調査費の計上に殺気立ち、連日のように議論が交わされていた。村の東側を代表して、村議会議長の尾崎隆志が説明に来るというので、この機会に要望を突きつけようと、血気づいた村民は結束して期日を指定した。
当日、公民館に集まった溢れるほどの村民は、講堂にぎっしりと座り込んで隆志を迎えた。講演会方式ではなく、公開質問の形式で進行されるとあって、期待の熱気で蒸し暑さを感じるほどであった。
壇上に現れた隆志に、申し訳程度に拍手が送られ、ざわめいていた館内が静まった。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。では、さっそく質疑応答を始めたいと思います。まずは目下の政治状況をお報せします」マイクの向きを調整し、隆志は冷静に言葉を紡いだ。「村議会では協議の結果推進の方向で調整され、予算から調査費を計上することを求めたのは報道でご存じだと思います。次年度には調査を終え、ただちに許認可等の法的手続きに着手するものと、我々は決断したのであります。ですが、建設予定地と囁かれる地域で反対の運動があることを踏まえ、十分な情報の提供と、御不満の解消に努めることを、この場を借りてお約束いたします。必ずや納得尽くで建設を開始できるものと信じ、また皆さんのご理解とご厚情によって意義のある施設の運営をせねばならないことは言うまでもありません。村議会では雇用やインフラなどのメリットを存分に生かせば、ごみ処理場の誘致は村の未来にとって、光明とはなっても暗雲とはならないと判断しました。皆さんにもこの結果をご報告いたしたく、またご理解いただけるものと期待をし、本日の質疑応答が実り多きものになることを望みます」
一旦パイプ椅子に腰を下ろした隆志を見て、司会者が進行した。
「尾崎先生の挨拶は以上です。さっそくですがご質問を承りたいと思います。質問のある方は挙手をお願いします」数人が手を挙げ、司会者は手を掲げて指名した。「では、そちらの方からお願いいたします」
灰色の作業着を着た男が、マイクを受け取って立ち上がった。
「ごみ処理場の悪影響について、懸念されることは多そうですが、有害物質などは畑や井戸水に影響しないと断言できるのでしょうか」
隆志は壇上に立って、ゆっくりと不安心理に影響しないように話した。
「かつては堆積したごみに雨水が浸透して有害物質が流れ出すということがあったそうです」会場がさざめいたが、隆志は続けた。「しかし、近年の機械化技術の進展により、ごみを加熱して処理する方式の処理場は、ほぼ安全性が確認され、広く普及しております。火災の危険はありますが、構造上外部に火の手が回ることもなく、また地震等にも耐えられるだけの構造が法定されています。雨水によって地下水が汚染される恐れも、この構造の堅牢さをもってすれば、ほとんどないと言っていいでしょう。我々が報告を受けている先例からすると、最新の型式の処理施設は、発電所並みの安全性を備えているとされているので、粉塵などの飛散もないものと確信しております。従って畑も井戸水も、従来通りに使っていただけますし、健康への被害はないものと理論上からも経験上からも説明が可能です」
司会者が次の質問者を指名した。
「調査費を村から出すということだが、施設を作るのに村はどれだけ負担しなければならないんだ。俺はこれ以上税金を上げられたら、食っていけないんだ。財政は大丈夫なんだろうな」
壇上で聞いていた隆志は、すぐに応じた。
「建設費はごみを持ち込む自治体が全額負担します。当村では建設予定地の選定や権利関係の調整に費用を負担するだけで、後は地盤の改良なども持ち込み自治体の負担となります。ですから実質的には、よその自治体に土地を貸し出すような形になるわけです。処理場が稼働し続ける限り土地利用の自由は制限されるのですが、それなりの補償はされますから、仮に立ち退きを迫られたり、畑の拠出を求められたりしても、生活の心配はありません。どれだけの補償が必要かというところについて、負担する側の村で判断しましょうということですから、費用がかかるといっても、将来必要になる権利の負担規模をこちらの都合で算出できるのですから、合理的な価格賠償がされることは間違いありません。我々がこれだけの権利を拠出するから、いくらの補償で応じてほしいという、擦り合わせですね。これをするために調査費を計上するのです。行動を起こすのは飽くまで我々ですから、我々の村の費用でということです。財政については無駄な出費を数十年来に亘って抑制してきたことから、十分な健全さがあり、数百万円の費用を計上したからといって、ただちに増税しなければならないという事態にはならないでしょう。財政の範囲内でできることをと模索した結果、誘致の話が持ち上がったのですから、財政に負担をかけてまでやりたいという声に押し切られたわけではありません。健全な財政を嗣子代々にまで受け継いでもらうためにも、高齢化の進む村内に財政収入と雇用の道を開く起死回生の策なのです。ここで決断できなければじり貧となって、ますます若者が住みたがらない、活気に乏しい集落になる一方であります。決断は妥当だと、私は思うのであります」
当初怒号が上がるのではと思われていた質疑は、以外にも淡々と進み、十人程度が質問したところで司会者が呼びかけた。
「他に質問がございませんようでしたら、ここで終了とさせていただきます」と言って、周りに目を配った。「それでは皆様、有意義な会合にできたことにまずは喜びを申し上げます。お疲れさまでした。次の機会がございましたら、なにとぞもう一度尾崎、尾崎をご指名ください。ありがとうございました」
壇上で一礼した隆志は、求められてもいないのに軽く手を振って、愛顧に期待をかけた。まるで芸人だなと自嘲しながら、壇上から降りると、斎藤と事後の打ち合わせについて話をした。
「斎藤さん、ちょっと一杯ひっかけながらにしましょうか」
「そうですね。お疲れでしょうから、我々はお付き合いしますよ」
斎藤が腰を低くして、質疑の首尾ににんまりとしているので、隆志も釣られて相好を崩した。壮年のすっきりした面立ちが、たちまち人情味豊かになる。公民館にはまだ人が屯しており、場違いな話題で口角泡を飛ばしていてもいけないので、隆志たちは非常口からするりと抜け出した。
空気が澄んでいて、星が綺麗である。
隆志は空を見上げて高揚感が引いていくのに心地よさを感じながら、斎藤たち後援会の仲間に呼びかけた。
「尾崎の実家で面倒を見てもらいましょう。あそこなら姉さんが小腹を満たすものを出してくれそうですから」
「異存はありませんぜ。酒が飲めるのならどこにでもお供します」
斎藤は賑々しく応じ、仲間たちも笑い声を挙げた。成功裏に終わった公開質問会が、彼らの笑顔を明るくしていた。推進派からすれば、質問が出尽くした段階で野次も怒号も飛ばないという穏健な会場の光景は、痛快なほどだった。やはり隆志は一端の政治家なのだと、担いだ殿様の腕っ節に気分を良くしているのだ。
ねじ伏せるという印象を残す説法で名を馳せたのは幸仁だが、隆志は理路整然と非難の余地を少なくするという、几帳面さの窺える話術を駆使し、幸仁に見劣りはしていない。政治はそれでいいのかという切り口からは、多少の強引さで心服させたほうがいいのか、理屈で反論できないまでに押し込めるのがいいのか、多面的ではある。少なくとも後々の結果を見てから、自分は賛成したつもりはないと言い出す者が皆無とはいえないので、誰かの下に付いて全部呑んだんだと思えなければ、対立が残ってしまうことになる。
その意味では、やはり幸仁のような伝統的に民衆から受け入れられてきた政治家像のほうが、過疎に悩む村落では憂いを残さないのだろう。下唇が厚く眉が太い、といった人相の、典型的な政治家が好まれるのは世の東西を問わないのだ。
翻って隆志の容貌をいえば、切れ長の目に筋の通った鼻という、一見して怜悧な官僚を思わせる。土の匂いがしてきそうな朴訥とした人情人という、政治家が喜びそうな賛辞からは縁遠い。老人の多い集落で、活発に産業を興そうとしても、空振りに終わるのが関の山だが、なぜかといえば情緒的安定を求める老人には、産業の基幹を担う先進的な気風の人物とは反りが合わないからである。
飽くまで鈍重に腰を据えて、誰よりも物分かりが悪くなければ、いつも説得の向こう手に立つことはできない。利発な人間が考えに考え抜いて説得の言葉を紡ぐのを、ぎろりと睨みつけながら鈍い頭で飲みこもうとするのが、旧来愛されてきた政治家である。小手先の知恵で財産を掠め取ろうとする悪人に対処するには、このような唐変木が代理に立ってくれるほうが、圧倒的に効率が良く安心ができるのだ。
幸仁は鈍重でこそあれ、頭は冴えていたのだが、敢えて相手に話したいだけ話させ、最後にはその者が激して怒鳴り声を上げるほど、物分かりの悪い政治家を演じ続けた。幸仁の在りし日を知る後援会の人々は、隆志が村民の好みに合った政治家ではないことに気づいているが、担ぐのなら血筋という拠り所なしにはその気にさせることさせもできないので、逸材は使い方を選ばないという俗説に従っている。
隆志の知恵は、政治家というよりは評論家向きだが、理屈で説き伏せるだけなら何の支障もないのである。問題は、時代が移ろったときに、自分は何一つ合意に参加してこなかったという、参加意識の希薄さから村落が空中分解する恐れがあることだ。気に入らないが、あの図々しい政治家には負けたと、哄笑できるような気持ちのいい屈服感は期待できないのである。
なにしろその日暮らしで培われる知的水準などは、高々知れており、高度な批判能力を備えない民衆が結束するのは、利益に群がるときだけである。そんな阿漕な形振りを繰り返す、自分が一等大事だという民衆をまとめるために、理屈などが役に立つはずもない。言いたいことを言わせてガス抜きをしながら、最後は政策をねじ込むだけの腕力がなければ、必ずしも理性で生きていない民衆を束ねるのは不可能なのである。
村落はどうやら高度な弁論技術を持つ政治家を望んでいるのではなくて、一緒になって七転八倒する不器用であっても打たれ強い個性を望んでいるのではないか。政務の中で隆志が学んだ平衡感覚は、遠慮がちに出方を窺う村民の目を通して、普遍的な政治家のものとの違いを明らかにされつつある。化けの皮を剥ぐという言い方をするが、隆志の演じたい政治家の姿は、欺かれることを好まない村民によって、常に丸裸にされようとしているのだ。
尾崎さんの腹の中が分かるかい。誰からともなく声が上がると、全員が難しい顔で沈黙してしまう。これでは政治にならないので、少しでも理解の足掛かりになる情報がなければならない。報道が一部を担うとしても、肝心なところは普段の目つきから判断するしかない。大衆の真ん中に鎮座しているだけで信頼を勝ち得る古い政治家でないのならば、隆志は不安と猜疑の混ざった目を真摯に受け止めねばならなくなるのだ。
政治は疲れるものだと、隆志は思っている。幸仁においては全く気にもかけなかった、支持の厚み、民意の吸い上げ、落選の回避などに、隆志は振り回されることになってしまっているのだ。心から政治家冥利を感じる瞬間のなかった彼に、安らげる場があるとするなら、家庭は必要不可欠だろうが、順風満帆とは言い難い。あちこちが軋みを上げながら、それでも前途を充実させるために政治のあちこちを弥縫する、涙ぐましい努力が隆志の日常を色濃く支配しているのである。
尾崎の実家は幸仁の亡き後は静まり返っていることが多い。酔いつぶれて眠ってしまった隆志は、寝汗で体が冷たくなって目が覚めた。体には毛布がかかっており、昨晩飲み始めた時の恰好のままである。
全身に感覚が蘇ってくると、微かに雀がさえずる声も聞こえてくる。障子を開けると、中庭には明るい光が溢れていた。腕時計を見ると、既に八時を回っていた。疲れが溜まって、うっかり眠りすぎたようだった。
片膝を立てて起き上がると、隆志は喉の渇きを癒やすべく、重い足取りで台所に向かった。薄暗い廊下では優子が雑巾がけをしていた。
「おはよう、姉さん」
「あら、お目覚めね。今ご飯を装ってあげますから」
ブリキのバケツに雑巾を入れ、すっくと勢いよく立ちあがった。そのままバケツを放置して、優子は台所の引き戸を開けて中に入っていった。
突き当りの洗面所で顔を洗い、隆志は鏡を見ながら手ぐしで髪形を整えた。虚ろに開いた目が薄暗がりの中では病的に見える。詰らない顔をしていると思いながら、廊下を取って返し、不景気な顔が優子からどのように見えるか自虐的な空想を働かせ、唇に微笑を浮かべて台所に入った。
煮詰めた味噌の匂いがする。温めた味噌汁を、優子が装っているところだった。すでに茶碗に盛られたご飯が湯気を上げており、岩魚は水平に左を向いて四角い皿に載っている。後は色鮮やかな沢庵とぜんまいが小さな器に盛られている。質素だが、滋味あふれる食卓である。
席に着いた隆志は、口を潤すために味噌汁を啜った。熱くて旨味が凝縮されている。酒を浴びて眠ってしまった不健康さが、食事で癒されるのならこれに越したことはない。一石二鳥だと思いながら、ほくほくのご飯を口に運んだ。
向かいの席に座った優子が真顔で話しかけた。
「昨日の公民館は盛況だったそうね」
隆志は冗談を聞かされたように愉快げに笑った。
「盛況って、演芸会じゃないんだからさ。でも、上手く説法はできたかな。あんなのは坊主の念仏だよ」
「お母さんも気にかけていたわよ」
「そうか、そうだね。照れるから、いないほうが気は楽なんだろうけれど」
少し難しい顔をし、隆志は俯いた。
「結局、施設を作るのだと斎藤さんはおっしゃっていたけれど、隆志は本当にそれでいいの。もし納得がいかないんだったら、あなたしか躊躇できる人はいないのよ」
「もう決めたことだよ。村はもうよその自治体の手を借りないと、にっちもさっちもいかないんだ」
「そう、あなたがそう言うのなら、きっと他に選択肢はないんでしょうね」
寂しげに優子は言って、黙りこんだ。沈黙の意味を推し量った隆志は、面倒臭そうに説明した。
「他に色々な選択肢はあっただろうけれども、俺たちが今選べる選択肢は目の前の一つだけなんだ。村には自活するだけの潜在能力があると信じ続けてきたのに、裏切られた気持ちがするってことだろう。それは俺も同じだよ。悔しいが、これ以上手を拱いていたら、取り返しのつかないところまで村の活力が衰えるのは間違いないから、決断しなければいけなかったんだ。親父なら別の道を選んだかもしれないが、これはもう仕方がないでしょう。物価の上昇に生産力が追い付かない集落は、こうでもしないと駄目なんだよ」
歯噛みする思いである。隆志は村の未来が閉ざされるのを、黙って見ていることはできないのだ。こんな安直な理屈で、説き伏せられる村民が気の毒に思えるほど、隆志は自分の考え方が疑わしくてしょうがなく、また他に考えが浮かばないことを恨んでもいる。
その忸怩たる思いが通じて、優子は労わりの言葉をかけた。
「隆志、あなたが信じた道なら、最後まで貫きなさい。迷って途中で投げ出したりしたら、それこそ八つ当たりされますよ。得体の知れない施設が誘致されることを望まない人は多いだろうけれど、誠意をもって説明して回りなさいね」
「当然だよ。俺は政治家だからね」
隆志は誇りを見失うことはなかった。自分の声の意外なほどの張りに目を丸くし、笑いがこみ上げてきたが、味噌汁を飲んで誤魔化すのだった。
食後、隆志は玄関先に出て、トキと戯れてみようかという気になった。朝のこの時間は退屈をして、犬小屋から出て遠方を眺めていることが多い。普段なら優子が散歩に連れて行く時間帯なのであるが、この日は小屋に寝そべったまま元気がなかった。
「姉さん、姉さん」
玄関から隆志は声を上げて優子を呼んだ。
「はいはい、どうしました」
優子は食器洗いの手を止めて、玄関まで出てきた。隆志は少し驚きの色を滲ませて早口で言った。
「トキは飯を食っていないのか」
「食べましたけれど。何か変わったことでもあるんですか」
平然としている優子を見て、隆志は自分が泡を食うほどのことか考えるゆとりができた。
「いや、トキってこんなふうに朝から寝そべっている犬じゃなかっただろう」
「年寄りですからね。気分が冴えない日もあるんでしょう。それよりも散歩に連れて行ってあげてくれませんか」
「まあ、いいけれど。おい、トキ。俺が誰か分かるか、隆志だよ」
おもむろに起き上がったトキは、犬小屋を出るとお座りをした。愛想が悪く、尻尾の一つも振らないが、習慣となっている散歩には魅力を感じているようだ。
「大丈夫みたいだな。じゃ、ちょっと散歩に行ってくるよ」
綱を取った隆志は、老犬と連れだって門を出て行った。平穏で、美しささえもある朝の気配が、犬を取り巻く周辺から徐々に活性化していくのを、隆志は散歩をしながら感じていた。
四十九日の法要が執り行われることになり、当日の昼前には隆志の指示で準備万端に調っていた。村の寺から住職が経を上げに来てくれることになっており、尾崎の実家では到着を待ちわびていた。
いつもより沈毅に振る舞っているように見える尾崎家の中でも、美代子は物静かだが凄味がある雰囲気を醸しており、幸仁の妻という座に今でもあることを強く自覚していた。公の場に顔を出す機会はなくなったが、夫に先立たれてから老けこんだと噂されるような、脇の甘い素振りは一切見せようとしないのだ。意地であり、執念ですらあるが、凛々しさと映る限り誰も損はしない。
一方、優子は親戚の持てなしで朝から忙しく給仕をしており、意識が強い慣性に支配されているとはいっても、足の軸は家庭的であり続けている。交わされる挨拶の過程で、悲しみが熱い潤いのように体に行き渡ることはなかったが、彼女も幸仁の死を重く受け止めていた。
それほど、幸仁の死は尾崎家に決定的な化学反応を起こし、誰もが今のままではいられないことを悟ったし、死は誰にでも平等に訪れると分かっていてすら、器用に捌けた態度をとることができそうにないと狼狽させるものだったのだ。
詰るところ、要だったわけだ。要諦を押さえた理屈では、順当に後を継ぐ者がいて、重要性はいかほども損なわれないということになるが、信頼感の先にあるものまでは模様替えできなかったのである。瓦解せずに持ちこたえているのは、政治家という家系のなせる業というよりは、誰にでも継承可能な凡庸さが、諦めを伴って中軸に置き換わってしまっているからだ。
凡庸さのみが愛され、それだけが後世に伝わるというようなことが、他に尊大にならずに死を受け入れる方法がないと分かってしまうと、嘆きの気分の中で起きてしまうのだろう。威圧し、圧倒して、すべてを次世代に持ち越そうとするようなことが、可能であればそうしたかもしれないが、現実問題として、優れた資質は一身のみで内包するのが限界である。都合よく嗣子にまで受け継がれることを期待しても、果たされずに終わることのほうが多く、気分を大きくして何もかも受け継ぐと胸を張っているような者は、虚けとして嘲られるのが精々だ。
だからこそ偉大さの陰に凡庸さが少しでもあれば、そこに共通項を見出して、立場だけは後嗣としての責任を果たすのが、一般に考えられる死者の送り方である。隆志はどう足掻いても幸仁には及ばないことが見え透いているので、凡庸な相続人として、派手な振る舞いは一切避け、地味で父親の名声の陰に隠れた詰らない人物として、喪家を取り仕切ることを決心している。
淡々として、実に詰らなさそうに親戚一同と語り合っていると、案外と嘆きが深そうにも見え、浮かれているよりはずっと現実的な対応だと分かる。心を一つ所に落ち着かせ、堅実で揺るがない意志を示すことは、悼む側としても適当である。死者の名望を冒さず、厳粛に送るだけなら、無感動でも差支えないのではないか。
まず、隆志は法要で失態を見せるほど、軽躁な性質の持ち主ではない。また、彼を見て、すぐに政治家だったことを思い出すほど虚々実々のやり取りに奔走しているわけでもなく、少し草臥れた大人の一人としてしか、直感的に外貌から感じ取れるものはない。
それならこの先凡庸であり続けても、誰も非難する者がいないかというと、人は凡庸なだけでは有意な人物としての扱いをしてくれないのである。凡庸さだけを受け継いで、常識的観念で生きる真っ当さを証明するのは悪いことではない。だが、政治家はそれだけでは、衆人と肩を並べて風浪に向かっていく意気込みを、本懐として抱いているとは見てもらえない。凡庸だが、それだけには終わらないという、異能ぶりを匂わせなければ、政治家はあらゆる場面で後れを取る。
有能であることは難しい。ならば、特別な存在として、偉容を呈するのが、声を声として届けるのに最も都合が良さそうである。これにはどんなに優れた資質があっても、凡庸さから始めないとただの先走りになる。誰から見ても凡庸であるが、そこから先を見通そうとすると、巨躯が立ちはだかって何も見えなくなるというような、人物としての巨大さがなければ、政治家はお仕舞いである。
隆志も凡庸であることには、他に選択肢が見当たらないことから容認の姿勢をとっているが、この先政治家であり続けることに関しては、胸に詰るほどの激しい主張を秘めているのである。それを法要で見せなければいけない理由はなく、静かに弔うことを鉄則としつつも、物思いに沈めば眼光には鋭さがあるといった意志の強さを、超えるべき目標にはしなかった父への当てつけのように思っているのである。
政治に苦労は絶えないが、苦労するためだけに政治をするのではない。代弁した人の思いを背負い、自らの信念も背負い、死人の矜持も背負い、渾然一体となった意識の厚みに、飲む酒がますます上手くなるといった気分を楽しむのも、政治の冥利である。その域に達した隆志が、なおも父親を越えられない壁だと感じるのは、自分が父親その人には決してなれないという理由からである。死なれてしまっては、文句をつけることもできないのだからと、優しい笑みを浮かべて開き直りたくもなるのだ。
今後は超えるのではなく、想像でしか理解していない未踏の領域への導き手として、空想の中で父親の姿を追うのだろう。隆志はそれを不満とは思わず、追いかけようともしなかったことの代償だと思っている。父親が何を望んでいたのか、今さらそれを問題にしても得られるものは少ない。だったら、他人の願望にすり寄っていくのではなく、意識の底にひっそりと一輪の花を咲かせるように、自分を深く知る事のほうが潔い。
自分にはこれだけのことができる、これだけの可能性があると、身の程を知ってしまえば、大それたことはできなくなり、信用は増す。政治家は奇抜な発想の求められる職業ではないから、堅実にありきたりなことを淡々とこなすという印象は、歓迎こそすれ拒む理由はない。それはつまり凡庸でありながら、人物だけは確かだと誰からも愛されることである。
この一見して矛盾する資質を身に付けていた幸仁との格差が、隆志には恨めしい。死んでなお存在が語りかけてくるような巨大さ。幸仁にはそれがあったのだ。政治に生きる者の務めとして、声が大きくなければ重要な局面での引き合いが弱いのであり、選ばれて弁舌を揮う職業人として不十分である。これが隆志だと、ひっきりなしにしゃべっていないと、存在が掻き消えてしまうような脆さが露呈し、廉恥の感情に逆らうのである。
美代子が女みたいな政治家だと揶揄するのは、弁舌の切れが悪いからではなく、人物として確立された名望を手にできていないからである。すなわち、隆志は人物が小さいのである。
だから隆志が法要を取り仕切ってくれても、幸仁の陰に隠れて小物が威を借りようとしているとまで、美代子は斜に構えて見てしまうのだ。彼女は物静かに悼んではいるが、すべてが美しい物語の中にあるようには思えない。現実的な、痣だらけになってつかんだ栄光を、美辞麗句だけで飾ろうとすることがいかに背徳的か、幸仁を支えてきた配偶者だからこそ、きちんと背筋を伸ばして虚飾を交えずに語らなければならないのである。
時間が迫り、一同が正座して仏壇の前に勢ぞろいすると、坊主が静々と歩みを進めて最前列の座布団に座った。数珠を手で揉み合せてむにゃむにゃと唱えたかと思うと、経を詠み始めた。低音の味わい深い声音で、唱歌のように抑揚をつけて詠む経は、仏間一杯に響き渡った。
美代子は正座をして畳の上に座り、目を細めてやや俯き加減にしている。優子もほとんど同様で、膝の上に数珠を握った手を置き、時折り目を上げて坊主の背中を見ている。隆志は仏壇を見据えたまま坊主の経に耳を澄まし、まるで幸仁と対峙しているかのように目つきが厳しい。
親戚一同も粛々と法要に参加するという気構えが整っており、咳払いの一つも聞こえてこない。中庭からは明るい日差しが差し込み、瞼が重くなりそうなほど長閑な雰囲気である。聞こえてくるのは経のみで、その旋律には作為の陰がなく、ごく自然に啓示のようにもたらされる深層心理の産物だった。
やがて経を詠み終えた坊主は、座布団の上で百八十度反転し、腰を折って礼をすると、美代子と目を合わせてにこやかに挨拶を交わした。労った美代子にもう一度坊主は礼をし、立ち上がって入ってきたときと同じように静々と出て行った。
膝行して優子が隆志の傍に寄り、段取りを伝えた。
「私は皆にお土産を配りますから、隆志は今後のことをお願いして回ってください」
「そうだね。じゃあ長老格から順に送り出すから、姉さんは玄間で持て成して」
隆志は幸仁の兄弟たちに礼を言い、今後の尾崎家の隆盛を誓って回った。私も全力を尽くしますのでと、隆志が説くのなら、拗ね者でもない限り納得して帰るであろうし、可愛がってきた甥が立派に儀礼を尽くすのを見て、悪い気がするはずがない。
彼らはもう一度美代子に達者で暮らすようにと挨拶をし、帰宅の途に就き始めた。玄間では美代子が手土産の散らし寿司を持たせ、続々と送り出した。
すっかり片づくと、優子は車が次々に発進するのを門から眺め、最後の一台が勢いよく門前の道を疾走するのを見届けると、突っかけを鳴らしながら玄関まで戻ってきた。
「お疲れ様でした」
玄間で腰に手を当てて、開け放たれた玄間の外を見ていた隆志に、優子は一声かけて家に上がった。それを合図に隆志も動き始め、廊下から襖の開いている仏間のほうを覗き込むと、美代子がまだ正座をしていた。悼む気持ちの大きさ故かとも思ったが、隆志は座敷に踏み入って側にまで近寄った。
美代子の背中は驚くほど小さかった。座敷から無言で背中を見つめていた隆志は、仏間の敷居を跨がずにその場で胡坐をかいた。
「母さん、お疲れ様です」
美代子は身じろぎしなかったが、やがて振り返って座り直した。
「これくらいの行事で疲れているようでは、いけないんですよ」
「ああ、そうだろうね。俺も法事にはよく呼ばれるから」
皺で緩くなった美代子の頬の張りに、隆志は目を留めて悲しい気分になった。母親に認められたければ、不格好で論争に自ら火を注ぐ政治家になるだけでいい。格好よく火消しに回るような、小利口な政治家になったから、不満に思われているのである。
それが分かっていても、父親の前では従属して模倣するだけの、夢も希望もない男ではいられなかった。人物として器が小さいと言われようとも、切れ味を試してみたくなるような男でいることに拘ってきたのだ。いまさら人生を軌道修正しようなどとは、どう転んでも考えにくい。
その毅然とした切れ長の目を見ると、美代子は我が子としての頼もしさと、政治家としての未熟さを蔑む気持ちの間で揺れるのだ。
「あなたを頼る人も多くなったということでしょう。尾崎家の政治家なんですから、しっかりしてくれなければ困りますよ」
抑制された、か細い声で、さほどの感慨もなさそうに真っ直ぐに目を向けた。もはや彼女にとって、息子は手塩にかけて育てられるところからは疾うに巣立って、手の届かない所に行ってしまっているのだ。いくら気持ちを切り替えようとしても、苛立ちと虚しさが交互に押し寄せるように、自分の子であることが耐えられない軽さで目に留まるのである。
屈折した愛情であるとは素直に考えにくいし、隆志にはそろそろ面倒に思えてくる感情表現であったが、この日は予想外にさっぱりしており、意表を突かれた思いがした。
「できるだけのことはするつもりだよ。それが期待してくれる人への恩返しになる」
「あなたが恥ずかしくないというのなら、妙な施設を建ててもいいという理屈で言っているんですか」
大人しい口調だが、責めているのは明らかである。
「そういう言い方は止してください。気に入らないのなら、そう言ってくれたほうが気が楽です」
腹立たしげに隆志は言い返し、緊迫した空気も拒まないという意思を前に出した。
鼻で笑うように美代子は頬を緩め、冷たい光を宿した目を向けた。
「お父さんは間違ったことが大嫌いでしたよ」
「親父はもう死んだんだ」
きっぱりと告げ、無言で対峙すると、隆志のほうからその場を辞することを決めた。手を付いて膝を立てると、腹に力を入れてすっくと立ち上がった。
真一文字に唇を結んでいる美代子を一瞥し、隆志はゆっくりとした足取りで座敷を横切って台所の前の廊下に出た。ひんやりとした空気が、暗がりの中で清潔さを保っているようで、熱く滾っていた気分の芯が清められるのを感じた。
台所に入ると、優子が振り返って食卓の上にどんぶりを置いたところだった。彼女は隆志を認めると、穏やかに語りかけた。
「お母さん、仏間にいたでしょう。少し話したほうがいいんじゃない」
「話したよ。上手く話せたかどうかは分からないけれど」
気分が滅入りそうなので、隆志はどんぶりを手に取って聞いた。
「これ、トキの餌だろう。俺がやってくるよ」
「あら、お願いできる」
半身を残して愛想を良くすると、すぐに背中を向けて優子は台所仕事に戻った。
突っかけを履いて玄関から出た隆志は、犬小屋の傍でしゃがみ込んで、どんぶりの中身を餌入れに空けた。くんくんと鼻を鳴らしていたトキは、意外なほどの機敏さで起き上がり、餌入れに鼻を近づけた。
そして、食事であることを確認すると、トキはあばらを見せてもそもそと食べ始めた。
隆志の目には老犬は無為に死を迎えるだけの、寂しげな存在に見える。
「親父、もう少しうまそうに食えよ」
つい、そんな呟きが漏れるのだった。
了