『我らの時代 〜サラリーマン篇〜』               作 石島利秋

 

第一章   昔々の物語

 

 何のために働くのか。

 生活のため、喜びのため、義務のため、何であろうともいいのだ。執着して、毎日を消費することに僅かでも意味を見いだせればいい。

働くことに疑問を感じながらでは、職業に対する献身の度合いが異なってくるはずである。それでは能力を活用し、能力を深耕することで得られる、人生の大きな実りは考えられない。単に成果を求めるだけなら、要領さえ良ければ十分だが、全幅の満足ということになると、さすがに人格の底辺から礎を築かないことには、その上に支えられるべき人生は浮薄になってしまう。

面白おかしい人生を歩みたいだけなら、何も仕事を生き甲斐にする必要はないかとも思えるが、人生の大部分を捧げる仕事を挙げて、詰らないから別のところでもっと盛大に楽しむべきだと論おうものなら、大部分を占めることの合理性が揺らぐ。

自分が捧げるだけの時間に応じた評価が必要だと、普通人は考えるものである。そして、えてして評価というものは遠大で、無用の響きがあり、偉そうなことを言われてもしっくりこないのも事実である。

多数人の評価を前にして、自分の働きはもっと丁重に評価されるべきだと感じれば、世間全般への蔑みとか、努力が報われた者への嫉みとかで、精神が混濁して正常に機能しないようになる。そんな不健康に陥るくらいなら、いっそ気楽に真面目な職業人を擬態でもしておいたほうが身のためということになり易い。

要は、どこで世間と折り合いをつけるかということである。世間一般の価値観に沿って自己存在を建設する以上は、世間が安定していることが何よりも望ましく、世間の転覆を以て自己存在を確立するという詭弁は通用しない。飽くまで、世間が存在して、自己があるという関係でなくてはならず、そこを踏み外せば評価の契機すら訪れなくなる。

評価されたし、されども世は儘ならぬことばかり。

世相への貢献が報われたと感じられるのは、よほど幸運なことだと思わなければならないようだ。なにしろ働きに意味があると信じるのに、少なくとも自らに対しては問いかけを発せねばならず、その自分自身が評価を甘くしたりすれば、倨傲な態度となって諌められるのである。

あなたが自分を信じるほどには、周りはあなたを評価していないんです、云々。上司が部下に、部下が上司に対して不信感を持つのも、評価の不整合が原因である。もちろん抽象的な観念で包摂的に物事を見ないと、人間は草臥れ果ててしまうのであるから、不整合をきたすこと自体は責められない。

不整合を許さないとする、狭量こそが問題である。

何のために働くのかという、人間の根源に遡る問いに、上手く答えられないのも、我々が周囲との隔絶に悩み続ける、迷い子だからに他ならない。誰もが迷い子であることを自覚していれば、なあなあで優しい心持ちを崩さないように、過剰な要求などをお互いにしないのだが、会社業績などという至高の目的を与えられると、どんな愚劣な主張も許してはならないという、目的に馴化した発想しかできなくなるのである。

それを不幸だといってしまえば、世の中で職業を得る人の大半は、不幸を背負いながら実直に勤務することを求められているわけで、哀しいとしか言いようがない。職業には社会的な生産という目的があり、全体の福祉を増進させるべく協力関係を築かないことには、いくら産出しても貪婪に消費するだけで、対価に対応する形での職業はイメージしにくい。原始的に生産に見合った評価が伴っているからこそ、職業は成立するのである。

人々は職業に就くことで満足して、働く意味を問わないことを、長らく当然の営為として考えてきた部分がある。篩にかけられて、社会的な評価に基づいた周到な選別があったからこそ最適の職場を得たのだと、就職の段階で自分を職場に定着させることに万感の至りを見出していたのである。

 産業が右肩上がりに成長する時代では、それでも良かったのである。職場で定位置さえ占めていれば、給料も右肩上がりに上がって、生産単位としての個人の地位が忽せになることはなかった。会社業績もビジネスマンにとって背中から追い立てられて追求するほどの意味を持たない、間に合わせの数字というだけに留まっていた。

 しかし、劇的に産業構造が変わった。

 国内の消費の伸びだけでは給与報酬を賄えなくなり、消費が低迷するたびに人員整理でモチベーションを維持しなければならないのである。そうまでしなければ、労働者は目的に適合した労働を提供する努力をしないのである。職場に定着するだけでも、今日ほど漸進的に能力を開発しなければならない苦難の時はそう多くはなかった。

 過去において、個人の意欲と先進の気風が時代を作ったことは否めない。社会全体が雪崩を打って産業を回転させ、所得を増やし、消費を活気づけて、文明生活を向上させた。それをもって精神を惰弱にしていると非難する者はほとんどいなかったし、実際に幸福を尺度にするなら、国民を満遍なく均等に幸福にしてきたのである。

 いくつかの重大な転機を乗り越え、大いに産業を興してきたのはいいが、産業を維持することばかりに感け、自発的に産業の軸足になろうとする者を軽視し過ぎた。

その結果が、大量の人員整理である。本来なら、軸足を移すごとに人員も移動し、よりスムーズな産業構造の転換が果たされなければならないところ、省力化とコスト・ダウンという縮小再生産のみに熱心で、新機軸を打ち出すアイデアはニーズという殺し文句により顧みられることがなかった。需要のないところに生産はできないと、いかにも事業に精通していそうな主張で、産業資本を矮小化しているのである。

こうなると当然のように閉塞感が漂うし、職にあぶれる人員を社会の中で養えないという、いささか背徳的な現実に繋がる。需要さえあれば、いくらでも人員が欲しいという常識的な声は、再びのコスト圧縮ですぐに聞こえなくなる。産業資本をどう回転させるかについて、リサーチも開拓もせずに、漫然と金が転がり込んでくるのだけを待つという、信じがたいような疎漏がまかり通ってしまっているのである。

意欲はどこにいった、働く理由が限られた消費の奪い合いのみに向けられてしまっていいのか、という酷く現実的な問題が、職業を持つ者の間に淡い悲観として共有されようとしている。どれほど科学技術が進歩しても、生産活動は人間の手を離れることはないのであるから、社会が人間臭いのはやむを得ないところである。数字で弾かれるようには人間の思考は確かでないため、曖昧で計画というものに沿わない、いとも難儀な自己主張を繰り返すだけの消費者といえども、職業を持つ限り関心を払わなければならない。

 それは不可解なほど、生産活動を委縮させるのである。もはや個人が職業を通じて時代の創生に関わるなどとは、およそ信じられない気分が出来上がってしまっているのだ。産業は資本によって成立するが、資本は労働者個人の意志で動かせるものではない。資本が集中して巨大になったことで、労働者はその選択を極端に限定される破目になったのである。

 働く意味など、考えるだけ無意味だと一人が言い出せば、伝染するように卑屈さが浸透する。そういう危険な綱渡りを余儀なくしている辺り、必ずしも世相は健全ではない。

 時代はどこに向かっているのか、それさえもが分からないのが現代である。気難しく構えてみても得られるところは少ないから、誰もが分からないなりに処世を考える。その繰り返しで擦り切れんばかりになったところで、人はそこで立ち止まれるか思案に暮れるのだ。

 

 相馬は渥美の長広舌を好きになれない。渥美は常識の範囲でしかものを言わない男で、それゆえに安心して物を言っているふうがある。聞いているほうとしては、自分の意識の中にある常識論が、渥美によってアナウンスされているようなもので、それに感服しろというのはかなり難しい。

 滔々とよく喋る男だと、相馬はにこやかな笑みを浮かべつつも、話の長さを縮小できないものか考えてしまう。

 渥美は学識を振りかざすことにためらいを持たない。

「政府が需要を作り出さなければ、不況は解決の糸口さえありません。大きな政府こそが産業社会が待望するものの第一であって、総ての需要は政府の投下する資金によって開拓されるんです。内需を刺激しないような政府は、国の将来を憂いでいるとは言えないのではないでしょうか」

 相馬は溜め息交じりに、勝気な渥美を諌めた。

「需要は消費動向の先にあるものです。消費を理解しないと、産業がどんなに揮っても十分な所得を約束できはしませんよ。需要は消費者の嗜好の発見といっても過言ではないと、私は思うんですがね」

「いや、内需が縮小したら所得も増えないわけですから、価値観の多様化に応じた消費も期待できないのです。内需の底上げをするには、大きな政府でなければならないはずですよ。消費を拡大するのも、雇用を維持するのも、全部政府の仕事だと思わないと、個々の主張はあまりにも小さくて真に必要な政策を仰げないと思います」

「かといって、政府に対する過剰な期待は産業の足腰を弱めるだろうし、所得は功績に対する評価だから、結局は何かしらの格差を生じる。内需で総じて面倒を見ようというのは合理的だけれど、所得の偏在までは是正できないでしょう。低いほうに水が流れるようには、所得は行き渡らなくなっていますよね。当然、消費の偏在という形で現れる」

「景気刺激と所得政策は別物ですよ。所得の偏在が害悪だというのなら、課税などの所得政策で是正すればいいんです。景気刺激は内需の拡大という線で間違いありません」

「そうかな。難しいところですよね」

 意図的に主張を殺して、渥美の押しの強さを受け入れる形になったが、相馬は相馬で近時の雇用をめぐる問題までも意識しているのである。

 すなわち、内需の拡大という基本政策があり、雇用の問題は産業の自主性に委ねるという方針が伴うが、それを所得格差という視点から再評価するのである。所得の査定はあってしかるべきで、能力主義は時代の趨勢ともいえるが、中には職を失って雇用の調整弁として切り捨てられる層も出てくるのである。モチベーションの維持と、固定費の削減からは当然の企業政策だが、社会的に問題だとされている。

 雇用を維持しろという声は、俄かに大きくなったわけではない。個人の劣悪な労働環境を改善するために労働組合の役割は重視されていたし、実際に改善された部分も随分ある。だが、それにもかかわらず、雇用を調整しないことには内需の拡大を商機にするだけの合理性を維持できないのである。

 内需が拡大すれば繁忙期が訪れるのは当然で、拡大に先立って人員削減する理由になるのかとも思われるが、企業側の論理としては、スリム化しないことには競争に勝ち残るだけの経営体力がつかないという、切実さがあるのである。

 政府は財政投資をして、需要の総額を押し上げることができるが、企業内の所得の偏在を是正する手段を持たない。所得は功績に対する評価であり、働いた分だけ所得が増すという相関関係を破るわけにはいかないからだ。企業の根幹を維持するには、働くことが評価されるという仕組みは絶対である。働いても所得が増さないという状況は、使用者側からしても望ましくないのである。

 雇用は維持したいが、企業内の所得の偏在は妨げない、と政府は打ち出すほかなく、不況期に政府が主導する内需拡大を遂げるにしても、効果のほどは企業の生産活動が円滑にシフトしたかで決まってくる。人員整理をして従来型産業で競争力をつけるという発想は、芸がないが紛れもなく常道なのである。

 本来ならその競争力を維持できるうちに、新規に外国勢とも競争できるだけの市場を開拓しなければならないのだが、これには所得の大幅な偏在を認めないと、創造的な作業に対する報酬が十分でない。誰もが平等に報酬を受け取れるのが理想だが、情報処理技術が発達して事務の価値が下がった以上は、労働者の創造的で利益創出にダイレクトに関わる業務を評価せざるを得ないのである。

 もはや所得の偏在という問題は、政府の干渉で何とかできるような問題ではなく、企業内の内部秩序と組織の柔軟性の問題だから、ひと括りに所得は満遍なく行き渡るべきだと感情的になっても、改善される見込みはない。むしろ所得の偏在を認め、その所得の偏在を消費に繋げていかなければ、経済は循環しないまでになっているのである。

 いくら包括的に内需という形で消費を刺激しても、所得が増えない仕組みができている以上は、効果は薄いと考えないといけない。業務を算術計算する情報処理を担うのはコンピューターの役割になっているがために、従来この企業意思の集約に携わってきた人材は異動しなければならないのだが、その人事が必ずしも有効でないところに悩みがある。事務の内容が、手法も確立されていないマーケティングなどに偏るようになって、給与査定の仕組みが追い付かないのも問題である。

 情報処理の飛躍的な向上により、職にあぶれる人材を企業内に多数抱え、それを整理するために解雇も辞さないとする強硬な企業方針が巷を騒がしているのだ。法的には雇用の条件を定めるのは当事者の合意であるとされ、継続的に雇用する意図が当初より使用者側にない場合、解雇も可能ということになる。

 飽くまで雇用の当事者の自由な意思と計算によって雇用の内容が定まるのであり、雇用を維持せよと声高に叫んでも、脱法的な解雇でなければ何の問題もないのである。政府が雇用の創設を容易にする施策を採らねば、企業はコストの圧縮と従来産業での競争力の強化に傾注せざるを得ない。内需拡大ではなく、計画的な産業の育成だと相馬は思っているのである。彼の立場は政府による需要の喚起という緊急対策は認めても、景気の高揚には産業の自助努力以外に方途はないのだと手厳しいものである。

 これが渥美になると、様々な価値観を包括的に消費に向かわせるには、同じく包括的な経済対策を依らざるを得ないという発想になる。所得の偏在があったとしても、偏在である以上は少数派であり、経済の規模で観察すれば局地的な現象に過ぎず、全体需要の喚起という方針には影響しないと考えるのである。

 いわば全体を見て処するのであり、所得政策などは景気の浮揚の後に考えればよいということになる。現実的で、不満の声を効率的に消化でき、今日先進国の政府が採用する立場とも合致している。

 懐が潤えば批判する気力も継続しないとする、なし崩しともいえる物量投入策が有効だったのは、重厚長大、軽薄短小、などという産業の勃興が著しかったからである。その意味では、景気刺激といえば財政出動というお約束が成立したのは、産業の自主性を損なわずに景気を持続させられるという、合理性の賜物である。

 事情は変わりつつある。財政出動をしても所得が偏在するのでは、すぐに消費にはつながらないのである。産業を育成しない限り、一部の者が潤うだけで所得のパイは拡大しない。ようやくそのことに気付き始めたのが、近時の経済環境だが、常識的には産業の育成よりも財政出動のほうが経済施策として有用だという印象から抜け出せないでいる。

 相馬と渥美が、景気は消費の底上げからか、あるいは財政投資の拡大からかという、鶏が先か卵が先かという主観の問題で議論するのも、常識的な経済施策が機能しにくくなっているという背景があるからである。いくら議論しても、経済は人の生産、消費の両行動の総体だから、どうしても数字では測りきれない部分が出てくる。それを主観の問題として、あれこれ弄ってみたくなるのは、産業社会の中で生きるビジネスマンなら誰しもが経験のあるところだろう。

 

 三鷹は公務員である。最近の傾向として、財政が逼迫するのは景気が悪いからだという論理に人気があり、彼は財政の担当者として、景気を浮揚させるための施策を練る毎日である。

財政を出動する以上は、出動した分は監督しなければならない。出動の要請が大きいほど政府の規模は大きくなるのである。軽量で必要不可欠な部分だけを公で賄うという小さな政府の呼び声は高いが、それと矛盾する形で監督が必要な財政出動も求められている。

徴税すれば財源は無限にあるとはいえ、三鷹はじり貧を思わせる財政の大盤振る舞いには気が滅入ってきている。いくら投入しても、景気浮揚効果は川下まで達する前に枯れてしまっている、というのが財政の現実である。景気は本当に財政出動で解決し得るメカニズムになっているのか、そろそろ疑問に思う人々も増え始めている。

取材をしているジャーナリストの井伏もその一人だ。彼は雇用の問題を企業のコスト圧縮の手段にすり替えられるのを、道義心から反発している。現実に所持金が尽きて路頭に迷うようなケースがあることを、取材によって肌で感じられる立場であることが、人情家の活発な情愛を刺激する模様である。

旧知の間柄である三鷹と井伏が頻繁に会うのは、決まって景気の低迷期である。お互いに心根の優しさを承知しており、困難が山積みの現状を憂いでも、声を荒らげることはまずない。ぼそぼそと喋って、にやにやと承知し合うという体裁である。

官庁を訪れた井伏は、三鷹に事務量がどの程度かを尋ねた。

「忙しいですか」

「そうですね。忙しさの度合いは民間とは違いますが」

「働いても稼げるわけではないということですね」

 と、井伏は意味ありげに目尻を下げた。

「公務員はみんな貧乏なんですよ。どんなに働いても査定で反映してもらえるわけではないんですから」

「それはジャーナリストも同じだよ。記事を乱造しても、稼ぎなんて高が知れている。時代の人にでもならない限り、金回りが改善される見込みなんてありはしないんだ」

「ジャーナリストなんかになるからですよ。知らなければ平然としていられるのに、問題意識を持つことを強いられている。感情が豊かな人ほど、辛い職業ではありませんかね」

 穏やかで親しみのもてる顔つきで、三鷹は厳しい指摘をした。それを軽く笑って聞き流し、井伏は本題に入った。

「景気は腰折れしているという評価が一般的だけれど、あなたはどう思います。濡れ手に粟という調子で、財政支出のつかみ取りをしようとする企業もあるようですが」

「真に困窮しているという印象はありませんね。むしろ無計画に会社の規模を拡大して、展望がないまま調整局面を迎えているようです。事業計画は機先を制しなければならないとはいえ、あまりにも機械的に需要を見込んでいる気がします」

「受注しやすい大企業ほど鈍重なものだからね。ある程度の見込みが立たなければ、行動するきっかけさえつかめないというのが現実でしょう。財政担当者としては、無計画な企業指針には懸念があるということですか」

 と、井伏は飄々と本意を質した。

「そうじゃありませんか。産業が次々に新機軸を打ち出していた頃とは、明らかに意欲のほどが違う。儲ける気だけは満々とあって、そのための努力を怠っていやしませんかね。私は事業を興すことには疎くても、企業の動向には通じているんです。どうも、民間企業は失敗を極端に恐れているような気がします」

「中途半端に企業の体力があるから、冒険する気が起きないのでしょう。内部留保を慌てて吐き出さなくても、需要が増えれば黙っていても利益が出るというのが、企業家の共通した認識でしょうからね。コストの圧縮に圧縮を重ねる、二番手商法が一番安全だっていうことですよ」

「財政を支出すればその分だけ需要が増えるというのが、マクロでの解釈ですが、消費を刺激するのは飽くまで所得の増加ですからね。所得が増えずに消費部門が振るわなければ、デフレーションの危機は去らないことになって、無限に財政を投入し続けなければいけない。なればこそ、二番手に有利な環境というのは、早晩に解消しないと、一番槍でどんどん稼ごうという意欲を削いでしまいますね。この際、一番手が市場全体の七割の利益を収めるという構造でもいいと思います」

 三鷹は市場の構造が、リスクを負った者に有利になることを否定していない。リスクの大きさに応じて、利益が出るのは経済の必然であり、公務員がそのような認識でいるのは斬新だが、そろそろ一般論にもなりそうな気配である。

 そのことを井伏は意識している。

「いよいよ所得が偏るね。一人勝ちの経済っていうのは、不正が蔓延る温床にもなるから、あなたみたいな公務員は所得の偏りは憂慮しないといけないんだろうが、そこを転換するくらいに経済が熟しているということか。どうなるんだろうね、民間の所得を増やすにはそれだけの仕事がないといけないわけだが」

「さあ、私には見当もつきません。公共工事で賄おうとすると、膨大な量になりますがね。その無駄が指摘される昨今、無見識に雇用の創出を訴えても、受け容れられるとも思えません。酷い工事になると、穴を掘ってまた埋めるという類のものですから、常識的にはそんな公共工事は必要ないと言わざるを得ないんです」

「じゃあ、減税だね」

 と、井伏はにやりとした。

「他に効果的に所得を増やす方法はありません」

 受け流した三鷹も、悪くない感触だという顔をしている。

もっとも、社会保障の負担を考えれば、容易には減税はできず、また稼ぐことのできる者だけに有利に働く減税では、不公平感が蔓延するのである。定額を給付するという発想もいいが、稼ぐために努力するというモチベーションを損なう規模では実施できない。公平に社会保障を負担すると共に、意欲を削がない範囲で課税しなければならないのであるから、結局は定率減税が基本となる。

富める者はますます富んで、貧しき者はますます貧しくなるのが、近時の経済である。弱肉強食とはいうが、強者に合併されることを望む弱者がいるのも現実であり、一概に経済の強者が幸福を実感できるというものでもない。富める者が、縋る弱者を振り払うような構図が醜いのは分かっていても、富むだけの働きをした者が評価されないのでは、誰も努力をしなくなる。

自ずと産業は下降線をたどり、必要な物資を外国から買い付けるのではなく、乞うようになるとしたら惨めなはずである。富む者がいることを認めた上で、貧しき者にも最低限の生活については保障し、それを経済力に応じた負担に振り分けることには、十分な合理性があるとして、競争の条件が平等かどうかがその合理性を支える最大の要諦である。

努力した分だけ稼ぎが増えるのが、共通の認識になっているから、その基盤を支えるために民主的手法を信頼するのであり、投票行動には自らの努力に対する清々しいまでの愛着があってもいいのである。私はこれだけの稼ぎができるだけの働きをした、と主張するのに、広く意見を募れる公共という場があることは、大きな安心感につながる。公共の場があればこそ、努力は平等の条件で評価されると信じられるのである。

一部の者だけが富む構造は、この公共の場の劣化を疑わせ、民主的手法による条件の改善を希求させる。何らかの改善が必要だとする場合、意見が集約され、最終的に投票によって公共の場をどう維持発展させるかが決まってくるのだ。選ばれた代議士が、議会で増税案、あるいは減税案を主張し、ある一定の形に公共の競争条件を定めるとするのは、民主主義社会では最も権威ある行動とされる。

国民の信託に基づいた決定は、十分に議論が尽くされたうえで、厳正な多数決で決定されれば、国民の選択そのものといっても過言ではない。その場で決定された競争条件が、国民が準拠する普遍的な価値基準である。競争に敗れても、平等な条件として権威ある議会で定められたものなら、反論するだけの理由に乏しく、また劣後には相応の手当てがあるために境遇に甘んじたほうが楽でもある。

自らの努力を正当化するための権威こそが、富を手にするのに説得的に作用する最大のものである。すなわち、努力することに旨味があるという環境を愛するならば、その延長線上に民主的な権威付けも行うべきなのである。権威に守られた制度がなければ、際限なく我田引水を繰り返す、儲けることだけが正義だという歪んだ価値観を第一の地位にまで押し上げてしまう。そうなったら、いくら制度が長年にわたって運用されていても疲弊して、財力だけが発言力を担保するという民主主義にあるまじき状況を醸す。

一つ一つの主張に向かい合い、信念に基づいて支持するかどうか決定しなければならないところ、民主過程をお座なりにする実力本位の強弁を許していたら、国民の信頼と依拠という崇高な権威性が損なわれる。平等の条件下で、傑出することを疑われないことは、努力や創意工夫によって自らの地位を発展させるという、現代社会の構図を維持するのに欠かせないことである。

何かいかがわしい手段で突出したにすぎないと判断されれば、どんなに富んでも、いつ剥奪されるか分からないという不安定な状態に置かれるのだ。安定が欲しければ、民主的手法を信じて権威付けを行い、共通の競争条件で才覚を現したのだと説明するよりほかないのである。

その権威付けを疎かにすると、誰かが飛躍的に富めば、自分も富んでいいはずだという妬みの視線を活発にし、不公平を訴えて足を引っ張ろうとする者が続出する。稼ぐ者にだけ課税すればいいのだという主張も、その線から理解できる。社会保障は享受したいが、そのための徴税には応じたくないという、いささか自己本位な考え方であり、今日において所得が偏在する構造を批判する意図があったとしても、何の努力もしないで利益だけは博したいという露骨な虚栄心を満足させるにすぎない。

民主主義の過程に信頼があることが第一であり、それによって平等な負担が実現し、競争条件も疑われないのである。政治家が私腹を肥やしてばかりいるような状況では、民主主義に信頼などがあるはずもなく、そのような人物を議会に送っている民意などは、小馬鹿にされても仕方がないのである。増税、減税などと、利害に敏感になるだけでなく、自分の地位を安定させたいなら、競走条件を定める民主主義に権威を持たせることが重要になってきたといえよう。

 

 鵜殿は利害の一致をみれば捌けた好人物にも見えるが、実のところ守勢に回ることを好まない攻撃的な性格である。進取の気風には富んでいるが、軋轢になることを少しも恐れないので、十数年も彼と付き合えば、苦虫を噛みつぶしたように面と向かう者も出てくる。

 彼の上司がまさにその境遇に置かれている人で、愚痴を聞かせるほどには親しくなく、かといって自分の立場を伝えないことには会社の待遇が怪しくなるという、板挟みを余儀なくされている。鵜殿にとっては上司の顔つきなどは成績とは無関係であり、関わり方を選べるうちにしかるべき処遇を求めない無計画さを嗤うだけだ。

 なぜ部下の成績の良否以外に責めを追うような立ち居振る舞いをしたのかと、冷静で痛罵するほどの興趣もないといった顔つきで、平然としているのだった。

 これが上司には気に入らず、一つでも失敗したら異動を申し出るほどに叩いてしまおうという悪辣な考えを抱かせるに至っている。関係が深くなるほどに、自分にとって有利な条件以外は飲めないとするようになるのが、無能な上司の条件である。およそ暦年の付き合いになれば、無関係を装うよりも、発展的に関係を進展させるほうがいかにも容易で、心情にも沿うのが実際であるのに、上司という立場で口を利けるうちに、能力の彼我が鮮明になることをひたすらに拒むという心理は、名望のある会社に勤める者に特有の病理といえる。

 会社に勤めるのは名誉あることだという心情が、個人と個人という完全に合致することのない立場を強迫的にまで強調し、上司の立場が揺らいでは会社業務の円滑さが妨げられると考えるのだ。荒唐無稽な妄想といってよく、頭越しに昇進される可能性が僅かでもある限り、猛然と官僚的な会社上層部への答弁を編み続けるのが、鵜殿のような部下を持った愚鈍な上司が最後の運だめしとして行う行動である。

 会社上層部は確実に鵜殿に関心を払い始めている。それは業績を見れば明らかであり、管理監督すべき上司を少しも立てようとしない鵜殿が昇進すれば、その上司にとっては命数が尽きるほどの痛手である。同じ分野からは複数の役員が出ないというのが通例であり、鵜殿にいい思いをさせれば、秘書つき、部屋付き、車つきの豪勢な暮らしは幻となるのだ。

 鵜殿の上司は願っていた。僅かでも鵜殿が失態を晒すことを。

 鵜殿は元来が物欲が旺盛で精神には関心を持たない男である。だが、いったん軌道に乗せた事業で足並みが乱れるというような操舵をせず、慎重に人間と人間が顔を突き合わせて最終的な決断をする、その呼吸を心得ている。唯一、衣服や装飾品が派手で、堅実な実業を心がける社風に合わないという点を、上司はちくちくと厭味ったらしく告げるばかりであった。

 ある日、鵜殿は大きな契約の調印を上司とともに済ませ、揚々と引き揚げようとしたとき、相手の事業者は真っ先に鵜殿に握手を求め、そのまま外国語で話をし始めた。鵜殿の上司はその和やかな談笑に加わりたい衝動で、哀れなほど焦って自分も握手を求めた。しかし、契約先の事業者は怪訝そうに彼を見たきり、再び鵜殿と話し始めた。上司は散々にプライドを傷つけられ、呆然とご機嫌伺いをするように鵜殿に救いを求めた。鵜殿はその哀願に構うことなく、立ち話を続けた結果、上司はその後五分間も立ち尽くしたまま、羞恥心を焦がされるほどに刺激され、猛然と怒りを蓄えたのだった。

 私が上司だろう。その純朴で幼稚すぎる怒りが、彼をして虚偽の報告をなさしめるにいたった。鵜殿は越権行為を繰り返して会社の秩序を蔑にしている。たったそれだけの書類が鵜殿を現実に本部へ向かわしめ、役員の前で弁明までさせた。

 仰るような事実はないと思います。鵜殿の弁明は単純で、必要な明快さを言葉の端々にまで行き渡らせていた。沙汰やみになるのも当然で、上司との意思疎通を十分にするようにとの役員からの仰せで、その件は終わったかのように思えた。

 確かに、鵜殿と上司との関係は憧れと憐れみという二方向の感情に収斂したかのようであった。これがいけなかった。上司は仕事上の落ち度で責められないと分かるや、勤務態度を激しく叱責するようになったのである。

 鵜殿はそれが面倒になり、上司の決裁が必要な時以外は会社事務所に寄りつかなくなった。気が晴れたとばかりにふんぞり返る上司は、会社で嫌われていたが、それでも規律を愛する大会社の良き管理職ではあった。

 心の安んじる場所が減ったというだけで、鵜殿のキャリアには大きな影響はなかったが、彼の職業に対する献身ぶりが目に見えて質を変えていった時期は、この頃である。

 昇進、出世と、当たり前のように前途を見つめていた目に暗い影が入り、金の使い方も憂さを晴らすかのように乱暴になった。もともと出費は多かったが、それを支えていた好成績からは愉悦感が薄らいでいった。稼いでも稼いでも、豪勢な暮らしに消えていく金のことを考えると、鵜殿は憂鬱そうに眉根を寄せるのである。

 稼いだ金が綺麗な金に思えないのである。外国語に堪能なことを買われて就いた職業だが、成果を上げることに没頭できた頃は、収入が増えて生活のスタイルが派手になることに疑問を持たなかった。だが、挙げた成果が面白く思われていない、自分自身も能力のすべてを注いだ気にはなれない、という状況になると、生活そのものが悲しい陰を帯びるのである。派手な暮らし向きは、鵜殿の表情を曇らせ、いくらでも楽しいことを望めるにもかかわらず、それに執着することはないのである。

 自分の挙げた成績が、評価されることに喜びを覚える部分は残っている。ただし、能力が天井を窺うように伸び伸びと発揮されていた時期を過ぎてしまえば、義務に繋ぎ留められて、機械的に働くことを強いられているようですらある。そこに上司の中傷が加われば、能力は絞られて無理やり利用されているような景観になる。

 虚しく立ち尽くしているという印象を自らに持つのも仕方がないのかもしれない。元々能力が高かっただけに、社会環境の中で能力が評価されることに十分な認識と自負があったが、それが失速して満足に発揮されていないともなれば、たちまち自分に嫌悪感を持ってしまうのである。

能力が自己認識を支えている人にとって、能力の失速や頓挫という問題は深刻に映るものだ。疾走感といっていいほど気分よく成績に結実させていたビジネスマンが、足を引っ張られて成績を上げることに満足が伴わなくなる。気性が即物的にできている鵜殿にとって、そのような障害は予想の範囲内にあるとはいえ、気分の落ち込みはすぐに解決できそうにない問題であった。

瞳の中に暗い色を宿すことに、幼少時から鵜殿は慣れていたのだが、企業に十何年も勤めてから順風満帆の仕事ぶりを損なわれ、気分を挫かれたことには、さすがに憂いでいる。もう少しうまくやる方法もあったかもしれないと、皮肉っぽく笑んで自省もし、その軽薄さを許すことで気分の底から這い上がろうとする。

決して彼は安易さに流される男ではなく、生活スタイルは派手そのものとはいえ、安定を望めないわけではない。何らかの安定を望めるだろうという、落ち着いた目線を持つことによって、鵜殿のような男でも常に平時を生きることが可能である。混乱を忌避し、能力を限界近くまで発揚することで、これまでのように成績を上げつつ、その報酬で面白おかしく生きることもできるのだ。

いったん紛糾の中に叩きこまれることで、彼の身の上の安泰は過ぎたる望みになりかかっている。鵜殿と上司の衝突は、能力を評価しきれずに後手に回る人事の拙さから生じているのだが、鵜殿が業務のスピーディーさを失速させることを嫌う人であったことから、能力発揮機会の逸失という形で彼に圧迫を加えている。

 派手な生活を続けるには、営業成績の勢いを駆って昇進を続けなければならないのだが、思わぬところで躓いた格好である。

 

 井伏は相馬の控え目なところがお気に入りである。まるで主張がないわけでもないのに、向こうが押したがっているとみれば退いてみせる。相馬くらいにそれを巧みにできれば、意見を全肯定で受け容れられるよりも当たりが良かったりする。

 地味で堅実な仕事ぶり以外に確たるポリシーはないと思われている相馬に、井伏は人情噺を吹っ掛けたりするのである。いい趣味とは言えないが、相馬も面白がっていることから、景気を測るという作業をするのに必要な過程になっている。

 会社に現れた井伏に、相馬は挨拶をした。

「こんにちは、井伏さん。たまには楽しい話題を提供したいんですが、この景気ですからね。何万人が失業するとか、そういう見通しばかりです」

「まるで百年に一度という言葉が魔力を帯びたみたいだよ。駆け足で需要を消化して、駆け足で調整局面を迎えている。首を切られるほうは、見通しを立てる余裕すらなかったと、愚痴ってばかりいる。あなたのように会社に捨てられる心配のない会社員は、むしろ少数派になりつつあるということだ」

「膨らみすぎた需要が萎み始めたのを、雇用で何とかしようというのがそもそもの誤りですよ。需要は消化されれば萎むんですから、新たに創出する努力をしなければならないんです。それを怠って、萎んだ需要に生産の規模を合わせようとするから、固定費を何とかしようという発想になる。縮小再生産ばかりでは、経済は回りません」

 身を以て新しいことに取り組んでいる相馬は、守勢に回れば利益を弾くのが難しくなることを知っている。時間をかければどのような生産活動もそれなりに形になるが、自由競争が認められている以上、ぼやぼやしていれば出しぬかれる。産業は時間との闘いである。利益が出ているうちに次の一手を考えなければ、持ち時間を使い果たして、大量の資本を投下しないと競争相手に太刀打ちできなくなるのである。

 一国の経済で完結するのではなく、労働力の安い新興国とも競争しなければならない、グローバル経済においては、無計画に時間を消費することは、自分の首を絞めるのと同じ結果を招く。どんどん苦しくなって、需要に確信を持てないまま資本を逐次投入し、競争力を得られずに敗れ去る、という構図が日常的になっている今、先手を打つということがどれだけ大切かは事業家が一番よく知っている。

 優秀な管理職である相馬にも、経済の最先端を行くという醍醐味は経験があり、成功体験として会社の部位を機能させるのに役立っているが、具体的にどう構想すべきかについては、この国の経済の全般でそうであるように、自信喪失に陥っている。

 良かれと思っていた生活のスタイルに、製品を提供するのがこの上もなく楽しく思われているうちはいい。生活に綻びが生じ、回復してもなお水面上に浮上することができないような、息が詰まる感覚に襲われたら、普通の人間は生活に固執することはないだろう。先ずは楽になれるところまで身軽になることを優先するはずであり、その結果我執の類は極力持たないようになる。

 清貧といわれるように、物資が乏しくとも気高く生きる方法はある。だが、物資を投入可能なら、生活を豊かに彩っても許されると考えるのが、現代人の日常感覚である。むしろ豊かに彩ることで個性を養い、個人としての主体性に満足感を与えるほうが、有意義な生活態度だともいえる。

 人間として満足な暮らしを送るということを、達成目標とまではしなくても、感覚的には責められたり、含羞を帯びたりすることのない平穏な暮らしには魅力がある。穏やかで優しい気持ちになれれば、大抵の苦難は耐えられるだけの豊かさがあることの裏返しでもある。もちろん大人が弛緩しきっただらしない顔をしていたら、信頼関係で維持すべき日常が台無しになるから、適度に危機感を感じて周りとの調和にも気を遣うくらいでちょうど良いのだが、抽象的に豊かになると言ったときの、何とも言えない満ち足りた感情は、麻薬的に人々の目先を狂わせる。

 生活を維持したいという願いは、もはやスタイルを華麗に保つという美意識を離れ、物質的に空白が生じないだけの密度とか、要点の網羅だとか、疎漏のない完璧な豊かさ、つまりは生活に外部からの批判が侵入しないだけの密閉空間を作ることに熱意が注がれるまでになっている。

 答えのない密室を作る以上は、その密室の規模が個人のアイデンティティーを根っこから支えるわけである。自らも答えを出すことのできない、また他者からの答えも受け容れる余地のない、完全な空白にふんだんに愛情を注ぎ入れ、無意味さに感覚が空を切って泳がされる感じをニヒルに笑いながら、豊かさという現代の無機質な一室に籠るのが、然して教養もない人間の差し迫った願いである。

 茫洋と反響する自分の声を、自分のものなのか時々疑いをはさみつつ、一切の答えを許容できない美しい停滞の中に身を置けば、大抵の人間の精神は堕落する。今日における大多数の人間の自信喪失は、それぞれの密室に進歩性が拒絶されたところから始まっている。

 確かに豊かになったのである。空腹に悩むことはなくなり、衣服も目を楽しませる程度には取り換えが利く。住むところも、定職さえあれば起居に不自由を感じるような粗末なものに甘んじなくともよい。ほとんどの人が仮初めとはいえ、一応の幸福を見出したのである。

 所得に応じた生活のスタイルが提案され、消費も大いに盛んである。ただし、消費が答えそのものになり、構造上の外壁になり、隙間風の入らない安全で安心な形而上の空間を想像できるようになり、人はその空間を維持することに全人生の時間を投入するまでになった。

 言ってみれば消費の奴隷になったと言っていい。自己存在により満たされる空間の外部といえば、世間であり世界である。その漠然と広すぎる観念の前では、自己存在などは小さく揺れる灯のように儚い。いくら存在感を肥大させても、眼前の世界の景観を遮るほどには巨大にならず、どこか淋しげな風貌で対峙せざるを得なくなる。そこに際限なく消費行動を起こす誘因があり、いくら肥大しても満腹感を覚えない、自己存在の曖昧さが圧し掛かってくるのだ。

 少しでも確実に事に処したいと思うのは自然感情だが、その感情を支えるために対応する内面がなければならないが、日常の時間軸の中では、圧倒的に平準化されきった凡庸な消費行動こそが内面の象徴である。消費なくして内面はないとまでいう、スタイルを継続するためのエネルギーの出所を、消費によって維持されている肉体と精神に求めれば、よりその傾向は強まる。

 消費こそが精神である。時代を担うエスプリである。

 こう追い立てられてきた若い世代にとって、消費を止めることなどは思いもよらない。だが、消費行動を起こしたのちの安堵感とか、充実感とかは、消費行動が充実するほどに薄れて、最後には肉体を維持するのも嗜好に支えられているような、自主性の横溢した後の間延びした感じだけが残される。自分は自らの選択によって作られた人間である、と理解していても、その選択が無数の消費によって実現されてきたとするなら、自信のあり方もまた物質的に構築されていることになる。

 これ以上物質的に自己存在を掩蔽するのは、積み木細工を積み上げるようにはいかないだろうと諦めが生じる。その無力感が共有され、行動を鈍らせ、判断を回避させ、安全に安全にとビジネスに必要な決断力を奪っていくのだ。

 この結果時間だけが無為に過ぎ、全世界的に生じているフラットな競争環境の中で、いち早く競争条件を整えた意欲的な企業に後れを取るのである。成熟による弊害だとして、まだ老化を迎えていない個体が迎える難題としては、通弊になり易かったとしても、これほどに人々の発想を陳腐化させたのは、情報を共有していたからに他ならない。

 誰もが同じ音楽を聴き、同じグルーブ感に酔うといった、消費の巨大化こそが経済にスピードを要求する最大の要因である。ひとつの製品が大量に生産されれば、消費は大規模になるか、ほとんど反応しないかのどちらかに落ち着く。寡少な生産主体に対して消費は大掛かりになり易いのである。

 したがって利益は偏った主体によって分配され、所得の偏在という問題を起こす。偏った消費が偏った文化を後押しし、利幅の薄い二次的、三時的な製品が出揃う頃には、次の生産に着手しなければ利益が圧迫される構造になっている。

 スピードと決断力である。

 企業の意思決定を迅速にしなければ、利益を捉える機会を逸するのだ。その意思決定が茫然自失ともいえる人々の意欲の低下によって、上手く機能しなくなっているのが現実である。販売時点管理など、最先端の手法で効率的に情報を集めても、需要の追随というだけに留まり、新しい製品の開発及びプロデュースには及び腰なのである。

 確実に需要を予測してプレゼンテーションするには、現在可能な生産を前提にしなければならないが、それが優秀な企業社員の職務内容だと思われている辺りに、危うさがある。ガツンと大きな需要を捕まえるんだと、目の色を変えてプレゼンテーションをする社員が減って、当たり障りのない二次的、三時的、あるいはもっと陳腐化した商品を売ることに熱心な、守勢に凝り固まった社員が増えてしまったのである。

 社員個々人の能力の低下というよりも、環境の変化というほうがふさわしい。既に得た生活空間をさらに意欲的に改造する余地のあった、従来までの安寧は遠く彼方に消え去って、いくら補っても不安感が募るような、満腹なのに食べ物を摂取する必要に駆られているような、文明的な過食症が人間を責め苛んでいるのだ。

 もうこれ以上は物質をつけ足す必要がないのではないか。誰もがそう感じるくらいに、生活は全般に改善されて豊かになっている。その豊かさを模範にして、それを維持するのが最善の産業社会であると信じるのを、意欲がないというのはいささか酷かもしれない。多くを望まないという中流意識が、猛然と新しい生活スタイルを創生するのだという、飢餓感に近い感情を萎えさせてしまったのだ。

 相馬は会社員として、この平和で満ち足りた世相で、巨大な需要を満たすための提案をすることの難しさを痛感している。どこに需要があるのか、生活感覚から直接導きだすことはできなくなっている。ならば生活をよりよく発展させるための知恵を働かせるしかない。

彼の毎日は、そうして資力の範囲で進歩性を実現するという、会社員がすべき前途の模索を、半ば義務として感じるところで動いているのだ。

 

 卜部は学生時代からよく分からない女だと思われている。高学歴の女にありがちなちやほやされ易さが手伝って、同窓生たちによって彼女の人格は半ば神格化されている。

 卜部は面白いな、という評価を与えたのが唯一鵜殿くらいで、渥美は意見の合致は見たが会話に妙味はないと感じていたし、相馬に至っては世間話をするのがやっとだった。それほどに分かりにくいパーソナリティーを、関わる人すべてに惜しみなく印象として根付かせるのは困難なはずだが、彼女は実に分け隔てなく接しているとの実感がありさえすればよく、爾後の評価には無頓着だった。

 かといって、どう思われているのか意に介さないという傍若無人さはなく、どこか儚げで話を聞いてくれる人の目を見て媚びるような微笑を浮かべる、見方によっては愛嬌さえもある女である。

 彼女が証券会社に勤め始めた頃は、一般に大不況といわれる時期で、代表的な会社が倒産するくらいの激しい業界変動があった時期でもあるが、それだけに同期の競争相手は少なく、女性蔑視の少ない実力本位の社風に援けられて、いまや部長職にあった。

 さんざん常識論を作文して、やっと一人前として認められた渥美にすれば、実にうまく世渡りをしている、成功譚で語られるべき最も身近な人物であった。彼は学生時代に何度か卜部に女を感じていたが、いまでは会社の上司に対するのと同じくらい頭を低くしないと、何か虚勢を張っているようで落ち着かなくなるのだった。

 女であることを武器にこそしないが、女であることがビジネス・シーンでは未だに新鮮であり、彼女の物侘しそうな横顔が最先端のインテリジェント・ビルの一角にあることは、象徴的な物語を紐解くようでもある。何やら凄味のある女が働いている、という光景は珍しくもないが、同じ凄味でも外見が伴わないと、人格までもが貧相に思われるものだが、彼女に限っては仕事をする上で欠かせない足場になっているとの大方の評価によって、まずまずの無理のない人事だと思われているのであった。

 渥美は株式のトレードを彼女に任せているが、毎年二割ずつ殖えている勘定で、もう四年が経っている。卜部の腕がいいことは言わずもがなで、派手に営業活動の裾野を広げていないだけに、顧客は集中的に助言を受けられるのである。利益が上がり始めてから値嵩株をあさるという手法ではなく、産業動向を見極めて、需要が集中するであろう分野から低位株を拾うという、普通の株屋にはできない芸当をしているのだ。

 伝統的な証券会社の営業員というのは、産業全般が上げ潮にあるから、買って損はないと言い、景気の退行期には、値打ちだから買えという。その単純さが偽りのない営業トークであり、株式を購入する意欲さえあれば、その姿勢を愛でて売買の付き合いをしてもいいと考えるものである。

ところが卜部は儲かるとは断言しない代わりに、産業への造詣を惜しみなく披露し、今買えばこれだけの利潤が生じる計算になると、見通しだけを語った。このアナリストのような売り文句が受けて随分と多くの顧客がついたが、渥美もそのうちの一人で、誰よりも常識論を信奉する彼にとっては、戦友を得た気分だったというのも頷ける。

 もちろん証券会社の利益を代表する以上は、利益にも敏感なのだが、卜部はとりわけ渥美のようにポケット・マネーを持て余すようなインテリ層が、知識の押し売りをしても喜ばないことを承知しており、共有するのは確度の高い信用に値する情報のみ、というスタンスを保つことに全神経を注いでいた。

 要するに、当たり前のことを言っていれば、最低限欺罔したことにはならないし、信頼関係の構築には十分な役目を果たす会話になるのである。それだけできれば、証券会社で食いっぱぐれないだけの営業ができる。後は、そこにプラス・アルファするだけの才覚を忍ばせれば、顧客の売買の意欲は飛躍的に増す。卜部にはそれができたのである。

 一見してぼんやりしているような、どこか自信がなさげな女が、なぜ株式などでキャリア設計しているかといえば、経済は裏切らないからである。需要と供給の観念が明確に二分され、世界中で毎日繰り広げられている悲喜交々の生活が、すべて観念上の出来事として語られる。その抽象性は、いったん道具として扱うようになれば、大した才能も財力も必要なく、誰にでも語るに落ちるものになりうる。経済を語っている限り、どれほど生活が困窮しても、この世の孤児にはならないだろうという安心感もある。すべてが薔薇色ではないにしろ、経済を語ることには人間の獣性を忘れるだけの、理性の響きが伴うことを卜部は知っていたのだ。

 生活臭の漂う、手垢のついた感情論の虚しさは、彼女の信念からは鳥肌が立つほどの煩わしさであり、無機質な完全さをと望む、いくらか乙女チックな妄念にも似た潔癖症の虜になっているとも評し得る。コンクリートとガラスでできた、現代を象徴するような建物で仕事をすることは、その潔癖症を満足させるのに大いに貢献しているし、仕事ぶりも計算式で表せそうなほど機械的である。

 それでも利益が出る。この事実なくしては、若干人間味に欠けるような卜部が満足に働ける場は極端に狭くなっていただろう。経済に精通したからというより、経済の機微を肌で知りうるアンテナの敏感さがあったからこそ、彼女は有能足りうるのである。

 決して知識だけでは、産業社会の動きを初速のうちに捉えて、利益の飛躍を悠々と見守るという大胆さには到達しえなかったはずだ。多くの同僚は彼女の営業を冷やかし半分に学者肌だというが、まさにその通りで、証券市場は理屈さえあっていれば幾らでも儲かるというものでもないため、どこにトリックがあるのか目を皿のようにして見守りたくなるのも無理はない。卜部は儲かる企業を見抜く目がある、とするのが無難なのだが、大半の営業社員はなぜ儲かるのか判断する目を持たないため、難しい用語を理解しないとその機微は測れないというふうに諦める。半ば解しがたいという女が活躍することに、むっつりと口をつぐんで、世の中は平等にできていないと愚痴るのである。

 そんな瑣末な現象は、企業活動が企業戦士の挺身によって驀進するのを思えば、実に小さい。総がかりで怒涛の勢いを生み出した、かつての企業を知っている者にとっては、高い成績を上げる社員の存在は、肩を並べて働けるだけでもめっけものといったところだ。高度成長の終わった後となっては、企業活動に陶酔感を覚えた経験には金の価値があり、黙々と働く理由になるのであるが、どうもここ十数年来の企業はその誘因を作るだけでも苦労しているようだ。

 証券会社も割りを食っている代表格であり、過剰な需要の創出で活気づいても、下支えする消費にまで波及しないから経済活動は沈滞化し、必然的に株式も値下がりする。値ごろだから買っておくべきだという普通の営業が功をなす時期であり、普段から顧客と信頼関係を築いていた証券会社社員は、様々な指標を提示して売買の期待をかけられる。

 あまりに陳腐化した営業に、それが真実を指しているのか疑わしくなるくらい、卜部は材料の乏しさに頭を悩ませている。彼女の鋭敏な洞察を以てしても、伸びる企業を見出しにくくなっているのである。

「景気に関わらず業績を伸ばす企業はありますが、全般的には我慢の時でしょうね」

 落ち着いた声音を電話口で聞いた渥美は、納得して願い出た。

「ポジションを作っておけば、得になる企業を厳選してくれないかな」

「資金はどうします。利益を確定してもいい銘柄を売りますか」

「売って、低位株に乗り換えるよ。銘柄の選別は卜部さんに任せます。決まったら連絡をください」

「長期保有を前提にピック・アップしてみます。では、後日連絡しますので」

 ごく日常的なやり取りの後、卜部はコンピューターの画面をしばらく見つめ、腹が決まると売買の命令を入力した。

忙しいとはいえ、繁忙期に比べれば落ち着いて仕事ができ、彼女は一日オフィスにいると心地よい疲労を感じる。ああ、仕事をしたなと、然して充実していなかったとしても、すべきことには着手したという実感はある。経済を語る口ぶりに、熱気が伴わない時期だからこそ、いい仕事をしないと顧客が離れてゆく。そのことを自覚しているだけに、金銭という感情のふんだんに注がれるものをやり取りするのは、慣れてはいてもやはり緊張するのだった。

 

 民衆は熱狂的に支持し、その支持によって何らかの反響があることを望む、いくらかの現金さを必ず備えている。局地的な人気にすぎなくとも、支持しているという感情があることに安心感を求め、それだけの選択ができる自由さにありがたみまでも覚えるものである。

 むしろ何をするにも自由という環境に、二の足を踏むのが現代人であり、意思が拘束されていたほうが時間を有意義に使えるという、錯覚までも持つのが大半のサラリーマンであろう。井伏もそういう類の、しがない新聞記者であり、遊軍的に取材に繰り出せるとはいえ、時間の制限のあるところで仕事をしているという実感は、常に頭の隅にある。

 彼はそれを貧乏症だというが、その割にはいい仕事をし、地合いを固めて仕事に取り組む、真面目な職業人としての印象が強い。三鷹と相馬を訪ねて、経済の血の巡りの悪さのようなものを感じ取った井伏は、さっそくそれをコラムにした。需要の創出に知恵を絞らないと、いくら財政出動しても総額を帳尻合わせしているだけにすぎないという現実を、かなり痛烈に批判したが、この手のコラムは通じるところがあるのがお約束である。不景気の度に雇用で調整する企業は、本当に計画性があるのだろうかという、流行りの合理化批判を繰り広げた。

 もともと井伏は炭鉱の町で育った、典型的な田舎紳士であり、今でこそ都会で勤務しているが、若い頃はバイタリティーを買われて外国にも駐在した。いわゆる叩き上げだが、コネや才能がなくても、経験で食えることを実証しているだけあって、その神経の太さは折り紙つきである。

 雑多な人の取り合わせにも動じないということでもあり、人間がどこかで他人を許しながら折り合いを付けていることを思えば、彼ほど鷹揚な人物はよほど心の奥行きが深いのではないかと勘繰りたくなる。事実、井伏は人の欠点を論うよりも、欠点がなぜ許容されないのかを考える性質であり、尻が大きくて安定感のある人格である。

 このような人物が、雇用の問題に関心を持つと、人の人生の浮き沈みを浪花節で語ることともなり、湿っぽい感情論の苦手な人からは、お話の趣旨だけ掻い摘んで聞かせてほしいという要求が出てくる。いかにも情緒的で、聞き手の感情が十分な体積を持つことを期待しているような話口だと、その要求を裏切ることになる。

 自分の仕事に集中しなければならない人たちにとって、井伏の語る雇用問題は、少し煩い感じがするのである。理には適っているし、共感する部分も大きいはずなのだが、厳として雇用が守られるべきだという主張は、十分な能力の発揮機会があることが条件である。

 どうも、雇用に関してはデリケートで、迂闊な言及をすると微妙に立場と立場の間に不整合が生じるような、腫れ物的な印象が付いて回る時節なのだ。もちろん雇用が守られ、所得の獲得に支障がないのが理想である。しかし、能力を伸ばすことに、腰砕けになるような不安心理が伴う場合、容易く能力が万能だとは言いだせない。

 では人事の要はなんだろう。処遇の基礎はどこにおけばいいのか。従来企業意思の集約を担ってきた人材が、コンピューターに取って代わられるようになり、人材は創造的な作業に集中的に配置されるようになっている。

端末に向かって、現況を入力するだけなら事実を捉える目があれば十分だが、それはたとえ専門知識を必要としても、高度な知識加工能力を要求するものではない。勤続年数や職務への習熟などで評価が可能であり、この従来型の評価が可能な職務に関しては平等な処遇を実現し得る。人材を育てるにしても、単純にパターン化された業務知識を、習うよりは慣れろという視点で伝えるのが大半の事例だろう。

 問題は、創造的な作業のほうである。川下でどれだけの収益が上がるから、水源ではこれだけの評価が妥当であると、創造的な作業の価値を逆算することはできる。特許などはまさにその例であり、報酬の体系も整えられてきた。未だに処遇の体系が整備されていない、取捨選択と決断については、今後時間をかけて比較対象を設定し、インセンティブが発揮される報酬として、単純労働にどれだけ差をつけられるか検討しなければならない。

 業務を執行する役員だけが、多額の報酬を受けるという構造が機能的なのかはともかく、そういう処遇を考えねば、取捨選択するまでに膨大な時間がかかるのがネックになる。迅速な意思決定と可及的速やかな市場環境への適応は、今日の企業活動では絶対である。

 そういう人員のシフトの現象がある以上は、井伏がいかに雇用を守れと頑張っても、現実を理解しないジャーナリストの理想論だという嘲りを受ける。企業活動に必要のない人材を、温情だけで内部に留めるのは、目的に組織を適合させる合理性からは難しいのである。雇用を揺るがされたら、産業社会で消費する意欲は確実に減退するではないかと、結果だけをみれば井伏の主張にも秀でたところがある。だが、言論を現場から発信するのではない、サラリーマン化した綺麗事だけの新聞社社員が多いがために、産業の側は現場の論理を盾に解雇も辞さないという強硬な姿勢が目立つ。

 大衆に的確な判断をさせるべく、情報を収集して発信するという役割を担うジャーナリズムにあって、新聞社はその代表格であるが、侮られているのがあからさまに分かるくらいに、雇用に関する企業広報は言葉少なで確信に満ちている。

 不況だから人員を整理する。この経済学的には一片の不都合もない経営判断によって、井伏が情緒的に動揺する失業が生まれているわけである。薄給ゆえに貯えがなく、住むところも失ったという、現場での悩ましい恨みごとの声が、彼の胸に熱い憤りを蓄積させていくのである。この正義の感情をペンの力でいい方向に回転させていかないと、ジャーナリストである所以が疑われ、自分自身も胸のつかえが下りることがないのだと、書くことの原点に立ち返っているのである。

 職業としてのジャーナリズムは、必要不可欠な情報を記事にすることだが、それに加えて個人的な感情の発露としてのジャーナリズムもありうる。井伏の人情噺染みた言説は、どちらかといえば感情を基礎にしているが、人間が損得勘定を抜きに行動することがあるのを失念しては、その真価を測りかねる。

 高々感情で、人間の尊厳を失うわけにはいかないというのが大人である。かっとなっても怒鳴ったりしないし、泣きたくなってもさめざめと涙を流すのは憚られる。そうしたしっかりとした人間陶冶を受けた大人が、無計画な所得政策に一喜一憂することなく、足元を固めて生活できればいいのだが、そこに同情論が働いたとしても、全体の趨勢を変えるまでには至らない。

 だから声なき声を伝えるジャーナリズムは貴重なのである。無冠の帝王といわれるように、言論はあらゆる権威に対して自由で、圧力に屈せず、唯一人道的な立場からのみ発言し得るのである。経済の専門家に理想論だと嗤われても、現にサラリーマンが困窮し、能力の発揚の機会も得られないのは問題であることくらいは、それを批判するとしても責められる謂われはない。ジャーナリストに恥部をさらけ出すストリッパーにされることが不安なら、恥部を持たなければいいのである。人間である以上はその恥部との付き合いは根源的であるというのなら、恥部を持つ個体として堂々としていなければ舞台に上るだけの資格はない。

 恥じることのない善処をするだけなら、それほど大規模で、深刻な努力を要するものでもなく、心がけというささやかな意思的作用で十分に処し得る。世で勢威を揮うだけの欲求があれば、恥じてはならないというのが力学上の要請にもなる。その感情のしっかりした部分がジャーナリストの軸足になっていないと、阿ったり媚びたりする利益最優先の社会がじわじわと具体化し始めるのである。ジャーナリストは真っ先に清潔でなければいけないが、恥部の存在を否定するほどの強者でもいけない。快楽はどの人間も望む必然なのだから、理解を示した上で、世間で勢威を揮う表舞台の覇者を志すのなら、恥よと、ペンを走らせればいいのである。

 力の弱い不正規雇用などの弱者の声は、たとえ経済の合理化という真っ当な根拠があっても、制度という枠組みの中で最も低廉に買い叩かれるのは弱者の労働である以上、常に注意を払わなければならないものである。さもないと、会社への忠誠の低下や、経営の計画性のなさの克明な証人として、返って企業活動の差し障りになる。調整という名目が成り立つのは、労働の質が粗悪で、雇われる側も永続的に雇用されることまでは期待していない場合であり、出稼ぎ気分の単純労働にしか就けない労働者を雇ったのだと、強気になれるのならジャーナリストにもそう説明したらいい。

 後ろめたいから、雇用の調整を隠蔽したがる体質に繋がるのである。無計画に利益を極大化するために雇い入れ、いざ固定費を減らす算段を講じる必要が生じれば、真っ先にその雇用に手をつけるのである。従来は不正規雇用にはそれなりの報酬が確保されていたが、多数人が不正規での雇用に応じるほど労働市場の需給が齟齬をきたし、その結果報酬は驚くほど低下した。生活苦が生じるほどの薄給で、しかも身分的保障のない待遇で雇われる労働者が引きも切らない。今や産業に搾取されている感すらある。

 そうした雇用の実態に同情するほどに、井伏は書かなければ弱者が圧殺されるという危機感を募らせるのである。彼は企業を見て、労働者を見て、社会の活気を嗅ぎ取って、然るべくして記事にする。企業にしてもまるで理由のない暴挙に及ぶわけではなく、労働者にしても仕事がなくなることはある程度まで予期していることだ。それでも安定的な社会を構想し、社会に活力を吹き込むためには、雇用は維持されるべきだという結論に達する。

なぜ企業は単純労働に就く者を解雇するのかといえば、他の分野に応用が利かないからである。能力の貧困を、人事体系の中で平等に評価しなければならないとしたら、法で定められた最低賃金を下回ってしまう。社内での職務のシフトを考えても、処遇が不可能だと思えるくらいに、基礎的な教養も、業務に対する適応力もないときは、もはや解雇するしかない。

 このメカニズムを雇用不安という感情的な基礎によって記事にされることは、産業側からすれば迷惑な話だが、経済の必然がすなわち社会的な正義であるとは、決して言えないのも事実である。憤慨しても労働の価値に下落圧力がかかるくらい、世界経済はグローバルに発展している。労働力の安い国と互角に競争するためには、製品の質と価格に相関関係がなければならない。安かろう、悪かろうでは太刀打ちできず、最高の精度で仕事をし、文明的にも必需品として扱われるのでなければ、産業は衰微する方向に傾く。せめて労働力は安く仕入れたいというのが産業の切実な願いである。

 それだけの理由を聞かされて、まだ労働は買い叩かれるべきではないと眦を決することができれば、人徳者としての人気も出ることだろう。労働を評価するのに、平等という観念が生きているうちは、安すぎる処遇は底辺で働く人々にとってやむを得ないことでもある。単純労働にしか従事できないと分かっていれば、従事した期間と習熟の度合いを評価してもらうほかなく、それは不景気に解雇されることで、その度に振り出しに戻る。取材を重ねるにつれて明らかになるのは、能力による平等が必ずしも理想郷をなさないことである。

 井伏は盛んに執筆する傍ら、悩んでいた。弱者が弱者である所以を知ったら、筆致が鈍るのではないだろうかと。企業と雇用の問題は、相変わらずデリケートである。

 

 三鷹は博愛主義者である。井伏も似たようなところがあるが、彼は人情家というだけで、端から端まで慈愛の目で眺めることはしない。愛でるべきところを愛でるというのは、人情家の処世術のめりはりだが、博愛と銘打つ以上はそれとは一線を画すのである。

 ほぼ愛情の豊かさを確信しているというふうである。厳しい讒言や、誹謗なども飛び交う政治の現場に近いだけあって、三鷹のように内面の感情が蕩けるように潤いを帯びている男はかなり珍しい。物腰は穏やかで、争いに積極的には加担せず、愚かな者にも魂があることを十二分に承知しているのである。

 良き家庭人であることは、彼の性格からすれば当然でもあるが、職場にあっても息を合わせて仕事をするうちに、物事の本質が見えてくるような、不思議な充実感をもたらしていた。人格的な価値といっていい。将領がどっかりと腰を据えていれば、部下は才気を発揮するのに迷いを持たないのだが、政治が迷走している現状からすれば、三鷹のような事務方が堂々としているのは滑稽でもある。

 むしろあなたが将領たるべきだと、繰り返し忠言されても、三鷹は自分に度胸がないことを知っているので、縮みあがってまで人前に立つことが憚られるのである。

彼の勤める部署を統括する最高責任者は政治家である。彼らは事情に通じて論ずることに長けているが、必ずしも正しいことを言っているわけではない。責任の兼ね合いや力学的要請に応じて、柔軟に転身を重ねながら、常に多数人の支持を集めようとする政治家にとって、リップ・サービスくらいはお家芸にしなければならず、また阿諛的な発言も時には重大な圧力に対抗する支柱であるとすら思われることがある。ここで折れたら政治的に劣勢に回るだけでなく、発言そのものが疑われるというくらいに真剣にならざるを得ないとき、その真剣さから出た言葉なら強い求心力を持ちうるのである。

苦境にあるほど将領の統率力は、魔術的な魅力を持つものなのだ。経済的に国家が困窮に瀕しているときにあっては、一種精神訓めいた規律を感じることに、胸を撫で下ろすような憧憬を感じるのである。これが我々を律する法則ですと、自信に満ちた目で見られると、現実にはそうでないにしても法則に準じることを自らに課してみようという気になる。大多数が将領の決断に流されることを容認するとき、大きなうねりが生じる。

 政治家が一時代を代表するのは、そうした政治家の信念に触発されて、信念の在り処を一身に背負わせる、つまりはほとんど決断を丸投げして委ねてしまう時である。人々はそれを容認し、政治家の信念が具体化されることに信を置く。信念を介して、濃厚なコミュニケーションが成立しているという、美しい光景が現出するわけである。

 政治の季節に熱狂する人々は、その美観をひたすらに愛しているのである。自らも、同調者も、反対者ですらコミュニケーションに没頭するという、人間心理の綾が細かく重なり合って、政治が真価を発揮するのだ。

 博愛主義者はそのように人々が背負おうとしている、人間関係の妙を見ると奮い立たされるのである。三鷹もそうであり、政治家にはなれないが、温かい感情が自らを満たすことに安堵感と愉悦感があるのであり、多数決により設計された制度を運用するのに、積極的にその血流となって職業に準じる覚悟があるのだ。

 単に社会的に責任ある立場であって、報酬も保障されているというだけで勤めている公務員もいるが、三鷹は心血を注げる職場を求めて職に就いた手合いで、能力が刺激を受ける環境がありさえすれば、どれだけ長時間にわたって仕事に拘束されても構わないのである。

 その人が博愛を標榜するのは、気宇が大きい感じがするが、反発してそれが事実と反することを暴こうとでもいう暴挙に及ばない限り、彼の信念は政治家にならないかと勧められる時の美質を備えているのである。少しも誹謗に馴染まない、完成された共感の網の目の中に存在するのなら、やはり三鷹は政治家にごく近しい存在ということになる。

 政治家なら誰が出てきても一歩も引かずに交渉に応じられることが望まれるが、それは万人に交渉のテーブルに着く価値を認めるということであり、それは博愛と呼べないこともない。三鷹が良知を啓いて人間としての価値を高めようというときにも、政治家の博愛にもう一段階深みを増した心の安寧がある。政治的な立身を支える愛情ではなく、人と共にあることに喜びを覚える、何よりも自分を偽らないことの晴れ晴れとした気持ちが三鷹にはあるのだ。

 それは仕事をする上で、同僚からの肩の力を抜いた信頼の目を獲得するのに貢献し、繰り返し常識論に依るよりも、手厚く彼に報いている。彼の前では激しく主張をせずとも、ある程度まで心の内実を酌んでもらえるということで、自然と体から力が抜けるのである。反発を感じさせずに、共感で身辺を固められることは、政治家なら焦がれて已まない境遇ではあろうが、三鷹はそのような自己の信念を摩擦の渦中に感じずにすんでいるという点で、恵まれていることを実感できるのである。

 最近は経済政策に火の催促が飛んでいることもあり、三鷹は忙しい。井伏などの知人が訪ねてくることがあり、その応対に出られるだけの余裕はあるが、基本的に忙殺されている観が強い。あまりに忙しすぎて、金銭的に報いられるべきだと考える同僚がいるくらいに、瑣末な業務が要求されているのである。

 それというのも、役所というのは遺漏があってはならない職場で、何から何まで杓子定規な上に作業は定型に依らなければならないのだ。コンピューターの導入によって、事務量が軽減されたとはいえ、確認などの作業は人為で行うため、相変わらず膨大な量の人材が公的な役務に従事していることになる。

 小さな政府の呼び声は高いが、公共事業などを監督し、許認可業務などを正確無比に行うためには、どうしても人出が要るのである。政府が景気を改善するために大量の出資をすべきだという、総需要の調整という発想に囚われている限り、その出資を監督するために専門知識を有する人材が政府部門に常駐しなければならない。本来なら創造的な作業に従事し、需要の拡大に貢献すべき人が、公共の場で適正な施工がなされたかを管理するだけだったりすると、社会はさらなる発展を志すという経済の最終目的に反する結果を招く。

 もちろん緊急的に金銭が滞ることを回避すべく、財政を投じることは必要だが、過大に政府部門に期待を寄せれば、無駄に公務に就く人々を増やすだけでしかなくなってしまう。社会の活力は、といったとき、民間が主導せざるを得ないのである。民間の活力をうまく引き出しながら、政府が財政の投下を鋭敏な情報感覚で担えば、めりはりがついて新規事業にどんどん資金が流れ込むことになり、結果として雇用は拡大して所得は増え、消費も活気づくことになる。

 政治が主導し、公務員はその決断に至る過程をサポートし、民間は決定された枠組みの中で鋭意工夫を重ねる。役割分担は単純であり、三鷹の仕事には不景気を憂いで政策を立案することも含まれるが、より必要なのは決断を容易にするための情報集約である。大きな政府を目指して、多分野から情報収集しようとすれば、それだけ政府部門の固定費も増えてしまうが、いち早く社会の混乱を打開したいのなら、政府の人員は過大と思えるくらいに多いほうが、観念的には政治家の決断を容易にするといえる。

 烏合の衆ではいけないわけで、公務員は有能である必要はないが、機能的に組織されていなければならないはずである。どれだけの人員を使って情報を収集し、いかに速やかに決断するかを政治家が決めなければいけない。

 となると、制度の設計は多数決で決まる以上、投票行動によって指針を集約されることが望ましく、またそうでなければ果たせないのが決断の裏うちである。政治は競争条件の設定もするため、可能な限り権威的でなければならないし、決断を後押しするだけの信任があってこそ、大胆に変革を志して決断することも可能になる。

 社会の変動期にあっては、政治家が示したグランド・デザインを民衆が信任し、公務員はその青写真に沿って情報を収集し、実現可能なところまで素案を固めて政治家に提出するのである。政治家は論理的にも、情緒的にも決断するのが容易いと感じられるまで、情報を要求して公務員を隷下におき、機能することを前提に人員を配置しなおしたりするだけの、見識を養わなければならない。公務員の能力が政治家の見識を支えるのではなく、どのような社会を目指しているのか民衆から信託を受けたはずの、自分の言葉に自信を持つべきである。社会はこうあるべきだと感覚的に分かっているのなら、それを基準に論理は組み換えが可能であり、社会情勢からいってよほどの無理を言っているのでなければ、公務員はつき従うのが当然である。

 政治家が気取って、論理的に正当であることを政治家としての資質だと考えるほど、意気消沈してしまっては国難を排することなど不可能である。政治家は少々愚鈍なくらいでも、民衆に揉みくちゃにされているうちにバランス感覚が秀でてくるものであり、感覚的に正しいのだと確信したら、どこにでも出かけていって正当性を主張できるようでないと、形而上学で正しいと証明されたことだけを具申する、真に愚かな公務員の言い成りになってしまう。

 間違っていてもいいのである。それが民衆の支持だというのなら、戦争などの愚かな行動に及んでもいい。投票行動にそれだけのリスクが伴うのは常識であり、それが政治である。ただし、民衆の前で登壇してみて、野次を浴び、糾弾されるだけの間違いを犯したら、素直に反省しなければならない。成熟した民主主義のもとでは、その粗っぽい意見のぶつかり合いは、最終的にはどんなに優れた理性が導いた結論よりも、正確に結実することが多い。批判を恐れずに、決断に踏み出す勇気こそが、混迷を抜け出すために必要な最良の処方である。

 批判する勇気と、批判を仰ぐ勇気の、美しく整頓された合致こそが、国家を根っこから動かす原動力になる。人々が望んでいる変革は、声を嗄らして執着する一事を押し通すことではなく、我執同士がぶつかり合って草臥れ果てた末に見える一縷の光を、感動的な眼差しで迎えることである。これならば自分も賛同できるという、政治家の示すグランド・デザインは、そうした罵り合いに近いような猛然たる舌鋒によって彫刻される、芸術作品の趣があるものだ。これは大したものだと、惚れ惚れと仰ぎ見るような造形の妙は、一人物の能力が秀でても完成されるものではなく、多重に重なり合うような無形の鑿が振るわれてこそ、可能になるのである。

 それは人々の声だ。昔の人々は公の機能を深く信じ、小さな集まりにさえ権威を持たせていたが、彼らが驕ったのかどうか、現代では投票行動の負担を軽くするために、政治家が馬鹿にされるほど見識を疑われている。政治が民衆の底辺から叩き上げた、瞠目せざるを得ないような堂々たる風貌を失い、民衆が清潔で一切の苦痛を排除した暮らしができるように、政治家が下男のようにつき従うことを望む悪辣な政治観念を疑問に思わなくなっているのだ。

 由々しきことであり、民衆がそのようなデマゴーグに踊らされたら、あらゆる方面から批判されないで済む、シンボリックで実力を伴わないお飾りのような政治家ばかりになる。政治家は地を這いずりまわってでも民衆を代表する声になれ、という先人たちが築き上げた気風を忽せにして、政治家の品位を貶める風潮であり、そんなことになって喜ぶのは劣等感の強い人格の破綻者だけだ。

政治家が今日という日を、民衆と共に過ごすことに喜びを感じるように、苦言を呈するのは吝かではないが、批判されないだけで民衆を心の底で軽蔑しているような気取った政治家が、民主主義国家の経営に関与するのは面白かろうはずがない。いずれはぼろが出て、投票したはいいが隔絶を感じるまでに、民衆から心が離れていくという事態を生じる。

市民感覚の欠如した、失策続きの政治家を、いつまでも地位に留めていいと思う国民はいない。それが政治家への厳しい提言となるならともかく、御用聞きのように使い回せればいいと侮るなら、百害あって一利なしである。今日の政治蔑視の現象は、政治家に重大な決断を委ねることの恐ろしさを必要以上に感じ、また市民レベルでの草の根の発言への信頼が、投票によって政治家を選ぶより修正し易いという気易さも手伝って、根っこの民衆の声が一般を代表するほうが確実だという都合上の支持を呼んでいる。

 飽くまで投票が政治の力であり、民衆の総意を表していると考えなければいけないのだが、誰も決断せずになあなあで議事を諮ることに、いったん居心地の良さを感じてしまえば、そこから抜け出すのは至難の業である。誰も全責任を負って取捨選択に応じようとはしなくなり、議案は山積みになり、数合わせだけで確信を持てないまま及第点の取れる答案ばかりを採択するようになる。民衆に揉まれて、その過程を通じて気持ちは一つだと確信できるような、古い政治家はいなくなってしまった。どこからも潔い提言が出てこないのである。

今や昔である。

 この難局をどう切り抜けるかについて、三鷹はリーダーシップを発揮すべき立場にはなく、漠然と意思決定を容易にするための材料集めは怠れないと考えているだけで、時代そのものを旋回させるような軸足となる思想は持っていない。精々が博愛主義だ。誰にでも平等に発言する権利があると考えるところを、博愛の起点とするなら、終点は仕事を終えて深夜に帰宅する彼の背中だろうか。

 稀に溜め息が出るほど気疲れもし、それでも力強く職務に精通する気概を持たねば、社会構造の変化に対応すべき公務員の職責が泣く。仕事に邁進することで、三鷹は彼なりに人間関係が素朴なまでに通じ合えるようになればいいと思うのである。

博愛は彼の良心を指して、広すぎるのではと思う時の呼称である。三鷹は揚々と仕事をしているようでいて、この人とは分かり合えないといった落胆が生じないことを、密かに願ってもいるのである。

広々と遠望するように、それが三鷹の職業意識である。

 

 常識論の作文は、渥美の日課だ。

 問題の根源に迫る慧眼を愛でられるより、無駄口を挟まないという朗々たる詩吟のような完成度のほうが、作文をする側の力点は大きいのである。必然的に誰もが口にしている常識論こそが、発言の内容に占める最も重要な論点ということになる。

 論理が飛躍したり、個人的な心情の吐露というだけに留まったりすれば、アナリストとしての本分を損ない、職責を十分に果たしていないということになる。評価が十分でなければ、満足のいく評価を得るために軌道修正するのはやむを得ないことで、それを繰り返すごとに、万人受けする常識論が華やぐ。

 言説の効能として、思想に賛同を受けてそれを基礎に決断がなされるというものがある。万人受けとはつまり、大多数の賛同を望みうるということであり、その言説を発表すれば、多大な影響が及ぶことにもなりそうである。

 ところが、現実には奇論ではないにしろ、賛同する者が少数ではないかと思われる言説のほうが、影響力は大きい。インパクトからすれば、確立や法則を破るもののほうが情報を受け取る側に努力を強いる分、過激である。平穏で、地位に安んじた、確実な人生を歩もうとする者は、そうした過激な言説に眉をしかめるだろう。読み書きするなら、常識論をこそというのは、もはや社会生活上の申し合わせともいえる。

 だからこそ、ややもすれば聞き流してしまうような常識論には、訴える力が弱いのである。

 それならば、繰り返し主張し、党派を組んで大々的に喧伝すれば、本来言説が持つべき影響力は実現されるのではないかとも思えるが、常識論を切々と訴えるのは、何やら尋常ならざる匂いがし、普通は誰も名乗りを上げたがらない。常識人たちがどうするかというと、常に言論の一部を一定勢力が占めることを、バランス感覚で遣り繰りするのである。

 全体の風潮が少し硬すぎると感じれば、軽口に近い語りで和ませる者が現れるし、風潮が軽薄に流れるときは、知的に洗練された鋭い警句を発する者がいる。言論と一口に言っても一色で色分けできるわけではなく、様々な癖の持ち主がいるから健全さが保たれるのである。そういう言論の中で、常識論を繰り返し主張する立場にある渥美のような職業人は、エキセントリックに気分を発揚させる言説を好む風潮には馴染まないが、着実に発言を求められる一角であり続ける。

 しかしながら、訴える力は常識に依るがゆえに微弱である。世間が混乱を極め、何かしらの秩序を切望している場合は効果があるかもしれないが、平時において常識論は何の効果も持たないのである。精々が共感の礎になって、安心感を醸すという程度で、過激な言説がより強い意志で常識的な判断に回帰させるのとは、比べ物にならない。

 もちろん稀には、従来通説であったものが、論破されて陳腐化していくことは大いにありうるが、そのような知力の粋を集めた通論の転換のための言説が、じわじわと支持を集めていくことは滅多にない。まずほとんどないだけに、鋭い感性で民衆の目線を読み取るという作業に長けた者だけが、その担い手になりうるといえる。

 社会制度が疲弊化して、どうあっても新しい背骨を入れなければならないといったとき、従来の社会を支えていた常識論だけでは心細く、実際に社会構造の転換に対応するための基礎的な描写すら果たしていないことが多い。困窮しているという事実を挙げるときは、困窮している人々が見えてくるような唱え方をしなければならないのである。それが現状に沿った判断をする上で何よりも重要なことであり、困窮だと言ったときに確実に困窮が存在するという対応関係を、約束しているのがジャーナリズムである。

 アナリストはジャーナリストとは違うので、客観的な事実の提示を使命とするものではなく、主観を交えて立場上利益が最大になる視点を献策するものである。会社員なら会社の利益を最大化するのが使命ということになる。

 だから、必ずしも民衆の立場に立って発言する義務を負っているわけでなく、アナリストは多分に職業的である。法に則った会社の利益という点で常識には親しむが、常識が総てではないという点で背信的にもなりうる。アナリストは常識論の作文をするとはいえ、その常識は民衆の総意を意識してのものではないのである。

 商業的な論説者といっていい。商業において最も効率的に財貨を獲得する方策を練るのがアナリストの役割である。商業の隆盛は社会の維持に欠かせず、一般常識から言って参考になるとはいえ、民衆に隈なく財貨を獲得せしめるものではなく、経済政策ではあっても、社会政策ではないことが度々である。

 為政者はこれを参考にすれば、商業を盛んにすることはできるかもしれないが、所得の格差などの副次的な作用までは予想できないのである。さらにいえば、商業にとって最も効果のある薬が、社会の福祉をもっとも発達させるという保障はなく、福祉は税金で賄うというのが常識である以上、商業効果で財政が潤っても、当然のごとく商業には浮き沈みがあるから、福祉制度を設計するには財源として税金の一部を恒常的に使えるようにするほかない。

 経済は社会の安全と福祉には間接的には影響があるかもしれないが、直接的には金銭的手当てとして期待するのは間違いということになる。そうだとすれば、商業的論説者であるところのアナリストが社会全般を憂いだとしても、その発言は、浮き沈みのある経済を一時的に高揚させるための、自己本位な利益誘導と大差ないのである。

 たとえ経済に精通し、自前の経営資源でどこまでできるか熟知しているとしても、国民のほうを見て、国民の歓心を買うために発言するには、常識を擬態するほかないのである。これが世間の常識ですから、たとえ実態が産業に金をつぎ込むための方便だとしても、当然賛同してくれるものと信じます、というのがアナリストの使う常套句である。

産業は発展するだろうし、所得も増えて国家経済は安定的に推移しそうである。しかし、所得が偏って配分されれば、消費は高額所得者に照準を合わせないと委縮するばかりで、また高額所得者の羽振りだけ良ければ、不公平感から低所得者の処遇が問題になる。産業構造が所得の偏在を容認せねば回っていかない以上、従来のように満遍なく徴収した税金を投入して総需要をかさ上げする政策を採っても、低所得者には物質的な飢餓感が生じるようになる。

経済さえ上向きになれば、すべてが円滑に改善されるというメカニズムは、もはや常識ではないのである。それなのにアナリストは旧態然とした経済政策を、国民に最も理解され易い産業振興策だからというので、一つ覚えの口説き文句のように喜んで作文にしているのである。

なにも奇策を献じろとはいっていない。そのような劇物のような発案は社会の変革を要求するだけに、国民の側のアレルギーもあるはずだ。常識的な言説の積み重ねによって、具体的な行動の機運を生じさせることはできるかもしれないが、それが困窮といったときに困窮を表さない、客観性を失した古い時代の遺物のような言説だったら、国民はやがて怒りを蓄えるようになるだろう。

常識論を繰り返し聞かされて、耳で覚え、頭で判断できるまでになっても、それがどうも自分の会社に金銭が流れ込めば事足りるのではないか、といった疑念につながったら、言論は殺伐としてくる。ますます書く方は慎重になり、世間で通用する常識論で総意を形成しようと、古い成功にしがみつくようになる。

成功は、それが華々しいほど忘れがたい。

かつて経済は、財政を投入すれば満遍なく所得が増えるという、財政政策が同時に所得政策でもあるという幸せな時代があった。本質的に両者は異なるものである。それがいつか成功体験から混同されるようになった。

所得の偏在という問題は、今日では不可避の情勢であり、かつての成功体験の経済モデルは役に立たない。所得政策のために財政政策を語るという愚は犯してはならないはずだが、以前の余りにも歴然とした波及効果が常識として国民の念頭にある以上、財政で解決しようという発想を覆してまで新説を流布する勇気は、一介の会社員に過ぎないアナリストにはない。自らを忠実な会社員であると定義している渥美などは、まさに典型的で、固陋なマクロ経済論者である。

所得が偏在するなら、社会政策で貧困を撲滅しようというくらいの発想は誰でも持つが、それはアナリストの領分ではない。渥美は貧困を一切経験していない、恵まれた環境のいわゆるお坊ちゃん育ちだけに、観念で貧困を理解していても、生の現実として思想の転換を思い立つほどの同情は持っていない。しかし、貧困を憎む気持ちはあって、それには常識で言うところの経済発展だと、すっかり凝り固まって、誰に聞かれても古い形式の経済政策が最も効果的だと、自分を欺くことになるとはつゆも思わずに口にしている。

彼は本当に正しいのか。信奉する常識論が、真に経済を潤滑に発展させる本質を突いているのなら、すべては上手くいっていてもおかしくはない。

が、いくら財政を投入しても、国家の借金が水膨れするばかりという現象が起きている。所得が増え、消費に波及するという財政投資の副次的な効果が望めなくなっているのである。本来財政投資は、軽微な規則的インフレを容認するというメッセージを含んで、借金が増えてもインフレ率で帳消しにされるという関係だった。金銭の価値が下がれば、借金の重みは減り、土地や建物といった恒久材が持て囃されて、必然的に消費は上向く。すべてがすべて、そういう経済のモデルを国民に信じさせることで、経済は急速度に発展したのである。

それがいまや、借金をしてインフレを容認しても、所得の低い層が息を繋ぐほどの余裕もないという消費の減退が生じている。誰も彼もが豊かになって、国民のすべてが金持ちになるまで経済発展すべきだと極論するアナリストはいない。これをして、消費は伸びなければならないと、現象を論じずに指標だけを論じているのである。これを鵜呑みにして、そうか消費が滞っているから経済は混乱しているのだと、さっぱりと聞き分けることはいかにも間抜けである。政治家が国民全部を金持ちにする、とでも宣言してしまえば、それに沿って経済構造を構築し得るのだが、その政治家がアナリストにかぶれて評論家染みた発言ばかりを繰り返している。これでは経済は発展するどころか、経済政策の正しさを証明するためにのみ財政を投下するという、責任回避の方便をふんだんに利用した、他人事になってしまう。

それでもアナリストは、一社を代表する論客である。会社の利益にならない発言を容認するほど、営利会社を取り巻く環境は生易しくはない。どうしたって、会社の側に立って、会社の論理で語らざるをえないのである。

政治家はそれを承知し、経済の論評家とは違う感性で、現実に起きている貧困を解決するのだという意気込みの下、採用できる言葉は借用しても構わない。飽くまで、アナリストが優秀だからすべてに先んじて言説の正しさを信じるなどと、判断の主体を転換してしまうほど腰砕けになったりせずに、一つ一つの言葉から感じ取れる、この世の綾を政策に反映する気持ちを忘れてはいけない。自らの国が、高々経済の調整に猶予の時間を欲しているというだけで、パニックを起こしたように財政の大盤振る舞いが必要か、もう一度考え直すだけのゆとりを持たなければならない。

アナリストは営利に基づいて口を利いているのであって、国家を論じているのではない。そんな浮薄な言葉に動かされて、では産業が安定的に利益を上げられる態勢ができるまで、猶予として財政を投入しましょうということが、本当に国家国民のためになるのか、成功例を見て模倣するだけなら疑ってみてもいいはずである。

本当に成功は、唯一のモデルであるのか。

社会政策の拙さとして語られる市場原理主義は、所得の偏在を是正する機能を持たないことで責められている。その論拠とするところは陋劣で、国家が総需給を調整するのだという、過去の成功例を引き合いに出したがることは言うまでもない。相変わらず、何が何でも企業が儲けなければならないという着想に留まり、租税負担を軽くするという発想には至らない。国際競争を考えれば、法人税を安くするのも手だが、企業のモラルが低いために、国家が市場を管理しなければ劣悪な雇用環境に陥ると危惧されているのだ。

市場は長いスパンでみれば自由なほど選択肢の幅が広がるのだが、景気といった短期の観測では自主的な調整が有効になされているようには見えない。やはり大きな政府を構えて管理監督しないと、経済社会は利潤追求のためだけに営利組織を運用するに違いないという、諦めにも似た感情が渥美にはある。それでも会社勤めをする以上は、そうした会社組織の阿漕さを認めておかないと、価値観の相違に悩むことになる。営利で仕事をするのだから、万人のために福利を向上させるなどという意図があっても、お題目にすぎないのである。

渥美は働き者である。昔ながらの価値観では、よく学んでよく働き、不満も言わない模範的な勤労者である。それだけに彼がお題目を唱えようと咽喉元まで出かかった言葉を、強い気持ちで呑みこむのは悲壮ですらある。会社勤めをするに加えて、常識を持論にしなければ社会での影響力も考慮されず、少しでも突飛な見識に飛びつこうものなら、たちまちのうちに戦力外通告を受けるという、厳しい職業に就いているからだ。

収入に見合った自尊心が培われることはあっても、彼自身には会社に盲従する気はない。上手くやって称賛を浴びようなどという色気が少しでもある男なら、会社が自尊心と混濁一体となって、会社組織での階級を自分の名前に優先させようとしただろう。会社に所属するが、帰属はしないという意気込みがあるからこそ、自分の信念を摩耗させるような無理を押してまで一流であろうとはしなかったのだ。

彼の経済観測は卓見とは呼べない代わりに、職業人としてのものなら非の打ちどころがない。大きな政府で産業に資金を投入すべき、というのはアナリストの常識であり、渥美もまた一介のアナリストである。このまま定年まで何食わぬ顔で常識論を唱えていようかと、彼は索莫とした気持ちに悩まされながらも、作文を続けているのである。

 

 相馬は同僚に比べて控えめである。主張を唱えるのにもどこか悲しげな目をして、絶対にこの答えしかありえないわけではありません、といった具合に謙遜する。悪く言えば優柔不断で、決断力に秀でて、何もかもを覇気を以て処理するようにはできないのである。

 世の中には控えめな人間と、そうでない人間がいる。控え目な人間は対峙した相手を尊重し、論理的にどこまで接近し得るか推し量るものだが、そうでない人間はその言い分が自己を鎧うのを期待する。自尊心が寒風にさらされないように、内向きに閉じこもってしまえば、言い分がなくても不安心理にはさらされないが、社会的な生き物である以上は、常に外界に接して肌で危難を感じざるを得ないのである。

 要するに、謙遜する人間は相手に接近しすぎるということを望んでいないので、適度な距離を見切って実現までこぎつけ、安定的に自尊心を保てるのである。激しく主張を繰り返す不安定な人々は、危機を直感的に悟っていると評し得るのだが、それでも調和を保って他者との接点を温めるという感性からは程遠い。

 これが会社生活になると、相馬のように控え目な人物は、あの人には強く当たっても関係がこじれることはないと、協調性の賜物として語られる。もちろん侮られてしまっては意味がないのだが、謙遜はそれなりに潤滑材になりうるのである。

 最近の相馬は奔走することで人と人を濃密に結びつける八面六臂の活躍だが、その際も謙譲は彼のポリシーとして根付いている。会社というところは実に交渉事が多く、利益を度外視して容易く折れてしまっては、能力を疑われる。一般には押しが強いほうが優秀な成績を上げるものだが、相馬は譲歩した瞬間に落とし所がはっきりと眼前に現れるという、申し合わせの達人のようなことができるのだ。

 営業において、一歩も引かないという最後通牒を使いこなすのは、信頼を醸成できるごく限られた者たちだけだが、相馬にはそれができた。会社が現時点で置かれている立場を理解し、この額で販売して利益を上げるというプロセスを、自分の流儀に組み込んでしまう辺りに、彼の強みはあるだろう。

 世は不景気の真っ盛りだと言われている。会社も利益を出すのに苦しい思いをしなければならないのだが、相馬は社内会議の段階から積極的に参加し、自分の営業のスタイルを前提に、これだけの取引材料がそろえば、取引先で言い淀むことなくすらすらと取引の利を説明できるだろうと、会議を営業の始まりととらえている。

 当然会社はそのような営業に必要なツールを提供し、人員配置によって最大の効果が上がる編隊を組織すべきなのだが、相馬の勤める会社はさすがに製造業の雄に数えられるだけあって、追い風は十分である。会社はどこで利益を弾くのか、数値の辻褄合わせだけでなく、人間の感性を基本に具体的な行動を起こす際の胆を心得ている。

 営業が安心で簡単だったら、誰もがストレスを感じることなく、伸び伸びと笑顔を絶やさずに穏当な成績を上げるのだろうが、今利益に貢献しないと評価されないという危機感がないと、どうしても営業は間延びして上手くいかない。

 やはり、多数の社員が、巧みに呼応し合って一足す一を三にも四にもできる体制を計画的に設計しなければ、会社組織は競争に勝てないのだ。国内だけでなく、世界水準で企業間競争が繰り広げられるのに、横並びで平等に利益を山分けしようなどと、虫のいい話を持ち込むのは禁じ手である。一部はカルテルやトラストとして、競走条件を歪めるがために法で禁止され、罰則まである重大な違反である。

 競争の環境は当然の如く、競争に参加する者に労を強いるものである。労なくして報酬はないというのは労働の常識だが、相馬は常に労を採る気構えと、利益を出すための妥結点を探る目があるために、会社員として優秀な成績を上げているのである。すべての企業が並列した上で、そのどれもが高水準の利益を上げることなど、不可能である。構造からいえば、一番に先鞭を付けた企業が一番儲け、続いて二番手、三番手が順に利益を占めるというのが理想だ。そうでなくてはリスクを冒さずに、資本の規模だけで競争相手を凌ぐという、看過できない甘えを企業倫理に植え付けてしまう。

 一切危険な投資はせず、成熟して確実に需要の見込める市場でだけ資本を投下して闘うという企業が、倫理的に清廉であるはずがなく、社員にどのようなモラルを要求するかは明らかである。すなわち利益最優先の、機械的な査定で市場のパイをいかに他者から奪うかを考える社員を優遇するようになる。

競争が自分の長所をアピールする場ではなく、より安全で確実な取引のための演出に過ぎなくなってしまったら、最大の規模で需要を食いつくす企業がエクセレントな会社であると誤認を受ける。もちろん、限られた経営資源を集中して利益を上げることは、いささかも誤謬を含まない正当な経営判断だが、どこの会社もそれを狙っている以上、最も競争に特化できた企業だけが勝ち残る。

果たしてそれでいいのか。

市場から利益をひねり出すような会社は、見向きもされないご時世だから、小さな規模で真似のできない一芸を売り物にしても、後進の大資本に脅かされる。そのような会社の社員は、長所であるところの会社の独自性を盛んに主張するだろうが、大資本が模倣できないほどの技術は市場も狭く、汎用性がないというのが通論である。その上に、市場のパイをいかに確保するかを考える大企業の社員がどっと繰り出したらどうなるか。

市場は生き馬の目を抜く過酷な営業合戦で、たちまちのうちに加熱するだろう。市場の規模が大きいほどパイの奪い合いも激しく、模倣できる割合も大きくなり、市場はすぐに成熟化へと向かう。大資本だけが戦える規模というものもあり、市場は成熟したが最後、一切の隙間がなくなって、相応の独自性がないことには割り込むことができなくなる。

世界のどの国を見ても、大資本の寡占化はよく見られる現象であり、ニッチ市場が極端に狭くなるのはもはや疑いようがない。会社員はそうした経営環境を踏まえ、自らの営業スタイルで何を売り込んだら取引に繋がるのか、組織の一員として役割を果たすのはもちろん、自分の頭で会社がどの市場に狙いを定めているのか理解する必要がある。

大きな会社なら資本の規模に見合った見返りを求めているはずだし、小さな会社なら独自性が失われないうちに効果的に得点することが求められる。規模かスピードかというのは、もはや産業の特化の仕方の代表だろう。

そうした経営を背中に頂き、何ができるかを考える。会社員なら、資本の規模により収入が決まるなどといじけずに、会社の特性に応じた働き方があると知るべきだ。会社の経営陣が攻めると宣言したときは、何をおいても気力を振り絞って行動すべきであり、それが営業成績にもつながる。自分はただのサラリーマンだから、一切の判断は分が過ぎた領分で、言い成りになって逆らわないことが貢献への道だと思っているような会社員は、これだけ各市場が成熟化してくるとお荷物でしかない。

 働くために、考えることが求められているといえよう。自分の判断と責任で行動できない会社員は、誰の計算において生計を立てるかについて、常に疑心暗鬼になり、およそ謙遜などはできはしない。相馬にそれができるのは、自らの計算で会社の利益を導いているという、組織への忠誠を超えた一体感に近い感覚があるからである。

 会社という実に機能的、目的適合的な組織を肉体とし、自己のオリジナリティーを精神とするなら、恐らくは大らかで若干は強気な気分に安んじることができる。誰もが優秀なサラリーマンであると認める、強い眼差しがそこにあるはずだ。

 そのくせ、謙遜までする。

 本来営利のために存在する組織の一員が、人間味の溢れる一個人として脚光を浴びることができるとして、その着目されるところは利益を追求する際の手際の良さなのか、それとも営利行為からは離れたところで放つ精彩なのか、どちらにせよ一人物としての価値を容認されていると言える。幸福感に満ちた、総てにおいて有為であることを確信できる瞬間が、会社生活を満足に送っていれば、少なからず手に入るのである。

 満ち足りているからいくらでも譲歩ができるというのが、本当のところだ。

 会社は営利事業を行う舞台であり、そこで働く以上は資本の論理に振り回され、自我を押し込めてでも機能的に行動する必要に迫られるかもしれない。大資本の下で勤務すれば、その傾向は一層強くなるだろう。大規模な資本を回転させるには、個人ごとの人間的な魅力などは営業のツールほどには評価されず、大概が人海戦術と化して、より有利な取引条件の提示という形で波状的に繰り返される。

 大会社で働くということは、取りも直さず取引の機会を的確に示す手駒になるということであり、それを不満に思う必要は、各種の待遇を思えばまずないものと考えられる。だが、意思を持たずに、持たされたツールを効果的に演出に使えるというだけで、優越的な地位を手にできると錯覚することは、営業成績を巡っての競争を矮小化するものである。

 繰り返される人海戦術に馴染めず、自らの意思が営業に適応する形で表現できないとすれば、人は会社員であることに誉れを感じず、自らの利益が流出することを、守りに入りたいがために極端に疎むだろう。相馬が謙遜できるのは、実は思考が営業に活用されることに疑問も不満も持っていないからである。

結果が伴わなければ、考えすぎずに足を使えとよくアドバイスされるが、自らの営業成績を肯定的に捉えられない会社員は、力みすぎてさあ買え、やれ買えと、前のめりになって引き算ができなくなるからである。会社の資本を使って、経営陣が何を企図して商品を売り出そうとしているのか、まるで与り知らぬところで経営陣が望むとおりの営業をすることは難しい。どこまで譲歩してもいいのか、どの程度の価値で販売すれば利益が出るのかを知っていれば、空回りしなくても済むのである。

 その点、相馬は会社経営のつぼをよく承知しており、大風呂敷を広げて切々と説くような外連も時々は見せる。会社は何としてでも利益をと言い続けるだろうし、そこで働く会社員は利益はすなわち稼ぎであると鼓吹されて、では自らの生活と誉れのために奮起しようという気にもなる。いくら需要だの景気だのと理由を付けても、会社員は働き続けるしかないのだし、会社は彼らに働く理由を示せれば士気が高まることを、経験として知っているはずなのだ。

 まさに会社は気持ちで働くところだと、疲れた会社員は我が身に鞭を打って働いている。稼ぎは会社の利益次第ということを、皮肉を込めて言うのなら、金儲けに興味がなければ会社には愛されないということだ。儲ければ何もかもが好転するなどと、お目出度い発想を持つことは恥を忍ぶ気にでもならないとできないが、それでも金の巡りには誘惑される。

 会社員であることが、どこかしら哀愁を伴うのは、会社が宿命的に非人間的な営業戦略から自由になりきれないからだろう。相馬も謙遜して余裕がありそうでいながら、時々悲しげな目で前途を儚むことがある。

 会社に飼い馴らされて、自らの意思が減退するように感じるのは、成績不良の会社員にはありがちだが、取り敢えず優秀な業績を残している相馬にも辛みはあるのだ。金さえ満足に稼げれば、いくらでも前途は開けると考えるのは浅はかで、彼にしても謙遜するだけのことはあって、身持ちの定まらない暮らしに恐れはあるのだ。

 会社の経営を理解して、売り込みに充実を感じるのは、一度は経験したい勇壮な気分だが、相馬はそれだけで完結する人生を歩む気はない。仕事は仕事というだけで、名義が先立つほど満足感に置き換わることは稀である。少なくとも相馬にとってはそうだ。

 楽をして稼いでも何一ついいことはない。ある程度まで苦労して、気苦労で胸が塞がるほどになれば、見えなかったものが見えてくる。それが相馬にとっての毎日の張りである。さすがに力を使い果たすほど消耗することは望んでいないが、思考が適度に刺激される環境に身を置くことで、世間並の人間味は維持できるはずだ。

 この微細な疲れがサラリーマンの幸せなのだろうと、相馬は今日も働く。

 

第二章   恐るべき愚者

 

 どうも鵜殿が会社で窮地に陥っているということを、卜部は知った。学閥により恵まれた地位にあるとはいえ、徒党を組む趣味の薄い鵜殿は、不利益を被り易いのである。

 迂闊に学閥などに手を出せば、反駁で立場が怪しくなるといった、地位をめぐる闘争はどこの会社にもある。昔から頭角を現す者は、学業においても優秀なことがほとんどだったが、それに不満を持つ者も後を絶たないのが現実なのだ。

勤続年数がすぐさまに経験の厚みとして評価される、ややもすれば単調な職務を続けても、会社の利益に貢献できるうちはいい。競争の激化により、より機能的に働くことのできる才能が必要とされているときに、才能の格差は昇進の差別化において重視されるようになるのである。単に勤続年数が長いだけでは、もはや会社は満足しないことを、会社員たちは気付き始めている。昇進について解せない区別があることを、彼らは静かな蟠りとして心が圧迫されるように感じているのだ。

 学業において優秀であることが、世故だけで世渡りをしていけると思っている連中にとっては、職業人として有能かどうかを評するのに役に立たないと思えるのである。その結果、しばしば驕り高ぶって、高圧的な態度に出る。世故こそがこの社会で満足に地位を保つための知恵であると勘違いした者が、同じ職場に就いたのを機に仕切り直しで逆転を企てるのである。

 常識で考えれば、研鑚を重ねてアドバンテージを得た学閥の徒に追いつける可能性は低い。それなのに、自らが獲得し得る人間関係が総てだと、人格の欠陥を責めるというやり口で阻害するのである。有能とは言えない人物が、逆転の一手を狙うとしたら、人格を責めるしかないのである。不快感を伴う大げさな道化芝居に対して、鵜殿のような徒党の埒外にある人物は、個人的に反論する以外に確たる方法を持たない。

頭に血を登らせて排撃までしようとし、しかもそれが会社業績につながる見込みもないのであるから、鵜殿にとっては煩わしさ以外の何物でもない。もう少し利口に学閥を利用すればいいのだが、庇護を求めるにはくだらな過ぎて、いわゆるヤング・エグゼクティブの彼には告げ口をする気にもなれないのだ。

そんな僻み根性の権化となった上司が、鵜殿を苦しめている。あと数年もすれば頭越しに昇進していくとはいえ、現時点では融通を利かせるどころか接点を持つだけでも上司からの反発が大きく、その頑迷さには辟易させられている。デスク・ワークをする時以外は、社内に留まることに嫌悪を感じている鵜殿としては、組織の一員として働くことを必要とする場面があっても、可能な限り個人の力量で乗り切ることを必要としているのだった。

確実に能率は落ちていて、ぶらぶらしている時間の多くなった鵜殿に、卜部は何度か接触する機会があった。昼食をともにしながら、投資の戦略などについて話している時も、彼の表情は終始冴えることがなく、明らかに職業上の問題を抱えているふうだった。

気の毒に思った卜部は、プライベートなことには干渉しないという方針を枉げて、鵜殿の気がかりに言及した。

「もしかしたら、仕事がうまくいっていないんでしょうか」

「そうでもないよ。賓客の応接なんかは相変わらず私の仕事だ。完璧を求められたら、休む暇なんてないとはいえ、仕事には満足している」

 鵜殿は寂しげに微笑し、仕事上の悩みを打ち明けることはなかった。

「原点を失うと、投資判断に狂いが生じます。しばらく投資は御休みしたらどうです」

「それもいいかもしれないね。投資において難しい判断を迫られているという気はしないけれど、何となくすっきりしないのも本当だ。会社勤めは自分一人が正しくても上手くいかないらしいね」

「お気に召さないことでもあるんでしょうね。私が口出しできる領分ではありませんから、気長に対処してください。株価のほうはこれ以上悪化する材料がありませんから、時間をかけて値を戻すでしょう。仕込みだけをして、後は待つという方針でいいと思います」

「株式相場は狙い通りにはいかないだろうしね。何事も気長にか。会社員は辛いね」

「そう仰らずに、足元を固める時期だと考えることをお勧めします」

 少し顔色の悪い、こちらも心の晴れないような表情で、卜部は精一杯の慰めをした。その気持ちの柔らかさに触れ、鵜殿は閃光でも見たように一瞬表情を緩めた。女として魅力を感じたということではなく、日常を憂いでいるのが感得できたのである。互いの感情は一度っきり、すんなりと心に染みるように通じた後、地味だが綺麗な色を顕示しているようだった。

それは鵜殿の心情であり、卜部の心情である。

 ビジネスマンとして活躍はしているが、どこか晴れない気持ちを抱えている二人は、投資の話をすれば互いの勘所が現れ、心情が手に取るように分かることがある。気分の基調が低迷していても、鮮やかに急所を突くような思考の冴えがあるとすれば、人物としての評価までもが落ち込むことはない。有能であることを証明できないまでも、接近すると引き締まった表情に引き込まれるように感じてもらえれば、弛緩して覇気を失いつつあるなどと見下されることはないのである。

 明かに順運に恵まれた人物だと、鵜殿は評価されてきた。それだけに組織の機能上の障害に悩まされるのは、不本意でもある。それでも気持ちだけは途絶えさせてはならないのだと、前向きになることを自らに強いている。どこか痛々しく、健康を損ねているような顔つきの卜部と呼吸が揃うのは、不幸が引き寄せ合うせいかもしれない。

 ストーリーとして、身の不幸が他人のものと混濁一体となって、より大きな運命を示すものなら、その物語性を自己弁護に費やさんとするだろう。つまり、大きな流れの中で生きようとする者は、不幸を自らの一身に留まるとは考えず、他者との関係の中で自分を再定義しなければ潰れてしまうのだ。個人単独では決して不幸になることはできないのである。

 ここで顧みるに、鵜殿の不幸は、頭抜けて高い評価を得ている割に、それを他者との関係の中で再定義しきれていないことにある。鵜殿の地位は、確実な意味で把握しようとすれば、彼を蔑ろにしては成立しないものである。その逆もまた真だ。蔑ろにされていると感じた他者には、彼の地位がしっかりと定まらない煩わしいものに映るかもしれないのだ。高慢ちきで鼻っ柱ばかり高いというのは鵜殿の実際に即していない表現だが、少なくともストーリーを物語ろうとすれば、その陳腐さにもかかわらず必ずと言っていいほど二三の者を虜にするアイデアである。

 他者からは、鵜殿に不幸が及んだほうが納得のいくストーリーになるのである。これが卜部からは、なんとも珍奇で言いがかり以上のものではなく、そこに共感が生じる余地もあるのである。自らにより確実な印象を持たせることに成功しなければ、大多数の中で安定的に世渡りをしていくことはできないだろう。意識しないまでも、その手間を卜部も鵜殿も惜しんでいないのであるが、華々しくストーリーの構築に成功しているとまではいえず、それが緊張感として身に染みつき、気力が萎えたような物悲しさを漂わせているのである。

 仕事で表す才覚以上に、どのような筋で理解できる人物かは重要だ。関わり一つとっても、少しでも優位にあるものに関連付けたがるのは、凡百の性根としては不可避とさえいえる。人は自らを社会的な存在にするために、筋書きを必要とするのだ。

 他者との関連、自らの営為の累積、そのすべてが自らを定義するためのストーリーになり、継続的に多数の関わりを維持していく指針になる。人々は常にそうして筋書きに準えて自己を位置付け、より安定的に推移していく方向に、好んで自分の目線を向ける。ほとんどの人は自分の幸福の尺度で物事を見ていることになる。

 陳腐な尺度では比較で沈み、競走で敗退し、自分の価値観は際限なく傷んでいくので、実勢が怪しい者ほど奇抜さを好む。少しでも変なことをしなければ、一切の幸福が手に入らないと思い詰めるものなのだ。足るを知ることをしない者は、犯罪や悪行に手を染めてでも、陳腐な価値観に準じようとする。愚者は生活のすべてを懸けて、活力のすべてを自己救済に向けることのできる、凄まじいまでの思い込みを持っているのである。

 躁の気に励まされて、自分の正当性を確信するのが愚者である。体中に猛烈な力が湧きおこることなど、知的に薄弱な人間には自己救済以外ではあり得ない事態であり、惰弱な自己を愛することで劇的に世界は回転すると考えるのである。

 これは、鵜殿や卜部のように憂いの色を目元に浮かべている人種からすれば、迷惑以外の何ものでもなく、そうした知的に劣勢にある人間に近寄らないように処世することは、怒りを蓄えて内面を疲弊させないためには重要である。互いに珍妙な価値観を押し付けられないという安心感がないと、彼らのように重要な仕事を任されているビジネスマンは、精神の健康さを保てないのである。

 不幸にも鵜殿の上司は愚にもつかない人間だったわけだが、その愚かさに冒されないまま仕事をすることが可能であるという点で、まだ救いがある。これが全面的に上司の指揮と計算のもとで職務を進行することになったら、鵜殿は間違いなく異動願いを提出していただろう。

 侮られること自体が恥辱であり、鵜殿にはそれが致命的に会社の利益を損ねているという確証がなければ、少しくらい不利益を与えられても騒ぐのは控えたい気持ちがある。その控え目で大人しげな自尊心が、卜部には大人の男の色気のように見え、可能な限り尊重しなければいずれは巡り巡って自分の世界観が醜く貶められるという予感もあって、慣れない慰めをする羽目になったのだ。

 格好のいいものではない。部外者である卜部が組織の瑕疵を責めても改善される見込みはなく、その痛みだけを思い起こさせるのは上手いやり方ではない。もっと直接的に、力量のある人間に委ねることもできるはずだが、それをすれば鵜殿のプライドは傷つく。

 何をしなくとも、能力の価値さえ認められていれば、どこにいても尊重されるはずだというのは、少しでも高い評価を得た者なら誰しもが考えるところだ。卜部も例外ではなく、気弱なように見えても利用してやろうという悪辣な人間が近寄ってこないのは、評価の網の目に収まっていることに違和感がないからだ。彼女は鵜殿にしても同じだろうことは察しているし、実際にそうである。

 有能な人間を一番活用できる職場は、有能であることをほぼ全員が信じている職場である。大企業などは構成員のほとんどが選り抜きだから、鵜殿には安定した活躍が約束されていたわけだが、稀に世故などに毒されて知性が衰えている人間がいることは、組織の運営上、多様な人間を活用するためには黙認せねばならない部分もある。

 我慢だろうか。鵜殿の忍耐が続くうちは、上司の愚かさを弾劾するには値しないという判断に、どうしても傾いていく。それが多様な人間を擁する企業の論理だからだ。完璧な人間だけで組織する組織というのは、想像力に乏しくて横風に煽られるような不安定さがある。意地汚い真似をしてでも利益をと考えるのが不出来な人物だが、そうした人物を排除すると免疫が不足してしまうのである。

 結局は、雑多な人員を盛んに触発させ合いながら、より大きな目的に統合するという手法を採らざるを得ない。目的を設定し、そこに耳目を集中させ、参加意識を高揚させることで、なんとか空中分解を免れて組織を機能させられる。いわば磁力で部品のみならず鉄クズまでも吸い寄せて一体感を持たせるのである。

 物分かりのいい鵜殿は、同じ磁力に吸い寄せられる鉄クズを蔑視しても、競争するだけの価値がないのを承知しており、捌けた態度を採っている。それがどう結実し、彼の身の上に影響を及ぼすかは、まだ混沌としたままである。

 

 理財をするほどには資産もなく、かといって放置するには所得は多すぎる。渥美は過分な所得を活用するために、小口からの投資が可能な株式で運用しているが、そのことを他人に誇らしげにすることはない。

依然として投資は庶民の憧れだが、肉体を献じて額に汗して働く美徳に比べると、値動きを捉えて利鞘を稼ぐ行為はあまり感心されない風潮があるからだ。大いに儲けていますよなどと吹聴すれば、心ない人物に揶揄されて、まったく面識のない人にまでゴシップとして好奇心を持たれることになる。コントロールできないところまで事実が独り歩きするくらいなら、上手に隠蔽することも必要であろうと、渥美は考えている。

だが、秘匿しきるのも嫌らしいので、性格や傾向として投資に興味があることまでは隠す気はない。飽くまで自分の稼ぎに見合った、世間話で話せる程度の関心の持ち方なら、投資は決して見苦しい金銭欲の権化というわけではないのだし、許されないというほどではない。親しい間柄で、世情の一環として経済を語ることなどは、もはや自然体といえるほど巷間に浸透している。

自分は経済に関してこれだけの造詣を持ち、政治的な意見としてはこのようなものを採用しますといった、意見表明の場として投資話は格好の材料になり易いのである。そのため、渥美はごく親しい相馬に対しては、株式投資をしていることを明かしているし、時々は投資のスタンスまで披露することもある。

「ここ数年は見切りやすい相場だったんですけれど、浮揚した景気が沈めば相場なんて総崩れですからね。弱気もいいところで、過剰な生産能力が整理されても、消費が拡大する当てがなければ買い材料にはならない。こんな時は辛抱するしかないって、みんな言っています」

 退屈な話題ではないので、相馬は愛想よく応対した。

「エコノミストは辛抱なんて言葉を知っているんですか。メディアには必ずと言っていいほど総需要の維持を唱えているじゃありませんか」

「いや、だってそれが仕事ですもの。個人的には外食を減らしたりして、ささやかな防衛行動を採る人も多いですよ。私は株式で潤ってはいるが、それだけに相場観は弱気なんです。底が見えてきた相場で儲けるのなんて、不可能じゃないですかね」

「私は株式なんて怖くてできません。イメージ的には、底が見えると反転も早そうですが、全員が同じ判断をしたら株式市場での売買は成立しませんもんね。やっぱり人とは反対のことをする人がいるっていうだけで、引いてしまうな」

「リスクを引き受けた分だけ儲かるというのが、感覚的に分かるだけでも効用です。リスクを怖がってばかりでは、経済は飲み込めないでしょうから」

「経済は鮮やかに語れそうに見えて、実は人間のエゴの塊です。筆舌に尽くしがたくても当然ですよ」

 相馬に言わせれば経済は怪物であるという。人の手に負えない造形物であり、より巨大な財政の水準でコントロールしないと、希望通りの形にはならない。数字で観測される経済活動が、理想的な数値を弾いていればよしとし、さもなければ可能な限り人為を加えて造形しなおす。何やら旧世紀に人間が文明活動を飛躍させ、自然を支配してきたのと同じ発想のようである。

 そこにはあるがままを受け入れ、人為によって無駄に活動の範囲を広げないという、通念らしきものは成立しない。巨大な造形物は、より巨大な力でねじ伏せるという、二十世紀の発想が今でも罷り通ってしまっているのだ。怪物という形容は、それがために現実感を伴い、畏怖心を抱いた人間がそれを克服するために果敢に行動するという、壮観さを以て理解される。

 人の活動の総体である経済が、法則に基づいて脈々と営まれ、結果として数値でひと括りにされる現象として把握される。それだけなら科学的な見識による妥当な判断も仰げる。しかし、貧困は悪だというイデオロギーが混入した途端に、科学からはかけ離れ、数値を解釈するのに迷信が幅を利かせ始める。

 真に財政の水準で経済がコントロール可能なら、なぜ科学に依るのではなく、迷信を説得的材料として扱うのか。それは経済が人間の活動であるところに端を発しており、盛大な出費をするのも人間なら、出費を抑制するのも人間だからだ。およそ一傾向で括れないばかりか、同じ環境においてまるで正反対の価値判断がありうるところに、悩ましさがある。

 要するに、一番大きな枠組みを用意しないと、コントロールする名目が立たないのである。ある者は購買の意欲があり、ある者にはそれがないといった現象を、未だに科学で解説できておらず、迷信によってしか理解していないのに、最大の枠組みにおいては支配を及ぼそうとしているのである。

さながら、森には魔女が住みつくから開墾しなければならない、といった非現実的な意見も、森を開墾することに一分でも利があれば受け入れられてしまいがちなのだ。人は利を見て判断し、現象を見ているのではないのである。だから、いくら現象を描写しても、人は何をすべきかについて判断を熟成させる手段を持たず、どこに利があるかで行動してしまう。

科学ではなく、迷信で行動するのが人間の限界である。科学的思考で蒙を啓くということは昔から繰り返し行われてきたが、未だに原始的な学問である経済学には、科学の力で迷信を打開するという意欲は生じていない。半ば盲信的に、財政を投入すれば波及するという一事実を以て、人が採る経済行動のすべてを消費という一方向に決定づけようとする。これが迷信でなくてなんだというのか。

財政支出が科学に基づいていないのであるから、その波及効果も科学では証明できず、期待値のようなものを用意しないと科学の体裁を取らない。だが、科学ではないことを暴かれたくない一心で、国民を欺いているのである。国家政府というものが、迷信に基づいて巨額の財政を支出することなど、あってはならないというのが建前であるが、現実には相反する経済行動という科学では証明できない命題を含んでいるがために、経済は迷信を払拭するだけの、結果的正義によって救われるべきだと語られるのだ。

 財政投資は科学ではないというのが、相馬の考え方である。科学ではないが為に効果も均一ではなく、規模を拡大すれば傾向は馴化するという甘い期待も、先行き不安などという非科学的なファクターにより一蹴される。人間行動は制度により究極的には均一化するという信念がなければ、経済を巡る環境を設計しようなどと目論むことが、いかに現実離れしているかに恐怖心さえ感じるはずだ。

 すべての人が同じ服を着て、同じ食べ物を食べ、同じ家に住む。こうした現実を描写すれば、経済を設計することの恐ろしさは分かるはずだ。稀有の経済不況だからと、迷信をもとに行動を起こすことが、科学で未来を切り開くべき人間に相応しいことなのか、相馬は気持ちが暗くなっていくのである。

 これに対して、渥美は楽観的だ。財政赤字などは、インフレで一瞬にして帳消しできることを知っているからだ。その際、年金制度は破綻し、地価は暴騰して住居を追われる者が続出し、嗜好品などは高くて購入できなくなるが、既に生活の基礎を固めている渥美には怖くもなんともない。

 財政赤字がなんぼのものだという気概が、エコノミストたちを強気の財政支出論者にしていることは疑いようもない。彼らはインフレを恐れていないのだ。むしろデフレを極端に恐れる。生活の基盤も、企業の生き残り戦略も、資産を基礎に設計しているからである。

 資産さえあれば、いくら経済が破綻してインフレが起きても、資産の膨張でいくらでも再起が図れるという計算がある。この信念をもとに経済社会はリスクを回避し得るのだと説明され、所得の分配もある程度までは成功してきたので、いつからか所得政策と混同されて財政投資の一層の必要性が叫ばれるようになった。

 インフレ待望論というものがある。インフレが起きれば、資産構築に傾倒していた経済行動が正当化されるという期待のことである。アナリストは主に資産の膨張により食っている職種といえるから、インフレは職業上のポリシーといってもいい。所得さえ過不足なく分配されれば、一つ覚えのようにインフレを伴う財政支出をと唱えているだけで、職業上の義務を果たせるのであり、会社への忠誠も評価されるのである。

 この企業のモラルからすれば、インフレが起きれば金融会社の体力が強化され、貸出枠も拡大して、市場にいくらでも資金が投入されることになる。言わずと知れた、バブル経済である。

 財政投資の負の側面である、赤字拡大によるインフレ率の悪化を織り込めば、資産は騰貴するのである。誰もが経済活動に基づいて利益を上げることを止め、資産の高騰だけで利潤を弾こうとすれば、財産のすべてを資産化して、後は寝ているだけで利鞘を稼げる格好になる。大半の事業主にインフレに期待があるから、値下がりはしないだろうというリスクへの甘い計算が許容されてしまう。

 しかし、実体経済から乖離した値段で取引される土地や建物が、適正な水準に値を戻すのは当然であり、資産構築に意欲満面の事業者や個人を尻目に、どんどん担保価値は下がる。やがて金融会社が資金を引き揚げれば、もはや資金の調達をする方法は直接金融しかなく、それだけの投資をする価値のある実体経済と符合する不動産だけが残される。

 そのほかの不動産は軒並み暴落して、資産価格の下落で首が回らなくなる事業者が続出するという寸法である。経済活動ではなく、資産の値上がりで息を繋ごうとする愚かしさは、数度の経済危機で誰もが承知しているはずなのに、インフレ待望論に手ぬるい批判しか加えなければ、もはや所得が均等に配分される時代ではないのである。

 財政支出で資産価格を下支えしましょう、そうすれば値上がり分は全員に所得として配分できます、といった甘言は通用しなくなったと考えるべきである。いつまでも旧弊に従っていては、経済を科学で語るべき未来に足を踏み入れられず、資産を持つ者だけが救われる強者必勝の理で、弱者は社会の底辺を彷徨わなければならない。

 働いた分だけ稼げるという、労働の美徳は失われてしまいそうな気配である。それというのも、企業が資産の下振れリスクを担おうとしないからである。経済情勢を読んで、資産を適正な規模に保つには情報が必要になる。それだけの安上がりな支出を疎んで、事業全体を頓挫させるなどは経営者なら最も忌むべき選択なのに、財政支出さえあれば資産は際限なく高騰するという、機械的に計算できる論理のほうを重んじているのである。

 リスクを担って経済行動を起こすのは、企業の常道のはずだが、資産の騰貴で捨ててもいい手元資金をつくろうなどと、経済の全く見えていない経営者を社会全体で持ち上げていては、足腰が弱るのもいた仕方がない。資産偏重の姿勢を変えられるのは政治のはずだが、その政治が即効性のある経済対策として、財政支出を切り札にし続ける限り、改善の見込みはない。

 急場凌ぎには財政出動は有効だが、所詮はアナリストの唱えるインフレ待望論と背中合わせである。臨時に雇用を創出し、経済の規模を維持することはできても、継続的に経済活動を推進するには十分ではない。いくら臨時で雇われても、盛大に使おうという気にはならないというのが庶民感情だ。経済の規模を維持できても、消費が冷め行くのまでは止められない。資産の膨張で投資に回る金が捻出できるというのも一理あるが、健康な経済活動としては、資産偏重は弊害が大きすぎる。少しでも資金がだぶつけばバブルの再来だと分かっているのに、インフレを待望して資産作りに精を出すというのでは、経済活動に活路を見出すような、懸命な需要創出は期待しにくい。

 政治が主導で、政治が恩を売り続け、政治に加担すれば経済活動も軌道に乗るといった、財政を切り札にした温情政治に寄りかかっていて国際競争に勝てるだろうか。一部の事業主は政治に悪い顔こそしないが、資産万能の考え方には見切りをつけており、さすがに会社経営に痛手を与えたバブル経済には懲りて、少しでも余剰資金があれば資産化する頭の古い経営からは決別している。

 だが、それも少数である。大半は財政出動とインフレの規則性に満足しており、計算できるリスクとして経済活動の基礎とするのにためらいはない。渥美などはその規則性に惚れ込んでおり、科学に満たない経済学を、より科学に近づけるには規則性から普遍的なものを抽出するしかないと考えている。科学的で誰ひとり疑わない真実を語れる日が来るのを、彼は願っているのだ。

 アナリストは軽々しくインフレを起こせとは言わないが、デフレに比べればインフレなどとるに足らない情勢変化であることを、雇い主である企業の論理として理解している。インフレが過剰に起きれば、社会制度はぼろぼろになるが、企業は生き残れるのである。その前提の下で政治がおこなわれているとしたら、国民は相当に愚弄されている。財政出動を票田にするのはさすがに憚られるようになったとはいえ、まだ政治は夢の中にいる。

 それが悪夢になることを相馬は危惧しているが、渥美は経済の疲弊よりも規則性の破綻のほうが恐ろしく、是非とも財政出動をという論旨に迷いはない。彼らの意見の隔たりは、企業文化の違いとしても間違いではないが、生き方として資産作りに励むのが徳義としてどうなのかという辺りで、袂を分かっている印象もある。

 困難な時代である。すべての人に尊厳をという呼び声が、経済を巡って力強く叫ばれるようになっているのである。

 

 財政出動について、三鷹は膨大な時間を費やして従事し、考えもしてきた。政治の主導で、公共部門の投資を行うことは、今では常套手段で、不況の脱出には不可欠であるとすら言われる。

借金まみれになって破綻する自治体が出てきたように、比較上位の体力がある国家ですら危機を感じざるを得ない状況で、いつまで財政投資に頼った運営ができるかは不透明である。一般には内需が拡大すれば税収も増えて、財政投資は常に有効であると説明される。

しかし、本当に財政投資は需要の創出に貢献しているのか、三鷹は疑問に思い始めている。財政を投下して回収できる条件は、デフレで経済規模が縮小しないことと、貯蓄には回らずに消費に向けて資金が循環することである。これが、インフレ期待の基軸になり、貯蓄性向の過小評価にもなる。需要を創出しさえすれば、自動的に所得が増えて消費が活気づくなどと、非科学的な判断をしていてはいけないのだが、政治は通論に従うのが常道であり、財政投資は内需の拡大に有効であるというのが彼ら政治家の見識である。

それがどうも、怪しくなってきている。所得は平等な処遇を考えれば下降圧力が強いし、一部の社業に貢献している社員を厚遇しなければ、会社は成熟した市場で突出した利益を上げることは叶わない。コンピューターの活用により、多数人が電卓を片手に数値をまとめていたのが、ごく少数の人間で会社意思の統合までもできるようになっているのだ。伝統的な事務作業は会社に不要になり、彼らの処遇を切り下げてでも、統合的な意思決定のできる社員に手厚く所得を配分しなければならない。

 処遇の変化に対応する形で、配置も工夫されるといいのだが、十年はかかる再教育に乗り出す事業者はまずいないだろう。所得に格差が生じるのは、もはや避けられない情勢である。

こうなると、いくら総需要を喚起しても、川下の所得にまで波及するのに、今まで以上の時間がかかることになる。ローンや教育費に追い回されてかつかつの暮らしを送っているサラリーマンが、所得が満足に転がり込んでこないと判断したら、消費に支出する割合は当然削ろうとするだろう。財政は徴税すればいくらでも手当てできるとはいえ、収入の拡大を見込めないサラリーマンの財布の紐が固くなっているのに、従来型のインフレ誘導方式でばらまいていても、消費は上向きはしないどころか、徐々に財政が逼迫して国民は増税に備えようとするはずだ。

時間との戦いといっていい。財政支出する余力がなくなるか、所得として行き渡った資金が消費に向かうか、どちらが先になるかで明暗が分かれる。

危機的財政を抱えていても、需要の急激な落ち込みには緩衝材が必要であり、その分には財政投資は有効であるから、たとえ政治的な思惑が絡んでいても総意を形成することは難しくない。だが、無計画に所得に波及しない手段で公共投資をしても、持続的な経済成長には繋がっていかないことも事実である。政治家は選択と集中により産業を興すくらいの経済感覚は見せなければならないし、そうすることで雇用も生まれ、所得として配分された資金によって消費は持ちこたえられる。どの時点で財政を投下する判断をするのか、また財政の逼迫をどう克服するのか、よほど計画性がないと時間の経過に見合った効果は生じないだろう。

無駄に時間だけが過ぎれば、所得の下降圧力により、離職しなければならないサラリーマンが出てくるはずである。財政に柔軟性を保ったまま、雇用の危機も乗り切らなければならないとなると、特定の産業を優遇するなどして、意図的に民間投資を促さないことには、誰も彼もが待ちのスタンスで支出を渋るという構図から抜け出せない。

どのような社会を建設するかを、福祉や国際競争力、さらには文化までも考慮して、国民的議論の下で政治家が決定を下すべき時が来ている。それをしないことには、需要を創出するという名目により、所得にもならない財政支出を増やすばかりである。財政を投下して波及すればいいのだが、需要が伸び悩んでいる時期は借財を減らすなどの守りの経営が普通であり、容易には所得の増加に繋がらないのである。

こういう時期に公務員などをしていると、出しゃばりすぎれば叩かれ、何もしなければ無策を責められる。損な役回りだと三鷹も苦笑いをする手合いだが、彼のいいところは感情が素直に発生し、そこから純朴なまでの共感を得られることだ。飾らない男だというのは井伏の評だが、なるほど三鷹は大勢の人間と並び立つことに不満を感じない、出来た男である。

彼を政治家にしたがる者も少なからずいるが、それも共感という才能に近い感性を発揮することができるからである。資本主義が曲がり角に差し掛かっている時勢にあっては、暴力的に金を掻き集める不正義も横行し易く、誰もが納得する競争条件を政治の場で決定しなければ、禁じ手以外は何でもありの破綻への道のりを突き進むことになる。是が非でも政治が存在感を示し、市場にはモラルが必要なことを通念にしなければならないのだ。

市場の調整機能は絶対ではないが、時間の枠組みさえ外せば最終的には調整を完遂するものである。その間に失業する者がいたり、会社が破産したりしても、調整だから仕方がないとは現代の政治家は絶対に言えない。要するに待ち切れないから、政治決断で調整を一気呵成に進めようというのが、政治の主流である。今日において、市場のモラルは政治によって維持されるのだ。

本来契約の内容は自由に設定できるというのが、現代の私的自治であり、どのように市場が調整されてもいいはずなのだが、その過程が人道に反するというのでは介入が必要になる。市場の機能を補完的に政府が管理するのでなければ、短期的な利益を最優先して長期的には経営と呼べないような競争をする企業が続出し、社会は混乱をきたす。市場万能主義は修正され、大きな政府によって管理されることで、雇用は安定して会社も無謀な経営に走らなくても済むという副次効果を生む。

大きな政府において公務員が果たす役割は大きい。情報を集約し、最善と思われる施策を献策し、政治決断の後は実施のために組織を機能させなければならない。管理可能な形態に市場を画一化するのであり、過当な競争によって企業が破綻することを避けるためとはいえ、市場にモラルさえあれば必要のない介入である。モラルを度外視するような競争を強いられる、成熟した経済がそうさせるのである。

放っておけば過当競争になるという、その競争条件の設定自体がうまく機能していないということである。競争条件の設定は、選挙で選ばれた政治家が決めることであり、サラリーマンである公務員が決定できることではない。従って、競争をいかに不都合無く誰もが納得できる形で行うかは、政治家が責めを負うべきであり、公務員は政治家のために情報を一元化するだけということになる。

人望がある人間が、競争は斯くあるべきだと提言することがモラルの具体的内容なら、市場はある程度まで自律的にモラルを実現できるだろう。しかし、モラルとは多数人の兼ね合いの中で生まれる譲歩であり、抑制であることがほとんどである。営利を目的とする企業が、他社に譲歩したり、利益の幅を抑制したりできるはずがなく、市場にはモラルは存在しないと考えられる。だから市場の自主性と競争力を維持しつつ、可能な政治介入をしなければ、利益の最大化のために立場の弱いものが先ず犠牲になり、続いては企業も短期的な営利追求のために経営判断を誤るのである。市場にはモラルがないから、最もモラルを担うのにふさわしい政治が、権威を以て市場に君臨するのが、大資本が瞬時に投資される環境では不可欠になる。

その際問題になるのが、利権政治である。政治には金がかかるから、利益誘導が可能な介入の実権を得ると、必ずと言っていいほど旨味を吸おうとする者が現れる。だからこそ市場の自律に任せ、政府部門を縮小し、規律を敷くことでモラルを維持しようというのが一時期の趨勢になった。過剰な政府の監督は、自由な経営判断の足枷になるとまで言われていた。

それが、政府の関与を少なくした途端に市場の機能を冒すほどに経営がたがを外し、経済を危機的状況にした。利権政治を憂いでもなお、政府部門を肥大化させる管理の手法に恋々とし、財政で法則性の見当たらない経済現象に法則を通わせ、その法則に従ってモラルを醸成しようというのだ。

いわば飴と鞭である。財政投資で企業を手懐け、潤った企業にはモラルの実践を要求する。先立つものがない企業には礼儀作法も身につかないだろうという、温情なのか嘲りなのかよく分からないやり方で、利権政治の弊害を認識してなお、政治の介入を容認する方向にあるのだ。財政投資という経済の規則性に惚れ込む論者が多いために、政治との一蓮托生で構わないではないかと、多くの場面で語られるのである。

果たして、利権を伴わない市場への介入は本当にありうるのか。モラルを維持しなければならないことは分かっているし、政治がそれを担うことにもほぼ異論はないだろう。やはり透明性だろうか。モラルの現場で禁忌の一線を冒さないためには、介入が衆人の監視下にあることを自覚しているのが、もっとも抑制的効果を見込める。

悲しいかな、政治も企業も倫理的であることが期待されるほど影響力がありながら、常に逸脱行動を採るのではないかという懸念が付いて回るのである。名望のある一流企業でさえ、モラルに反する利益追求行動を採るし、政治家などは況やである。市場でのモラルの破綻は、一部の新鋭企業が市場を荒らすからだと虚偽の説明をする者がいるが、必ずと言っていいほど手を汚した一流企業の走狗であり、現実は自由放任をいいことにやりたい放題をした報いを受けているだけである。

どの企業も潔癖な倫理観で食えるとは思っておらず、政治家もその趨勢を追認する方向にある。これがじゃぶじゃぶと金を注ぎ込んで一瞬で破綻させるバブルの根本原因である。こんなことを容認していたら、国民の徴税負担は増すばかりで、インフレという秘策で国の借金を帳消しにしようと考えても、国民の生活が蹂躙されてしまっては元も子もない。信じがたい物価高騰で食う物にも困るか、借金をしこしこ返し続けるか、どちらにせよ将来の子供たちも含めて国民が尻拭いをする羽目になるのだ。

 倫理では利益は出ないが、倫理の欠ける経済では未来はないことを、深刻な経済不況から教訓として学べたのなら、まだ再起する道はある。それをしようとせず、経済は限られたパイの奪い合いだから、最もえげつない欲求を具体化した者からパイにありつけるのだと、競争のイメージを矮小化してしまう、精神的に劣弱な経営者がいるかぎり、経済は見苦しい闘争であるとの彼らの嘲りを受け続けなければならない。

 競争は短所を見せないことではなく、長所を売り込むことである。社交界でのパーティーなら短所を見せないことは振る舞いとして長じているが、経済は人に不快感を与えないための身繕いとは明らかに違う。

 会社の利益を食い物にしないだけの品の良さは必要だが、短所を隠すだけの守りの経営では、会社の規模は縮小する一方である。唯一、財政投資によってパイが広がることを計算として確実視できても、競争は熾烈である。そんな成熟した市場で過当競争をすることを、経営の骨子に据えることは、やがては競争力の低下につながり、会社としての主体性と愛社精神を失わせ、我々は企業である、といった勇ましいブランド・ネームの売り込みは浸透しなくなる。

 長所を売り込む企業がエクセレントなのであって、短所を見せず、市場での倫理を度外視したマネー・ゲームに勝利することが企業の本旨ではないはずだ。市場でのリスクの引き受けは、機動性のある新鋭企業のほうが判断の熟するまでの時間が短く、大企業が資本を投じたころには薄利しか得られないほど価格が平準化していることが多い。価格の調整メカニズムからすれば当然であり、大資本が戦うフィールドとしては金融は参加障壁が低いのである。まともな経営者ならそのことを承知していて、いかなるフィールドでも勝利しなければならないとは考えず、得意分野に特化するくらいの経営判断をしなければならないのだが、大量の役員報酬に目がくらめば、そんな行儀のいい企業らしい企業活動などちゃちでやっていられないだろう。

 空前の金融危機であると言われる。企業活動からモラルが失われ、それを制止すべき政治にも利権誘導の懸念が付いて回る。だれもが営利活動を続けなければ社会的な存在であることも認められない社会だからこそ、資本を転がすマネーでの勝利が輝かしい栄光のように思えるのだろう。だが、現実は企業が企業として果たすべき社会的責務を無視した、経営のエゴでしかない。

 そんな企業は破綻したほうがいいのだが、資本が集中しすぎて買収するだけの国内資本が存在しないという事態が生じている。このまま市場のモラルを回復できずに、旧態然とした、社交紳士による美辞麗句のような経営をされたら、国民は徴税負担により過酷な試練を課されることになる。断じてそのような事態を容認すべきではなく、会社の長所を大規模な資本を使って具体的なサービスとしてイメージできる、才能のある企業経営者を株主たちが選出しないことには、ただ財政投資のみが積極的に算出できる需要の拡大契機だと考える、愚劣なまでの守勢がいつまでも続くことになる。

 持続可能な発展という経済観念が叫ばれてから何年が経過しただろう。企業はエコロジーなどの新機軸に関心を持つようになってはいるが、需要との関連性を疑っており、相変わらず財政投資のみを需要の源泉と捉え、資産の水膨れで資金が潤沢になるのを待って行動を起こすという段取りに、慣れ親しんでいるが故に疑問も持たず、投下した財政投資が借金の相殺に使われるという事態に目を瞑ってきた。企業の経営判断としては愚劣でも、企業の欠点を晒さないことに関しては女性が化粧に注ぐくらいの情熱で弥縫しているという自信が、非難を浴びせる側を躊躇させたのだ。

 マスコミは広告を出してくれる営利企業の、営利の方針にまで踏み込んで批判はしない。利権が疑われる政治が萎縮し、マスコミも及び腰で批判の能力を持たないとしたら、声なき声は踏みにじられて、自分の功績にしか関心を持たない経営者を野放しにしてしまう。彼らが何をしているかといえば、雇用を楯にとって、民間資本を投下できるだけの需要を作れと、一本槍に政治に要求するばかりなのだ。

 財政投資の効果が薄れれば、まだ不足している、量的に内需を拡大しなければ、景気は良くならず、従って税収も増えないのだと国家を牛耳るくらいの虚勢を張るのだ。こんな馬鹿げた要求は退けて、産業の主体としては否定し、市場から退出させるべきなのだが、雇用の維持という人質を取って居直り強盗のようになっているのだ。経済学が科学の体をなしていない今、内需を拡大しろと政治に要求する経営者には、どれだけの経営努力ができるかを問い質さなければならないだろう。財政投資に対して、何割かの民間投資の呼応を約束させるなど、民間活力を吸い上げて乗数効果を生みださないと、空前の不況といわれる水準での調整は時間がたつほどに痛みを強いるだろう。

 雇用においてもミス・マッチをなくし、規模だけで経営の体をなしていないような企業からは、沈没する船から鼠が逃げるように離職者が出るくらいの、経営に対する評価に従って雇用の移動を円滑ならしめるような、情報の提供をする場を持つべきだ。現状では、離職を恐れる企業の横並び意識によって、求人情報を出す企業を蔑視する風潮があり、公的な職業紹介などに求人を出せば、傾きかかっている企業だなどと揶揄される始末である。雇用の調整さえ進めば、実力のない企業が規模だけで評価されることはなくなり、市場でのモラルも政治が声を張りあげなくても自助努力で何とかなるのだが、如何せん、職業紹介が労働の買いたたきの場になっている。

 これでは寄らば大樹で、大資本が雇用を一手に集める構図は崩れないどころか、政治がそのような大資本を優遇する策を採れば、優れた企業家が欲するだけの人材が、資本の規模が十分でないとの理由により集まらないことになる。技術の優位性などを株式市場で評価されればいいのだが、介護サービスや農林水産業など、直接金融では資本を構成しにくい企業はいつまで経っても人材不足が解消されないことになる。

 調整は何をさておいても雇用環境からというのは、人が欲しい企業にとっては焦眉の急であり、政治が制度の設計において配慮しなければならないのだが、雇用が崩壊するのではとの疑念から大企業優遇策として実施されてしまうのである。環境が変われば働き方も変わるのだから、人材の移動をスムーズにするために補助制度を設けるなど、すべきことは山ほどあるのに、大企業さえ救われれば社会は旧来と変わらない安定した生産活動を続けられるのだと、離職を認めたくない大企業に政治が加担してしまっている。

 不出来な大企業が一社減ったところで、経験を有する社員の手によって、小粒な企業が雨後の筍のように林立すれば、生産能力はすぐに回復するはずであり、悲観的に大企業の雇用を守れなければ国家経済が回転しないのだと思い詰める必要はない。

 新たな枠組みを設定すれば、新たな事業が花咲くのである。しかし、制度の設計をし得るのは、選挙で選ばれた政治家だけであり、公務員は現場にいてアイデアがあっても、提案しろと指示されない限りそのアイデアは日の目を見ることはない。経済のように迷信に彩られたおよそ科学的でない現象を語るために、堅実で不要な発言をしないという評価を失うのは、損得でいえば割に合わないことであり、そうしたリスクを背負って発言し得るのはやはり政治家だけである。

 アナリストも現象を自らに有利な方向に引き寄せるために発言するが、こちらは営利であって、国民のほうを向いての発言ではない。制度の枠組みを変えるのなら、当然政治家からであり、それは選挙で選ぶ国民の使命である。大企業の解体くらいの大仕事を疎むような政治家を選んだのなら、経済は大企業を中心に運営されるものと考えるほかない。器量とアイデアで、どんどん事業を興せる社会を望むのなら、規模のメリットだけで経済が動くことに異を唱え続けるべきだ。爛熟して、もはや大規模な資本を動かすのに、他律的でないことには決断もできないというような経営が、市場のモラルを破綻させたことは記憶に新しい。何を選ぶのかは、国民の手に委ねられている。

 公務員が意外なほど無力であることを、三鷹は重々承知しており、政治に対してお膳立てをするにしても、政治の側との呼吸次第ではお役所のお仕着せであると叱られる。そういう経験を自分と、自分の周辺でたびたび経験すると、どうしても政治に対して懐疑的になる。三鷹は政治嫌いではないが、満額の希望を以て政治風景を眺めるような、酔狂な老人か幼い少年にしかできない真似もできない。適度にバランスを保とうとすると、「皆さん、熱心に論じていらっしゃいますよ」などと責め手をはぐらかすような、どこか温かみのある滑稽味を出すのである。

 悪い人間ではないというのが三鷹の評判である。彼もその評価から踏み出してくるほどには、過激な振る舞いを好まない。なるようになるだろう、なにしろ公務員は失業しないから、といった暢気なムードが、彼のような人間の周辺には培われ易いのかもしれなかった。

 

 威風堂々とでもいうのか、自信を持ったジャーナリストほど煙たいものはない。井伏は同僚に何人かいる、自分は会社を代表する論者だと息巻く御仁たちとは一線を画するつもりでいる。

 何しろ新聞社は世論の形成になくてはならないと言われるだけあって、洗練された論者は世論の動向を左右するだけの立場を容認されているのである。傲岸に振る舞い続ければ凋落は早いが、それでも世界の頂点に君臨しているような倒錯感に、逆上せ上がりそうになるのも無理なからぬことである。

 その絶大な影響力から、第四の権力と呼ばれることもあり、身分自体は営利企業の社員にすぎなくても、新聞社に所属するというだけでその慧眼を愛でられる機会は多い。厚く持て成されているうちに、それが当然のことだと思い込む者もおり、これが井伏にとっては鼻つまみ者の落日を予感させる、気が滅入るような実態である。

 もちろん大半の社員は新聞紙上で発言することの重みを知っていて、いったんペンで報せれば、誤解や過不足があっても撤回することができないのを承知している。この言いっぱなしの怖さは、発言に責任を負うことを厭わない者になら分かるが、だらだらと有利になるまで繰り返し訂正し続けることに慣れていると、まるで思慮足らずの発言にもためらいを持たないことになる。

 伝えることは話すこととは種類が違い、理解の進み具合に応じて表現を簡素化するのを許されない、ややもすれば面倒な逐一の著述を必要とする。少ない機会を捉えて、ここで伝えきらなければ以後は紙面を割いてもらえない、という切迫感を持って仕事をしている新聞記者は読者に愛されるだろうが、漫然と口を開いては自らの増長を正当化するための御託を並べる記者は、適性からいえば社会や経済を語る資格を持たない。

 四六時中仕事に関わって、関わる先から言葉に置き換わっていくのを、不安とためらいの混ざった心中で最も輝いている言葉だけを報道する。ジャーナリストは斯くありたいと思う井伏であるが、それは取材を受ける側にしても同じ理屈であり、べらべらとリップ・サービスをしてくれる取材源からは碌な記事が上がってこないのを知っている。まず、普段は沈毅で語ることに然したる意味も見出そうとしない公務員などが、満を期して口を開いた時などは、一言一句聞き逃さないくらいの気構えでいなければいけない。

 社会や経済などの、辛気臭くなりやすい紙面で重要な仕事がしたければ、誰もが話をしたくなるような聞き上手でいるべきだというのは、経験を積んだ記者なら感じるところだ。井伏も男気で磨きをかけたような気持ちのいい性格をしているが、それというのも職業に適応するためである。適性のある仕事に就いたという点も大きいが、それ以上にいい仕事をしたいという思いの大きさに身の丈を合わせたことは見逃せない。彼は第一の論者になることを目指しているのではなく、我が身がジャーナリズムに捧げられることに喜びを感じたいだけなのだ。

 不器用なまでの挺身が、美徳と認められていた時代の名残を、新聞社は現在も濃厚に宿しているが、井伏はそういう職場で気分を昂ぶらせることもなく、単純に現場と読者をつなぐというそれだけに徹しているのである。この職業意識は彼に無粋な振る舞いを許さないが、息が詰まるほど追い込むこともなく、書くことに情熱を持っている記者からすれば、すかしていて気に入らないということになる。

 直接の罵倒などは、一応は大人の社会であるからないのだが、微笑が複雑な機械仕掛けで不快感を表していることは、新聞社ではよくあることだ。感情的になるのはスマートではないが、感情で装飾した文章を書くことはいくらか認められていて、記者の心の健康を維持する上でも、取材源の本音を引き出す上でも、意味があると考えられている。どのような感情を携えて記事を書くかは全くの自由であり、文面にそれが現れなければ、上司も添削するには及ばないという腹でいるのだ。

 例えば、社会の不正義に怒りを覚え、それを原動力に猛烈な取材活動を展開する。新聞記者が珠玉の文章を書くときというのは、大方が感情的になっている時でもある。いかに感情を持ち、維持し、さらにはそれに振り回されないかが、優秀な記者の条件になる。井伏はこの条件に照らしてみると、感情の量が不足し易い性質であり、気力が持続しないから遊軍で扱うのが妥当だろうということになっている。

 大きくは間違っていない判断であり、井伏は番記者などをさせるには執念が足りず、その割に正義感が活発に働く男である。彼の正義感が空回りしないためには、必要な素材を自分で見つけてきて記事にする、ある程度までのゆとりは欠かせないだろう。

 現況においてもっとも価値があると見込まれるのは、経済に関する取材である。非正規雇用の過剰供給と値崩れの現象を彼は追い、そこに企業のエゴイズムを感じ取って、問題提起せねばなるまいという気になっている。

 一般には、非正規雇用を選択した当人に責任があるのだと言わんばかりの論調が目立つが、現実には人が欲しくてしょうがない企業が、求人を出す場所がなく、また求職する側には企業側が求める学歴や経験がない場合がほとんどである。その結果公的な職業紹介などは形骸化しており、ここに求人を出す企業は異端視されている。

 さらには離職を恐れる企業によって、職業紹介を害悪視する風潮があり、この結果ミス・マッチは途方もなく広がり、人材派遣企業などの労働の過酷な安売り合戦が繰り広げられるのである。非正規雇用で働くことを望んでいないにもかかわらず、人材派遣企業に頼る以外に企業との接点がないのである。

公的な職業紹介は早期に充実することが望まれるが、ここに求人を出して社員を横取りする気でもあるのかと、企業同士の諍いが生まれることを政治は懸念しているのかもしれない。確かに新卒で採用した社員が、社内で育成して戦力になると見込まれた途端に他社に引き抜かれていっては、企業としては長期的な人材戦略を描きにくいが、雇用は企業の論理で考える以上に、働き方の選択という尊厳にかかわる部分を含む、極めて人間性に密着した生の声で考えるべきものなのだ。

 こんな企業ではもう働けないと思っている人に、職業選択の機会も与えずに、ただ会社が投資した分だけは働いてもらわなければ困るなどと企業側の理屈を押しつけても、生産性が上がるはずがない。大企業での待遇を反故にしてでも、新天地で働きたい若者もおり、職業紹介をきちんと機能させることは喫緊の課題のはずである。

 ところが、職業は転々とするものではない、一か所で歯を食いしばって働くことが労働の美徳であると、治安も含めた社会政策の一環としての労働政策を考える政治家によって、職業紹介は悪しき習慣であると蔑まれてしまっているのである。この上からの目線のせいで、非正規雇用に押し流されていった人材が、供給過剰になって値崩れを起こしたのである。

 本来なら、人材派遣会社を中間に挟めば、マージンで雇用コストは割高になるはずなのだが、職に就くためなら背に腹は代えられないという求職者の増加によって、恐ろしく廉価な労賃で非正規雇用に応じる者が続出し、全体の労働の相場が押し下げられているのである。職業紹介をめぐる愚劣な政策によって、最低賃金のぎりぎりまで労賃に圧力をかける企業が、社会的な非難を浴びることもなく、技能がないからという一事で労働を買いたたいているのである。

 諸外国では働きながらの技能の習熟に補助を出したり、正規社員と同等の報酬を義務付けたりしているが、この国では労働に関しては票にならないからと無策である。会社が囲い込んだ人材が外に逃げ出さないことが何よりも重要であって、職業紹介はその柵を取り払う有害な施策であるとの企業側の論理によって、現状の技能を評価することだけに終始する、儲け至上主義が蔓延している。

 働くことは人間として根源的ではないのか。技能がなくとも、学歴がなくとも、働く意欲があれば欲しい企業はいくらでもある。ところが職業紹介には求人は出せないというジレンマがある。今一度、働くのは、知識技能において優越する経営側の物差しで測るところの労働者ではなく、血の通った尊厳を持つ一人の人間であることを再確認せねばならないだろう。政治はその血を、薄汚れているからと差別し、汚泥の中を這いまわって暮らせと突き放すつもりなのか、本音で語るまで取材せねばならないだろう。

 企業側の論理で、企業に人材を囲い込むだけでよければ、収容所で強制労働に駆り出すのとどこが違うのだ。井伏は静かに怒りを蓄え、この労働問題は政治のアキレス腱になると見ている。企業にすり寄るのか、働く一人一人の人間、すなわち有権者の側に立つのか、政治家は表明せねばならないはずだ。

 メディアには強者の理を挫くだけの力がある。身分はただの営利企業の社員でも、伝えることに関しては信頼と実績があり、民主主義の過程を充実させるのになくてはならない企業群だと考えられているとおり、その社員も尊敬まではされなくても、不利益を与えられないだけの発言力はあるのである。

 広告を出してくれる企業と争ってまで、人材を集中させるシステムを非難するのは、新聞社の社員には困難なことである。一流企業は人材の育成に大枚を使えるうえに、システム上、その流出を阻める環境にあることを望むのである。連合すれば、ぎりぎりの賃金で我慢させる社会制度を政治に要求することも不可能ではなく、現実に職業紹介は内実を伴わないものに貶められている。国家を挙げて、人材の移動を阻むという仕組みを作り上げてしまったのだ。

 その通念も変化の兆しを見せており、特許は発明人の所属する会社に帰属するという状況を、個人の才覚や努力の過程の評価で、手厚く報いさせようという動きが加速している。会社が与えた使命を忠実に果たすという技能職の在り方から、環境を選択して、個人の計算と注力により成果を出すという働き方に変わり始めているのだ。

 労働が社会生活の基礎であり、人格を維持するのに重要であることをもって、会社が個人に活躍の機会を与えるという発想から、多数のオファーから自分に合った環境を選ぶという、個人の尊厳の確立がはかられるようになったと言っていい。

 満足のいく環境を得られるまで、スキル・アップを繰り返してキャリアを積むのは、先進国の労働者なら誰でもしていることだ。欲しい環境が他社にあれば、飛び出していって自分を売り込むくらいの積極性はあっていいし、職業紹介はその選択肢を充実させるために、企業間の人材交流やヘッド・ハンティング、若しくは典型的な転職のために情報提供していかなければならない。離職の阻止という企業論理で、労働者が劣悪な労働環境に甘んじなければならないのでは、福祉として自社の社員を厚遇するという流れに逆行するし、職業選択はまさに自由でなければならないのである。企業が優秀な社員のご機嫌伺いをし、それを模範として社員の能力を向上させるといった、どこか間抜けな経営が頓挫するのは当然であり、企業間で社員の奪い合いをし、最良の環境を用意できた会社が勝利するという仕組みが望まれている。

 そうでもしないと、会社の命令に背かないことを信条とする、非道徳的な暴走までも容認する社員ばかりになり、公害や消費者欺罔、近時では乱脈投資など、会社のモラルを決定的に破綻させるのだ。個人としての責任で口を利けなくなったら、社内世論などは目先の利益に集約されると決まっており、どんなに経営者が目配りしても、最後には綻びが生じるのである。

 モラルを維持した市場環境、労働者に優しい労働環境、これらは根底で繋がっており、すべてはオープンにして、自由な意思決定で社員同士が触発し合えるのが最良である。

その理想的な労働環境のはるかに手前で、不況風に煽られているのが現状である。少しでも安い労働力をと、企業がショッピングでもするように労働を買い叩いているのであるから、労働環境が劣悪になるのは必然といえる。技能がある者もない者も、可能な限り安く社内に取り込むことで企業の躍進が可能になるといった、人間の尊厳など考えない、ただの数字か単位としか考えない労働政策がどこまで続けられるか見物である。働くことで家族を支え、自らも社会への貢献度を確信できるという、清々しいまでの労働の気持ち良さが失われるとしたら、この社会は暗澹としてくるだろう。

少なくとも、職業紹介が機能するように、横並びを排さないことには求人すら集まらない。そうなれば至る所で労働の大安売りが始まり、競争するくらいなら横並びに加わって、社員が流出するのを防ごうという気にもなるというものだろう。徹底的に競争させなければいけない。国際的にボーダレスの経済環境になる中、労働の買い叩きなどで優位に立とうとする会社などは、政治で面倒を見てはいけないのである。

自由な労働市場が最終的には賃金の格差により収斂すると考えるのは早計で、職業紹介が機能していない段階で自由化すれば、企業と求職者の接点がないまま、圧倒的な買い手市場と化すことは自明である。いまさら規制すべきではないから、早急に、職業紹介を衣替えしなければならないはずだ。これは井伏の信念であり、社会的な総意に近い見識といえる。

 失業する労働者を救えという論旨では井伏は語らない。人が欲しい会社と、仕事が欲しい労働者を、効果的かつ肌理細やかに結びつける、制度こそを、と言っているのである。労働者の悲惨なその日暮らしをクローズ・アップするのは社会部の記者の仕事だ。遊軍の井伏は、別の視点から切り込み、労働問題を炙り出して見せようと意気込んでいるのである。

 

 会社の外をぶらぶらとし、社屋に戻ればまたぶらぶらする。鵜殿はいよいよ会社勤めに倦んできた観がある。偏執狂の上司にはいびられ、奔放な振る舞いから女の陰を噂され、心の安らぐ場所はすでに会社にはなかった。

 女ぐらいで満足するようなチープな人生だろうかね、と鵜殿はニヒルである。その堂々とした態度が偏執狂には癪に障り、怒鳴りつけるのが会社が信じるべき唯一の正義だと思い込んでいるのか、最近では常人の理解できないストーリーが上司の頭にあるようだった。それに薄々感づき始めた鵜殿は、打撃を加えられる前に辞めるべきだろうという結論に至った。

 商社マンなら転職先はそれこそ星の数ほどもあるし、語学の能力と学歴を合わせれば、欲しがる企業はいくらでもいる。だが、それでいいのかと鵜殿は考えた。

 企業が営業に欠かせないとみる人材を厚く持て成すのは当然だが、その恩恵を受けてきた鵜殿には意外なほど会社への忠誠心は薄かった。会社の麾下にあって、会社の利益になることを考えるのは、会社の温情を一身に受けて働きたい人物には心地よいかもしれないが、自立心の強い鵜殿には人の指揮監督下に入るだけでも、何やら気力が萎えるような感覚があるのだ。決して人の命令を受けたくないということではなく、すべてが自分の足元から派生しているような、リーダーシップを発揮する瞬間の充実感が、人に従うことで満足に得られなくなることを嫌っているのだ。

 鵜殿は学生時代から先頭に立って物事を切り盛りする性分である。ただし政治家タイプではなく、評論家タイプで、論理の鋭さに満足感を感じる手合いであった。そのため、頼りにされることはあっても、大々的に推されることまではなく、小集団の運営において才覚を発揮してきたのだった。

 彼の同級生は、鵜殿といると楽しいし、一緒にいるだけで格好よく決まっている感じがすると評した。総合的に見て、意見の正しさを疑われることは稀で、それが故に、争う必要性はほとんどなかった。綺麗に整ってはいるが、波乱には強い種類の人間ではなかったのだ。

今でもそうであり、実際に会社内で立場がなくなるほど切羽詰まっている。彼には一切の非はないのだが、それでも立場を維持するのに上手くすれば効果があるのではと思われる言葉さえ吐かないのは、彼にとってマイナスだった。そんなことまでして、立場に恋々としていることに、美学でいえば納得がいかないということであり、評論家タイプが破滅するために誂えられたような環境に苛まれていたのだ。

 何をやっても無駄というわけではない。激しく抗議すれば上司も怯んで、簡単に失脚させられる男ではないと諦めるかもしれないし、そこで生じた摩擦に耐えることにストレスを感じるかもしれない。好転する可能性はいくらでもあったのだ。

 ところが、鵜殿は一気呵成に、会社を辞めようというところまで鮮やかに結論付けた。自信があることは否定できないし、客観的にみても自惚れとも取れる自己評価があったと考えることが自然だ。鵜殿は絶景を見て、心を震わせるような調子で、急速度で辞めた後の自分を思い描き、描き切れないうちにその発想の有意義なことを見抜いた。

 愚かだと罵ることは簡単である。彼の上司のように、人間の輪が仕事をする上で最大の財産であると思っている人種からすれば、立場が怪しくなっているのに涼しい顔をしているなど、尋常な感情が働く人間ならあり得ないことだと、気味の悪いものでも見たように吐き捨てることはできる。ただ、それは一面的な見方であり、プリズムのように透過して見せれば、鵜殿の決意が息をのむほど美しいことに気付かされるだろう。

 彼は、辞めると決めた時の、走馬灯のように駆け巡ったイメージの数々と、論理必然的に導かれる今後の形振りを合わせて、同時並行的に行動に反映させていた。すなわち、深甚の満足感に達しようというバネを働かせる部分と、飛んだ後の空を切るであろう感触を、一緒くたに考えていた。

 少しも堪えていないというふうに、鵜殿は辞表を提出した。さらさらと日記でも認めるようなスムーズさで書き上げた便箋を、封筒に包んで辞意を表したものだ。受理されれば、彼は自由の身である。

 上司は嬉しさで泣き喚きたいのを我慢し、実質的に解雇だが、温情で退職金は出すと、最後まで居丈高だった。若干は鼻白んだ鵜殿だったが、これでこの人とも関わることはなかろうと、無表情のまま身の周りの物を整理し、備品などは会社に返還して、同僚の慰めの言葉には冗談でも聞き流すように薄っすらと笑んで、足早に会社を去った。

 有意な人物は会社で処遇するのに、ついつい過保護になりがちなものだが、鵜殿の場合はその保護を突き破って、一気に外の世界に飛び出していった。彼の将来に期待していた役員は何が不満だったのか調査したくらいだから、いかに彼が大切にされていたのかは推して測れる。ただし、幼児を宥めるようには処遇する方途がなく、会社組織という不遇の事故が起きても仕方がない環境において、結果として鵜殿は去ったのである。

 会社に不満を感じたのでもなく、より良い処遇を求めるでもなく、ただ出ていったという印象がある。鵜殿の人物の大きさは、出ていくだけで何かが動きだし、それは自らの運命を丸ごと呑みこんで鳴動し、身の前にあったはずの壁を打ち破れるに違いないという、若い男にはありがちな希望に満ちたところにも窺える。若さを浪費し、それが失意に変わらないうちに踏み出すきっかけを得られたことに、鵜殿は満足していた。

 確実な転職先も見つけずに辞めてしまうなど、若さを過信した盲挙だと気分を害する人もいるだろう。時節はちょうど景気循環でいえば底であり、有望な企業から順に底上げを始める時期である。採用活動は消極的だが、こんなときにしか雇えない人材となれば話は別である。鵜殿がぶらぶらしていることを知ったコーディネーターが勧誘したこともあったし、当てはいくらかあるのである。

 だが、鵜殿には別の会社で再スタートを切るのが、重苦しい呪縛のように思えた。綺麗なオフィスで、あらゆる支援を受けて能力を発揮するのは、快適で一切のストレスとは無縁だろう。そういう職を望むことも、今の彼には可能である。ただ、スローな音楽を聴かされるように、脳神経が不活性を呈し、機能が死んでいくような不快感が目先にちらつくのだ。

 ここで奮起せねば惰性で老いていくだけだと、鵜殿は覚悟を決めていた。不遇を予想しなかったわけではなく、遊び呆けて瞬発力を失っていたわけでもない。いつでも何かを始められるという、適度な緊張感を持続させてきたのだ。それが辞表を提出したことで、一番大きな歯車が噛み合って精神という機械仕掛けが作動しているのだった。時計台でいえば、鐘を鳴らすための機構が発動されようとしている。

 鐘を鳴らすのだ。精神を高らかに解放して。

 失職したサラリーマンにはありがちな無力感はなく、鵜殿は清々としていながら、物憂げな眼差しに力を込めるのだった。

 誰が変えてくれるのではなく、自分自身の手で未来を造形する、手作りの自分史ともいえるものを紡ごうとしている。綾の一筋一筋が人であり、金であり、タイミングである。それを目の前に広げて概観すれば、自分というものがいかに悪戦苦闘しているとしても、生きていくことに惑うには至らないのだ。

 鵜殿は策を講じ、忙しくなることに甘んじることにした。彼には失敗する気などは毛頭なかったのである。

 

 渥美はにやにやしながら、鵜殿と投資の話をしていた。

「鵜殿さんはかなりのやり手ですからね。儲けるのもほどほどにしないと、悪い連中が甘い汁を吸おうとしますよ」

「それは困るな。会社を辞めた身には、トラブルは骨にまで沁みる」

 目を瞬いて、聞き間違いでないことを鵜殿の表情から読み取り、渥美はのんびりと茶化した。

「会社を移られるんですか。もしかして、女ですか。同じ会社の女に手を出したら不味いですよ」

「私はそういう勇敢さは持ち合わせていません。まあ、いわゆる一身上の都合というやつですよ」

 機嫌を損ねるでもなく、鵜殿は捌けた口の利き方をした。

「では、あまり触れないほうがいいんでしょうね。女で辞めるんならあなたのことを見直したのに」

「男社会ですからね。頭が良くて可愛い女は、簡単に気を許したりしないでしょう」

「そりゃそうだ。私も最近は、女と話したのは女房と卜部さんだけですからね。潤いなんてあったもんじゃありません」

 自虐も渥美の得意技だが、品位を損ねるほど過激ではないのは、相手が鵜殿だからだろう。鵜殿は思考の切れ味が良く、誰にでも分かるジョークでは笑わないが、苦心して羞恥心などを表現しようとすると、にっこりと笑むなかなか侮れない男である。そのことを渥美も承知していて、思考がもたもたするようなところで相手が笑うので、お付き合いの笑みもその辺りに集中するのだった。

 女の話題は一流企業に勤務する者にとって、危険な香りがするものだ。この話題を出せるということは、渥美の親炙は相応のものである可能性が高い。鵜殿は一見すると取っ付きにくいが、慣れてしまえば向こう正面に置いても気兼ねする必要のない、虚栄心などとのかかわりが極端に低いことで知られる。渥美としてはその癖を呑みこんだ瞬間から、「女はいけませんぜ」という下世話な口調が飛び出すようになるのである。

 実際に見ても、鵜殿は女で不自由したことはなく、学生時代に試し打ちをしてからはぱったりと無関心になっている。十年前は商社マンということで、引き合いが極端に強かったが、お見合いで結婚してからは妻に不信感を持たれることを恥としている。女の話題はセンセーショナルで空気を表すから嫌いではないのだが、積極的に持ちかけることはない。

 一方、渥美の方は女っけのまるでないところで学生生活を過ごしたせいで、企業の文化活動を通じて知り合った、可もなく不可もない女性とあっという間に話がまとまってしまった。女性の幻影を追い求める若い男の気質を、年相応に引きずっており、肌のてかてかした童顔の少年といった印象から抜け出せないでいる。彼は、女といえば男の夢を一身に受け止めるべき勲章のように思っているのだった。

 そんな渥美の可愛げを鵜殿は悪いようにはせず、知性が秀でている割に無邪気なことに関心を示すまでになっている。コミカルな表現で媚びたいのか、それとも表現自体に他意がないことを告げたいのか、渥美は愉快げに胸を弾ませながら喋っているような風体である。それに鵜殿は優しげな眼差しを宛がい、緊張感で言葉に詰まるような事態は望んでいないことを相手にも知らせ、これによって交流に温かみを添えているのだった。

 礼節は欠かせないが、親しみを表すのに躊躇するのも馬鹿馬鹿しいと考える渥美は、鵜殿がそうだから女に関する愚痴を飽きもせずに語った。さすがに仕事を辞めて神経が鋭くなっている鵜殿には、微温湯に誘われるような長閑さは気持ちの負担になった。男を研ぎあげてくれるような女に出会うことは、誘惑を遮断する環境にいる限り無理だと、鵜殿は渥美の憧れに水をかけるようなことを言ったが、話の腰を折ることに期待をかけていたわけでもない。少しだけ渥美の注意を引いて、女について語るべき雰囲気なのか、一考することを勧めたかったのだ。

 歳を取ったとはいえ、まだまだ若く、性欲を持て余せば辛いんじゃないかと渥美なりの気遣いもあるのだが、鵜殿は思考がその辺りに滞るのは、ちょっと本意ではないのである。結局は、渥美も賢しさを見せて、女についての話題は綺麗に畳んで忘れることにした。以後は会社を辞めたという鵜殿に、今度こそ労わりの気持ちを持たないといけない。

 回りくどさがあるかもしれないが、世間話で時間を潰そうという気になっている男たちが、くだらない社交辞令を挟んで本題に入ることはよくあることである。本題が重々しく重要なほど、肩の力を抜くような話題には自然と耳を澄ましていることが多く、お定まりのワン・ツー・ステップといったところだろうか。

 話の組み方として、渥美の意図を酌んだ限りにおいて、鵜殿は憐憫を感じず、あるとしても透き通っていて認識できるかどうかの涼やかさで、渥美が紳士的なことをよく表していた。下世話なことを言っていても、肝心なところでは帯をきつく締めているような、凛々しい男っぷりを見せるのが渥美なのだ。

 辞めたことに感情を伴わなかった以上、鵜殿はそれを装飾せずに、返って渥美が余白を空想で埋めるようにすることも否定に回らなければならなかった。どうすればいいのかといえば、精神的に職業を持続することに情熱を持てなくなったと、飽くまで心の問題にしてしまうのが一番抑制的である。

 心が痛みを感じたからやめたという筋ではなく、理性で感じるところの平衡感覚が保てなくなったから辞めるのだと、渥美にはそう告げなければならなかった。そのため、偏執狂の上司の話は一切せずに、仕事はまずまず面白かったが、この先同じ会社でキャリアを積むには、気持ちの強い部分が細ってしまっているのだと、鵜殿は正直に言った。

 新天地を求む。会社員がそう決意したときは、一歩も失地をできないという悲壮な覚悟を伴うものだが、鵜殿は軽快な駆け足で遠望できるところまで走りだそうとするかのようだった。それが分かった渥美は、にこにこして若さの名残火を愛でるような口ぶりになった。年寄り臭いといってしまえばそれまでだが、重苦しい話題には合の手も工夫しないと、どんどん湿っぽくなっていくのを知っているのだ。

 どちらも知恵の行き届いた言葉を使っている。女についてなら悪ふざけをしても誰も傷つかないが、職業に関して、それも当事者の進退に関わることを話す以上は、丁寧で細やかな理解を表さなければならないのだ。特に渥美は鵜殿を前にして竦んだことのある人で、おっとりと迎えられていても、もしやと魔が差すことを危惧してしまうのだった。これが鵜殿の側では、渥美が慎重になっているのだから、急かすことだけは忌まねばならないと腹を決め、泰然と聞き耳を立てているのだった。

 言葉を精査して決定的と思われるものを語った渥美としては、これで気分を害されたら運がなかったのだと諦めることもできる。幸いにもそういうことはなかったのだが、渥美は会社を辞めるということを観念的に見たときに、断崖絶壁に立つような気持ちになっていたものが、鵜殿の話を聞いて別の見方があることも知った。

 気持ちで持っている部分がある。渥美が再認識し、鵜殿が痛感しているのは、そこだ。気持ちがどこまで持つか、渥美にしても、鵜殿にしても、そろそろ先が見え始めるだけに不安に感じるところがあるのだ。しかも鵜殿は会社を辞めて、仕切り直して俯瞰しなければ物事があまりにも流動的である。

 自らが変わることに不満がなくても、変わることを強いられるのは心地よいものではない。鵜殿は今その瀬戸際にあることを自覚すると、苦し紛れに顔をしかめる余裕があるのか、考え込まされるのだった。

 

 製造業は貿易黒字の立役者であり、輸出によって利益を確保しているといわれる。外国で消費される物資で稼いだ分の一部は、国内に持ち込まれて利益に加算されるのである。

 そのため、為替相場が安く振れたほうが持ち込み額も増え、通貨安は産業にとってプラスであるとされる。しかし、資源を買い入れるには通貨高のほうが都合がよく、国内消費のためには通貨高のほうが活性化を呈するはずである。産業の国際競争力を保ち、さらに国内消費を拡大するためには、適切な水準に為替が落ち着くのが一番都合がいいのだ。

 過剰な通貨安にも通貨高にも弊害があり、中央銀行はその辺りを勘案して通貨政策を採っている。経済環境は為替の影響を大いに受け、輸出しなければ経済余力を蓄えられない国にとっては死活問題である。しかも、貿易摩擦の問題が控えている。

 産業界は為替は安いに越したことはないと、下振れリスクを吸収する施策を採っているが、為替が上向いた際には中央銀行のオペレーションに期待をかけるという、偏向的な為替対策で知られる。これは、資産の下振れリスクを一切担わず、資産高騰だけに期待をかける、ギャンブルのような資産構築を見ても分かるように、リスクの計算が極めて難しいからである。

 要するに細かく調整してリスクを解消する努力をするよりも、一方向のみに強い経営体質にして莫大な利益を得ようとするほうが、組織を指揮し易いからである。為替のように取引相場があって平準化が一気に進むものを条件として、偏向的な経営体質にすることは、危険なように思えるが同業者との競争を考えれば不可避であるとされる。いくらの取引実勢に固定して経営組織を適合化させる、と指揮すれば社員も行動の内容を決定できるが、為替の内容に合わせて態度を変えろと命令されたら、社員は右往左往するばかりだろう。

 為替は様々な国勢が関わって決定される生ものだから、経営という絶対的に説得的でなければならない事象には、馴染まないとすら極論する者もいる。為替変動リスクを担わずに、輸出行動だけは完遂できれば、利益は計算できるものとなる。そうでなければいけないというのである。

 産業界は為替が騰貴するたびに、利益が圧縮される可能性を示唆し、従って業績不振になって過剰にリスクを被ると説明するのだ。その後はお決まりであり、為替が安くならないことには産業界の活動が保障されない、あらゆる手段を講じて為替安をと訴える。下振れリスクを負う態勢を整えていないのだから、当然だろうが、国を挙げて産業を保護するという流れからは、その要請に応じざるを得ない。

 何しろ為替高になれば国内市場にも新興国の廉価な製品が流入して、国内市場のシェアまでもが奪われるのだ。為替高は産業にとって憎まずにはいられない現象である。相馬の勤める企業も例外ではなく、為替高で海外利益が圧縮されることに悲鳴を上げている。諸外国でも保護主義は台頭しつつあり、産業界の雇用を維持し、輸出によって外貨を稼ぐには、為替の調整くらいは安くつく経済対策である。調子に乗って他国の市場を席捲しても、すぐに保護障壁を構えられて競争力が低下するのだから、為替は調整すべき、あるいは調整し得るに留めるべきものなのである。

 だから、過剰なインフレ政策などを採ることは国際的に孤立する恐れのある禁忌であり、いくら為替安が望めるからとて、財政赤字を増やし続けるのは得策ではない。為替は政策の巧拙も含めた総合的な評価であり、財政赤字に過剰に反応することはないが、それでも終局的にインフレ率が変動すれば為替相場は敏感に反応する。

 製造業が国力を表す国では、製造業と政治は蜜月に陥りやすいのである。国内の技術を代表する生産活動が行われることに、国際的な優越感と矜持のためなら、政治は為替への介入くらいは喜んで引き受けるのである。中立的な運営を続ける中央銀行への注文として、為替が高すぎるのではないかという容喙は、特に不景気な時ほど頻繁に行われる。貨幣の崩壊などが起こったら、それこそ中央銀行の存在理由が失われるから、常にその容喙は努力目標に留まるのだが、為替を誘導し得る立場を恣意的に運用したという汚名を着せられるのを畏れ、努力目標であるはずの為替目標が産業の防衛ラインであるかのように必死さを呈する。

 中央銀行も技術の集積と産業としての独立に意義を感じるどころか、国家としての体裁を成すには不可欠であると知っているのだ。だから、為替の操縦は専ら製造業のほうを見て行われる。輸出競争力を維持し、国内で海外製品に押されないだけの貨幣価値をと、製造業が円滑に営利活動を展開できることを至上とするに至っているのである。

 抽象的な言い方をすれば、製造業は寵児である。これを失えば国家家族は窮乏し、衰退の一途をたどり子孫も残せないからと、随分な可愛がられ方なのだ。国家百年の計は技術と共にあるというのが知識人たちの経済感覚である。

 そのため、製造業を維持するための法案はすいすい通り、労働者派遣法の規制も緩和された。井伏が追っている非正規雇用の買い叩きは、労働市場が必ずしも労働者に十分な情報を提供できていないところから起きている。その弊害を見越していた人物は少数派で、非正規雇用が供給過剰になってから慌てて旧来の慣行に戻そうと、控え目ながら政治家も声を上げるようになっている。

日本では終身雇用が雇用の一般的形態とされてきたが、経済が国際化するにつれて為替も切り上がり、国内消費は拡大したが、代わりに産業の輸出競争力が低下した。国内消費の拡大を支えているのは賃金の上昇でもある。これが産業の付加価値創出努力を差し引いても、割高になるほど経営を圧迫し始めたのだ。

最初は生産拠点を海外に移すことで対応してきた企業が多かったが、産業の空洞化が叫ばれると同時に、為替変動リスクの恐ろしさも経験し、さらには雇用の維持という看板を下ろすことも叶わず、どうしても国内で生産する必要が生じた。企業は競って生産ラインの工夫をし、無駄を省く努力をし、下請け企業には価格努力を強いたが、単純な労働に従事する職工の待遇が、切り下げるだけ切り下げてもまだ割高に映るほど悩んだ末に、政治に泣きついた。

国家を優等生たらしめている愛すべき寵児が努力の限界を訴えているのである。情で行動することがあり、また情で行動することが期待されている政治が応えないわけにはいかなかった。たちまちのうちに多数派が形成され、製造業への労働者の派遣が解禁された。もともと職工の待遇を切り下げる意欲が頂点に達したところで泣きついた企業は、ここぞとばかりに非正規労働を買い叩いた。もともと職業紹介が害悪とみられる土壌で派遣などを自由化すれば、情報さえ制限すれば、労働を安売りせざるを得ないところまで追い詰められる求職者はいくらでも現れる。人が欲しくてしょうがない企業を尻目に、情報不足故に派遣に頼る求職者たちは、悲惨なほどの薄給で働き始めたのである。

高額報酬を期待できる専門職の派遣は有用かもしれないが、単純労働に就く体力頼みの職種にまで派遣が広がれば、労賃の切り下げが起きることは自明である。専門職にしても、高額報酬でシェアされていた仕事が、求職者の増加で単価が下がるのである。より多くの者が仕事に就けるというメリットを除いて、派遣にはマージンと雇用コストの増加という悪弊のほうがよほど目立つのである。派遣会社がどこで利益を上げているかといえば、抱え込んだ派遣社員の仲介手数料である。継続的に成長していくためには、登録する派遣社員を増やすか、手数料を増加させるしかない。どう考えても終身雇用の後釜に座るには、営利の匂いが強すぎるし、成長戦略も描きにくいのである。

仮に、人材派遣会社が株式上場した場合に、株式を購入するとしたらどの長所を以て利益を弾く企業と判断するのか。派遣社員で非正規雇用に就くことを選択する人は、正規雇用を選択する人よりも少ないと考えられるから、かなり早い時期から派遣社員たちから絞り上げる手段を講じなければいけなくなる。寮費や手数料で、派遣社員が情報不足から他に流出しないことをいいことに、徹底的に搾取するという方針が出来上がる。

非人間的である。これが社会問題化するのに時間はかからなかった。問題が拡大してから、なおも製造業は労賃の安い労働力を必要としている、という呪縛から、政治は逃げられないのである。可能な限り目を瞑って、国際的な優等生であり続けるための技術を、国内に根付かせることを政策の第一義としなければならないのである。

これを是正し得るのは選挙である。一部の人間が困窮しているからと、温情を訴えるだけでも効果がある。それにも況して、派遣労働は終身雇用に比べて劣弱な雇用環境であり、総国民の福祉の向上のためには、一角といえども福祉を切り崩される弱みを見せてはならない、とでもすれば人気は上々だろう。実際にそれを訴える候補者も現れるはずだ。

選挙で争点になり、企業を守って技術を温存するか、雇用環境の劣化を防ぐかという、二択の争いになれば、選挙は大いに盛り上がって近年の懸念とされてきた投票率などは大幅に改善されるだろう。政治は身近でなければいけないし、身近な信念を語るところから国民との連帯感も生まれる。製造業の一社員の立場では、国家の枢要を決する選択はできないから、相馬は選挙しかないだろうという考えでいる。

 製造業がメディアから非正規労働者の劣悪な処遇を責められても、大義さえあればやり過ごせるのである。それは相馬の望むところではないが、黙殺して廉価な労働力を確保することも可能である。悩ましいが、企業努力の現場に立ってきた彼からすれば、非正規労働者に温情をかけて企業が倒産してしまったら後悔することもできないのだし、事が大きすぎて雇用のメカニズムに油を差すような芸当も持ち合わせていない。

 自分以外の誰かが決めてくれたらと考えることは、無責任なようでいて、大企業で働く人間には日常的な感覚である。分業化が進み、個人の決断が全体の施策に影響することを疎む彼らにとって、多数決は千金の価値がある。多数決でなければ、もはや重要なことを決するのに手続き的な瑕疵があるのではと錯覚するくらいに、個人の責任を回避し、判断を丸投げするのに慣れ切っているのである。

 それを個人の衰微だと捉えれば、その衰微した個人が会社での処遇において劣悪な条件を突きつけられても逆らえず、転職しようにも情報が遮断されていて職業選択の自由がないとくれば、良心を維持するためには目を瞑って、ひたすらに自分は無力なのだと言い聞かせるしかない。そうした管理職が指揮する現場で、雇用の条件が劣悪になって職務習得の意欲が低下しても、最低限の生活を維持するための意欲に置き換えれば働かざるを得ないのだと、冷めた目で見るだけの下地が出来上がってしまう。

 いわば個人の尊厳を維持するための労働を、一段上の国家に吸収し、産業の鼓舞、技術力の維持という大義の前に犠牲にする腹を決めるのである。惨いが国家の繁栄のためならタコ部屋で働かせることも吝かではないとする、どこか壊れた近代人の頭では、労働が正当な報酬に基づいて提供され、その結果企業どころか国家が繁栄しているという体裁が、盲目の愛情を注ぐだけの価値があると思えるのであろう。

 一人の人間がいなければ、全体がないという、ヒューマニズムが失われることが、国家が最も恐れ、政治が警戒しなければならない潮流のはずである。政治だけではない。その政治家を選ぶ民主国家の国民は、温情を持つ政治家を選ぶべきだが、温情に理由を必要とする政治家を選ぶのは危険だと知るべきだ。

 この場合、企業が価格努力を限界までして、最後に政治を頼ったことに温情を覚えるのだとすれば、その後の非正規雇用の買い叩きに論理的に矛盾する温情を感じることは政治の否定になる。否定だろうがなんだろうが、温情を感じるのだと救済に走るのが本物の政治家だが、産業の振興という大義名分の前に、無視しても構わないと考える政治家も多いのである。

 そもそもいったん容認した自由な労働市場に、再び政治的な思惑を持ち込むことに、沽券の阻喪を感じるのも仕方がないだろう。朝令暮改は確かに威厳を損ねるし、自由であることはつまり最善の状態を志向している、最も基本的な状態であると考えることもできる。自由を与えられて規律を通わさせられない民衆は、やはり支配されるしかないのだろうか。

 そうではないだろう。紆余曲折があっても、最後には誰もが納得できる仕組みを選択してきたのが歴史である。高々労働問題で、政治の主導がなければ一切の規律を合意できないような産業が、本当に国家を代表して技術を誇示する必要があるのだろうか。技術は人の心の上に成立せねば、人に害悪をなすことは知られるとおりである。それなら良心を離れた技術など、要らないと拒める消費者でなければならない。誰もが賢い消費者になることで、大義の前に良心を忘れがちになる企業という組織に、国民を見ない企業は永続するだけの価値がないのだと緊張感を通わせられる。

 為替で保護を受け、雇用で優遇され、製造業はわがままを言う気になれば国民を振り回すほどに存在感が強い。そうはいっても、ただの営利企業である。ボランティアで雇用を維持する義務はないし、報酬についても合意に基づいて自由に決定できる。優位に立った分だけ、悪辣な存在にもなりうるのである。

 老舗の企業には独自の倫理感があって、働くことに社会的奉仕の観念を交えたり、自己開発により達成感を持つことを推奨したりと、雇用を単なる報酬と労働の合致というだけには終わらせようとはしていない。秀逸な考え方であり、日本において終身雇用が成立したのは、このように企業が働くことを哲学するだけの、思索的なゆとりがあったからである。社会は貧しくとも、働けば必ず社会全体が盛り立てられて、幸せな気分になれると同時に一員として迎えられているという一体感も生まれる。その社会に包摂されるところの労働者は、企業が倫理的なことに殊更に安心感を覚えただろう。

 翻って現在は企業が消費の拡大と、産業の国際競争力の狭間で、脂汗をかくほど知恵を使っている。相馬のように企業に必要とされ、失業の危機が遠い話に思える労働者でさえ、雇用の環境が濡れタオルを絞るように緊迫しつつあるのを感じるのだ。捻じりきって一滴の水滴ももれなくなったとき、もしかしたらすべての選択肢が消失して、倒産手続きに入るのではないか。その不安が的中しないことを祈り、非正規雇用の処遇が悪化の一途をたどっていることを承知した上で、考えるだけで胸が焼けつくような義侠心と格闘するのである。何も変えられないただの会社員だから、自分を押し殺して、可能な限り自己評価を安く見積もって、息を潜めて生きているしかないのだろうかと、相馬は時々遣る瀬無くなる。

 それでも不合理を押し付けられるのは拒まねばならず、組織の一員として十分な働きを献上できなければ、やがては非正規雇用の労働者が買い叩かれているのと同様に、汚い手段で追い込まれていかないとも限らない。競争が企業からモラルを奪うのではない。利潤を上げる組織をイメージできず、従属することを強いられてきた者には、利害の一致した共同体が幻想として圧迫感を強め、モラルから離脱することよりも共同体と利害が相反することを恐れるのである。

 いわば、競争に適応できない体質を教育の段階で植え付けてしまっているのだ。資本主義社会では競争に適応できないことは致命的である。それなのに、和して声を揃えることが資本に養われるべき人材であると、やがてはモラルを逸脱していく人材ばかりを育てている。これでは競争のために組織として一丸となることなどできず、隣の人間の顔色を見ながら非難されないことだけを考える木偶を重用するようなものだ。

 大企業病といわれる。多様な人材が手を携えて一つの目標のために邁進するのが理想であるのに、均質化して、上から降りてくる意思決定がないことには何もできない萎縮した顔つきばかりが揃っている。処遇には不満はないが、相馬は企業が病んでいることに静かな憤りを感じている。無力感にさいなまれている社員に、昔の企業のように遣り甲斐を持てと発破をかけるのならまだしも、均質化して意思決定を迅速にしろと要求している。ハーモニーは一つ一つの音からというのが常識だが、その音源が自分のパートに責任を持てないでいるのだ。迅速な意思決定など、画餅に等しい。

 逆説のようだが、声を揃えるということは責任を回避するということである。誰ひとりとして責任を取ろうとしない、はんぺんか豆腐のような組織を欲するトップは、独裁を望んでいるとしか考えられない。半永久的に寡占的なシェアを持つ企業なら創業家独裁でもやっていけるかもしれないが、大企業は人材を多数抱えるがゆえに、部署の責任を明示でもしない限り、受け持ちの範囲は判然としない。それぞれが受け持ちを自覚していないで、協力も分担もあったものではないはずである。

 会社に身の丈を合わせようとしてもうまくいかないのだから、会社が身の丈に合った仕事を分掌させなければならない。それは階級や訓令である程度は決まるが、最後はなんといっても個々人の職務意識である。昔の人は会社で自己実現するのだと、夢のようなことを言っていた。それが可能だったのである。責任に背を向けることなく、自分一人が宛がわれた仕事をやり遂げるのだと、全能力を賭していた。

 それがはんぺんになってしまっては身も蓋もない。相馬は悲哀で薄く陰りを帯びた目つきで現場を回っている。誰もその眼の奥にある憤りまでは見抜かないが、失ってはならない光である。唯一掲げた光が、無力であっても自分を見失わない、自己存在の証のように相馬には思える。企業が間違っていると糾弾すれば立場がない。だが、もしかしたら企業が間違っているのかと思うことは吝かではなく、そういう企業で働くことに罪悪感を覚えることも自由である。

 何によりどころを求めて働くか。昔の人はそれを哲学するだけの心があった。翻っていま求められているのは心ではないという。利益が総てだという殺伐としつつある社会で、相馬はコストの圧縮という継続的な業務に携わっている。

 折しも大リストラが発表されたばかりである。見知った顔が何人か早期退職の勧奨に応じ、辞めてゆく。感傷に浸っている暇はなく、相馬の身辺でも職掌の確認で控え目に質問されたりし、明らかに動揺が広がっている。

仕事が総てではないし、働く意欲があれば意外なところで適性が見つかるかもしれない。とはいえ仕事を変えるのは相当な気苦労になる。それだけの骨を折って、新たな仕事を見つけられればいいが、現実には職業紹介は機能していない。企業がリストラを繰り返すたびに、満足に評価してもらえない非正規労働者は増えるだろう。

当分心が晴れるような日はないなと、相馬は渋い顔で吐息をつくのだった。

 

 いつも悲しそうで、ちょうど少女が叱られたような顔をしているのが卜部である。もともとの骨格からして不景気で、声の質が伸びやかでなければ職業上の能力も疑われかねないところがあった。その声が緊張感で湿っている。

「お辞めになったんですね」

「はい、辞めました」

 と、鵜殿は興味がなさそうに素っ気なく答えた。それよりも鵜殿は、頭の中に巡っているアイデアをまとめたくてうずうずしている。

「まあ、それはいいんです。会社業績と自分の幸福が合致しない場合もあるでしょうから。それよりも新しい仕事のほうですよ。手持ちの札で何ができるかを考えないと。私の株式口座には今どのくらいありましたっけ」

「およそ三億二千万円です。ざっと十倍に増えましたね。こればっかりは大資本に真似はできません」

「資本がそれだけあれば、起業するのは簡単です。中小企業を買収して、社員と営業を丸ごと手に入れるのもいいけれど、一から手作りするのも魅力的ですね。不況で仕事を求める人は多いからなんとかなりそうなんだけれど」

「株式の現物出資以外に、貯蓄と借財を合わせて五億あれば、鋭利な経営感覚がある限り必ず成功すると思います。鵜殿さんなら株式のトレーダーとしても、名を馳せる人でしょうからね」

 卜部は持ちあげて、餞にでもなればいいと考えたが、会社倒産のかまびすしいご時世なので控え目にした。

 決断するための材料。それが着々と蓄えられつつあるのを、鵜殿は密やかな高揚感と共に感じている。

「考えてはいるんだ。ぶらぶらしている時も、独立のことは頭にあった。何もかも割安に調達できる今は、間違いなく起業のチャンスだ」

「当てにできる顧客はいますか」

「いや、勤めていた会社での業務とは関係のないところで起業する。恩を着せられたり、おかしな噂を立てられたりするのは嫌だから」

「是非ともご成功なさってください。私としてもその方が気分がいいですから」

 目尻に皺を寄せて笑んで、卜部は鵜殿の門出を頼もしく見つめた。

 つい数日前に、製造業が申し合わせたように大リストラを発表したばかりである。アメリカでバブルが崩壊して、投資に見合った業績を上げられなくなったからだ。資産の大暴落で、金融機関は軒並み赤字を計上し、いくつかの証券会社は破綻した。この環境では組織を引き締めないことには、製造業も応分の負担をしているとは認めてもらえないのである。

 失業者が劣悪な雇用環境に追い込まれていくのを、守りに入るだけでは改善できるものではない。いくらかの有志が起業に踏み出し、また踏み出すのを支援しないことには、マーケット全体の景況は上向かないのだ。特に株式市況は新参者が脚光を浴びることなくしては、停滞を余儀なくされるのである。

 巧みに投資して蓄財を進めていた鵜殿は、ほとんど苦もなく起業という言葉を口にしたが、世のサラリーマンの大半はローンや生活費、教育費などで首が回らなくなるほど窮乏しているのが現実だ。先立つものがなければ鵜殿ももう少し保守的になったのかもしれないが、経済の伊呂波を呑みこんでいる彼には、財産などはいくらでも殖やせるのだし、生活に追われて信念を曲げるのは馬鹿げたことだった。

 言うならば中小企業に元気がないのは鵜殿には信じがたいことで、大企業が設備投資の過剰で苦しんでいる不況期こそ、経営を弄る好機と捉えなければおかしい。新規に人員を募集したり、事業を再編成したり、組織の規模が小さい分だけ、その機動性は大企業には真似ができないはずなのだ。不況期こそ会社の本領を発揮する時である。

 それなのに資金繰りが苦しいからと、社員の待遇を切り下げて士気を落としたり、受注の減少を食い止めるために営業マンに御用伺いをさせたりと、中小企業は不効率なことばかりしている。本来なら好業績のときに攻めに出るための体力をつけ、大企業が苦戦を始めたら一気に攻勢に出なければいけないのである。新陳代謝が起きないと、とりわけ株式市場は好況を呈さず、投資先を物色する手も鈍ろうというものだ。

 投資対象として適格の会社を作る。これが鵜殿の思い描く構想であり、差し当たっての目標だった。株式市場はリスクを負った分だけの利益を出せる構造であり、新規参入してくる会社にはまだリスクが十分に評価されていなくて、値動きが大きくなるという期待が持てる。経営者側としては可能な限り値上がりをと目論み、投資家の選別を仰ぐわけだが、リスクを負ってもいいと思えるだけの投資対象になるには、説得力のある経営戦略を描かなければならない。

 第一の投資が第二の投資の理由になるといった、雪だるま式の時価総額拡大は、取引材料が少ない新規事業に携わる上場企業ほど顕著である。利潤を上げる仕組みをいったん提示できれば、買い材料ありとみられ、取引材料の乏しい新参企業には大幅な値上がり益が転がり込む。もちろんこれは会社成長の原資になる。

 会社業績が思わしくないといった情報と、市場の占有率からすればまだまだ稼げるといった情報が、せめぎ合いをみせるのが取引されるようになって久しい株式の通常だが、新参企業には取引実勢がつかみにくいというリスクがあり、これを引き受けることで株式投資の旨味を得られるという、投資現場の実際があるのである。

 価格が平準化されきっていない投資対象ほど、投資した時の見返りは大きい。要するに市場で成熟化し、大型化した株式は値動きが鈍いのである。敏感に反応するのが新規上場した株式であり、値動きに期待をかけるなら、当然のこと値幅のぶれやすい株式のほうが魅力的である。長期保有して資産作りをしようという投資家は一般に値動きには関心が薄いから、証券会社が取引手数料を稼ぐなら、値動きに期待をかけて短期で売買する投機的投資家を相手にするほかない。景況感はこれら投機的投資家の売買の実勢にかかっているといっていい。

 株式市場に上場して時間が経過すれば、時価総額が増して大型化するから、値動きには大量のエネルギーがないことには値上がりも値下がりもしないことになる。それでは株式に投資するメリットが活かせないわけで、どうあっても値動きの著しい新規上場企業が目玉になる。新規上場が少なくなれば、株式市況が低迷するのもやむを得ないのである。

 流れからいえば、大型化した資本を使いこなせない企業は業績が低迷するはずであり、成長戦略をアピールすることに忙しい新規上場企業ほど、株式資本を有効に扱っているはずである。投資家もそれを知っているから、新参企業が動きを見せたというだけで、手放しで評価することが多いのである。鵜殿はその動きを見切るとともに、景気変動を乗り切る企業を選別することで株式投資を成功させた。インサイダーぎりぎりの情報戦略を駆使するのもいいが、なんといっても株式投資の王道は資本戦略の巧拙を見分けることである。資本をどう使うかというのは、産業の鍵であり、株式市場はその調達のための最も効率的な金融手段である。

 こうした市場の背景があるときに、鵜殿が設立しようという会社は、当たり前のことだが大企業ではない。資本の調達に株式市場を睨んではいるが、設立した当初から投資適格になるのはまず不可能だから、五年、十年の長期で戦略を立て、創業者利益がマックスになる時点で株式公開するのが順当である。設立資本は大企業が有する資本に比べれば小指の爪ほどのものであるが、鵜殿には確実なリターンを見込めるだけの営業の虎の巻があり、数年で必ず軌道に乗ることを予測している。

 失敗したらどうするのだと、サラリーマン以上にはなれないサラリーマンは考えるだろうが、鵜殿は経営を科学するだけの合理的思考の持ち主である。失敗するのには原因があり、原因を発見できないのは自分のしている営業に理解がないからであると、彼は知っているのだ。

 売り込む方法と、売り込む内容が合致したとき、物は必ず売れる。その呼吸さえ押さえておけば、何をやっても成功するのだ。その分には鵜殿には恐れはないし、商品を選択する際のセンスや眼力にも自信を持っている。不安があるとすれば、顧客が安定を重んじるあまり新顔との付き合いを疎むことであるが、時期は不況の真っ盛りである。事業の再編成をしなければいけない時期に、安定という概念がいかに馴染みにくいか、少しでも苦労したことがある人なら通じ合えるはずである。

 一分の隙もなく完璧に成功する売り込みというものはないだろうが、大方の人の心を掴む売り込みなら誰にでも可能で、現に鵜殿は仕事をする上で心を掌握する手管を駆使してきた。嫌らしい媚びや欺きではなく、相手が望むものを瞬時に見分け、それを与えないまでも妨害はしないのだと誠意をみせるのである。相手は転がり込んでくる利益には敏感だろうから、その利益に随伴しようとする姿勢は、好感をもって迎えられるだろう。

 人一人が他者にとって福音となることは困難だが、道連れになるのに不安がないというだけの人物になることは難しくない。営業は斯くあらねばならない。自らの有用であることを訴え続ける煙たい人物になるのもいいが、肯定はしないまでも否定するだけのエゴを持っていない人物になるのは、それほどの努力が必要なわけでもなく、習慣で何とかなる部分が大きいので、営業マンには魅力的である。

 それができるだけの柔軟で適応力に富んだ人間性があったからこそ、鵜殿には目利きとしての才覚も宿ったのである。彼を疎んだ上司は人間としての尊厳は他者からの評価が十割以上の比重を占めると考えていたから、僅かに一点で彼の業績や人間性に無関心な鵜殿を憎んだ。そういう異常な人間は長続きするものではなく、いずれは失墜していくものだが、皮肉なことに今日の鵜殿を活かしているのは人間性の側ではなく、目利きの才能のほうだ。人間の評価は依然として彼に冷淡で、いかに彼が優れた人間的造形を誇っても、社会全体から微笑まれているような実感を持てないのだ。

 それでも、卑屈になって社会をひっくり返してでも自分の価値を高みに置こうとはしない。星は頭上に輝くものであり、それは一切の努力を必要とするものではなく、星が星であるが故に天高くあるのである。人間も同じだ。人間が人間であるがために心を砕くとするなら、必ずやその人間性は蒼天に掲げられるだけの輝きがあるはずである。凡庸さを拭うためにあくせくするのは、本来持ちえたはずの高貴さを自ら擲つのと同じである。

 人は尊い。多少なりとも人間関係を維持したり、好転させようとしたりする経験があれば、他人に高圧的に振る舞ったりできるものではない。尊い者同士が嘲りや蔑みを含まない純粋な目で交流することは、一流企業では一般的だが、これから鵜殿が踏み出そうとする、力が総てだ、金の巡りが人を表すとする、中小零細の企業群では望むべくもない。

 時間をかけずに一気に抜きんでることをしなければ、鵜殿のように何かと僻まれ易い男は苦戦するだろう。今、産業界は酷い人間不信に陥ったかのように、協力することよりは圧倒して従わせることを望む、歪んだ人間性をそのまま表しているかのようだ。礼節も足りることからとは言うが、無制限に与える手段がない以上は、無礼で粗忽で人の道を省みない人間が地平を埋め尽くすほど大量にいて、救いようがないということである。

 社会を詰まらないものとして斜めに見る限り、働くことは意義を持ちにくく、モラルも低下し続けるだろう。鵜殿の快の気はその詰らなさに、わずかながら弾みを加えるようでもある。心境は明るい色に溶け込むようにゆったりと朗らかになっていく、その前触れとして小さな躍動がある。それがはっきりと自覚されているわけではないが、体感として好悪の感情に触れた時、明らかに心地よくなるような変化があるのである。

 肩で風を切るような感慨は持ちにくいが、世界との接点が確実に自分というものを際立たせるのを、働くことを通じて感じられるのである。目が利く人間が、そうした環境に置かれた時、猛然たる気魄の湧出が認められることがある。まさに鵜殿は会社を辞めてから、設立する会社のことを考えるのに憂さの入り込む余地のない、完璧な意思が内面を満たしているのを感じている。

 心強くもあり、前へ前へと意識が展開するのにあわせ、事業の構想は着々と紡がれていった。ほぼ成功の見込みが立つところまで充実したのを機に、鋭利になった気持ちを宥めようとすると、鵜殿には今までにない満足感があった。心豊かに生きるということを、体現しているかのようだったのだ。

 このような男の快の気は伝播するもので、接した卜部も好感を持つだけでなく、素晴らしく響き合うような琴線に触れるものを目にした。十年前の鵜殿が持っていた野心が丸くなり、使命感だけで突っ走るような剛毅さが覗くまでになっていたのである。

初めはどんなにできた人間でも成功のイメージから指針を得るものだが、やがてそれが具体的な蓋然性として認識できるようになると、今度は描ききった指針に身の上を重ねることが可能になる。成功のモデルを引用したりして、より確実な蓋然性をと、そしてそれを実行できることが最善であると自らを鼓舞するのである。このときに前途を儚む気持ちは、まず支配的にはならないといってよく、アドレナリンが分泌されるような気分の高揚感だけが確信的な想像力に支えられているのである。

 可愛らしい女ではないことを自覚している卜部ではあるが、男はいいなあと、憧れる気持ちは昔からある。男の奔放さと人生を確信するだけの行動力。それを鵜殿の内面に垣間見たことで、彼女はうっかりすると鼻歌を歌ってしまいそうになるくらい陽気になれた。事業の見通しや、市況の今後などを話している時も、彼女は愉快げだった。

 恋などに報われることはないと、自分を抑制的に見てきた女でも、男が人生を変えるために大回頭している時には、壮観さと共に人物の大きさまでもが際立つように陰影を変えるのを目の当たりにでき、嬉しく思えるのである。いわば男に惚れ込んでいる一瞬が、それほど背徳的でもないことに気をよくする部分もあるのだろう。

 気風の良さ、あるいは堂々とした振る舞い、そうしたものが卜部には眩しかった。職業人としては成功している部類に入る彼女も、それ以上の成功をイメージしようと思えば、自分をさらに追い込んで業績を上げるのではなく、これから業績を上げようとするものにエールを送るほうが簡単なことを知っている。出世競争で弥が上にも目立つようになると、返って他人の業績のほうが完全な玉であるかのように見えるものだ。卜部は鵜殿がたどった投資判断の数々を思うと、彼が大きな一歩を刻むために自分は付き随ってきたのではないかとも思えるのだ。

 人物として、男として、鵜殿が一流であることに太鼓判を押してもいいが、それをすることは彼に愛された者に任せるのが穏当である。自分は仕事で貢献し、彼の華やぎに一輪だけ添えるつもりで、今後の付き合いを考えればいいと卜部は思っている。男に愛されることで世界を塗り替えようなどと、考えたことすらない女ができることといえば、朴訥にプロフェッショナルであり続けるしかないのだ。

 それを鵜殿は退屈で信用にも悖る気風だとは言わないだろう。彼もまた、職業に関しては厳格なまでのプロ意識を持っている人なのだ。気を緩めてにやにやしていることがないとはいえないが、その弛緩した気持ちで通じ合おうとはつゆも考えず、武骨でいかめしい顔つきをしているときに本領を発揮すべきだと考える性質である。その機微を認めてくれる人に重要な仕事を任せ、冷厳なる職務実行者同士として信頼を分かち合えればいいのだ。

 心の安らぎは、また別のところで見つければいいだけの話だ。

能力を十分に発揮するときは、リラックスして、かつ浮ついていないことが最低条件である。圧迫されて慌てふためいたり、萎縮したりしていては心の筋肉は解きほぐれないし、刺激に敏感になりすぎて心が一点に定まらなければ、手違いを起こしやすい。

自分をいい状態に持っていくことは、自己鍛錬ではもはや第一に考えなければいけない趣さえある。それができるものが有能であることを端的に表現でき、また職務を通じて信頼関係を構築するのに援けともなるのだ。

鵜殿と卜部はまさにそうした緊張関係を十年以上も続けてきたのだし、互いのことに一目置き合っているふうでもある。これから何かが始まろうという段になって、その信頼は心の底で伏流水のように新鮮な感情を送り続けている。

打って出る鵜殿は信頼に値する人間がいることに安心感を覚えているし、それを見送る卜部は自分にはない華やぎに触れられることにより役得だと思っている。そして、どちらも経済社会では上流に属するが、感情としては底流も上流も関係なく、努力した者が勝利者になるのだということでは一致している。

恐らく鵜殿は近日中に体制を調え、創業するだろう。それは膨大な労苦に見合った収入を確保するためだけのものではなく、むしろ労苦は彼の人間を陶冶するための素材で、彼が新しい自分 を削り上げるための珠玉の彫刻なのだと表現することもできる。自分探しといった若い人が好む可愛らしい動機とは違うが、鵜殿にはたっぷりの展望が目の前に開けている。何一つ自分は変わらないが、必ず未来は開けるという、豪胆な自信に支えられて、彼は船出の時を迎えようとしていた。

 

第三章   夢と花火

 

 管を巻いて呆けたように過ごすことは容易い。そこに仲間意識を持ち込むことで、怠業も責められるほどのものとは感じなくなる。会社の生産性が落ち込んだときには、このような共同怠業とでもいうべき状況になっていることが多い。

 働くことに意味がなく、可能な限り多くの報酬を得ることと考えると、収入を増やす方途が絶えた途端に、仲間を募って時間を駄にすることを覚えるのだ。協働することは必要だとはいえ、怠けるのも一緒にというのでは、業績の向上は見込めないのである。

 その癖、仕事は遅くて無駄に残業が多く、会社に出費を強いる点で会社への貢献には程遠い。まさに働く現場を矮小化されているということであり、能率の上がらない社員は配置換えして少しでも使えるようにしなければならないはずだ。働きたくない社員を働かせるのは至難であり、会社の目的と社員個々人の自己実現をいかに一致させるかは、経営の要諦である。

 昔は物資が不足する社会に、物品を供給して、サービスも豊富にするという目的があり、これが社員を励まして会社への求心力にもなった。それが、物資が豊かになり、これ以上は飽食であり、贅沢だというところまで産業は充実し、社員からは会社の目的と合致するだけの窮乏感が失われた。

 代わって唱えられるようになったのが夢である。

 夢さえあれば腹が減っても大丈夫という順番だと、どうしても醒めてしまうが、腹いっぱいに食って、さて人は大きな目標を掲げるべきだと吹き込まれると、なるほど一理あるなと頷かざるを得ない。会社も物資が不足する社会に生産活動を通じて貢献をとは言わなくなり、夢を持って働こうと抽象的な鼓舞をするようになった。

 これで怠業が解消されれば良かったのだが、溢れるほどの物資に囲まれて、それを維持することに目が向くようになると、その豪勢な消費者としての気分のまま、少しでも楽に金が転がり込んでくることを望んで、非難されないさぼり方として共同怠業を好んでするようになったのだ。働いても評価されないという思いが彼らにはあり、それならば横一線に並んで、意地でも会社の論理では働かないのだと頑なになるのだ。

 労働組合のように組織の意思決定機関があり、責任の所在も明らかな集団が、待遇の改善のためにサボタージュをするのとは明らかに違うのである。働かずして食うことを極めようとする、会社への寄生の態度は深刻化しつつある。大企業がリストラをするのも、こうした組織にもたれかかる社員意識を改革するためである。安定した業績を会社が上げるほどに、その一員としての社員には慢心が広がるのである。

 これを決定的に変え、組織を牽引していくだけの経営哲学は、まだ生み出されていない。漠然と一個の大きな目標を提示し、それを達成することが個人としての充実であり、喜びであると大上段に語ると、押しつけだの上から目線だのと言われる。だから、巧みに装飾して夢を語ろう、という体裁を採るのである。

 その装飾に媚態が含まれるがために、露骨に自己栄達を夢だと語りはしないが、利益誘導は念入りに行う働き手が増える一方である。企業が窮乏感を糧に社員を一丸に導けた時代はとうに過ぎた。代わって語られる夢などという曖昧な鼓舞では、もはや社員は動こうともしない。夢で稼ぎになるんですかという冷めた見方がほとんどである。

 だが、そうしてモラルを失っていく社員を放置していいものか。多数の社員を抱える企業ほど、モラルには煩く教訓めいた提言をすべきであるが、働くことは希望いっぱいの最高の舞台だと言っても信用はしてもらえない。会社業績が低迷すれば、不効率な部門から切り捨てられることが分かり切っているからである。

 会社にもたれかかる社員を動かすには、何らかの動機がなければならないが、夢と称すべき抽象的な動機付けでは、社員は働くことに理由を見つけることができない。理由がなければ働かないでもいいかといえば、生活の糧を得るためには給与を支給する会社に貢献せざるを得ず、帰納的には常に働くことでしか前途を見定めることはできない。解雇をちらつかせて、恫喝まがいの規律を敷いてでも働かせようとすると、社員のモラルは極端に落ち込む。そして就業時間を無駄に浪費して、同じうだつの上がらない仲間同士で屯しては酷い待遇だと愚痴る。会社にとっても社員にとっても、これほど無駄なことはない。

 だから夢なのか。生活の時間の大半を投じる労働において、夢のないことは致命的といえそうである。しかし、少なくとも自己栄達くらいの願望は誰にでもあるが、現実を鑑みるに、それが単身で実現できるとは思えないのが大半の人だろう。夢は遠く叶わないから夢であって、現実には少しでも面白おかしくする遊び感覚のほうが、夢よりかは実入りが多いと考えがちである。

 労働というよりは居座り、協働というよりは友達感覚であり、会社はこのような生産性のない社員を養うために、膨大なコストを支払い、下請け企業などに価格圧力をかけているのである。会社をスリム化して生産性を上げなければ、実働時間は大したことがないのに、残業までして待機時間を増やす社員を放置することになる。就業時間内で悠々と完了するはずの仕事が、だらだらと残業代の支払いの下に行われているのだ。彼らには職務を評価されたいという気持ちはあっても、就業時間を増やすことでしかその表現の手段がないのである。

 トレンドとしての夢は、美しいイメージを多分に伴う魔法の言葉のようではあるが、現実に虐げられて希望の持てなくなっている社員からすれば、冷笑で迎えるほかないのである。彼らを働かせるのに必要なのは、強制力よりは誘因であり、義務感よりは遣り甲斐である。このレトリックを巧みに使い分け、社員の目先にニンジンをぶら下げるように仕組める企業は、間違いなく伸びる企業である。

 何しろ人はその気にならないと全く使えないのである。求人広告などでよく見かける、やる気のある人求む、といった呼び文句は、企業の本音を端的に表している。本来なら職掌を決定して社員に宛がうのは経営者側の仕事だが、経営のセンスのない経営者は丸投げして、なあなあで顔つきを見合わせて決定するのを容認してしまっているのだ。一見して自律を尊重されているようだが、権限の譲渡もないまま責任を持てというのは無謀である。やる気というのは企業の望む最終的な結果であり、そのための手段を与えなければいけないのだが、大抵は職務の割り振りを硬直化させるのを疎んで、自主的に動く以外に命令は下さないことが多い。

 企業もまた、労働時間が拡大し、待機時間が増えることを望んでいるのである。これでは生産性は一向に上がらないばかりか、お友達感覚の共同怠業が蔓延り、責任の所在を曖昧にしてしまう結果、受け持ちの仕事を明確にする流れからは外れてしまう。

 コストは意識から削らなければ実効性がなく、大胆に踏み込んで指南し、不要な人材には会社を去ってもらうくらいの荒療治は、当然のこと必要になってくる。大企業病を患って生産性の回復を目標とする企業は、リストラで会社組織を甦らせないと、大資本を有効に活用できないのである。人情でいえば辛辣かもしれないが、営利組織である以上は、厳格さを見せなければ市場で勝ち残ることはできない。

 夢を語って働くのが幻を見るように当て所ないのはやむを得ないし、働く意欲が満面に漲った人物の労働に期待をかけるのは無理があるから、今日の企業は責任の所在を見定めてその範囲で献身できる社員を、ご都合主義で扱っている観がある。コストという数値化できる合理性の象徴のような概念が流行るのも、企業の都合を掩蔽することが容易になるからであろう。一面的にはコストを圧縮する意欲満々だが、責任には触れませんよという免罪の宣告をしないと、社員は決して真実を申告しないし、そもそも責任を分掌させた記憶が経営者側にはないのである。コスト意識というのは経営感覚の改革でもあるわけだ。

権限は譲渡できないが、責任は取ってもらいたい。だから仲良く責任を連帯できる社員を可愛がるのだと、上から下まで一蓮托生になった気分でいるのは、お目出度いかもしれないが、それが取り分け中小の企業には限界なのだ。責任などという言葉は、十年来聞いたことがないといった社員たちで、営業業績を目安に処遇を積み重ねていくのも、経営のモデルとしては典型的で分かりやすくもある。コスト、コストと、吝嗇以外に実現の手段がない掛け声を送っても、無意味な企業は山ほどあるのである。

かくして夢と希望を持って働くのはただのお題目になり、大半の人が働くことに願望を投じることはなくなる。それでもいいのだが、モラルの低下は忌むべきことであり、働いているうちに働くことが目的化し、楽しくなるといった環境は提供しなければならない。企業も難しい舵取りを迫られているのである。

 

 いとも容易く会社を辞めたなどと聞くと、羨ましいやら呆れるやらで途方に暮れてしまう。実直な相馬としては、会社勤めで自己評価の大半が決まっていると思えるので、他人事とはいえ神経が刺激されるのだった。

 陽気な合理主義者で鳴らす渥美から、一流どころは会社を移ることくらいで評価を切り下げられることはないと、知人の転身に理解を示しているのを見ると、住む世界が違うのかと愕然としてしまう。

 貯えがあれば豪胆に振る舞うことはできるかもしれないが、それがあったとしてもサラリーマンが会社を離れるのは清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要ではないのか。忠実な会社員であり、会社からの評価に阿っている観すらある相馬には、渥美の知人の話は信じがたかった。

「将来を約束されていたのに辞めてしまったんですか、その方は」

「そのようですよ。他を圧倒するくらいに優秀だったから、惜しむ声はあったんでしょうが」

 と、渥美はさばさばと感情を交えずに答えた。

「分かりませんね。私の会社でもリストラはありますが、そもそもリストラは働く意欲を失った人に退職を推奨するものでしょう。これから会社を代表することを嘱望されている人が、なぜ辞めたりするんです」

 解せないという顔つきそのままに、相馬は疑問の根源に迫った。

「エリートには会社が与えてくれるものよりも、自分の手でつかむ満足感の方が尊いんです。まあ、いろいろとあるにはあるみたいですが、基本は満足できるかどうかでしょう」

「あなたも規格から外れている人だが、その人もおよそサラリーマンらしくありませんね」

 サラリーマンが働く上で、会社がお膳立てをするのを期待するのはそれほどいじましくもないが、逆に自分が会社にとって利益になることを供与できると考えるのは、大胆すぎるきらいがある。特に謙遜して自分の仕事を小さく見積もる相馬には、会社の利益を個人の腕力で捻出するような状況は、少し度が過ぎているように思える。

 巨大な会社組織を神通力で支えているといった妄想は危険だし、一つ一つの仕事に責任を持って、部分であることに満足し、それが故に組織が機能しているというのが普通の会社員の感覚である。天佑に頼るならともかく、奇跡的な力を発揮できるからこそ自分は会社にとって必要な人材なのだと結論付けるのは、滑稽味を通り越して寒々しい。

 ところがいったん口上に上ってしまえば、理屈では説明できない才能というものを認識し、組織の中に根付かせることをイメージできないわけではない。語るに落ちるだけの個性なら、存在しても害悪にはならないだろうとの計算も働きやすいはずである。さらに語り手を経由することで、特異な存在がある程度まで記号的に腑に落ちる表現になり変わることまでも期待できる。

 理解者が一人いて、そこを起点に人物が投射されるのなら、組織からはみ出してしまうような個性も案外枠の中に収まっているように見える。人伝に聞く人物評というのは、相馬でなくても不安げに、語り手の彩色を頼りに人物を思い描くものなのだろう。

 なかなかスケールの大きい人物のようだ。少なくとも相馬は渥美の言葉から垣間見たエリート会社員を、そう評価せざるをえなかった。会社勤めをすることで収入の道が開け、それによって満足感が得られると考えるのが、相馬を始めとする胆力に自信のない会社員の人生観である。会社なくしては個人の幸福は積み上げる基礎すらないと、半ば依存を深めながら、時間が経つにつれ積み上がっていくものの増えるのに壮観ささえ覚えたりするものだ。

 それが会社という基礎を取っ払っても満足感はそれ以上に手に入るものだという。会社を辞めて肩書きを失っても、なおさらのこと充実するのが分かり切っているとでもいうように、いかにも堂々としている、そんな人物の姿が想念の中に浮かんでくる。事実だけを告げて、話を膨らませる意欲をそれほど持っていない渥美を見るにつけ、その想念が妥当性を有することに確信を深めるのである。

 対比されるところの、堅実で冒険を望まない会社員には、エリートと同じだけの満足を得るのにどれほどの犠牲を払わなければいけないのか、判然としない。エリートには評価が切り下げられるという不安は当てはまらないし、実際に会社業績に大いに貢献して昇進してゆく。この決定的ともいえる格差を前に、堅実さを代表している相馬などは、茫然自失となってしまいそうになるのである。

 堅実なだけでは人のできない仕事をすることは難しい。語学や実学の知識で差をつけ、能力において希少価値があれば、人に先んじることができるのか。誰よりも自分がその仕事をすることが相応しいと、周りをすべて説得できるものなのか。

 やはり、エリートには基本的な教養以外にも、機微を見抜くだけの立ち回りの巧みさがあるはずである。だからこそ、堅実な会社員が雁首を並べて二の足を踏んでしまうところでも、名乗りを上げるか、指名されるかで、その人がいるということを示せるのである。相馬の会社にもそんな一流の才覚の持ち主はいるが、絶対数が少ないだけに雲をつかむような話になり易い。

渥美が話した会社員も、会社では名実ともに実力派だった。件の会社員とは鵜殿のことである。鵜殿は自分がエリートであることを鼻にかけない分だけ、渥美に慕われる基礎ができあがっていたといってよく、それは伝え聞いた相馬にも仰ぎ見るような爽快感を与えた。頭に思い描くだけで、心地よくなるような人物の器の大きさがあるのだ。さながら、人物評をしたくてしょうがなくなるような、魅力的な人間味が備わっているのである。

鵜殿はいい男だけに、評する渥美も地均しでもするように前途を容易にしようと、気を遣いたくなるのだった。高々噂話をしたくらいで株が上がるようなものではないが、人物としての確かさを側面から支えるような気構えは、巡り巡って何らかの効力を付加することがある。余計な御世話といってしまえばそれだけだが、世話好きな人間にはそんなことはお構いなしに関わりを深めたくなる、人生の味わいのようなものがあるのだ。

甘美で心地よいばかりが人生ではないが、エリート会社員が会社を飛び出したという事実は、渥美にとって人生のエッセンスを凝縮する一瞬のように思われた。それを相馬に伝えることで、自分自身も納得しているふうである。相馬は仰々しいと感じたものの、素直に気分の大きさに同調し、鵜殿の今後の活躍も含めて予断を抱いた。

 人に惚れこまれるような人物なら、どこに出ても恥じることなく軽快に立ちまわれるのではないか。簡単に言えば相馬は鵜殿のことを知らなくても、感情が寄り添おうとする時の抵抗感のなさに、想像すべきところは大方決まり切っているように思えるのだ。エリート会社員が稼ぎを得るためにあくせくすることはなく、会社に憐憫の情を抱かせることなどさらさらなく、どこまで働いてどれだけの稼ぎを得るつもりなのか、阿吽の呼吸で読み切れるところがあるのである。会社はその背景を見知ったことで処遇においても細やかさを発揮し、結果としてエリート会社員は満足な稼ぎと待遇に浴することが適う。それがよく訓練された大人の感性に基づいた推測であっても、近似値を示していると確信できないなどということは、渥美の話しぶりからする人物像には似つかわしくないようだった。

 痛快なまでに速力を上げて、雲を突っ切っていくようなジェット機を、青空に眺めるような気持ちが、相馬にはあった。ピカピカの機体を翻して天駆けるジェット機だから分かりやすいのであって、これががたの来たおんぼろだったら、不安感が経験則から導かれて憂鬱になるだろう。

 そういうことがないのが、鵜殿に関しての話の巡り方だった。なかなかの男っぷりであることが伝わり、渥美の話術の巧みさもあるだろうが、相馬は会社が必要としている能力について考えさせられ、そこに明るい兆しを感じた。

 できないことばかりを要求されているように感じるのは、自分が能力について追求するだけの目線の確かさに自信がないせいだろうと、相馬は思い至った。それというのも、他とは隔絶された秀麗な会社員像を提示され、吟味することを渥美に勧められたからである。能力は開発する先に念願を果たして実現する実像を思い描けなければいけない。仮初めとはいえ、優秀な会社員について目先が向いたことは、幸運だったかもしれない。

 リストラでかまびすしい時節柄、相馬は能力が低どまりして解雇の危機にある人物のことばかりが頭にあった。会社が業務から切り捨てる最低線というものを具体化するために、退職を勧奨される人物を念入りに観察するようなこともした。常に利潤を上げなければいけない会社にとって、業務に貢献できない人物は、その最低線を割り込んでしまった、能力が期待に満たない致命的に必要なくなった人材なのだ。

 その現実の前に、目が眩む思いがするというのは正直なところだろう。どんなに頑張っても能力が評価されない人がいるのである。相馬にはその事実に気持ちを重ねるだけで、全精力が尽きるような感覚があった。ところが、優秀な人間は、と目が向いた途端に、最低限必要な能力から目線が解放され、個々人の個性に応じた能力の発展というものが見え始めるのである。

 これが相馬には新鮮で、偶然とはいえタイムリーでもあった。足切りラインを見ながら、びくびくと背中を向けっぱなしになるということが、卑屈に思えていた矢先である。全能力が凝縮された個性というものが、会社組織で最大限に活用されるのだ。これほど気分のいいことはない。自らも会社組織の一員であり、ひとつの処遇の典型例が存するだけでも、相馬には展望が開けるような気がするのである。

 考えてもみれば、相馬はコストという魔術的なまでに個々の能力を凌駕するファクターを、職業として追求する立場にある。コストさえ圧縮すれば、どのように経済環境が転じても闊達なまでに利益を導けるのである。この営利の究極的な指向性に関して、疑問を差し挟むのはどこか野暮ったく、利益を上げる企業が最も美しい組織であって、この世界で必要な心構えの大半はその組織に適応することであるという、通念が出来上がる。

 まったくもってコスト削減とは罪作りな発想である。能力という数値化しにくい要素よりは、明確に数字で弾けるコストに目が向くのは、合理的な経営を心掛けるなら当然ともいえる。しかし、数値化できない能力は利益に貢献する余地がないといえば言い過ぎであるし、エリート会社員はコスト的に有用な雇用であると表現することもない。

 ここでの相馬はコストをカットすることに執念を見せても、人を憎まないのである。コスト意識が陥りやすい難所を、意図的に回避しているからだが、それは人材の過不足にまで言及しないことを意味する。人事は経営判断であり、部署違いの相馬が意見しても煩わしがられるだけであって、現にどう人物が機能しているかは現場でみなければどうにもならないとはいえ、部署ごとの責任者の頭越しに意見するわけにはいかない。

 会社組織は人材を部署し、機能させるのに最善の選択をしているつもりでも、個人は能力という尺度で判断するには手がかりが薄すぎるがために、常に最高に機能する部署ができるわけではない。どこか歪に見え、機械のように完全に目的に合致した働きを見せることは稀で、それを能力に還元しようとするのは飛躍しすぎの観もある。

 この能力への全幅の信頼が失われている会社社会にあっては、コスト意識というものが何か酷な要求のように思えるのも仕方がないのかもしれない。人格を代表しているはずの能力が、コストの前にひれ伏して僅少な価値しか認められないとしたら、努力して能力を進展させようとする向きは徒労感を味わうだろう。あなたを雇うのにもお金がかかっていますよという、通告自体に害はなくとも、利益との比率において傭料が過大だというのならば、批判の意味を込めた通牒になる。コストの前に能力はいかにも無力である。

 それが、鵜殿の話を聞かされると、喝采を送りたくなるほど気分が晴れるのだった。羨ましいと思う以前に、相馬は現場においてコストの非情さを知りすぎてしまった。能力は言わずと知れた個性であり、個々人の才覚において伸ばすものであり、これをして一律に利益の前に並ばせるのは、会社のためであって会社員のためではない。

 尺度としての能力は、コストのように厳格な指標の前に、二次的以降の存在感しか示せないのである。エリートはそれを覆すくらいに利益との密接な関連を認められているのである。いわば能力の指標化に一役買っているのである。営業成績などで個人の能力を数値化する努力は行われているが、運や受け持ち営業先の難易度など、数字にならない部分は多く、やはりコストという最終分岐点を示されるほどには、会社員にとって重要ではない。そこで群を抜く貢献を見せて、コストの再計算までしなければならなくするのがエリートである所以である。

 眩しいほどの存在感。言葉から膨らんだ鵜殿の人物像は、相馬にとってコスト意識をものともしない、会社員としての一つの到達点のように思えた。少し褒めすぎかもしれないが、横並びで仕事の能率に関心を持たなかった、いわゆるリストラ社員と比べると雲泥の差があるのだ。能力で抜きんでることは難しいが、コストの前に意気消沈しないことくらいなら誰にでもできそうである。その模範としてのエリート会社員は、相馬の日常業務の中で、渇望するほどに必要性を感じていたものに近く、個人としての自立と職務への責任感をもって他の社員を牽引する。コストの大波を被っても足元が揺らがない、ひとつの理想である。

 

 公務員が商売をしても成功しないというのが相場である。近年の第三セクターはことごとく破綻しており、官庁主導で商売をという声はほとんど聞かれなくなった。経済感覚が狂っているとか、利益に対してシビアになり切れないとか、破綻した後の言われようは様々である。

 経済指標に最も身近に接して、社会構造も熟知しているはずの公務員が、こと商売に限っては失敗を繰り返すのはどういうわけであろう。

ひとつには、第三セクターでは公益性と営利を両立させるのが難しいからともいえるが、それだけでは知性に秀でた公務員が、会社運営において素人同然なのを説明しにくい。やはり、独立行政法人の例を見ても分かるように、無制限に資金を投入することに慣れ切っているからだと思われる。公が関われば破産はしないという安心感が、公的企業を不効率な赤字企業にしてしまうというのが自然な考え方であろう。

公務員に公的企業を経営する才覚がないということは、すなわち国家の運営においても経済感覚は信用できず、赤字垂れ流しを安易に容認するということである。国債を無制限に発行して財務体質を弱らせ、やがては増税論を活発にして先行きを暗くする。国家をぎりぎりのコスト意識で切り盛りしようという気は毛頭なく、優雅に立ち振る舞い、優越性を誰もが認める地位に留まることが公務員の基本的な態度である。

それが国家を代表する職業である官僚のあるべき姿だと、頑なに信じ込んでいるふうでもある。紳士然とした人物には利益を貪欲に追求することは似合わないが、まさにその利益こそが会社の生命線であり、帳簿ではなく頭で利益をイメージできないと経営の指針が成り立たない。公務員は行儀が良過ぎて経営の舵取りはおよそ無理だというのが、一致した意見であろうが、公務員にはその自覚が薄く、財政投資という巨大な額の経済活動を担うことに旨味を感じている。

民間の経営感覚の導入は欠かせないといえるが、これが官民の癒着をもたらすことを恐れて、現時点では人材の交流は消極的である。逆に民間に官僚が流出して、経済界の意思を統一しようとの動きも目立つ。

官僚の経済感覚を信用できるかは、厳しい論者ほど悲観的にならざるを得ない。三鷹を評する井伏の目も、友人だからというのを差し引いても、芳しくない経営センスをしていそうだというところからは抜け出してこない。三鷹は財政投資よりは減税をとの私見を持つ鋭利さもあるが、一般的には公務員が経済のイニシアチブを握ることに不安を感じる、典型的な官僚である。井伏の見立ては当たらずとも遠からずということである。

官に情報を集めても、官には民間ほどの経営の覇気は望めないし、徴税で集めた資金をどう使うかについても、社会福祉という公共で担うべき領分を超えて、経済政策を積極的に提案するにはどうあっても大義名分を必要とする。日常的に経済指標を観察する立場にありながら、施策については名目がなければおこがましいと見られるのである。これは官が構造的に責任を分掌していないことに由来する。

経済政策を実行し、選挙によって政治的責任を持つのはもちろん政治である。官僚は知識豊富で、経済指標に精通していても、下命があるまでは動きが取れないのである。しかも、経済感覚については、驚くほど鈍磨しているのが通常であり、彼らの判断は一見すると正論のように見えて、内実は代表的な指標を操作して辻褄合わせをしているのと変わらない。官に情報を集めるのは、それによって政治が正確に動向を把握して最終的な決断を下すためである。

官が情報を握っているのは、官が優秀で判断力に秀で、政治に的確な献策ができるからではないのである。通説通りに行動することが、政治責任を回避する方法でないのと同様に、情報を通説に沿った形で集約するのが官僚の義務というわけでもない。飽くまで加工を加えない生の情報を政治に提供することが期待されているのに、通説はこうでありますと付言することが必要かどうかはおのずと明らかであろう。官僚は判断を棚上げしてもいいから、可能な限り現況を正確に把握することを求められているのである。

これを勘違いして、情報を集約するからには、それがパワーにならなければいけないと考えるのも無理なからぬかもしれない。情報さえ集まれば率先して行動に移すことが可能であり、その行動を制しているとの実感は、まさしく権力に酔うということである。いいところは政治が全部持っていって、愚鈍だろうが知識薄弱だろうが、全責任を負うのと引き換えに誉れも彼らに委ねるのが妥当なはずだが、それに反発する公務員もいるのである。情報を得ている自分たちこそ真のパワー・エリートだと、主張したくなる気分は、サラリーマンなら分かるだろう。情報を集約して辻褄合わせをしているうちに、それが如実に政策に反映されることを、権力の所在は官僚にあると錯覚するのである。

現実には責任があるところに権力もあり、官僚には自己主張をする機会は与えられていないから、三鷹のように損な役回りを自認していなければいけないが、職務上の守秘義務を見る限り、その態度は傲岸で寄りつく者を撥ね退けているようにも見える。それだけの貴重な情報を集めうるのは官だけだが、彼らが守秘しているのは公務に伴って知り得た情報への配慮だとしても、情報に接しえなかったジャーナリストなどは権力の存在を勘ぐるだろう。

意図的に情報を隠蔽すれば最終的な結論が変わってくることもあるから、情報守秘は権力だといえないこともないが、基本的には職業上の秘匿は慣行であって、個人の権力意識を満足させるものではない。公務員が職務上知り得た情報を報道に対して筒抜けにしてしまったら、場合によっては危なくて情報集約に差し支えるだろう。プライバシーや営業上の秘密など、報道には馴染まない情報は公務員の口からつらつらと出てくる方がおかしいのである。

 公務員の側には官僚独裁などの観念はなくても、ジャーナリストとの接し方によっては、それを疑われることがあるのは注意を要する。報道で作られたイメージからすると、官僚は権限を過剰に有していると非難されている。確かに官僚には許認可行政という権力の側面はあるが、権限を与えているのは政治である。原始的に官庁が存在して権力的に行政を運営しているとの観察は、官僚を知らないが故の誤った憶測にすぎない。すべては立法によって定まるのであり、議会に権威がある限りそれは国民の総意である。許認可を官僚任せにできないというのなら、民間で運営することも可能なのだ。一概に官僚だけが悪いと責めるのは、物事の真実を捉えきれていないようで、どこか空々しい。

 今日の官僚の過大評価は、マスコミの生んだ幻想だ。官僚のどこに権力への渇望があるのか、指摘できないのではないだろうか。小役人の中には、行政はお上の仕事だからと尊大になる者もいるが、大半は同僚の冷めた視線に触れるうちに、居丈高になることに居た堪れなさを覚えるようになるものである。抑制は十分に効いているし、今さら官僚の天下にしても彼らが権限に見合った働きをするとも思えない。

 公務員は政治家の前に忍従を強いられる、ある意味卑屈にならないと精神的に穏やかでいられない、損な役回りなのだ。この趨勢は十数年来変わっていないし、マスコミ報道で叩かれるほどには官僚は権力の中枢に近くない。

 しょぼしょぼと疲れた目を休め休め、溜め息を吐くことすら許されず、堅実な働き手であることに満足を求めるというのが、公務員の実際の姿である。権力を牛耳り、社会を壟断して、好き勝手にやっているという印象はない。

それはむしろ、独立行政法人などで、無駄に国費を浪費して油を売っているところから来る印象だろう。桁外れの予算を投じて公益を増進するという役目を仰せつかっている割には危機感がなくて、いかにもお役所仕事の延長線にあるというふうに、広報にも守秘義務を持ちこんで密室で仕事をしたがるから、マスコミに叩かれるのである。謙譲の美徳を理解する人物をトップに据えるだけでも、随分と実情は変わってくるだろうが、独立行政法人の例は公務員の体質を表しているとしても、公務員全体を代表しているわけではないのである。

昔も今も、公務員はシャツの袖をすり減らしながらデスク・ワークをしているというのが、現実的な公務員観だろう。公務員に過剰に期待しても、彼らは情報を集約するだけの中継地点であり、最終的に情報が届けられるべきは政治であって、そこに情報が到達しているかで公務員の仕事ぶりを測るならともかく、中継地点で情報を秘匿されたからと憤慨するのは妥当ではないはずだ。

もちろん開示しなければならない情報は、求めに応じて情報公開しないことには、透明性が保たれずに腐敗を招くが、情報を開示しないことの弊害よりも、情報を秘匿することにより利益が得られるという構造のほうに、より大きな害悪があることは言うまでもない。情報を開示するに際しては、性質が許す限り絶対的に公表するのが正しく、プライバシーや行政上の調整業務であることを理由に非開示にする場合はあっても、ごく例外に留まるべきである。

そうでもしないと、公務員は権力への容喙を疑われるのである。権力は投票によって付与されるものという観念が一般的になりつつある中、それに逆行する行政観はもの笑いの種にしかならないだろう。公務員同士で自浄作用が働く環境を維持できる限り、公務員叩きは無用である。

ただ、権力がスケープゴートとしての官僚を欲しているということも、見逃せないほどの説得力がある。政治が決断できないでいるときに、決断するだけの情報が上がってこないのは官僚のせいだと非難するのは、安易ではあっても、黙視することのできない意見である。情報統制するだけの組織の実態が伴っていたりすれば、まさに官僚による政治の支配も疑われる。そんな間抜けな支配者がいてもすぐに排除できるのだが、問題はその組織を容認した政治の見識のほうである。決断するのに情報が必要なら、情報を集めるだけの権限を与えて組織を機能させなければいけないはずである。それをせずに、情報不足を理由に官僚批判をするのは、順序が間違っているのである。

政治もマスコミも、そして非難される側の官僚も、何か噛み合わせの悪い歯で咀嚼しているような不思議さがある。いったい何が彼らに不合理な結果に甘んじることを強いているのか、それが分かれば絶大な発言力を得られるのではないか。それ以前に不整合をきたしている事実関係は整頓して、批判が批判として耳に入る状況を作らなければならない。

すべきことは多いはずだが、国家財政が危機に瀕してもまだ官僚批判という基本的なところでうろうろしている政治は、かなり危険だろう。何か別のところに意図があるのではないかと、勘繰りたくもなる。目を向ければ官僚は相変わらず職務に忠実に働いているだけで、特に変わったところはない。彼らに経営のセンスがないことは言わずもがなで、彼らに経済の常識を教えるくらいなら、民間から登用することを考えた方がいい。それが直ちに官民の癒着を想起させるような、構造のほうに問題があるのであって、政治は率先してその状態を解消すべきなのであるが、報道されるように官僚の抵抗なるものが本当にあるとしても、無策を責められるべきは政治であることは間違いない。

断行すればいい。隷下にある官僚が政治に刃向うなどという現象が、現に起きるというのなら鎮圧してでも構造改革をしなければいけない。口先で抵抗があるといっても、それを圧するだけの権限が政治にはあるのだから、説明を尽くして議会に諮ることを恐れる理由はないはずだ。実はそれをしたくないのは政治の方ではないのかという、穿った見方が可能なくらい、随分長いこと二の足を踏んでいる。

これには三鷹もげんなりしていて、組織に権限を与えずに批判だけするのはご都合主義ではないかと冷ややかである。政治に期待せざるを得ない状況にあって、政治が失点することを恐れるのは自然なのかもしれないが、それでもお定まりの官僚批判が出てくるあたりに、手綱捌きへの不信感も募る。八方ふさがりになる前に備えるのが常道であるが、政治にはそれをするだけのイマジネーションが欠乏しているのか、組織自体には弄るところがないと判断しているのか、目立った改革には着手していない。

今、政治の舞台で何がしたいのかを明確にしないまま、経済だけは維持したいといった態度でいることが、本当に官僚の不手際によるものなのか、考えれば明らかであろう。官僚は権限がなければただの待機要員である。待機要員を勢ぞろいさせて、隊列が美しいから部署は上手くいっているということができないのも、当然である。政治が決断を回避したがる理由があるから、体よく批判の矛先が向く官僚組織には、今後ともそのまま批判を受けていてもらいたいのである。

決断回避を目論む理由の最たるものは、もちろん責任回避である。官僚組織には長年かかって細かな規律が敷かれ、経済もある程度の規則性が通わせられる程度には手懐けてきた。いまさらこれを弄ってあちこちに手当てをしなければならないとしたら、草臥れ儲けではないのか。多くの政治家にはそのような懸念があるに違いない。

コントロール可能な範囲で規則性があるのが、政治にとっては一番都合がいいのである。社会科学において規則性の発見は麻薬的な意味があるのである。いったんそれを常態と見てしまったら、そこから外れることは波乱どころか、情勢の悪化を思わせるには十分である。各指標が下振れたら、規則性の破綻に理由を求めたがるのが、健康な価値観を持った人間の常なのだ。

しかし、成熟がある時点から老朽化を意味することは、人間も社会も同じである。部分が機能しなくなり、弊害が多発する。これに手当てを施すのは政治の役割だが、政治が決断を先送りにする限り、公務員は古い枠組みでなしうる限りのことをなし、安定的に社会を推移させなければならない。強制力のない行政指導が多発されるのは、こうした社会の変動期である。民間の主体と合意を持ち、積極的に行政目的を達しようとするのは、行政の使命といっていい。それをせずには、社会の変動を乗り切ることはできなくなっているともいえる。

公務員には制度の変更はできないが、設定された制度の枠組みの中で努力することは求められているのである。制度そのものが人間生活に適さず、苛虐的ですらあるときには、各陳情などをまとめて政治に具申しなければいけないが、そこで声を圧殺するのが第一義的な権力であるとは、普通は考えない。そこまで卑屈な権力観を持つ小役人がいたら、政治が厳しく統率して改めさせなければいけないが、もとよりそんな職場であると侮られるほうが悔しくはないだろうか。

マスコミの官僚叩きは一過性のブームのようでもある。どの文面を追っても、抽象的に官僚が既得権益を揮っているとしか書かれておらず、具体的に許認可行政においてどのような弊害が生じているのかには触れられていない。もしかしたら、官僚が権力的に振る舞っているという現象は実在しないのかもしれず、ジャーナリストの作文だとしたら、かなり悪質である。三鷹はそれを井伏に告げたことがあるが、井伏は権力の袋小路に集まる怨嗟の声をいくつか挙げ、常識では考えられないような作文が時としてその無念を晴らすことになるのだと説明した。国家が民主主義で運営されていることは疑いようもないが、権力は宗教にも習俗にも金銭にも宿ることを、井伏は知っているのである。民主主義が権威的でも、絶対ではないところに官僚批判のような怪しげな文章が跋扈する原因があるのである。

政治もそれに便乗して、官僚は俗悪な権力欲に染まっていると非難することがあるが、それを改革し得る政治が口先だけの非難を符牒のように唱えることに、どんな意味があるのかマスコミはそちらを国民に報せるべきだろう。

公務員は生活が保障された優雅な職業であるが、それが故に経済感覚は劣等生で、商売には手を出すべきではない。その公務員が国家経済を牛耳って、財政の蛇口を捻ることのできるのは我々だけですよというメッセージを発するなら、その時は官僚批判をしなければいけない。だが、それ以前の段階で、公務員が情報を統制していることに腹を立てて軽率な批判をすることは、国民のためにならないし、政治が報告を求めて拒むようなら、公務員を更迭するほうが今後のためになるのである。経済を任せる際に、組織を上げて利益誘導しているような印象を持たれる官僚ではあるが、どこにその権限があるのかを思えば、すぐにそれが不当な批判であることに気付くだろう。もっとえげつなく言論を誘導しようとする、金の亡者の存在を疑う方が現実的である。

 組織に権限を与え、どう活用するか決めるのは政治の役割である。経済政策も公務員の立案に依ることはあっても、それを採用するのは政治である。経済を公務員の決断に委ねるのはナンセンスであり、そんなことをして喜ぶのは責任を回避したい政治だけなのだ。経済に全責任を負いますと、政治が予算を握って財政投資を切り札にする限り、官僚はその手続き上の輔弼者にすぎない。誰に決断を委ねたのか、それを国民は見なければいけないのである。

 結局のところ、非難されている者が最大の障害であると考えるよりも、活発に非難している理由を知ることに一分の利がある。政治も官僚もマスコミも、それぞれの理由を抱えて働いている。その理由が明確に示されるとき、社会の構造が透き通るように可視化されることを知るべきだろう。

 公務員は損ばかりしている職業である。職業的性癖として駄々っ子のような政治家を上長に仰ぎ、公務員が職業上知り得た情報を余さず知りたがるジャーナリストにはせっつかれ、気の休まる暇がない。それでも三鷹は健気なまでに職務に忠実であり、まるで借金のかたに売られてきた丁稚奉公人のように働いている。彼がにやりとして井伏を見るとき、その目には友誼の感情と共に悲しみがあることは、長い付き合いを通して浸透するように伝わってくるものだと、ジャーナリストとの端くれとしての井伏の念頭にもある。

 経済がうまくいかないという声は日増しに大きくなっていく。そのときに公務員が何をできるかについては、悲しいほど無力を自覚せざるを得ないのだ。三鷹は人と接するのに穏やかに実直であることができる。それは生活が保障されているからでもある。だが、経済を相手に奮闘するだけの、気概を保つのは容易ではなさそうである。

 

 大リストラが発表されて会社組織がスリム化するのに伴って、相馬は昇進した。組織の改編の結果、役員の直属の部署に従来の上長が転向し、空いたポストを彼が任されたのだ。

 している仕事は以前と変わらないが、裁可を仰いでいたのが自己判断に変わり、責任が増すのと同時に能率は向上したようだった。コスト圧縮という経営指針を具体化する尖兵になった気分だが、収入が増えた分だけ生活は楽になった。こういうときに会社への忠誠心は養われるのだろうが、相馬には会社に気に入られるだけを目標にするといった、人物の小ささは意外なほどない。成り立ちからしてせせこましい遣り繰りとは無縁である。

 夢がなければ会社勤めなんてできはしないのだと、自分に言い聞かせるように、そして僅少といえども夢見る心を持てたことに気持ちが奮い立つのだ。相馬は物作りの現場に立つことを望み続け、半ば会社からそれを許されているが、社業と自分のしたいことが一致することに、得も言われない充実感を持っている純朴さがある。

彼は自分の会社の製品が好きであり、ファンといっても良かった。量販店などで商品を比較するのは、骨董愛好家が掘り出し物を探す時の目に似ているし、自社製品に魅力を感じた時には、自分の関わった仕事を思い出して満額の喜びを感じるのだった。

いわば彼は夢の途中にいて、その夢が叶っていく瞬間を職業にしているのだ。これほど恵まれていることに、彼は感謝の念を持つほどたくましく自己肯定しており、退職者が続出する職場でも主体性は堅牢だった。他人は他人以上の価値がないと蔑むことはしないが、会社の仕打ちを恨むような待遇ではないし、懐柔されたかなと皮肉に思うことはあっても、他人との比較で主体格をぼろぼろにするようなことはない。

人物としての相馬は、甘さが指摘されることはあっても、進歩性を忘れる事のない青年気質を大事にしているのである。進歩は人間にとって欠くことのできない、充実感であり目標である。とりわけ若者は先へ先へと目を向けるのを自然体でできるが、ある程度経験を積んでからそれをするのは億劫で、過去の成功例を持ち出して未来に目を閉ざしてしまう。

歳をとることが苦痛になる人というのは、若年での成功があまりにも過大な自己評価の下にあり、未来はそれ以上の輝きを持たないのだと諦めてしまうのである。物作りにおいて、レトロが最新の技術に勝ることはまずないから、青年気質の喪失は重大な後退である。阻喪して付加価値を創出することに意欲が持てなくなったら、物作りなどはできたものではない。

夢を持って、未来の青写真を描き続けることでしか、相馬は職業を持続する熱意を得られない。それはさながら、永遠の青年たろうとすることと似通う。家庭を顧みないような無茶な情愛を持ち続けることとは違って、心が機微に触れて弾むような柔軟さがあるという意味での青年であり、すべての物作りの現場にはそうした活力が必要である。

周りを見渡せば、会社組織に対していかに自分を売り込むか考える現金な社員は、適性から言えば欲深すぎて夢を描けず、やがては気力が持ちこたえられなくなって辞めてゆく。リストラの対象になるのは、大方が会社と夢を共有することのできない、心の若さを失った社員である。我が社はこのように優れた製品を世に送っていると、胸を張れなければ製造業で働くのは辛いだろう。

 なにしろ、コスト意識は製造業を貫く一つのテーマである。どんなに優れた製品も市場で競争できる価格でなければ売れないし、日常的にコストを意識することでしかその逓減は図れないのである。素晴らしく廉価に高度な技術を活用できるということが、産業の雄足らんとする製造業の真価であり、消費をリードする基礎となるのがこの技術力である。

無論のこと相馬にも自覚があり、議論に参加すれば、現況の技術力でどんな経済社会を想起できるか試されるのだ。お互いの着想に刺激を受けながら、最後には漠然とした夢のような話にたどりつく、空想することの力を実感するのだ。製造業の会社員であることに醍醐味を感じる、もっとも典型的な瞬間だろう。

実現可能性は低いが、構想としては秀逸だというような評価を、それ自体には価値がないとしても、彼ら社員たちは会社の発展と重ねて見ているところがある。論理的には厳密な意味での提案ではなくても、経験から、この構想はマジョリティーを魅了するということを、察せられるのである。口八丁でいい加減なことを言っているだけの人も、夢を語るときには一人物として見られるという特典があり、大衆受けする辺りは常に多数の見識が交わる交差路になり易い。あまりにも現実味がなくて、この人は地に足がついているんだろうかと疑わしくても、大衆は愚かではないとの確証があるなら、大衆受けというのはそれほど捨てたものでもないはずである。

マジョリティーを相手にしているとの実感を、会社員は重く見なければいけないところがある。マイノリティーに徹底して好かれることは意外と簡単だが、マジョリティーには自分が属しているように思えても、その感覚が錯覚であることは度々であり、大多数を向こう手に商売をできるのはごく限られた常識人だけだ。平凡であることが武器になるのであり、苦労した割にマイノリティーの殻に閉じこもっていたというのでは意味がなく、誰が認めてはくれなくとも、自分の感性は大衆の嗜好と似通っていることを、良い意味で追求していかなくてはならない。

不安感に打ちひしがれて、数少ない共通項を挙げて、小さな集団に属しようとするのが凡人だが、そこから頭角を現してくるのが、才人が才人である所以である。人物としてのより大きな共通項だけで大衆の動向を左右する事象を見分ける、嗅覚が発達しているのが才人である。大雑把でありながら繊細さを兼ね、大胆ではあっても共感からは踏み出さない、相反するような資質を備えているからこそ、大衆の嗜好が手に取るように分かるのだ。マイノリティーであることに主体性の基礎を置く人間には、決して真似のできないことである。いかがわしさのない、徹底したマジョリティーの感性というものは、存在し得るのである。

それが相馬に備わっていたら、彼は失職を恐れなくても済んだんだろうが、現実にはマイノリティーに転落するのではないかという不安感は、誰にでもあるものである。特に、製造業は常にマジョリティーに向けて製品をプロデュースすることを強いられる職業であり、大量生産なくして利益の源泉は拡張しないという運命の下にある。マイノリティーで満足している限り、職業が形骸化するのである。それでは不都合なことが分かっているから、相馬は小さな主体性の保護を企てるよりも、より大きなフィールドで体ごと投じられるような、気持ちのいい全力投球を望んでいるのである。

その意気や良しといったところだろう。職業への適性を認められて、相馬は昇進したのである。これを不快に思う必要は微塵もなく、組織で機能すべきパートが彼に宛がわれたというだけの話である。自分は個人として尊重されるべきで、その個性は大多数の羨望の下に君臨するような輝かしいものである、とまで自惚れられる人間なら、相馬のように主体の弱い人間はマジョリティーにはなれないと言うかもしれないが、実際には個性を主張せずにはいられないほうがマイノリティーなのである。希少価値のある優れた個性であると自任するなら、何もマジョリティーである必要はない。希少価値を活かして、大多数を相手にすることを放棄したっていいのである。

だが、相馬は会社員である。ビジネスマンが商売をする上で、大多数を見ないということは許されない。大多数に相向かうところに商機があり、会社としてはそれを後押しし、組織を率いて利益の獲得に臨むのである。

この環境にあっては、大多数に属するだけの主体の中庸性とでもいうべきものが威力を発揮する。頭抜けていれば主体は完成度を増し、あらゆる塵芥にまみれても気位を保てそうである。その強固な牽引力があってこそ、マジョリティーは指針を得られるといえるが、灰汁が強い分だけマイノリティーとしての部位にも力点の置き方は強くなる。大多数の部位でありながら、少数の集団にも属しているというのは、自然なことではあっても、どちらに重きを置くかで主体性の保たれ方は変わってくる。

自分は大多数に属する平均的な感性の持ち主である、とすることが会社員にとって大きな安心材料になればいいのだが、仕事よりは私生活、あるいは個性であって、少数に属してきらりと光るのが美的にも納得がいくというのでは、両立するのはかなり困難である。有り体な感性が会社組織において才覚を発揮するための基礎になることは間違いなく、自己実現はその平凡さから具体化するものと考えなければいけないだろう。それが、会社員が己の幸福を考えるうえで有用な心構えであり、少数に属して主体を明確にすることを望んでは、営利活動とは反りが合わない部分が出てくる。

とはいっても、私生活を完全に犠牲にして、虚ろな思考を会社のために用立てるというだけでは、会社の営利事業は上手くいくはずもなく、どうしても活気づくだけの自己の確かさというものは必要になる。要は凡庸で平均的な感性を大切にしつつ、突飛ではない手段で自己実現を図れるのが一番いいのである。

その配分に成功した者は、出世する。どこからどう見ても凡庸で、ただし組織の中で機能する分には気構えが出来上がっていて、揺るがない。そんな人間は多くはないが、行動や思索のすべてが「当たる」可能性が高く、何をしてもリーダーに仰がれるだけの資質ありと、看做されることも度々になる。すべては平均的で取るに足らないと思われるところで個性が完結する、分かりやすさや受けの良さがあるからだ。

大衆はこのような受けの良さを好み、そこで思考が抵抗を感じずに馴染んでいることに安心を覚えるのである。消費という枠組みで観察すると、所得の処分はまさに自己の趣向に沿った形でなされる、つとめて自己本位な行動である。自分の意思が他律的な制限を受けないという点で、ショッピングは自己の解放にもなりうるのである。

そうなると消費動向を見極めるのは、気まぐれな人の自律性の軌跡を追いかけるようなもので、いくら正確を期しても最後には法則性に裏切られるというジレンマを生じる。商売が上手くいかないのは、こうした動向が念頭に描けず、消費に対応した商品、サービスを提供できないからである。この失態はマイノリティーほど犯しやすく、マジョリティーは自分の感性を信じているだけで、ある程度まで消費動向に沿った決断ができる。

翻って思うに、自己実現を自分の根源的な特徴である数少ない共通項に求めると、自ずとマイノリティーに陥り、そこから這い出すには、より凡愚な共通項を持ち出して媚びるように接点を築かないといけない。これではマジョリティーに属することに切迫感ばかり感じ、マイノリティーであることを放棄しないと、心は悲鳴を上げ続けることになる。心の拠り所を放棄してまで、マジョリティーにすり寄る必要はないが、職業への現実的な対応を求められる時、人はどうしても平均的な感性に頼る必要を感じ、マジョリティーであることに機能美を見出すのである。

いくらマジョリティーでも確実に消費動向を捉えきるには才能が必要だが、おおよその動向を判断するのに平均的感性が武器になるのは確かだ。商売をするのに凡庸であることは極めて有用であり、百人いたら百人が同じ感じ方をするだろうといった、その平均値を見極めればどんな商機も完全に捕捉できる。マイノリティーであることに喜びを覚えるような特異な嗜好の持ち主は別格として、通常はマジョリティーに属することに主張の背景を預けて、自分の立場を説明することは省略するものである。苦労しなくても通じ合えることを最大の喜びとする、主張の弱さが責められることはないのである。

凡庸であることを使命とする、職業上の要請はあると考えるべきだろう。消費の動向が見えなければどんなに趣向を凝らしても独り相撲であり、産業においては趣味人の無駄な活動と大差なくなってしまう。やはり、必ずしもマジョリティーに属する必要はないが、平均的な感受性は産業活動の骨格であるべきであり、だとすれば人並みに関心を持って世間並みの豊かさを享受することも職業人の使命とはいえないか。

そこまで思いつめることが有用かはともかく、相馬は昇進を小躍りして喜ぶような浮かれ方とは無縁だ。ここまで地道に活動して、社内で地歩を確実にしたことで、意外に早く功績が認められたという感想である。運任せではなかったし、運を引き寄せたのだと強気になるくらいの努力はしてきた。彼は主体が揺らぐほど弱くはないが、大多数に属しているとの安心感から飛び出してくる勇気もなく、またそれが仕事を進める上で潤滑油になることを十分に承知している。

私は凡人であると言いきれることが、平均的感性で社内での発言を強化することにも役立ち、相馬を順調に出世コースに乗せた要因であるといえる。決定的にマジョリティーの枠組みから外れないことで、返って主体は鮮明になり、大わらわで自己を確立しようとする滑稽さからもその人を遠ざからせるのである。相馬には心の支えになるだけの自己肯定が、平凡さの中に出来上がっていたのである。それができるところに彼の個性の強みがあり、四捨五入しても平均以上ではあり得ないといった凡庸さも、彼にとってはかけがえのない一個の人間が世界と対峙している、そそり立つような緊張感が伴っているのだった。

人が悪い人に言わせると、牙が抜けた犬のようだと揶揄するかもしれないが、どう転んでも害悪にはなりえず、その安定感から共感が沸々と湧き上がってくるような、人物としての確かさは疑えない。人が何事かを委ねる気になった時、独創でしか測り得ないといった数奇さは必要がなく、ただ人物として共通の思念を構成できればいい。すると、思考の働きが自己実現を経由しているかはあまり問題とならず、悩んで紆余曲折を経ても同じ結果を見通せるような、平凡さは大いに愛するに値する。

ただ、それが俗っぽくなってはいけないのであり、公という場に差し出される主体は、聖俗でいえば聖でなければいけない。財貨に貪欲であったり、色香に迷ったりして、俗な部分が大きくなるにつれて、共感に供されるべき無私の部分が減退し、結果として人の信用は得られない。

信頼を得るためには平凡であると同時に、精神が清くなければいけないのだろう。ビジネスにおいて信頼を得ることは、千金の価値があり、あらゆる契約は相互にビジネス・シーンでの適格を認めることにより成立している。上級管理職になった相馬にもその舞台に上れるだけの実績があり、また役者として過不足がないという自信が加われば、躍進はもうすぐ側にまで引き寄せられている。

特に秀でているというわけでもなく、際立って会社への忠誠心が高いわけでもない。言うならば相馬は会社が子飼いにしたがる人物ではなく、そのビジネスにおける適格性を見込まれて順当に席次を上げてきたにすぎない。会社が彼を見る目には冷めたところさえあり、しかしながら熱気で我を忘れるということがなかった分だけ、評価の妥当性には一分の隙さえもないのだと胸を張れる。会社員として、会社に丸め込まれないだけの個性がありながら、会社にはそれを無用のものと窘められない、穏やかな境涯にあるのだ。

 

 創業は静かに、そして着実に行われた。

 鵜殿は会社を設立し、ビジネス街に店舗を構えて営業を開始した。社長である彼が第一の営業マンであり、一昔前に戻ったように軽快な足取りで名刺を配り歩いた。反応は良く、会社設立の趣旨と営業方針には、顧客から賛同と励ましの声もあがり、順調な滑り出しとなった。

 営業方針は単純である。会社の規模が小さいことを活かし、コストの戦いで優位に立って利潤の基礎を固め、やがては信頼をばねに大きな契約を取ろうという算段である。どこの企業でもやっていそうでいながら、会社の方針を最も理解した営業マンが顧客回りをする企業はほとんどないため、鵜殿の会社は抜きんでていた。

 たちまちのうちに旋風を巻き起こし、口コミで業界の一角に忽然と姿を現した。無駄な営業マンを雇っていない分だけ、ダンピングに近い水準で価格交渉をでき、同業他社は状況を確認するために無意味に奔走するなど、後手に回って新参企業の滑り出しを助けた嫌いさえある。

 どこの会社に畑を荒らされたんだ──。同業他社は担当営業を叱りつけ、情報獲得のために興信所まで使うところもあった。鵜殿の名前が知れ渡った時には、彼の会社は十分な名声を得ていた。価格において比する企業なしというのが顧客たちの一致した感想だった。しかも、商品自体は無理なく納入されるうえに、品質は他社の物と比べても遜色がない。同業他社はダンピングで叩くことを思い立ったが、価格設定の合理性という文書を鵜殿が顧客に提示したことから、恥の上塗りをしてまで顧客に食い下がる企業はなかった。

 当初は歓迎されていなかった鵜殿の会社は、実力を無視できないと分かった途端に盟主になるべきだと囁かれ、酒席にも招かれる機会が多くなった。世の中の怖さも知らずに出しゃばる者は、酒池肉林で我を忘れてもらおうということだったらしい。

 しかし、鵜殿は酒の席でも舐める程度に嗜んで、堂々と弁幕を張った。彼も時間の無駄遣いは危惧するところだったから、引きとめるのが目的なら彼の倍は熱心に、精密な文脈で語らないと、冷笑を浴びせられて彼我の違いを痛感するだけに終わるはずだった。そして、実際にその通りになると、鵜殿を個人攻撃するしかないのではないかと、酒気が抜けない顔で密談する、愚かしい光景も何度か見られた。

業界に革命を持ち込む男は通常歓迎されないが、しばらく不毛な脱落工作が続いた後、匙を投げて親しむことも憎むこともできなくなった企業経営者たちは、渋い顔で目減りした営業成績を睨みつけるのであった。

 高笑いで勝ち名乗りを上げても良かったが、鵜殿は人間が情念の横溢に耐えられない作りではなく、馬鹿げた連中を相手にすることで適度に神経も尖り、覇気に溢れた端倪すべからざる若き経営者として、全国に営業網を広げる手はずを整えにかかった。

 こうなってしまっては同業他社は惨めなものである。競争の限界だと思っていた価格水準が破られ、足並みをそろえて仲良く利益を貪るといった経営も否定されたのである。時間の猶予を与えれば、それこそ勢力図は一変する。

会社を経営するためのツールが格安に手に入るようになったからこそできる芸当であるが、無駄な人員を抱え込んで会社の体裁を旧態然のまま整えている経営者から見れば、鵜殿は異端であって経営の破壊者だった。

そんな男に業界を牛耳られたら、自分の子供ほどの歳の経営者を模範と仰がなくてはならなくなる。とはいっても、いろいろ試したが罠にかかるほど軽率ではないし、利益に目がくらんで顧客を欺くような失態もしそうにない。すべてがお定まりで、きっちり仕事をすることが要求されていた業界で、価格破壊などをしかける経営者が乱入してきたのだから、古い体質の経営者たちには衝撃的であった。それも、劣等感を会社組織を率いることで覆そうなどという小粒な経営者ではない。どこからこんな猛々しい営業をする人材が流れ着いたのだろうかと、苛立ちと羨望で思考が滞るほどだった。

これに対して鵜殿は、水を得た魚のように悠々と仕事をしていた。会社は少人数で切り盛りしているが、勤務時間中は手を休める従業員は一人としておらず、士気の高さが窺える。驀進するだけの優越性は鵜殿個人の能力に依存しているとはいえ、社員は己が何を期待されているかについて自覚があり、輻輳する業務には役割分担の意識が絶妙に働き、仕事のなんたるかを正確に把握していた。

もちろん核となっているのは鵜殿自身が引き抜いた人材だが、雇われ従業員でしかなくても、会社に貢献することが至上命題であるかのように、よく働いた。彼らにとっては毎日が業務拡大のための戦場であり、業務らしい業務に形を整えるだけの旧勢力とは、生産性が桁違いだった。

これを可能にしているのがコンピューターによる在庫管理システムである。会社立ち上げと同時に導入を決定し、前線の営業とバックアップの物流管理を一元化することにより、納期を安定させて売掛金の回収をタイトにしたのである。小資本の会社には営業規模の拡大に伴う資金需要はネックになるが、資金で手詰まりになることを避けるには、常に潤沢な手元資金を残すよりは、売掛債権を過剰に所有しないことの方が現実的である。オン・タイムで発注するシステムは、まさにこの資金の流れの停滞を防ぐための切り札であった。

システムが決まれば会社組織はそれに沿って建設すればよく、古臭い人間同士のリレーションよりはオンラインのコンピューターによる経営意思への統合が有利であり、業務を効率化する上でも欠かせなくなっている。いち早く会社組織を先進企業のそれに脱皮させることで、利権を守るのに競業者と馴れ合いを続けていた業界に風穴を開けることに成功したのである。鵜殿は会社経営から人間の要素が減り、均一化することで、スピードだけが競争の原理として突出することを見抜いていた。経営意思が難解な合議の仕組みを通さず、簡略な意思決定を通して形成される小規模な会社では、より一層そのスピードは威力を発揮した。会社の格式や信頼は重要ではあるが、旧弊が積もり積もってコスト高にあえぐ業界においては、納入コストを極限まで切り詰めた業態の登場は必然だったかもしれない。

ただの安売りだったら、営業が下品になって、品質への不安も増大するが、第一線に社長が乗り出してくる鵜殿の会社は、売り込みのスマートさで好感をもたれていた。他の会社の提示する価格が、価格カルテルの匂いがする高止まりであることは明白だったから、顧客はまずは小規模のロットで商品の一部を鵜殿の提示する価格で回転させようとし、無理なく納品されるのを見て、これなら必需品の調達を任せてもいいだろうというところまで判断が拡大した。

直近では首都圏の顧客は、大半が鵜殿の会社を信用のおける商社として認知し、年次を跨いで継続して契約するところも現れ始めた。目下の課題は首都圏での成功のモデルを、模倣されないうちに全国に拡大することである。感覚的に把握しているだけでも、人手不足になることは明白だが、求人を出して必要な人材を獲得するには、現在の労働市場は硬直化しており、単純労働と統括業務を区別して、単純業務は当てにしにくい一般求人で、統括業務は引き抜きで人を求めることを想定している。

ストック・オプションを駆使して、必ずしも高額報酬でなくても魅力的な給与体系にすることは可能であり、働くからには満足な報酬が欲しいという意欲的な人材を募集する上でも、重要な会社政策になるはずだった。ただ、金が総てだという貪婪な企業文化を築くことは不本意であり、会社業務を通じて社会に貢献し、産業の効率を高めて豊かさを享受するという、今日では常識ともいえる企業理念に共感できない社員は、なるべくなら雇わない方がいいのだろう。鵜殿には理想がある。企業が活動する以上は社員に遣り甲斐をもたらし、その成果を報酬として反映させられる公平な処遇を実現するということだ。

新興国では低賃金の労働者が物のように扱われているが、少なくとも成熟した経済の先進国では、労働が美徳として通用する水準に保たれなければいけない。遣り甲斐があり、報酬においても満足できるということは、労働に精力を注ぐうえで大きな動機になる。それを自分の企業でやるのだという意気込みが、鵜殿には心の底辺を流れる意識の中にあり、社員ともども幸福を実感できる働き方をするのが、社業を率いる社長の責任だと思っている。

 急拡大する企業を立ち上げたことで、社員に驕りが生まれることは心配だが、なしうることを全幅の信頼の下でなしているという実感は、そうした驕りを遠ざけるだろう。顧客には信用されなければいけないし、社長である鵜殿も社員に信を置き、彼らの自主性により社業が拡大するように方向づけなければならない。すべては人がどう信頼関係を築くかの、労の大きさに応じた見返りがあることにビジネスの醍醐味があるのだ。

 働くだけ働いて、何とか食っていければいいなどと、寂しいことを言う社員にはさせたくない。鵜殿は一生に一度くらいは花火を打ち上げるように、自分が活かされていると思える瞬間を提供したかった。会社業績が向上することはもちろんだが、それが社会にとって重要な変化をもたらしているということを、営業活動を通して感じ取れれば、社員は大きな世界観の下に立つことができるはずだ。会社が社会の基礎を織りなすだけの、生産的な活動をしているということが、可視的に分かるように社員に切り取ってみせるだけの、鼓舞の巧みさは伸びる企業ならどこでもやっていることだろう。

 我々の仕事の目的は、社会が低廉なサービスにより活性化し、豊富な商品により利便性を獲得することだと、鵜殿は折に触れては訓示した。抽象的で意識の改革には役に立たないと思われるかもしれないが、考えてみて思考が馴化するだけの根拠があるとき、人は自分の所業に深い自信を持つものである。納得するだけの意味を付与できた時、会社は金銭的な代償以上の報酬を用意したことになり、社業は大いに発展するのである。

 まだスタートラインに就いたに過ぎないが、鵜殿には賛同者を集めるだけのプランと、何よりそれを自己栄達の具材にしない清潔さがあった。僅か三ヶ月で借金を帳消しにするだけの営利を収め、燎原之火のように営業圏を拡大する様は、壮観というほかない。破竹の勢いともいうだろう。鵜殿と数人の幕僚だけでここまでやれたのは、ひとつには彼が力を前方に解放するだけの鋭気を持ち合わせていたことによる。絶対に成功するんだという迫力があり、それは学生のクラブ活動のように清々しい結束ではあったが、これにより誰にでも分かる形に一般化されたことは大きかっただろう。

 プランは蠱惑的なまでに魅力を発散し、それ自体が営業マンであるといえるほど、短期間で完成を見た。追随を許さないだけのスピードがあれば、一年後には名の通った企業の体裁を整えることも不可能ではない。ただそれは、コストにおいて優位性が薄らぐということであり、他の企業の真似ごとがしたいだけなら、企業の独自性などというものはこの世に存在する価値はなくなる。会社は株主の総意により方針を得て、社員の総力により営業を具体化するのだと、鵜殿は控えめながら自分の目利きに自信を持ち始め、勢いを駆って大望を果たさんとする意志の力で若やいでいた。彼の下では守勢に入るということは考えにくく、大掛かりに営業力を結集するだけの、企業の顔を作ることは意外と簡単そうであった。

 目に見える企業にすることは、会社のブランド化や品質やサービスへの信仰心を獲得する上でも重要な政策であり、一般にはブランド・ネームなどで会社精神の浸透を図るものだが、鵜殿は会社の気品は営業の巧みさで表そうという、少し浮世離れした構想を持っていた。離陸期間にそれを既に達成していた彼は、継続することで顧客の手の届くところに営業を定着させようと、色々と画策していた。

 その目論見が成功すれば、会社の処遇は安定期に入り、新たに社員を抱えることもかなり容易になるはずだ。一にも二にも計画というのが、鵜殿の思念にある会社経営である。だからこそ旧弊を批判する能力のなかった顧客を喜ばせているし、それが何よりも誇りである。力任せに市場をこじ開けたという印象がないでもないが、顧客の支持を得られない選択肢の縮小に向けては実力を行使しなかったわけで、スピード感を保ったまま小規模の資本で市場に価格圧力をかけるというプランは成功している。

 ただ儲けたいだけで創業したのではないから、報酬もかなりの大盤振る舞いである。会社を軌道に乗せることだけを意識した、経過措置ということもあるが、企業理念へのより一層の共感を社員から募るのに、必要であったからである。

会社の外も内も、企業経営への称賛が相次いでいる。満足感がせり上がってきて胸が塞がるほどであるが、それを持続するために鵜殿はさらなる一手を講じようとしているのである。

 

 ストック・オプションへの課税のされ方など、証券について助言を得るために鵜殿は卜部を食事に誘った。時価会計に忠実であろうとすると、株式の購入の権利というものはどう扱われるべきか、判断がつかなかったのだ。

 聞かれた卜部は懇切丁寧に簿記のテクニックを伝授し、鵜殿に知識が充足される一時を提供した。知識が血肉になり、新たな知識を呼吸するように呼び込む展開を、鵜殿は満喫することができた。すでに同僚と精密に反省を加えた会社経営のプランに、新たな知識が付加されるのを、壮大な追い風を受けるように構想できたのである。

そして、しばらく人に気を許す時間を持てなかった鵜殿は、気をよくして積極的に酒を進めた。健康そうな彼の唇が赤く濡れているのを見て、卜部は彼の気分を害する可能性を意識しつつ、若干ずけずけと聞いた。

「ご苦労はあるのでしょうか」

「まあね。大車輪の活躍をしているよ。五ヶ国語の契約書を使い分けられるのは私だけですから」

 酒気の薄い、臓腑で温められていない息を吐きながら、鵜殿はにやりとした。

「医療は閉鎖的な市場だと伺っています」

「古い体質は一掃されるべき時期なんです。医師には医療の高コストを是正するだけの発言力はありませんから、商社がコストの圧縮を提案するのには驚いていました。ですが、高齢化社会を迎えて、医療は変わらなければいけません」

「やはり顧客とのお付き合いで忙しいのですか」

 と、卜部は酔いたそうで酔いきれなさそうな鵜殿に問いかけた。

「酒はいわば相手を饒舌にするためのきっかけにすぎません。敢えて飲む必要のない場面は多いですね」

 卜部がその相手に相当するのかには触れなかったが、鵜殿は機嫌よくほろ酔いを楽しんでいた。

 酒が人付き合いの潤滑油になると看做されることは世の習いだが、近時は酒の力を借りて顧客に決断させるのは、あまり好ましくないことだと考えられるようになった。情緒が安定しない割に活発な形勢判断を強いる酒の席での商談を、上司が率先して勧める時代はとうに過ぎたと見ていい。

 酔客に懇親は分かるまいというのが、今日における普通の考え方である。無論、心を解放して大らかな気分で人と接する機会は、貴重には違いない。その気分がビジネスにおいて欠かせないということはないが、そこまで気を緩める余裕があれば、様々な心づくしもできるであろう。

 人と接するのに、全人格を晒すのは無意味なようでいて、かなり効果的に人心を掴む手段になる。酒は言葉では表せない、人間の深奥にある襞に触れるための場になるという意味では、他のものに代えがたいものがあるのである。

 ところが時勢は変転し、酒はプライベートな席でのみ嗜まれるべきものだとされるようになった。カラオケなどが普及し、酔いすぎないうちに切り上げるのが特に若者の間で主流になったことも大きいだろう。昔は酒の席でのマナーがあり、それを踏み外さなければ痴態を演じても大目に見てもらえたが、今はその痴態が致命的な侮辱と見られるようになって、全企業が横一線に並んで大海嘯のように押し寄せるのが経済だと看做された頃とは事情が違う。

 常にスマートに、理知的に振る舞うことが信頼の基礎であって、混濁一体となって心の友になることが重要だとは考えられないようになった。他人であっても、信を置くことができるという社会全体の文化意識の醸成によって、酒の文化は衰微に向かったということもできる。

 現実的には交際費の削減などで、振る袖がなくなったという見方も妥当するが、ともあれ酒客同士で腹を割って話し合うという古くからの文化は、ビジネス・モデルの西洋化に伴ってビジネスからは分離されたようだ。リテール担当の卜部などは、もともと酒でもてなすという文化との縁は薄いが、鵜殿については商社畑で交渉や調整は日常茶飯事であり、当人があまり好んでいなくてもしばしば宴席が設けられる。最近も競業他社から業界の掟を仄めかす宴席に呼ばれることが多く、可能な限り出席するようにはしていても、面倒臭いというのが本音である。

 酒量についてはいつも控えている鵜殿も、コミュニケーションをとるための宴席については必要性を認めざるを得ず、日程が詰まっていても時間は割く方針でいる。面識がある顧客との懇親なら気も晴れるのだが、面識のない同業者から情報交換を名目に高級な料亭に招かれたりするのである。相手は会長とか社長とかいう肩書の者ばかりで、彼らは外連たっぷりに親しみを醸そうとするから、鵜殿は時に微笑を湛えながら、時に舌鋒を鋭くしながら、業界人としての地位を固めつつあるのだった。

 大きな転機を夜の街で迎えることに、いかがわしさを感じないとしたら、昼間働くことから逃避するようなビジネスマンになってしまうだろう。夜の密談は効果的だとはいえ、そこに引き込まれて腐れ縁から抜け出せなくなることは、鵜殿の望むところではない。お互いにすべて素性を把握していて、異物感を覚えずに業界というものを合議で切り盛りしているような、悪しき友誼を結ぶことを強いられるのが日本の企業文化である。

 これのせいで談合やカルテルが締結され易いのであり、夜の密談はそれを大いに助長している。煌びやかなネオン街に黒塗りの自動車で乗り付け、豪遊して気晴らしをするなら可愛らしい稚気ということもできるが、そこで腕力を発揮しようとするから夜の街は恐ろしいのである。行きつけの店に応じて、力の勢力図のようなものができてしまうのである。いい店で遊ぶには権力が必要になることを、密談文化が必然ならしめているところがあるのだ。

 鵜殿が会社業績を伸ばすにつれて、その夜の街の勢力図を誇示するように誘いがかかるわけだ。豪胆な脅しに近い趣がある場合もあり、一朝一夕に勢力が築かれたのではないことは肌で感じるのだが、それに呑まれていては新風を巻き起こすことは叶わない。大御所に意見するのにはおこがましさもあろうが、経営は経験よりはイマジネーションであり、一々萎縮していては旧勢力に阿って利益を擲つようなものだ。

 計画的な社業発展が、威迫により衰えることがあってはならないし、業界という枠組みで利益の獲得機会が決定されるのも面白くない。やはり自由に意思する生き物である人間が、想像力の限りを尽くして競り合い、経済というフィールドで示現可能な精神を究めることが、美意識に適った経営であろう。枠組みを用意されて、右回りか左回りで出走してぐるぐる競走場を回るだけでは、楽しくもなんともないし、そんなものを経営と呼ぶのは馬鹿げている。

 会社経営が経営者を虜にし得るのは、自由な発想で経営資源を効果的かつ的確に配置できる時だけだろう。卑小な人格の持ち主が経営に憧れるのも、居丈高に命じて隊列が笛一つで整頓されるのが痛快であるからだろう。経営にはそのように命令と服従という要素が確かに含まれており、自分の人格を経済指標の上に位置づけたいと考えるのも、肥大化したヒロイズムからすれば自然な発想なのだ。社会において自分ほど価値のある存在はいないと反り返って視線を繰ることが、虚勢と分かっていても止められない人物は多いのである。

 そうした人物が相続や手違いで後継者に選ばれると、業界という枠組みは神聖不可侵なものと看做され、先行して出走している自分を追い抜くことは、後続には絶対に許されないという論理を持ち込むのである。現時点で鵜殿を悩ませている権威主義の一端を紐解けば、その倨傲のあり様が透けて見える。業界は高潔な血筋によって支えられるべき、特権に守られた利益集団なのだと、権威の裏側をみれば欲望ばかりが控えている。

 夜の街にはそんな権威主義が綺麗に色分けされていて、どこで飲むものはどんな業界で何位の序列にあるかということが、明け透けに見分けられるのである。一流商社に勤めていた頃は、彼が接待に用いる店は椅子に座っただけで若い社員の給与の一カ月分が飛ぶようなところだったが、小粒な専門商社が軒を連ねる業界に移ってからは、若干見劣りする俗っぽい店へと舞台が変わった。美しく気品も備えたホステスではなく、どこか病的な臭いのある生々しい女が酒を注ぐのである。贅沢に慣れていると酔えたものではない。

 そんなことはお構いなしに、自分たちの最高の贅沢だと思っている店で鵜殿と業界の今後について膝を詰めようというのだ。彼は痩せ細りそうになるほどの倦怠感を覚えながら、美味くもない酒を飲んでは、正論でやっつけてもいいだろうと意気軒高なところを見せている。酒の付き合いは不可避というわけではないが、あまり拒絶を鮮明にするのも人間としての器量の小ささを思わせ、どうしても付き合いには応じざるを得ないのである。

 こんなまずい酒を飲んでいる鵜殿だからこそ、裏表のない退屈な女でしかない卜部には、温かい情誼を感じるのである。決して綺麗な女ではないし、受け答えも事務的でややもすれば杓子定規だが、威圧してすべて自分の有利になるまでごり押しをしようという肚がないだけでも、鵜殿には気が休まるのだった。

 そして、砕けた席とはいえ、経営の指南も受け、充実感はただ呼び出されて自慢話を聞かされるのとは比較にならない。小さく舌を出して上唇を舐め、久方ぶりの美味い酒の味を記憶に留めようとしているのだった。値段からいえば高級酒ではないが、モルトの上品な味わいで知られるウイスキーは、彼の舌にも合った。しっとりとしたオークの刺激臭と、安い酒にありがちな渋みを、笑いを噛み殺しながら味わっているのは、彼が成功を半ば手にしつつあるからかもしれない。

 今後も頂上から一歩下のクラスの接待を受けることは多そうだが、そうした場では酒を注ぐのは格下でも、酒だけは一流である。目を瞑って飲む分には役得ともいえるが、なにぶん酔って楽しくなるわけでもなく、目の前には業界で許される節度というものを滾々と説く古狸がいるのである。酔うに酔えず、おっしゃることはごもっとも、しかし経営は仁義なきもたれ合いで維持するものではありませんと、真っ向から張り合ってしまうのだった。鵜殿は決して不器用な人間ではないが、攻めるべき時期に経営者が小さくまとまることを覚えたら、あっという間に旧態に丸め込まれるだけだと危惧しており、少し不躾なくらいに鋭利なほうが可愛げを感じてもらえまいかと、微妙なところで計算もしているのである。

 嫌われるくらいなら酒席などに応じる必要はないし、無論のこと理解を深めてもらうために杯を交わすのである。またまた食えない男だなと、老獪な寝業師を相手にするのに飽き飽きしていても、ぐっとビロードのグラスを傾けるのだ。その所作は、送り襟を締め付ける寝技の脅威に対抗するための、精一杯の意思表明である。落せそうで落ちない男であると、不敵なまでの自信を覗かせることで、険呑を避けようというのだ。いっそのこと潰してしまおうかという欲求にかられるのが、旧勢力の典型だから、用心はしなければいけない。

 だが、がちがちに形式ばって、処女のように男を警戒する目をしているのもみっともない。そこの辺りは大人の采配が役に立つ。付き合いが狭いほうではない鵜殿は、様々なケースにおける模範解答を心得ており、悪くしてもお約束通り、余裕があるようなら遊び心を出すという、酒の席での振る舞いも堂に入ったものだった。

 なかなかの男っぷりだということは、古い種類の男には一目瞭然で、鵜殿は辛辣な物言いの割にすれすれのところで憎まれていない。ご意見番ともいえる古株に遠慮なく物を言ったということで、返って信望を得るということもあった。

 しかし、大半は価格破壊を快く思っていない。罠にかけて失脚させようというぎらぎらした目で睨めつける経営者も、依然として勢力を保っているのである。戦いになるのか、目的地にいち早く達したほうが勝ちになるのか、状況は流動的だが、覚悟を決めないことには策略の黒霧が目の前から去ることはないだろう。

 息苦しい、視界も悪い、されども体は熱く熱気を保って活発であるという状況が当分続きそうである。酒が涙の味を醸すことは、鵜殿に限ってはなさそうである。

 

 相馬が昇進したということを聞きつけて、井伏が後学のために話を聞きにきた。井伏は相変わらず雇用問題を追っており、大量の解雇をした会社が社業をどう再構築するつもりなのか、大いに興味があったのだ。

 雇用問題の行方には相馬も関心があった。目の前から同僚が去り、必然的に気持ちが引き締まるのを、無関心を装ってやり過ごすのは難しそうだった。日常は相変わらずコスト、コストで、アイデアが尽きない限り全部やれという指示を受け、上級管理職として製品をエンド・ユーザーに送り出すまでの過程を吟味し、時には怒気を込めて部下を叱咤している。

 こういう状況下で、暢気に世間話をするのもどうかと思われるが、それを自然な形でできるのが井伏の人柄である。相馬は井伏を親しみではなく理屈で量ろうとしたことがあるが、井伏の情熱は内面で完結していないので、それが毒気であるかのように刺激を受けたのだった。単純なだけに、情熱という可燃材料を加える時の反応は激しく、井伏に安堵感を感じるほどの親しみはお座なりにされ易くなっている。

 それを井伏はジャーナリストの職業意識の表れと思っており、相馬が男同士の気兼ねしない関係を想像しても、そこからはみ出るくらいに癖が強い。理想を言えば、プライベートと職業には明確な敷居があり、立ち位置を変えれば意識そのものが転換されるように振る舞うのがいいのだろうが、大抵のサラリーマンは職業にプライベートを従属させることを好む。職業に金銭的な裏付けがあり、社会的にも認知されていることから、まったく世間の関心の対象にはならない私生活に箔をつけるには、職業に含めて考えるのが決まりがいいのである。

 職業が総てを満たすという発想は、生活の時間の大半を注ぎ込んでいることからも自然な流れといえるが、職業に自分の人間性を代弁させようというのは過分な望みである。それを井伏は承知していて、ジャーナリストであっても押しつけがましく正義感を振りかざすことはせず、どこか滑稽味があるくらいに猥雑な声質で、私はただの文屋ですからねと卑下するのである。これがなかったら好奇心の膨らみすぎた奇矯人とも取られかねないだけに、退きどころは心得ているのである。

 そんな井伏に、相馬は嫌な顔もせずに淡々と口を利く。

「井伏さん、あなたはフットワークがいいが、それだけに軽率と言われ易いのかもしれません。雇用の問題は人の生き死にくらい重大だから、訊きだすのはかなり難しそうですよね」

「私には人徳がないとでも」

 冗談めかして井伏は笑い声をあげ、これを窘めるように相馬をにこっとさせた。

「そうは言いません。詮索するだけの資格があるかないかで言えば、あるんじゃないかと思います。ただ、誰も彼も同じでしょうが、辛いんですよ」

「分かっています。しかし、書かなければ世論は作られない」

「私の周りでも随分と辞めました。知己だから話せますけれど、今は話してはいけないという雰囲気があることは忘れないでください」

「然もありなんといったところかな。人のやりたがらない情緒の複雑なところに踏み込むのも、新聞社の十八番だもの。聞かせてもらえますか」

「仕方がありませんね。世直しのためだというのなら、協力します。でも、片棒を担ぐ気はありませんから」

 そう言って相馬は社内の実情を話し始めた。

 情緒の問題でもあることを言明した人だけに、相馬は不正を追及するような激しい口調は採らなかった。飽くまで真摯に、問題の根源がずれないように正確さを期し、常にそこに感情的に寄り添うことを立場として明らかにするという、念の入りようだった。

 会社は大量の早期退職を募って、昇格ポストの確保とそれによるモチベーションのアップという、二兎を求める態度でいることが明かされた。人生に暗澹たる気持ちを抱いて、仕事へのやりがいも見出せなくなった社員がいた職場に、魅力があるかは微妙なところだが、そこには確実にポストがあり、公平な処遇を謳う会社が社員を評価するのに適切な職位であると考えられている。どれほど詰らない仕事でも、給与で評価されるだけの職位があれば、島流しが実態であっても評価を疎かにすることにはならない。

 大いに働いて欲しいというたっての希望が、社員たちに伝わることを前提にしているのである。経営者は機械的に指標に操られるのではなく、自らの潤沢な感情を基礎に働くことを意識しないといけないが、その感覚は末端の業務に携わる労働者には顕著に感じられるはずだ。下級の職位にある者ほど、経営者の欺瞞を暴きやすいのである。下層に不満が蓄積し易いのは、ここからも説明がつく。

 不遇を託っている社員に、経営者は働きを期待するだろうか。たぶんその社員は、張り合いがないことを理由に十分には働かず、どのような献身をすれば会社に評価されるのかも、見えてこないだろう。この業務で十割の成果を残せば評価を勝ち得る、と判断されるような、仕事の明白さがないのだ。どこか職掌がはっきりしないまま、業績の向上のためには数字を上げたものが評価されるのだと、数字だけの辻褄合わせに合理性を見出そうとするのは、経営者がイマジネーションを喪失している場合に顕著だ。

 職業の集積によって会社が成立しているのを、有機的一体として意識の中に再構成しないと、茫然自失で何にも手を付けられないという状況に陥る。唯一頼りになるのが数字であり、物差しを用意してその尺度で社員を一斉に競わせるという手法を採るか、敢えて不採算部門を畳んでしまうことでしか、経営を改善する手立てがなくなってしまうのだ。職業が協力と融合による乗算ではなく、単純な業績の足し算でしか測れないという、原始的な経営は意外と普通に行われている。

 ただし、業績の足し算は原始的ではあっても、足きりによる引き算よりは、積極的な雇用によるさらなる足し算を志向しやすく、意欲的な人材の処遇も容易になることから、経済性に悖るとばかりもいえない。個々の社員の働きから複合的な経営をイメージできなくとも、単純な横一線の数字の評価でも会社は成り立つのである。

こうした処遇は社員にとって不公平感を持たずに済むという利点もあり、多くの企業では社員の能力の開拓よりは、植物が自然に根を張って土壌に育つように、会社経営に勝手に社員が根を下ろすのを期待している。土壌が極めて優れている一流企業はそれでもいいかもしれないが、大抵は社員を部署しない限り職掌は見えずに烏合の衆になり果てる。てんでばらばらに物差しの上で競争しているだけだと、会社は業績を伸ばすのに個々の社員の能力に依存することになる。組織的に営業を繰り広げる会社と、社員の思いつきで成り立つ営業で満足している会社とでは、どうしても業績に差が生じる。組織の仕事には生半可な個人の努力は及ばないのである。

 組織とはどんなものだったのか、組織的に営利を追求して失敗すると、組織が機能しなかったから失敗したのだとは考えず、組織があるから失敗するのだという強引な結論も賑々しく登場する。本来組織とは個々の社員の能力の付加価値を和したものでなければならず、それを可能にする時点で組織は機能していることになる。ところが機能することによってそこから演繹される失敗というものが魔物的に膨れ上がり、虚像を呈するまでになると、人は組織に帰属して批判されるのを恐れることになる。何も主張せず、何も担わず、ただそこにいることで義務を全うしたことにしてもらいたいという哀願が、社員の中に蔓延するとき、組織は確実に失敗する。

 いわば舵機であるべき人材が、羽を生やして宙を漂っていることを選ぶのだから、船の行方はファンタジーでしか見極められない。会社に雇われている社員は、しばしば自分がティンカーベルのような空想上の存在であることを夢想し、組織に帰属するよりは命令だけに忠実な無垢な存在でありたいと願うのである。

 まったく道理に合わない。複合的に能力が噛み合って、総合力で勝負するはずの会社組織が、無垢で無批判であるだけの木偶に委ねられるなど、あってはならないことだ。だが、実に厄介なことに、組織に配されながら、組織の一部として機能することを拒み、組織を巨大な一個の自我として扱おうとする、子供染みた社員は結構多いのである。ある程度までは自我などは押し込めておかないと協働などはできたものではなく、自分は一個の人間だと泣き叫ぶような社員は組織では機能させることはできない。会社組織が堕して、従属する社員を虐待するように求心力を増そうとするならともかく、普通は組織のチーム・ワークこそが会社利益の源泉であるはずである。

 それができないというのが様々な個性を束ねているはずの経営サイドの言い分である。

 組織は会社に利益をもたらすものと観念的に認知されるものが最良であって、個々の社員を内包して不可解な形状に膨れ上がった組織は、修正されるべきではないかというのである。世界が善も悪も含めて総ての登場人物により構成されているとみるのがファンタジーだが、経営とはその物語性を拒絶し、現実の組織に集約し得る善良で無個性な職業人を募ることである。

 現に組織は利益の追求を無感動なまでに志向し、そこに集約される労働には無頓着である。組織の人間として報酬の基点になるのは業績だけであり、素晴らしい忠誠だったと褒めはやすことなどはあり得ない。卑小な人間は、自分の自我が組織として投影された時も一個の自我でなければならないと強迫的に思い込んでいるものであり、見返りもなく組織のために献身することは愚かだと断罪までするものだ。組織は常に労働を監督する立場にあるが、ただちに労働に喜びを与えるものではないのである。

 そうまでして組織を機能させることを拒む、独善的な社員が多くいる以上、組織の失敗は憂慮というだけで終わらず、失敗することで頸木から解放されるのだとマゾヒスティックに陶酔させる、典型的な決着の仕方になる。組織を維持することよりは、弾けるだけ利益を弾いて組織などは解散したほうが、自我の温存を図りたい社員にとっては福音にすらなるのだ。企業倫理を失って、利益の獲得だけに盲目的に突き進む組織というのは、実は組織を活かそうとする社員の指向性ではなく、組織を自らの影絵か何かだと思い込んでいる社員の指向性から生まれるのである。

 不幸なことは言うまでもないが、組織が失敗を犯した時には、自分は一切の忠誠心を持っていなかったといえることで、免罪符を手にしたように気持ちを明るくする社員がいるというのも、気味が悪くはある。近代化されて、洗練されつくされたと思われている組織が犯す失敗というのは、それが人間の集合によるものであるとは想像がつかない、イマジネーションの不足した合理性の奴隷とでも呼ぶべき社員の断末魔である。

 経営者も巨大化した組織とその業務を数値以外で把握するのが困難になりつつあり、イマジネーションの不足は深刻である。会社業務を人間の協業で成り立つものと認識できない経営者は、まるで部品を取り換えるように職業を軽視する傾向がある。末端で非正規雇用労働者が次々に切り捨てられる現象と、中核業務を担っている組織がモラルを失うのは、同じ経営者の差配の結果であるところに複雑さがある。会社経営が個々の能力の乗数ではなく、物差しの上で競争するだけの和算で量られるところに、問題の根源を求められるだろう。

 数字さえ上げていれば組織などはなくても会社は機能している、と考えることに、僅かでも社員が魅力を感じるようなら、その会社は社員の切り捨てにも安易な決断を下すだろう。チーム・プレイで会社を盛り立てるということが、ただの言葉遊びのように思えてしまうくらい、世の会社は組織というものを軽視し始めている。会社業務をフラグメントに分割し、個々の参画を明確にしない限り、組織で仕事をするということを経営者ですらイメージできなくなっているのだ。

 割り当てられた断片が、遣り甲斐を満たすものであるかは、職業として分割されたものかどうかで決まる。利益に対して素直であるというだけで、職業として不完全であるものを分割されても、宛がわれる方は職業をイメージしにくい。無論、経営者も職業として充実させる気はないから、末端の業務は流れ作業ではあっても、組織的に関与が予定されているものではあり得ないのである。

 その延長線上に職業の崩壊は起こるべくして起こる。

組織に包摂して機能させるべき人材が、職業に従事しているとの実感を得られない状況が、上級職から下級職まで、幻影のように覆い尽くしている。

一方は完全に給与体系の中にあって十分な評価を加えられるのに、他方は同じ体系では評価すら思い留まらせるほど貧弱である。格差を容認しなければ、給与体系を別って平等な処遇を実現することはできなくなる。その格差の正体はなんなのかといえば、経営者の差配である。

経営者の匙加減を信じる気になれるか、というところで躓いているのが、現代の会社組織の悲しさだろう。どれほど盤石の処遇を訴えられても、下級職を物のように扱う経営者の感覚を、心のどこかで疑っているのが上級職である。上も下も、不信感で気が削がれているのである。とりわけ製造業のように職種の多い業種では、横一線の処遇などは不可能であり、差配の失敗は指揮に関わるというのに、経営者にはそれほどの器がないことが度々である。

相馬には経営を詰る気はなくとも、会社経営が新興国の勃興で窮地に立たされている今、職業を満足に語り尽くせないようでは心許ないのである。どの業務を担っているのか自任できない職業人が何人集まっても、組織は機能しない。機能させたければ、上級職から下級職まで筋を通すしかない。それができなければ、経営が有名無実化して求心力は望めなくなる。

製品の競争力を維持しながら、処遇にも遺漏なきようにするのは、両立できないのではないかという声も多い。しかし、努力の痕跡すら残さなければ、評価が単調な物差しの適用というだけに終わり、業績のためならモラルをかなぐり捨てるという弊を生む。どうあっても価格の低減努力と万全の処遇は必要になる。

企業の遺伝子を司っているといっていいだろう。どのような設計情報に基づいて、企業を生存させるか、各企業には根幹を担うべき本質が紛れもなく存在する。貪婪に目の色を変えて利益を追求したり、業態に他社の追随を許さない個性があったり、社風と呼べる本質が必ずあるのである。それは俄かには変更できるものではなく、経営者が展望を示しても、社風に沿わないからと抵抗されることもあるのだ。組織は意外にも雰囲気のようなものに左右されていることになる。

組織の力に傾注するには、社員がそこに歯車として動力である資本に連結されていなければならないが、指示よりも居心地の良さを優先するのが社員の風であることが多く、ひとつの無駄もなく完璧に労働が噛み合っているということは稀である。会社が働き方を提示するのではなく、会社に所属しているというだけで意識して協働できずにいるのを、人間が顔を突き合わせる以上は懇親が重要であると一刀両断にできるか。

どうも気心が知れるだけでは、組織として機能するのを援けることにはなりそうにない。機能するための要所は、必ず有為な人材に委ねなければならないのである。そして、根幹に肉付けするように、様々なスキルを要請し、社員がそれに応じるというのが、理想的な会社経営だろう。

競争力をひた向きに求めながら、会社組織を万全に調え、長期にわたって存続し得る営利のための組織。簡単なようでいて、そんな組織を編成するには、人間が働くという現場の機微を把握していないことにはどうにもならない。それが有機的に組み上がって、最終的には利益追求のための体制ができあがるのである。

 イマジネーションが不足していては、痛みも苦労も、それを乗り越えた後の達成感も分からないだろう。経営者は何よりも職業を夢で語れるくらいに充実させることで、必然的に営利組織の活性化も図れるのである。どのような職業の形を提示できるかが、経営の胆といっていい。

 雇用の難所を語ろうとすると、経営が社員一人一人を見ているかに、注目しなければならなくなる。分かってくれとは言えないが、相馬にも大半の社員が会社に忠実であろうとする姿が見えるだけに、社員を組織に集約する手腕には重大な関心がある。この態度に井伏は共感を覚えるが、雇用は会社の屋台骨であるからして、それだけに数字での帳尻合わせには腑に落ちないものもあるのだった。

 温情があればすべて解決するというものではないが、そういう感情を抱けるだけのイマジネーションは、欠くべからざるものである。細やかに汲み取って、大胆に差配する。経営をウォッチしていると、そんな経営の当たり前の姿を、井伏は思わずにはいられなかった。

 

 鵜殿が会社を興し、好調な滑り出しを見せたことは卜部にとっても誇らしかった。あの鵜殿さんがねと、にやついてしまうくらい、彼との付き合いは長くなっていたし、紳士的に一人格として扱ってくれるのには、感謝もしていた。

 何かとクレームの絶えない仕事をしていると、腹を割って話せる相手には無条件に利益を提供したくなってくる。卜部にとって鵜殿はそういう類の顧客ではあったが、一度として利益供与はしたことがない。いつも投資の判断を下すのは彼自身であり、それを補助するために情報を提供することはあるが、決断は卜部の下に留まるべきものではなかった。

 結局は、卜部は並走しているように思えても、鵜殿の走力に何らの加担もしていないような、不思議な脱力感がある。いつでも一番の優等生に、もっとスピードを上げて栄光を勝ち取れとでも叱咤するのは、いくら卜部がお目出度い気分になってもできないことだ。鵜殿はいつも最高のパフォーマンスで仕事をこなす、正真正銘のエリートだった。彼に優れた資質を掴むための努力は必要なかったし、今後も一切の助力を必要とせずに、彼のために敷かれたレーンを軽々と駆け抜けていくだろう。

 それが、格の違いだ。格の前に畏れを抱くのが通常の人間だが、世には傲岸不遜にすべてを自分の支配下に置けると考える人間もいる。鵜殿の障害はそのような頭のねじを喪失したような人間だけである。卜部には彼が言葉を発する先から秩序が形成され、それを望まない魑魅魍魎が怨嗟の声を上げる光景が、象徴的に眼前にあるように思える。卜部もまた若くして出世し、女だてらに経営に携わるのではないかと噂されているのだ。気分として、抜きんでることの憂さも承知していた。

 世は深刻な不況であるといわれる。あらゆる物の調達が廉価に収まる時期でもあり、鵜殿の出発においても経営の構築は容易だった。そして、その迅速さにおいて比するものがなく、あっという間に市場を席巻した。その一部を伝え聞いた卜部は、鵜殿が幸運を手にして喜び勇んでいるというよりは、チェスでもするように一手ずつを無感動に繰り出しているように思える。

 もちろん、無感動とはいっても、頭脳が回転することに張りはあるはずであり、心頭滅却して我欲に囚われないという意味でも、上手くやっているといえる。そのクールな手筋の整い方は、卜部のように仕事を細かな作業から組み立てる、勤勉な会社員には共感を覚えるものであった。

 まるで自分の仕事が追認を受けているとでもいうように、当たり前の業務が大きな世界に組み込まれていく感じを、生真面目な人間は受けるのだ。仕事が有用なものになるという点で、自惚れでさえなければ、接点を広く保ってそれらから刺激を受けることは有意義である。まさに卜部は鵜殿から多大な刺激を受けていた。

 男という生き物が大きな翼を広げて飛翔しようとするのを、その影の下で仰ぎ見るのが女なのだろうと、卜部は長いこと思ってきた。どれだけ頑張っても男には敵わないし、小奇麗にして要領よく人付き合いをするのが女の使命なのだと、友人たちは皆そういう発想をしているから、彼女も気力が萎えないようにとだけ心がけてきた。

 それを鵜殿は手を引いて導くように、大きな舞台に立たせてくれたような気がする。そう、まるでプリマドンナが爪先立ちをするように、自分が重要な役割を担えることを確信させてくれたのだ。

だから卜部は自分が出世できたのは、重要性から目をそむけないだけの度胸が、鵜殿と接することで内面に構築されたからだと思える。重要性とは何か。要領よく立ち回って非難をかいくぐることではない。一個の人間が背筋を伸ばして、他の個性と対等に渡り合うために、一人の人間であることを証明することだ。自我の充足などという回りくどく、独りよがりに陥りやすいものではなく、他者に対して恐れを抱かないことで得られる、人間性の存在を確信することである。

ビジネス・シーンでは、これは利益を弾くのに偽りを持ち込まないという意味であり、卑怯な手段で交渉しないことを、言ってみれば丸裸で相手に証明できればいい。卜部は女だから、さすがに品を疑われることには後ろ向きだが、誠心誠意のお付き合いならできないこともないのだ。

証券会社の業務で言えば、投資で利益を上げることを望んでいる顧客に、投資の意思が的確に売買に反映されるというところだけは絶対に齟齬が生じてはならないのである。彼女は利益を約束することはなかったが、投資判断が形成された時は、それが現実のものとして正確に売買されるように手配した。痒い所に手が届く営業というものであり、真似をしようとしても、投資判断が出来上がるまでには損失を恐れる感情が発達してはならず、助言を効果的に使いこなせなければ、いつまでたっても二の足を踏んで売買などはしてくれない。相手が積極的に投資を望んでいる時でさえも、その投資に賛成しなければ受注する流れには向かないし、仮に大損失が生じた時になぜ止めてくれなかったのかという話になる。

幸いにも卜部は短期の売買で利潤を上げることには興味がなく、情報の迅速さで差をつけるという発想がないため、判断が熟する過程に寄り添うことが可能だった。鵜殿も、渥美もそうであり、いつも売買がやがて爛熟して枝から落ちるように大利を生むのを、案内してきただけである。

これに対して、インサイダーでひと儲けしようなどというせっかちな投資家には、売買の材料ではなく、資産の運用の仕方からレクチャーした。資産が理解できれば、どう回転させれば利益が生じるのかも分かり、忙しい短期の売買は金儲けには向いていないことが瞭然としてくるのである。職業人として卜部は小賢しい専門家としてではなく、業務代行人に徹することで信頼を得ていたといえる。

鵜殿は大方その態度に満足していたし、それによって卜部を丁重に扱ったということはないが、悪くないアドバイザーを得た気分ではあった。もともと女が証券を商っていることに、意外性を感じていたくらいだから、必ずしも鵜殿はよき理解者であったわけではない。しかし、そんなことが些細な問題だと感じられるほど、卜部は親炙していた。会社設立についても、個人的な感想を抱くほどに、思い入れは深かった。

ただ、長年の付き合いが、自身に対して甘い観測を許すのではないかと、精神に筋金を通すのを怠らなかったのは、卜部が真面目すぎるからだろう。丸っきり他人ではなく、個人的な悲喜を感じてもいい立場にありながら、女が情緒的になってまとわりついたら、べたべたして鬱陶しいのではないかと気遣いもしているのだ。その辺りが憎からず思われる人柄なのだが、そんなものを押しつける気もなく、いかにも他人の顔をしたような他人でいることに納得しているのだ。

明瞭に他人同士でありながら、その境界線上に立つときは胸が空くほど透徹した目線を持てる。卜部には鵜殿が他人ではないと思えるほどよく見えた。もしくは他人ではないと思いこみたかったのである。洒落たスーツを着こなして、颯爽と現れる男を、個人的な畏敬の念を交えずに見ることは難しかったのだ。

見目麗しい女性には達しえない卜部が、一瞬でも華やいだ気分を肯定したければ、自分が有用な人物であることを証明しなければならなかった。重く用いられているという事実だけが、自身を鬱屈とした劣等感の海から救い上げ、豪華絢爛なビジネスの世界への橋渡しをするのだと、頑なに信じていた。それはまるで、幼い子供が母親の手を離さないようなものであり、雑踏で手を離せばたちまちのうちに迷子になるということが、直感的に分かるのだ。洗練された男に接点を求めるには、一時たりとも無用な人間だと思われてはならないという、過剰なまでの自己肯定を己に課さなければならなかった。

それは卜部を人間として追いつめたが、代わりに絶えず張り詰めていた緊張感は能力を飛躍させた。本来なら小さな世界に留まって、個人として機能していることを確信できさえすれば、大抵の物を手つかずで放り出していたものを、巨大な世界との接点を得ることで、能力をその大きな尺度に接近させなければならなかったのだ。当然、有り体な感想で満足しているわけにはいかず、巨大な世界に呑まれずに一個の個性が全きものとして存在するためには、確実なアウトラインがなければならなかった。

人物として成立するための、推測を許すという点で、あらましで人間が分かるのは他人から見れば安心材料であり、他者との協調という意味でも、自分を説明し得る文脈を持つことは重要である。人生が一個の小説だとしたら、筋書きとしての完成度は人間の味である。知識経験がぎっしり詰まった、いかにも成熟を思わせる人物像が、他者に読み取れるだけの概要を持つことは、確かに人間存在が容認されているという実感を伴うのである。

 味な女だね、とでも言われたいのか。そこまで押しが強くはないが、卜部は努力して調えた果てに人間が世界の中に取り込まれていくのを、清々しい思いで見ることができる。彼女が見ていた鵜殿の姿は、一部の瑕疵もない完全さで世界の中心にあり、幾分小さい彼女の世界と接して、色っぽく誘惑しているようにさえ思えた。それだけの魅力が、鵜殿にはあるのである。

 不可思議な曲線があっても、それを捨象しても図形として成立するのが、この人物はと思わせる男たちの特徴である。鵜殿はちょうど、そんな計算と自然発生的な均整によって成立しているような個性である。大きな変化を強いるような不可解さはなく、ありきたりでいながら完全に調和しているとでもいうのか、見ていて抵抗なく意識の中に入ってくるだけの、穏当さによって人物が出来上がっているのだ。

 心地よさがある。卜部は見通そうにも遠景が霞んでしまうくらいに広大な視野を持たなければならず、そうでなければビジネスの裾野が広がらないという、営業上の試練に立たされても、遠望すれば男たちがそれぞれに奮闘しているという姿が見えたのだ。そうした男たちとの出会いは喜びであった。そこで潤った感情は、男たちから見ても満ち足りたリッチな人生観を思わせ、卜部は付き合うに値するだけのビジネス・ウーマンだと看做されたのだ。

 満足感が懐の深い理解にも見えるように、案外とビジネスにおける人物評は単純である。腹を割って話すとはいっても、個人的な事情や世評を細かく突き合わせるわけではなく、飽くまで表面上の色艶を論じるくらいの接し方だから、感想ではあっても断定ではなく、一本の筋として倫理観が守られているという申し合わせさえあれば、相手の個性は多少ぼかされても意思疎通には差し支えないのである。

 つまり、心を尽くして交わるということは少ない。相手に理解されることを命題にしない分、幼い頃の人付き合いとは明らかに異なるが、ビジネスは無感動で冷淡な利益の合致のみで語られるべきではない。やはり、利益を追求する過程は機械的に秩序だっていなければならないとしても、ビジネス・パートナーとの出会いは一期一会であり、その出会いには感動がなければ面白みは半減する。仕事は楽しんでこなしたいものだ。いくら生活のためだとか、社会的な名誉のためだとか、理由を付けたところで人間同士が触れ合う断面にはその人の人間が色濃く表れるのである。人間同士の膚接が感動の起爆剤になることは、数限りない物語からも知られるところで、ビジネスには利益が付き物ではあっても、無表情な利益だけの追求者には、危うさを感じないわけにはいかない。

 付き合うなら、ビジネスにおいても潤色された言葉と表情を持つ、際立って一個人であると目される人の方が安心である。そうした人物は、己の個性を倫理と協調させる努力を払っており、利益の為なら他者を犠牲にして顧みないという態度はまず採らない。ビジネスは懇親が目的ではないから、冷淡だが誠実で清いという人物も多く、また馴れ合いに陥ることを忌避するのも大人だからであり、どこか他人行儀だが一線は冒さないという付き合い方が普通である。

 人物として舞台映えするほど際立っていながら、その舞台では科白を望まないという、名脇役のような風格がビジネスマンには必要である。卜部のように女性蔑視の視線に立たされながら奮闘する会社員には、そのようなきらりと光る個性は胸の高鳴りをもたらすのである。この人物はもちろんビジネスを通して出会ってはいるが、相照らして人物までも試す存在感を醸しているのではないかと、卜部は接していて思うのである。

 さながら要所を締める千両役者だろうか。人生の表舞台に立つべき主役は、ビジネスでいえば顧客であり、卜部はその妥当な登場の場面を自らの手持ちの材料で表現しなければならず、証券というものを実によく勉強した。

営業資料を編むために残業することは度々だったが、不満を感じることはなかった。たとえ早くに自宅に戻れても、息子は遊び疲れて口を利くのも面倒くさがる子である。早くから社会性が豊かになることで、母親との接点に重要な意味を見出そうとする甘えん坊ではあり得なかった。それに、卜部は息子を可愛く思っていても、それを表現するには仕事という背景がなければいけないと考える、根っからの仕事人間になっていた。

 親以上に社会性に富んだ個性と接しえないというのは、子供にとって不幸なことであり、その心配がいささかもないということに、卜部は気をよくしていたのかもしれない。子供の話をする彼女は地味な印象の割に華やいでいたし、子育てに鬱屈としたものを抱える、母親を義務でしているといった卑屈さはなかった。働くことで新しい世界に抱擁されるような、安心感と自負を彼女は得ていた。

 それを子供に対しても阿ったりしないでいられる人物として、自分の中で肯定することに卜部は限りない充実感を覚えていた。仕事が彼女に何かを与えてくれるのではなく、仕事をしている自分を好きになることが、可能だという点で彼女は幸せだったのである。

 

第四章   垂れこめた暗雲

 

 雇用を維持するための補助金が、最近の政策の中ではマスター・ピースであったと言われている。井伏は喜色を顔つきに表わしながら、自分の観念が政策に反映されたようで嬉しいと触れて回っている。彼の仕事は完成して大団円を迎えたというわけではなく、これから円熟を迎えるのに、何が議論の俎上にまで達するかを決する、正念場を迎えているといっていい。

 助言を求められた三鷹は、何一つ不自由していない円満な人格者であるが、景気が浮上のきっかけを得て、足元を固め始めた時期にあっては、気も漫ろに議論を戦わせることに居心地の悪さがある。できればありきたりな結論が潤滑材になって、話が弾んだところで物別れになるくらいの、適当さで乗り切りたい気分ではある。

 だが、井伏は痛いところを突いてくる。

「一億献金して、十億の利益を得られれば、そりゃ企業は献金しますよね。企業との癒着を禁じないと、どんな政策にも裏があるように思えてくる。雇用の助成金も、原資が尽きたらお仕舞いというのでは、企業に言いくるめられて無い袖を振った格好だ」

「だからといって、政策の妥当性に飛び火させるのは乱暴すぎませんか」

 温厚な三鷹は、柔和に窘めた。

「構造的に金のかかる政治にしているのは、おねだりする企業にも責任があると私は思うんです。政策の立案を机上でするだけなら、それほどお金がかかるはずがないんだから、どこで金を食っているのかを言えば、調整に精を出しているからだ。官とは別途に独自に情報を収集し、自ら進んで調整業務を実行している。ここで金を遣いすぎている」

「私は公務員だから、止めろとは言いだしにくいですね」

「政策が金で買われるのを、止めなければ不味いでしょう。調整の名の下に利益の配分先までも決められたら、企業とのもたれ合いは解消されない。いっそのこと企業献金などは全面廃止して、国民のほうを見て政策を出してもらった方が良いのでは」

 歯に衣着せぬ物言いで、井伏はしたり顔だが、彼の人柄を知っていても公務員の三鷹は政治の委縮は怖く感じる。

「政治が間に入ってくれないと、やくざがちょっかいを出すんです。政治が調整に乗り出すのには十分な理由があるんですよ」

「だったら個人献金に道を開けばいいんです。営利企業のしたいことは営利と決まっているんだから、弊害に目を瞑ることはできないはずでしょう。公務員のあなたに何かしてくれとは言いませんが、利益最優先の社会は危ういんじゃありませんか」

「公務員というのは、自分の意志では本当に何にもできない職業なんです。でも、政治家が利益の帰趨を決めるのには、ある程度まで口出しできると考えられている。そのギャップに気付くころには、政治との蜜月に陥っているんですね。官僚の力ではどうにもなりません」

 悲観的なようにも思えるが、三鷹の言っていることは真実である。

政治が調整を必要とする部分を多く抱え込むほど、企業からの献金も増えて政策がいかがわしくなる。匙加減一つで利益を左右しているのだという自覚が、政治家を傲慢にし、自己批判の目を曇らせる。政治に困難を押しつけて、すべてを政治的解決に委ねようとすれば、必然的に政治は金を必要とするのである。

官僚が収集したデータに基づいて、議論も叩き台もなく、直情的に政策を決定できるのなら、政治家は金とは無縁の清い体でいられる。だが、政治が困難を見て見ぬふりをするわけにはいかず、積極的にそれを解消しようとすれば、それなりの人員や時間を投じなければならず、困難を押し付けた側で費用を持つのは道理に合う。場合によっては選挙での協力など、物心両面での支援を約束する場合もあるだろう。

昔はそれでも良かったかもしれないが、これだけ社会が成熟化してくると、金を受け取って用心棒のようなことをするのは、倫理的にどうなのかという話になる。利益の帰趨に重大な発言力を確保することが、営利への加担と取られてしまえば、わざわざ困難を抱え込んでまで世話をする意味がなくなってしまう。政治家が、政治家らしく振る舞うことが否定されるという、現代社会のモラルの維持においての、例外を認めないという世論が高まっているのである。

もちろん政治家が特殊な調整業務に就く必要はなく、デスク・ワークをするように政策を立案できるというのなら、金を受け取るという倫理背反は咎となろう。困難の解消は政治にではなく、官僚に委ねられるべきだということになるはずだ。しかし、官庁の窓口で雇われ公務員に何時間も愚痴を聞かせることが、果たして有効だろうか。

陳情は政治にするのが常識という気がしないでもない。すると、陳情する側で費用を持って政治に利益誘導してもらうことが、案外合理的なようにも思える。献金はすべて悪だと切って捨てるには、躊躇しなければならないのである。

とはいっても、今日の世相で金を受け取って営利活動の世話をするのは、明らかな倫理違反であるとの意見が一般的である。今後も意見の主流を占め、政治が仲裁や利益配分に乗り出す必要性を認めても、金は受け取るなということになるだろう。まったくの善意で民間の秩序に手を加えるのならば、政治責任は生じても、原始的に倫理的な欠陥を抱えた事案にはならない。

 政策は斯くあるべきだということが、政治家の人間性を通して具体的に立案されるのを、国民は注視して、必要があれば批判もし、それ以外に力学上の誘因を持たないことが理想だろう。もしこれが何らかの誘惑に基づいて出された政策なら、政策が妥当な結論を指向していても、国民は誘惑があったということを問題として取り上げざるを得ないのだ。

雇用助成金の例でいえば、雇用は維持すべしという政府のメッセージが伝わり、企業側はそれを票の買収や利益のばらまきであるとは考えず、政策として実効性のあるものにすべく運用を委ねるという流れがなければいけない。そうでなければ、政治家が加担することに疑問符が付き、密室での談義ですべてが決まってしまうような、民主主義にあるまじき体裁を孕んだまま、政治不信の嵐が吹き荒れるだろう。

意思決定の過程に透明性を確保し、議論をするためのテーブルを用意し、広く批判を募ってより大きな合意に至らなければ、今日の政治は機能しない。困難を取り上げ、議論に付して誰もが納得する結論に導くのは、元来が政治の仕事であるからして、その誰にとっても有意な議論にするための努力は、金の力で支えられるべきではないということになる。

政治家が手広く民衆から困難を吸い上げ、妥当な解決に至らしめるのを、無用なことだと非難できる人はいないだろう。権限の範囲でしか行動できない官僚と違って、政治家にはフレキシブルに物事に対応できる、立法という絶大な権力があるのだ。

口利き等の単純な調整から、世論を巻き込んだ大規模な社会改造まで、政治家の仕事はピンからキリまである。これを機動的に政治家の人間感情を基礎に発動できるようにするには、予算的な裏付けがなければいけない。日本においては立法府のスタッフは乏しく、公費で賄われるのは秘書だけだから、必然的に政治は予算不足に陥る構造になっているのである。

困難などは民間の話し合いだけで解消できるとするのは、余りにも楽観的に過ぎ、話し合いでは解決できない利益の錯綜はいくらでもあるのである。では、そのすべてを司法の場に持ち込んで確定判決で白黒つけようとするのは、どうだろう。金も時間もかかり、万が一にも敗訴でもしたら、確定判決だけに覆せなくなる。やはり感情的には、相談したものに好意的で、良いように 計らってくれる政治に委ねるのが無難だろう。

長い時の中で、個人の利害を仲裁するのは政治ではなく司法であるとの通念が出来上がっているようだが、規模の大きな集団の利害を仲裁するのは、相変わらず政治であるように思われる。集団として機能すべきものが機能しないことは、社会にとって損失であり、社会全体の活力を増進し、円満な相互関係を築くためのルールを策定するには、立法に依るしかない。その立法に向けた意見集約を、公の議会のみならず、私の懇親や査察などでもしなければいけないのが、政治の使命である。

どうも政治の本来的機能のために、人員を用意して話し合いの場所と時間を作るには、金がないことには始まらないようだ。だが、その金が政治が利益誘導する理由になるのなら、困難を解消するという大義名分があっても、国民はいい顔をできるはずがない。目的と手段の逆転を認めないということであり、今日では利益誘導は政治家の仕事には含まれないとする、利害の錯綜を無視した議論も盛んだ。

誰が利害の錯綜に見られるような困難を解消するのか、放置しても構わないというのが暴論である以上、決め手となる政治が不在ではいけないはずである。社会的弱者を救済するのに、マスコミが世論を喚起するのは有効だが、メディアは営利企業であり、企業広告に阿って議論を枉げるということもするため、構造的に社会の行く末を委ねるのは無理である。民主主義社会では、選挙によって選ばれた代表者が困難を引き受けるのが、一番確実で感情にも沿った結果をもたらすのである。

 これが企業献金が存続する、一番の理由であろうが、ダーティーなイメージが付きまとうのは、企業に対して仕事の口利きをするような政治は、もはや国民に傅くのではなく、利益に加担しているだけだとも取れるからだろう。無論、それぞれの場合に利益誘導を必要とするだけの困難があるのだろうが、一般常識として金を受け取って仕事の斡旋をするような政治は、信用に値しないというところまで不信感が蓄積してしまっているのだ。企業もいい加減に金で斡旋に期待をかけるような浅ましい真似は止めるべきなのだが、来るものを拒めない政治に甘えてしまっているのだろう。

 慣行として、不景気には財政出動をすることが大した議論もなく認められるようになった。これがもし、既得権益を利するための茶番だとしたら、政党政治を維持すること自体が既成勢力の温存を意味し、財政出動で潤う企業の営利行為に加担していることになる。民主主義の根幹を担うはずの政党が、営利企業の求めに応じて財政出動を容認するという構図は、いくら雇用を守るためという名目があっても、癒着を疑わせるものがあるのである。

 構造がそうだから、政党に政策を案出して議会の活性化を促す役割があるとしても、議論もなく慣行で大盤振る舞いするのでは、与党を支持しておけば窮地に陥っても財政出動で資金がじゃぶじゃぶになるという腹積もりを許すことになる。計画性もなく、政治に介入することでしか営利企業の営利の部分を満たせないというのでは、いかにも心許ないし、そういう足元の脆弱な企業の献金によって政治が腐敗してきたのではなかったか。

 やはり、政党政治の護持が営利と不可分になってはならないはずである。税収を増やさなければならないから、また社会を安定的に推移させなければならないから、といって企業との蜜月を続ければ、保護主義が濃厚になって企業の競争力が衰え、最終的には貧弱な生産力になって国力を貶める。財政投資は循環するという仮定の下で、どこに投資するかをすっ飛ばして議論するようでは、現在の必ずしも資金は循環しないという状況は打破できないし、既成勢力の保護という下心が見え透いている。政党政治の支持という形で、何らかの利益を供与されるか、暗黙の申し合わせが出来上がっているのではないかと、そのような財政出動の裏を勘ぐろうと思えばいくらでもできるのである。

 財政出動は純粋に国民経済に資するための投資です、ということが表明されない限り、金の話だけに胡散臭さは付いて回る。どうすればクリーンで経済を活性化させるという名目に立った提案にできるかといえば、議論をおいて他に手段はないのである。議論して批判を仰ぐことで、本質的には利益誘導である財政出動も、国民の代表者の視点に立った政治家によって、公平な政策へと脱皮できるのである。

 それをしないで、慣行だけで財政投資を決めていれば、馴れ合いによる勢力の保持を疑われても仕方がない。政党は一時的に結束するのではなく、存続するものである以上、特定勢力との過剰に親密な関係は国民に説明可能なものでなくてはならず、慣行で利することを容認するといった不透明な議論では、到底納得しがたい。なぜ利するのかを、明らかにしない限り、国民経済という土俵で政治が利益誘導をするのは、認められないということになろう。

 もちろん、利益が錯綜するところで利益の帰趨を決するには、決断がなければならず、それが困難であれば政治的な解決にも親しむ。ところが、多大な利益の帰属先を決するのは、それだけで利益の誘導であるから、政治もよほど用心しないと結託を疑われる。金の力で政策を買われたと言われないためには、ガラス張りの議論がなければならないのである。慣行で議論もせずに利益の配分を決すれば、批判を浴びる間もなく大金だけが動いて、政治が営利行為に取り込まれた格好になる。議論を尽くして道理が見えてくれば、そこでようやく大金を動かすことができるのだが、こんな単純なルールが国会では守られていない。市民生活で大金を動かすのに、計画も相談もなしに、慣行だからと支出を決定することが、果たしてあるだろうか。

 今一度原点に立ち返る必要があると、三鷹は痛切に感じている。政治は財政を司り、合議によって支出を決定し得る権限があるが、その合議の部分が疎かになっている。多数決は確かに重要だが、それは合議を等閑にしていいという意味ではない。政党が特定の思想を持って、ある勢力に加担することは、政党政治では予定されていることであり、ただそれは選挙という政治責任を伴うことになっている。選挙で判断し得るだけの、説明をしなければ、本来的には利益誘導には慎重でなければならないのだ。

 それなのに、すでにお定まりの議論だからと、議会で話し合うことさえも忌避して、既得権益層が喜ぶことだけを考えるというのでは、政党政治の衰退は目にも明らかである。利益誘導をする以上は、議論の材料をすべて公表して、政治責任のありかを明確にして、選挙で裁可を仰ぐくらいの心積もりでいなければいけない。

これは井伏にとっても、モラルを喚起する声を誰に聞かせるかということにおいて、重要なことである。ジャーナリズムは本質的に営利事業に含まれるだけに、政治と同じで人気取りに熱心だが、公器でなければならないという使命も背負っている。政党の主義主張を広く伝播し、彼らの利益誘導を容認するかどうか、国民に問わなければいけないのだ。

そして、その原点となるのが議会である。可能な限り議論し、道理を導いたうえで利益誘導の根拠を開示する。これによってしか、開かれた政治にはならないし、困難を吸い上げて公の場で裁断するという、結果にまで到達できないのである。

 

 事業を興すという経験は、一生のうちに何度も経験できるものではないが、それだけに打ち出す機軸はすべて新鮮である。大まかに区分すれば、誰かが発想して手を付けたかもしれないが、その時その場面では、唯一のものである。

 これまでのところ、鵜殿の会社は順調だった。銀行に融資を返済し、担保だった定期預金が自由になったところで、初期の設立行為はほとんど一巡したといっていい。顧客を囲い込んで、永続的な営業基盤を作ったところに、十分な工夫の跡が見られる。

もともと融資を受ける必要はなかったのだが、返済の実績を作っておけば、後々資金需要が生じたときに有利だろうという判断の下、メイン・バンクと交渉したのである。商圏の拡大に伴って、資金の出入りが激しくなり、銀行の世話になる機会も増えており、当座勘定を管理してもらっているということで関係は親密になりつつある。

取り敢えずは、資金面の不安がないという点で、小規模な会社にしては平和な営業日を刻んでいるといえる。同じ規模の会社は、ノルマを設定して、ときにはローラー作戦なども実施するところだが、社を率いる鵜殿は組織的に営業を展開して、ことごとく成功させるという神業的な業績を残していた。

ある種、神話の登場人物のような風格がある人物が、稀に輩出されるが、鵜殿はまさにその人だった。同業者はすでに諦め顔で推移を見守っており、鵜殿の繁忙は立派な語り草だった。

会社の規模は問題ではないということを、彼ほど端的に表現したビジネスマンは最近では見当たらない。利益獲得機会を逃さないためには、ある程度大きな組織で物量で押すくらいの経営が安定していて理想的だが、立ち上げたばかりの会社が互角以上に競うには、利益を度外視するか、コストで優位に立つしかない。利益を度外視するのは会社の規模を大きくしたい者の発想であり、鵜殿は当初からコストで闘うことを鮮明にしていた。

コスト圧縮は人件費を抑えるところに最大の眼目がある。現在はオフセット印刷なども盛んであり、ちょっとした営業道具の差異はあまり意味がなくなって、人員を充実させることが会社の信頼に直結する時代ではない。優れた経営ツールは数多く発表されており、手持ちのカードを充実させるがごとくに、自由な発想と選択に基づいて経営はどんどん進化するのだ。コストというところに目を向ければ、経営は身軽なほど都合がよく、ここ十数年で経営を革新したツールの数々は、少数精鋭でコストを追求することを可能にしている。

従来はデータ処理などに大量の金を使っていたが、新時代の経営は一つの机の上にその機材が乗ってしまうほどコンパクトである。それだけインターフェースが改良され、誰にでも操作可能で特殊なスキルを必要としないという点で、大きな革新であった。大企業に勤めていた頃から、経営の小型化を目の当たりにしてきた鵜殿は、自らが経営に携わるようになって、先ず組織をシステムの上に連動させることを企図した。廉価で小型だが、機能自体は大型のものと比べても遜色がなく、経営のシステムの確立はまさに軍隊が制式を定めるようなもので、極めて高性能な小銃で武装したところを想像してもらえればいい。大艦巨砲はないが、人間対人間の水準では敗北しえないだけのツールを用意したのである。

これだけの準備をして、目的に冷徹になれれば、あらゆる経済情勢において勝者になれるのだが、人は生き物だから情が絡むと途端に不合理な思考をするようになる。この仕事を続けて幸福になれるだろうかとか、不景気で受注できそうにないからさぼってしまおうとか、メンタルで劣勢に立つ会社員は多いのである。そうした社員を一つの目的の下に統合し、意欲的にツールを駆使して営業できるようにすることが、経営のすべきことである。

軟弱で、何を言っても腑抜けた返事しか返ってこない社員に、ノルマを課してきりきり働かせようとして社風を損ねるのが大抵の頑張りすぎの企業であるが、鵜殿は自らが先頭に立つことで、この弊を回避しようとしていた。そして、用意したツールは精鋭主義の社風によって浸透し、余念を抱いて仕事が手に付かないといった光景は、まずツールを理解することにより滅多なことでは見られなかった。

会社経営に最もメンタリティーを有する鵜殿が、営業に迷いなく身を投じることの意義を、ツールに託したのである。会社の実像が、ツールを駆使することで立体的に見えてくるという、社員にとってのアイデンティティーが確立されたといっていい。訳もなく闇雲に働かされているという嘆きは妥当しないし、数字に追い立てられて辻褄合わせに血相を変えるという慌て方もしない。受注するための支援が明確に打ち出されており、受注した後はそれが利益に加算される過程が見え、最後には通常の企業と同じく業績として認められる。先進の気風というものをいかんなく発揮しているのだ。

形而上の存在であるはずの経営が、まるで形を持って目の前に体現されるように、身近に感じられるくらい合理的なシステムが、会社組織を貫いているのである。システムに迷いがなければ、そこに統合されるツールも内容が空疎になるといった心配はない。ツールを託された社員がそれぞれに意義を感じ取り、そこからは人間らしく感情を豊かに横溢させ、魅力的な営業マンとして得意先に繰り出していけるのだ。根幹となるシステムに、鵜殿が全身全霊で力強い肯定を加えているからこそ、単なる利益の盲従者ではないことが自覚でき、やる気となって会社の歯車になれるのである。

会社がどれだけのことをしてくれるかというのが、目的を指向した瞬間に過不足なく感じられるのが、いい会社である。鵜殿は激しく売り込むと品が損なわれることを知っていたから、当初はロットに食い込むことを、続いては商品が遅滞なく納入されることに全力を注がせた。会社が支援するのは、コスト的に優位に立っている商品を先ず最高の形で提示し、業務に支障が生じないまま自社製品が導入されることに、細やかな説明と保証を加えるところまでである。ここから先は、営業マンのパーソナリティーに沿った形で、言葉となり無形の自信となり、相手を説得するのである。

直近に営業マンからヒアリングをしてみた結果は、概ね良好だった。会社は社員を放置したまま成績だけを要求するといった態度を採っていないから、自主性と創造性が失われるのではと危惧するところもあったが、社員たちはアイデンティティーの堅固さを肯定的に捉えていた。小さな企業だが、社会的な貢献も甚だしく、いささかも気後れさせることなく営業先に送り出してくれる、会社の雰囲気も評価されていた。家族的というには少し営利の匂いが強いが、それでも社員一人一人を重んじて粗末に扱わないという点では、理想的な環境だった。

かといって居心地の良さに甘えて、会社が営利組織であることを忘れる社員はいなかった。会社の業績が社会への奉仕の度合いであると訓示し、好業績の企業らしく、勝って兜の緒を締めることを忘れなかったからだ。

 間違いなく会社は利益を上げる体制を整え、社会の一角に意味のある企業として名を連ねようとしている。それが鵜殿には誇らしくあったが、コスト圧縮で切り込みをかけただけに、同業者からの信頼性への中傷は激しく、社員にいかに社業にたたき売りのような印象を持たれないようにするか、苦心のしどころでもあった。

 医療の高コストは高齢化社会を迎えるにあたって、誰かしらが改善の動きを緒に就けなければならない、それをするのは君たちだ、と鵜殿は持ち前の麗しい容姿で鼓舞した。憧れのような気持ちを抱く社員もいただろう。会社が存続するための利益獲得を、会社の存在理由を確信した社員が行うのである。揺るぐはずがない。

 それがアイデンティティーが堅固であることの内容である。不景気だからと手抜きをする社員は一人もいないし、かといって売り込みは周到であっても執拗ではなく、顧客も気持ち良く受け入れることができた。競争相手が長年不在だった、がちがちの保守に凝り固まった業界で、業界の利益の代弁者としてではなく、製品を提供することで社会的な幸福を考えたというところが、鵜殿の勝因だった。

 誰もが変わる必要性を感じ、変わるきっかけさえあれば変わって見せようと腹を決めていた段階で、価格破壊を掲げた会社が営業の提案という形で浸透してきたことは、衝撃ではあったが、新陳代謝の過程で必然的に生まれた結果でもある。社会は様々な組織が誘因を抱え、その指向性は支持と反対の間で揉まれて伸縮するが、人間は愛情を必要としているとか、基本的なところでは伝統的な価値観に依ることが多いのだ。高齢者が医療を必要としているという、ヒューマニズムに対して、業界の利益を掲げることの馬鹿馬鹿しさは自明であった。

 どれほど時代が変転を遂げ、枝葉末節が驚くほど変わっても、人間は感情を持って、その条件のもとで生きようとするだろう。常に人間がいるというのは、常識的な観念であって、それを差し置いて別の観念で代用することのできない、根源的なものである。古い時代で見たような、どこか懐かしい風景の遺伝子は、次世代に運ばれていってそこでも発現するのである。

 人間が人間でしか居られないという、諦めと大きな愛情があってこそ、人は他人と分かり合える。その常識が、鵜殿にあって、同業者になかったからこそ、勝敗を別ったのである。鵜殿の繁忙は人間を知っていたから帰結がついてきたというだけで、特殊なスキルは抜きんでた語学力以外に何もなかった。世界が彼を愛し、受け容れることを決めたのである。その意味では、社業の隆盛には、運命的なものを感じるし、それが妥当であることも人間的な感覚を通して直感で分かる。物の弾みで失意を味わうこともあったかもしれないが、切羽詰まっていた時代の要請には抗えなかった格好だ。

 成功者が何を語るか、耳目を集めるところであり、それを鵜殿は気にかけるようになっている。会社のツールを作成するだけでは、公の場で平たく使う言葉との互換性はないから、自分の内面と照らし合わせて実用的な言葉を見つけなければいけない。内面に響くほどに使用頻度の高まる言葉というものがあるはずであり、それを名刺代わりに差し出せるようになれば、人気取りも上々の滑り出しをみせるだろう。

 とりあえず社会全体から会社業務が必要とされていることは確信できるから、後はそこで得た利益をどう還元するのか、説得的に語らなければならない。語る者が何者であるかが明らかになれば、多くの説明は必要なくなるが、鵜殿は廉恥を知るだけにしゃしゃり出ていくことに居心地の悪さを感じている。そうなると、普段どのような選択を繰り返して地位に恥じないパーソナリティーを形成しているか、足元のほうがしっかりしていないことには、出るべき場所にも出られない。

 私は会社業績を通して社会貢献することを誇りに思う、とでもしておけば、積極的に欺く意図がない限り普通の事業家として見てもらえる。不特定多数に伝播することを思えば、そうした無難な見識を示すことは、交友に差し支えない上手な世渡りということになるだろう。あいつは見るからに不誠実で、嘘ばかり言っていると、もっぱらの評判が低止まりしていると、浮揚のきっかけをつかむのは容易ではないが、世辞を使いこなすだけの知恵があると看做されれば、排撃されるほど怪訝に思われることはないのである。

 普段使っている言葉と、外付き合い用の言葉が、大きく分離している経営者は、評判がどうも合致しないではないかと訝られる。人柄を的確に表すエピソードを用意したり、ことわざや熟語を引用したりして、印象付ける苦労は、経営者なら覚えがあるところだろうが、人間感情が露骨に現れるような経験も、彼らは味わっているのである。実のところ、綺麗事では済まないという切迫した信念を持って経営に臨んでいるのに、付き合いではのらりくらりと修辞句をならべるだけで、人間がまるで見えてこないという二面性は不可避かもしれない。

 一番いいのは、社員から慕われるに値する言辞を用い、それが対外的にも顔として通用することだ。鵜殿が目指しているのは、もちろんそこである。コンピューター機器を駆使して整然と調えた経営に、社会的な存在理由という魂となるものを通わせ、それが一個の会社として成立しているのを、経営者として誇らしげに提示できる、まさにそれこそが目指すべきエクセレントな経営である。

 社員個々が全くの無能では話にならないが、誰もが一人前の職業意識を持っているとの前提に立てば、会社はなるべくそれらを包摂できるほど、理念的であると同時に実際的であるのが理想である。理念と実際は水と油ほども違うことがあるが、攪拌して混ぜるだけは混ぜてみるという挑戦の意識は、経営に欠くべからざるものである。理念だけでは数字が上がってこないし、実際だけでは正当性への疑念に挫かれる。人間が関わるというところに難しさがある以上は、人間が適応するのを予定して、そこに想像力をたっぷりと持ち込むことが、経営の合理化にとって一番有用なのである。

 会社に所属することによってアイデンティティーが自ずと鍛えられるという、社員にとっての特典がある会社は底力を発揮する。そして、組織として筋骨が引き締まっているという実態があれば、経営者は恥じるところなく、社内に訓示するのと同じ言葉で対外的な付き合いもこなすことができる。経営戦略を宣伝するのは容易になるだろうし、それを確実なものとする組織が背後にあることも、一つ一つの言葉の上に自信となって影を差すだろう。大がかりな宣伝工作などは一切必要なく、どんな会社で、何をしようとしているのかが明らかなら、後は経営者が語る先から信望に堪えうるか測られるのである。経営者が信念を語っているとの観測に達すれば、当然信望は得やすいということになる。

 会社は規模が大きくなるほど統率がしにくくなるが、それでいても人間の集まりであることに変わりはない。人間を掌握しているその言葉で、会社の発展も語れるのなら、これは実現可能な人材を揃えているに違いないという話になる。もしくは、将来展望が可能なところまでポテンシャルを高めているとの評価を得られるはずだ。投資の選別でいえば、大いに有望な投資先であると判断できる。

 経営者たちが会社の成り立ちから設計に携わるのは、それが会社精神を支える屋台骨を建設することになるからだ。たまたま集まった人材で何ができるかを考えるよりも、屋台骨に集ってそれを支えるうちにやりたいことが決まるほうが、集団としては強い。屋台骨とは何かを的確に平易な言葉で語れる会社は、これから何をしようとしているのかも可視的なのである。だから経営者は、会社精神を代表する思想を、自らが布教するつもりで吹聴したりするのも、仕事のうちだと考えなければならない。

 そうすることで、発展したその後を展望できる。さらには、社員は情報の海で目印もなく彷徨うという労を採らなくても済む。会社は理念と目的が合致している時が一番業績を伸ばせるのである。そのことを鵜殿は承知しているから、さて、どのような言葉で今後を語ろうかと、思案しては楽しい気分になっているのだ。

 

 普段の渥美は口数が多すぎるということもなく、また寡黙すぎて扱いに困るということもない。思想から行動まで、すべてが平均値でできているようでいて、実に要領よく取捨選択をして優雅に世渡りをしている。投資においても卜部という良い助言者を得たこともあるが、人には話せないほど上手くやっている。

 その投資における同士が、鵜殿である。彼が経営に乗り出したと知って、いよいよ来る時が来たのかという感想を持った渥美だが、実際に鵜殿が上手くやっているのを見て、人生の行路が少しでも違っていたら、自分も勇気を出して起業できただろうかと夢想した。どうも鵜殿のように容姿端麗というわけではないから、自分が小さく見えてしまって自滅するという顛末をたどりそうで、渥美は苦笑するのだった。

 彼の日常は情報収集と常識論の作文でできている。今最も企業が必要としている情報を見極め、それに対してどのような見識で臨むべきかを、伝統的に伝達の場に沿うものとして認められてきた言葉で説くのである。ややもすると無感動で色彩がないから、自分が何を言いたいのか分からなくなることもある。強迫的に世間と接する面積を小さくしようとする人もいるように、自分のポジションを主張できないと不安になることは理解できるが、会社員としての渥美は主張よりも言説の正しさが優先されなければならず、いつも神経を張り詰めさせていた。

 そんな緊張状態にある彼に、自分の文章がそうあるべきであったように、無表情な顔で近付いてきた営業マンがいる。卜部である。渥美は一種の諧謔のように親しみを覚え、なぜそんなに不愛想なのかは聞かないが、是非ともその路線を貫いてほしいという意味で、貯金の一部を切り崩して投資を始めたのだ。損をしても構わないと思っていたお金が、複利計算で膨れ上がるように殖えたのを、今でこそ前向きに喜ぶこともできるが、往時は卜部とのやり取りのほうが面白く、言われるがままにインスピレーションだけに従って投資していたので、後ろめたいような気持ちがあったのも事実である。面白い営業さんに金を預けたと思っていたのが、思いもよらぬことに投資案件として成立してしまっているのである。そんなふうに楽をして金を稼ぐことは、彼の古くからの友人である相馬なら顔をしかめて嫌がるだろう。

 だが、儲かって悪い気がするものでもなく、額もサラリーマンが働く意欲を失うほど巨額でもないので、営業マンの勉強代を支払ってその人を化かしたとでも思えば、役者を贔屓にしていい芝居を見せてもらうのと変わらないと考えた。渥美にとって、卜部は冴えない顔をした割に「良くやる」女だったのだ。威圧すれば気落ちし、煽れば目を白黒させ、可愛くはないが会社に忠実だということが分かる、いい営業マンだということは、営業を経験していない渥美にも分かったのだ。

 それが随分としっとりし、落ち着き払って口を利けるようになり、渥美は意外さと寂しさを両方感じていた。考えてもみれば、いつまで経っても初々しいままだったら、まともな助言はできないだろうし、何年も付き合っている顧客に、不信感を抱くようでは会社員などは務まらないだろう。概ねのところ、腹を割って話すまでには至らないが、無理なく感情を動揺させずに話せることを、卜部も察しているのである。

 最近は仕事が忙しくなってきたこともあり、渥美も彼女をからかうことを止め、投資案件に熟してしまった自分の金が、どう化けるのかに興味を移行させている。話し言葉は平板で、無感動な女に調子を合せるように目の輝きも乏しく、傍から見れば義務で接しているかのようにも見える。本来の仕事に集中しているためで、片手間で投資を扱っているだけなので、その辺りの外観で収まるのなら問題はなさそうでもある。

 景気はそろそろ底上げするだろうという観測を文章にして、その観測が甘い見通しである可能性を認識したところで、たまには冒険もいいだろうと開き直った渥美がいる。彼は卜部の在籍している証券会社を訪れ、彼女を食事に誘うつもりだったが果たせなかった。

 無口で愛想のない男が、溜め息をついた。渥美は携帯電話を手に取り、鵜殿に電話をかけた。その時鵜殿はオフィスにいたが、忙しさにかまけて端折った口のきき方をした。

「渥美さん、言葉遊びのようなことはしないでくださいね。ご用件はなんです」

「お忙しそうですね。水を差すようで悪いけれど、良くない報せがあります」

 若干湿った声で、それでも渥美は気丈に話した。気を削がれることを予想していた鵜殿は、活発に動く意識を少し押さえこんで訊いた。

「何があったのか聞きましょう」

「先ほど証券会社に赴いたんですが、聞くところによると卜部さんが自殺したそうです。どうしてそんなことになったのかは分かりませんが」

 淡白な説明口調を聴きながら、鵜殿は微かに眉を動かした。

「自殺するような理由に心当たりは」

「ありませんよ。私も吃驚しているんです。むしろどういうことなのか私の方が知りたい」

「株式投資の方は塩漬けにするつもりでしたから、実際面では困らないのですが、感情的には居た堪れないですね」

「付き合うだけの味がある人だったから、もったいない気がします」

 渥美も同意した。

「これからどうなさるおつもりですか。連絡を下さったのはそれを見定めるおつもりだからなんでしょう」

「鵜殿さんが詮索しないのでしたら、私が代表してもう少し詳しく事情を聞いてこようと思います。事情が分からないと寝覚めが悪そうですから」

「そうですね。そうしてくださいますか」

「何か分かったら連絡を差し上げます。それにしても、あの卜部さんが思い切ったことをしてくれたもんです。私なんて訳が分からなくなりそうですよ」

「お察しします。私もですよ」

 鵜殿は電話口でしばらく途方に暮れた。目の前では業務に奔走する社員が伝票を整理し、電話で連絡を取り、文書を作成して、細々と忙しそうにしている。誰も鵜殿には気を取られてはおらず、事務的に満足のいくだけの能率を上げるために、それぞれの手元に集中している。

 机に肘をついて、両手の指を組み合わせると、鵜殿は脱力して前傾姿勢を深めた。額に組んだ指が当たり、そこから額を離してはもう一度つけるということをした。そうすることで考えは概ねまとまり、湧水のように湧出していた戦慄が収まった。

 ビジネスマンにとって死とはどういうものなのか。日常的で仕事の節々に忍び込んでくる影というには抽象的すぎ、淡い霧のように肌で湿り気を感じるような、不可触のもののようにも思える。少なくとも、死の影を表情に映したまま仕事をするのは、接触する者をすべて不快にさせることだろう。死は哲学されて日常というポケットに収まることはあっても、現在進行形でまとわりつくのでは、余りにも遣る瀬無い。だからこそ儀式の様式が用意されているわけで、容易には触れられないからこそ、意味のある形で意識に落ち着かせるための方法が考案されてきた。

 恐らくは卜部が死んでも証券会社が業務を滞らせることはないだろうし、痛ましい死として認識しても、残された者たちはそれぞれの日常に帰ってゆく。それが死を受け入れるために社会が脈々と受け継いできた営為だからだ。

 やがては日常の比重が格段に増し、死という事実はその片隅に追いやられる。健康で未来を見据えた人間が、死に侵されるように衰弱していくのは、ビジネスの場にはそぐわない。ビジネスは無感動でもいいが、健康でなければ気持ち良く裁可することが適わないのだ。健康で常識的な観念を備えた人間が、他者に製品、サービスを提供することで対価を得るのでなければ、顧客は自らの決断が無色透明の純粋な対価であるかに自信が持てなくなるのだ。

 健全でいることは、相手に余計なことを考えさせないという意味においても、ビジネスマンには大事な要素である。その対極として、死がある。破滅してすべてを奈落に持ち込むように、金銭的対価も、信任も、利便性も、全部が宙に浮いてしまうのが死である。代わりがいるからと、無個性で表情のないビジネスを想像することはできるが、信頼して仕事を任せるという過程に人間性が反映されなかったら、裏切りや欺罔が繰り返されるはずである。

 そうではないから、ビジネスには心があるから、死は悼むのに値する事実なのである。歳をとれば誰にでも死は身近になるが、まだ若さの名残がある中年にとって、よく知ったビジネスマンの死は、慣れることが適わずに煩悶したくなるような、重々しい趣があるのである。

 卜部の死は、俄かには受け容れがたいほど難解な位相を呈し、心の内のどこに位置付ければ落ち着くのか分かりにくかった。しかも自殺だという。詳報がもたらされれば、改めて気構えを作ることができるかもしれないが、今の鵜殿には混乱の原因以外の何物でもなかった。特に親しくしていたという実感はないが、それでもビジネスマンとして存在する価値を認め、信を置いていただけに衝撃は大きい。

 何が変わるというわけでもないが、心から世界を構成していた部品が抜け落ちて、不安定になっているのだろうか。そういう経験は、足し算で成立するビジネスにはあまりないが、乗算で成立する人間関係にはありがちなのかもしれない。あの人は、自分の中では大きな部分を占めるほど、価値のある人だったと、振り返ろうとすればそこで憂いが生じるのである。

 取り敢えずは、鵜殿は証券についての助言を卜部に仰ぐということができなくなったわけで、紛れもなく痛手ではある。ただそれは、ビジネスが円満に進行する上での差しさわりというだけで、ビジネスを構成している要素に欠品が生じるということではない。飽くまで気持ちの中の損失であり、現実には代わりを求めてショッピングをするように入れ替えを図ることもできる。金で利便性を買うというのは、多少なりともビジネスに覚えがあれば自然な発想であり、証券の知識くらいは幹事会社を設定すればいくらでも入手が可能である。

 それでも、知己に知識の源流を求めるという態度は、金ですべての巡りが決まるのに面白みを感じない鵜殿には、ヒューマニズムの信仰と同じくらいの重みがあった。金さえあればあらゆる知識に接することができ、金の分量に応じて万能感も満たされるという、人間を信じない者に特有の感覚もあるが、現実には認諾されない限り次の知識には進めないという壁があり、彼らはこれに苛立って力でねじ伏せることを企図したりするものだ。要するにいくら金があっても、社会的に認知されないパーソナリティーは、社会の底辺をうろつくだけなのだ。

 これに懲りて虚飾が繰り返されるようになるのであり、俄か成金になったところで、人格の陶冶が進んでいなければ目に見える形で力を信じられるものでもない。緻密な情の積み重ねで社会は構成されており、一人の傲慢な人間が我が情を最大限に評価しろと迫っても、社会が構造からして付いていけないということが起こるのである。

 大多数が幸福な感情を抱けるように、互いの顔を見合わせると落ち着くところに落ち着く、ということを期待するのは欲張りではないから、世相のあるべき姿を夢想し、そこにたどりつけるように態度を示すのは、責められる発想ではない。ただそれが、金の力を過信して、金だけが幸福の源流であると信じたりすれば、壁に突き当たって進歩性を閉ざされる。それが社会の現実である。

 そんなところで躓く気はない鵜殿としては、処分できる金銭が増えても、総てに優越する資格を得たと感じるには、根拠が薄弱すぎることをよく心得ている。確かに金があれば書籍を買い込むことができるし、有為なコネクションができるかもしれない。だが、優れた知識経験は選ばれた者に天賦のものとして備わっていることが多く、人間関係を通してしか接しえない。無機質なビジネスで成功して、その延長線上に能力を飛躍させる知識経験を得るのではないのである。飽くまで人間が基礎であり、人間を慕って愛する気持ちがなければ、その人に備わっている天分に触れることは叶わないだろう。

 全部承知していて、すべての力学を支配し、愛情すらも左右するのは金であると思いこみやすいのは、実は金のない人間のほうであり、金を持っていれば、財産よりは人の石垣だということを育つ過程で痛いほど思い知る。裕福な家に生まれても、ただそれだけで頭を下げて媚びてくるのは小者であるし、能力の限界値が見えないような、知識経験の器が違う人物に触れようとすれば、自ずとそれに見合った自己研鑚をせざるを得ない。親もその必死さを見て、様々な支援をするだろう。

 幼い頃からポテンシャルのやたらに高かった鵜殿は、砂地が水を吸うように、ただ生きているだけで秀でてきた印象があるが、それを誇ることの無意味さも知っており、今では心をこめて人にお辞儀をするような男になった。たおやかで力強く、接しても容易にはぶれないことが分かるパーソナリティーは、人に安心感を与える。その人柄のまま、卜部にも接し、今は彼女の死を悼んでいる。

 虚しさがないと言ったら嘘になるだろう。どれほど懇意に丁寧に接しても、その人が亡くなってしまえば関係は零に帰する。関係性の中に自分を位置付け、そこに力の源泉があると考えれば、関係性の消失は、すなわち失意であるといえるほど深刻である。永劫の別れを予感させる、何かがあればよかったのだろうか。そうではないだろう。豊かに築かれた関係性が、今後も接した人の内面に背骨を通して、屹立するように人格の一部をなすことが、よほど懇意にしていた人からは感じられるものなのだ。人ひとりのなかに、他者が写し取られるということが、無意味なはずがないのだ。

 死は終わりではない。関係性を確信している限り、相対的に存在しえた事実は消えない。たとえそれが失意であってもだ。

 関係が死によって清算されても、信じた気持ちまでは裏切られないのだ。しかし、渥美のいうところによれば、卜部は自殺したという。向こうから拒まれているようで、不意に立ち止まらされたように気持ちがさざ波立つ。観念的には自殺はすべての否定を端的に表すもので、人間関係に絶望し、今後の展望が一切抱けなくなった人間がするものである。鵜殿の知る限り、卜部は意気消沈くらいは日常的にするとは思えても、絶望するような理由があるようには見えなかった。表情は冴えないが温かみがないわけではなく、血の通った一個の人間として欠乏感に苛まれてはいなかったはずだ。

 詳しく状況が知れれば、また見解も紡ぎ直されるだろうが、現時点では衝撃が際限なく綻びを広げているような感想しか持てない。精神が摩耗し、ちりちりと電流が記憶を消滅させていくように不快感を伴う。身近に自殺者が出たのだから、その程度の威圧くらいは感じないと、返って健全ではないだろう。

 できることを惜しまずにしていたら、もしかしたら不幸な結果は防げたかもしれない。そういう小さな焦燥感が、自分の内面に辛うじて生じていることに、鵜殿は狼狽していた。身近な人の死は、もっと金槌で殴られたようにぐらぐらするものだと思っていたが、その死を防げたかもしれないという安易な発想に縋るのは、どうであろう。

 あまり情緒的に満たされていない人間のようで、気が滅入ってくる。仕事に忙殺されている現状を鑑みれば、ここで立ち止まって鬱々としていることは、雇った社員にも申し訳が立たない。切り替えるべきところは切り替えないと、他人に対して責任を負っている鵜殿は、後悔することになるのである。

 結局は、自分が大切だということだろうかと、鵜殿は吐息を吐いた。そして、卜部が自殺をすることに理由を見つけられず、詳報に期待をかけてみようという気になった。それまでは、仕事に感情の乱れを持ちこまないように、努めて奥深くに、胸の中で呼吸が苦しくなるような奥底にまで、動揺を秘めてしまおうと考えた。

 

 昇進した後の相馬は、後を託された引き継ぎの仕事に携わるだけでも、張りを感じないわけにはいかなかった。なにしろ、一部署が丸ごと彼の職掌に収まっているのである。明確に営利を指向しているとはいえ、会社の一部に連なるという事実を、意識的に職業に反映させるようになったのは、上級管理職ならではだろう。

 以前のように上長の裁可を仰ぐ機会は減り、大半が自分の手元に情報として集まるようになり、責任感は従来に比べれば格段に増した。ここで失敗すれば、情報を一元化し得る立場にある人間が、それを知ったことにより行動を要請されているのだから、逃げも隠れもできないことになる。相馬にはそれが脚光を浴びるほどに華々しいものには思えなくても、誰かしらに注視されているように気持ち分だけ背筋を張るのだった。

 彼の日常で明らかに変わったのは、妻の態度である。家のローンが家計を圧迫して、工夫しないと生活に余裕ができないと嘆いてばかりいたのが、ほんの少し給与が加算されただけで、手芸を習いに行こうか検討しているなどと、表情を和ませるようになったのだ。

サラリーマン家庭の現状はどこも概ねそんなところだろうが、楽か厳しいかで二分するとするなら、分水嶺となる給与水準を相馬はクリアーしたことになる。水面上に浮上して太陽の眩しさを経験した魚のように、サラリーマンらしい消費のせせこましさを忘れ、新世界に接したような清々しい感動もある。実際的にも情緒的にも、給与が上がることによる恩恵を、十二分に博したのである。

無計画な人間なら、まだ二十年残っている住宅ローンの返済を楽観し、余裕ができた分は全部消費に注ぎ込んでしまうのだろうが、相馬も彼の妻も、飢餓感を覚えるほどには物に満たされたいという欲求は少なく、暮らしていく分に不足がなければなんとかやっていけるのではないかという感覚でいる。

彼らのように慎ましい生活感覚の市井人が市場の主役とするなら、消費は堅実と質素を重んじる手堅いものになるはずである。政府が統計を取っているのは、総額としての消費であり、個々人の消費傾向ではないから、案外と財布のひもが固くなることに無頓着だが、ローンを抱えて生活を切り詰める傾向にある消費者を想像するなら、どうしたって消費が低迷する可能性を意識しないわけにはいかないはずである。だが、マクロとミクロでは着眼点が違い、消費喚起という時の消費は総額の加増を意味し、傾向の誘発ではない。政府は必ずしも、消費政策において国民の生活を防衛するという意識がないのである。

最近になって単発の政策に予算を計上するようにはなったが、消費政策は総額での数字の維持を目標とし、消費者の実質的な幸福感を想定することは、領分ではないとしてしまっている。そんな抽象的な尺度で財政を投じることは、特定の価値観を持った人々の優遇にも通じ、政策の公平性を損なうとの判断であろう。

消費者としての国民は、団結をしきれない烏合の衆であり、まとまった票にもならないから、消費政策は長らく放置されてきた。それが、弥が上にも消費の増進をという経済活性化策に引きずられる格好で、議論の中心に躍り出てきた観がある。消費が伸びなければ経済が持たないという危機感が、消費の傾向というミクロの視点をひと跨ぎにして、マクロ的総額まで下支えしようという発想に到達させる。個人の消費というプライベートな内容に触れねばならないような、本来なら議論したくもないところで、消費の動向に水を差してはならないのだと、初めて消費政策に言及しているのである。

 すなわち、経済を議論すればどれだけの消費を必要としているかを明示せねばならず、それは消費の分量を、ひいては消費生活の水準をすら明らかにすることである。貧しい者がいれば、その実態を暴くような認識を掲げた上で、もっと消費してほしいということを政治の側から要請するのである。政治的には、消費は私的な位相で語るべきではなく、飽くまで公の位相で皆さんご一緒にと調子を取らなければいけない。消費に格差があることを、前提にはできないという引け目があるのである。

 その政治の阿諛的な消費喚起の声のいかがわしさを、相馬は毛嫌いしており、財政投資に議論がないことと同様に、消費を議論したがらない政治家を訝って見ている。議論すれば経済感覚が露わになるし、下手をすれば常識感覚の欠如を指摘され、政治生命にも影響する。踏み込んだ個別の議論はしないことが、まるで申し合わされているかのように、薄っぺらな討論ばかりがされている。住宅ローンでかつかつの暮らしを送るサラリーマンが、どのような消費をするかについて関心を持たないまま、消費を拡大すべきだと音頭取りをしても、誰のどの財布から出費されるのかまるで見えてこないのである。

 こうした場面で、住宅ローン減税が打ち上げられるのは、消費喚起の大きな起爆剤にもなりうるが、減税である以上は財源を充てなければいけない。税収の減少で財政が火の車になる前に、景気の底上げで消費が拡大し、経過として産業も潤うという流れになればいいが、住宅ローンは返済可能なぎりぎりの額まで借り入れることが多く、他の消費が落ち込むことは避けられない。

 もともと借金をさせて消費を拡大しようという発想は、土地に縛りつけて治安対策とする古くからの政策の延長線上にあり、職業を固定して滞りなく借金を返済させれば、社会生活では非行に走る者が減り、目標意識を持って仕事に励むだろうという、甘い期待が含まれている。遊行に蕩尽し、無秩序に消費行動が繰り広げられるよりは、消費総額に貢献する大きな消費をしてもらって、借金の返済を人生の目的の一部に考えてもらった方が、政治としては都合がいいのである。

 政治家の思惑どおりに借金をして、社会的に意義のある産業が儲かるように消費行動を取って、社会は堅実な人間で溢れかえる。予定調和がそうだとしたら、借金の返済を消費政策の前面に押し出してくるのも頷ける。借金を忌避する風潮よりも、消費が伸びないと困るという政策的思惑のほうが優先されること自体、お上意識の跳梁ともいえるが、世帯消費のモデルに住宅ローンという借金が組み込まれた段階で、慣行として容認してしまった世論の腰砕けにも問題がある。

 どれだけ職業という枠組みで努力しても、住宅ローンという大量の借財に対して効果のある賃金上昇は見込めないのが通常であり、相馬のように順当に成り上がるには腹を決めて仕事に集中しきらないと、職業に対する意識が低いからと引き立てにも与れない。いっそのこと住宅ローンを抱え込んで、人生の行路を決定づけるくらいの買い物を決断しないと、会社員として一人前にはなれないということかもしれない。

 政治はそうした大きな買い物をするサラリーマンによって、消費構造が決するのを容認する構えであり、腹を括って大借金をできるように支援もしてきた。消費の動向を決してしまったということであり、住宅ローンで家計が圧迫されることまでは見越しておらず、毎年の定期昇給とベース・アップで消費はいくらでも拡大するという計算があったのである。終身雇用が約束され、年功序列型の賃金が導入されていた頃はそれでも遣り繰りの見通しが立ったかもしれないが、成果型賃金が導入されて、住宅ローンを抱えるリスクが生活を破綻させるのではないかという懸念が持ち上がるようになったのも道理である。

 政治は申し合わせに至った経緯を仁義を通して守るものであり、慣行を変更するには断腸の思いを必要とすることが多い。借金主導の消費構造を、今さら誰の主導で変更するのかについて、誰からも声が上がらないほど阻喪が著しく、不景気だからというのではなく、社会の転換点に立っていることの怖さを身を以て感じている格好である。

 もちろん政治が主導すれば、著しく展望が開け、劇的に解決し得るのであるが、その劇薬を用いて施術するだけの確証はあるのかという責めに、二の足を踏んでしまうのも人情だろう。世襲議員が増えると、変化に対して鈍感になって、いざ変化の波に飲み込まれると茫然自失してなすすべもないということがしばしば見られる。政界は変化に順応するのに議論をしなければいけない宿命を背負っているのに、議論するのが厭なものは後回しにしたがるのである。消費総額は華々しく議論して財政投資を誘導できるが、消費動向について国民に請け合うのは、反感を買って政治生命を縮めるだけだという計算があるのだ。私は保守の政治家であると宣言するからには、消費の枠組みに手を付けて国民の生活設計を変更した、時の政治家になるのは、割に合わないと考えているということだ。

 全部旧来の通り恙無く実行するのが政治の使命だと考えれば、借金経済にも万歳を連呼できるだろうが、健全な経済観念を持つ政治家は、そろそろ旧来の枠組みが限界にきていることを知っている。住宅ローン減税で経済を牽引するのは常套策でも、それによって消費が上向くことまでは確約しきれない。減税した分は貯蓄に回るのではないかということを、薄々は感じ取っているはずだ。

 新しい経済の形を設計しなければいけないのに、最も情報を豊かに有する人々が、社会は借財で回るものと思い込んでいるとしたら、消費拡大よりも旧弊の護持に回ってしまうのではないか。いっそのこと住宅ローンで消費者に先行投資させるより、借家で住居を確保して総額では当てにならない散漫な消費をしてもらった方が、国民の幸福としては上等ではないかということも考えうる。とにかく全体の労働形態として、成果型賃金が圧倒的に優勢になりつつあるのだから、それに応じた消費動向を、経済モデルに反映させなければならない。

 これまで上手くやってきたのだから、これからも上手くやれるはずだという議論は稚拙すぎて採用できない。政治家はもっと想像力を働かせて、今何が必要とされているのか国民の声に耳を傾け、経済モデルくらいは簡単に破棄して、現状に見合った規模と質の世帯生活を保障することに重点を置く方がまともだろう。

高齢化社会を迎えて、消費生活は明らかに尻すぼみになることが予想されているのに、借金をしなければ家が買えないという、経済競争を度外視した消費総額維持の政策は、早晩に廃止しなければならない。売れなければ価格で競争するしかないのだから、家屋などはどんどん値下がりして手頃に求められる価格に落ち着くまで放置すればよいのである。それによって倒産する会社が出てきても、借金によって潤う産業があること自体、本来は異常なことなのだから、見切りを付けて切り捨てるべきである。

総て合意に至った枠組みにとらわれるあまり、経済の機能を無視した無茶をやっているのだから、どんなに財政投資をしても改善されるはずがない。良好な住宅を提供するという住宅供給政策の一環としての住宅ローンは、そろそろ役目を終えてもいい頃である。劣悪な住環境を克服するために設立された住宅ローン制度は、新時代にふさわしい、より多くの幸福を獲得するための、予備的な制度に衣替えをすべきである。

そうでなければ消費は経済の調整機能に逆らった政策によって低迷し、消費の拡大などと正論をいくら打っても、笛吹けど踊らずということになるのである。どの産業を残すべきかを言うならば、技術力の粋を集める住宅メーカーは残したいところだが、そのために消費を犠牲にするのには色よい返事はしにくい。競争もせずに、素材メーカーの技術革新に乗っかっているだけなら、住宅産業を保護政策の対象にする必要はない。産業は競争によって淘汰されるべきであり、それができない不効率な産業に肩入れする政治は、国民の利益を代弁するつもりがあるのかという非難に値する。

社会が不効率であっても、政治はその不効率を既定事項だとして、財政で支えようとしている。変わらなければいけないのは借金で生活の根幹を維持しようとする消費者なのか、その消費動向に踏み込まずに、消費総額が維持できれば産業の先進性は保てると踏んでいる政治なのか、ここは議論してもあまり意味がない。どちらにも問題がある。賢い消費と、それによる幸福感の獲得は、政治が保障する範疇にはなく、個人的な出来事なのだ。個人の動向に誘因を持ち込むことを政策としえても、動向そのものを左右するような指導をすることは、一義的には政治の仕事ではないはずである。

効率だけを追求すれば、無駄を省くという着想の下、失業は相次ぐだろうが、経済は拡大して新たな雇用が生まれる。政治はそこで想像力を働かせるべきなのだが、合意に至った枠組みを維持することに熱心でも、経営に参画するわけでもないのに新たな枠組みを保障することには消極的だ。無理なからぬところであり、政治は不効率を容認し易いのである。

では、誰が効率的で産業競争力のある社会を設計するかといえば、やはり政治なのである。一面的には古い枠組みの設計者であり、代表者でもあるのに、それを否定する新しい枠組みの設計者にもならなければならない。頭の固い政治家はそれを自己否定だとして、頑迷に拒もうとするだろう。確かに矛盾はしているのだ。だが、時勢の変化というファクターを加味した途端に、古い枠組みから脱皮するチャンスが得られる。経済が混迷する時期に、これらの改革を成し遂げるべく、議論をする機会は多いはずである。

新たな枠組みを導入するのに必要な議論が、堂々と交わされる機会があるのに、これを利用しない手があるだろうか。不況は変革の好機であり、いったん生じた不効率を解消するための、決定的な一手を打つべき人に、権限が集まる時期でもあるのだ。

相馬は裕福なサラリーマンになりつつあるが、政治を批判する能力を鈍磨させる気はまるで持ち合わせていない。誰に権限を持たせたら、既成の権益にとらわれない、真に平等な政策を打ち出せるか、普段から報道を通して選別を進めているのである。消費は収入に応じてなされる個人的なものだが、相馬が住宅ローンを組んだ段階で、政治家に下駄を預けた格好になっている。望むと望まぬとに関わらず、政策の動向により利害の得失が生じる立場なのだ。

産業が衰えて、生活の利便性が損なわれるのは、もちろん相馬の望みではないが、借金がなければ消費総額が縮みあがってしまうような不効率な経済も望んでいない。適度に競争があって、適度に敗退する企業もあって、そして新たな雇用も続々と生まれるのが、平均的なサラリーマンの理想とする社会だろう。

 経済が競争を通して筋肉質になっていくのを、自らの仕事に重ねてみると、日常的にやっているコスト削減の努力が、なるほど経済の一部なのだと自覚できる。しかし、減税などの政策に比べて明らかに見劣りするのは認めたくないところである。いかにもちまちましていて、政治家とサラリーマンの仕事の優劣を目の当たりにするようで、相馬も深く考えるということはしない。それで給料を取っているのだから、手抜きはできないが、経済の片隅に生息している少食の生き物が、たぶん自分なのだろうと思うだけで、虐げられているような気がしてくる。議論とそれへの参加が、サラリーマンのせめてもの反逆だろう。

 

 日を改めて、証券会社に電話した渥美は、名前を覚えていた卜部の部下を指名した。彼の投資で雑務を担っていた、育ちの良さそうな青年である。青年に卜部の自殺の話を持ちかけると、電話口では話しにくかったのか、訪問してくれることになった。

 十数分後に渥美の前に現れた青年は、憂鬱そうに真相を話した。渥美はそれを聞いて、ようやく腑に落ちる思いがした。

 話によれば、卜部は深夜の残業中に眠るように逝ったとのことだ。健康診断で不整脈を指摘されていたそうだから、無理が祟ったということなのだろう。会社は過剰な残業を指示していた可能性を指摘されるのを恐れ、本人の意思で残業していたことを強調している。つまり、労働災害ではなくして、自殺のようなものだと説明したところが曲解されて渥美にも伝わったらしい。

 泥棒に追い銭ではないのだから、労災くらいは認めてやればいいのだが、会社の面子というものは時に暴力的に働くのである。会社は健康管理にも気を遣っていたということを、是が非にでも証明しなければならないのだ。渥美にも理解できない発想ではないので、誤った報せを受けたことには立腹しても、青年に食ってかかるようなことはしなかった。

 思えば、青白い顔をした、幸の薄そうな女ではあった。数年間ビジネスで付き合ってきて、卜部が実直で仕事を途中で放り出さないことはよく知っていたが、死んでしまうとなると話は別だ。渥美には、そこまでしてもらって儲けるのは気が咎めるだけの倫理観がある。高々儲け話のために、死を代償にする仕事があっていいはずがない。健康で文化的な尺度で、それぞれの幸福のために仕事に就くのが、現代のサラリーマンの矜持でなければいけないはずだ。

 そんな小手先の論理を瓦解させるくらい、無意味な死がもたらした衝撃は大きい。体が朽ちるほど働く人がいることに、渥美は心が圧迫されて思考が小さくまとまってしまうのを感じる。何もかもが単純な論理に置き換えられてしまいそうで、そこで踏みとどまれなかった者は、爾後複雑な状況に順応できなくなるのではないかと思えるのだ。

 働く人間が、そうも簡単にいなくなったら困るではないか。渥美は自らが結論を出そうと急ぐことに、僅かながらも怒りを覚えた。恐らくは卜部は会社の論理に従って殉死したのではなく、納得のいくだけの仕事がしたくて無理を重ねていたのだ。会社はそれを自己管理できていない不適格な職業意識だと責めるだろうが、渥美にとっては代わりを考えられないほど信頼を置いていた会社員だ。彼女の実績を正当に評価するのは当然だし、それを十分にしたなら、労災の認定くらいには手心を加えてもよさそうな気がする。

 なにしろ、帰らぬ人には弁明する機会がなく、過酷な労働を課されていたという事実がなかったとしても、会社側は労働を管理するのに絶対ということがないのを承知していなければいけない。体が負担に耐えられなかったことに斟酌するだけの実態があるはずで、それを隠蔽しようとするのは悪質な人権軽視である。

働く環境に最善を期するのに無理があるのなら、全精力を投じろと命じることには理性の援用がなく、会社は安寧を貪ることに危機感を覚えても、それ以上に働けとは言いだせない。基本的に、働く場所を用意した段階で、会社がどのような労働を期待しているのかが明らかになるから、無制限に労働を吸い上げる利益最優先の体制を作っておきながら、働けと命じた覚えはないというのは詭弁になる。

 結局のところ、会社は過剰に働くのが適当な場を提供しながら、そこで起きたことには責任を負わないとすることは難しい。働きすぎる傾向の社員がいれば、労務管理上妥当とされる方法で負担を緩和し、過労で勤務することが不能になるほど職場で拘束してはいけないのだ。それが暗黙の申し合わせであることが多いのが現状だが、肉体の限界を超えるほどの労働を容認するような管理が、明らかに不手際であることは容易に想像がつく。

 上級管理職にあった卜部が、自分の労働時間を節度を持って決めなかったという批判もあろうが、健康診断などで過剰労働には注視すべきことが期待されていたといえ、組織としてバックアップしなかったことには問題がある。卜部は適切な労務管理下にあれば、自省するきっかけを得たかもしれず、悔いが残るところである。そもそも組織の中での位置付けにおいて、彼女一人が頑張れば業績が向上するという、事実関係に置かれたことが最大の不幸だろう。

 会社から不要だと看做されない限り、雑用なども含めて社内には何らかの仕事があり、健康を重篤に損ねない限り解雇されることはないというのが一般論だが、いったん重責を担うことを託されると、そこから除外されるのは恐ろしくなるのかもしれない。いつも誰かが期待を込めた目を向けていて、それに応えることで仕事が進んでいくという、張り合いのようなものがあるはずだから、卜部のように生真面目な社員が主体性を維持するために貢献に目を奪われ過ぎたとしても、自然な流れではなかろうか。

 労災のような案件においては、普段物差しすら用意されない会社への忠誠が取りざたされ、抽象的には会社業務への貢献を考えていたはずだ、と証明されなければ、会社側から当人の健康管理の杜撰さを反証として提出されることになる。どちらも個人的な事情であり、忠誠だの健康管理だのと個人を取り巻く状況が詳らかにされることで、個人の尊厳が損なわれることはありうる。それが死者の名誉であれば、証明に注力する遺族は、反証に眉を顰めて、なんと冷たい会社であろうかと感情問題に発展させるだろう。

 もともとは健康を損ねるほど働くのにも非はあるが、働かねば存在が否定されると思い込むほど荒んだ会社文化を設定したことにも、責任の一端はある。会社は社員の幸福を考えなくても運営できるが、それをしなければ見返りとしての忠誠はありえず、常に労働を搾取する態度でいたのだと勘繰られても仕方がない。社員に出鱈目な要求をすることは憚られるが、社員が自主的に利益を供与するのなら受け取ってしまおうというのは、態度としても生々しく現金であり、倫理的にも責められるに値する。

 会社はその内在する文化によっては、労務管理の手落ちを指摘されやすくなるのであり、いくら社員が無謀な労働に躊躇しなかったからといっても、それを責める前提を欠いていることになる。健康な人間の尺度で成立する申し合わせがあるはずであり、それを社内に風紀として持ち込まなければ、労災に認定されるケースは軒並み増えるのである。

 となると、経営者は労働環境に逐一の指示で均衡をもたらそうとすることに、無理があることに気付かなければいけない。具体的な指示を出した場合、それを成果として具体化するためにどれだけの時間を要するかには個人差があり、どうしても勤務時間内に収まらない場合が出てくる。この指示が抽象的で、長期に亘るものだったりすると、慢性的な残業が生じる羽目になる。労務管理としては、具体的な指示を出すほどに毎日の労働に管理者側からの関与があるわけで、この状態で労災ではないと主張できないのは当然である。問題は抽象的な指示で社員を業務に従事させていた場合だ。

 細かに指示がされるわけではなく、半ば自主性に任される場合が多いのであり、法廷で争われる労災の大半がこのケースだ。会社は時間内に業務が収まることを想定しているが、必ずしも残業が生じることを否定せず、時には恒常的な残業を誘発するような報酬体系を用意する。これによって社員は拘束時間が増えることを甘受するか、自発的に残業に従事することを昇進の条件だと考えるようになる。過剰労働が、自主性の名の下に日常的に行われるようになるのである。

 これで健康を損ねてしまっても、会社は抽象的な指示の内容を、健康を損ねずに自主管理して従事すべきだと解釈するだろうし、社員が抽象性は無制限に労働を吸い上げるためであり、そこに厳密な評価があるはずだと考えることを、止める理由を見出し難い。具体的な指示を出した途端に、労働環境は硬直化し、柔軟に業務に適応しようとする姿勢が失われるからである。

 つまり、大雑把に働けるだけ働ける職場を用意することは、簡単で計画性を要しないだけに、固定的な業務への従事から指示が変更されないのなら、いくらでも働いてくれて構いませんよという態度に繋がりやすいのである。裁判の例でいえばこの計画性の欠如が、労災認定の決定打になるのだが、組織防衛の観点から労務管理を進めなければいけない企業側には、意外なほどこの観点が軽視されている。

 全力を投じて働くことで、会社への忠誠心が評価され、個人としても充実した人生を送れるのではないかという、強い思い込みが頭の古い企業担当者にはあるらしい。常識で考えれば報酬体系の歪みが発見できるようなケースですら、自主的に労働を提供しているのだからと、過剰な労働を受け入れる体制を顧みないときもある。裁判になって初めて管理の対象ではないからと、経営サイドの不手際を否定しようとしても、労働に対して適切な報酬が支払われることは社会的な約束事であり、これを覆してしまったら社会は成り立たない。

 業務への従事時間を会社への貢献と捉えるのは、具体的な指示を出さない会社では既定事項であり、従事すべき業務の内容は会社員個々の判断に委ねられるため、曖昧な後ろ盾しかない状況で従事できる業務は限られてくる。これではだらだらと長時間に亘って残業するのも避けられないところで、放置すれば信じられない期間、非常識な残業をする社員が出てこないとも限らない。勤務時間の管理は労務課を設けられる規模の会社なら、していて当然であろうし、見過ごしてはならない勤務形態を放置すること自体、労災認定で不利益な裁定を下される要因になる。

 卜部のケースは、おそらく会社への貢献が認められて、争われることなく労災認定の手続きが取られるだろうが、そうした円滑な手続きを妨げるほど、彼女が就いていた地位が華美なものだったとしたら、自殺ではないかと悪意を持って囁かれるのも仕方がなかったのかもしれない。職業は本人の意思のみで成り立つものではなく、周囲との関係に立って相互補完的に存在するものである。一部の華麗な職種が持て囃されても、それを補助している職種が輝きを失うわけではないが、妬みの感情はその目線を疑わしくするのである。

 労災のケースが自殺などと誤って報じられるほど、卜部の職場は労働に倫理観を欠いているのかと訝りたくなるが、渥美はそれが彼女の名誉にならないことを知っているから、あからさまに虚偽を含めようとする者が目の前にいない限り、回りくどかったが真実にはたどり着けたと考えるべきだと判断した。

 詳報はさっそく鵜殿にも伝えられた。

「では、自殺ではなかったんですね」

 彼の声は沈着で、無用の感情表現を含んでいなかった。

「はい、恐らくは労働災害です。そこまで会社に入れ込まなくてもいいんでしょうが」

「でも、渥美さんは卜部さんに随分お世話になったのでは」

「そうなんですよ。無理をさせた気はないんですが、死なれてしまうと気が咎めます」

「弔辞を送るくらいのことはしたほうがいいんでしょうね。けじめですよ。金で繋がっていた関係とはいえ、私たちは心ない大人になってはいけない」

「ビジネスは無情ですからね。しかし、けじめは必要なのかな、やはり」

 渥美は喉に引っ掛かる笑いを洩らした。そして大きく息を吸い込むと、最後にもう一度だけ卜部の顔を思い出した。

 

 遊軍の井伏には様々な情報に接する機会がある。

 偶然とはいえ、卜部のことを耳にした。よくある訃報としてではなく、ビジネス街で労働が過重になっていないかとの呼び水に応える形の情報に接したのだった。毎日のように株価が仰々しく報道される不景気に、証券会社で上級管理職が過労死した。情報の断面として新鮮さはないが、経済の深層を探るためには足掛かりになるかもしれない。さっそく井伏は取材を展開した。

 得られた情報は多くはなかったが、肝心なのは過労死を日常として受け入れる素地があったことだ。ビジネス街では残業が自然に受け入れられていて、そこで朽ちるほど体を酷使するのも当人が納得しているのならそれでいいだろうという空気があるのだ。残業して稼ぎが増えるのならいいのだが、営業職などは時間比例で給与が伸びないので、成果を上げるために不効率なほど長時間拘束されているケースもある。卜部は大方そのようなサービス残業をしていた要領の悪い会社員なのだろうと、同業者の視線は冷たい。

 しかし、近視眼的には、優秀な会社員が周りに歩調を合わせるために、厳しい業績に一丸となって立ち向かうという美風を堅持しようとしたことは、卜部に近しい部署での証言からは透けて見える。熱心に仕事をする社員だったということは、簡単に聞き取りをしただけの井伏にも十分に分かった。それも卜部は職業において栄達を求めようとする会社員ではなかったらしく、聞く先々で丸みのある人当たりのようなものを惜しむ声が上がった。

 丸一日取材をして断定しても良かったが、卜部は社内外で慕われる人柄だったようだ。いわゆるいい人だからこそ、井伏がずけずけと聞いて回っても沈黙の壁に阻まれることなく、情報を提供してくれる人も気がかかりを残さずに済んだのだ。どこかで恨みを買っているような強引な営業をする女性だったら、口を閉ざして関わりを否定するほうが無難だったりもするだろう。

 それがなかったということは、仕事の手際や会社員としてのモラル、引いては個人としての価値観まで、周囲にある程度まで認知されていたということだ。女だから目立ったということはあるだろうが、それにも況して仕事上で世話されていた部下たちの肯定的な目の前に、邪心が洗い流されるということもあったかもしれない。まだ死から間もなく、口に出すのを憚る雰囲気はあるが、卜部と聞いて胸の中に尖った感情を抱く必要性は、彼女の職場ではなさそうだった。

 この件は井伏にとって、報道に適した素材ではなく、飽くまで知的好奇心を満たして報道を重層的に確信深いものにするための、予備的なものであり、根掘り葉掘り裏付けを取ってまで調べる必要はなかった。卜部という証券会社の管理職が、どのような感情を持って仕事に従事し、肯定にしろ否定にしろ、仕事への関わりを決するのに何を基礎にしていたのか、極端な例として判別できるまでに知悉できれば良かった。

 よもや無念を抱いて死んだわけではあるまい、というところまで調べ上げると、井伏は感情的なしこりとして過労死について回っている負のイメージが、若干だが晴れるように感じて、改めて胸のうちに職業への意識というものが類別されるのを、遠い目をして受け止めた。自らも職業に就くサラリーマンだから、職業が暗澹とした苦行のように思えては問題があるのだが、幸いにも職業に適性があるのか、楽しみながら向上心を持って取り組めている。

これがただの知りたがりというだけなら、サラリーマンの皮を被った偏執狂にもなり、決して褒められることはないのだが、人一人の死を構図の中で捉えようとしたことは、職業意識からは順当な手筋である。対象に愛情を感じられるのが一番幸せなのだろうが、調べているうちに興味が募って肯定的に捉えられることはあっても、関係者になり代わって死の無情さを喧伝するのは的外れであり、この場合、卜部が死んだことを経済の還流の一部として認識できれば、報道を職業とする者にとっては満足がいくものになったはずだ。

経済は見るからに循環が滞っているように感じられる。その一角で管理職が過労死するという事実を、報道紙面に乗せるためではなく、報道を背後から支える基礎情報として収集したことは、長い目でみれば有用である。井伏の持ち回りはこの報道の厚みに貢献することであり、一日を献じて調べた内容からすれば、遊んでいたといわれる後ろめたさはない。

なるほど経済は一方で大量の解雇を生み、その威圧感を人々は活字で目にし、職場では実際に体感している。経済の深層には、そこに献身する人々の無数の目が感じられなければ、人間性を徐々に喪失し、利益最優先の歪んだ競争を始めるようになるだろう。報道ではそこに人の温かさを感じられる、根拠を見出す必要があるといえよう。過労死というのは聞こえは悪いが、同情を誘うには十分の素材であり、経済が人間という頸木を離れて奔放に暴れまわるのを、心情から抑止するためには人の死を無意味に帰してはいけないのである。

まず、プライバシーを報道はしないことは既定事項だ。証券会社の管理職は社会的に影響力がないわけではないが、人々の生活に直接影響が及ぶほどのものでもなく、その人の死はプラベートに属する。ただし、経済を斜めに見ようとすれば突出して見えることもあり、訃報では扱わないが、事実として認知する分には必ず他の取材活動にも影響を及ぼすことを、推測できるし、そうでなければならない。多くのことを知った上で裁断するのと、平面的に一面を捉えて断定するのとでは、物事の深まりは天と地ほども違うのである。

感情的には、物を知り尽くした上で最良の選択肢を選べるのが安心で満足なのだろうが、経済に人情を持ち込んで、儘ならないからとかっかしていたのでは面白くない。ある程度まで距離を取って、冷静に俯瞰できるくらいに他者としての視点に立つ方が、客観性は確保しやすいし、報道の適性からはなるべく個人の感情を排除する方向でありたい。ジャーナリストは知ることが仕事であり、それを報せることを職業とするが、その過程を自己満足に終わらせては職業に携わる者として逸脱しかねない危うさがあるのである。

要は報道される側の心情を酌むことができるかということであり、入れ込み過ぎて妄念に囚われてはいけないし、丸で関知せずに固定観念のみから語るということをしてもいけない。報道は利害に重大な影響を与えるだけに、無私でなければいけないが、心がないのにも問題があるのである。人として当然の感情を持って、より妥当な結論に導くためとはいえ権力的な側面にも誘惑されずに、すべてを道理に預ける。それができなければ、どういう背景があって、どのような魂胆で報道されているのかが逐一訝られることだろう。

さすがに、訝られて信用されないならともかく、問い合わせが毎度のことになると報道の権威は地に落ちる。井伏ら遊軍は、そうした不測の事態に備えて組織に柔軟性を持たせ、固定観念に凝り固まって誤報を犯すのを防いでいるのである。日常的に、高度な観察眼による地道な取材活動を通して、報道が真に市民生活により添える媒体足りうるように、表面だけをなぞって満足しがちな報道に深みを与えているのである。

市民の側からすれば、報道機関が情報を原形を留めないくらい加工しているという疑念が生じない程度に、実直で素直でありさえすればよく、必ずしも完全を期して細かな配慮までする必要はないのかもしれない。が、報道はやり直しの利かない一回性が特徴であり、いったん損ねた信頼を回復するために、業界全体が多大な労を払わねばならないことを思えば、同業者が競う際には公器であるところの報道を適切に扱っているかという視点が持ち込まれるのにも合点がいく。

 翻って個人的な事情であり、名誉に直接関わる死という事実を報道するにあたっては、よほど口数を少なくして公平であることを心がけなければいけないだろう。報道に適さない一会社員の死は、先を見据えようとするならば、やはり公平であることを期さねばならないはずである。経済の一側面を彩ることが客観的に明らかであっても、公平な視点に立てばどのように扱うべきかは見えてくる。

 井伏は卜部の死を知ったことで、不況が叫ばれる経済の根っこの部分で、それを支えようと労働が陰に日向に横溢するほど存在することを、改めて感じた。だが、今後何かを語るために知ろうとしたのであって、何かの目的を達する手段にするつもりはない。それが公平な報道に要請される最低限のモラルであり、これを踏み外しては本来報道機関が浴するべき信頼も得られないことになる。

 本当のことを言い続けていれば信頼されるものではないことくらい、人付き合いを続けていれば分かることだが、報道という名分を得た途端に、報道も信頼関係であることを失念させるものらしい。今日の報道マンには、酷く偏った価値観で、全部詳らかにすればジャーナリストに権力が帰すると考える人物もいるのだ。いくら第四の権力と呼び声が高くても、ジャーナリズムを知る権利の従者の立場から飛躍させるには、常に適切な人物によって運営されていることが保障されなければいけない。できなければ、いくら報道に正義があると訴えても、信用するかどうかの自由を手放してまで権力的に振る舞ってもらわなくてもいいのだと、毛嫌いされても仕方がない。

 事実として認識するならば、卜部は不幸にも働き過ぎで逝ったのだが、それが報道にどう位置づけられるかといえば、情緒的に感じようとすれば、悲しい色彩であることが自覚できれば十分なのである。それが悲しみであることを、何らかの手段で伝えようとするのは、明らかに行き過ぎなのである。ジャーナリストは知ることにより感情を孕んでも、その感情を基礎に記事を書くことはできても、感情のすべてを読者と共有することはできないのである。これがジャーナリストと作家の指向性の差だ。感情を伝えることを職業にしたいのなら、必ずしも真実を伝える術を持たない作家になるしかない。ジャーナリストが同時に作家になれないのは、誰かの感情を代表することが公の場にはそぐわないからである。

 これはジャーナリストの日常的な憂鬱といっていい。

 人々と感情を共にしたいという欲求が強すぎると、公平性を欠いて客観的な視座に立てなくなり、結果として報道の権威を失墜させる。何やら鬱憤晴らしのようなことをしていると見られてしまっては、伝える使命に比べて、そこへの信頼は寂しい限りである。そうならないためにも、共感を最優先する情緒的な満足は引っ込めて、もとより冷静で事実を事実として認識するのに適した態度で報道に臨む必要がある。

 何事にも無感動になっては、選別すべき情報が見えないであろうから、感情を持つことは重要である。しかし、感情を伝えようとすることは報道にとって無用のことであり、主観で彩られた報道が信用を貶めるのも自明である。何を選別すべきかについては感情を動員することはあってもいいが、それも全体から見て公平であると判断される限りにおいてでなければいけない。

ジャーナリストにとっての全体とは、自らの周辺と影響が及ぶ範囲ではなく、平均化された人格が生存し得る社会のことである。いいジャーナリストは、人格を抽象化して一般化しても、なお人の顔が見えているものであり、全体が見えていながら、人と接することの意義を忘れないのである。その交流は感情の基礎をなし、社会に情報を還元する際に適切な選別をするのを援けるのである。

必ずしもジャーナリストは正義の心に漲っている必要はないが、交流の中から人の感情が求めるものを嗅ぎあてる嗅覚は必要だ。それが報道に適すると判断したら、素材から形成して一個の報道にしなければいけない。当てになるだけの嗅覚があるかは、どの程度正義に傾けるだけの情熱があるかからも分かり、結果としてジャーナリストは一般的に正義を備えているとの評価も得られる。

 心の内に秘めておく事実というものも、時には必要であろう。分別を働かせることも、とりわけ報道には求められてくるからだ。どこに報道の必要性があるか、限界事例を抱えることもそれなりに意味はあるのである。卜部のケースは限界事例などではないが、ジャーナリストの気構えが出来上がる過程を、自覚できるのは有意義だと考えたいものである。井伏は取材を終えて、労働というものを随分と哲学したように思えた。追っていて腹立たしさも感じた雇用の切り捨て問題に加えて、管理職にとっても受難の時であることに、文章が晦渋になりそうな予感がした。

 今、報道に何ができるか、何をしなければいけないか、井伏はそれを考えながら、事を難しくしたらいけないのだと自戒を強めるのだった。

 

 鵜殿の繁忙は続いていた。究極的には儲けるのが仕事とはいえ、妬まれるほど突出したことには憂いもある。同業者は彼のことを異端審問にかけたくてうずうずしているが、遅ればせながら老齢の顧問などから風雲児も良かれという声も浸透し始め、端倪すべからざる存在という見方が一般化しつつある。

 ただ、本人はいたって冷静である。奇矯なことをして人気を集めているのではないし、そもそも人気取りにはそれほど興味がなく、華麗にビジネスを展開するという目標から逸れることを危惧しているだけである。美意識に沿って社会的に有意義なことをするのが目下の目的であるから、多少の妨害が入っても、目的に適合した態度を取り続ける限り、地位が揺らぐことはない。

 社会などと大きな器を持ち出しても、どんぶり勘定で仕事をするわけにはいかないが、何を指向するのかについて考えを新たかにすることは、数字の上での成功よりも華々しいイメージの構築を急ぐ姿勢といえる。双方が両輪となって、企業価値を高めていくのが一番いいのだが、数字の上で大方成功してしまうと、企業の舵取りとして数字の上積みを社員に要求していくのか、ブランド・イメージの確立を迫るのか、そこは意見が分かれるところである。

 売上高至上主義の経営者は、企業の社会的な価値を誇示するには一定の規模が必要だと考えるから、数値目標を掲げて社員を鼓舞していくことになる。ただし、合理的な数字を発見することは極めて難しいので、同時に企業への献身に期待をかけることになる。やみくもに数字の上増しだけを追求する社員は、当然丁寧で顧客最優先の態度を完成させることには興味がなく、俄然売上でしょうという激しい売り込みを展開するものだ。

 これを嫌う経営者は、企業イメージの確立を目標にすえ、統一された目的をいかにエレガントに完遂するかを考える、頭脳的な勤務に期待をかける。目先の目的を提示されるのに対し、我流でもいいから売り上げにつなげていく貪欲さは、ここでは二次的な評価に留まるのである。より大事なのは、企業が社会に認知され、継続的に優秀な人材が応募してくるようにすることであり、長期的に企業を支えるマン・パワーを蓄える前提としての、イメージ作りである。

 確かに、給与を払う術すらなければ、人材が応募してきても雇えないし、また企業イメージが劣悪だと、経営への求心力が低下して、求人を出しても泥船に乗ることを懸念する動きのほうが強くなる。数字とイメージはどちらが欠けても経営は上手くいかないのである。ただ、経営者の好みはあるから、どちらかを優先させてバランスを取るのも戦略としては乙で、欠点のない完全体ではないが、毎期ごとに利益を出して社員の結束も図れるという均衡点を見出すことも可能である。むしろほとんどの企業が独自の均衡点を持っており、それが会社のカラーというものである。

 小規模ながら激しく市場に食い込んだ会社のカラーとは、どのようなものであろうか。

鵜殿はこれまでのところ会社の規模を拡大することよりも、経営戦略を如実に表す営業のセンスを確立することを優先してきた。彼自ら営業の最前線に立ち、模範となる営業スタイルを確立し、社員を率いる求心力に替えて、さながら秋波を送る美女のように魅力的に使いこなそうというのだ。

そういう会社のカラーは、鮮明でありながらイメージを増幅するための含みも兼ねている。明確にどこに落とし所を求めて、何を犠牲にして目的を達するのか、社を担う人材の大半が自覚していて、もはや揺るぎないほど統一された綺麗な一色である。曖昧に色気を出しながら、あれも良いしこれも良いと手当たり次第に手を出すような粗放さは、少なくとも会社を統一的見解で束ねているうちには、起きるはずのないことでもある。

特に、小さな規模の会社は、社員が目的達成に向けて全力で労働を投じられる環境がありさえすれば、営利を実現するのに迷いが介在する余地がなく、数字とイメージの均衡点は感覚的に把握できるほど単純である。儲かって嬉しい、万歳だ、というように、恐ろしく簡単に目的に向けて統合されている。こうした会社が営利を過剰に追求する志向をもてば、いかなることをしても利を得る為なら許されるという、逸脱行動に発展することもあり、機動力があることが災いして深刻な社会問題を引き起こしたりもする。多数人の思惑が交錯して、企業が単純ではないことが自覚できるようになるまで、目的への統合は慎重に行う必要があるのだ。

会社を支配する枝葉を伸ばすのに、必要な人材が揃わないうちは、イメージとしての会社営業というものが、目に見える形に留まることを強いられる。よく分からない営業体制に糾合されていると思えば、自尊心を満足させるために反発する者が現れ、粗末な人材しか居ない会社では致命傷になりかねないのである。

幸いにも鵜殿が引き抜いてきた幹部社員は一騎当千の兵ばかりで、彼らは良くも悪くも自分のスタイルを持っており、模範さえ示せばいくらでも解釈を深めて発展させられるのである。会社はどこに注力して利益を上げ、どのような理念を実現していくかについても、彼らと共有できるのである。

 恵まれた会社とそうでない会社を比較の俎上に上げることは妥当ではないかもしれないが、恵まれた会社には数字を上げるための基礎体力と、それを品よくまとめるだけの格式を期待でき、優位に立てることは誰の目にも明らかである。これを指してカラーが確立されているといえば、なるほど実力もそれに付随するイメージも、上等なものを持っていることになる。鵜殿はほぼこれを実現していて、小さな企業に対する安定性への疑問を払拭し、必ず約束事を実行するという前向きな信頼感に発展させている。

 華麗な営業と、それを可能にする組織の二枚刃で、すいすいとやれるところまで延伸してみて、もうこれ以上無理をしたら肉体が付いていけないというところを発見する。体育会系の企業にありがちな風を、ソフトにすると言ったらいいのだろうか。鵜殿の会社は営利の着地点を見出すのに、個々人の業務量から逆算していた。会社の制度を設計した時点で、個々の業務がそれを支えることを予定していたという点で、先見の明があったといえるが、割り当てられた仕事をこなすという単調さが、発展の阻害にはなりえなかったことは大きい。

 一心不乱に仕事に打ち込む姿を想像してもらえばいい。必ずしも能力が高くなくても、一事に専心すれば大抵の人間は熟練するものであり、熟達した果てには愛社精神も生まれる。組織の統一を個々人の仕事に委ねてしまうという大胆さは、近時の会社には見られないことであり、ひとつの業務が崩れれば会社は存続しえないのだと、責任感も生まれている。悪くいえばぎりぎりの遣り繰りを末端の業務にしわ寄せしているだけだが、良いように解釈すれば、底辺からスキル・アップして筋骨たくましい組織へと変貌させたともいえ、トップが先頭に立つ会社ならではの、足腰の強さが具体化しやすい環境は格別であった。

 面白いように仕事が回転していくのが、足周りに秀でて変化に柔軟な会社の繁忙期である。代金を持ち逃げして行方を眩ますような心配がなければ、小粒な会社に商品の納入を任せるメリットを十分に主張でき、圧倒的なコスト安を価格にも反映させられるし、その強みが会社の顔になる。大量入荷と大量販売でコストを圧縮するのも常道だが、医療のようにロットの小さい販売でそれをするには、ユーザー側が連合して仕入れするという環境を必要とする。鵜殿はそれを見越していて、まずユーザーの共同仕入れは実現しないから、個々の販売会社がコスト努力をするほかないと、組織を率いる際に訓示していた。

 成功の代償はなんであったかといえば、過重ともいえる労働内容であり、卜部のことがあっただけに鵜殿の気持ちが揺らぐ場面もあったが、雑務の切り離しで、ある程度は職務の軽減を果たし、営業マンは営業スタイルを確立することに集中できた。会社社長に範を示す若々しさがあったことは、営業マンたちにただの歯車として使い捨てにされないという安心感を与えたし、放任主義の果てに業績への不満を並べられるという大会社の弊は微塵もなかった。

 会社が会社として存続することを、誰よりも華麗に表現したいという欲求は、会社を興す者なら誰にでもあるだろうが、それを極めて上手くやったのが鵜殿である。すでに営業の裾野の広がりは、一日を経るごとに拡大するものと断定できるし、組織としての体裁もツールの活用でタイトにまとまっている。一年も経てば、著名な経済誌などに、有望な会社として紹介されそうな勢いだ。無論それには目に見える形で売り上げが計上されなければならず、社会的な影響力として売上総額を見るのに合理性がある限り、人々は売り上げへの信仰を捨てられないだろう。見目麗しい鵜殿が大々的に経済誌の紙面に登場することがあるのなら、最近話題の企業であるなどと派手に持ち上げられるのではなく、無視できないほど売り上げが伸びた会社であると、地味にリスペクトされる可能性の方が高い。

 もちろん鵜殿にも売上高で会社の信頼性を測る風習は理解できているし、信頼され、やがては愛される企業になることは目標の一つである。世間一般が売上高を信仰するなら、自分たちもその条件を満たして、名乗りを上げられる企業になろうというのは、欲求として自然なようである。数字としての売り上げで社員を拘束するよりも、スタイルとしての営業戦略で束ねるほうが難しいが、鵜殿のやろうとしているのは後者である。売り上げは飽くまで目安であり、戦略的に営業を構築してそれに参加してもらうのが、とりあえずの目標ということになろう。

 時間が経てば、個々の業務はより単純で確実な方法に統合され、無理なく業務に携われるようになるだろう。戦略はそのための方法論であり、社員一人がどこまで請け負って利潤を稼ぐ構造に集結するのか、独自性を発揮するための舞台を設定することである。これを鵜殿は社員の目線に立って、無駄な力を込めずに参画できるモデルを仮定し、こういう働き方をすれば人員を最適化できるのではないかと、費用対効果を追求する構えでいる。

 しかし、恐怖心がないわけではない。がむしゃらに働くだけが至上の目的なら、鵜殿のいないところでもその実現は可能だし、過剰労働の結果、拭い去れない不信感を植え付けてしまうこともありうるからだ。それに、労働が一つの会社でまとまっていること自体、奇跡ともいえるような、薄謝しか払えないとしたら、新興の会社は瓦解してしまう。リスクに見合ったリターンがなければ、優秀な人材が小規模な会社に収まる必然性はまるでないのである。

 これらの可能性を意識した上で、鵜殿は労働と報酬という互恵関係を極めようとしている。巧みなインセンティブの設定は、優れた会社経営者の腕の見せどころで、自分さえ豊かになれば施しで周囲も潤うといった前近代的な発想では、先進の経営はできない。一気に労力を集約し、信頼性の高い会社業務を設計しなければならず、それを可能にする報酬体系は必須である。信頼できる会社の社員は信頼できるのではなく、信頼できる社員の会社は信頼できるという流れを、より確実にするための工夫を随所にちりばめれば、会社は鋭意発展の基礎に立つことが適う。

 報酬が業績の目安となる数字から逆算できるようになれば、社員は報酬の体系に疑問を持たず、批判もせずに黙々と働くだろう。それが高望みでなければ、業務の統合と職掌の再分配で仕事の負担はずっと軽くなるのだし、社員の幸福も手の届くところにあるといえる。会社と社員の関係は、意外と子供が考えるような単調さで、構造が決せられることも多いのである。

 満足に働くということの意味を、鵜殿は日々考えている。考えるだけでなく、実践しなければならないところに経営者としての重責があるわけだが、これまでのところは反駁されるほどの抵抗も受けず、上手に手綱取りをしている印象である。彼がどう働いて欲しいか身を以て示していることも、社員に好感をもたれている所以であろう。

 この先どう負荷をかけて、どこに自由を与えるかで、経営は大きく方向を変えるはずだ。その時鵜殿は、社員と一緒になって悩んだり苦しんだりもしながら、厳しい時代の空気にもめげずに、会社の行く末を見定めようとするだろう。

 喩えるなら重々しい雲がたなびいている、その下を駆け足で行く人達がいる。彼らが今にも雨に打たれそうだと湿っぽい想像をすることが有用なのか、雲はやがては去るだろうと見ることが楽観すぎるのか。いずれにせよ答えは走りながらでしか判別できないということだ。

 

 予算が国会で成立して、三鷹は随分とほっとしている。与党のごり押しが罷り通った形だが、野党が抵抗して予算案が難産だったのである。調整のために中間管理職は奔走し、三鷹はその一環として草臥れ儲けのようなこともした。

 政治家たちがあまりにも紋切調で頭を押さえつけようとするので、心優しい三鷹にも反発心が持ち上がってきた、ちょうどその頃合いを見透かしたかのように調整が完了した。彼一人が頑張ったからといって状況は好転しなかっただろうが、大勢が協調して難局に当たることを申し合わせていたからこそ、胸が空くようにすっきりとまとまった格好だ。政治家たちは話し合いに倦んで、一応の合意が今後の枠組みとして堅固な役割を果たすことを期待している。

 不景気ということで予算も大盤振る舞いだが、刻々と財政の硬直化は進んでおり、計画的に支出を決めないと、将来大増税で賄わなければいけなくなる。そうなれば政治は嵐の季節を迎えるが、現時点の合意に千金の価値があると考える政治家は多く、不景気だ、では財政投資だという安直な決断が、既得権益への利益供与と見紛うほど偏向的でも、合意だからと仮初めの平和を愛して已まないのである。

 浮沈の著しい業種を消費の主役に祭り上げるのは、政策がその浮沈を決しているとの自覚があるからだが、過剰に売れたものがしばらく売れなくなるのを想像できるように、経済の機能からすれば浮き沈みを現出しているのは政治の横槍のせいだといえないこともない。だが、三鷹の周りでは与野党ともに財政投資で景気の底入れをという声ばかりが目立ち、構造の転換をという声は聞こえてこない。政策で保護している産業が経済的に劣勢にあることは当然だが、その産業を維持するために税金を投入するには、議論の果てに合意に達しなければならない。

現在の経済構造がベスト・ミックスだといえるほど、抜群のパフォーマンスを見せているならともかく、値下げを渋るあまり政策に依存してしまっているのでは、本来しなければならない価格努力が消費者の負担に転嫁されるだけである。つまり、政治は消費者の負担増にお墨付きを与えているのだ。構造的に儲かる産業を、権力で作り出すことを合意しているのだから、その合意を守っていこうと与野党が戦わずして妥結したら、消費者のように弱い立場では有り金を全部搾り取られるという事態にぐうの音も出なくなる。それが国民の代表者が合意することの意味だからだ。

本当に産業の育成のために、消費者を搾り上げるというポーズを取っていいものか、それを議論しなければいけないはずなのだが、国家が関与し得るのは総額での消費を誘導することであり、それにより税収を最大化することを使命とするのだと、国民の困窮には見て見ぬふりをするようなことがほとんどだ。借金まみれでもう消費を伸ばすのは不可能だというところまで来ないと、保護育成産業という名目を作った合意を覆す気にはならないものらしい。国家も消費者も、産業の奴隷のようになっては面白かろうはずがないが、国力を浮揚するという目的の前に、ほとんど議論もなされずに、返って旧来の合意に拘束されることを優先するのは、政治家の面子のせいだろう。

本当に身勝手な要求ばかりして、少しでも希望通りの権益を確保しようと、政治家は熱心に関与を繰り広げる。業界の利益といったものが、まとまった票になることを知っているからだ。政治家は選挙で当選しなければ、イデオロギーを主張することさえもできない、無力感を味わうことになる。それが嫌だから、産業くらいは手懐けて票田にしようと画策するのは、民主主義である以上はイベント的なものなのだろう。

消費者という視点では不当な商売から保護されるだけの存在で、産業を支える大旦那ではあり得ないのだ。産業が栄えて、雇用が生まれて所得に波及するならともかく、借金で消費を先食いしているだけなのは、随分と前から統計上でも明らかだったはずだ。倒産と失業を防ぐという名目があり、産業資本が方々を見渡してもどこにもないという資本主義の黎明期ならともかく、貯蓄が拡大してその使い道がないといった爛熟期を迎えて、消費者が借金をしないと金融機関が預金で集めた金を貸し出す先がないというのは、消費の形態として不健全である。

やはり、保護育成産業の枠組みを決定した大昔の合意は破棄して、新たな議論の上に立って、どの産業に注力すれば真に国益になるのか、改めて指針を出す必要がある。国民も消費者として保護されるだけの存在から、意思を持った投票の決定者として、幸福を追求するために消費行動をとる個体として、国政の上で扱われるに値する存在感を示す時が来ているのである。単に産業を維持するためだけに消費行動を誘発する仕組みを考えた時代は、もう古い。

消費者を議論することで、消費の総額だけで経済を語っていた国政上の議論も、個々の苦労や喜びの見える、人情味ある関与へと変わるはずだ。人情のようにべたべたして金にもならない感覚を重んじることを、最近の若者は嫌うという。恐らくはそこに不条理が持ち込まれ易いことを、肌で感じ取っているからだろう。もちろん国政は合理的でなければいけない。しかし、それを合議のうえで詳らかにするのは、かなり骨の折れる作業になる。不毛な罵り合いに倦んで、端折って多数決で強引にでも示しを付けようなどというのが、国民の冷淡な視線にさらされるのは、もはや不可避のはずである。

だからこそ政治家には代表者として議論の王道を尽くすことが求められるのである。彼らに生半可な温情があっても、社会が屠殺を容認すれば肉食は止められないように、社会の通念には決して敵わない。もし豚や牛をガス室で苦痛なく殺せば肉食に非はないのかといわれても、肉から栄養を取っている一般人には、何のことだかさっぱり分からないはずである。国政と国民の知識というのは、理念的にはそれくらいに違うのである。いくら政治家が正しいことを言っていても、慣行からすれば従うのは馬鹿馬鹿しいと国民が足蹴にしてしまえば、議論は無意味なものとなる。国民の求める議論をすることが重要なのだが、それで阿諛的にすり寄ったりするから権威がどんどん貶められる。

国民の程度に応じた政治があるというのは、真実である。国民が強欲に生活のすべてを財政に委ねようとすれば、恐ろしく高額の税金が課されて、隈々まで分配されるのが政治の使命ということになるだろう。いわゆる統制経済で自由貿易国と対等の交易をすることなどできないから、そうした欲求が幻想であることは、多少なりと知性があれば、自ら研鑚を積んで努力した果てに生活を設計することには替えられないと気付かなければいけない。

ところが、国民は政治の場で自分の写し姿である消費者が語られないので、消費の総額を示されて、そうか不景気なのかと納得し、そこで自覚から演繹すべき議論が終結してしまうのである。なぜ不景気なのかをいえば、国税を充てて保護している産業が不効率すぎることを挙げなくてはならなくなる。さすがに政治家が自ら首を絞めるような発言をするには、よほど覚悟を決めなければならず、産業の競争力を高めて、自由貿易国としての誉を一身に担いたいとでもぶち上げるのは、現実には難しいようだ。

まず、政治家として立身することが、国民の利益の代弁者である以上に、国民の未来の設計者であることがあまりにも軽視されている。過去の合意に囚われて、不効率な産業を依然として保護枠に当てはめて考えるのは、止めなければいけないはずなのだが、国民の目は消費総額にのみ向けられて、個々の消費がどうあるべきかには私的な領域であるが為に関心が振り向けられず、そのままでは議論は成り立たない。

 議論すべきところに議論がないのだから、信頼感などが醸成されるはずもなく、政治家が具体的に何を理想に掲げているのかも見えず、ただ不景気はよくないと結論から切り込まれる。この短絡的ともいえるやり口によって、既成産業を維持して、その不効率による経済の低迷を国民全員で引っ被る構図ができあがる。国民は施しで生きることを拒む気概があっても、産業を保護することの是非を判断する能力も情報網もなく、不景気だから大盤振る舞いだとする政治決定を、良いも悪いも一蓮托生だと浪花節で語るほかなくなる。

 実は景気を人質に取られて付けを回されているようなものなのだが、そのレトリックは短期的な失業や倒産という現象の前に不注意にも聞き流され、景気は循環するという民間信仰によって反論の足掛かりを跡形もなく消し去られる。その前に不況に陥る構造を転換しなければ不味いはずなのだが、産業資本を創出してきたテクニックの優秀さに目を奪われ、金が有り余っているにもかかわらず、従来通りの景気対策で間に合わせようとしている。金がだぶつけば、金利が下がって貯蓄性向に影響が出ることは分かり切っているのに、年寄りなどの金利生活者を泣かせても、景気刺激だという強弁を張る。

 本当に資金が循環するなら、再び産業が活力を増して金利の低下は一時的なものに収まるのだが、底に穴のあいた鍋に水を注ぐように、保護産業に財政投資を注ぎ込んでも、まったく効果がない場合も多々ある。それをいち早く察知して、二の轍を踏まないことが政治に課せられた責務だが、消費者を保護対象としてしか語ったことのない政治家に、資金が循環しないという事実を理解するのは難しいようだ。

 財政を投下すれば必ず資金は循環するというのは、誤りである。競争力を失った産業が何をしたがるかといえば、第一に借財の軽減である。成長力に見合った財務規模にすることは、経済の常識ともいえる。これは従来保護に浴して競争を疎んできた業界ならより顕著である。保護育成産業が成熟して十分な収益を上げられない体質になることは、競争が十分に行われなければ避けられないことでもある。政治家は財政が循環しないというジレンマを、一本調子の景気刺激で覆せないのに気付き始めているが、先輩政治家たちが築いてきた合意の大枠に手を付けることは、政党政治の否定だからと等閑にしたがるのである。

 政権交代で産業支援の枠組みの変更に着手し、それが健全な形になるまで迂闊に財政投資を約束しない方がいいのだが、先人の築いた経済の枠組みが不能に陥るはずもないのだと、与党は保護産業での票固めに必死だ。一方で景気循環説に拠ることを表明しながら、他方では需給ギャップを看過できないと矛盾する主張を平気でする。まるで、国民を欺くために議論を吹っ掛けているのかと思えるほどだ。三鷹はやたらに政治に給付させたがる、福祉のいかがわしさを知っているから、国民的な議論というものを信用しないが、政治のご都合主義に靡くものでもない。決断しなければいけない時期に、産業の保護から踏み出せないほど国民の利益に無頓着だと、三鷹でも不安になるのだ。

 国民を喜ばせるだけでもいけないし、産業を保護育成するだけに終わってもいけない。その配分は時代ごとに異なるから、政治家は敏感でなければいけないが、その嚆矢となる消費者のなんたるかの議論に、何の感慨も持てなければ政治に注目してすらもらえないだろう。政治の何たるかに自負があるなら、産業に利益を供与するだけが政治のパワーではないことにも得心がいくだけの支援があるはずだ。その潮流に乗れるものを宰相に迎えるのは慣行であり、政治の季節の節目には産業の栄枯盛衰も伴われる。

 それが当り前なのだと知識層は知っているが、大半の国民は議論に重ねる自分の姿が見えないことで、財政投資による保護産業の優遇が景気浮揚の唯一の手段なのだと、間違った認識を持っている。不景気の前には好景気があり、トントンではないかとも思えるのだが、雇用の調整がそんなに悲劇的な解雇を生むほど辛辣なら、規制してしまえば済むだけの話で、怖い怖いから景気刺激だと、安易に財政投資を保護産業に注ぎ込むことが、本当に景気の浮揚につながるのか、国民はもう一度自省を込めて考える必要がある。

 生活はそれほど苦しくないから、良識ある政治が何を決断しても、痛くも痒くもないと高を括っていられるうちはいい。不効率が極まって、全世界的に効率で競争しているのに、一国だけが貿易障壁を設けて安心で安全な商売をしようなどと、甘いことを言っていれば報復関税をかけられて輸出もままならなくなることは歴史が示す通りだ。産業は、世界と共存しないと成長に与ることはできないのである。資源がない国が購買力を維持しようと思えば、外貨を稼ぐ産業がなくてはならない。その産業が保護政策の頓挫で窮乏の道をたどるとすれば、国富はもはや風前の灯でしかない。

 生涯をかけて一社で勤めあげようという新入社員に、政治に阿らねば営業利益があがりませんよと教える会社があっていいものだろうか。政治は国民のものであって、国民の幸福以前に産業の利益があるのはおかしい。雇用があって初めて国民は生活の糧を得て、自らの幸福を考えられるのだと言うかもしれない。それも一つの正論である。しかし、道義無き産業育成は国民を利益に従属する道具にするだけである。政治的代表者が生殺与奪を握るのは、市民的統治により話し合いで結果を出すのとは明らかに勝手が違い、過酷である。

 もう少し議論を育てる畑を、真剣に耕す必要性を三鷹は感じる。農耕民族として種を蒔いて水を与え、やがては実りの秋を迎えるのを、鶴首する思いで暮らしてきた先祖に、議論をほっぽり出して金の巡りだけには期待をかけるという陳腐さを、きちんと説明できる人はいるだろうか。必ず議論に参加したという形式だけでもないことには、民族の主体性はどこに打ち遣られるか知れたものではない。いくら政治が統括しているからといっても、それを運命として受け入れるには、任せるに値する道理がなければならない。

 道理は畑で育つのだ。その比喩が理解できる者になら、薄っぺらな議論などに振り回されることなく、行くべき先々も見えるはずだ。巡り巡っても因果の輪から外れることなどは、そうそうあるものではない。そうはいうものの、三鷹は必定といえるまでに議論が熟したとき、その場にいられることを望んでいる。

 

第五章   希望の灯

 

 昇進してからというもの、気の休まる暇のなかった相馬にも人心地がつく瞬間があった。フレッシュな顔ぶれが職場に並んだからだ。職場での心構えや、自分がどういう理想を持っているかなどを説くと、彼らに温かい拍手を送られた。自分にも小さな部署を率いる将才があるのだろうかと、半信半疑ながらも相馬の気分は高ぶるのだった。

 久しぶりに会った渥美は、彼の部署には一人も新人がいないのだと渋い顔をし、相馬とは気持ちの盛り上がり方で袂を別った。だが、花咲く季節には浮かれているくらいでちょうど良いだろうと、渥美の声は軽々としていた。

「今年もまたそういう時期なんですね」

「気持ちが若やぎます」

 と、相馬は微笑んだ。

「若いうちは気持ちを挫かれることにも慣れていないからね。泣きべそを掻いていたらあなたが励まさなければいけない」

「そこまで世話を焼かなくても、もう大人ですよ」

「大人でもめげることはあります。私なんて、最近知人を亡くして随分と考えさせられました」

「良い方だったんですか。仕事上のお付き合いだったりします」

 軽い気持ちで相馬は訊いた。その言葉の無邪気さに、渥美は含羞のこもった笑みを浮かべた。

「卜部さんというんです」

「その卜部さんという方は、どういう人物だったんです」

 興味深そうに、再び相馬は訊いた。

 心に刻まれた記憶が、人の人生の宝物になる場合がある。渥美は仕事から熱が引いていくのを、年齢のせいだろうかと考えていた時期があり、その時期を乗り越えるのに手引を必要とした。大きな転機にたまたま寄り添ったのが卜部だ。何か特別なことをしてもらったわけではないが、彼女がいることで職業が客観的になり、手の平にすっぽりと収まる気がしたのだ。

 シンクタンクというのは難しい顔をしたインテリが、それが義務であることを自覚した顔つきで、本気の隷従を強いられているところである。渥美のように標準の学説を採り、主張しなければパンクするほどの感情量もない男にとって、それは辛いというほどのことでもなかったが、迷い小路は常に眼前にあった。明るい兆しがないと心の迷子になりそうで、稚気を発揮する同僚が病的に見えても、指摘して窘めるようなことはしない。真っ直ぐに目標に向けて進んでいるという確信さえあれば、周囲の環境などはどうでもいいのだ。

 自尊心が傷ついて回復不能になるような事態は、常識論を作文している限りあり得ないことで、渥美は技巧的に処世することを苦痛とは思わず、心の平穏のためには全体の流れに逆らわないことが重要だと、いつも情勢の変化に神経をとがらせていた。

 そうした過酷になりやすい毎日に、微妙にテンポのおかしいメロディーを耳にするように、卜部の存在は躍り出た。なんだか調子が狂うなと、当初は後学のために話を聞くつもりだけだったのが、それなりの人間付き合いに発展したのは、渥美の気まぐれ以外の何物でもない。特別な輝きなどは一切持っていない女なのに、言葉の選択において優秀さの片鱗を覗かせ、何となく自分の話を持ちかけてみたくなるような、澄んだ湖面のような透明さがある。卜部は渥美の精神状態をかき乱さないという礼節を守りつつ、ビジネスという共通項を知的に再構成するだけのウィットがあった。

 掛け合いに楽しさはなかったものの、灰汁が抜けるような清々しさがあると言ったらいいのだろうか。結局、渥美はサラリーマンの格を上げる投資という冒険に、卜部という相棒を選んだのだ。

 それまでの顛末を掻い摘んで相馬に話すと、年甲斐もなく切ない気分になり、人間が表面的な体裁やプライド以外にも、常日頃から求めている資質のようなものを刺激されていたことを思い返した。優秀で仕事ができて誰とも争わない。そんな完璧な会社員になることは案外簡単なのだが、心の奥底で自分の人生を肯定できる人間になることは難しい。

 話したかったのは、そんな人生に対する前向きな気持ちが、ビジネスという無味乾燥な大地から芽吹いた草木のように、生命力の横溢として感じられたことだ。中年になるとどうしても体の節々が鈍らになり、放置すれば痛みを伴うようになるものだが、これに併せて人生を肯定する気持ちはめっきり擦り減っていくものだ。

 若い頃は女性との出会いに心を躍らせ、結婚してからは子供の成長に目を輝かせもした。それが一巡すると、ビジネスの世界では責任ある立場に就く時期に差し掛かり、何事も淡白に無感動に陥りやすくなる。もちろん長い人生の力配分を考えればそれでもいいのだが、肉体の衰えを文化的な尺度でカバーしようと思えば、日々を新しくする努力は不可欠だ。渥美にとっての卜部は、幽霊みたいに覇気がなくて爽やかなどではあり得なかったが、心が生命の実感を思い出すほどに、沁みるものだったのだ。

 誰かに似ているせいだろうかとも考えたが、身近な女性を挙げてみても全く符合せず、出会いや心のときめきが再現されているのではないとだけは、はっきりした。癖のある食べ物に意外な相性を発見したように、ちょっとくすくす笑えるような新鮮さがあったのだと、今では結論付けている。

 相馬はその気持ちに共感を示した。渥美が神経をすり減らして多勢に付くことを心掛けているのも分かったし、それが卜部のように敵でも味方でもない、ただの隣人のような性質の女に癒される可能性も、理解できた。堅物の相馬には軽々しくそれは恋だよとからかう趣味はなく、そもそも恋である可能性は渥美の表現の内容からすれば極めて乏しく、変わった出会いを果たしたビジネスの一局面での話だとしか思えなかった。もしかしたら自分にも卜部のように特徴のないビジネスマンが新鮮に感じられる時が来るのかもしれないと、心の張りの問題を扱った。

 その人が逝ったということで慎重にならなければいけないのだが、相馬は返って大胆に惜しい人を亡くした時ほど素早く手際よく心に仕舞わなければいけないと、渥美に告げた。業界の発展に寄与した重鎮が逝った時などは特にそうで、業界全体が喪に服しているように敬意が至る所に見受けられるが、潮が引くように平静を取り戻してゆく。ビジネスは基本的に晴れの気で通じ合うものであり、人の死は許容量に収まっても、そこから出発するものではないのだ。いくら生前の影響が大きく、心から悼んでいても、死は始まりではない。飽くまで道端で朽ちるイメージであり、生きている人間がビジネスの始終を見つめているのでなければ、永続的に社会を支えることはできない。

 ビジネスに限ったことではなく、もっと情感のこもったプライベートな出来事においても、その人にまつわる死が生命力の枯渇につながるとしたら、友人の多い人ほど沈んだ表情で暮らさなければいけない。一時でも、渥美に生命力が自己の内面に湧出していることを気付かせてくれたというのなら、その人に感謝しつつ、余剰となったエネルギーで何ができるかを考える方が健康的だ。

 何ができるか。それが渥美には分からなかった。話すことで少しは自己に対する力強い肯定が蘇る気がしたが、それが圧倒的な正義に支えられているとまでは信じられなかった。どうも過渡的に錯覚しただけかもしれず、それはそれでいい経験ではあるが、いったん芽生えた生きているという実感が、水源から離れたことで枯れてしまっていいかという疑問に、答えるだけの準備も飛躍力も持ち合わせていなかったのだ。

 今後も仕事をきりきりとねじり鉢巻きでこなして、相応の評価を得て、幸せな家庭生活を持つことですべてが綺麗にまとまるのか、そこが渥美にとっての最大の謎だった。陳腐な悩みであり、悩むくらいなら楽しいことに時間を振り分けるのが大人ではないかとも思えるが、人の死という冷厳で圧倒的な事実の前に、身体が竦んでしまったかのように思考が滞るのだ。だからつるっとした顔つきで相馬に話しているのだし、何らかの変化の兆しに与することが適うなら、それが相馬の意地悪な一言でもいいと思っているのだ。

 相馬は煮え切らないような渥美の口ぶりに、人と人が接する境界面に生じる摩擦熱のようなものを想像した。少なくとも渥美と卜部の間には、温かい情誼はなくとも互いの存在を肯定する理性はあったはずで、その理性的な批判力が互いの存在を確かなものにしていたのだと思える。愛情などと通り一辺倒な形式的なものではなく、ビジネスであることが分かり切っているからこそ、真摯であろうとする身嗜みの良さのようなものが、お互いの目に留まったからいい関係を築けたのだろう。

 摩擦は急激に温度を上昇させるものではなく、記憶の中に傷として残ることはなかったはずだ。愛情ではなく、大人の身の振る舞いの完成度の高さに、自ら満足感を感じていいものか渥美は迷っているのかもしれない。そんな気取り屋の自己満足にも似た気持ちが、自分の内面にあることに居心地の悪さを感じるのなら、過去の一時期を飾った交友の一つとして、大した意味はなかったのだと片付け、気持ちを晴らして仕切り直した方がいい。

 折しも季節は新人たちの闊歩する新しい営業期である。ビジネスで接した相手を尊敬して、自らの内省に反映させることはよくある。その新たな関係は、死んでしまった人間と深めることはできないが、新しく職場に活気をもたらそうとする新人たちには、いくらでも接し方を選べるのである。前向きに生きようと思えば、仕事で抱え込んだストレスを手懐けるために過去の栄光にすがるより、成功しつつあったその時期に信じる事の出来た自分を、リセットしてしまうほうがしこりを残さずに済む。

 リセットしたところで、経験からスキルまで何もかも零になるわけではなく、心が抱え込んだ様々の荷物が下され、空き容量が拡大して、また一から始まるだけである。やり直しはできないが、決心がついたところでいつでもスタートラインに就くことはできる。ビジネスというのは、そうした度重なる再出発の中で、形作られていくものだ。

 人生の再出発、仕事の再出発、心の再出発。いろいろなところで思惑と意気込みが交差し、それだから面白くなる。時代そのものを面白くするんだと、とりわけ若者たちはピカピカの気持ちで臨んでいるのだ。体も生命力も衰えたと、嘆き節でいるより、彼らに触発されて少しでも意欲的になろうとする方が、中年は可愛げがあるだろう。

 

 卜部は遺書も何も残さずに死んだので、残された一人息子はむすっとして不機嫌そうに父親の慰めを聞く日々が続いた。父親はどう話していいのかも分からず、母親が仕事で頑張りすぎたことを息子がどう思うかについて、混乱を極めていた。

 その息子が真っ先に平静を取り戻したといっていい。日が暮れるまで遊んで、冷たい食事を温めて食べるのを日課にしていた彼は、今さら母親が欠けたところでルーチンが変わることはないと悟ったのだ。見えないところで父親の負担は増しているのには気づいていたが、それでも仕事を憎んで、真っ先に自分に愛情を与えるべきではないのかと、苛立つようなことはなかった。

 できた子供だったのだ。相変わらずよく遊んでいたし、友達に母親が死んだことを告げても明るさは失わなかった。ただ、父親だけがおろおろして、息子にとっては交響曲に雑音で参加されているような不快感があった。

 母さんはもう死んだんだからしっかりしてよ、とは言わないが、抽象的に暗渠に流れ込んでいく水があるとしたら、その一部始終を観察しているのは大いなる無駄だと、息子の方が先に気づいてしまった。

 父親は惨めであった。母親に比べて稼ぎも見劣りし、口数の少ないは彼女よりももっと消極的であったし、愛情を感じていてもそれを表現する術を持たなかった。静かで、調和した世界に安住することに慣れ、微笑みを絶やさないことが人生の肯定だと、若さに似合わない人生の要約を始めてしまう辺りに、父親としての器の小ささを指弾されないかという不安があるのである。

 これは卜部の死んだ後に、より現実的な問題として持ち上がった。

 息子は朝食のときに父親と目を合わせることを好まず、黙々と掻き込んで大急ぎで学校に出かけていくという態度を取った。これにより父親はますます消沈し、母親とワン・セットでようやく父親の顔ができる程度の存在感しかないことに、自虐的な気持ちになった。だからといって暴力的な衝動に取りつかれ、接する人を不快にするような妄言を吐くことはなく、勤めている会社では相変わらず下級管理職として恙無い日常を送っていた。

 もともと変化に乏しい、突出して何かに恵まれることもない、ありふれた家庭だったのだ。今さら何かの恩恵を受けるために、関わりを増やしたり、積極的に能力を開拓したりするのは、卜部氏にはできそうになかった。ただ心を静かに保ち、動揺が息子の情緒に伝播して不安定にならないようにし、川底の石のようにやがては砂地の中に沈んでしまうことを、密かに願った。自分は何もできないから、せめて関心を持たれすぎないように、ひっそりと息を潜めているのがいいのだと、すべての嗜虐的な者の目から逃れることを考えた。

 そんな父親の姿がけったいなものに見えないはずもなく、息子は時々用件を切り出す時には、眉を寄せて深刻な事情を吐露するような顔つきになった。最悪の場合に備えて、少しでも父親の機嫌を損ねないように、可能な限り下手に出ようとしたのだ。その表情は必ずしも好意的なものではなく、いい印象を与えなかったが、父親は勘所を心得て、泣き笑いのような痛々しい笑顔を作った。

 卜部の死後の家庭は、概ねそんなふうだった。息子は真っ直ぐな目をしているが、感情の変化に敏感すぎて屈折しているのではと誤解を受け、父親は同じように感情の豊かな男ではあったが、大人の責務を担うには要領が悪すぎた。母親が生きていても幸福だったとは限らないが、役割を分担して底が抜けるほど悲しくなることを防いでいた。その母親の存在を、どう再定義するかで卜部家は宙を漂うように定まった制御姿勢を取れずにいる。

 そんなある日、鵜殿が卜部氏のもとを訪れた。

 簡潔に悔みの言葉を告げ、気持ち程度のひと言を添えた。

「あなたを少し羨ましく思います」

 世辞が多分に含まれていたが、真実を告げたという満足感が鵜殿にはあった。自分には求めても得られない、小さな世界の完結のようなものが、卜部の周辺にはあったように思っていたのだ。その沁みとおるような心情の吐露を聞かされ、卜部氏は忍び泣いた。

 自らの愛情が貯蓄可能なものだとして、在庫がなくなりかかっているような苦しさが卜部氏にはあった。それが鵜殿のひと言によって、愛情が枯渇しているとしてもそれを信じなければいけないのだと、情動から気付かされたのである。胸のうちに滞っていた父親の体裁にこだわる気持ちが、ほろほろと崩れて無力で子供のような純真さが顔をのぞかせた。涙はその真実の表情につき従うように、重量を持って頬を流れた。

 妻が生前に世話になったことを謝した卜部氏は、ハンカチで鼻をかんでしばらく無言でいたが、やがて表情を和ませると死の直前の卜部の様子を話した。毅然として心に装飾を付けずに向き合った鵜殿は、その言葉の意味を十分に感じ取ろうとした。恐らくは、夫として妻の知人に対する礼儀を尽くし、悔いが残らないようにとの配慮だろう。

 ほんの数分間耳を澄ましていた鵜殿は、携帯電話の呼び出し音が鳴って我に返った。話を中断させたことを詫びて電話に出ると、二言だけ告げて電話を切った。その手際の良さに、卜部氏は自分のビジネスの才能のなさを思い出し、恐縮して話を切り上げてしまった。無理に話させるのも気の毒なので、鵜殿は別れの挨拶を切り出して席を立った。座ったまま見送る卜部氏は、完全に鵜殿が見えなくなると溜め息をついた。この世にあるすべてに倦んで、疲れて、それを認めるためについた溜め息である。彼にとっての再出発は、この時に始まったといっていい。

 直近の休日に、卜部氏は息子を誘って河川敷に出かけた。川沿いに整備された運動場があり、そこで二人はキャッチ・ボールをした。会話はほとんどなかったが、父親の投げる球が結構速いので息子は集中しなければならず、パンッといい音をさせてボールをキャッチするたびに、その場で足踏みをするように体勢を変えて小気味よく返球した。平穏で、無垢な魂の者どもが残らず幸福をかみしめていそうな、どこにでもある点景である。その光景の中で、父親はすべてを慈悲の心で許すような大きな愛情の存在を信じられたし、息子は考え過ぎて隘路に迷い込むような父親との関係を、青空の下で単純な遊び相手として認識できていた。

 卜部がいたころには、このように小さな尺度に収まる父と子の光景はなかったように思われる。いつも社会という大容量の景観が主体で、キャンバスに描くとしたら、本当に人間は小さくなってしまっていたはずだ。息子からは目を凝らしても父親の姿ははっきりとは見えず、よく分からない大人が父親をしているといった印象すらあった。社会というものが巨大すぎて、そこに参画している個々人が粗末に扱われることはよくある。卜部家はそうした背景に塗り込められてしまうほど、色彩が薄く儚く、主張すべきものを持たなかったのだ。

 もちろんちっぽけな自尊心を極彩色に染めて主張するのは、見栄えするものではない。大人しく主張を控えて協調を図る普通の人々にとって、社会の背後に立たされて自分が見えなくなることは、ある程度予定調和として認めているのだ。とりわけ卜部は協調を外れて、形而上の完全な個人として存在することは不可能だと思っていたから、社会というものを知る努力は欠かさなかったし、知ってからはその調和を乱すことを嫌った。夫の卜部氏はその路線の極端に走ることだけを危惧する人で、妻が社会に対して何らかの思惑を秘することのできない人だと、早くから気づいていた。従って妻の常識加減に疑いを差し挟む余地がない以上、彼女が伸び伸びと暮らせるようにつき従うだけで、夫としての役割は完結していると判断していた。

 ビジネスの才の有無は、卜部夫妻を決定的に方向づけた。社会とは働くことであると定義できるように、そこを背景に抱く限り、働くことほど重要なことはない。卜部夫妻は、とにかく良く働く勤勉さで売る人々であった。勤勉さを取ったらあるいは何も残らないのではないかと思えるくらい、社会への参画を重要視していた。

 だからこそ主張が乏しいのであり、働くことに僅かでも疑問を持っていたら、その不安定な足場に留まるために無理を重ね、結果として周りの人間を押しのけようとするはずだ。卜部夫妻が共に仕事に忠実で、社会を裏切らない誠実な人間であることは、息子に安心感を与えた。感情的に逆らうものがないというだけで、子供は健康的に羽を伸ばして保護に甘んじることができるのだ。主張が乏しいことは、必ずしも矜持に欠けるということではなかった。子供の目から見ればがちがちに守りに入って発想力もそこから建設される未来は侘しく、退屈でときには卑怯なものから遠ざかろうとも考える大人は感情的には支持に馴染まない。だが、社会という枠組みでそのような態度を採る大人は、子供からも安心して見ていられるのだ。反発する以前に、絶対に軌道からそれないという信頼が、息子にはあった。

 それでも、卜部が死んだことにより、父親の役割が格段に増した卜部氏は、安定志向の嫌われる部分を息子に見咎められていることを知って、居住まいを正さなければならなかった。自分の保護下にある息子が、自分の存在価値を疑ってはいないかという思いが、きりきりと卜部氏の内臓を絞めあげた。保護する以上は優位に立たないといけないと考える大人は多いが、母親が大人の責務へと導く一本道を敷いていた卜部家では、母親が権威であって父親は付随するものでしかなかった。

 それに、生きるための理由を見つけるには、大人が押しつけるのではなく、子供自らが信念を抱いてそれが社会に関連付けられるのを待たねばならない。年齢からいえば息子は社会へのコミットを考えうるのだが、どこまで補助すればよりスムーズに成長するかについては、父親の目では測りきれないものがある。愛情を持って接していれば、必ずその愛情に応える子供になる、というのは絶対的な真理ではなく、社会にどう参画すれば自分の価値を疑わずに済むかということを、前向きな姿勢として子供に見せてやれれば、それだけでも大人の役割を果たしたことになる。信念を伴わない抽象的な言葉の羅列には、思ったほど力はないのだ。

 卜部の教育には、実践のない空理だけの言葉は必要とされなかった。忙しく証券会社に勤務し、その仕事に尽くすことをこの世で生きるための最も重要な関与だと、生きる姿勢で示していたのだ。言葉は多くを必要としなかった。仕事に向けられる眼差しに、一点の迷いもないことだけが重要だった。子供はどんなに大量の愛情よりも、大人が何を信じて生きているかについて、揺るがないことを期待しているのである。

 大方その理想を達成していたことは、卜部の満足感にも現れていた。一緒に食事を摂らないことは、感受性などに悪影響を与える可能性もあったが、朝の食事のときには快活な目覚めとそこから生じる食欲が、息子に正しい教育がなされていることを暗喩していた。学校教育と相まって、卜部家では基本的なマナーを教えるだけで、細かな指示は一切必要なかったのだ。

 物心がついて、しっかりと見開かれた目には、息子が自分の意志で歩むことを決定的にする、自我の芽生えを垣間見ることができた。卜部はそれに子育ての満足感を覚えたが、溺愛して腐らせるのは手落ちだと分かっていたから、あるかないか見分けがつかないような微笑を浮かべて、息子の成長を見守るだけに留めていたのだ。

 父親はその安心感を伴ったいい関係に割り込むことなく、遠巻きに穏やかな気持ちで父性として存在することだけを確実にしようとした。したことといえば、話の最後に教訓めいたことを言ってみたり、暇そうに新聞を読みながら様子を窺ったりしただけだった。そこにいさえすれば、母親がし残したことを父親に期待するであろうから、呼吸次第でいくらでも手当てができると踏んでいたのだ。

 息子は少し気難しげに、父親も母親も、とびっきり優秀ではないが、恥じることがない人たちだと理解していた。そのある種家庭内で完結しているともいえる、平和な均衡が、卜部の死により崩れた。その空白を回復するために無理を重ねることを息子は望まず、さっさと気持ちを切り替えて、自分一人でも均衡の輪から飛び出していく覚悟を決めていた。

 少年にしては偉大な決心をしたのだ。それは仕事人間だった母親へのオマージュだったともいえる。自分の人生をひとつの作品にするために、今何をしなければいけないかということが、親たちの態度を通して涵養されていたのだ。父親譲りなのか、彼は要領が悪かったが、前進するための馬力は夢や希望に溢れた同年代の少年と比較しても、まったく遜色がなかった。義務というものが人を強くするのを、彼は体現しようとしているのかもしれなかった。

 父親のほうも、鵜殿に接したことで混乱から回復しつつあり、やがては原点に回帰していくことだろう。優しさなどをいくら持ち寄っても寒々しいことはいくらでもある。それを乗り越えうるのは、信じる力だけだ。

子供が親を信じ、親が子供を信頼する。その当たり前ともいえる関係が、今の卜部家にとっては最も必要なのだろう。彼らには不安がないわけではない。親子三人で一つのループができていたのを、二人で完結しようとすれば無理も生じるはずだ。それはまだ幼さの残る息子にも分かっていた。ただ、自分たちが何を信じなければいけないかについて、損得や力関係からではなく、心の底にある温かい潤いが体全体を温めるようなものだと、人間の感覚から理解できていた。これは、卜部が彼らの記憶に残した眼差しにも由来するところがあり、もっとも高価な遺産だった。辛みはあったが、卜部氏と息子は明日を生きる力を潜在的に持っていたのだった。

 

 完璧を求めれば大抵の理屈は綻びを生ずる。井伏にはそれが分かっていたから、記事を書くときには完全に欠点を消し去ることよりも、理屈を並べたくなる動機があることを常に意識した。理屈に何の意味があるのか、関係のない人は興味を持っていないが、何か深刻な動機があれば人はその意見に耳を傾け、その人とどういう関係を築けるか模索する。

 もともと何かを伝えるという作業は、相手がいなければただの著述に過ぎず、個人的な道楽に陥りやすいのである。相手の肩を鷲掴みにして、私の目を見ろ、私の意見を聞けというのが、暴行まがいになってしまうことがあるように、必死になって伝える動機があっても、それがごく私的な事情だったりすると、非難される行動ともなる。

 伝えるという作業に従事する新聞社社員が、高給を取っていても尊敬されない場合が多々あるのも、はみ出し者との誹りを受けやすい仕事だからである。さすがに井伏ほど立ち回りが巧妙だと、後ろ指を指される前にそこから移動してしまうという、ウルトラCも覚えて揚々としているが、基本的に恨まれたり妬まれたりする機会が多く、上品な職場ではない。

 彼が労働問題を扱っていることは、上司も承知しており、素材が揃ったのなら特集を組むぞと発破をかけられている。典型的なほど上品ではない井伏は、一丁やってやるかと手のひらに唾を掛けて揉み込むような姿勢でいる。新聞社の特集記事が、純粋なデスク・ワークで成り立っているわけではないことは当然であり、大胆な切り口は大胆な取材により裏付けられているのである。断層は鮮明に浮かび上がっていると、井伏は取材から自信を得ていた。そして、ワープロの前に座ってガチャガチャと乱雑なタッチで打ち込みをし、時々は口をへの字に曲げたりしながら推敲を重ねた。

 経済の断層という触れ込みで、三日間にわたって連載された特集記事は、新聞の紙面という私情の持ち込みにくさにもかかわらず、もっとセンセーショナルに書き立ててくれと電話や投書が相次いだ。労働問題が社会問題化していることを正面から証明した形だが、普段新聞社に励ましの手紙を書いたことなどないような人が、井伏はいい記事を書いた、頑張ってくれと拙い文面を送ってくるのだ。

 弱者の味方をすることは気が昂ぶって興奮状態になりやすいが、井伏は老兵のように堂々とし、それが一定の評価を得られることを予想していたかのようなふてぶてしささえあった。彼も勤務はもうひと時代を考えられるくらいに続けており、時代を代表して口を利くことに、プライドを感じるくらいに熟練していたのだ。引け目を感じる必要がどこにあるという、同僚たちとの切磋琢磨から生まれる自負心が、井伏に果敢に攻めるジャーナリストの精髄を死守させようというのだ。

 萎えるほど弱い義侠心では、弱者が苦しむのを見ても、心のどこかでは同情よりもその結果の妥当性に首肯している自分に気付くものであり、激しく自分を追いつめて、もはやそれを見逃すと二度と正義を手にできなくなるという悲愴感に達していなければならなかった。そのくらいの意思の猛々しさがないと、遊軍をしていても記事に緊張感が生まれず、散漫な紀行文のようなものしか掲載してもらえなくなる。ややもすれば下品になってでも、記事に意気と血を通わせて、読んだ者が気骨を逞しくする一助になるような、切り詰めた論調にしなければならないのだ。

 その使命感があってこそ、新聞記者は務まる。井伏が書いた特集記事は、概ね及第点を付けるべきものだった。紙面の制約から冗長にはなりえず、飽くまで厳しさに背中を預けた、もしかしたら執筆者も切迫した状況に立ちあっているのではないかと思わせる、臨場感すらあった。そこまで取材が徹底していたからだが、文面に迫力があるのは、井伏の腕である。目にした不条理を許せないと思う心がペンに乗り移って、要点を押さえるのに生の感情が注ぎ込まれるのだ。間違っていると思ったら、それに対して一直線に立ち向かえる、それだけの適性を職業として認められているのがジャーナリストである。

 満足のいく記事を書けて、井伏は大方満足していたが、正義の心はくすぶって丸め込むのは難しそうだった。ジャーナリストの侠気や正義が、利益誘導だけでは社会に蔓延してしまう驕りや不遜に対して、打ち消すように働くことは知られるとおりである。ジャーナリストがいなければ誰が口を利くのかという、熱気を孕んだ期待をかけ、それが果たされなければ憎んだり軽蔑したりして反動的に振る舞うのが一般人だ。知る権利という伝家の宝刀があるとはいえ、民間会社の社員であって権力的ではあり得ないジャーナリストは、必要十分な発表をする以外に正義の感情を癒やすことはできない。それなのに不条理は厳然と存在し、それを社会問題として取り上げることのできる紙面は、仇討ちの場として機能することを望まれたりもする。

 弱い者を守ることは、力関係が固定して、思いつきで虐げるような権力者が現れた時に、対抗軸として必要になる心情である。連帯して権利を守ろうとしなければ、権力者は情報の流通を遮断して、苛めぬけるところでは苛虐性を強め、ますます悪辣になる一方である。それを防ぐのが報道の役割の一つである。

 原始的な形態の報道は、火事、泥棒、人殺しなど、アクシデントや不幸に見舞われた人間を広く伝え、それが社会の負担に帰することを確認する意味合いを持つ。仮にでも権力者の思惑が反映されてそうなったのなら、権力の弾劾をするのが古式ゆかしい報道ということになる。

 権力の源泉が民衆の支持であることは独裁国家でも変わらず、声なき民衆の一部といえどもそれを代表する報道は、決して無視のできるものではない。ジャーナリズムは構造的に権力と対峙し、権力を適正な規模に維持するために民衆の批判にさらすことを、日常的に行わなければならないのだ。

 民衆と対置されるところの権力を、不届きな欲求によって歪められることを、公平な視点によって抑止するのである。ジャーナリズムは誕生の当初から、権力のチェックを果たしてきたといえよう。権力が民衆の支持を必要とする限り、介在するジャーナリズムを毛嫌いしようとも、民衆の独自の判断のために必要となることは認めなければいけない。権力を恐れ、無秩序に群がるだけの民衆を愛する権力が、長持ちするものではないことは、数々の実例が示すとおりである。

 自ら思考し、権力を支える従者になる者をエリートと呼ぶとして、彼らが民衆から輩出されなくても、特権階級からいくらでも用立てることができると、権力者に侮られればジャーナリズムは必要ない。民衆を輩出母体として、永続的な権力の源泉をそこに求めるとき、怯え、あるいは腹を空かせて媚びるだけの家畜から、二本足で歩く人間は分離されなければいけない。民衆の中に権力があることを認めるとき、その軸足が揺らがないようにするには、最低限の情報を集約しなければならないのだ。ここに、ジャーナリズムは発祥する。

 力なき民が力を制度的に蓄積するには、どこに力が集中しているかを明らかにする必要があるのだ。彼らの一部はそれを感覚的に捉えることができるかもしれないが、すべてを知っているわけではない。そして、ジャーナリズムが機能しても、すべてを知ることはできない。すべて知ろうとしたものには必然的に、知ろうとしたその力の形成に関与するだけの責任が生じ、奉仕することを強いられる関係にある。それが力なき民が力を確信するためには、誰が力のありかに関心を持っているかを明らかにする、公平な視点が必要なのだ。ジャーナリズムといえども知り尽くすことはできない。ただし、知ろうとしている者が馬脚を現すのを見咎めることはできる。

権力とは、制度的な力へのアプローチの手段である。制度的に容認されていないものを、民衆の献身によって維持しようとしても、力は散逸して決して集中することはない。無理にそうしようとすれば、暴力的な思惑として指弾される破目になる。ジャーナリズムは制度の全貌を明らかにすることには膨大な労力を必要とするが、アプローチしようとしている者の資質を精査するには大した才能も努力も必要ないことに気付くべきだ。人海戦術を展開するなら、アプローチの動きを漏らさず把握することに努めるべきなのだ。

それが権力に対峙し、力へと昇華する民衆の信頼を、客観的に信頼できるものにする報道の真価である。人間生活の端から端まで観察して、その不具合をピック・アップするのは情報を集約できる官僚のすべき仕事だ。官僚には市民生活を補助するための予算が付けられ、それを実行するための時間と権限もある。報道機関が逆立ちしても真似ができないことだ。だったら、官僚が力に接近しようとする者を見分けられる漁夫の利を得たとしても、それは制度設計において修正すべきことであって、市民生活の充実を報道だけによって実現しようとするのは、少し欲張り過ぎなようではある。

制度を利用し、それによって利益を得ようとする官僚の実態を暴くのは、なるほど報道の醍醐味ではあるだろう。しかし、官僚が制度上に立って暴利を貪っているとの印象は、正確ではない。予算を付け、任に就けたのは、政治のはずだからだ。官僚が直接に制度にアプローチし、意のままに結果を左右できるはずがないのだから、誰がアプローチして官僚にそうさせたのかを、明らかにする方が正道だ。それが権力を論ずることの、最も意義ある部分である。

ジャーナリズムは本来、権力の形成に加担するよりも、どこに権力があるかを示す水先案内人であるべきだ。営利企業である報道社が、私心を交えずに権力の形成を助けるのは、まず期待できないことであるから、無理をしてクリーンなイメージを売らなくても、官僚ほどには清潔ではないが、皿に盛られた権力を脇から掠め取ろうとすれば、決して見逃さない番人としての存在を期待されていると考えるほうがいいだろう。

能力自体はエリートほど洗練されていなくても、権力に近付いて恣にしようとする不埒者がいれば、品格はともかくそれが何者かを暴ける位置に立っているのである。社会全体に機能としてジャーナリズムを根付かせるには、制度の全貌を知り尽くして自らその設計者の任に当たるよりも、余計な介在者が力の均衡を破ろうとすることに神経を尖らせるほうが、より現実的である。

伏さんとどういう人物だっう人物だったんです間は小さくなっていて

 力は本来民衆に属し、彼らの制御下に置かれる時が一番安定しており、それは民主主義として確信的に力を集約する制度になった。制度を設計したのはジャーナリズムではない。民衆でもない。一部の選ばれた者が幸福を最も広義に取られるように、多数人の幸福を祈願して設計したのだ。ジャーナリズムは彼らに余分な力が干渉しなかったことを、見張り続けていたにすぎない。絶対的に重要なことは、ジャーナリズムはすべて知っていたのではなく、知ろうとする者を見逃さなかったという事実である。

 キリストの絶対性を証明するのに使徒がいるように、ジャーナリズムは民主主義に随伴しているにすぎない。自らがキリストを名乗るようになったら、果たしてどれだけの人が民主主義という信仰を守れるか。ジャーナリストはそこを自覚していないと、物知りだが信用できない人々として嫌われるはずだ。民主主義と、自らがこの世界で価値のある存在になることと、どちらが大切なのか、正直に言って民衆に虐げられることを恐れるような者は、ジャーナリストなどには向いていない。そこをはっきり言えなければ、民主主義の番人になれるはずがないのだ。

 民主主義が報道の奉仕によって支えられていることは疑いようがないが、報道が民主主義の設計者であるというのは誤りである。飽くまで代表者がその見識によって制度を設計し、報道は結果を報じているにすぎない。代表者がいなければ、愚鈍な者も含めて直接に采配を振るわなければならず、支離滅裂に利食いばかりする組織になって、あっという間に破滅するだろう。代表に担ぐ人材を民衆から輩出し、その事実を民衆に周知する、肝心な役割を報道は担っている。あるいは報道がなくても事実の伝播は可能かもしれないが、報道に携わる報道人として事実を確認してくれるのならば、これほど頼もしいことはない。

 ジャーナリストは人格において欠点がなく、能力的に抜きんでている必要はない。ただ、民衆の前に立った時、偽らざる自己を晒せないことには、報道に携わっても信頼される職位を得ることは叶わない。品でいえば下品でも一向に差し支えないが、民衆を代表してウォッチしていることを、疑われないだけの清さは必要だ。制度の全容を把握してあまねく伝えることは困難だが、制度に接近しようと手を伸ばす者を、見逃さないのはジャーナリストだけである。制度の設計者として膨大な知識を編むことは紙面の制約からして妥当ではなく、誰が今何をしようとしているのか、そちらに集中すれば報道はよりタイムリーになり、権力の濫用の抑止にもなる。

 井伏が特集記事で追っていたのは、誰がどうやって利益を収めようとし、それが立場の弱い労働者に皺寄せされ、結果として社会全体の負担になっているという、力関係である。不条理が生まれるような力の配分が、政治的にも経済的にも、そして社会的にも行われてしまったことを、最低でも爾後の反省として紙面に載せなければ、ジャーナリストとして職業を全うしたことにならないと、井伏は思うのである。

 彼の正義感は強いほうだが、権力に徒手空拳で立ち向かうほどの勇気はなく、権力を相手に喧嘩をしても敵わないが、権力の椅子を欲しがっている人間が誰なのかを力の限り叫ぶことはできるのである。彼の書いた特集記事が、一部の企業と政治家の不興を買ったことは、その実態を暴かれて突然行儀よくすることを強いられた腕白坊主の反感のようなもので、心ある大人が判断すれば誰に非があるのか一目で分かるというものだった。

利益の最大化をしないことには、明日の我が身は保障されないという、深刻な社会への不信があるのである。それが弱い立場の労働者に差配として向けられ、雇用全体の不安感を煽り、責任回避の風潮が隅々にまで行き渡る原因になっているのである。誰も責任を取りたがらず、かといって利益は可能な限り両手を広げて全部自分のものにしたいという、モラルの破綻を生み出している。

ジャーナリストには、制度的に正しいことが行われているという一部企業の主張には目を瞑るだけの利害が生じやすいが、遊軍の井伏にはそれがなかった。情報の融通を理由に手心を加えることを要請されたりする、不適切な関係はなかったのである。情報がなければジャーナリストは食えないと思うかもしれないが、現実には細部を窺い知れないというだけで、何者が制度を利用しようとしているかは一目瞭然なのである。それに気付かないふりをして、饗応を受けることを良かれとするジャーナリストもいるが、それでは継続的に情報を伝達する役割を、いずれは疎ましく思うようになって堕落するだけである。

怒りがあるうちに、書く場所を求める。それは記者魂ともいえるが、たったそれだけのことをするのに腐心しなければならないのが、現代である。制度を利益を引っ張ってくるパワーの源としか考えず、誰にも咎められずに制度にアクセスし、無限に利益を生み続けるのがこの世の幸せだと考える人間が、ジャーナリストを疎む理由は多い。目立ちたくないから、非難されたくないから、妬まれたくないからと、元々が民衆に資するべき制度を秘密裏に運用することを望むのである。彼らはジャーナリストに有形無形の圧力をかけ、取材活動を阻害しようとする。

それが誤りであることを怒りと共に記事にすることができなければ、民衆は目に見えない形で制度に隷属させられ、持つ者が容易に搾取できるようになる。サラリーマンである記者も生活者として深刻な影響を被るであろう。サラリーマンが自らを包摂している民衆として生きることを止めてしまったら、民衆などは功利主義者の蓄財の道具でしかなくなる。最大幸福を得るのに、民衆をその犠牲にするという発想が、倫理的に問題があるのは明らかである。

権力に抗う術は少ないが、制度にアクセスして権力的に振る舞おうとする者を、暴きだすことはできる。ジャーナリストはただ民衆と共にあることを誓うだけで、権力を抑制することのできる目を持てるのである。目撃して、発表する手段を確保することで、いくらでも民衆の潜在的な力を喚起することができるのである。民衆は一人一人では弱いが、制度により搾取しようとする者に批判を向けられるのは、彼らでしかない。民主主義の権力の根源には、必ず民衆がいるのである。ジャーナリストは民衆の知る権利に尽くすことで、批判を可視化する役割を担っているのである。報道がなくても、内在的な倫理批判は存在するが、それを制度へのアクセスを拒否するまでに強固なものにする、増幅が報道により可能になる。

誰が権力の構造の中心にいるか、それは流動的なだけに謎が多い。ジャーナリストが制度に関与する者を観察し続ければ、自ずとその謎は解き明かされるのだが、心得の甘いジャーナリストは自分自身が知ることを優先してしまう。権力の発生する過程は、常に制度へのアクセスから始まっているのだから、制度を隈なく知ることが重要なようにも思えるが、制度の重要部分にアクセスする者が何者かを伝えることが、より一層重要なのである。

 今、制度が特定人を利するのに利用されていないかという疑問が社会に広がっている。制度という強制力さえあれば、ごり押しなども我が物顔でできると侮られているなら、権力は民衆に親しまないものになっている可能性がある。井伏はそれを見切って、ちょっと危険な状態にありますよと警句を発したのだ。単なる弱者への肩入れではなく、制度へのアクセスが利己的に傾きつつあるのを、民主主義の欠陥として指摘したのである。

 ただの憤慨なら冷笑で聞き流されたかもしれないが、名指しで指摘すれば言い逃れはできない。民衆を侮蔑するような権力愛が、現に存在することを暴きたてた、権威的な報道であった。それは民衆を背後に頂き、彼らの批判の下に企業家や政治家を引きずり出したという点で、大衆迎合的であったともいえる。そうしなければ制度が民衆に牙をむくことを、井伏は知っていたし、他にジャーナリズムが生き残る方法はなかったのである。良くも悪くも、こうして権力の存在は共通認識の上に登ったのだった。

 

 新聞を大見出しでながし読みする程度だった相馬は、井伏の署名による特集記事だけは全文を読んで、頑張っているなと嬉しく思った。数日後に井伏に会ったときには、率直に称賛した。

「大旦那たちと喧嘩できるのは、立派だと思いますよ」

 にこにことし、半ば茶化すように相馬は言った。

「まともに暮らすことに比べたら簡単です」

 と、井伏は自信ありげだが素っ気ない。

「私はPTAなどに出席しても、意見の違う人を説得する自信がありません」

「文屋といえども年中取っ組み合いをしているわけではないんです。それに、相馬さんのような人がPTAに出席すれば、それだけで周りは安心できるでしょう」

「いやー、そうですかね」

 小首を傾げて、相馬は笑みと共に細く息を吐いた。

「そうですよ。新聞記者が相手にしているのは、もっと行儀の悪い大人たちですから、勝手が違いますけれどね」

 それからしばらく雑談に興じた。

 ビジネスで成功した人物が、社会的にも価値があるとみられることには、稀に一致しないこともあり、絶対的に信奉されている事実ではない。しかし、ビジネスでは無能扱いされているが、社会では千金の価値があると看做されるのはもっと稀であり、ビジネスでの成功者は尊いという一応の推測が成り立つ。

 相馬が指摘したかったのは、その一応の通念に抗うような記事を、勇気を持って署名記事にした井伏の度胸である。ビジネス界で祭り上げられて、思考方法から日常の態度まで理想とされている経営者なども、実は不況風に吹かれた途端に冷淡な合理主義者に変貌することを、井伏は容赦なく暴いたのである。自分だけは有為な人物だと思っている人にも、興が覚めるような痛烈なパンチ力のある記事だった。弱者に肩入れするだけなら普通の新聞記者だが、それ以上のことをしたから相馬には新鮮に思えたのだ。

 一般に、社会の安定は経済的な基礎がないことには保障されないという見方があり、仕事を社会運営において組み込まれるべき重大要素と見ることにも、異を唱える人は少ない。井伏の記事はこの経済的な面が過剰に評価されているという批判から、社会が真に必要とするのは真っ当な批判能力であるという常識を導いている。これが意外にも忘れられがちで、経済的に成功していれば十分な批判能力を備えていると考えることに、ためらいがあったとしても、ビジネスが荒むのよりは増しだろうという期待感の話に摩り替えられてしまっているのだ。

 すなわち、ビジネスの成功者は社会を支えるべき経済力の面で、功労者だという意識が一般にあり、彼らを批判すれば社会の安定にとって好ましくない結果を招くという危惧が、社会運営上に存在するのである。

それは、経済の成功者以外は社会から疎外されているというような感覚だ。権力の存在は認めるが、自分はその強制下にあるだけで、批判するのもおこがましいという卑屈さが、結局は虐げられる者を増やすのである。たとえ能力がなくとも、批判する口を持つ一個の人間として、紛れもなく社会生活を送っていると自覚できさえすれば、不正義を見過ごさなくてもいいのである。ところが経済という尺度が、彼らに自信喪失を迫るのである。

稼ぎは少なくても、それは経済の制度の中では儲からない生き方だというだけで、社会を良い方向に導く目線に欠けるということではない。だが、そのような人たちは、社会を知悉するのに満足な知性があるかについて、疑問視されるのに抗う術はない。稼ぎが少ない者には、社会のルールを守りたくなるような動機がないだろうと、蔑まれもする。社会において重要な仕事は、なにも変更しないで、いっそのこと何もする必要を認めない者に任せるのが、責任を全うすることだと思われがちである。

もっとも、経済が右肩上がりに成長した時代にはそれでやっていけたが、節々に再調整による合意が必要な段階では、守りに入ってそこから動こうとしない人間は有害である。新たな合意の枠組みを作るために、果敢に提案できる人が、社会にとっては有意であり、必要なのだ。経済という尺度は、ここではほとんど問題にされない。どんな議論を通して、何を背負おうとしているかが、主だった関心だからだ。経済を基礎にすべての道理を構成するには、社会は無駄なものを実に多く抱えているのである。

 経済を単に金儲けの舞台としか考えない経営者には、社会的な重要性はない。いなくなっても代わりはいくらでもいるし、ビジネスの成功は社会での栄達と必ずしも同義ではないのだ。ビジネスで生活の基礎を築くことができさえすれば、社会参加の門戸は広く開かれており、誰に恥じることもなく参加すればいい。相馬は経済的な成功が人を堕落させた例も知っており、社会は寛容であると同時に、批判能力のない者を利するほど悠長ではないのを、改めて思うのである。

 社会生活に経済的な成功は必要不可欠なものではないはずである。それを井伏が暗に記事の下敷きにしているのではないかと、相馬は考えた。実際、唸るほど金を持っている人たちが何を選択しようとし、どう制度にアプローチしているかを書き立てたのだから、経済力への信頼が人間への信頼と一緒にされることを拒んでいるのである。

 相馬も井伏も、社会的な批判が経済に裏打ちされるものとは考えていなかった。経済で成功したから社会性が豊かにあるというわけではないが、社会に受け入れられた者は経済で成功しないはずがないとの対応関係がある。この辺りで誤解が生じていると、彼らは考えているのだ。

 批判は民衆に内在的、原始的に存在する能力であり、これを伸ばせば社会に深くコミットすることが可能になる。社会への関与を深めることと、ビジネスで成功することは、人間的な素養を承認される点では同じだが、明らかに別種の行動である。そしてそれは、個人の選択において、どの程度それらを追求するのかを決めれば済むというだけで、行動力のある限り追求しなければいけないというものではない。

 社会的な疎外者になっても経済力さえあれば何とかなるだろうし、さまざまな程度に選択の幅は広がっている。その幅を認めるのが、自由な社会であることの証左といえよう。本質的に自由であることで、社会への関与でもビジネスでも、誰かが決めた尺度が全面的に採用されることはない。自分がそれを決定し、そこから生じる結果を受け入れるのだ。

 だから経済は生活の基盤にはなっても、他人を説得するのに完璧な効果を発揮するのではないのである。社会生活で肝心なのは、どのような批判をし、その結果を受け入れようとしているかの、一点である。批判能力さえ備えていれば、経済力は絶対に必要とまでは決して言えないのである。

 金儲けに関心の薄い相馬にはそれがとりわけ重要なことであり、批判とそれに応じた責務を自覚することが、この世で生きていくのに一番大切にすべきことなのだ。もちろん経済的に成功すれば選択肢の幅は広がり、心身ともに豊かさを享受できる。ゆとりがあれば狭量な利益確保に走らなくても、大抵のことを許す気になって、新たな関係を築くための提案を、遺漏なく行えるだろう。

 要は批判によってどこからどこまで責任を負うのか、それを明らかにできさえすれば、ビジネスで多面的に接点を増やしても、広く受け入れられるということだ。批判する能力があれば、その人が何を担える人かは瞭然とし、ビジネスでも信頼に値する個人であることは、容易に想像がつく。ただし、批判する口が、何者についているかを世間は見ているのであり、批判する内容に耳を澄ますことはあまりない。誰が、何のために批判するのか、むしろそちらの方が世間での関心事なのである。

 批判の内容をくどくどと解き明かすのは、井伏のようなジャーナリストには無意味なことで、なぜ批判しているのかを報せるのでなければ、報道するだけの価値はない。確かに井伏の書いた特集記事は、少なくない人々の心を打ち、純粋な批判として成立していたが、そこには批判に向かうだけの動機があったからこそ、実を伴った報道になったのである。

 動機の部分で相馬と通じ合っているのであり、批判が企業寄りではないから、既成の政治家に期待していないからなどというふうに、井伏の主張の妥当性については、彼らの間では問題にすらされていない。なぜ批判するのかが透けて見えるということが、お互いの意気を交わす際に一番重要なことであり、腹の見えない倫理観の羅列ではこうはいかなかったのである。

 社会が経済力の低下により活力を失うということが、いかにももっともらしく報道されているが、果たして本当に経済性だけで社会の真っ当な批判力が衰えることが、あるのだろうか。

まず、ビジネスを社会の中心に据え置こうとすれば、不況が活力を奪うのは当然なようにも思える。しかし、人は経済のみで生きるほど、単純ではない。様々な動機を抱える考える生き物であり、思索の果てに社会への関与を決める、回りくどい関連付けを好んでするのである。

 こうした余分ともいえる関連性を、批判能力によって関連付けた動機は、経済的な物差しでは測りきれないはずである。経済的な価値観だけでは、批判力が満足に育たないのである。余分なものを慈しんで大切にしているから、経済は一要素というだけに留まり、全体を決定づける大綱にはなりえない。

 したがって経済の低迷は、社会の批判力をいささかも衰えさせないし、窮すれば鈍するということが真実だとしても、それを人間の素養として内包するための準備は、滞りなく行われているのである。経済が万能でないことを、大半の人がとっくに見切っているのであって、経験的に社会生活を知るにつけ、社会へのコミットは経済的な成功よりも人間存在を賞美するのに有用であることを、胸の温まる思いと共に肯定しているのである。

 学校では教師が生徒に経済的な理由から学問を教えるのではないし、家庭では親が子供に経済的な理由から躾をするのではない。社会で必要とされることには、不効率で経済性の埒外にあるものが圧倒的に多く、大抵が人間感情を適切に扱うための、知恵と共にある。だから動機に関わる部分が批判能力の核心になり、動機で理解できないものは、社会的な関与として適切ではないという判断に帰結する。

 ビジネスで儲かりさえすれば何をしても許されると味を占めるような人間に、批判能力が備わっていると考えることはできない。動機が邪に流れるのは避けられないし、最終的にどう社会にコミットするかについても、偏見により歪んだ形で実現されることが多いからだ。人間感情は曖昧で信憑性に欠けることもあるが、人間がどう行動するかを決するのには、素晴らしく精度の高い舵になり、概ね正確に議論を決着させる。動機が明らかにされさえすれば、批判はいつでも安心感のある関与へと実体化するのである。

 一部の企業家や政治家を批判することに、動機があっても驚くには値しないし、むしろ動機がなければ何の批判なのか訳が分からない。事実を際限なく羅列する形式を取ったとしても、そこには必ず動機があるはずであり、人はその動機を見て批判としてどのような性質のものか判断するのである。

 社会が正しくあるために、経済力が必要であるという迷信は、批判する際に動機を表にしないという慣習から生まれている。経済力ですべての優劣を決し、批判能力は経済に隷従すべきだという誤った発想は、そろそろ終わりにしなければならない。

 相馬は一サラリーマンとして、大方成功はしているが、批判によりどう社会と向き合うかについては真剣である。経済万能に警句を発する、井伏と同調できるのもそのためである。彼らが思うとおり、誰が、何のために行動するのか、その理性の部分を評価しようとする限り、批判力は経済に引きずられて衰退するようなことはないのである。

 

 繁忙が恒常化してしまえば、次に考えることは何を夢見るかということである。実力が伴わないうちは、不定形の未来を覗き見ることに時間を浪費しやすいが、鵜殿は極端にポテンシャルが高かったので、幼い頃から現実だけを見てこられた。ちょっと本腰を入れれば、何をやっても一等賞になれたのである。

 そういう人物が、企業を代表するようになって、少し逡巡しながら未来に向かう自分たちの姿を想像しているのだ。当然希望に溢れた、楽観性の象徴のようなものになるかと思いきや、意外と慎重である。

 医療に奉仕するという会社の理念は堅固であるし、従業員も利益に目がくらんで不正を働くような者は一人もいない。そこには巨大な地盤の下を流れる地下水脈のような思想があり、それは鵜殿を中心に派生し、彼と接した者は残らず感化されていた。曖昧でそれ自体は大きな意味を持たないものであるが、ひとたび人と人の間に横たわった時、それを介して魂が邂逅を果たすような感動があるのだ。喩えるなら魂が融解して混合するような、不可思議な溶解液のようなものだ。

 人はもちろん目的を持って働き、経済的に報われることを望んでいるが、自分が社会に愛されて報われるだけの価値があるかについては、自信を持てないことが多い。だからある程度大きな規模の集団に属し、それを疑似的な全体社会と看做して、仮初めの満足を得ることがほとんどなのである。時に妄念に取りつかれて、擬似的であったはずの全体が、旧世紀の地球を覆っていた天蓋のように本物の光を閉ざしてしまうことがある。過激な信仰心による、錯覚の容認である。

 錯覚したままでは幸福になれないかというと、経済的な成功とは関連が薄く、また錯覚を基準に内在的世界の時間を進めることもできる。真実を知らなくても、間違っていても、何の問題もないのである。ただ、その人が愚かであったことが、後日判明するというだけで、人物を巡るトピックの一つとしては、そうも長く語り継がれるものではない。擬似世界に満足する人は、幸福になれないという法はないから、指を指されて笑われる不快感を我慢すれば、いくらでも穏やかで幸せな時間を過ごすことができる。

 ただそれも、所属する団体が存続し、自分がそこに所属している限りにおいてである。定年退職後に会社を離れ、傲慢に振る舞うことに慣れていた人物が、酷い人間不信に陥るのは道理といえるが、それはちょうど悪い夢から覚めるようなものである。擬似的に全体を構成していた会社という集団が、突然に自分を包摂することを止め、裸のままこの世の真理の中に投げいれようとするのだ。猿人がヒステリーを起しても、世界は回ることを止めようとはしない。錯覚の中で生きてきた人間は、現実を知った途端に閃光を見たように戦慄するのである。

 これが本物の世界なのかと。

 大方悪い夢を見ている人間は、それが悪い夢であることを信じようとしないから、時代に取り残されて自分の方が古びてしまうまで覚めることがない。明らかに不幸であろうが、世界の限界を所属していた集団に求めているのだから、集団のキャパシティ以上には疑似的な世界を垣間見られず、大抵はそれが小集団に過ぎないので、世間との隔絶を経験する。

 集団を信用するということは、それくらいに危険なことでもあるのだ。鵜殿が憂いを含んで会社で夢を語ろうとするときには、会社を自己の限界などと考えない、堂々たる一個人であれと教えるつもりでいる。集団に名誉や体裁を保証してもらわないと、自我が保てないという卑小な人物は、そもそも会社集団では役に立つはずもない。会社の業績に胡坐を掻いて、自己の内面に悪い信仰を居座らせてしまわないように、鵜殿は叱咤激励をする必要があるのだ。

 彼が夢という言葉に接するときは、すべての所属集団から個人を引き離したところでその言葉が語られるべきだと考えている。人間一人は当然集団よりも弱いから、弱者であることがその人の自覚にあるときに、初めてどう夢見るべきかを諭すのである。卑屈になって、集団という外殻に籠っていないと不安で夜も眠れないという人物は彼の会社にはいないが、会社に所属することで勢いを感じる人はいる。そういう人に、ちょっと待て、会社人間である以前に、一個人であることを忘れてはいけないよと、さりげなく肩を叩いてやるのである。

 会社に身も心も捧げて、集団という個性に一体化した自己を誇示したがる者はかなりの数が世間には生息している。彼らは自分たちの信仰が、すべてにおいて優先され、社会全体にまで所属集団が拡大し、いち早く信仰に身を投じたアドバンテージで有利に扱ってもらおうと、甘い期待をかけているのである。そんなすべての真理を超越したところで成立するような信仰は、人の存在を極限まで抽象化し、矮小化もし、単純にし切ったところでそれ以上に単純な世界に同化することしか考えていないのだ。より大きな集団に育てるための勧誘のようなものであり、こんな戯言に耳を貸していたら日が暮れる。

 集団はたえず個人によって産声を上げる、新鮮なものでなくては所属する価値がない。個人の発展可能性をすべて捨象し、安定的、固定的に扱えるものだけを集団の要素と考えたら、特に営利を上げるための集団は成り立たない。会社がより確実に、社会に信頼される形で営利を上げようと思えば、集団は所属する個人によってインスパイアされるほかないのだ。

 個々人によって活況を呈する集団を想像するとき、集団側から利益を供与されることを条件に考えるのは、虚しい気分にさせられる。個人の献身によって集団が成立するのではなく、無限に利益を吸い上げられる源泉として集団を考えたりすれば、モラルの破綻はすぐそこまで来ている。さらにはその集団が疑似的に全体として扱われたりすると、もはや個人の倫理観は悲劇的なまでに貶められる。集団に所属することで、すべてが正当化されるという幻想を抱くからである。

 会社がそうした模範にはなりえない暴挙を容認したりすれば、直接は関係ない会社員まで影響を受け、臭い物に蓋をするようには虚勢を隠せなくなる。集団の利益を維持すれば、そこから旨味を吸い上げられると思い込んでいる、やくざまがいの会社員が結構いるのも事実であり、集団に所属することで俗悪になって、自分に力があるように錯覚するものらしい。大半が知性に乏しい卑劣漢だが、油断すれば会社内に妙なパワー・ゲームを持ち込むのだから、よほど用心はしなければならない。

 できたてほやほやだが鋭気に溢れている鵜殿の会社では、夢見ることの重要性を知っていても、そこに欲望を持ち込むことはしない。それをすれば、集団を世界全体だと錯覚する者と、論理的に似通ってくるからだ。希望に溢れ、明日を切り開く知略を蓄え、未来を信じることのできる力は、若い会社には特に必要であるが、それが個人の消失に繋がっては、互いの信頼から飛躍するのに欠かせない目線までも損ねることになりかねない。

 集団の扱い方次第で、そこに所属する個人の視界は格段に違ってくる。自ら目を閉ざし、自分の知っている範囲でしか行動できず、横町で豆腐を買うだけのことが怖くてできないという憐れな人物にならないためにも、集団の外でも没交渉に陥らないだけの正しさがなければならない。目配りできる範囲が行動できる範囲と一致するのは、子供だけである。大人は集団から飛び出しても一個人でなければならず、それが脚色されていたら、恋人の前では厚化粧をしないと落ち着かないような気分を味わわなければいけなくなる。

 錯覚で自らを慰めるようなことが、会社集団にはふさわしくないことは当然だろう。集団は個人の人格を代表しえないし、常に変化を続けるものであり、決まった評価が永続化するものではない。ちょっとした弾みで構成員の属性が変わったり、保守性に火がついて収拾がつかなくなったり、集団はその外観や呼称が固定していても、内部ではその外形をブランドとして保つために努力が払われなければならないのである。

 つまり集団への愛は、個人的なことであり、その愛情の深さに報いるだけの利益を享受できたとしても、他人に同じように集団への愛情を強制することはできない。それをすると、集団への所属を自由な意思により決するという、職業自由の原則に反するし、そもそもある人にとって有利な条件の集団が、すべての人にとって有利であるとは限らないのである。集団への忠誠まで期待されたとして、価値観が極端に異なるのでは、たとえ利益を供与されても面白かろうはずがない。

 会社は集団としては目的がはっきりしており、そこに所属することを雇用という形式に委ねられる分、いったん関係が成立すれば、制度に守られることになるので歓心を買ったりする必要性はない。集団に利されることを期待する個人が、会社に期待するのは能力の範囲内の要求しかされず、それを最大限に評価してもらえることだ。小集団に属して、自らの行動の限界をその集団の範囲に託したりするとき、集団に裏切られないことは何より重要である。それを思えば、会社というのは実に便利に自意識を幇助してくれる。

 会社は私である、というワンマン経営者の感覚に、限りなく近い下級管理職がいたりするのも、滑稽だが自意識がどう働いているかを知るための素材にはなる。その管理職は、自らの意識が会社という外殻に沿って充満していると考えているのだ。会社が心の拠り所である以上に、肉体の欠陥を忘れさせるほど巨大で美的あることが認識でき、さらに会社が社会的な認知を受けていることにより一層自信を持たせるのだ。金のかかった調度品などが、自分の不完全さを覆い隠すように存在すれば、逆上せ上がるようにうっとりとするのである。

 感覚的には金が総てだと考える人間と近いかもしれない。集団が心の在り方まで代表するのを、客観的な指標で自らに帰属させたものと安堵しうるのである。それが雇用というものの、社会での位置付けだからである。会社に所属すれば、会社は自らの意識を代表していると、錯覚することが可能になる。外形としての会社が、整っていればいるほど、自らは世間に対して凛々しくアピールされていると考えるのである。

 それが虚栄心の権化であることは疑いようがないが、会社に対してどんな心情を抱くかは内面の問題であり、一々指図することはできない。会社を背にして立って猛々しく振る舞うことを望む会社員がいても、それはみっともないことだと指摘しようが、心の底から会社に所属する自分を肯定している人間の耳には届かないものであり、個人である以前に集団だという功利的な発想はなかなか已むものではない。

 その心情が多数人の営為の中で価値のあるものだというのなら、いくらでも誇大妄想に浸ったらいいが、自らの誇示のために他人を巻き込んではいけない。集団は飽くまで機能として個人の力量を反映するものであり、そこでの個人の満足は内省的、個別的なものにすぎないのである。一つ一つはばらばらだが、まとめて俗称をつけなければ集団足り得ないというものではなく、集団に献身することで個人のアウトラインが鮮明になるという対応関係にある。集団に盲目の愛を捧げて一つの氏を名乗ることと、機能的に参加することで歯車としての自分を自覚することは、方向性が違うのである。

 当然のことながら、機能としての自分を発見するのが、現代人の理性的な生き方である。集団に溶け込んで分離不可能なまでに自我を一体化させても、集団の発展がすぐに自らの利益に転換されるようなシステムは、理想の上にしか存在しない。理想郷で生きることを決意するのでなければ、普通は理性で批判的に集団を検証するものであり、そこで初めて集団は機能していることを証明され、心情的にも個人に微笑むのである。

 心が和むような瞬間は、機能不全に陥って個人を迎え入れることのできない集団には、訪れないだろう。略取した利益を、構成員に分配することで成り立つ略奪経済は、機能不全の最たるものであろうから、そこに従属しても心は荒野を彷徨うばかりだ。こうした個人が機能しても報われないような仕組みを、一時の満足と引き換えに容認すれば、集団を誇示することでしか個人は納得のいく自意識を持てないから、どこまでも憂鬱な毎日を過ごす羽目になる。

 会社が一時の満足だけを約束するだけでは不十分であるから、雇用という形式を順守して身分関係を明らかにし、より豊かな結合に発展させるのが、まずは経営者の手腕である。個人と会社は、究極的には肉体の有無という差異があるから、終局的な目的は当然異なる。これをいかに擦り合わせ、個々人を機能的に会社の目的へと統合するかで、会社のできは決まってくる。優れた会社は個人の能力が過不足なく提供されることで、有機的一体として継続して固定した機能を発揮し得るのである。

 雇用を通じて会社を機能的な集団にするのを、より上手くやり遂げた経営者は成功を手にできる。会社はスリムで機能的なのがいいには違いなく、願望としてそうありたいと考える鵜殿は、夢という抽象性の世界で会社を造形する。今後も彼は、明日はどういう企業になろうかと理想を燃やすことだろう。

 

 温厚な人間が静かに怒りを蓄えたりするのは、健康的ではないような印象がある。予算案をまとめた後の三鷹は、どこか気分が晴れないまま、同僚との接触にも面倒臭さを感じることがよくあった。

 だが、それも自らの内省の深まりに合わせて、過渡的な現象だと思えるようになった。心理的に重々しく感じていた正義の感情が、日常という器に盛られて、それを観察しているうちに舌に馴染む熱さにまで冷めたという感じである。とはいっても正義が色褪せたわけではなく、原色のまま目に見える位置に鎮座しているのだ。ただ冷めて扱いやすくなっただけである。

 そんなふうに正義の感情が衰えたのかと気を揉むことに、三鷹は慣れていないので、久方ぶりに感じるささやかな葛藤に複雑な胸中であることを隠しきれなくなっていた。

彼のもとを訪れた井伏は、心情を聞かされてからからと笑った。

「それはあなた、新しいことをする時期だということじゃないんですか」

「するって、何を。私みたいな公務員は生涯設計といえば勤め上げることになりますが」

 と、三鷹は不興顔になった。

「新聞記者にも時々ありますよ。かっとなった後なんかに、心が冷たく固まってしまうんです」

「そういうときにはどうしたらいいんです」

「私の仲間に忠告するんなら、飲んで忘れろと言いますね」

 井伏はにやにやしている。本当に言いたいことを伏せているからだ。

「私には向いていない方法です」

「そうですとも。あなたは政治家にならなければいけない。憂える人にこそというわけです」

「そんなふうに考えるのはよくありませんよ。誰も彼もが政治家にならなくてはいけなくなる」

 そこに踏み出す困難を思うと、三鷹は愚痴るような口調になった。政治家になるだって、と呆れて途方に暮れるように乾いた笑いもこみ上げてくる。

 井伏は冗談で言ったのだが、正義の心が衰えて深刻な情緒の崩壊が予感されるというのなら、行動しなければいけないのだ。行動しなければ、心の中の建設物は残らず朽ち果て、廃墟のように荒涼たる光景が広がるのかもしれない。コンクリートの構造物が、無慈悲なまでの日の光にさらされて、独特の臭気を放っているような心の風景である。都会的で、人情や生きる喜びが乏しいところで成立する、ぎすぎすした現実を見据える視線からは、希望が欠落してしまっている。

 田舎の濃厚な人付き合いがいいとは言わないが、絶望的なほど人造的な空間に生きることに、倦んでしまう場合も多いということだ。誰も口利きをしなくとも、飢える人は存在せず、働き口は無限にあるというのが理想だが、実際にはそんな物語の世界のように能天気ではいられない。飢えている者がいれば明日は我が身だと身構え、働いていても未来永劫それが続くとは信じきれない。助け合いの延長線上に、誰かが正義の心で彼らの守護者にならないと、ある日を境にぱったりと途絶えてしまうくらいに儚い。

 何か一つでも信じられるものをと、願掛けでもするような思いで縋るとき、不安定な情緒の人々が望むのは、意識するとせざるとにかかわらず、確実なものとのコネクションを一つでも多く集められることである。絶対に不変で確実なものは存在しないから、役に立つようで立たないコネクションを、愛しいものでも見るように眼下に置きたがるのである。

 自分の人生が確実性に満ち、普遍的なものにまでなろうとしていると錯覚できるくらい、コネクションの豊富さに自信があるのも迷惑だが、人は大方がそのように自分の立ち位置を確認しながら、可能性が最大化されるように立ち回っているのだ。気持ちでいえば、満たされたい一心ですべての接点から導かれる安定航路を、発見した上でそれが有用であることを認めてもらいたい、恐らくは誰しもがそうである。

 ところが、コネクションが豊富な者は、自省する時間を取れずに育つものであり、客観的にその人の適性が明らかでも、主観的にはコネクションから逆算できるところの可能性を信じたくなるものらしい。大人は可能性を切り捨ててでも、小さくまとまることを志向できるが、未成熟な者は老齢に差し掛かっても自らの可能性を手放そうとしない。もっと幸福になれるはずだ、もっと豊かに過ごせるはずだと、可能性の次元の話を、自分が浴するべき事実関係であるかのように思い込むのだ。

 そういう人間がいても、世間が冷たいというだけで、勘違いを続けることが否定されるわけではないが、我が物顔で世間に鼻を高くして面と向かおうとする者にありがちな通り、正義のありかを見失っていることが多い。彼らの感覚では、世間に疎まれて可能性が摘みとられているのであり、客観的には彼らが疎まれるに値するほど粗末であっても、主観的には正義を信じ続けるだけの理由が見つからないという状況に陥る。自分が不幸なのは、社会が歪んでいるからだと結論付けられれば、もはや正義などは存在しないに等しい。

 財や名誉を思う侭にし、その力で社会に復讐するのだと、生き方を極端に狭量にしていくのも、頷けないことはない。それが迷惑で倫理的に責められることでも、自分の可能性が否定され、社会全体から圧殺されようとしていると思っているのなら、抵抗しないわけにはいかないというのは理解できる。ただそれは、社会がより確実に運営されるための、当然の嫌悪感だとしたら、耐えなければいけないし、社会のほうの認識が間違っているのを粘り強く主張することでしか、活路は開けない。

 もし、社会が偏見や独断で歪んだ価値観を持ってしまったのなら、それによる犠牲者は正当な補償を受ける権利があるし、そうされなければ以後の社会の正当性に傷がつく。酷い目にあっても憎まなければ、必ず社会は報いてくれるものだと、社会の包容力のようなものを一度でも経験していれば、悪と化して社会の害悪にならずとも済む。

コネクションが豊富で、それが愛だと思っていた者は、可能性が閉ざされることを愛の終焉だと思うのだろう。人には適性があり、不釣り合いな愛情を受けても、それが永遠に続くと保障されるものではないことは当たり前で、自らの素養に見合った人生を送るしか、幸福になる道はない。

 一番大きな葛籠に一番の財宝が入っているわけではないように、社会を幸福の揺り籠と考えなくても、もっと小さな幸福はいくらでも見つけられるはずである。それをしないのは、愛情を受けることに慣れ、それが自分の資質に捧げられたものだと思い込んでしまうからだ。愛は永遠だと、コネクションの豊富さで証明しようとしたなら、それが果たせないことを失意で以て知ることになっても、本来的には恨むべきではない。

 正義は、民衆が今日を生き抜き、明日を迎えるための知恵である。これを失えば失意どころでは済まないし、社会が連続性を保って、その正当であることに不安がないようにしないと、政治家がいくら頑張っても馬耳東風になったりする。自分だけは何があっても幸福である必要があるという命題を、どうやったらさりげなく世界の真理として吹聴できるかと、不幸な者たちはみんなそうやって社会に守られることを拒絶しているのだ。いったい社会が論理的に正しくないと糾弾することに、絶対の資質を与えられる人物を想像できるのか。

 誰ひとりとして社会に対して正義を付与できる者はいない。正義はその人が背負い、切っ先の鋭さに怯えながらも懐に収めるべきものだからだ。それを社会全体の方向性にできるほど、物分かりのいい世間などは存在するはずがないのだ。誰しもが疑っている。明日は我が身だ、あのおぞましい憎悪に取りつかれた人間がやってきて、私を滅ぼそうとするに違いない、と誰もが思っている。そこに正義がありさえすれば、もしかしたら我が身は堅牢な障壁に囲まれ、悪意から守られるかもしれない──。その可能性を信じることでしか、社会での安全は約束されない。疑心暗鬼になって、最大の暴力を有する者が正義を語らないと、誰も正義を信用できないなどと、早々に絶望することは許されないはずである。

 それではテロリストが支配する世間と同じことになってしまう。恐怖で震えあがらせ、行動の自由を奪って、与えられた行動のリストにないことをしたら罰せられるような、暗黒の時代に住んでいた人々が幸福ではなかったことを知らないわけではあるまい。幸いにも正義を信じ、自らをその唱道者とすれば、艱難が避けていくだけの世の中は実現されている。これを維持するには、正義を信じられない人間を嗤って窘められるだけの、冷静な人間がいなければならない。世界は正義に満ちている、と仮定でもいいから、真剣に信じようとする者が馬鹿を見るようではいけないのだ。

 翻って正義とは何か。

 個人が幸福に生きるためだけにそれがあるのなら、酷く狭い世間でしか正義は確信できない。個々の幸福が実に多義的である以上、その一部を社会で許容することでしか、正義は実現されないことになる。それでは多数人に社会を支える原理として認識させることは叶わない。社会は幸福を代償に、運営の原点を見失ってしまいかねない。

 やはり、個人の幸福は、正義とは必ずしも折り合いがつくものではないだろう。幸福になるための背景として正義が必要なことは言うまでもないが、幸福になるために正義があるのではないのである。邪な欲望を満たすことに喜びを感じる者などは、とりわけそのことに敏感である。正義があっても幸福になれるわけではないと、経験的にも実際的にも熟知しているのである。

 正義の感情を持つことは、社会に存在を容認されて、不遇感なく生きようとする者にとっては宿命的ともいえるが、その正義に裏切られて、転落人生を歩む者もいる。自らの信じた正義に裏切られるほど、衝撃的なこともないだろう。いくら正しいことを信奉しても、社会がそれを平均的な感覚と認めなければ、正義の感情は空回りするだけだ。その不快感は、社会などは自らの背景になくてもいいとすら思わせるほど、深刻なのだ。

 そうなれば個人の幸福など、風前の灯である。正義があるのかという問いに、幸福感がなければ正義などは存在する価値がなかったのだと、否定の語気を強める一方になる。個人の幸福が実現されない社会に、正義を信じるだけの価値を認められないのは、個人の感情としては自然なことでもある。

 しかし、よく考えてもみれば、不満に思うだけの余裕があるのならば、少なからず社会の保護に与っているのである。本当に窮した人間というのは、沈黙するのである。くだくだと不満を並べ立てるのなら、実のところ正義がないことには満足感もないということを認めているようなものである。そんな中途半端で甘い人間のために、正義を信ずることを止めてしまうのは、余りにももったいない。

 社会に厳然と正義の感情が通っていないと、自らの欲求に忠実なあまり、幸福追求に他人の犠牲を必要とする者が現れる。そこを踏み外したら、巡り巡って自分の足場が危うくなるということを、成熟した者なら誰でも知っているはずだが、稀に恵まれすぎた地位に生まれついて、社会の害悪になることに躊躇しなくなる者がいるのだ。社会に奉仕されることに慣れ、正義などはあってもなくても同じだと驕りだすようになれば、正義を信じて頼りもする大多数の人間から疎外されるようになる。

 時には幸福感を犠牲にしてでも、多数人を守護し、安心させている正義の感情を掲揚しなければいけない。それが公の場で生きる者が、公の感情を大切にしつつ、公に育まれるためには必要だからだ。いったん公衆を見限って、悪の限りを尽くすようになれば、正義の感情に守られた平和で人情味に溢れた生活は夢と消える。常に侵害されることに怯え、心の拠り所にするものもないまま、苦渋に満ちた人生を送らなければならない。正義を打ち捨てて、暴力ですべてを支配した気になっていても、多数人が信じて生活の安全を託している共通思念に、一切関わらないという態度をとれば、もはや公衆に利されることはないのである。

 結局は、幸福になりたいという気持ちを抑制し、大多数の人と今日から明日へと受け継がれていくべきものを共有し、心から生きることを肯定しないと、誰ひとりとして幸福にはなれないのだ。人が正義の感情に自らの安全を託し、理由なく侵害されないことに希望を見出しているのに、それを否定して、自分だけが幸福になりたいがために正義から離反することは、人としてどうであろう。

 そもそも幸福になりたければ、世間が正義の感情により均衡を保っていなければならず、これが弱肉強食で奪うだけ奪った者が勝者だという、正義を無視した世界では、暴力的に振る舞う以外に自分の幸福が侵害されないという理想は実現できない。そして、そんなふうに矮小化された幸福に満足できるはずもなく、せこく掻き集めた利益を愛おしそうに眺めるだけの、卑劣漢の幸福だけが残される。

 人は共に生きることを選ぶ以外に、自らの幸福を確実にする手段を持たないのであり、確実な人生とは小さな幸福に収まることを容認することである。冒険したければしてもいいが、それを他人の負担でするのは誤りであり、飽くまで自分の処分できる利益の範囲でしか幸福追求の権利はない。世間はすべて暴力に屈する脆弱なものだと、自信を深めるような愚者には真の幸福などありえないのである。裏切りを恐れ、愛情を疑い、欲望は底なしという憐れな人間と、正義の感情を共有できると考える人はいるだろうか。

 当然疎外され、人によって与えられる利益は一切が干上がるのである。唯一、暴力に屈した人間を慰み物にするだけで、それも権力に擦り寄ってくるような卑俗な者ばかりだから、吐き気がするほど憎むことになる。幸福などどこにもない。それが分かり切っているから、人々は正義を信じることにしたのである。社会に横たわる崇高な契約といっていい。人は正義によっては直接の幸福を得られないが、正義を信じることを申し交わした時点で幸福になれる権利を得たのである。

 博愛を旨とする三鷹には、この幸福を身近に感じさせるだけの、強い信念がある。井伏が三鷹に政治家になれと促すのは、彼は社会が長年月を経て共通認識にまで高めた、契約の存在に親しむ人柄だからである。幸福は望み過ぎれば指からすり抜けていくことを、生活感覚で理解しているし、何よりも抑制しなければ問題が生じるほどの欲望が、まったくもって見受けられない清潔さがいい。井伏にとって三鷹は、正義の感情を共にしたくなる、盟友なのである。もしも三鷹が政治家になってくれるならと考えるだけで、空想が大きく膨らんで胸が空く思いがするのである。

 三鷹自身は政治家になることには消極的だが、そういう後押しがあることには悪い思いはしていない。皆が正義を信仰しているのなら、明色に飾られた春の野に立つように、心の澱を洗い流して新しい気持ちになれるような気がする。新しいことをすべき時期なのだ。井伏の言うことにも一理あると、三鷹は微笑むのだった。

 

 卜部が逝ってからというもの、渥美は投資を塩漬けにしていたが、大量の財政出動で株価が敏感に反応し始めている。先行指標としての株価は、多分に期待込みで見られるものだが、既に少なくない儲けが生じ始めていると、期待への斜めの見方は遠のく。もっとも、かなり多くの人が株安でポジションを作ったのではないかと思われるが、彼らのように利食い売りをするつもりは渥美にはない。

 鵜殿はどうであろうと頭をよぎる。彼なら財貨の移動はよく見えているであろうから、どこまで我慢すれば一番儲かるのかも分かっているはずだ。焦点はすでにどれだけ儲けるのかという段階に入っている。渥美の職業では景気が循環するという立場をとるのが通常だから、景気が沈んでも丹念に投資を仕込めばすぐに浮上するという楽観がある。政府が膨大な額の投資をした以上、必ず景気は浮揚するという見込みが可能であり、その見込みが裏切られるとは、経験上は考えなくてもいいのだ。

 深刻な不況だと言われるが、渥美は世間での購買意欲の衰えは感じておらず、不景気だからと時間稼ぎをしながら売り渋っているサプライ・サイドの事情を酌み、これも景気循環だからと大らかな気持ちでいる。商売が一番儲かる方法を勘考し続けてきた政官財各界は、今度も財政出動で乗り切る腹らしいが、そんなことは渥美にとってはどうでもよかった。彼は裕福であるし、多少の損を被っても上流階級に属している以上、いくらでも取り返せるのだ。

 大方のところ、鵜殿も渥美と同じように品が良く、利益にがつがつせず、スマートなやり口でビジネス・シーンに参画しているが、株価については一見識を持つ以外に特に新たな手を打つ気はなかった。起業したのだから、株価に目を奪われている時間がないだろうとの外野の判断を重んじ、なるほど時間がないのだと自分を説得するために、本当に保有株式は手放しになった。

 綺麗にアイロンのかかったスーツを着て、いかにもパリッとしている。その鵜殿が面倒臭そうに株価の見識を披露するのは、面白くもある。

「利食いのために売りに出した人々が、もう一度低位で買い直すという流れでしょうか」

「私もそうしています。底で買って、そのまま上昇の勢いのあった株を温めています。親鳥じゃないから孵るかどうかには自信が持てませんが」

 と、渥美は真顔で冗談を言って、鵜殿を楽しませた。

「あなたのお仕事だと、循環すると答えなければ不味いのでは」

「いいんですよ。友人と話すときくらい、経済なんて忘れてしまいたいんです」

「しかし、値上がりは確実でしょう。孵らなくても卵のまま譲り渡すという人は多そうです」

 鵜殿は揶揄で弾みのついた口調であった。

「どこまで伸びますかね。私の関心は専らそこです」

「うーん、どうでしょう」

 腕組みをして考えた後、のんびりと鵜殿は達観のほどを示した。

 楽しげな会話がしばらく続き、ふたりは大方の落着点を見出した。

 経済は循環しているものと判断するのが通説だが、循環しなければ一番困るのが徴税している政府であり、だから財政出動で血を吐く思いをしてでも梃入れしようとする。普通、物やサービスは売れすぎれば反動で売れなくなるものであり、それが景気のサイクルと同調して起きる現象だと説明するところに、景気循環説の特徴がある。売れる時に売ってしまうのが、売れなくなった時に備える企業の常套策ということになるのだ。

 しかし、扱う商品が違うのに、売れる時が一致するという奇怪さは、景気循環説では説明がつかない。好景気だから売れたのだでは、説明になっていない。売る商品がまちまちである以上、それぞれの景況感は異なるはずである。それが景気の循環という形で、売り時が決まってくる。内在的な努力や工夫によってではなく、外在的な財政投資によって資金が大量に出回っているからだとしか、説明できない。

 要するに、財政出動をするから景気に循環が生じるのである。では、財政出動が不要なのかといえば、産業資本が焼け野原をひっくり返して捻出できるならともかく、どこにも資金がない状況では意図的に財政から資金を供給しなければならない。社会資本の整備という形でそれは行われることが多く、道路や橋やダムなど、産業活動や社会生活に必要な基盤を開発するために、大量の投資が行われた時期があった。土地が改良され、利便性が増して、経済のパイは大きくなったが、その分借金は増し、計画的なインフレがなければ借金の負担が重荷になるまでになっている。

 その合意の枠組みを崩せないのが、与党の政治家であり、財政投資をして景気に循環をもたらすことが、通常の経済運営だと思っているらしい。企業としても、できれば景況感に関係なく、いい商品を開発したら即時に売り切りたいと思うはずであり、景気の循環はありがたがるものでもない。これだけ社会資本が整備され、財政投資の必要性が後退しているのに、意図的に景気を循環させるという操作が、果たして有効なのだろうか。

 最近ではジャスト・イン・タイムという生産の取り組みも始まり、在庫を持たない経営が美しいと言われるようになっており、財界は景気循環を嫌い始めている。位置に着いて、用意ドンで競争をするのではなく、より開発期間を縮めて、一年でも半年でも早くスタートを切るという競争をしたがっているのである。景気循環に三年も四年もかかっていたら、開発で優位に立っても販売競争では横並びということになり、売り時を逃してシェアに響くという危惧があるのだ。

 政治家だけが景気循環を理由に、保護産業に資金を投下し続けるという構図は、無駄以外の何物でもない。保護産業が成熟化し、ろくに競争もしないで資金が投下されるのを心待ちにするという保守経営をしているのだから、改革しないことには無駄飯を食わせているようなものである。技術を開発し、それを梃子に資金を集め、事業を興すという産業の流れとは、一致しないばかりか逆行する部分もある。企業は競争にさらさないと保守化する一方で、最後にはまともな開発力もなくなって陳腐化していくのだから、技術開発への意欲があり、資金でそれを評価し得る体制を調えるのに援助はしても、政府が金蔓になるような愚を犯してはいけないのである。

 不況といわれるものの正体が、実は政府の経済拡大への布石から生じていたというのなら我慢もできるが、利権の維持のためにばらまいているだけだったというのでは、気持ちの収まりようがない。景況感に影響する施策を採っていながら、さらなる投資で景気の循環を決定づけようというのは、深みに嵌って動けなくなるようなものではないのか。

 財政投資の原資は国民の税金だけに、景気の循環を起こす社会資本への投資を不要とは言わないが、もっとソフトにできないかと要求することはできるはずである。それには財政投資の失敗が国民によって尻拭いされなければいけないことを、周知する必要がある。不要な投資をして景況感に影響を与えるくらいなら、いっそのこと何もしない方が自助努力による回復は早まるのだと、早々に気付くべきだ。

 一昔前に比べると、随分と道路が整備されて、路傍には綺麗な店舗や住宅が立ち並んでいるという光景が、各地で見られる。社会資本の整備が成功した例であり、こうした身近な成功例を見て、政治家は財政出動による公共工事などを実行しているわけだ。それ自体は咎められないし、返っていいことをしているような印象すらある。

 ただそれも、過疎などの現象とワン・セットになっているから華々しい成功に見えるだけで、過疎のほうをクローズ・アップするなら、都市部での繁栄は虚像ということになる。過疎地から人がいなくなれば、都市部への人口流入はなくなり、必要な住宅の整備なども無用のものになる。現在はその過渡期にあるといっていいだろう。都市部の地価が上がってドーナツ化現象が起こり、郊外の道路整備が必要になったのが一昔前だ。最近は区画整理で幹線道路を建設している段階である。社会資本のこれ以上の拡張は、維持するのにも金がかかるために、経済の成長率と相談しなければならないはずである。

 政治家はそれについて、過去の合意を重んじるあまり、新たな枠組みに移行することに消極的すぎる。経済の循環をソフトにし、儲けられる準備が整った企業から利益を上げるという、純粋な意味での競争社会に移行しなければならないし、そうしなければ企業は失敗を恐れて新商品の開発をしなくなる。景気の循環に合わせて、旧来の製品を化粧直しして拡大販売しようなどという、保守に凝り固まった経済では成長を見込めるほどの消費が喚起されるはずがないのだ。社会資本は維持するのにどれだけ金がかかって、それが経済力で支えられる規模なのかということを精査し、適切な計画に基づいて行われなければならない。ただ景気が悪いから、循環すれば増収になって損失は生じないという、説明になっていない説明でお茶を濁すことなく、真剣な議論で何を残して、何を切り捨てるのかを、議論の場で合意しなければいけない。

 これ以上社会資本を拡大すると、維持費だけで首が回らなくなることは目に見えているのだから、人口増加が鈍化した現状に合わせて、社会資本の整備にはよほど計画的にならないといけない。いつまでも先延ばしにして、景況感の操作に夢中になっていたら、経済成長の原動力である民間活力が萎んでしまうし、公平で公正な競争環境は実現できず、モラルを売り渡してでも利益を稼ごうという風潮を生む。同じ土俵で競争しているのだと確信があれば、神聖な土俵では不正義はすまいとモラルの高揚を見込めるが、政府の操作した景況感に合わせて商売しろと強制すれば、企業はどこまでも利益を追求することだけに真摯になる。社員を養って、公の経済で商売しているのだという自覚など、期待しえなくなるのだ。

 社会の活力を保ち、それと同時にモラルを維持するには、営利企業が真っ当な競争に活路を見いだせるようでないと、小手先のテクニックだけで利鞘を稼いでも文句は言われないという開き直りを生み出す。純朴に、優れた技術力で、社員の夢を形にし、そのアドバンテージで稼ぎをはじき出すという、昔ながらの企業が古いとはいえないはずである。今でも技術力に磨きをかけた企業が生き残るのは道理であり、それが資金面での裏うちを伴うからこそ、形だけは公平な競争が実現されている。

 後は、景気を循環させるほどの財政投資をして、社会資本を整備する必要があるのかというところに話は落ち着く。循環しなければ競争に本腰を入れられる企業は多いのに、政府が公共財への投資を止めない、若しくは止めたがらない。選挙の際の支援など、見返りが大きくて止めるには相当な覚悟が要るからだ。社会資本を維持し、都市の機能を確保するには、選別が必要な時代に入っている。大きな開発を進めるには、国民が必死の思いで稼いで納入した税金を遣うのだということを、認知しなければならない。それだけの合意に至る説明ができなければ、社会資本が有用だといえども、費用対効果を考えれば無駄に属することも多いはずであり、議論の段階できちんとブレーキがかかる。

 もちろん、不況を乗り切るために財政投資をすることは否定されない。不効率産業を保護するのみにはせず、産業を活性化するためにのみ投資をするなら、不況にあっても真っ当な競争をすることに後ろ向きになる必要はない。一部の保護産業のみが、財政投資の恒常的な投資先になって、一円でも多く政府からもぎ取ることを考えているだけなら、財政投資は不要である。競争をしたがっている企業の活動を阻害し、開発の努力を水泡に帰すような政策になりかねないからだ。

 部分だけを見て不況、不況だと叫ぶくらいなら、同じく部分を見て競争を勝ち抜く努力をしている企業を見過ごしてもいけない。開発の投資額に応じて技術的な優位性は生まれるといえるが、その投資が景気の循環などで無駄になる、つまり碌に投資もしていなかった後続に追い付かれたりするのは、面白かろうはずがない。投資は飽くまで、リターンを考えてのことであり、優位性を損ねられて、横一線に並んで商売することを強いられては、企業としては投資額を抑えざるをえなくなる状況も出てくる。

 技術開発力の優位こそが企業の神髄であり、それが発揮されるように、資金の流れを管理しようとすると、不況の真っただ中に株価を上げなければいけないような話になる。いかに技術的に優れているかを傍証を用いて説明すれば、技術のソースを半ば以上は公開せねばならず、他企業の追随を許すことになる。それでは技術的な優位を、商売に反映させることは適わないのであり、結果として景気循環に合わせて技術投資を計画しなければいけなくなる。

 計画自体はそうして景気循環の流れに沿って行うことができるが、開発は生ものだから、早まったり遅れたりすることは避けられない。いくら綿密に計画しても、景気循環と開発の成功は無関係なのである。開発が成功して、競争の準備が完了した企業が、景気の循環を待って商売の準備をし、それまで技術を秘匿するような不効率が、特許全盛の世の中で可能かどうかという問題もある。

 技術がオープンになる時期と、商売として成立する時期が、どうしてもずれてくるのである。企業に景気循環を待つだけのゆとりがあればいいが、中小企業は明日をも知れぬ身であり、一年どころか半年待っても大企業に追い付かれるという不安心理の中で仕事をしているのである。これが三年も四年も需要の先食いで景気が沈みこんだりすると、せっかく開発に成功しても商売にならない場合が出てくる。辛うじて特許収入で食いつなげても、金属の研磨技術や、プラスチックの成型技術など、古い技術で企業の独自性を磨いていた場合はまるで評価されないことになり、大半の企業は商売には結びつけられない。

 技術開発なんて景気循環の前では無駄金を遣うに等しいことだと、企業がそっぽを向けばどうなるか。国家としての技術優位性が衰え、貿易で稼ぐことができなくなるのである。日本のように産業技術の粋を集めて貿易黒字を稼いでいる国は、大打撃を受けることになる。

 これまでは国家の成長余力が社会資本の整備という名目を得て、投資してもきちんと循環したのであるが、時代が推移するごとに社会資本の持つ意味が変わり、今では投資するごとに維持費がかさむという現実に直面している。どれだけの道路を整備すれば経済が円満に機能するのか、どこに架橋すれば経済の密度が向上するか、よく選別してからでないと借金財政が極まるばかりになってしまう。社会資本は必要なものを、というのはもはや常識であろう。

 こうした状況で、なおも経済循環は必要だと説明できる論者がいるのなら是非とも聞いてみたいものだが、景気循環は経済へのダメージであるとの認識は共通しており、回復の方法で若干方向性を別つだけである。鵜殿もその大らかさで渥美との意見の擦り合わせが可能になるとみており、それほど深刻だとも思っていないふうがある。技術のあるところに金が集まるのは道理であり、景気循環説を採っても、競争のための元手が集まるのならば、政府が帳尻合わせのために景気刺激策をとることは一向に構わないのである。

 これが渥美になるともっと粗放で、景気が循環するなら、低い値で勝って高く売り抜けるだけで儲かるカジノ状態だと、喜びさえするのである。金の巡りのいい人々というのは大半がそのようだから、景気が深刻だと眉を潜めている人よりも、何年か一度の金儲けの季節が巡ってきたとしか思っていない人の方が多い。景気を気にしているのは、景気循環で競争が阻害される企業ばかりであり、優れた技術があって一国を代表するような名門企業でも、在庫調整は塗炭の苦しみなのである。

 それを渥美は知らないわけではないが、一番責めを負うべき政治家が財政投資でさらに循環させようという腹でいることも知っているから、抵抗しても変人扱いされるだけだと諦めているのである。循環がソフトになって、技術開発がタイトに行えるようになれば、少しは状況が上向くのだろうが、政治家が循環ありきで社会資本の大整備をやりたがっているのだから、企業もそれにお付き合いするほかないのである。

 将来財界に名を連ねるであろう鵜殿も、循環ありきで話が進むのを気持ち悪がっているが、お騒がせ企業とのレッテルを張られるのが嫌で、政治批判は控えている。今は業界批判に集中し、確固たる企業として基盤を確立することが先決だとの計算もある。もっとも、小さな企業が気勢を上げても効果は知れており、義侠心に駆られて政治と対決する気があっても、参謀たちに止められるだろう。

 鵜殿と渥美は共に渋い顔で財政投資の成り行きを見守っているが、まだ乾いた笑いを洩らすだけの元気がある。これが一言も口を利きたくなくなる頃には、景気の循環を口にして国の借金を増やそうとする者は、誰ひとりとしていなくなるだろう。鵜殿たちに批判能力があることが、せめてもの救いである。希望があるとしたら、彼らが直に関わる経済の足元から、少しずつ変化の波が起こるであろうことだけである。希望を持てる人間こそ、働かなければならないのである。

 

 腐れ縁というのだろうか。渥美と相馬は思想がかなり異なるが、お互いを腹の中で一物だと感じるだけの、敬意を払っている。

渥美から見た相馬は、堅実で会社員らしい会社員であり、金儲けの話を持ちかけると撥ねつけるほど清潔だが、そこが人物の成り立ちとして枢要だと思わせるのである。逆に、相馬から見た渥美は、どこか浮薄で信用ならないほど表情が多彩で、ビジネスで関わるのは遠慮願いたいが、人生の面白みを求めるなら付き合っても悪い話ではないと思わせる。

持ちつ持たれつというやつだ。両極端の個性が、互いに引かれ合うまでもなく、両極端に位置したまま遠望して、いつも通りのところに突っ立っていれば何となく心が安らぐのである。学生時代からの付き合いの二人は、紆余曲折があっても絶縁するほどの重大な転機には返って触れることなく、なあなあでやってきた。

面白くないことは間違ったことだと極論する渥美にとって、相馬は扱いやすい純朴さを持った、愛すべきキャラクターである。

「相馬さん、あなたはなんだかんだと言っていた割に出世しましたが、丸め込まれた気はしませんか」

「いや、特にはそういう感情はありませんね。どうしてですか」

 と、相馬は問い返した。

「だって、私の知る限り製造業で出世するのは、会社批判をしたことのない人たちです。相馬さんもどちらかというとそういう類の大人ですから」

「熱を孕むほど議論もしませんからね、仕事が忙しくて」

「あーあ、やっぱり咬みついたりはしないんですね」

「残念がるなんて、またどういうわけです」

 相馬はからかわれているのに気づいて、苦笑しながら訊いた。渥美はからからと気持ち良く笑い、大人は我慢する生き物だということを熱心に説いた。

 大人は我慢しなければならない。不愉快なことや納得のいかないことは、世の中には数多あり、そのどれもに激していたら、いったいどんな言葉を選択すればその人と穏やかに接することができるか、見えなくしてしまう。

 だから我慢だというわけではないが、一応はポーズを取って、それを相手に意見してもらった方が格好は付く。言葉を選別するのに無限の海から一握の砂を選ぶより、目の前の灯台の光に従ったほうが、無難な選択ができるであろうからだ。安全な航海のために、安全な目安があることは必然といえよう。

 人はもともと争うのに熱心ではなく、争いの果てに何かを見出すことを運命だとは割り切れない。争いという名の果樹に実ったものが、空腹を満たすことはないのである。そこで満たされてしまえば、賊徒と変わらない乱暴を働いていることになるのだ。

 可能な限り争いは回避し、利益を奪取されるのを防ぎ、円満に築き上げた関係を基礎にさらなる発展を期する、といったところが普通人の感覚だろう。ひとつの争いに勝利しても、道理がなければ無限に利益の収奪合戦が繰り広げられるだけであり、心が安らぐ時はない。それが見え透いているからこそ、人は連帯して、争いに対して我が身を突出させないように気を配るのである。

 すべて、我慢する前提として、降りかかる火の粉を払う努力は可能な限りしているのだ。もっとも、大人が我慢できないような酸鼻を極める惨状を呈したりすると、さすがに現状への疑問が湧く。その、これはもう争わないことには権利の保全はできないだろうというところまで、現状を肯定する気持ちがあるのが、出来た大人であり、そうした人との交友は苦痛にならない。だからこそ我慢もできるのである。

 これが、利己的で勝手ばかり言う不出来な者が相手だと、我慢して維持できる関係とは思えないはずであり、自然と関係の解消へと向かう。大人の我慢も相手を選ぶというのが真実であろう。まず、こういう接点なら受け入れると、自ら例示して接触を容易にすれば、取り付く島もないところから接近する苦労を気遣わずとも済む。反対に、是非とも関わりを持ちたい相手には、カードを切って呼び込むことも必要だろう。上手くすればいくらでも関わり方を選べるのである。

 大人は簡単にできるはずの関わりを難しくもし、難しい顔ばかりしていると言うかもしれない。確かに相馬は堅実に身構えるために好意を犠牲にもするし、渥美は楽しみを増やすためとはいえ軽しめられることが多い。万全の備えをしていても人付き合いは難しいのである。

 何か有意なことをやり遂げて声名を高く掲げようとする者は多いが、それをするための準備をしている者は少ない。媚びて気に入られようとするだけでもいけないし、剛直に一刀両断にする気心があっても、諭告できるような高みに立てるとは限らない。力が拮抗して、人一人が拠って立つものを蔑にする中傷や讒言が飛び交う状況なら、余計に個人が身を立てるための順序を狂わせる。まずは力だと、個人の成り立ちを無視して、どう接してほしいのかも明らかにしないまま、人間の本質である闘争状態に陥っては、人間性を回復するのは至難の業である。

 心が大切だということを、この難しい時代だからこそ追認しなければいけないし、それができなければ人は争いから空想上の果実を得て、名誉という空腹状態を満たそうとするだろう。人は愚かで、予定調和に達するようには分かり合えない。必ず他人に疑念を抱き、その疑念を氷解させて凍てついた心を癒さないことには、偽りの中で偽りがどこまで許されるか測るように振る舞うのである。

 偽善が痛みに変わるとき、初めて人は愛情の深さを思う。もっとも、愛情によって救われていたと思えるだけの人の心など、春の風のように変わりやすい。人間関係に疲れて救われたいと願うようになるまで、軽すぎる愛などという言葉には見向きもしないのに、まさに風に誘われるように人を恋うのである。風と風が出会い、人を情緒で慕う気持ちが生まれる。

 その虚しさの深いことときたら、絶望したほうが容易であるかのようにも思える。信じたところで誰も救われないのだと、切実に人を信じようとし、それが果たせないことを誰よりも知っている。闘争に勝利し続けた者は、やがてそのように擦り切れていくのだ。

 できれば争わずにおきたいものだが、人間が争うことは存在が生じたときから決まっていたのである。愛などに縋って生きるのは、弱者が慰めを求めるのとどこがどうちがうのかと、強者の理は語る。だが強者などはいない。人はいつでも迷って確実なものを支えに求め、愛情という強い肯定の気持ちを受け取ることに、万感の至りを見出そうとするのだ。

 相馬は卜部の話を聞いた時、ビジネスの世界には不釣り合いな、情緒が刺激される気分を味わった。死ぬほど働いて、そして一部の者に記憶されただけで、時代は古びて去っていく。遠くの一時代に、卜部は運ばれていったのだと、渥美の話ぶりから思いを馳せると、古色豊かになった今という時の一側面が見える。立っているはずの現代が、じっと見ているうちに色彩を失ってしまうかのように、当て所ないものに思えてきたのだ。

 聞く限りでは、卜部は生き馬の目を抜くビジネスの世界では、個性的ではあっても逞しさには欠ける人だったようだ。相馬は強烈な闘争を勝ち抜いて、満身創痍になりながらも快活さを失わない人々を知っているが、彼らはビジネスに特化して発達してきた個性とはどうしても思えなかった。ところが卜部は、渥美の記憶に深く根を下ろし、彼女からは愛情の存在すら探りあてられそうであった。

 僅かでも欺いても構わないと卜部が考えたなら、渥美は彼女との関係において善処しようとは思わなかったはずである。彼女が提示した信念は、ビジネスにおいて誠実でなければいけないという程度の、誰にでも模倣可能なささやかなものだった。それだけに、どう結びつきを深めるかについて、渥美はもっとも単純に信じることだけを選べた。ビジネスマンとして、人間として、あるいは母親として、渥美は卜部を信じることができたのである。

 ビジネスは日進月歩で、そこに人間を介在させることで契約関係は発展する。新たな関係が生じるたびに勢力図は塗り替わり、そこで働く人間も信念を左右される出来事に数多く接する。人間だからこそ迷い、疑い、安定を求める。それゆえに不条理が生じ、ビジネスの世界を原色の感情の混じり合う仰々しいものにする。

 本当は透き通るような色彩に統一して、気分よく商売っ気を出せればいいのだが、人は生きることに必死になると、阿漕になっても気にすら留めないところがある。誰もが今日を生き抜くことに真剣にならざるを得ないのに、そこに集ってくる原色の感情に流されるなと頼むことができるであろうか。どうしたってビジネスは酷く陰惨な彩を帯びるのである。

 その人間関係の集大成ともいえるビジネスに、相馬は最も堅実な方法で参画しようとしている。疑いもせず、疑われもしない、卜部がやっていたのと同じ方法である。信じることの一点を基点に、世界が大展開するのを待つのである。明日の地図は今日と同じとは限らない。辺境に追いやられていると感じることがあったら、その地図を塗り替えるくらいの覇気は欲しい。相馬はそれを逸る気持ちで気概に替え、自らが恥じずに済むだけの信念としようとしている。傲岸に並み居る者を押しのけてというわけではなく、気概が衰えないだけの確信を得たいが為である。

 控え目な彼がそこまで自分を追いつめているのも、経済の先行きが見えず、自らの立身にも怪しい陰が差しているからだ。守勢に入ればその立身がますます怪しくなる。どこかで踵を返して、何が起きようとするのか見極めようとしなければならない。それをするかしないかは相馬の胸一つだが、男が道楽だけで人生を蕩尽するのは格好のいいものではないし、何かをなすべきだという心情には敵わない。何かに捧げたと思える人生が、最大の報酬になることを、相馬は予感し始めている。

 目に見える形で財を築き、同じく友を持ち、世にもうらぶれることがなければ、人生は大方成功といるだろう。そこまでやり遂げられる人は多くはないが、道半ばまで進捗をみて満足感を得る者は多い。心は常に未来に向かって、大望を持っていなければ苦しい時代には自分を見失ってしまう。

 肌に染み込むような闇のなかを、手燭ひとつで渡っているようだ。志があれば、光明はどんなにか頼もしいか、計り知れない。だが、その明るさを希望と思えるだけの、確証がない場合がほとんどである。明るさを限りなく増して、その光一つで朝日の明るさをもたらすことなどは、見果てぬ夢だろう。ただ、迷いを吹っ切った時には、強い一点の光が総ての羅針盤になる。

 最低でもそれを信じなければ、自分が何者であるかを申し開きするばかりの、うだつの上がらない人生しか残されない。相馬にはそれだけは、望まない者に従属するよりも、遥かに自尊心を傷つける我慢ならないことである。

 大人は我慢できる。自らに関わるものを選ぶこともできる。間口を広く構えた分だけ、人間の関係は広がって、新たな可能性に浴することが適うが、必ずと言っていいほど勇気が試される。怯えて明日をも知れぬ身を、本当に迷妄な袋小路に追い込んでしまうことがないように、自分一人の存在くらいは確かなものにしておきたい。愛情を一身に受けて自らを確信するのもいいだろうし、世をひと跨ぎにするくらいの才覚を発揮してもいい。

 何かをしなければいけない。その何かをするために私たちは働いている。何ができるとも限らないのを、ぐっと飲み込んで自らが果たすのだと覚悟を決めなければならない時がある。確実なものが一つも見当たらないのなら、自分がなるしかない。

 それが、我が時代を生きるということの心意気である。

 

   了   この物語はフィクションです