『刃になれ』 作 石島利秋
1
優れた人間はその資質に見合った生を送れる。そう考えがちである。
三木倫光の脳裏を支配しているのは、自分の有望さを疑わせず、やがては誉れ多き人生を歩むことである。しかし、コネで財団法人の職員になったにすぎない彼が、望み通り威風堂々の生を送るには、何か圧倒的な力に頼らなければならなかった。
倫光は虚心坦懐に関わる人の幸福を祈る種類の人間ではないのだ。それなのに彼は尊大に振る舞い、自分の名誉が絶えず上昇の機運にあることを望んでいる。病的といっていい妄念は、狂気と紙一枚で隔てられていて、果たせないであろう権力への欲求を膨らませていく。
力だ。力が総てだ。倫光は呻くように唱え続ける。
行き着く先は決まっている。一身で火の玉になって正義に殉じるのである。そうでもしないと、一団体職員でしかない倫光が名誉感情を満たすことはできなかった。相手がどんなに強くても、唐突に現れて不意を突けば、必ず膝を折ることを彼は集団生活から学んだ。幼い頃から病的傾向は鍛えられ続けてきたのである。
言うならば禍々しい刃である。彼は集団の先頭に立って、集団の運営を妨げる御仁に突きつけられる、狂気の切っ先になり、それによって名誉が獲得できると考えた。逸脱行為を繰り返す集団にしか、倫光の居場所はなかったのである。
集団は合議で運営されているようにも見えるが、実質はただ走狗を束ねただけであり、彼らが虚栄心を満たすためにだけ、倫光のような凶刃となりうる者が頼りにされている。あいつらに関わると、常軌を逸した判断への賛同を強いられると、周囲の者からは疎まれても、目の前で熱に浮かされたように正義を連呼する集団の一員になれば、倫光のようにいつでも抜き放てる便利な凶器になるのである。
奮闘はしている。自分の人生を生きることに真摯である。ただそれは、思い込みの上での真摯さであり、他人から見れば倫光は愚劣な連中に唆されているにすぎない。もちろん彼の名が上がることはないし、逸脱集団の一部に含まれていることでしか、社会性を感じる機会はない。彼が深刻に生命と同じくらい重んじている名誉は、正義という名の私的制裁として機能することによってのみ、僅かに得られるばかりである。それも、劣悪な環境に置かれた愚劣な者たちの虚栄心を満たすためだけに。
正義感の強い偉丈夫だ。一度でいいからそう呼ばれたいと倫光は思っていた。誰も望みを聴こうとしないし、進んで献身しても、集団はうすら笑いを浮かべて彼ら独自の正義を実現することにだけ熱心で、倫光の誇りを満たすためには彼自身が牙をむかなければならない。居並ぶ論陣の一角をなし、名誉を約束する集団に帰依することでしか、まともに自尊心を維持できないとなると、正義は徐々に私的事情に置き換えられていく。紛れもなく正しいからそれを否定するものを憎む価値がある、という具合に先鋭化していくのだ。
財団職員としての倫光は、汚職などは決してしないが、その異常なまでの名誉感情は自身への評価の浅さにより、ときに凶暴性となって現れる。彼が白目をむいて論駁する姿を見た者は、その論理の支離滅裂さ以上に、異様な成り立ちで人間ができていることに畏怖する。言うところは正義であろうと推測はできるのだが、その正義が奇怪な風習の残る地方の話し言葉のように、どこか共通思念を構築するのをためらわせるのである。もしかしたらこの人は、正義のために怒りを蓄えているのではなくて、自身が正義の本流から逸れることを恐れているのではないか。恐れを隠すための怒りではないかと思わせるのである。
財団内には一人として彼の理解者はいなかった。コネがあった財団理事でさえ、倫光の狂気に気付き始めていた。最近では彼に話しかけた者は、憤怒の形相で睨みつけられるということを聞くに及んで、財団理事はついに立場を固守するために倫光を宥めることを強いられた。
「三木君、君は少し無理をしているのかもしれないね。有給休暇を取って、旅行でもしてきたらどうですか」
倫光は冷たい目線を財団理事に向けた。
「お言葉はありがたいのですが、私は実直に勤務することを誇りに思っています。皆さんがいい加減な情報で私をおかしな目で見ていることは知っていますが、その誤解はいずれ晴れます。私は正しいことをしていると、自負していますから」
「財団の職員さんらは、君のことを怖がっている。このまま和を乱すように振る舞うなら、私も君を推薦した者として休職などの措置を取らなくてはならなくなる。分かるね。そんなことにはなってほしくないんだよ」
「馬鹿げています」と、倫光は吐き捨てた。「正しいことをしている人間が責められて、いい加減な情報で私を窮地に追いやっている連中はお咎めなしなんですか。こんな不条理があっていいはずがありません。私は正しいんです。間違っているのはほかの連中です。そこをはっきりさせていただけないのなら、理事のお言葉といえども聞き入れるわけにはいきません」
「分かった、猶予を上げよう」と、財団理事は静かに宣告した。「これ以上面倒をかけるつもりなら、理由なんて何でもつけて放り出すところだが、一週間だけ頭を冷やす時間を上げます。それで自分の置かれた立場が分からなければ、その時は縁故があることを措いて処分させてもらうからね」
倫光は目を白黒させて、奥歯を噛みしめた。小鼻がぴくぴくと広がり、押し込められた憤怒の形相は財団理事を気味悪がらせた。財団理事が去った後、倫光は怒りの矛先が財団職員たちすべてから世界へと拡散した。正しい人間が出鱈目な仲間意識によって排除されようとしていると、彼は認識している。正しいことをできる人間がいなくなったら、財団内は不正をする者が跳梁するだろうと、先々を想像して怒りで青くなった。
なぜ世の中の人間は仲間意識を悪用するのだろうと倫光は苦々しく思った。自分が付き合っている清潔で誇り高い人たちは、決して間違った情報に基づいて仲間外れを作ったりしないと、理屈を並べる。彼が意見を述べれば、立派な人物であることを認め、盛大に拍手さえ送ってくれるのだ。それに比べたら、彼を爪弾きにしている財団職員などは、よほど狭い視野で保身ばかり考えているように思える。
しかし、その怒りは職員として生活を成り立たせる倫光にとって、涙を呑んで堪えねばならぬものだった。財団理事に逆らえば、彼がどんなに正義を訴えても黙殺され、職を失うのである。絶対に自分が正しいと我を張れば、財団理事と衝突してさらにひどい醜態を演じることも予想される。
倫光は議論が好きであるが、得意ではないのである。すぐにかっとなって頭が真っ白になり、何をしゃべっているのか分からなくなる。意識が途切れかかった後に、拍手で迎えられることは奇跡的な幸運にすらなりえた。彼は正義感を満たすために、世の中の不正に敢然と向かっていく意志に溢れていたが、学校では劣等生であり、友人もできなかった。彼を迎えてくれるのは、素性の知れない仲間たちだけだった。彼らは何の仕事に就いているのかもはっきりしない、怪しい連中だが、倫光を最大限に評価してくれるように思える。彼がこの先も正義感を保って生きていくには、得体の知れない仲間との連帯感を強め、集団として独立を果たし、いい加減な情報で人を虐げるような卑怯な連中に対抗しなければいけなかった。
それは、この世で最も安定した世故のようですらある。誉れが欲しければ最大の派閥に与するほかないし、そこで誉れを得れば、その集団の存在感で圧迫してくる腹立たしい者どもを退けられそうである。少しでも大きな集団を作って、ろくに口も利けない劣等者としては、擁護してもらうのと引き換えに、いつでも刃となって敵対者を斃す覚悟がいる。どんな優れた人間でも、不意を突いて反撃を許さなければ、あっけないほど簡単に屈服させられることを、倫光は長い不遇の歴史の中で学んでいた。
彼には凶刃となって驕り高ぶった連中に脅威を与えることが、たまらなく魅力的に思え始めている。日に日にその衝動は大きくなり、一週間の自宅謹慎を命じられたことで、彼の心理の底辺を突き破って萌芽したようであった。不気味な茂みが倫光の精神を黒々と染めていく。
そうなって初めて、彼は安息を得られた。身を引き裂くような怒りが静まり、不遇感が我がこととは思えないほど遠のいて感じられる。静かに息を調え、彼の正義の履行であるところの、意味不明の論駁を可能にするところまで意識を研ぎ澄ませる。訳の分からない言葉が彼の脳裏を奔った。
気分は昂ぶって、その論駁の意味を理解してもらえなくても、彼の存在を許してくれる拍手があれば、すべては正当化されるはずだと考えた。彼の正義は実行され、総てにおいて優先され、彼は巨大な力の後押しを受け、英雄として尊ばれる。大風を受けて舞い上がる紙片のように、人間存在が正義の名の下に浮揚するのだ。倫光はそれを思うと、鼻血が出そうなほど思考が乱れて鼻の奥が熱くなる。
紛れもなく自分は正しいが、それを蔑にする財団の組織は正義を基準にしていないと倫光は思った。金の心配がなければ卑小な財団職員などはすっぱりと辞してみせるのだが、彼は空腹感というものをよく知っていた。ひもじい思いをすると、彼の大得意の正義が鈍ることを知っているのである。現実の圧倒的な重みに、正義感が屈服させられる苦痛は、彼の精神を混濁させた。
方向違いの憎しみに転嫁することで怒りは収まったが、意識は黒々と染めあがって、彼を凶行に走らせようとしている。自宅のアパートで鬱々とテレビを見ていた倫光は、テレビ・リポーターの早口の実況を聴いて、目つきを鋭くした。
「私の潔白は、裁判で証明されると思います」
と、涼しい顔で被疑者の甲斐久則が報道陣の質問に答えていた。揉みくちゃにされながら報道陣をかき分け、某市市長の彼は尊大な態度で画面から消えた。
倫光はその中継が途切れた後も、呆然とテレビ画面を見続けた。なぜ過ちは繰り返されるのか彼にはさっぱり分からなかった。こんなにも自分が正義感に燃え、身近な不正を瀬戸際で食い止めようと歯を食いしばっているのに、狡猾に人を騙して地位に就いた人間が、それを咎められることはない。裁判になったって、受託収賄程度の犯罪は執行猶予が付いてお仕舞いだ。たっぷり旨味を吸って、恩も売っておけば地位が揺らぐことはない。倫光はその事実を思うと、自分が自宅謹慎などを命じられていることが解せなくなって、ご飯を咀嚼するのを一時的に止めた。
まずい飯だ。水が悪いせいだろう。都会で上等の飯を炊くのは至難の業である。倫光はそれすらも世の中の不正義の一つに数えている。不快感が背筋を這いあがってくるなら、自分はそれを阻止しないことには、まともに生活を送ることを妨げられているような気になるのだ。あらゆることに容喙して望み通りの方向に矯正しないと、世の中の人間は苦痛の中をのたうちまわらなければいけなくなる。彼の思想では生活の不便は巨大な悪の差し金のように錯覚されている。
冷静になろうとすればなろうとするほど、正義の心が折れかかっていることが悔やまれる。倫光は悔し涙さえ流すかもしれない。胸が熱くなって、一生涯働いても中間管理職止まりであろう身の上を激しく疎む。正しいことのできる人間が支配しない世の中は、飯もまずいし、騙し合いで疲れ切って、彼を遠ざけている財団職員のようにいい加減な情報を鵜呑みにするのだと、呪詛の言葉を思い浮かべ、その言葉が整然としていることで勢いを得る。
こんなにも理路整然と世の中の過ちを指摘できるではないか。
息も切れ切れになるほど倫光は変な笑い方をし、自分が有能になったかのように、物事の理屈を再構成し始めた。彼を心地よくし、楽しくし、誇らしくするものが正義なのだ。これほどまでに欲少なく、世間に正義が行われることを渇望している人間が、そう簡単に忌み者にされてたまるかと毒づいた。間違っているのは仲間外れにしようなどと考える、他の連中だと彼は強く断定した。
しかし、誰もそれを追認してはくれない。一人っきりで夜は更けていく。異常な憎しみを抱えた人間として、疎外されながら生きていくしかない男が、大それた英雄願望などを持ち続けるから世間の笑い物にされるのである。倫光が自認する正義なるものは、自己愛の歪んだものであり、自己保存の欲求がなければ誰もが忘れて生きている詰らないものである。彼はそれが至上にして唯一の威光であるかのように信じ、それを背景にすればすべての願望が実現するように、そそのかされ、あるいは訓練され、それを過ちであるとは認めないまでになっているのである。
彼は、こんな時こそ仲間が手を差し伸べ、不正義に対して積極的に反論ののろしを上げてくれるはずだと、期待をかけている。もちろん彼はそうやって、あるかないか分からないような集団の存在を信じるように仕向けられてきたのである。集団かといえばそうであろうし、集団でないといえば確かに存在が怪しい。どこにも意思決定機関がなく、責任も取らないから、漠然と怒りの矛先が誰かに向いている時しか団結できない。怒りを食い物にし、その団結力を流用しながら、団体としての存在感を確立するという手法は、左翼運動華やかなりし頃には随分と見られたものである。
あらゆる社会的矛盾に食い込み、それへの怒りを煽りたてることで、団体としての結束を強めるのである。能力的にも、身分的にも、他の集団に見向きもされないようないかがわしい人物が、唯一怒りを蓄えているという事実を介して接近してくるのだ。過ちを疑い、それへの是正を期待しているにすぎなくても、破壊しろ、補償させろとけたたましくまくし立てる扇動者によって、社会への不正義に対する巨大な断罪の場へと変貌するのである。
倫光が見てきた仲間というのは、実はそんな扇動者の一部にすぎない。意識が真っ白になるほど興奮して弁駁していたことが、評価されたのではなく、扇動する場にふさわしいからと喜ばれたにすぎない。ところが彼はそれを大きな愛情に包まれているように誤解した。正義感に燃え、ただそれだけしかない愚者が世の中でキャスティング・ボートを握ることなどありえないが、彼は仲間がいれば世の中は大きなうねりに包まれて、明るく爽やかに福々しいものに変わると信じた。ただ信じるだけなら罪はない。彼はそれを他の人間に強要しようとしたのである。
こんなにも素晴らしい意見があって、是非ともそれを支援すべきだ。そういうきな臭い宣伝は混沌とする世の中なら多く見られるが、彼は自分がそれをしていることにさえ気づいていなかった。ただ熱中し、浮かれ、正義の感情が満たされることの心地よさを、うるさいほど喧伝した。だから財団職員たちに煙たがられ、あまりのしつこさに遠ざけられたのである。
しかも、彼はそのことの非に気づいていない。人々の数だけ信じるものがあり、それぞれ別個の人生を歩んでいることなど、彼にはとっては関係なかった。圧倒的に支持されるべき正義があり、それが誰にとっても快楽の中枢を刺激するものと、思い込んでしまったわけだ。
無論、正しいことを正しいと言える清々しさは必要である。幼い頃には、自分とは別に他の人格が存在し、協調するために正しいことをすべきだと教えられる。他者を前提にしなければ正しいことが存在しえないと、観念的にはすべての人間が気づいているはずである。
ところが、他者と自己の区別が曖昧などころか、全く区別のつかない社会性の欠落した人間も稀にいる。親や兄弟といった、確実なコネクションだけが社会の基礎であるというだけで、袖振りあう仲といった微妙な関係を理解できないのだ。倫光はそういう人間だった。正しいことが厳然と存在するが、それを共有すべき他者はどこにもいない。彼の観念の中にすら存在しなかった。彼が砂漠で水を欲するように飢えているのは、人の愛情などではない。観念の混乱に染み込んで継ぎはぎを一体化させてくれる、思い込みの確かさだ。彼は観念を最新のものに差し替えるという作業を一切しない人間だった。
したがって観念には常に現実との齟齬に悩まされる部分が生じる。倫光が恐ろしい憎悪で回復したがっているのは、いったん論理的に完結したはずの観念の世界が、他者によって傷つけられていると感じるからである。裕福で、満たされて、愛されてすらいても、他者がいる以上は観念は一定のところに留まるわけにはいかない。それが理解できていない。
彼は幼い経験だけで完成させた、観念の世界の確かさを認めてくれるかどうか、その一点で人の正しさを測っていた。彼の世界観を否定する者は、安楽で心穏やかな世界への反逆であり、一人として許さないことが今後の安心感を決定すると思っているのだ。大人なら稚拙な論理のすり替えではないかと嗤うところだが、彼は異常に上気した顔で睨みつけ、その最低限のコミュニケーションを拒んだ。財団理事を始め、彼の異常性に気付く人間がいても、彼の観念の世界は幼稚で脆く、およそ他人との交渉ができる状態ではないことまでは指摘するには至らない。自分のすることには自分で責任を負うと申し合わせがあるのが通常だから、財団の事務をして挨拶を交わす程度の、ごく普通の隣人でいる限り、多少おかしな思想にかぶれていても、上手くやっていくことを優先するものだ。
初めは財団職員たちは、言動に多少おかしなことがあること以外、気にも留めなかったが、意味不明の論説に賛同を求めたりされるうちに、倫光が社会的な障害を苛んでいることを気取った。仕事でミスをするわけではないから、風変わりな人間が一人紛れ込んでも、目くじらを立てるほど荒んだ人間関係ではなかったのだが、目つきだけは明らかに彼への認識を冷たいものに変えたことを物語っていた。
財団職員たちは見限ったのだ。上手く人間関係が築けないことに気づけば、思想というものは大抵修正を迫られるものである。彼らはそんな自然的な調整弁の存在に期待をかけ、倫光が自らの非を悟れるように仕向けたわけだ。徹底して阻害しようなどという気は始めからなく、ただ不幸にも自分を見失っている人間が、冷静になる機会を設けたかったというだけのことだ。
だが、倫光はそれを人格への挑戦と受け止めた。正義を愛する彼が、正義に殉じる事を冷笑で迎える、容赦ならない人種の暴虐でしかないと考えた。狂気で頭がくらくらするほどの怒りを、倫光は隠そうとはしなかった。怒らなければ、それが侮辱であることに気付かない人間が圧倒的に多いと、世間を格段に下の存在であると見ていた。何より彼の正義感を理解しない世間など、居もしない彼の仲間との団結により矯正されるべきだと思っているのだ。
彼の怒りは純粋に、彼が築き上げた内なる帝国のモラルとして、迸るように罵声へと変わった。財団職員たちは絶望的な愚昧さを知り、目すら合わせないようになった。財団理事によって自宅謹慎が命じられたのは、そんな時である。
2
謹慎中の倫光が自宅ですることといえば、掃除をして、食事を作り、クラシック音楽を聴くことだけだった。ショパンの音楽を好む人間が、すべて穏やかで温かい気持ちを軸に事に処するわけではないのである。むしろ、音楽は情動を徒に大きくするだけの、情緒の蛇口を緩める存在にすらなりえるのだ。彼は謹慎に入った当初から依然として、美しい情緒を持つことを自らに課し、論理的正当性が僅かでも危難に晒されたことを納得できずにいる。音楽は、彼の怒りを相対的に醜い感情のように映し出した。
一見するだけなら、家事をする彼は自分の立場を受け容れた従順な人間のようにも見えたが、腹の底で怒りが凝固したように、息苦しさを抱えていた。謹慎も六日たち、堂々巡りした感情はついには鉱物のように内面に居座るまでになっていた。地質学的な目を向ければ、ありふれた土壌に必然的に生じた鉱物であり、その存在が否定されていることを除けば、特に変わったところはない。怒りが排出されることを望めば、まだ倫光は正常さを取り戻す余地はあった。
だが、彼の貧弱な自尊心は、いったん傷つけられたと感じた相手を許すことはできなかった。一度でも例外を作ってしまえば、それからは何度でも圧迫されると考えているのだ。押しのけて獲得した陣地には、一歩も踏み入れさせないという、子供染みた反感をもっていた。
まるで絶望的な状況にある砦の守備兵である。何の保障もなく、何の喜びもない、孤独な戦いをやり遂げることでしか自分を誇ることができない。彼は普通の人間が早々に折り合いをつけて安定的に推移させることを望む局面で、立て篭もって信じる正義が果たされることを望んだ。すなわち、彼の正義の弁舌が受け入れられ、うっとりとするように彼の存在を熱望されることが望みである。
馬鹿げているが、他人に価値観を押し付けて生きる人間は、その価値観の絶対性を信じないことには、精神の安定を得られないのである。僅かでも隙を作れば、そこから世界観に亀裂が生じ、外界から瘴気が染み込んで恐ろしい熱病に罹る。倫光には外界との折り合いの付け方など、誰も教えてくれなかったし、その必要性を説かれる以前に、世界はこんなにも美しいという具合に鼓吹され続けた。世界に相並んで彼も美しくなる必要があった。
さもなくば、腐臭のする人格に独立した価値を認めるようなもので、美しいものを愛する倫光がそれを許すことなどありえなかった。醜いものへの侮蔑と、美しいものへの憧れという、二極の方向性から彼の人格は出来上がっている。至って単純である。醜いものを否定して、美しいものに転化すれば、何もかもが上手くいくという危険な暴力装置を抱えているような人格なのだ。そんな人格で世渡りができるなど、普通の人間は考えないものだが、温室育ちの彼はそれが当たり前だと信じた。
異様なまでの潔癖性が宿った。彼は綺麗好きである。便器に息を吹きかけながら、丁寧に丁寧に磨き上げる。このような性向は称賛すらされるものだが、他の人間への嫌悪感に発展すると、病んでいると指摘されることになる。彼の精神も生活の全般が清潔に保たれることで、限りない安心感を得て、鋭く研がれていく。他人には自信に溢れて傲岸なようにも見えるが、現実は何の資質も獲得できずに理想との狭間で揺れるだけの、哀れさを糊塗しているにすぎない。潔癖だが、どこかずれておかしくなっていると、彼の態度全般は物語っていた。
掃除を一通り終えると、飯が炊き上がって彼の鼻腔を刺激した。彼は居間に食膳を運び、二十五インチのテレビをつけて食事を始めた。お昼のニュースが始まったところだった。
「先日逮捕された甲斐久則容疑者が、本日午後保釈されます。企業と行政との癒着の問題は、またしても首長の逮捕という形で結末を迎えましたが、どのような受託収賄が行われたかは依然として不透明で、捜査のメスがどこまで入るかが注目されます。これによりますます世論の風当たりは強まり、政府も何らかの対策を講じることが期待されています」
トップ・ニュースは、甲斐久則の受託収賄の容疑だった。地方行政の首長が企業と癒着する例は後を絶たないが、今度も典型的ともいえる利益誘導が行われたようだ。テレビ画面に映ったこの光景に、倫光は冷たく光る眼差しを向けて、ご飯を咀嚼した。
飯が不味い。何かが間違っていて、それを批判し得る自分が生活上の不利益を被っていると考えた。正常に機能している精神なら、そのことを誰に主張すればいいか判断がつくのだが、倫光は唾を飛ばして論駁することで精神の均衡が保たれるのである。無力な人間が、無力であること自体に怒りを感じることはあるものだが、彼はそれを断行されるべき強大な正義が控えているように感じていた。無力な人間が圧倒的な支持を受ける正義という紋所を持ち出すことで、一時的に正義を代行する強力な執行吏になりうることを、彼は不遇の歴史の中で学んでいた。
正義を執行すれば、常に称賛を浴びて日の当たるところを歩める。扇動で賑々しい世の中を、少しでも権力らしきものを手にしようとする者には、正義を背景にした怒りというものはとても魅力的に見えるものだ。倫光もポーズとしての正義感情に惚れ込んでいた。他のものを権力の原動力にすることを、彼は拒んだ。圧倒的多数の人間に支持される正義感情を自らが率先して語れば、人々は間違いなく自分を称賛する。
彼の稚拙な思考回路は、正義が委ねられるものであることを失念していた。あらゆる局面で無秩序に何の脈絡もないところから正義が語られても、人々は利害関係を疑い、容易にはそれへの賛同を示さない。害悪に毒されている人であったり、代弁することを職業にしている人だったり、正義は何らかのきっかけで委ねられないことには、いくらその正当性を主張しても空回りするだけである。自分は正しい、正しいから主張する機会を得られる、と考えるのは浅はかだが、正義を委任されるだけの社会的地位のない者は、往々にしてその過ちを犯す。
言うところは正しいのかもしれないが、誰もその正義が履行されることを期待していない、という状況が、倫光のように英雄を志して挫折してきた者には理解できないものらしい。正義は正義で絶対的に存在し、それを背景にする者は常に正しいというロジックを用いないと、正義によって巨大な力を言葉一つで左右する快感は味わえなくなってしまう。それが惜しいがために、正義はどこまで行っても正義だから、怒りを感じたら即座に代行するのが正しいのだと説明するのだ。
社会性などはあったものではない。人にはそれぞれ使命があり、それによって従事する状況を変える。たまたま知り得た者が火を噴くほど舌鋒を揮うから正義が保たれるのではないのだ。最も重い使命を得た者が、何を口にするか。そこに焦点を合わさないと、物事は進展しないのである。例えば犯罪に怒りを感じるのは当然だが、最もそのことの重要性を認識すべきは犯罪者自身である。犯罪の事実を自供するかどうかが、裁判の行方を左右するのは、自然な発想に基づいているのである。怒りを癒すために私罰を企てたりすれば、正義が執行される機会を永遠に失うのである。
使命を帯びるのは何者か。それが結果を左右することに、不満を並べるのが倫光のような身分もなにもない男だと、失笑を買うだけということが、彼には分っていない。あらゆる正義が執行される機会は、水面に落ちた水滴のように隅々まで波紋を広げるものだと、信じて疑わないのである。誰でも正義を主張し得るという歪んだ発想は、正義が常に歴史を築いてきたという誤った認識に基づいている。誤りである。歴史はそれぞれの人に委ねられた使命が、最後の一線で決断を重ねることで築かれたのである。ときには正義が犠牲になったこともあった。正義を掲げて敗北した者もいた。それを理解していないと、誰に正義を左右する使命が与えられているか冷静に判断する機会を失し、怒り狂って世の中と協調できないまま差別を受ける。謂れのない差別などではない。誰に使命を与えたのか、世の中の人々は知っているからである。
使命もないのに、腹立たしいから、客観的に正しくないからと、いくら論駁しても虚しいばかりである。世間にとって語ることを期待していない人が出しゃばっても、煩わしいだけで、誰も耳を貸そうとしないのである。語るべき時に語ることと、語れる機会を逃さないことは、明らかに異なる。いくら語っても、使命を果たす者の言葉でなければ、どのような利害があるのか分からないし、たとえ利害があっても、使命感に駆られて語る言葉には及ばない。そこには世間が何を期待して、使命を委ねたのか、明確なスタンスがあるはずだからである。
したがって、犯罪者が憎いからと厳罰を下すことを被害者が望んでも、世間がそれを使命として委ねたのでなければ、多くの中の意見の一つでしかない。法的安定性を望む人もいれば、同種の事件が未解決に終わらないことを願う人もいる。世間が最大の解決を望むのなら、語るべきは犯罪者自身であり、語るべき使命を帯びるのも彼らであり、決して犯罪者を憎む犯罪被害者が憎しみをまくし立てることを望まれているわけではない。
その社会性がない者は、正義というものに過剰によりかかって生きようとする。最も使命を帯びた者が語れば十分に正義感情が満たされるのが普通人だが、正義を楯に罵ることに喜びを覚える者は、正義の感情が大多数に支持されることまで期待し、それが果たされないと支持しない者を憎みさえする。社会が持ちつ持たれつであることを理解していれば、それぞれが支持を訴えて口を利く機会を確保しようとするよりも、使命を帯びた者が代表して口を利く方が効率的なことを知っているはずである。今口を利かなければ重大な利益が害されると、そこまで追い詰められるまで口を利くなということではない。擁護すべき利益があれば、わざわざ口を利かなくても守られるのが常識的な世間なのだ。
念を押すために語るのと、利益の最後の砦として口を利くのとでは、その切実さは全く異なる。切迫さが伝わらないと利益が守られない世の中でもいいと、一度でも等閑にしたことがある人なら、確かに激しく駁さないと気が休まらないだろう。だが、大抵の人は無力で保護が必要な幼少時代を経験しており、誰がどのような侵害をする可能性があり、いつその擁護を訴えれば安泰が確保されるか知っているのである。俺も、俺もと次々に発言する機会を求め、永久にしゃべりっぱなしという状況が異常なことくらいは分かるだろう。
それぞれに役割分担し、それぞれの幸福を追求し、それぞれのスタイルで生活を送っているのだ。正義の感情が湧き上がれば、それは世間と共有されるはずだと、信じられないという方がおかしいのである。怒りがあれば、多くの人が同様に怒っている。それが推測できれば十分なはずであり、自ら怒りを駆って論駁をしなければならないとしたら、何のために社会があるのだろう。倫光にはその社会性が致命的に欠如しており、自らが怒りを表現しない限り、世の中の人々は怒りを共有できさえしないと侮っている。それが彼にとっての正義感情であり、表現されない限り無形の存在感しかないと思っているのだ。
もし彼の深刻な社会軽視の姿勢が財団理事あたりに知れれば、私はこんなにも君のことを心配していると嘆くところだろうが、倫光は正義の感情は目に見えるように怒りの言葉となって世間に流布されるべきだとし、仮初めにも人の温情を信じようとはしないだろう。人の優しさなど経験したこともない無風状態の中に置かれてきた倫光が、多少の混乱を伴った怒りを正確に他者の中に見出すのも無理だろう。怒りは彼自身の個人的な怒りであり、同じように個人的に培われるべきもので、飽くまで社会のものではないのである。社会全体に怒りが共有されることなど、人間を信じられない彼には膨大な労力が必要だと思われるのである。
人間一人がいかに無力かを、彼は知らないようだ。無力だからこそ他人を信じるし、信じなければ様々な不都合が生じるのである。ところが他人を信じなくても、唐突に危害が加えられるわけではなく、信じないことを責められるわけでもない。社会性がなくても、その怒りが社会全体に有されることを想像はできるし、それは猛烈なまでの運動によって可能になると錯覚しても、特に罪はない。問題はその怒りが何のための怒りか理解できない普通人に、何の使命に基づいて語っているのか訝られた時に、怒りの源泉を脅かされたように感じることである。
自分の発した感情が受け入れられないと分かった時の人は、驚くほど憐れである。男子に生まれたからには、と世間に向けたポーズを要求されるのとは裏腹に、そのポーズは受け入れられないだろうと諦めてしまうとしたら、社会性などはそこで頓挫する。倫光はまさにその瀬戸際にあり、自分の怒りをおっかなびっくりで引っ込めてしまうことに、限りない苛立ちを感じているのだ。怒りは怒りだろう。怒りはぶつけてこそ威力を発揮する。そう思いたいのは分かるが、社会的な身分も使命もないのに、発した感情が総ての人を代弁しているなどと信じる人がいるだろうか。
誰ひとりとして、何のための怒りなのか理解できないのである。やはり、使命に裏打ちされた言葉以外をすんなりと受け入れるほど、人々は暇ではない。個人的な利害を抱えて怒り狂う人は随分沢山いるし、場合によってはそれが不適当なこともあるかもしれないが、社会が共存のために必要とする倫理観を外れていないのなら、どこにも使命はないわけである。緊急不可避的に怒りを発信しても、社会がそれを必要ないことだと認めれば、耳を貸す必要はないと判断されるのだ。
社会は個人的な怒りを共有するための器としては不適切である。もっと個人的な集団に帰依して、そこで満足を得るほかない。社会がそんなにも個人を蔑にしていいのかという発想があるかもしれないが、社会を信じて委ねるべきを人に委ね、委ねられれば快く引き受けてきた通常人が、住みにくいと感じるようではいけないのである。私怨を晴らすために社会はあるのではない。
社会に帰属していると感じられない、倫光のような男は、頑健に打ち立てられたポーズを真似ようとし、当然のように失敗する。人一人は無力であることを知らなければ、強がりにしかならないからだ。もちろん社会が温情に欠けるということではない。社会に帰属し、他の生き方を選べない人間を信じるようには、倫光のことを信用できないだけだ。
少なくとも、彼は何か別のことを考えているのではないかと思われるような、虚ろな目をしている。財団職員らに爪弾きにされて意気阻喪しているのではない。彼が人間本来の感情だと思っているものが、誰にも理解されていないと感じるからである。実際そうであり、彼がどれほど正常に怒りを持っても、彼が社会的にどのような位置にあるのか推し量る術がなければ、おいそれとは賛同できないのが普通の人間である。要するに、社会性なき者は、社会にどのように関わるべきか知らないし、──それは使命を知らないということである。──それが他人からの信頼を決定的に損ねることにも気付かない。
一般人は無知で無責任で情報を持っていないから、情報を持っている人間の傘下に入って従属すべきだ。そこまで歪曲化できると、社会などは存在しなくても不便さは感じないのだろうが、一般的には社会がなければ日常生活は混乱と剥奪の連続である。申し合わせて最低限の権利が守られるようにしないと、比較優位に立って脅迫しようという碌でもない人間ばかりになる。倫光にはその不都合さが、観念的にも実際的にも理解できないのである。狂人のごとく駁していれば、正義を蔑にするような連中は必ず怯んで、なにもかも思い通りになると経験的に把握しているのである。
実際は誰からも信用されず、孤独さを紛らわせるために怒りの感情に縋っているにすぎないのだが、倫光はそれを自分だけがひと際勇敢だから怒りを口にできるが、荒んだ世の中のせいで人々は正しいことを意見するのをためらっていると見ているわけだ。まったくもって愚劣である。彼の信じる正しいことというのは、犯罪者を皆殺しにしろとか、友愛の感情で皆で輪になろうとか、子供染みていて善良な大人には敬遠したくなるものばかりである。使命もないのに喋りたがるだけ喋って、それがもたらす結果には興味がないというのは、社会を信じる者にとっては迷惑以外の何物でもない。
倫光は女の子に生まれて、必死の論駁に存在の浮沈をかけているというのなら可愛げもあったろうが、大人の男が使命も果たさずにおしゃべりに夢中になっているのは、見栄えのするものではない。彼も豪胆な男には憧れていて、正義の感情を蓄えて怒りの弁駁をする雄姿には、自ら頼もしさを感じてはいる。ただそれが、余りにも荒唐無稽で社会性がなく、物笑いの種にしかならないというだけの話である。
それでも親は彼を可愛がっていて、頑張り屋のいい子だと評している。論駁が意味不明で、大半の人に疎まれているという事実には無頓着で、緊張がほぐれて場数を踏めば、いくらでも活躍できるはずだとみている。親の贔屓目とはいえ、正義感が間違った方向に発達したのは、正義に酔う旨味を教えたからである。常識が欠落した子供には、正義などは教えてはならないのであるが、正義感を背景に威風堂々としているのが男子だと躾けたのである。
ここまで倫光が深刻な社会性の欠如をみせるとは、親は想像ができなかったに違いない。優しくて、正義感が強くて、人の輪を大切にする模範的な子供だと、親の目からはそう見えたに違いないのだ。だが、社会では秩序からはみ出た劣等者であり、そのことが本人にも薄々自覚できるようになっているから、荒れているのである。こんな滅茶苦茶な理屈で他人に食ってかかる姿は、親からは想像がつかなかったであろう。
愛情なんていくらあっても人は歪んでいくのである。大事なのは信じる心だ。社会を信じ続けるものは社会に守られるし、人を信じる者は他人からも同様に信じられる。翻って倫光はといえば、社会などは蔑視しているし、自分の弁駁に称賛を贈る者以外は信じようとしない。何不自由なく育って、愛情もたっぷり注がれたにもかかわらず、彼に社会や人を信じる心を教えてやれなかったのである。
こんな欠陥のある人間に使命を与え、弁舌に期待をかけるほど社会は落ちぶれてはいないだろう。使命を帯びた者が優先的な発言権を得るのは、忙しい世の中なら当然だし、効率的に権利関係を整理するには、誰が何を望み、その結果を誰が引き受けるかという要諦を押さえなければいけない。倫光のように、何の脈絡もなく、ただ怒りの感情に従うのが心地いいからと牙をむく狂犬には、この世間に居場所はなさそうである。
3
一週間ぶりに出勤した倫光は、ぎらぎらした眼光で同僚を睨みつけ、威圧した。同僚たちは一様に苦笑し、倫光を避けた。ただ彼も馬鹿ではないので、誰を攻撃して誰に屈すれば地位が維持できるのかを知っている。
財団理事に呼び出されると、これ以上はないという神妙な面持ちで出向いた。財団職員たちには拭い去れない腹立たしさを感じてはいるが、財団理事にだけは胡麻をすっておくだけの価値があると踏んだのだ。
腰が低かった。
「申し訳ありませんでした。以後このようなことがないように注意します」
倫光は意外なほどあっさりと謝罪した。怒りで頭の奥が冷えていて、一秒が何万秒にも感じるくらいに集中力が高まっている。彼はこの不本意な謝罪の瞬間を忘れないだろう。財団理事への尊敬の気持ちは微塵もない。何しろ倫光の演説を拝聴するだけの恭しさがないからだ。財団理事のほうも倫光を特別な価値がある人間だとは見ていない。
「よろしい。一週間ですっかり落ち着いたようですね。いやあ、心配しましたよ。三木君のことはくれぐれも頼むと言われていますからね。退職を勧告するようなことにならなくて、本当に良かった」
「ご心配をおかけしたことが悔やまれます」
と、倫光はどこも見ていない目で、直立不動のまま詫びた。その表情は無言で責めているようでもあり、諦めて投げだしたようでもある。財団理事は目じりを下げると、穏やかに諭した。
「私も君が仕事に全力を投じられるように、環境を作っていかなければなりません。なぜ君が仕事に打ち込めないのか考えてみました」と、壮年らしく余裕を見せる。「恐らくは妻がいないから苛々するんでしょう。若者というのは往々にしてそういうものなんですよ。そこでです、お見合いの席を設けますから、この機会に所帯を持つといいでしょう。三木君にふさわしい女がいますから、大勢子供のいる幸せな家庭を作りなさい」
倫光は絶句した。いきなり結婚を勧められるとは想像していなかったのだ。過剰に研ぎ澄ました気持ちが、隘路に迷い込んであちこちにぶつかっているような感じだ。冷静になろうとしても、自分の身に起きることが理解の範疇に収まらないという悲劇は、倫光が立ちふさがる者を正義感で滅多打ちにするイメージに焦がれる限り不可避だが、この時はものの弾みで喜んでしまいそうになった。頬が緩んだ。
「おや、嬉しいようですね。やはり見込み通りでしたか」
財団理事は闊達に笑った。性的な欲求不満が情緒をおかしくしていると見立て、それがあながち間違っていないことを見て取ったのだ。すべてがすべて真実ではなかったが、大部分は倫光の凶暴性を言い当てている。倫光は不意打ちを食らって、すっかり骨抜きにされたようにだらしない体をなした。
「お任せしたいと思います。しかし、私に結婚は早いのではありませんかね」
「早すぎるということはないでしょう。こういうのはきっかけがあるときにまとめて面倒をみるのが一番手っ取り早いんです。同僚と揉め事を起こすくらいの元気があるなら、夫婦喧嘩で消耗していたほうがよほどいいでしょう。最近の夫婦は仲が良過ぎるから子供ができないんです。我を通そうとする意地のぶつかり合いこそが、夫婦になる醍醐味ですよ」
「はあ」
と、満足感で気の抜けたような相槌を打った。倫光は結婚への憧れがひときわ強い男であり、正義の感情に執着する原点として、絵に描いたように幸福で満ち足りた家庭生活は重大な説得力を伴っている。女との出会いを演出できるほど気の利いた遊行をしたことがない倫光にとって、見合いの話は願ってもないことだった。
運が開けた。そう思った。
何も器用に立ちまわって女の気を引かなくても、正義感の強い人間には向こうから話が舞い込んでくる。彼はそのように考え、既に目的が成就したかのように浮かれた。その愚かしさを指摘する者があっても、今の彼はにやつきながら自慢話を延々と繰り広げる気満々である。常軌を逸した人間には、常軌を逸した喜びがあるのである。その浮かれ方は、この世の芥を残さず捨て去ったような、悟りの境地すら匂わせている。
財団理事は純朴な若者を見るように目を細め、見合いの話を勧めることを約束した。
二週間後の休日に、倫光は創業百十年目を迎えた老舗ホテルでお見合いをした。相手の笠間清子は、猜疑心の強そうな神経質な顔つきだったが、家庭生活に入れば貞淑な妻を演じそうだった。倫光は一目で気に入った。人柄に惚れたのでも、容姿に見とれたのでもない。彼の正義が盤石になることに愉悦感を覚えただけである。
両家の付き添いが離れて、清子と二人っきりになった倫光は、行儀よく背筋を伸ばし、優しい声で丁寧に問いかけた。
「清子さんは、どのような家庭を作ることがご希望ですか」
清子は瞼をぴくぴくさせて、何やら不承不承答えようとしたが、それも随分とゆっくりだった。
「夫婦が互いに理解し合って、どんな時も協力し、子供が間違ったことをした時は厳しく叱ります。難しいことはできないでしょうから、それくらいのことをするだけで精いっぱいでしょうね。できれば、温かい家庭がいいです」
倫光は大いに満足した。紋切調の詰らない答えこそ、彼の理想とするところだからだ。明るく楽しくなどと言われなかったことに、願望の成就が接近したと感じた。
「私も、可能な限り厳格な父親になりたいです。頼りになる父親を中心に、賑やかな家族が集うというのが、理想といえば理想です」
「あなたに一家の主が務まるのですか。なよなよして頼りないふうですが」
と、清子は唐突に嘲った。
「もちろんです。妻が私についてくれば、何もかも上手くいきます」
鋭い目を向けた。自尊心を傷つけられたのだが、それを大っぴらに認めればお見合いの話がややこしくなる。倫光は息を調え、平静を装うとした。
「運動はなさらないんですか。なよなよしているのは良くないことですよ」
「なよなよってなんなんですか」と、倫光は激した。「少し痩せているだけでしょう。体格で人を判断するのはどうかと思いますよ」
「体格すら調わないようでは、まともな価値判断ができないはずです。これまでどんなスポーツに取り組んできましたか」
清子は飽くまで男の価値は体格で決まるという尺度で話している。
「いえ、特にこれといってスポーツは」
と、倫光は口ごもった。
「では、ご飯はたくさん食べますか」
「いえ、どちらかといえば少食です。いったい何の関係が──」
そこまで倫光が言いかかると、清子はあからさまに失笑した。倫光は頭に血が上るのを感じた。明らかに見下げられているのだ。清子は唇を捻じ曲げて笑った後、また神経質そうに目を伏せて大人しくなった。倫光は自分の正義が果たされないどころか、足元から瓦解していくのに恐れをなした。誇り高く女を従えるべき男が、侮辱された。そう思うだけで、謹慎以来頭の奥の方で凍りついていた怒りが、熱を発して頭蓋いっぱいに広がったように感じた。彼は青ざめるほど怒りを感じていたが、それをどう表現したら解消されるのか全く思いつかなかった。
清子は口を利こうとしなかった。すっかり興味を失ったように、目を伏せて何かを訊かれるまでは頑として応じず、訊かれたら訊かれたで正直ではあるが、興味がない男に対する世間の若い女の反応そのままに、淡白にだらだら口を利くだけだ。肉体作りに精を出さなかった男には、女に情緒的満足を与えるだけの基礎がないとでも言いたそうに。
倫光は皮膚を引きむしって暴れたかった。血を流して、いかに男として決意が深く、頼もしいのか、その血によって証明したかった。血みどろになって、目をひん剥いて睨みつけ、俺を尊敬しろと掴みかかれたら、どんなに心地よいだろうかと夢想した。血の匂いは彼の自尊心の痛みを洗い流し、美しく調和のとれた世界への道筋を明らかにしてくれるだろう。
昔っから倫光は女に縁がなかった。彼のことを冷たく一瞥し、鼻で笑われることに慣れてしまうと、価値のない女というカテゴリーを作って、そこに根こそぎ叩きこめば自尊心が傷つかないことを学んだ。彼の病的な正義感は、女への慕情などは一切捨象したところで萌芽し、彼の恥辱を追肥に枝葉を張ったようなものだ。仮に女を馬鹿にする男尊女卑の発想がなかったら、彼は女の冷笑に切り刻まれて、その日の安寧を貪るだけの堅実で大人しい厭世家になっていたはずだ。ところが、女を侮蔑する時の見返してやったのだという達成感は、彼の恥辱を僅かながらだが癒やし、それを繰り返すことで正義の感情を鋭利で巨大な得物に変えることを可能にした。
安心を異性に感じたことなどは一度もない。常に女は敵だった。敵であるところの女の身体に興味はあったが、心を脅かす難敵でもある以上、迂闊に近寄って心を開いたりするのは、倫光の行動理念からしたらあり得ないことだった。彼の正義感を下部から圧迫し、もっと高みから見下ろせと命じるのは、女たちだった。もちろん女だけではない。正義の心を理解しない女のような男も同罪である。倫光が喝破しなければ、男も女も、正義からかけ離れたところで腐っていくと思われたのだ。
それが現実のものになることが、何よりも恐ろしかった。潔癖で、完全に論理を満たし、美しく完結した精神が、腐ったような人間に汚されるのが恐ろしいのだ。倫光は、嘲られたことで、怒りの感情の中で清い体でいられたことを思い出し、それを終わらせようとしているにっくき敵の姿を見た。女だ。それも大して価値もないような、普通の。
変な笑い声を漏らした。倫光は押し黙って目を伏せている清子を見て、憎悪と恐怖と、泣きたくなるような未来への渇望を全部表情に表した。壮絶といっていい。倫光は女に侮辱されることを予想すらしていなかったことを悔やみ、目の前の女を何とかして遠ざけようと、必死に頭を働かせた。遠ざけないことには、完璧に手入れされた正義の感情が、黴が生えたように台無しになってしまう。
恐怖、次には希望、やがては虚無。彼の精神は入り混じって、悲惨な状況にふさわしいものになった。彼は頬をひきつらせたまま、訳が分からなくなっていた。清子は相変わらず倫光の顔を見ようとせず、淑やかな乙女がそうするように恥じらっているようにも見える。倫光の口からは腹部から空気の塊が込み上がって来て、変な音を立てた。
「はがっ、はがっ、えへへへ」
荒い息をする彼を、視線を上げた清子がじっと見た。
「あの、三木さん」
「なんでしょう」
と、倫光はやっとのことで口にした。目線は定まらない。
「私が料理を作ったら、食べてくださいますか」
「はひっ、あひっ、食べますよ」
息も切れ切れに応えた。清子は初めて、見合いの席に臨む子女らしく、柔らかく微笑んで相手を見つめた。倫光は侮辱されたと思い込んでいるので、自分が途切れかかった意識の中で何をしゃべったのか理解できていなかったし、清子の反応も解せなかった。さらに追い打ちをかけられたのかと、激しく憎もうとさえした。息が苦しくなって、目が回り始めた。
倫光は仰向けにどうっと倒れた。
「三木さん」
清子は慌てて呼びかけ、目を丸くして文机の対面側に回り込んだ。伸びている倫光を揺すり、意識が遠のいていることを察すると、着物の裾を翻して仲居を呼びに行った。
倫光が目を覚ましたのは、両家の家族が見守っている中だった。彼の顔の上部に影が落ちている。色んな方向から家族が顔を突き出し、寝息を立てている倫光の様子を窺っていたのだ。彼は眼だけ動かして、覗きこんでいる人たちの陰になっている表情を窺った。彼らの白い歯がこぼれた。
「倫光、目が覚めたんだね。よかった、どうなってしまうかと思ったよ。きっと緊張しすぎたんだろう」
と、彼の父は顔をくしゃくしゃにして安堵している。
「倫光さん、無理はなさらないで。まだ休んでいたほうがいいわ」
さほどの感慨もなさそうに、寝そべった倫光の足元で清子は言った。一同は口々に賛同し、ざわめいた。じっと押し黙って注視していた家族が、思い思いの心の内を零し始めた。
「倫光は心が優しすぎて、損ばかりしているんですよ」
と、彼の母は清子の澄まし顔に向かって弁明している。清子は神経質で気難しそうな目で、倫光の母を見ていた。
一同がばらばらに会話を始めたので、倫光は音の洪水の中心にいるかのようだった。まだ脳が疲弊している感じがする。頭の奥にあった怒りの感情は、血液や肉塊を押しのけて空洞を作っているかのようだ。倫光は身体が冷え切っていて、物理的な反応として一筋の涙を流した。感情の全くこもっていない、肉体感覚のみから生じた涙だ。
虚しさは寝そべっている倫光の心臓を鷲掴みにし、彼方へと連れ去ろうとする。そこには恥辱があり、目を逸らそうとすればするほど、居心地が悪くなる。女に侮辱されたのだ。遠くに逃げ出したいという気持ちは嘘でも何でもない。今すぐに逃げなければ、虚しさがぽっかりと穴を開け、世界中から罵声が流れ込んできても不思議に思わないだろう。
涙に気付いた清子が、着物の袖からハンカチを取り出して、背を伸ばして軽く宛がうように拭った。倫光は不思議と屈辱だとは思わなかった。ただ虚しさが広がって物理的に涙をせき止められなくなったというだけで、敗北を認めて泣いたのではないのだ。正義の感情が汚されて、這いつくばらせられたわけではない。頭の奥の方で怒りが瞬いて存在を知らしめようとしている。見る者の目を焼く、恐ろしい発光をしているのが、倫光には分かった。
倫光は手を上げて、ハンカチを押しのけた。清子はまるで驚いた顔もしない。そうされることを予期し、備えていたように平然としている。
「私の料理を食べてくださるんでしょう」
と、清子は訊いた。
「なよなよしているのは嫌いなんでしょう」
腹立たしそうに倫光は撥ねつけた。
「嫌いでも寄り添うことはできるんです。夫婦というのは大方がそういうものです」
と、この世の真理を語るように真摯な目を向けた。それが正しいのかはともかく、清子は疑問を持っていないようだ。倫光は圧倒され、怒りが過ぎ去った後の恐怖のほうが、再び膨らみ始めた。
「私と夫婦になるつもりですか」
「それはまだ分かりません。あなたは怒っていらっしゃるんですもの。もし怒りを感じないくらい聞き分けてくださるのなら、私はあなたに尽くしてもいいんです」
「無条件で」
と、倫光は眉を顰めて訊いた。
「いいえ。そのままでは見苦しいので、太ってもらいます。サワー・クリームやバターを全部舐めるように食べてくれる人だったら、すぐにでも結婚しようと思います」
どこまで本気か分からなかったので、倫光は怪訝そうにした。彼の正義は明快な小理屈の前に機能不全に陥っていた。いつもなら敵対する人間を圧倒するほど激しい熱波が胸の内を焼くのに、体が冷えて震えがくる。彼は女とまともに接する経験がなかったし、腹の据わった女の覚悟に接することも初めてだった。
結婚という言葉が自然に思い出された。倫光の理想とする、荒唐無稽な飯事のレベルではなく、清子の理想とする感情の処理まで細やかに配慮された夫婦生活は、明らかに凄味があった。想像するだけで四肢から痒みが伝わってくるような、明瞭な現実感覚というものが目の前にあるのだ。清子が伝えようとしている今という時の接点の保ち方は、様々な伏線のある、厳然たる多くの事実の中心で濃密に結ばれることだ。そこからはどんな展開が待っていても、気安く夫婦の気構えを語れてしまいそうだ。
唐突な想像力の飛躍は、難しくはないにもかかわらず、倫光を尻込みさせた。よくも知らない女と夫婦になるのが恐ろしいのではなく、これまで頼みにしてきた正義の感情が、急速に縮みあがっていくのに気付いたからだ。体を支えていた大きな柱が抜け落ちて、不甲斐ない愛想笑いを浮かべる軟弱な男子だけが残されてしまう。
恐怖した。倫光は自分が自分でなくなってしまうことを恐れ、長年に亘って生活の信条として形成されてきた正義感が、僅かに女と共同生活を送るという提案の前に霞み始めているのを否定しようとした。結婚は墓場だというが、これが友情の契りであっても倫光は深刻な精神の崩落を予感しただろう。
怒らないとまずいことになる。空洞から充実感が逃げていく。一刻も早く心を怒りに染めないと、目の前の女に籠絡される。
倫光は叫んだ。
「ふざけるな」
からからと笑う清子に、家族の視線が集まる。居た堪れなくなった倫光は逃げだした。
4
財団理事は理事室に倫光を呼び出し、先日のお見合いのことを聞いた。
「どうでしたか、お見合いは」
「少し、疲れました」
と、げっそりしながら倫光は答えた。
「すぐには気に入った人と出会えないかもしれませんが、どういうものか分かったでしょう。笠間さんのお嬢さんは乗り気だそうだから、この話はまとまってしまうかもしれないね」
「いえ、私はお断りしようかと」
「何を言っているんだね。彼女は君にぴったりだと私は思うよ。また職員と揉め事を起こす前に、結婚してもらわなければ困るんだ。何が不満なんだ」
と、財団理事は少しばかり色をなした。
「ですから、ああいう女性は私とは相性が──」
「相性」と、財団理事は言葉を遮った。「結婚してから考えなよ。浮気をしたければすればいいんだ。私は君が落ち着いてくれないと、面倒を抱えるんです。嫌じゃないのなら、目を瞑って結婚してもらうからね」
「しかし」
「しかしもへったくれもない。君なんかには女を選ぶ資格はないんだ。私の顔を立てたまえ」
倫光は塞いだ。彼の正義が脅かされていることを、話せば良かったのだろうが、財団職員らに冷遇されて懲りていた。彼の正義は理解されないことに、深い失望感を覚えてはいるが、それが永続することに怒りを感じても、吐け口がないのである。体内を毒素が循環するようなものだ。彼は自らの怒りの感情に中毒症状を起こし、快感を刺激されていると同時に、精神がまともに機能しなくなっていた。
心を満面に満たす美しい正義の感情を口にし、溢れるほどの喝采を浴びる。彼の発想はそこから抜け出せなくなっている。麻薬的に習慣化し、正義の感情を敵対するものにぶつけることに、この上ない喜びを感じるまでになっている。もはや世界中を敵に回しても、正義を信じる限り奇跡が起きると考えた。暁光が地平を染めるように、彼という一人格から発した思惟が、涙にむせぶ歓迎によって世界の隅々にまで行き渡るのだ。
社会性があって、人一人ずつはそれぞれ違った個性を持つと、感覚的にも観念的にも知っている普通人は、人間一人の思索が内面的でそれだけでは他者を感化しないことを知っているが、倫光は客観的に存在するシンボルのように、圧倒的な感動と共に受け容れられると考えている。余程巧妙に設計された論評でさえ、人の心を掴むのは難しいのに、何の努力もしてこなかった彼が、剥き出しの感性で弄りまわした程度の思索を、普遍的なものになりうると信じるのは、気味悪くさえある。
しかし、倫光には精神の内面で生産される構造物は、ディーテイルが明らかで、誰の目にも明らかなものだと思えるのだ。まさしく社会性の欠如である。協調して、他者の思惑を推しはかりながら、最適な結論に向けて合意を図るというプロセスは、既にディーテイルが明らかだという傲岸な思い上がりによって、すり合わせる以前に彼によって拒絶されているのだ。
財団職員らに拒絶されるという成り行きは、社会生活で必要な最低限の合意のプロセスを経ていないことにより生じた。倫光はその結論を不本意に思い、暴力的なまでの力を有する正義によって打開しようとした。正義は彼の内面を爛れさせ、臭気を発しながらそれが巨大な力であることを示そうとした。安易に取り上げて、人の内面に宿れば、社会生活に混乱の渦が巻き起こることを、正義そのものが報せているかのようだった。
そんなものを糧に、世の中を改革しようとした愚鈍さは、嗤われてお仕舞いにすべきだったのだ。使命のない正義の吐露は、利害の背景が見えないのである。そして、重大な使命を帯びているのでなければ、わざわざ時間を割いて聞き耳を立てるまでもないのである。人は自分にとって重大な利害の変更以外には関心を示さないものだし、それで特に問題が生じるわけでもない。
唯一、倫光だけは使命も何もないところから正義の感情を満々と湛え、それに酔いしれながら、彼の意見を聞こうともしない連中の注意を惹こうとした。甘えである。共同生活で必要な役割分担などあったものではなく、ただ自分が心地よいからという事実だけを踏まえ、その状態が拡大し永続することを望んで、わがままを言っているのと変わらない。
そんな幼稚な発想しかできない彼にも、結婚相手になるかもしれない相手が現れたのだ。若くして結婚し、苦労を共にするうちに人間的に成長することはあるし、財団理事は結婚生活で疲弊して争う心境ではいられなくなることを期待していたから、結婚がまとまるのは必然のようですらある。
ただし、倫光は、女が男に従属する家庭生活しか想像ができなかった。女はか弱いもので、男の庇護下にないと詰らないことばかり考えるようになると、事例のすべてがそう物語っていると思っていた。彼の母親がそうであったし、彼を嘲笑う女たちも不安でたまらないのだと、部分的には言い当ててもいるのだ。
しかし、彼が庇護に乗り出せるほど立派な男でないことは、誰の目にも明らかだった。彼自身もそのギャップに気付き始めていて、粗暴に振る舞うことでその事実が定着しないようにしているのだ。飽くまで軟弱な男という評価は拒絶するという姿勢を、明確にしなければ、彼には今日を生きる力も残されはしなかった。怒り狂って、体に力が満ちる時だけが、彼が安寧に近づける瞬間だった。
誰もその切実さを分かってくれないのである。財団理事も彼が性的に行き詰まっているとしか見ていないし、それも大きくは外れていないのだ。欲求が倫光の内面のマグマに溶け込んで、気流となって彼の脳天から湯気を立たせているのは、一面的な真実でもある。彼はあらゆる局面で行き詰っているからだ。
結局、財団理事に言いくるめられて、笠間清子との結婚を前提に今後の付き合いを考えることになった。倫光にとっては甚だ不本意ではあるが、欲求が解消されるという一縷の希望と、正義を流布するのに好都合な背景ができるという計算から、彼は抗うのを止めた。計算高く正義を執行しないと、場合によっては泥沼に陥ることを知っているのだ。彼はそれを、扇動の渦巻く世界で、最も効率よく正義を流布する方法として学んだし、圧倒的な正義の感情が胸を熱くするのに酔えれば、他人が何かを抑制されても知ったことではなかった。
燻された魚が、新しい味覚を獲得するように、正義の感情も長年月を経れば味わいが出てくる。胸に滞った正義の感情が、やがては清々しい硬骨の証になることはあるのかもしれない。ただ、それまでに偏執的な人間として爪弾きにされない保障はどこにもない。倫光も財団内で孤立していたし、財団の外にも理解者は一人もいなかった。
帰宅した倫光は、飯を炊き、テレビをつけて鬱々と彼の日常を顧みた。財団理事は結婚しろと迫るし、笠間清子は神経質そうな声で電話してきて約束を取り付けようとした。どこに正義があって、強力に下支えすれば、彼の人生の陥没を防げるのか。倫光は必死になって考えた。いわば命運をかけて慣れ親しんだ正義への陶酔感を思い出そうとしている。
正義を実行しなければ、この世には不正がはびこって、平和で穏やかに満ち足りて過ごすことはできなくなる。彼の価値体系は玩具のようなものだが、それの危機に対しては暴力も辞さないという強烈な思念が伴った。
飯を装い、無言でテレビと向かいあって咀嚼する。
飯が不味い。テレビには甲斐久則が不敵な顔で映っている。倫光はかっとなった。ぶるぶると震えて茶碗をテーブルの上に静かに置いた。口の中にはご飯が形を残して残っている。唾液に溶けだした中途半端な甘味が口の中に広がる。
誰も彼もが策略を用意して倫光を陥れようとしているようだった。実際にはそういう事実はどこにもなく、狂気をはらんだ彼に怯えているだけなのだが、彼にとっては不自然で信用ならず、牙をむく野犬の群れの中にいるようにさえ思える。
だいたい甲斐久則だ。あの男は市政を食い物にして何をしようとしていたのだ。倫光の追及は鋭く、その鋭さは彼が陶酔するのに十分な条件を揃えていた。萎えかかっていた正義の感情が、鋭く甲斐久則に突きつけられたように感じた。彼は嬉しかった。
人を憎むことがこんなにも楽しいなんて、やはり正義は美しい。甲斐久則に正義を思い報せれば、自分の正義は盤石になるだろう。倫光は論理的帰結として間違った思索を重ねた。狂喜がほとばしり、彼の脳髄を痺れさせる。怒りだ、この怒りに従えば、自分の内面は完成に近づいて、高みから人々の暮らしを眺められる。妄想は留まることを知らなかった。
倫光は台所に行って、包丁を握った。快楽が背筋を這いあがって、彼の精神を混濁させた。濛気の中を彷徨っているようだった。頭が熱く、取り留めもない論駁が脳裏に浮かんでは消えていく。彼はそれを鷲掴みにして、ここに正義があると叫びたかった。突き抜けた快楽に、うっとりと微笑む。
彼は包丁を通勤用の鞄に仕舞うと、変な笑い声を漏らした。
「私は正しいんだ」
呻き声のようにくぐもった独り言だった。彼は夢と現の世界の区別がつかなくなっていた。激しく思考を重ねたせいで、脳が疲弊して正常な判断ができなくなっていた。彼は正義について確かな手がかりもなく考え続けたため、正義が安定した軌道にあればいいところを、不動の一点として誇示したくなっていた。揺るがない正義こそ、男の誇りであり、この世の満足という満足の王者だと考えた。
彼はくしゃくしゃに顔を歪めて笑おうとした。笑おうとする筋肉が硬直して、上手く表情にならない。甲斐久則のような男を野放しにしたら、この忌まわしい硬直が解けなくなってしまう。俳優のように清々しい笑顔を浮かべ、誰からも愛されるべきなんだ。倫光の妄想はもはや現実を凌駕し始めている。現実からかけ離れていくごとに、実現の望みは断たれていく。
もう一度包丁の入った鞄を見た。彼は深甚の満足を得た。これほどまでに心が満たされるなら、いつものように正義が実現されようとしているのだ。彼の意味不明の論駁によって、悪党は不意を突かれて尻込みし、彼に畏敬の念を持ち、聴衆は惜しみない拍手を送るのだ。すべてが調和しているように思える。倫光は鞄の中に包丁を忍ばせた行為によって、ようやく圧迫から解放された。財団理事に頭を下げるのも、笠間清子に嘲られるのも、お仕舞いにしなければ自分の正義は萎んでしまうのだと、彼は自己正当化を企てた。
一見、成功したかにも見えた。彼の寝顔は安らかだった。
翌朝、起きだしてきて不味い飯を食った倫光は、改めて鞄を見た。そこにあるべくしてあるように思えた。中には包丁が入っている。彼は笑おうとした。爽やかに笑顔ができたように感じた。嬉しくなってスキップをしながら家を出て、楽しい気分で出勤した。
出勤してきた財団職員たちは、雑巾を持って机を拭いたり、掃除機をかけたりしている倫光を見た。最初はそれが倫光であることが分かっても、特に気にもかけなかったのだが、彼と目が合うと怖気を感じた。得体の知れない感情が表現されているのを見たからだ。財団職員らは、倫光を避けるようにして顔を突き合わせ、対応を協議した。
一見して爽やかではあるが、人を殺してきたような凄味がある。実際に人殺しを見たことのない財団職員らでも、倫光をそう評するしかなかった。誰もが一様にそう感じたので、対応を委ねるべく財団理事に相談を持ちかけたのだった。
財団理事は倫光を呼び出した。
「どうしました。笠間さんとなにかあったんですか」
「いえ、ないと思います」
と、さっぱりと答えた。
「では、どうしたんだね。職員らは何が起こったのか知りたがっているんだ。君の身の上に起こったことを説明したまえ」
詰問に対し、倫光は口が裂けたように、あるいは歯を剥きだして威嚇するように笑んだ。彼の頭には包丁のことが頼もしく思いだされている。鞄の中身が全宇宙のような広がりを見せ、彼の周りをすべて包み込んでいく。人々の脅威となるものを所持しているというだけで、彼は優越感を覚えた。その嬉しさに彼はむせ返りそうになる。
「ですから、特に何も起きていません。望んだとおりになることを希望しますが、馬鹿な連中にはその良さが分からないんです」
「何を言っているんだ。まったく君という人は謹慎で懲りていないと見えるね。なぜ自分を不利にしてまで意地を張ろうとするんだい。高々同僚と諍いを起こさない程度に付き合うくらいのことは、大人なら訳もないことでしょう」
「間違った情報で私を蔑むような連中は、制裁を受けねばなりません」
と、倫光は傲然と言い放った。財団理事はむっとした顔をした。
「今日はもう帰りたまえ。不愉快だ。明日になっても反省の色が見えないようなら、もう一度謹慎してもらいますよ。嫁の世話までしてやろうというのに、この上何が不満だっていうんだ」
「私は間違ったことはしていません。決定的に正しいんです」
「馬鹿なことを言っていないで、帰りなさい。もう顔も見たくない」
財団理事に撥ねつけられて、倫光はにやつきながら退出した。
彼はこの上なく大事な鞄を両手で抱きあげ、彼を盗み見ている財団職員らの間を縫うようにビルを抜け出した。帰路に就くと、彼は荒い息をして、空気が漏れるような笑い声を上げた。誰もが自分のことを疎外しているように思った。こんなにも正義感に篤い、心の真っ直ぐな人間が不遇を味わうなんて、世も末だと嘆いた。嘆きは深く純粋で、彼の怒りを培養した。心の内側を熱く燻された生臭い空気が奔っているようだった。
混濁する意識のまま、倫光は人垣をかき分けていた。苦労して最前列に出ると、どこを見ているか分からない目を細めて不敵に笑んだ。警備をしていた警察官が不審がって、倫光の肩に手を置いた。
「身分証の提示をお願いします」
「甲斐久則さんに話があります」
「今は無理です。身分証の提示を」
と、警察官は今度はあからさまに不審の目を向けた。
「話をすれば私の正しさは理解されるはずです。いいからそこをどけ、私は甲斐久則に話があるんだ」
「お引き取りください。命令に従っていただけない場合は、公務執行妨害で逮捕します」
「私の正義が伝えられないままでいいわけがないでしょう。どけよ」
と、倫光は警察官を押しのけて、甲斐久則の私邸に踏み込もうとした。
「不審者を発見。拘束します」
警察官は無線機に向かって通話すると、倫光の腕をにじり上げた。
「何をする。私の邪魔をするとただでは済まないぞ」
倫光はじたばたしたが、がちゃりと後ろ手に手錠がかけられる音がした。痩せっぽっちな彼が屈強な警察官に敵うはずがなかった。
「畜生、放せ。私は正しいんだ」
血が出るほど歯を食いしばって、鼻から荒い息を漏らす。報道陣のフラッシュがたかれ、這いつくばった倫光の憤怒の形相を撮影した。その表情は醜いというより、この世の不条理をすべて煮詰めてジャムにしたような濃厚さの方が目に付いた。報道関係者たちは突発的な事件に興奮していた。無言の内に次々にフラッシュがたかれ、錯乱状態の倫光は泣き叫んだ。
「私の正しさは証明される。絶対にだ」
彼は涙を流して悔しがった。
5
警察官に連行され、警察署の取調室に入った倫光は伊の一番に訊いた。
「鞄はどこです。あれはとても重要なんです」
「でしょうね」と、警察官は冷たい目で見た。「包丁なんかを隠し持っていれば、そりゃ重要でしょうよ。あなた何をするつもりだったんです」
倫光は何も答えず、手持無沙汰に机を撫でまわした。
「答えていただけませんかね。さもないと銃刀法違反で留置所行きですよ」
と、警察官は白けても説得だけは事務的に続けようとしている。
「そんな馬鹿な。この私はいつも正義を信じて生きてきました。分かったぞ、私が結婚することを知って、邪魔をしに来たんだな。そうだ、そうに違いない。小悪党なんかにはその程度のことしか思いつかないんだからな」
「あんたね、包丁持って市長の家に押しかければ、誰が悪党か分かるってもんでしょう。その程度の常識もないんですか」
警察官は呆れている。
「甲斐久則は汚職をした。私の正義によって目覚めなければいけないんだ。これは私の使命なんです。私が勇気を出さないと、世の中は腐敗してしまうんです」
「それで、あなたは甲斐氏に包丁を突き付けて説得するつもりだったんですね。それは立派な犯罪ですが、理解していらっしゃいますか」
倫光はまたしても押し黙った。頭の中を微弱な電流が流れるように、混乱が支配している。上手く弁明しようなどとは思わなかった。何が起きているのかも理解できていないのである。
「甲斐久則は悪党で、私はそれを糺す必要がある。どこが変なんだろう。あなたとの会話はなんだか噛み合っていない」
「だから、あなたは義侠心に駆られて犯罪を犯すところだったんです。勤め先で何かあったんですか。普通の人は包丁持って押し掛けてきたりはしないものなんですよ」
「私は仲間外れなんかになっていない」
「ああ、仲間外れにされたわけですか。一応は勤め先に連絡させていただきますから、ご了解くださいね。きっと鬱か何かですから、診断を受けて安静にしてください」
「鬱。あなたこそ鬱なんじゃないですか。この私が間違っているはずがないでしょう」
「はいはい、分かりましたから、あなたの身柄は警察で保護します。経過はどうなのか尋ねますから、嫌がらずに応じてくださいね。家まで送らせますから、ゆっくりと静養して、反省してください」
警察官はほとほと疲れているようだった。無理もない。頭のおかしな男が包丁を持って暴れようとしていたのだから、その気苦労は推して測れる。
倫光は訳が分からないまま、腕を引かれて車に押し込められ、気が付くと自宅アパートの前に立っていた。とぼとぼと歩いて、部屋の中に滑り込む。部屋の中は黴臭かった。
電話が鳴っている。
「はい」
倫光はふらふらになりながら電話に出た。
「三木君、君は財団の恥だ」
「私は正しいんですよ」
と、倫光は軽薄に笑った。力がなかった。
「ともかく」と、財団理事は反論を許さずに畳みかけた。「すぐにでも病院で診てもらったほうがいい。きっと鬱だよ」
「そんな馬鹿な。私は健康ですよ。他の人たちはそうでないようですが」
「そちらに笠間さんが向かっているから、連れ添ってもらって診察を受けてきなさい。彼女は君が飛んでもないことをしでかしたと聞いても、取り乱したりしなかった。やはり君にぴったりの女性だよ」
「私をどうしても病気にしたいんですね。そういう不正義は早晩に正されるはずです。いつまでもいい気にならないほうがいいですよ」
と、せせら笑うように、倫光は精一杯強がった。
「もういい、君は疲れているんだ。身近に心配してくれる人がいれば、少しは頑なな態度も改められるはずだ」
「私が間違っているなんてことが、あるはずがないんです」
「安静にしているんだよ。テレビなんかは決して見ないように」
財団理事は大きなため息をわざと聞かせるように電話口でし、電話を切った。呆然としている倫光が我に返ったのは、扉をノックする音を聞いたからだ。
「三木さん。笠間です」
倫光は亡霊のような顔で扉を開けた。扉の前には相変わらず神経質そうな顔の清子が立っていた。何があったのかは聞き及んでいるようだが、なるほど取り乱したふうではない。
「上がってもよろしいでしょうか」
と、清子は訊いた。
扉を開けはなって、無言で諾意を表した倫光は、背中を向けて部屋の真ん中で座った。部屋に入ってきた清子は、倫光に触れられるほど近くに座ると、これまでの彼女からは考えられないほど優しく声をかけた。
「御気分が優れなかったんですか」
「別に」
と、ぶっきらぼうに答えた。倫光は胸の内がざわついて、大声を出したい衝動が募っていた。
「誰にでもあることなんですよ。お薬を飲めば、きっと元通りの暮らしができるようになります。病院に行きましょう、ね」
「病気でもないのに、診てもらう必要があるんですか。私を陥れようとしても駄目ですよ」
「取り返しのつかないことをしていたかもしれないんです。少しは反省なさってください」
清子は少し眼差しをきつくして、それでも穏やかな物腰で諭した。
「私を憎んでいる連中が、私の正義を否定しようとするんです。私が主張を止めたら、世界は腐敗で一色に染まってしまうでしょうね。笠間さんはそれでもいいと言うんですか」
「いいとか悪いとかいう以前に、人を傷つけることはいけないことなんです。ましてや殺すなんてとんでもない。甲斐市長のお宅に、何をしに行ったのか覚えていないんですか」
「話し合いに行ったんですよ」
「何の関係もない三木さんがですか」
「関係がないことはないでしょう。私が誠心誠意話せば、甲斐久則は改心するかもしれないんです。私は正しいことをしようとしたんです」
正々堂々と渡り合っている気分の倫光に対し、清子は語気を荒らげた。
「武器を持ってですか。そんな言い訳が通用するわけがないでしょう。もう少し自分も他人も大切にしなければいけませんよ、お分かりですよね。ただ、皆に無視されて自棄になっているだけなんですよね。私が病院まで付いていってあげますから、診察を受けてください」
「女のくせに私に命令するな」
と、倫光はふんぞり返った。彼はその態度の頼もしさに嬉しくなった。
「女であっても言うべきことは言わねばなりません。三木さんの失調は私にも責任の一端があります。繊細な人に言葉が過ぎたかもしれないからです。私はあなたを紹介してもらった手前、あなたの不幸を見て見ぬふりをするわけにはいかないんです。いいですか、三木さん、あなたは病気です。人に危害を与える前に、治療を受けてください。怖くなんてないんですよ、私も一緒に行きますから」
清子は真心で接し、それに触発されて倫光が冷静な判断をすることを望んでいた。だが、彼は激した。
「黙れ。女なんかに陥れられて堪るか。お前の言葉なんて私は信じないぞ。私が正しいことを言うのを妬んでいる人間がいるんだ。おかしいのはそいつらだ」
と、錯乱して目線はあちこちをうろついている。
「倫光さん、しっかりしないと駄目です。親御さんを悲しませますよ」
少し取り乱したふうになり、清子は倫光の腕に手を添えようとした。しかし、その手は宙を漂った。彼女の目が驚きと恐怖で見開かれた。倫光は組みついて両手で彼女の首を絞めていた。
「黙れと言っている。私は正しいんだ」
憤怒の形相で、唇を震えさせ、その末端からは涎を垂らした。勢いを駆って清子に馬乗りになり、苦悶の表情でもがく彼女を壮絶な力で抑えつけた。清子の口は半開きになって、空気を吸おうと微かに開かれては、果たせずにまた一から繰り返す。倫光はその苦痛を知ろうとしてないし、理解できても彼の無秩序な怒りの矛先は、誰かに向けられるまで落ち着くところを知らなかった。最初に甲斐久則に向けられ、続いて暴発を果たせないまま笠間清子に向けられた。
恐怖と苦痛で目一杯見開かれた瞳は、清子の最期まで開きっぱなしだった。やがて彼女は動かなくなり、馬乗りになっている倫光がどれほど力を込めても反応がなくなった。清子は窒息死していた。
骸の上で倫光は酔ったようにうっとりとし、正義を執行できたカタルシスに気を良くした。心は晴れ晴れとし、彼の基準でいえば浄化されきっていた。天国に招かれたように清い心が自分の内面に宿っていることに、倫光は喜びさえした。
しばらく死体の上で恍惚の表情を浮かべていた彼は、尿意を催した。トイレに行って盛大に放尿すると、その解放感は彼の正当性を陰ながら支えているかのように感じた。しかし、それも長くは続かなかった。
部屋に戻った倫光は、目を開いたまま硬直している死体を見て、びくっと身体を震えさせた。彼は現実に引き戻された。至る所で拒絶され、どんなに正義を唱えても見向きもされない、哀れで孤独な青年が、部屋で死体への対応を迫られているのだ。
彼はへなへなとしゃがみ込み、放心状態で清子の死体を眺めた。いつまでそうしていても清子が生き返るわけでもなく、彼は窓際に行ってカーテンの端から外を覗き見た。誰もいない。殺した状況が彼の脳裏に甦ってきた。倫光は頭を抱えて叫んだ。
自分の奇矯な声に驚いて、身体がぶるぶる震えるのを収めようと部屋の中を行き来する。考えなければならなかった。未だに自分のことを正しいと思っているが、その非を清子に転嫁しようとするには、彼女のことをあまりにも知らなかった。悪いのは清子だと決めつけようとし、それが果たせそうにないことを悟ると、人差し指の爪を血が出るほどかじった。それで冷静になれるはずもなく、今度は理不尽な怒りが彼の内面を焼いた。
「糞っ、糞っ、みんなして私のことを馬鹿にしやがって。こんなことになるなら、結婚なんて一生すべきではなかったんだ。理事に騙されたんだ」
一人で文句を連ねたが、余りにも状況からかけ離れていて、その言葉が空を掴むように虚しいことを痛いほど知った。滅茶苦茶な論理で責任転嫁しようとしても、彼の正義がもともと個人的な欲求を満たすだけのものだったことは明白で、どんなに巧妙に完成させようとしても、まったく部品が違うことに彼はようやく気付いた。
人殺し。彼のしたことは殺人である。倫光は警察官の冷たい態度を思い出して、わなわなと顔を撫でながらへたり込んだ。もはや誰も助けてはくれない。何か有効な手を打たないと、警察官たちが部屋の中までやって来て、彼に手錠をかけるだろう。圧倒的に正義の執行者として適切な自分が、警察の手によって監獄に送られるのは、倫光には悔しくてならなかったし、その事実を思うと清子が憎くさえあった。
彼は玄関の戸を開いて外を覗き見てみた。アパートの通路には誰もいない。誰も清子が死んだことを知らない。
彼は高笑いしたくなるほどうれしい事実を発見した。見つからなければ、殺したことにはならない。今度は論理のすり替えに成功した。彼は、訴追されないために何をすべきか、一気呵成に頭の中で組み立てることができた。そのスムーズさは、彼が異常な執念で追いつめて改心させよとしてきた悪党たちの言い逃れを想定すれば、いくらでも可能になるものだった。今度は倫光自身が逃げる番である。
倫光は深夜になるのを待って、清子の死体を担ぎあげると、近所の河川に向かった。死体は死後硬直で妙な感触がするようになっており、彼に吐き気を催させたが、酸っぱい唾液を何度も飲み込みながら、橋の上に達した。
この世の恨み辛みを流すように、川面を確認してから、思い切りよく欄干の上に死体を押し上げた。目を見開いた死体と目が合ってしまった。逆立ちする形で清子はずり下がり、手を放すと倫光の期待通りに水面に落ちた。大きな魚が跳ねたような音がした。
周囲を窺い、人がいないにも関わらず体勢を低く保って瞬発的に逃げ出せるようにしている。その瞬間は今すぐにでも訪れそうでいながら、闇は深く、音もしないため、緊張の弦が張り詰めて鋭敏になるような感じだけが残った。人を亡き者にしたという畏怖は、継続的な緊張感の中に溶け込み、体中の血液が鬱血して感覚が鈍くなっているようだった。
橋から離れると、彼は大手を振って揚々と歩き始めた。闇の中を凝視しながら歩くのは、彼の神経を高ぶらせ、冷えかかっている正義の感情を呼び覚まそうとした。自分は悪くない。悪いのは正しいことを馬鹿にする他の連中だ。馬鹿になんてするから、とうとう人死にが出た。こうなることを倫光が抑制するには、彼のことを信じてくれる僅かに一人の人間がいれば良かったのだが、清子がそれになろうとした途端に彼は激しく拒絶した。人に疑念を持つことに慣れていた倫光が、人を信じることの可能性を思念に上げようとしたとき、得も言えぬ不安が彼を襲ったのだ。人が人を信じるのは一人っきりの孤独な作業である。大勢の支持を想定しながら、荒れ狂う正義の感情をぶつけるのとは、まったく質感が異なる。倫光は一人っきりで全責任を負って行動するには、ほとんど不可能なほど精神の構造が幼かった。
唯一の正義が、孤独な信仰のようなものだと知り、彼は初めて正義を扱うのに気後れしていた。大好きな正義の感情が、近寄ろうとすると死体となった清子の見開いた目を思い出させるのだ。倫光は一生このまま正義を唱えられなくなるかと思うと、恐ろしくて動転した。清子を殺したことには良心の呵責を感じていないのである。飽くまで個人的な怒りを、世間の称賛の対象として扱うことを、死体を始末した直後にも考えているのである。保身を図る人間は数多いが、人を殺して正義を唱える人間はまずいない。その危うさの遥か彼方にまで、倫光は遁走を果たそうとしている。
誰ももう正義を偏愛する必要はないのだと、諭す者はいない。倫光が人を殺したのを知れば、正義を語る以前に処罰が待っていることを確信するはずだ。それにも拘らず、彼は手当たり次第に人に憎悪を抱いた。追い詰められていることを思うと、悔しくて形相が険しくなる。この期に及んで彼は怒りの感情を愛していた。
翌日、倫光は食事もとらずに、朝の気配が消えないうちに電車に乗った。どういうわけか、彼は通勤することに執着していた。財団理事に謹慎を命じられるたびに、反発する気持ちだけが大きくなり、ついにはそれ自体が目的と化したのだ。彼にとって通勤は、安定的に怒りの感情で満ち足りた志操を保つのに、必要な儀式になっていた。
早朝ということもあり、彼の挙動に不信感を持つ者は見当たらなかったが、彼と目があった数名の通行人は、夜遊びをして不調のまま出勤してきたように見たはずだ。実際、倫光は腹が減っているのにも気づかないほど、惑乱していた。彼に好感を持っていない財団職員らが見たら、また問題を起こすのではないかと引け腰になったことだろう。そのくらい状況は切迫しており、倫光は生命感を削り落とされたような顔つきであった。
意図的に興奮状態を呼び込み、倫光は意気の高揚によって価値観の混乱を癒やそうともした。しかし、それは出勤してきた財団職員らによって阻まれた。彼らの内、最初に出勤してきた女性社員は、倫光が幽鬼のように壮絶な表情をしていることに畏怖を感じた。慌ててトイレに行くふりをし、そのまま他の職員の出勤をビルの入り口で待った。
やがて廊下に人だかりができた。黙って席に座っている倫光の様子を、代わる代わる覗き込んでは小声で意見し合っている。その中心を割るように、財団理事が現れた。彼は倫光に歩み寄って尋ねた。
「三木君、笠間さんの行方を知らないか。昨日君のところに寄ってもらってから、足取りがつかめなくなっているんだ。電話で聞こうと思ったんだが、君は電話に出なかった。何をしていたのかね、まだ結婚前でしょう」
「別に」
うろたえた。目線が机の上を小刻みにうろついて、手の平には汗がにじみ出てきた。倫光のほうを窺っている財団職員らは息を呑んだ。
「君は知らないとでもいうのかね」
と、財団理事は責めた。
「知りません。私は何も」
「病院には行ったかね。もう私の堪忍袋も緒が切れた。休職したまえ。病気が治るまで出てこなくていいんだよ」
倫光は黙り込んだ。
そこに男が二人、入口の人垣をかき分けて入ってきた。彼らの内の一人が財団理事の横に並んで、問い質した。
「お話し中済みません。あなたが三木倫光さんですね」
「はい」
と、呆気に取られたように返事をした。
「笠間清子さんのことでお話ししたいのですが」
刑事の眼光が鋭くなった。倫光は体をびくっと震わせた。
「死んだのは私のせいじゃありません」
「お話は署で伺います。一緒に来ていただけますか」
倫光は席を勢いよく立って、脱兎のごとく駈け出した。話しかけてきた刑事を撥ね退け、出入り口の群衆に向かって大声で叫んだ。
「どけっ、邪魔だ」
「三木、観念しろ」
もう一人の刑事が倫光の襟首を掴んで机にねじ伏せた。
「放せ、放せえ」
憐れである。刑事は暴れる倫光に手錠をかけた。
「笠間清子殺害容疑で逮捕する。あなたには黙秘する権利と弁護士を呼ぶ権利があります。以後の発言はすべて証拠として扱われます」
刑事の宣告は虚しく響いた。肩を落とす倫光の背中を押しながら、刑事たちは入口の人だかりが解散するのを見届け、すっきりした出入り口から出ていった。
今後倫光は贖罪の日々を送ることになる。殺してくれと叫んでも許されない、過酷な日々である。どのような許しの言葉も、彼を救うことはできないだろう。それが彼が主張し続けた、正義の在り方だからだ。
了 この物語はフィクションです。