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「ぱろる」版  コラム「お作法の時間どす」


以下、季刊誌「ぱろる」『そうだったのか!?子どもの本 ―子どもの本の解体新書』1996年12月20日発行号、
『童話ちゃんぷるぅ(1)』版の【お作法の時間どす】から、記述の元となった原文を引用させていただく。
なお、抜粋による曲解・マリスの混入を防ぐ観点から、原本の記述より全文 を下に引用させていただいた。

「これでいいのか、子どもの本!!」版との差分については、この色 で示している。

画像版 (1) (2)

 お作法の時間どす 


 日本人であることをこんなに恥ずかしく思ったことはない。公僕が血税を費やして国民を殺す国だ。制度は癒着の温床と化している。
 教育とはそういうシステムにも物謂えぬ子等をせっせと量産し続けている。価値のモノサシはモノとカネだけ。
 こんな国だから若者たちが茶髪にしたり、米兵のぶらさがりになりたがる。日本人をやめたいのである。日本人ではないから日本語で物も云わない。「チョベリバ」だ。

 もう、こんな国はなくなったって構やしないし、それ以上に、ロクなことをやってこなかった人類が仕切る地球など、一回ガラガラポンしちゃった方がましだと思わないわけでもないが、次代を担う人達には「兄弟よ、まだ遅くはない」と云う責任もある。この惨状を何とかして戴きたい。その為にヤクザな先輩共は自己批判せねばならない。

 そもそも、公的立場にある者は、その責任に於いて人一倍、恥の精神と潔さを備えていなくてはならなかったはずだ。それがいつからどうしてこうなったのか、都合の悪いことは隠す、だます、バレても謝らない、やめない卑しい習俗が蔓延している。美学の終末だ。
 私は文壇というものにあがれて、この道に入った。
 如何なる組織的論理にも組みされず、唯一独自の世界観を展開することに最も価値を置いてくれる宇宙だと信じていたからだ。
 世情は殆ど右へならえで、右へならわなければ左へならえ、右でも左でもないものは前例にならう。だが、社会的拘束に馴染めない、そしてそれを恣意的になりわいにしようとする者の牙城が、アートであり文壇であったはずである。
 そのことで、彼等はさんざん弾圧も受けて来たが、それは当然のことであろう。前にも触れたが、時代に馴染まぬ営みこそが新たなる価値観の創造であり、しかしそのことによって文化は選択肢を多く獲得してきたのだ。

 この業界にいて盗作は重罪である。

 日本が国際社会で卑下されるのは、欧米の発明したものをパクってもっと精密に、よりコンパクトに改良し、安価で輸出して保護貿易のもとに莫大な外貨を稼いだことにある。
 個性を尊重する欧米にあって、これは最大級の恥ずべき行為であったろう。しかし、その風潮はこの国で改めようとしないどころか一層はびこる気配だ。

 一時、『ドロボー歌謡曲』というタイトルの本が出て、音楽の世界でどれほどのパクりが平然と行われ、それがヒット曲になっているか、という告発本があったが、著者は、音楽界を抹殺されてしまった。

 TVや映画の世界も目を覆わんばかりだ。野島ナンタラと云う売れっ子脚本家の仕事、過去の名作のパクりまくりで、原作を知らぬ少年少女達の共感を煽って視聴率を稼いでいるが、それで味をしめたか本年、(一九九六年)、TV回が募集したシナリオ大賞のグランプリに輝いたのが「チキチキバンバン」というタイトル作品であったのにはガク然とした。
「チキチキバンバン」は、三十年前に大ヒットした飛行機映画の超大作のタイトルそのまんまだ。恥を知れ。

 皆さん、もっとキチンとしましょうよ。

 出版界だけはそういったお作法が守られていると信じて疑わなかったが、最近「パロル舎のあなたが出した『ピカソ君の探偵ノート』そっくりのマンガが売れてて、TVアニメにもなってるらしいよ。放っといていいの」という声が読者から寄せられた。著者としてはおだ やかではない。早速、そのシリーズの一冊目を買って拝読させて戴いたが、主人公の年齢こそ違え、状況設定は極めて似ている。しかしそれが偶然の一致なのかどうかは、十数冊全部を通読チェックしなくてはならない。
 私は面倒臭がりの上、全買って先方に印税をプレゼントするのも業腹なので、とり敢えず知人を介して版元に事情を聞いてった。
 返事はすぐに来て、
「作者はは舟崎さんの作品を読んでいないかも知れません。だが、スタッフが『ピカソ君』のシチュエーションを面白がって一アイデアとして提案した可能性ないとは云えない」という内容であった。
 ここにも責任の所在がない。

 そんなある日、新聞を開いたら、『怒りをこめてふり返れ』という書物の宣伝が、著者の写真入りで掲載されていた。 日本の女流作家の顔写真である。
私はてっきり、その彼女が翻訳をしたのかと思った。とうのも、『怒りをこめてふり返れ』という作品は、三十年ほど前、イギリスの「怒れる若者たち」世代の代表作といわれたジョン・オズボーンの名作で私の愛読書でもあったからである。しかし、宣伝に載っていたその本は、まぎれもなく日本の女流作家の創作のタイトルであった。
 そこで私は、某大手版元の文芸部にファクシミリを送ってみた。要旨はこうである。
「評論家であり、賞の審査員も務めている著者があの作品のタイトルを知らないということがあるのだろうか。
 万一、御存知なかったとしても、貴社のタイトル会議で、その話題が取り沙汰されなかったのか。
 万一、どなたも御存知なかったとして、一応、著作物のタイトル一覧など照合されなかったのか。
 他著作の一部表現をタイトルに冠するのはやむをえないとしても、題名をそのまま転用することは嘆かわしいことである。
 文壇までが他の業界のように低きに流れて平然としているのは同業者としていたたまれない」
 返事は三ヶ月ほどった今も戴いていない。反論のしようもないのだろうが。

 そこで本号の結論。『グレてやる






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