EpisodeX 「世界が終わるまで」 B
   3

 その部屋の空気は、まるで冬の寒夜に吹く風のように凍てつき、緊迫していた。
 彼女――姫帝と呼ばれ千年以上の時を生きた魔女カーミラ・カルンシュタイン、そして彼の義理の母親――に向けられた視線に込められた突き刺すような憎悪。
 それは長きに渡って積み上げられてきた、男の旧怨だった。
「お会いできる日を長く待ち望んでいましたよ、義母様」
 男が言い、薄く口端を歪める。
「こんな形で貴方に再会するとは思っていなかったわ。でも、私も会いたかった。あれから二百年ぶりくらいかしら。今はアダカール・アルパと名乗っているのね、アルカード……」
 対して彼女は柔和な顔に微笑を浮かべて返すのに、アルカードと呼ばれた男が「私も、貴方が我々に協力する気になるとは思ってはいなかった」と顔に笑みを忍ばせた。
 抹殺者達《Negators》を統括する吸血鬼、司祭枢機教アダカール・アルパ。
 その名は、彼がこの世を忍ぶための偽名であった。
 彼の正体、それは「悪魔公の孫」と呼ばれていた吸血鬼。真名はアルカード・ツェペシュと言った。
 かつて夜の棲人の世界で序列の第一位に君臨していた真祖ヴラド・ツェペシュとその妻リサとの間にできた子供であり、そして姫帝――カーミラ・カルンシュタインの義理の息子である。
 彼女がヴラド・ツェペシュと婚礼の儀を交わして伴侶となり、夜の棲人の世界の主権をヴラドに譲ったのは八百年前の事だ。
 アルカードは、ヴラドの連れ子だった。
 彼の母親であるリサ・ツェペシュは既に他界していた為に、六世紀もの間彼女が養母としての関係を続けてきたのだが、その間の二人は実の親子のように良好な関係を築いていた。
 その親子の間に亀裂が入ったのは二百年前、カーミラが「姫帝」の名を降り「千年の白き魔女」と呼ばれるようになっていた頃の事だ。
 当時のカーミラがツェペシュの血族に反旗を翻し、夫であるヴラド・ツェペシュを処刑した日から。そして再び姫帝として夜の棲人の頂点に舞い戻った日からだった。
「虚色の伯爵を参謀に従え、私は貴方の家名を正統に受け継いだ腹違いの弟、リヒター・カルンシュタインを殺害した。そして彼が夜の棲人の世界から持ち出していた聖杯を手中に収めた。リヒターの影響下になくなった彼の娘の行く先々の人間関係をコントロールさせ、聖杯によって力を不完全に封印された彼女が人間の世界に絶望し、吸血鬼の世界を作り上げるよう望むように仕向けた。そう、全ては私の仕業ですよ」
 アルカードの表情は昔年の憎しみに歪んでいた。
 彼女はその顔を見上げ、悲しげに言う。
「リヒターを殺したのは貴方だったのね。あの子は娘が人間として生きる事を望んでいたのに」
「所詮、吸血鬼は人間としては生きられませんよ。全てはあるがままの形である事でしか均衡を保つ事ができない。一度人間にさせられた私のようにね」
「……あの日、私は貴方から真祖の力を奪ったわ。貴方も義理とは言え、私の息子。せめて人間として生きて貰いたかったけれど、まさか私の世界からはぐれてから死してまで吸血鬼の身体を得るとは思っていなかった」
 言われ、アルカードが戯言を一笑に付すかのように軽く息を吐き出した。
 この場合死してというのは、他の噛まれて発生した吸血鬼と違い、命ある吸血鬼である真祖が永遠の魔力を失い、命を落とした事を意味する。
 アルカードは命の無い吸血鬼だった。
 真祖であった彼は、その魔力を無くし人間と変わらぬ存在となった後、吸血鬼に噛まれて死ぬ事で再び魔力を取り戻した。
 その選択をしたのは、カーミラとの軋轢に他なら無い。
 アルカードがゆったりとしたローブを揺らし、ティーテーブルに歩み寄りスツールに腰を下ろす。
 テーブル越しに、彼女を鋭い視線で捕らえた。
「ええ、こうやって義母様に会うためにね。真祖の力を奪われてからは、協力者に噛まれる事で、どれだけの時間をかけようと"生きる"事を選んだのですよ。魔力が戻って理性が保てるようになるまでは吸血衝動に酷く悩まされました。しかし、今はこの通り……真祖だった頃と違って定期的に血を摂取しなければならない不自由はありますが。私に、自分が死んだ事への迷いはありません」
「何が貴方をそうさせたのかしら。夜の棲人の世界へ戻る事への憧憬、それとも……」
「単なる復讐心ですよ。私の父が処刑され、私達の血族が真祖の力を奪われたあの時からの」
 カーミラの瞳に込められた悲哀が、更に深くなる。
「できれば、わかって欲しかったわ。ツェペシュの血族の一件は仕方ない事だったと」
「仕方ないだと!?」
 アルカードの視線に込められた憎悪が更に深くなり、激情でその瞳の碧に紅が灯る。
「では何故、私の尊敬する父は……ヴラド・ツェペシュは真祖の力を奪われ貴方に殺された! 何故、ツェペシュの血族は夜の棲人の世界を追われた! 義母様と婚礼を交わし、長きに渡り栄華を極めた事を他の貴族どもが羨んだからか!? それとも、貴方が父に譲った序列の位を取り戻すためか!?」
「……」
 彼女の沈黙に、アルカードが牙を剥き出しにした。
「答えろッッ! カーミラ・カルンシュタイン……ッッ!」
「違うわ」
 憤怒によって肌をひりつかせてくるような魔力を放つアルカードに、彼女は首を横に振る。
 その所作には臆した様子はなく、悲観の視線を真っ直ぐにアルカードに向けていた。
 それどころか吸血鬼としての格の差というのだろうか、彼女の風采には若干の余裕さえ感じられる。
 彼女がソーサーにティーカップを戻す、その底にはチョコレートがわずかに残って冷え固まっていた。
 チョコレートは、古来から媚薬として考えられてきた。
 日々の中で、愛を失わない秘薬と彼女は信じているのだ。彼女にとって溶けたチョコレートを嗜む事は、とろけるように温かな愛情を失わぬ薬を摂る行為なのだと。
 彼女はそっと視線をアルカードの紅に染まった瞳に置くと、彼を見つめ言った。
「新たな悲しみを生まない為よ。そして、ヴラドに対する愛の為」
 ほう、とアルカードが息を吐き出した。
「愛の為だと……!? 夜の棲人の世界に棲まう者達が口にする常套句だ。ならば聞かせて頂きたいな、貴方の大義名分を……!」
「では、貴方に問おうかしら。我々はどこから生まれて来たか」
「ゲーテの格言か? 愛という下らない物からだ」
 吐き捨てるようにアルカードが言うが、カーミラは続ける。
「では、我々はいかにして滅ぶか」
「愛無きためというつまらない理由だ」
「人生の全ては愛によって生かされているわ。人間も吸血鬼も同じ。ツェペシュの血族が私の世界から追い出されてしまった理由、それは彼らの血が愛を失おうとしていた事よ」
 アルカードが鼻を鳴らす。
「成程、父に飽きられ見放された事に心を狂わせたと。だから、貴方が作り出した魔術空間から追い出した。我々は義母様のつまらない嫉妬から、人間の世界に放り出された」
 カーミラが首を横に振る。
「魔術は術者の心を映し出す鏡よ。術者の心が闇に染まれば、その術も闇に染まっていく。ヴラドの心は、ツェペシュの血に潜む愛無き獣性に犯され始めていたの」
「汝、隣人を愛せ――」
 アルカードが呟く。
「イエスの教え、そして貴方の世界での掟でもあったな」
「本来、私達は愛によって魔術の奇跡を起こしてきたはずよ。人が愛を確かめる行為が肌と肌を触れ合わせ溶け合おう事なら、吸血鬼にとっては相手を噛む事こそが私達の愛を与え享受する行為なの。愛を向ける対象が同族ならば互いを噛み合い、人ならば愛の証に互いを同じくする。噛む側は愛を注ぎ、噛まれる側は自らを犠牲にしてその愛を受け入れる事に甘い快楽は生まれる。営みは互いの信頼があるからこそできる事なの、愛には犠牲が必要よ」
「……そんな事は、貴方の下で、貴方の世界で生きてきたのだから知っていたさ」
「その行為に愛が存在しないのなら二人の間には悲しみしか生まれないわ。快楽に任せて愛無く人を噛んだ吸血鬼は、その身に受ける憎悪を募らせるばかり。私の世界にそんな者は存在してはならないの。愛無き事は悪よ」
「悪だと……!? あの頃の父にはそんな兆候は無かった……私には、ツェペシュの者には……愛が……慈悲が無かった訳ではない! 我々は貴方の世界での掟を破ってはいなかった……!」
「それはわかっているつもりよ。でも処断を下さなければ、ヴラドとツェペシュの血族の血はいずれその獣性に汚されると予見された。愛を失い、悪に染まった心は破壊しか生まなくなる。だからこそ、取り決めに従い浄化したのよ」
「……それでツェペシュの誇り高き血を絶やしたのか。予見なんて物は、一つの血族を消すための貴方が作ったカバーストーリーにしか過ぎない。実際にその獣性に染まりきった者はいたのかさえも疑わしい。貴方が我々にした行為には、本当に愛が存在していたのか?」
「少なくともヴラドは私の愛を受け入れ、処断を受けたわ」
「ふざけるなッッ!」
 憤怒に金の鬣(たてがみ)を逆立て、アルカードが叫んだ。
「父が聖杯で真祖の力に鍵をされ、処断を受けることを望んだと言うのか!? 聖杯で吸血鬼の血の力を封印を施すための方法は貴様が一番よく知っているだろう!」
 アルカードの身体から、禍禍しい魔力が放たれているのが視認できる程、赤黒い靄が溢れ出た。
 それは彼の心象の奥深くに根付いた殺意を内包された、肌を突き刺せば不快感に痺れるような心の力。
 カーミラはそれを気にした様子もなく、柔和な表情を彼に向け言葉を続ける。
「相手を真に愛している者の血を聖杯で飲ませる事。封印を施される者、封印を解かれる者、そのどちらに対しても」
「そうだ。聖杯を使い、ツェペシュの血族の全ての力を奪う。それを為しえるのは、全ての者に対して平等に慈愛などという下らぬ感情を抱いていられる貴様だけだ! 父は真祖の力が失うと知りながらも、貴様の血を自分から口にしたと言うのか!」
「そうよ」
「嘘をつくなッッ!!」
 叫び、アルカードが力を解き放つ。
 魔力を帯びた靄が触手となって伸び、それが鋭い鋼の刃を型取った。
 それは彼の魔術『Blacksmith《武工》』による現象だった。
 生み出された無数のナイフがカーミラに襲いかからんと飛ぶが、迫り来るそれに彼女はただ瞼を軽く上下させるしかしなかった。
 破裂音。
 彼女の優美な所作一つで、アルカードが放った物質化した魔力は粉々に砕かれ、空気に霧散する。
「小賢しい真似を……ッ!!」
 アルカードが更に魔力を物質化させる。
 浮かび上がった幾百の武器が、チェアに座ったままのカーミラを取り囲んだ。
「これなら、貴様の瞳の中に映らぬ物は消す事ができまい。行けッ! あの女を串刺しにしろッッ!!」
 アルカードの合図に呼応して、武器化した魔力が一斉にカーミラに襲いかかる。
 だが、その全てが彼女に突き刺さる事は無かった。
 その全てが一陣の風の如く現れた初老の男によって、弾き飛ばされていたのだ。
 男は、眼窩に片眼鏡(モノクル)をはめ込み豪儀な白い髭を蓄えた顔を鋭く歪めていた。





「……お前は」
 現れた男にアルカードが言葉を漏らす。
「久方振りでございますな、アルカード坊ちゃま」
「クラレンスか……」
 クラレンス・ギルボア・スカーレット――夜の棲人の世界での字は『赤髭の男爵』、彼はかつてアルカードが使用人として使っていた吸血鬼でもあった。
 カーミラの盾になるように現れた赤髭の男爵を、アルカードは邪魔者を扱うように睨みつけた。
「ほう、今はお前も義母様の使用人というわけか?」
「今の私は誰にも仕えず、気の向くままに日々を送らせて頂いています。それに、姫帝様の使用人は姫帝様のご友人がその役を担っておられますので」
「では、何故お前が義母様の肩を持つ?」
 凍てついたアルカードの視線とは対称的に、赤髭の男爵がおどけて肩をすくめてみせる。
「申し訳ありませんな、私は姫帝様のご友人に入れ込んでおりまして。無限の魔力を持つとはいえ、万が一、姫帝様が傷を負うことになっては彼女が悲しんでしまいますからな。そうなってもらっては私としても困るのですよ、たとえ相手が坊ちゃまであっても」
 茶化すように軽妙な口調で言う赤髭の男爵に、アルカードは鼻を鳴らした。
「女に現を抜かしてばかりだったお前の程度の低さも相変わらずのようだな」
「夜の棲人の世界の貴族は全て、愛を持っていますのでな。私は当たり前の事をしているまでですよ」
「下らん。愛など自己の悪に自覚の無い者が唱える寝言に過ぎん。慈愛という偽りの名を被った偽善を信条としているこの女が吸血鬼を纏め、人間世界での奇跡を司っている――神の代行者たりうる資格を持っているなど、私は考えたくも無い……」
「今の坊ちゃまが愛の概念を嫌う事は重々承知しておりますが、私も私自身の愛を貫かんとするまでです。……つまり」
 これまで軽妙だった赤髭の男爵の口調が一変し、張り詰めた物になる。
「これ以上の蛮行は私が許さないという事だよ、アルカード。姫帝様と彼女との愛ある絆に干渉はさせない」
 その表情は微笑っていたが、その視線は鋭くアルカードを捕らえていた。
 これ以上凶行に及ぶならば有無を言わさず葬る、そう言わんばかりの視線にアルカードは一つ嘆息する。
「……流石は夜の棲人の世界一、女を愛し、愛された男という訳か。お前らしいな。今度の相手はお前が一途に想う程の者のようだ。それにしてもお前も偉くなった物だな、私を呼び捨てとは……。まあ、良かろう」
 ティーテーブルから立ち上がり、アルカードが部屋の出口に向けて踵を返す。
「この世界で神の代行者を名乗る事を拒んだ義母様が、どのようなつもりで我々に協力を申し出たかは知らん。かつての側近だったお前が、どのような立場なのかという事も興味のない話だ。どうせ内々で我々の邪魔をするつもりなのだろうが、そんな事もどうでもいい……好きにするが良いさ。だが、これだけは言っておく」
「……」
「貴様の孫はもう真祖として目覚めてしまった。人間の女を愛し、自らの力を封印してまで夜の棲人の世界を抜けたリヒターの望みはもう叶えられない。もうじき神の代行者はこの世界の人間達を一つに纏め上げる。人間は我々の始祖が禁断の果実を口にする以前のように神の膝元に戻るのさ。それで私の……私の復讐は完遂される」
「アルカード」
 部屋を出て行こうとするアルカードに、カーミラは言った。
「予め言っておくわ。貴方の復讐は成し遂げられる事はない」
 その言葉をアルカードは背中越しにせせら笑う。
「義母様のお得意の予言か? 私には貴様と同じように先見の明に秀でた虚色の伯爵がいる。人間の世界の浄化は進んでいる。もう何もかもが遅いんだよ」
「……」
「この世への奇跡は、慈悲は、貴様ではなく新たな神の代行者ミウ・カーミラ・カルンシュタインが与えるようになるのさ。そして、それを傀儡にし、吸血鬼の世界を……この世界を私が掌握する。それが私の復讐だ。貴様を神の代行者の座から引きずり下ろしてやるぞ、カーミラ・カルンシュタイン……!」
 そう言い残し、アルカードは部屋を後にする。
 その場から去った義理の息子に語りかけるようにカーミラは呟いた。
「どうか、憶えておいて。貴方の獣性は自分の身をいつか滅ぼすわ。彼は――虚飾の伯爵は事の成り行きを見抜くことができる聡明さがある。だからこそ彼に気をつけなさい。それが貴方へ最後に言える言葉よ」

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