
| EpisodeU 「吸血衝動、そして抹殺者」 E | |||
| 6 音が鳴った。鐘の音だ。 そこは二種類の色に分けられた世界だった。存在するのは白と黒、もしくはその中間の色だけだ。 一つ、二つ、三つ……十二の鐘の音が鳴り終えると、モノクロの世界に静寂が再び訪れた。 鐘を鳴らしたのは、時計塔だった。黒いキャンパスに無数の白い線が重なるように、時計塔が描かれていた。否。深闇に包まれた空間を切り取るように、白い時計塔が佇んでいたのだ。 時計塔の純白に、一つの黒い影が降り立った。影は小さな少女だった。 彼女は黒き姫君と呼ばれていた。いつから呼ばれてたかなどということは、彼女には興味のないことだった。彼女には、夜の棲人の間でその名で呼ばれている自覚などなかったからだ。とにかく、夜の世界の者にとって彼女は黒き姫君であり、それ以外の何者でもない。 「鐘が鳴ったよ」 黒き姫君は言った。 その言葉が彼女の唇から解き放たれると、塔に絡まるツタに留まっていたもう一つの影が白い新芽となってしなやかに延び、枝となった。モノクロの世界に存在し得ないほど鮮やかな白銀色をしたその枝は、黒き姫君が見上げるほど丈高い。枝が人型を紡ぎ、たちまち気高き白銀の少女となった。 その少女は、姫帝と呼ばれていた。彼女がそう呼ばれ始めたのは遙か昔の事。彼女はそう呼ばれる事を誇りにしていたが、初めてその名を耳にした時の気持ちは既に過去に置き去りにしてきている。彼女は誇り高いのだ。夜の棲人にとって彼女は遙か昔から姫帝であり、これから先も永遠にそうであり続ける。 「始まったのね」 姫帝が言った。 姫帝が呟くと眠っていた時計塔の歯車が軋み出し、やがて回り始める。カタカタと歯車の回る音に混じって分針が時を刻む音が静寂を乱した。 「動き出したね」 黒の姫君は言った。 「時が来たのよ」 姫帝は言った。 「これからどうなるの」 黒き姫君は言った。 「彼次第ね」 姫帝は言った。 「そうなの」 黒き姫君は言った。 「そう」 姫帝は言った。 時計塔の窓辺から見下ろした眼下、漆黒の霧の向こうに映るのは庭園で抱き合う男女の姿。黒き姫君はそれを見た。 「これも想定の内だったの」 黒き姫君は言った。 「そう。始めから決まっていた」 姫帝は言った。 「因果っていうの」 黒き姫君は言った。 「そう。全ての事象にはある程度まで起こることが決まっている」 姫帝は言った。 「それが運命。導き出される結果は、そこからは当事者達の選択次第」 黒き姫君は言った。 「その通り」 姫帝は言った。 姫帝が浮かび上がる幻像を覗き込んだ。 「彼女は孤独を感じ生きてきた。そして、その中で一人の男と恋に落ちてしまった。それが彼女が作った因果」 姫帝は言った。 「二人が恋に落ち、求め合うことが引き金になるってことなの」 黒き姫君は言った。 「そうであり、そうではない。引き金は一つだけではない」 姫帝は言った。 「巡り合ったいくつもの運命の糸が絡み合い、一つの運命を紡ぐんだね」 黒き姫君は言った。 「そう。彼女の運命はいくつもの因果により一つの結末に向かって動き出した」 姫帝は言った。 「どんな結末になるのかな」 黒き姫君は言った。 「それはわからない。私達は見守ることしかできない」 姫帝は言った。 外観というものは、いちばんひどい偽りであるかもしれない。世間というものはいつも虚飾に歎かれる。
「寂しかった。私は普通の人間なんかじゃないから、誰も理解なんてしてくれなかった。初めてだったの。こんな私でも受け入れてくれたのは恭介君だけ……」 深憂が呟く。鋭い、針のような八重歯――いや、牙が恭介の首筋に今まさに突き立てられようとしていた。 「君は私の心に届いた初めての人なの。だから、私と永遠を誓って欲しい……」 「深憂さ……ん」 額から流れ出た冷たい汗が、火照った頬を冷ます。深憂の願いに、恭介は困惑していた。 彼女の牙を受け入れること――それは、自分が彼女と同類になることを選ぶことになのかもしれない。つまり、人間であることを捨てることになるかもしれないのだ。 彼女は恭介を噛もうとしている。その行動は、彼女が抱く思いの深さからのものだ。噛むという行為は彼女の焼け付くような熱情そのものだった。 自身が人間でないことの孤独を彼女は感じている。だから、愛しい人間も自分と一緒の存在であってほしい。永遠に一緒でいてほしい。そんな思いから彼女は噛もうとしているのかもしれない。 ――彼女は孤独をわかって欲しいんだ、俺に。 それは理解していた。理解してはいたが、恭介の口から出た言葉は彼女の行為を受け入れるものではなかった。 「待って……くれないかな、深憂さん」 恭介は、彼女の肩を軽く押し返す。 拒絶されたと思ったのだろうか。深憂は寂しそうな視線を向けた。 「やっぱり、受け入れてはくれない……?」 「……」 深憂の悲しげな表情に、恭介は黙って首を横に振った。 「……俺、深憂さんのことは好きだよ」 「じゃあ、なんで……」 「それは……」 言い掛けて、出かけた言葉を詰まらせた。 「……」 「……恭介君?」 赤い双眸が恭介を覗き込んだ。今宵、夜空に浮かぶ紅月のような深憂の瞳が、切なく潤んでいるのを恭介は見た。 ――言えない。 彼女にどんな言葉を返せば良いのかわからなかった。いや、単に口に出すのが怖かったのかもしれない。 自分が人間でなくなるかもしれない。それが怖い。その正直な不安を吐露して、彼女を傷つけるかもしれない。それが怖い。 彼女の目は真剣だった。吸血鬼になるまで誰かを噛んだことは無いと彼女は言っていた。噛んだ後、どうなるかは彼女も知らないのだろう。 噛みたいという彼女の意思は、吸血鬼の血が本能的にそう思わせているのかもしれない。永遠を共にしたい相手を同族にするために。選ばれたのは、自分だった。 ぐびり、と恭介の喉が鳴った。 (受け入れれるのか?) 自問してみたが、心臓は溢れ出る一抹の不安に早鐘を鳴らすだけだった。胸奥から答は返ってこない。 『一つ、忠告しておくわ。神良 深憂には気をつけた方が良い。あなたが彼女に気に入られているなら尚更に』 突然、その言葉が脳裏をよぎった。 『吸血鬼カーミラの物語のように、彼女に取り付かれて血を吸われてしまわないようにね』 それは今朝、音無 林檎の言っていた言葉だった。 公園でのOL殺人事件。撫蘭高校の生徒数人の失踪。森彼方市で起きている吸血鬼騒ぎの犯人と噂されている彼女。そして、彼女が吸血鬼の血を引いていると知って忠告をしてきた音無 林檎。 今朝から強烈に浮かんでくるイメージが、脳裏にフラッシュバックする。 それは深憂が恭介に噛み付いて血をすする光景だった。 突き立てられた牙が肌に食い込み、皮膚を破り、肉を貫く。風穴を開けられた血管から外へ溢れ出す鮮血を、彼女は恍惚に酔いしれながら飲み干す。剥製のように魂が抜けた、自分の姿をした肉塊がそこにはあった。 ――怖い。 そう思った瞬間、膝がわなわなと震え出した。 それが、恭介の深層心理が導き出した自問に対しての正直な答えだった。 自分の腕の中にいる彼女を愛しいと思えば思うほど、それに反して湧き上がってくる恐怖。 嗚呼、怖い。 彼女のことをわかってあげたい。 なのに。どうして。 こんなにも。怖いのか。 怖い。 怖い。怖い。怖い。 心臓が鷲掴みされてるって思うくらい、怖いんだ。 本当は吸血鬼という異形になるのが、彼女が傷つくのが怖い訳じゃない。 そんなのは取って付けたような言い訳でしかない。 それよりも、単に―― ――俺は彼女に血を吸われて死ぬのが怖いんだ。 「……」 「……」 二人の間に流れる静寂。 しかしその沈黙は、どこからともなく轟いた一発の銃声に切り裂かれた。 ズドン、と轟音が鳴るや否や。二人がいた噴水の向こう側にあった木、その枝が弾け飛ぶ。 「本性を現したわね、神良 深憂……」 銃声の余韻が残る中、そこにハスキーなアルト・ヴォイスが厳かに響いた。 二人は声の発生源に振り返った。そこにはショートボブの少女が、マロニエ並木の中央、白い煉瓦の敷き詰められた歩道に佇んでいた。――その手には銃を構えて。 二人は銃を向けてくる少女の顔が見覚えのある人物であったことに驚きを隠せなかった。そこにはクラスメイトの転校生、音無 林檎がいたからだ。 だが、二人が驚きを隠せなかったのはそれだけが理由ではなかった。彼女は西洋風のゴシックなデザインがされた制服――いや、戦闘服に身を包んでいたのだ。しかしそれは仮装と呼ぶにはあまりにも"らしい”デザインだった。 夜の屋上庭園には場違いとも言えるその服装も気にかかるところではあったが、それ以上に二人の目を引いたのは彼女が手にした拳銃だった。 それは、古色蒼然とした真鍮製の回転式拳銃《リボルバー》だった。明るい金色で、装飾が施されている。 彼女が向ける銃口は、一度引き金が弾かれれば一直線に深憂の左胸を背中から撃ち抜けるように構えられていた。銃声の後、木の枝が弾け飛んだのを見ればそれが玩具の鉄砲などではないことはすぐにわかる。彼女の握っている銃は、本物だ。 恭介は一歩踏み出し、彼女と深憂の間に割って入った。背後にいる深憂を守るよう腕を広げ、言った。 「お、音無さん……? なんでここに……」 向けられた銃口に、汗が背筋を伝っていくのを恭介は感じた。彼の言葉に、林檎が妖艶に口元を歪めた。 「さぁ……紅い月が綺麗だったから、誘われてきたのかしら」 そう言って林檎は冷厳な色に染まる目を細める。彼女の言葉に恭介が訝しげな表情を浮かべ、言った。 「おかしいじゃないか。それじゃ、君が銃を向けてくる理由の説明がつかない」 「あら、あなた達がここにいる理由と同じよ。地上52階建ての高層ビルの屋上、しかも関係者以外は入る事ができないはずの屋上庭園に何故あなた達がいるのか説明できるのかしら?」 その質問に恭介は答えられない。彼の背中に隠れるようにしている深憂も同様に、静かに口を閉じていた。つまりは林檎も恭介の質問に口を割るつもりはないということだ。 彼女の目的がはっきりとしない以上は、言葉を選んで相手の思惑を探っていかなければ不利な状況になると恭介は考えていた。唯一わかっている事と言えば、今までの林檎の見せていた態度から彼女の拳銃が深憂を狙っているであろうという漠然とした推測のみだ。 彼女が向ける銃口は、それが例え時代遅れな古めかしい拳銃であっても、玩具の鉄砲を向けられるのとは違った重厚な威圧感を与えてくれる。その金色の筒から鉛玉が今にも飛び出してくる想像を脳裏に浮かべ、恭介は膝が震えそうになるのを必死にこらえて言った。 「君は一体何者なんだ」 「それはあなたのお察しの通りのはずよ」 はぐらかすような回答だ。あくまで答えるつもりは無いらしい。恭介が表情を険しくし、声を荒げた。 「……一体、これはどういうつもりだよ!」 「あら、私はあなたの危機を救ってあげるつもりだったのよ」 「救う……?」 「そうよ。彼女に心を許し、あまつさえ血を吸わせる隙さえ与えてしまうあなたを。本来ならあなたが彼女を狩る立場のはずなのに、とんだ見込み違いね」 「……どういう意味だよ」 恭介は語気を強め、唸るように言った。林檎は肩をすくめ、唇に薄笑を浮かべた。 「あら、まさかご両親からは何も教えて貰ってないのかしら? あなたは代々吸血鬼狩りの家系の人間はず。そんなあなたが何故彼女を庇うのかしらね」 「吸血鬼狩り?」 訳が分からないといった表情を返す恭介に、林檎は片眉を上げた。 「本当に知らなかったのかしら。道理で吸血鬼の誘惑に簡単に乗るのね。偽の戸籍を使って日本の高校に転校してまであなたと接触しようとしたのに。どうやら無駄だったようね」 偽の戸籍? 俺と接触? 吸血鬼狩りの一族? 言っていることが、現実から飛躍し過ぎていて訳がわからない。非現実的な出来事に、思考がまともに回ってくれない。混乱している。 「どういうことだよ。君が転校してきたのは、俺が吸血鬼狩りの一族だからか! 森彼方市にやってきたのは、吸血鬼事件があったからか! それで深憂さんを犯人だと思ってるんだな!? 吸血鬼狩りの一族って何だよ!!」 恭介が思考の全てをぶちまける。それに答えたのは林檎ではなく、男の落ち着いた声だった。 「ダンピールの退魔師ですよ、史文君」 短くまとめられた黒い髪。白人系の、ぬけるような色白の肌。深い彫りと秀麗な眉目。中性的な顔立ち。 それを見て、恭介はその人物の名を呟いていた。 「ロナルド先生……」 そこに現れたのは健康診断で採血を担当していた医者だった。しかし、今は白衣ではなく林檎が着ているものと同じデザインをした男用の戦闘服に身を包んでいた。 「先生と呼ぶのは適切ではないですね。……そうですね、林檎様がこの討伐小隊の隊長なのですから、補佐役の私は副隊長です」 一人呟き、ロナルドは口元に薄く笑みを浮かべた。彼の出現に面食らっている恭介を他所に、言葉を続ける。 「我々は抹殺者達《Negators》という機関の者です。人の世に害なす人あらざる人の存在を否定《Negate》する、それが機関の目的。悪魔祓い師《エクソシスト》と言った方がまだわかりやすいですか。私たちの部隊は吸血鬼専門でしてね。我々は吸血鬼の出現の情報から森彼方市に配置され、対象とおぼしき人物の通う高校へと潜入。対象の監視、及び協力を得られそうな人物への接触を試みました。ダンピールの一族の末裔である君にね」 「ダンピール……?」 「吸血鬼と人間の混血――つまりハーフの吸血鬼の事です。混血として生まれた者は、成長すると吸血鬼狩りを生業とするなんて話がジプシーの伝承にもあるんですよ。まあ、あなたの一族の祖が生きていたのはざっと300年ほど前の話。人間との交配を繰り返した結果、血は薄れていったのでしょう。あなたはほぼ人間としての能力しかないまま生まれたようですね。あなたは吸血鬼狩りとは関係の無い世界で、普通の人間として育ってきたのでしょう。だから神良 深憂の力で簡単に魅了されてしまった」 まるで幻想物語でも聞かされているような気分だった。肉親からならともかく、今日知り合ったばかりの人間からでは信じようにも確証が持てない。それよりも恭介はロナルドの言葉に一つの違和感を覚えていた。 「俺に協力を求めるということは……吸血鬼のハーフは狙わないってことなのか」 「あくまで人の世に害をなす人あらざる者を狩るのが我々の使命ですから。あなたは、力を持って生まれていれば吸血鬼狩りとして活躍していたでしょうしね。それならば、我々と目的は同じ。協力を求めるのが道理という物です」 「俺が吸血鬼のハーフだと言うなら、彼女だって吸血鬼のハーフだろ? 何で彼女を討伐なんてしようとするんだよ!」 「至極簡単なことです。彼女は混血などではないのですよ」 ロナルドが視線を恭介の後ろ、固唾を呑んで様子を伺っていた深憂に向けた。背中越しに、彼女の肩が震えているのがわかる。自分を討伐すると突然現れた者達に、怯えているのだろう。 恭介は訝しげな表情をロナルドに向けた。 「どういうことだよ」 「私があなたの高校の健康診断に医者として潜入しましたが、その理由がわかりますかね?」 ロナルドが戦闘服の腰に付けられたポーチから、一本の試験管のようなものを取り出した。赤い液体が溜まったそれに視線を移す恭介に、ロナルドは言った。 「彼女の血です。採血した血を分析した結果、我々は彼女が吸血鬼であると断定しました。そして、我々は満月になるのを機に彼女が動き出すのを待っていたのです。満月に近づけば近づくほどに、吸血鬼はその力を増し、本能に取り憑かれますからね。満月になる前に彼女が血の本能に任せて君を噛もうとしたのは誤算でしたが。逆にそれが好都合でしたよ。機関の規約では、狩って良いのは人に害をなす吸血鬼だけでしてね」 「それで、吸血鬼事件の犯人として彼女を討伐するのか」 「聡明な回答です。しかし、愚かな御人だ。あなたは自分を噛もうとした吸血鬼を庇っている。あなたがそうしなければ、私達に吸血鬼の信奉者として認識されることはなかった」 そう答えるロナルドは笑みで目を細める。冷徹で、厳格な、薄い微笑だ。 そんな彼に林檎は視線で合図を送った。それに頷き、ロナルドは戦闘服の襟から胸へと手を差し入れる。そして拳銃を抜き出すと銃口を深憂に向けた。拳銃は林檎の物とは違い、プラスチック製のオートマチックだ。 ぎょっとする恭介に林檎は言った。 「銀製の弾丸入りよ。対吸血鬼用だけど、対人用の鉛弾と威力は変わらない」 「……どういう意味だよ」 「私達の銃口が誰に向けられているかはわかるわよね?」 恭介は歯噛みした。彼らの狙いは背中の後ろで身を潜めている深憂だけだ。 林檎が銃口をこちらに向けたまま、ゆっくりとした歩調で近付いてくる。それは彼女をこのまま庇い続ければ、深憂を殺す前にその手にした拳銃で俺を殺すという脅しだった。 残り三歩の距離で立ち止まり、林檎は妖艶に唇を歪めた。 「お話はここでお終い。お退き遊ばせ、坊や」 林檎が顎を上げて、脇を示す。銃口は恭介に一直線に向けられたままだ。 ここで言う通りにして彼女を庇う事をやめれば、少なくとも自分の命が奪われることはないのかもしれない。しかし、それを選べば彼女がみすみす彼らの手にかかるのを許すことになる。そんなことをして自分だけが生き延びたとして、それは最良の選択なのだろうか。 ――いや、そんなはずはない。そんなことをしてしまったら、好きな相手を見捨ててまで自分だけを守る奴だと自分を責め続けることになる。 膝が恐怖に震えている。でも、今しなくちゃいけないことをしなければ自分が自分を許せない。 「嫌だ、俺は絶対退かない」 恭介が言うのに、林檎は冷徹に引き金を引いた。 一発の銃声。 「――――ッ!?」 激痛が恭介の右足を駆け抜けた。林檎の拳銃が放った弾が恭介の右の太股を撃ち抜いていたのだ。 痛みに立っていられず、恭介は思わず地に膝を着いた。そんな彼を林檎は冷徹な瞳で見下ろした。 「私は退けと言ったのよ」 「い、嫌だ……!」 恭介が右脚の痛みを堪えて、立ち上がろうとする。 「そう……残念ね」 「――――ッッ!!」 恭介の返答に、林檎はもう一度引き金を引いていた。 激痛で、喉から出る声が言葉にならない。今度は左の太股。撃ち抜かれた場所から、鮮血の飛沫がぶしゅっと噴き出した。 「く、くそっ……」 がっくりと膝を着く。 立ち上がろうとしても、痛みで思うように脚が動いてくれない。例え立ち上がったとしても、このまま前のめりに倒れそうだった。 「無様ね。あなたがいけないのよ。私の言う事に素直に従わないから」 林檎が漆黒色の瞳を冷酷な笑顔で妖艶に歪める。 それでも恭介は立ち上がろうとしていた。林檎は、不愉快そうに眉を寄せた。 「まだ邪魔をすると言うの? まだ退く気がないというのなら、私達はあなたの死を見守るしかないようね」 林檎が、跪く恭介に銃を向ける。真鍮製の銃口は、月明かりに鈍く金色の光を返していた。 クスリ―― 突然、誰かが笑う声がした。 恭介の動きがピタリと止まった。その笑い声は、恭介が予想だにしない人物からだったからだ。声は、恭介の背後から響いていた。 振り返れば、紅い瞳が軽薄な笑みに歪んで恭介を見下ろしていた。 「フフ……アハハハハハハハハ……!」 「深憂……さん……?」 高らかな笑い発する深憂を、恭介は驚愕の表情で見た。 視界に映っていたのは紛れもなく深憂だった。先ほどまで自分の背後で身を隠し、怯えながら事の様子を伺っていたはずの彼女が、ぼろぼろになって跪く恭介を嘲笑する姿がそこにはあった。 深憂は恭介を見下ろし、言った。 「はは……おかし。可哀想にね、恭介君。あたしにまんまとだまされて、こんな目に遭っちゃうんだから」 「深憂さん? 何を言って――」 「まだわからない? あたしはあなたに取り入って、頃合いを見てあなたを食事にしようとしてたんだよ」 深憂が口にした言葉に対して恭介ができたのは、ただ愕然とすることだけだった。 さぞ可笑しそうにしている彼女を見ていると、止まっていた思考がゆっくり回り始めた。まず最初に思い浮かべたのは、『彼女の言っている事が理解できない』だった。 「――――――――」 本当は、ただ認めたくなかっただけなのかもしれない。 「――――――――」 今までの日々は、彼女が演じてきた偽りだったのか。 「――――――――」 そう簡単には認められないほど、彼女に対しての情が深すぎる。 「――――――――」 彼らの言う通り、自分は彼女の誘惑に魅了され、まんまと女吸血鬼に噛まれそうになった無様な男だったのだ。 「――――――――」 そう思うと、胸が締め付けられて、苦しくて。抑えきれない気持ちの向ける先が無く、ただ呆然として立ち上がる事を止めていた。 嗚呼、何を自分はこんなになってまで守ろうとしていたのか。自分が守ろうとしてきたのは彼女が作り出した偽りの幻影だったのか。今はそれさえもわからない。 驚愕に震える恭介から自分に対峙する二人――林檎とロナルドへと視線を移すと、深憂は楽しそうに艶やかな微笑を向けた。 「遊びましょ、抹殺者さん達」 呟き、ふわりと深憂の身体が浮き上がる。紅月を背に、妖艶な微笑を浮かべて宙を漂うその白いシルエットはまさに生粋の吸血鬼そのものに見えた。 ![]() 「ほら、捕まえてごらん。あたしを楽しませてよ」 深憂はくるりと宙を旋回する。一瞬、こちらを振り返ったかと思うと、紅の月へと向かって飛び去った。 その方向を見据え、林檎が言った。 「追うわよ」 「仰せのままに、林檎様」 頷き、ロナルドが林檎へと近づきその腕を取る。 力無く地に座り込んだままの恭介の背中を見て、林檎は声を投げかけた。 「忘れなさい。今夜、私達に会った事を。そして、彼女との恋を」 その言葉に、恭介は何も言い返さない。そんな彼に林檎は、表情を変えず淡々と続ける。 「吸血鬼と人間は相反するわ。吸血鬼は人を欺いて近づき、餌食にするだけの存在。人間は彼らに食されるだけの存在。情を深く持ってしまうこと自体が、そもそもの間違いなの。あなたは忘れられないかもしれない。でも、失恋とはそういうものよ。あなたは彼女の作り出した虚飾に欺かれただけ。だから、忘れなさい。その方があなたにとって幸せよ」 それだけ言い残すと、彼女は再び闇空を見上げた。 林檎が何かを呟き、トンッと地を蹴る音が背中越しに恭介には聞こえた。恭介が振り返る頃には、二人の姿はあとかたもなく掻き消えていた。 恭介は、そっと紅の月に浮かぶ白い小さな影に視線をやる。段々と小さくなっていくその白い点を凝視するほどに、彼の胸は苦しくなっていく。 頬を、一筋の涙が伝い落ちた。 恭介の目には、夜空に浮かぶ紅色に染まる月がただ滲んで見えた。 |
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