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第8幕
--------意識とは別に、身体の震えが停まらない。
外面が業火に焼かれるかのように熱くて、脂汗がしどろと全身を濡らすくせ
に……、内面が氷に晒すかのように冷たい悪寒に抱かれる。
怖い--------、ふわふわして、精神がますます安定しない。体温が内面に
逆らい上昇してくる感覚にヘドを出そうになる。
緋音は応接に入った途端に壊れた。
後ろで支えてくれた綺羅の甘い声色に再び襲われた瞬間である。
……ここに飾られてある絵画は、鋤空さまが持つ性への願望です。
何を言っているのか解らない! 全然理解出来ない! 一体何なの!
何もかも厭になった--------。誰かともう喋りたくない、誰とも意思が通
じない、何も観ていない、どこかに帰りたい--------。
--------どこか? その場所はどこにある?
考えた途端に捜すのが億劫になる。熱くて寒い感覚だけが残った。
誰かと誰かが何かを喋っても映像は砂嵐で、聴覚だけが機敏に反応する。
……何? 早く来ないと……冷めてしまいます?
「どうした、緋音? 早く来ねえと紅茶が冷めちまうって、実紀がさっきから
お呼びして……ます」
萩乃の一言で緋音は覚醒した。映像がぱっと広がって色づく。
淡い桜色、茶色のAV機器、中央のガラスのテーブルの上にはモノトーンの
カップ、赤く忌まわしい絵画。そして、異端者たちがこちらを見ている。
やはり、異界の中で彷徨っているのだ。
萩乃が隣にいる深渠に振り向いてぎこちなく笑い、カップに口を付けてグビ
クビと酒を呑むように飲み、
「あちちちちぃ、やっぱ、綺羅チャンの言うとおり、オーナーの煎れるダージ
リンティーは旨いです……こほっ!」
いくら口に合わなくてもムセるまでの飲み物なのか? 飲み方が傍らから見
てもおかしいと思いながら、緋音は本心をはぐらかすように、テーブルに近づ
いた。実紀は萩乃の向かい側で、細く白い両手で掬うように口を付け上品そう
に飲む。立ち振る舞いが実に様になっている。
綺羅の言った「実紀に気を付けろ」という忠告は、綺羅自身に返したい……。
そう思った。
人を惑わす新進画家は、ただ紅茶の匂いを愉しむだけで、カップをゆっくり
と回して湯気を見つめる。目が虚ろに濁っていて感情が読み切れない。
緋音はボストンバッグを握り締めたまま、わざとソファを迂回して、綺羅の
隣に座った。もう何も怖くない--------、むしろ強くならなければ。
斜め向かいにいる深渠はなぜかやさしく微笑んでくれる。この老人にこんな
表情が出せるとは知らなかった。
カップに凍えた手をすっと差し出すと、この画廊に来て初めて温もりを感じ
たように思え、
「頂きます……」
深渠に軽く一礼してから、カップを持ち上げて香りを嗅いだあと、少し口に
含ませる。なめらかな口当たりと適度の甘さ、ダージリンの良さを最大に引き
出してすこぶる美味しい。
淡い桜色の壁に飾ってある如何わしい絵画は、目前からいつの間にかなじみ、
消えた。
「お味は如何ですかな?」 「美味しいです」
緋音は深渠に正直に告げ、もう一度、頭を下げて「でも、本当に泊めて頂い
てもよろしいのでしょうか?」と尋ねた。うろ覚えだが内容だけは……。
「……“わたくしのお父様”は最初から申し上げているでしょうッ!」
突然、隣にいる綺羅が立ち上がって、「“交わらせろッ!”」と緋音を睨み
付けて取り掛かった。緋音は戦慄してたじろいだ。
やはり……、この少女には狂気が備わっている。恐ろしくて身を引く間さえ
ないうちに、失神した……。
微かに甦ってゆく意識。
「止めて! ここは“お母様”の来る場所じゃない! 死人には禁断の場所が
用意されているはず! 一時でもいいから立ち去って!」
ぼんやりとした映像と音声が重なる。
実紀がスローモーションに起立すると、綺羅を押さえ付けて左耳のピアスを
抜き取り、針の部分を綺羅のうなじに--------刺した。
「オーナーッ! 爺サンッ! 早く孫娘を止めろッ! 綺羅の首から血が……
おい、救急箱はどこだよッ!」
萩乃が……深渠の胸倉を……。血が細く赤い筋が浅黒い首からどくどくと流
れて……スモッグを汚す。
「これでいいのです! 落ち着いて下さいまし坂井さま! 実紀はただ……、
“綺羅が遺伝してしまった負”を“緋色の涙”で停止させただけですから!
止血はしなくてよろしい、わたくしめが処置しますゆえ! その手を離して
下さいまし!」
ああ……、この老人は乱れてしまった。緋色? 緋音の名前は緋色の緋……。
お父様? お母様? 遠くからその活字が脳に染み付いて離れない。
映像がふっと霞み、何もかも解らなくなる。
このまま全部、記憶が消えてくれればいいのに……、
……私は“前世の記憶”を思い出してしまった。
私は……緋音であり緋音ではない……。私の前世はこの画廊……いや、この
場所は今の画廊の建物ではなく、赤いツタが屋敷に這い巡らせていた深渠家の
別邸だった。私は……、そこで下働きの女中として働いていて、“あの方”に
大層良くしてもらったことを憶えている。
そして、私は深渠凱瑙と恋仲になってしまった。まだ深渠が男盛りの頃、私
が奥方のいない間を利用して、想いを打ち明け密通する。
深渠は遊びのつもりで私と関係したかもしれない。私はそれでも主を愛して
止まなかった。
狂おしい、初夏の匂いが出窓の隙間から入ってくる。青葉が太陽の光に反射
して輝き放ち、その光に投じてふしだらに私たちは昂揚したのだ。
ひと夏の想い出、身分も立場も道徳も倫理も皆忘れてしまう恍惚は所詮許さ
れない。私たちは“あの方”がドアから入って、視られていたことには全然気
が付かなかったのだ。そう、深渠のひとり娘の眞奈(まな)に……。
--------さっきから何をやっていらっしゃるの? お父様、千影(ちかげ)
さん……。
私たちは驚愕して、絡み合ったまま寝台から上半身を起こすと、純白の絹の
シーツがはらりと寝室の床に落ち、裸体をあらわにしてしまう--------。
じめじめとした湿気の多い夏場なのに身体が震え、硬直した。
眞奈は白いフリルのブラウスに暗色のスカート姿の出で立ちで、深緑の透き
通った瞳を異様に輝かせて、突然、両手で抱えていたスケッチブックを破り捨
てた。
細かく、細かく千切った紙クズは夏の吹雪へと変貌したあと室内を舞う。
--------汚れてる、まともな人間がやることじゃないわ、いいえ、人間じゃ
ないわ獣よッ! 獣ッ! 一週間後に杢弥財閥の御曹子のところに嫁入りする
娘の前で良くそんな汚らわしいことが出来るわねッ! 獣同士が交わるところ
なんて視たくもないわッ!
一気に罵倒の言葉を浴びせられた割には、反論の余地はない。当然だ、それ
相当の悪事を働いている。それに……、
--------ふふ、ふふふふふ。もうよくってよ……、お父様、千影さん……。
わたくしが言い過ぎましたわね、申し訳ありませんでした……。
……あなたたちを獣と罵らない代わりに、わたくしと今ここで、“交わって
もらいますわ”。あなたたちが“交わっていたせい”で、わたくしの精神は、
それこそ汚れ、堕落して行きましたから……。生娘のわたくしを、実の父親が
手込めするとは、どういうことだか判っていますわねお父様?
ふふふ、きっと“最大の苦痛と罰”が与えられるわよ。
千影さん、恩を仇で返してくれたあなたは、なかなか素敵よ。背徳を身に付
けているからそうやって昂ぶるのね。ふふふ、同じように、このわたくしを昂
ぶらせてくれるかしら? ふたりとも出来るわよね、“さっきの続き”を繰り
返すだけで良いですもの……、簡単でしょう?
甘い甘い声色とひと夏の生涯は--------。
……記憶はそこで、ぷつりと途切れた。
「ああ……」
緋音は再び目醒めて唸った。視界が優れなく目はぼやける。どうやら、ここ
は例の応接ではなく個室、しかも布団の上らしいことが判明した。
「な……ぜ……?」
ベージュ一色の天井に、意味不明の言葉を口走ると、
「ばーか、血を見てブッ倒れちまったヤツは初めて見た! おまえ、ある意味
記念になるよ」
聞き慣れた、とても懐かしい声がすぐ隣から聴こえた……。
「は……ぎ……の……?」
緋音は途切れ途切れに呟いて、重い首を横に捩らせた。
ここはどこだ? 何か『時の画廊』と雰囲気が違う、和室で部屋がやや狭く
殺風景であり、奥には古い石油ストーブが埃を飛ばしながら作動している。他
に目立ったインテリアはないに等しい。
すぐ隣には萩乃がいじわるっぽく笑っていた。なぜか赤いGジャンから、華
やかな柄の和服を着て立ったまま、三つ指を揃えて、「いらっしゃいませ」と
頭を下げる。
「何も……判らない」
今はただそれだけしか言えなかったけれど、緋音は萩乃の後ろに隠れる黒色
の背広の少年に気が付いた。髪型は少し長い黒髪、男性とは思えないほど色素
の薄い肌に、フレームのない洗練された眼鏡と二重の大きな瞳、皮脂の少ない
美しい少年が中腰で自分を覗いてくる。
少年は細い声をオズオズと、
「だっ、大丈夫ですか? ああ、僕は、僕は、そのう、あの……」
萩乃以上の難解話術を使ってくる。萩乃には兄弟はいないはずだが……もし
かして 、この少年が萩乃の!
「おいおい、ほんとに大丈夫かよ? ふたりとも。なっ伸くん、もっとさしっ
かりしてくれよ。緋音、コイツが私の旦那の伸一。まっ、よろしく頼むよ。
私らの仕事が終わったからさ、おまえの調子見に来てやったよ。感謝しな」
やっぱり予想は当たっていたが、ここは……『時の画廊』ではないのか?
実紀は、綺羅は、一体--------。
「ここは、どこ……? 『おいでん』……なの?」
唇も喉も全体が乾燥していて、巧く表現出来ない。ただ、屈折した空気は、
ここには感じられなく、精神は極めて正常へと戻る。
「昔遊びに来てたのに忘れちゃったのかよ、そっ、ここは私の家だ! あのビッ
クリハウスから脱出ってか、って冗談言ってる場合じゃないか」
萩乃は女将の格好をしたまま、仁王立ちになって天井を睨み付ける。
その年上の妻を見て、いかにも養子ですという感じの伸一が、
「僕、席外そうか? 何か、何ていうか……、僕がここに居ちゃ話しにくそう
だし……」
「別にいいよ、ここに居て。伸くんがいないと心細いってゆーか、誰か側に好
きな人が居ないと寂しい気がしてグズっちゃう……。
今日、『時の画廊』に行って思っちゃったよ、あそこにひとりで居ると何か
怖くて不安でよそよそしくなっちゃって、私が私でなくなるみたいな感じか?
ああ、齢のせいかな、こういうの。若い頃は、って今でも現役だけど、ひとり
で生きてみせる、っていうのを誰しも一度は思うことかもしれないけど、今は
違うよ……」
長くちょっぴり青臭い話--------。萩乃は少し照れ臭そうに髪を掻き上げ、
頬をほんのりと赤く染めている。
緋音は正直、萩乃の言っていることが解るような、解らないような複雑さに
溺れ、これはきっと願望の裏返しだと思い至る。萩乃なりに元気付けてくれて
いるかもしれない。
……認識が変わった。
こうして枕元から見上げると、萩乃は弱気を吐く割に美しい表情をしている。
ずっと強いと思っていた友人は少しずつ人格が柔らかくなってゆき、遠い存在
の大人に見える。主観から客観に換わると、萩乃はとても美しく見えた。
「なっ、何、人の顔ジィーッと! わっ、私はただ本音を、」
「萩ちゃん、待って。僕たちはまだ本宿からどうやって帰ったか、鋤空さんに
説明してないから戸惑ったりしてさ。
あの、その、自己紹介遅れました、僕は坂井伸一です、初めまして」
慌てる妻を食い止めて、かよわい養子はどもりながら頭をペコペコと下げて
くる。
「ああ……、そうだった。初めまして、鋤空緋音です。でも、私、何で『おい
でん』にいるのかしら? 確か、実紀ちゃんが綺羅ちゃんの首に……」
“緋色の涙”というピアスで綺羅を刺した実紀。
緋音は現実とも虚実とも取れる異空間に彷徨して、「千影」と同調したので
あった。リアルティーある映像と感覚は今でもはっきりと憶えている。途端に
わさわさと“何かが”身体の中で暴れていく。目眩の中で緩やかに深渠オーナー
のやさしい微笑みが浮かび上がる--------。
「うん、いきなり実紀が必殺仕事人よろしく綺羅のうなじに穴開けるわ、止血
しようとしたら爺サンやたら身のねえこと言うわ、おまえは綺羅の血見てブッ
倒れるわ、画廊の中で時代劇はないよな! 私はもう知らんって感じで綺羅の
言葉を借りてTELしてさっさと帰ったよ」
「……TELして帰ったって、外は大雪が降っていた訳でしょう? 危険だわ、
スリップして事故でもしたら……」
「ぱーか、そんなの伸くんに応援頼めばいいだけじゃんか、家からチェーンを
持ってこいってな。まっ、別にチェーンが無くても私みたいな天才ドライバー
の技術だったら、不可能が可能だけど、はははっ」
萩乃の高笑いを受け伸一は、
「僕が本宿までレガシィ走らせまして、あの、その、店はお義父さんやお義母
さんに僕と萩ちゃんが帰ってくるまでお願いしましたから。僕が画廊に着いた
時は既に8時半時回っていました、萩ちゃんが玄関の前で手を振ってくれて何
とか 部屋から鋤空さんを連れ出せました」
……このボウヤが萩乃のダンナか。
歯切れの悪い言い方で語る。説明が下手といえばそれまでだ。
そう思うと、自然に笑みが浮かんでくる。萩乃には似ても似つかぬタイプで
あることは確かだ。真面目でやさしい少年……。
「どうも、ありがとう伸一くん。そっか……。伸一くんが私をここまで連れて
きてくれたのね。でも……、深渠……オーナーたちは?」
養子の若旦那を「伸一さん」と呼ぶのか、「伸一くん」と呼ぶのか迷うのは
まだたやすい。4年前と同じなら『おいでん』の閉店時間は確か11時のはず
である。それまで眠っていた(もしくは気絶)のであれば……、
あのまがまがしい映像を今の今まで観ていて、“そのこと”をこのふたりに
話すべきかは返答しだいだ。
「--------ああ、はい、あの老人は僕に向かって、『早くお引き取り願おう』
とおっしゃってました。何だか僕たちを避けているような。
はい? ふたりの女の子? いえ、応接間には老人と鋤空さん以外誰も居ま
せんでしたよ。ねえ、萩ちゃん」
「うん、私が外に出たうちに爺サンが処置して部屋に連れていったと思う。私
たちがおまえを運んでやってさ。何かキツネにつままれるって、こういうこと
じゃないかな。
それにしても、おまえハラ減ってない? 昼飯から何にも食ってないだろ、
ちょっとしたもんなら奢ってやるから、さっさと立てよな、もう平気だろ?」
緋音は萩乃に頭を下げ、「ご馳走になる上、色々と相談したいの……」と、
真剣に見つめあった。
「ややこしいこと以外なら、相談してみな」
「ありがとう」 萩乃の厚意に素直に甘えることにし、緋音は覚悟を決めせんべい布団をのけ
立ち上がった。体温が急激に下降していく割に、力は余っている。
……きっと真実は、ひとつしかない。
緋音は今まで得た学習を元に、真相に一歩ずつ近づいていくことを感じた。
ふっと後ろに振り返ると、薄いレースのカーテン越しから、はらはらと小雪
が激しい風を伴って地上に降り乱れる。
これと同じスクリーンを、『時の画廊』のキッチンから深渠が侘しいそうに
見上げるところを連想すると悲しくなった……。
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