White Love


 風は少し冷たいものの、すっかり春めいてきた日ざしが、東京・北区の街並
に降り注ぐ。飛鳥山の桜のつぼみも膨らみかけていて、この暖かさでは開花も
速そうだ。王子の表通りには少女たちが白いシャツに、ピンクのパステルカラー
で花柄のカーディガンを羽織り、笑い声を立てながら歩いていく。

 そんな季節が変りつつある3月14日、吉田須美子はこの王子駅前の広場の
街灯の下でひとり佇んでいた。

 今日の須美子は、胸のときめきを隠せないでいた。

 いつものエプロンではなく、春らしい若草色のブラウスと、淡いオレンジの
ベストを着て、須美子なりに精一杯おしゃれをしたつもりだ。

 それでいて、いつもなら平日の昼は仕事であるが、今日は休み。浅見家の主
の陽一郎はもちろん警察庁だし、若奥様の和子はPTAの役員会議で、ふたり
の子供である智美と雅人は学校、大奥様は絵画教室へと、みなそれぞれ目的は
違うが、真っ当に人生を--------、

 --------歩んでいない人が、ひとりだけいた。

「光彦坊っちゃま、まだかしら……」
 須美子は往来を目で追いながら、待人の名前を小さく呟いた。

 「光彦坊っちゃま」とは、明治から4代続く官僚一家である浅見家の次男の
ことだ。33歳の独身で生まれ育った家に居候しており、官僚とは程遠いフリー
のルポライターという職業、世間から見ると未だに独立できない風来坊である。

 でも--------、

 須美子にとっての「光彦坊っちゃま」は、単なる情けない男ではないことを
知っている。「光彦坊っちゃま」は心やさしくて……自然に彼の柔らかいバリ
トンの声から発せられる言葉と、温かい雰囲気に吸い込まれそうだ。

 昨夜だってそう...
「ねえ須美ちゃん、明日のお昼は時間あいてる?」
「何をおっしゃっているんですか、明日もお仕事ですよ!」
「あはははは、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。明日はみんな出かける
から、たまには僕と息抜きなんてどうかなって」
「えっ? ぼっ、坊っちゃまと、ですか?……そんな、私……」
「どうしたんだい? 顔がやけに赤いよ。まあ、須美ちゃんにはいつも世話に
なってるし、働きづめじゃ大変だし、明日はちょうど僕、王子の街を取材する
ことになってるから、仕事を片付けた頃、お昼過ぎ1時くらいに駅前で会おう」
「坊っちゃま!……そんな、あっ、あの……」

 というふうに、須美子は「光彦坊っちゃま」の鳶色の瞳に見入られて、続き
の言葉が出なくなり、結局きょう王子へ来た訳である。

「……遅いなあ」
 須美子は腕時計を片手に、胸のあたりがそわそわと落ち着かない。とっくに
午後1時は過ぎでいる。街を行き交う人々は外回りのビジネスマンや、買い物
帰りの中年の主婦が多いが、若いカップルも少なくない。恋人同士でホワイト
デーのプレゼントの話をしたり、腕を組んでじゃれあったりして……、

「いいもの、私は」
 須美子は内心、待ちぼうけをしている自分と、「ふつうの幸せ」を望めない
自分を重ね何だか辛くなって、苦いため息を付いた。

「……須美ちゃん?」
 --------どうしたのだろう……。
「……須美ちゃん?」
 --------心がすごく切ない……。
「須美ちゃん、僕の声聞こえてる?」
 --------ああ……えっ?

 須美子は思わず顔を上げたら、目の前には浅見光彦が立っていた。

 相変わらず白いテニス帽をかぶり、揃いの白いブルゾンを着たおしゃれとは
無縁の人、しかしどこか品のあるいでたちが須美子の目に飛び込んできた。

 少年のようなきれいな鳶色の瞳が、微かに震えている須美子の黒めがちの目
を映し出す--------。

「坊っちゃま!……ひどい」
 須美子は涙ぐむのを一生懸命に押さえて、キッと睨みつけた。
「おいおい、そんなに恨めしそうに見るなよ。取材が思った以上に時間がかかっ
ちゃったんだよ、ごめんね。しかし、須美ちゃん。こんなところまで僕のこと、
『坊っちゃま』って呼ぶなよ、人が見てるだろ……」
「坊っちゃまは、いつまでたっても坊っちゃまです! ほんとに子供っぽいん
だから!」
「……うーん、どうも須美ちゃんにはかなわないな」
 と「光彦坊っちゃま」は頭をかきながらへきえきして、苦笑する。

 須美子は、どうして素直になれないのだろう?--------と息苦しくなった。

 そんなムードの中、「光彦坊っちゃま」はふと微笑んで、背中に隠していた
両手を照れくさそうに須美子の前に差し出した。

 ...かわいらしい半透明の包装紙に包まれた、ビン詰めのキャンディ。

「バレンタインチョコのお返しだよ、須美ちゃん。今までほんとにありがとう」

 須美子は全身に熱いものが込み上げてきて、「ありがとうございます……」
とただそれだけしか言えなくても、プレゼントをいとおしそうに受け取った。

 春は、もうそこまで来ていた...


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