9 アイゼンメルド
トリニティ達の一行が無事アイゼンメルドにたどり着いたのは、結局、十日近く経ってからの事だった。
アレクシスもそうだったが、『呪われた王女』であるトリニティは体力が老婆並みしかなく無理がきかなかった為、あまり先を急ぐ旅が出来なかったのである。
アイゼンメルドはこの国の中ではそれ程大きな町ではない。地平線を三百六十度望める乾燥した大地に、その町だけがポツンとあった。すり鉢状の盆地に作られた町は、その中心地──すなわち、もっとも低い場所に町で最も高い建物である神殿を構えており、城壁の上から望めば、町の外周に張り巡らされた低い塁壁も含めその盆地の景色を一望に出来る程度の広さでしかない。町を貫く大路は神殿を中心に十字に貫かれ──町への出入り口は4箇所設けられてあった。
大路には人が溢れ、道の両側には露天が並んでいる。特に何かの特産があるわけでもないこんな辺境の町にしては大いに賑わっていた。
この国で旅は危険だ。まさに命を懸けることになるのは、自ら旅をした事でトリニティも今では十分理解できていた。
それなのに、この人手だ。
旅装の人々が全て巡礼者だとするなら、旅の危険を犯してもいいだけの……それだけの価値がこの町の神殿にあるということなのだろうか。
まさかこの全てがベルダ司祭の奇跡を願って集まったわけでもあるまい。
そう思いながらトリニティが馬上で首を左右に廻らせては町の様子を眺めていると──。
「そんなに物珍しげにあたりを見回していると、どこの田舎者かと思われるぞ」
「──! 余計なお世話よ!」
アレクシスに言われて、トリニティは真っ赤になって慌てて食って掛かった。
「あんたの方こそ怪しげだわよ!」
確かにトリニティの言うことにも一理あった。
剣士に魔術師。フードを目深にかぶった少女と護衛らしき傭兵。──このあたりまでの人員には、然程不自然さは見当たらない。
だが眼光鋭い黒ずくめのアレクシスは、トリニティの言う通りこの人手の中でもかなり目立っていた。気にした様子も無くアレクシスは肩を竦めた。
ああは言ったものの、トリニティの視線は主に天使と悪魔の方に向けられていた。これといって目立ったところのないごく普通の旅装。だが人外の美しさを持つ白と黒のコンビは、気にしないでいようと思っても自然と目がいってしまう。町を行き交う人々にとっては言わずもがな、だ。
「……なんか、連れだと思われて嬉しい様な、思われたくないような。こっちまで恥ずかしいような……複雑な気分になるなぁ」
馬上で衆目の視線を浴びて居心地悪そうに一人ごちたルイスに、ベルクトスカも同意した。
「お! 珍しく意見が一致したな!」
魔術師はあまり人の好奇の目にさられれる事は好まない。……いや、普通の人間だって好まないだろうが、魔法や秘儀を人々の目に触れないように隠そうとする魔術師には、特にその傾向は強かった。
とはいえ、この一行で衆目の目を惹きつけずに前へ進めるはずも無いだろう。彼らが道を進むたびに人々が振り返り、通過する間中無遠慮な視線を浴びせかけた。
ウンザリするようなその繰り返しの中、ようやく神殿の入り口にアレクシス達はたどり着いた。
石灰岩を切り出した灰色の煉瓦を積み上げて作られたその建物は町で最も大きかった。大きく開かれた中央の扉は僅かな階段を昇って入るようになっている。
神殿はどこも同じような造りになっており、最初の建物は柱廊の細い造りで、外壁をかねて神殿の敷地を取り囲んで作られていた。
一旦中庭に出ると、中の広場内に祭壇を備えた神殿があり、その奥に司祭を始めとした者達の住居などの棟もあった。両開きの中央扉の両側には人々が列をなして連なっており、それは神殿前の道にも溢れていた。
階段の中央部分は参拝の人々が通られるように空けられており、そこもひっきりなしに人々が行き来している。
「この町の人々は信心深いのですね」
天使アブリエルが感心した様子で呟いた。その声に嬉しさが読み取れる。天使だけあって、やはり神への信仰心の篤さを見ると好ましく思うのだろう。
「俺は勇者殿と今夜泊まる宿を探してきます。これだけ人が多いと……泊まる宿があるか気になりますからね」
「なるべく早く戻ってまいりますので」
「分かったわ。行ってらっしゃいワーナー。あなたが帰ってくる頃には、きっと用事も終わってるわよ!」
トリニティが陽気に言った。彼女にしては珍しく上機嫌だった。目深に被ったフードの下からでも、彼女の頬が紅潮しているのが分かる。──それも当然だろう。ついに彼女は念願の場所へたどり着いたのだから。
「王女。分かっておいでだとは思いますが……」
何か言いかけたワーナーに、トリニティは手を振って遮った。
「分かってるわよ! 期待しすぎるなって言いたいんでしょ!」
彼女は既に国中の奇跡の御業を使う司祭や僧侶に診てもらっている──だが、彼女にかけられた呪いを解いた者はいない。未だ王女を診ていないのはこの神殿に務めるベルダ司祭だけだった。
期待しすぎてはいけないのは分かってはいるが──たったひとつ残された望みに期待をかけるなという方が無理があるだろう。
ワーナーはさも心配そうに王女を見つめ、その場を去りがたく思っている様子を見せながら、ルイスと共に雑踏の中へ消えた。
トリニティ達は神殿の階段をのぼって開門されている扉の中をくぐった。
陽光に照らされた屋外と違う薄暗さに目が慣れると、粗末なテーブルに僧衣の男が一人座っており、そこに人々の長い列が出来ていた。
大半の人々の服装はどれも粗末で、ボロ布を捲きつけただけのような者もいた。
顔は誰もみな薄暗く具合が悪そうで……だがその表情には一様に、すがりつく様な切迫さが浮かんでいた。
彼らは老いも若きも、貧富の差さえ気にした様子もなく平等に列に並び順番を待っている。
「あれは何?」
テーブルの上には冊子が広げられ、僧侶は順番を待つ人々から何かを尋ねてはそこに書き込んでいた。
それから二言三言参拝の者に話すと、泣き崩れる者、安堵の表情を浮かべる者、二つの反応を返しながら人々は神殿の扉をくぐって外へ出て行くのだ。
ベルクトスカが列に並ぶ者のそばに行き何かを聞いて戻ってきた。暗く硬い表情だった。
「どうしたの?」
「少し困った事になりましたね。まさかこれ程とは私も思いませんでした──」
「だから、何が?」
ベルクトスカが言わんとしている事を察することが出来ず、トリニティは自然と語気が荒くなった。列に並ぶ者達が厭わしげ眉をひそめた。
「それが……」ベルクトスカは言い澱んだ。「あの列に並ぶ者は皆ベルダ司祭の『奇跡』の御業を願う者達で、あの僧侶は彼らの名前を書きとめているそうなのです」
「順番待ちのリストを作っているって言うこと?」
「ええ……そうです」
王女の応えに、魔術師は僅かに安堵の表情を作った。
「私たちもあの列の最後に並ぶのですね?」
天使アブリエルの涼やかで鈴の鳴る様な声は、聴覚よりも直接頭に響くような不可思議な感触を聞く者に与える。人々はそこに天上の輝かしさ、至上の楽園を感じ取り、うっとりとした表情を向けたが──当の本人は何故かやや当惑気味だ。
マントの裾を翻し、トリニティは人々の列の最前、椅子に座る僧侶の前へと進み出た。
「ここでベルダ司祭の『奇跡』の御業を受けるための受付をしてくれているの?」
冊子に記帳していた僧侶は面を上げた。
よく聞かれる質問なのだろうか。やわらかな笑みを浮かべて、僧侶は頷いた。
「ええ。列の後ろに並んで下さい。順番が来ましたら名前を聞いて、いつ頃御業を受けることが出来るのかおおよその目安をお伝えいたします」
「……いつ頃って? どういう事?」
「ベルダ司祭の御業を望む者は多いですからね。順番を待つことになります」
「そんなに多いの?」
トリニティが驚くと、僧侶は誇らしげに胸を張ってみせた。
「ええ。今からですと、ざっと三年くらい待っていただければ──」
「そんなっ! あたし、そんなに待てないわ!」
意外な程大きな声がでた。僧侶は驚いて言葉を止めた。トリニティは怒ったような泣き出しそうな顔になって僧侶に訴えた。
「だって、あたしは後二年も生きられないって言われてるのに! 三年も待ったら、死んでるじゃない!」
トリニティの切実な訴えに、僧侶は気の毒そうな顔をみせた。
「あたしはこの国の王女なのよ! 大変な思いをしてここまで来たのに! すぐにベルダ司祭を呼んできて頂戴!」
トリニティが語気荒く言募ると、僧侶はあからさまに表情を硬くし、軽蔑の眼差しを向けた。
「ベルダ司祭はお忙しいのです」
王女を見つめる僧侶の目は氷塊のように冷い。
「たとえ貴方が本当にこの国の王女だとしても──」
言いながら、明らかに侮蔑の色を……さらに、嘲りにも似たものを……その瞳に込める。
「神の下に全ての者は平等です。列の最後に並び順番をお待ち下さい」
枯れ木のように萎びた憐れな身体を無遠慮にねめつけられ、トリニティは恥辱に顔を赤黒くしながらも、強気な態度を崩さなかった。
「王女に向かって失礼でしょ! それに、急を急ぐ者から先にするのは当然のじゃないの? 神の下に平等だと言いながらも、それじゃ、死ぬ者は勝手に死ねと言っているのと同じ事じゃない!」
噛みつくように怒鳴るトリニティを、僧侶はさらに嫌悪を込めた眼差しで見つめた。
「貴方より余程急いでいらっしゃる方も、きちんと並んでいらっしゃいますよ? ──ここでは身分も血筋も、そのようなものは何の価値もありはしないのです。全ては神のみが尊いのですから」
列に並ぶ者達はもちろん、参拝に訪れ柱廊を行きかう者達もが、今やトリニティを険しい表情で睨み付けていた。
そのどれもに一様に浮かぶのは、憎しみにも似た、嫌悪に満ちた侮蔑の表情だ。
人々の針のような視線の中心で、怒りと恥辱に顔を歪ませているトリニティの手を後ろからとったのは、ベルクトスカだった。
「姫君、列の後ろに並びましょう」
その声は静かで穏やかだったが、その顔に浮かぶ表情はやや暗く、彼が危惧したとおりの事態になってしまった事を悔やむような──あるいは、このような事態に陥ることを許してしまった、保護者としての自分を責めるかのような、そんな表情が浮かんでいた。
決して王女の思慮に欠けた行動を責めるような表情も態度も見せた訳ではなかったが、それを敏感に見て取ったトリニティは、今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。
「だって、ウェリス! だって、あたし……!」
呪われた自らの運命。省みられる事もなく、幽閉された城での生活。口にする事も出来ない程の多くの事。
そして、常に置き去りにされる自らの心──。
トリニティは目に一杯涙を溜めながらも、歯を食いしばって、若き宮廷魔術師を縋る様な眼差しでまっすぐに見上げた。
痩せた顔に不自然に大きく見える翡翠色の瞳は、理不尽を孕む世界そのものに対する怒りに燃え上がっている。
「姫君──」
もう一度諭すように声をかけかけたベルクトスカの言葉をトリニティは遮って、列の最後尾に向かって足を進めた。
怒りに表情を硬くして、氷のような視線でトリニティを睨み付けていた僧侶が、勝ち誇ったように瞳を輝かせたのを見て、トリニティは怒りにわなないた。
固唾を呑んで事の成り行きを見守っていた衆人は、憎しみと侮蔑の織り交ざったような表情を暗い満足を湛えたものに変え、声にはならぬ嘲笑を漏らした。
生き恥とはまさにこのようなことを言うのだろう。
俯いて歩くトリニティは、歯を食いしばって零れ落ちる涙をそっと拭い、すっかり乱れた呼吸を整えようと胸を押さえたが──そのまま、無様にも膝を折って倒れ込んだ。
「姫君!」
ベルクトスカが慌てて駆け寄ってトリニティを抱えあげた。
「だ、大丈夫……」
トリニティは途切れ途切れに声を絞り出した。血の気が引いている。恥辱に興奮したためか。それとも疲労からか。
それまでずっと、憐れみのこもった眼差しで事の次第を見守っていた天使アブリエルが、脇に立つアレクシスの方を縋るように見た。
天使アブリエルは、目だけで頷いたアレクシスに一礼し、優雅に歩みを進めて王女の前に膝をついた。
それまでトリニティにいい気味だというような眼差しを向けていた人々が、ハッとしたように息を呑んで、人間の姿をした天使を吸い寄せられるように見た。
天使アブリエルがトリニティの額に白い繊手を当てると、すぐに王女の息が整ったものにかわった。衆人から静かなざわめきがあがる。
「天使様……?」
トリニティは慈愛のこもった眼差しで自分を見つめる天使に弱々しい声で礼を述べ、ベルクトスカの腕の中で身を起こした。
ベルクトスカは安堵の息をついたが、すぐに、いま天使が王女にしたことの意味に気付いて驚愕に目を瞠った。
「今のはまるで──」
「マスター・アレクシス」
天使はトリニティの傍で膝をついたまま、己の主を控えめに見上げた。
「もし宜しければ私が──」
「それはダメだ」
みなまで言う前にアレクシスに遮られ、天使アブリエルは面食らったように当惑の表情を浮かべた。
「ですが──」
「ダメだと言ってる」
「何故です? 何故私が力を使うのを禁じられるのです?」
「そんな事も分からないのか……?」
眉を寄せてアレクシスは天使アブリエルを見下ろした。その傍で何かに打たれたかのように呆然としているのはベルクトスカだ。魔術師が畏れ戦慄くようにして掠れた声でそっと呟いた。
「今のはまるで──奇跡の御業? ……そうか、貴方は天使なのだから、『奇跡の力』を使うことが出来るんだ。……あなただって、最初からそれに気付いてたんですねっ?」
言いながらも、ベルクトスカは打って変わったように責めるような表情でアレクシスを見上げた。
「──それなのに何故っ、姫君に天使アブリエルの力を使わせなかったのですっ? 何故いま、その力をふるう事を申し出た彼にそれを禁じるのです? ──何故っ?」
激しい語気で声を荒げるベルクトスカを、アレクシスは静かに見下ろした。
「お前にもそれが何故か分からないのか?」
アレクシスは浅く息を吐き出し、顎をしゃくって、言葉を失ったように彼らを見つめる参列者たちへ視線を促した。
「奴らを見ろ」
ベルダ司祭の奇跡の御業を願う人々の列の中には、裕福そうな衣服に身を包んだ者もいたが、殆どの人々は粗末な毛織物を着て、中にはボロをまとっただけという者さえいた。
そしてその誰もが──奇跡を願ってここまで来たのだから、当たり前といえば当たり前のことだが──四肢が欠けていたり、病を得ていたり、どこか具合が悪そうだったりしていた。
アレクシスはそんな不幸な人々の群れを、さして感慨深そうでもなく見つめた。
「それでもここへ来れた連中は一握りの幸運な連中だ。奇跡を願う殆どの者は、大抵は誰に省みられるでもなく死んでいく」
「……だから姫君にもそうしろと? 目の前に奇跡を行う事の出来る者がいて、姫君の為にその力を使うことを申し出てくれているのに!」
アレクシスに向けたベルクトスカの声に、憎しみに似たものがこもった。
「俺が雇われたのは、ルナシスからアイゼンメルドまでの往復の護衛だ。従僕(しもべ)が使う奇跡の業(わざ)までは契約には入っていない」
「あなたという人は──! やはり邪悪な黒魔法使いだ!」
憎しみの感情もあらわにベルクトスカがアレクシスを睨み付けたが、僅かに肩をすくめただけで、一向に堪(こた)えた様子もない。
「アブリエル。お前は確かに慈悲深い天使だが、人々に慈悲を振りまいて歩く前に、何故自分が下界に堕とされたのか、よく考えてみるのが先なんじゃないのか?」
「は? ……はい……」
天使アブリエルは膝をついたまま、しおしとを頭を垂れた。
「──王女。列の最後尾に並ぶのなら付き合ってやる。どうするんだ?」
トリニティはアレクシスに見下ろされ、一瞬、様々な感情の入り混じったような表情をその顔に浮かべた。
理不尽なもの全般に対する怒り。恥辱、哀切、不信、裏切られた時に人が見せる拠り所のない、悲しみにも似た不安そうな顔。
そして今にも泣き出しそうな──いっそ、無様にも泣き出すことが出来るなら、どれ程いいか……だがそれさえ出来ない、耐えるような顔──。
それらが一瞬のうちに流れるようにトリニティの表面に現れ、そして最後に残ったのは、歯を食いしばって目の端に涙を溜めた、怒りに満ちた顔だった。
己の矜持の高さのみを全ての拠り所にして、トリニティはよろよろと立ち上がった。
「あんたなんかに、頼ったりしない!」
トリニティは歯軋りしながら、吐き出すように言った。王女でありながら衆人の中で生き恥を晒す。耐えがたい屈辱だ。
それに耐えたのは、己の矜持が、屈辱に屈するのを許さなかったからにすぎない。
悔し涙で震える声を懸命に押さえ込みながらもトリニティは敢然と言い放った。
「あたしは自分の力で自分を救って見せる! あんたなんかに救ってもらわなくって結構よ!」
トリニティはベルクトスカの手も借りず、人々の彼女への盗み見るような視線と含み笑いの中、自らの力で列の最後尾へ並んだ。
「勘弁してくれよ……」
さも嫌そうに、げんなりとして呟いたのは悪魔ディーバだ。律儀にもトリニティの後ろの列に並んだ。トリニティが悪魔を見上げると、悪魔は顔をしかめ、牙を剥きだして威嚇するように言った。
「俺は悪魔だぜ? なんで神殿なんかにいつまでも居なきゃならないんだ」
外へ出ればよかろうに、本当につきあいがいい悪魔だ。そう思ったトリニティは何故か肩の力が抜けるのを感じ、弱々しく悪魔に向かって微笑んだ。
夕暮れ近くまで並んでようやく記帳が終わった頃、ルイスとワーナーが暗い顔をして戻って来た。トリニティには一見して、彼らが宿をとれなかったことがわかった。
「どこも一杯でさ」
そう言うルイスは疲労の色も濃い。おそらく町中を捜し歩いたのだろう。
そのとき、後ろから控えめな声がした。振り向くとそこには、痩せぎすで小柄な僧侶が立っていた。
顔つきは厳しく、眼光も鋭い。この神殿の僧侶として高い地位にあるのだろう、司祭位を示す濃紺の肩衣(パリウム)を羽織り、後ろに数人の僧侶を連れていた。
その小柄な壮年の僧侶はワーナーよりは年上……四十代くらいだろうか。僧侶は天使アブリエルの前で膝をつくと、恭しく礼の姿勢をとった。
「本日はこちらにお泊まり下さい。僧房の一角で恐縮ですが用意させました。いつまでも、ご希望の日までご滞在下さいませ」
僧侶から焦がれるような強い畏れの眼差しで見つめられ、天使アブリエルは戸惑いながら、困ったよう口を開いた。
「あなたのお名前は?」
「──おお、申し訳ございません。まことの天使様にお会いできた喜びを前に、名を名乗るのを失念しておりました」
僧侶は思い出したようにぎこちなく笑った。長年の厳しい修練の生活を送ってきて、笑う事さえ忘れていた男が、久しぶりに浮かべた……そんな笑みだった。
「わたくしの名はベルダと申します」
「──それでは貴方がベルダ司祭ですか?」
天使アブリエルに問われ、僧侶は頷いた。
「左様でございます」
「何故私を天使だと思うのです?」
素朴な疑問を口にしただけだったが、僧侶の方は当惑した様子で、しばし天使アブリエルをじっと見つめた。
「わたくしは奇跡の業を使う者。わたくしの目には貴方様は天使以外の何者にも見えないのでございますが……もしかすると、他の者には別の姿に見えているのでございますか?」
後ろの僧侶たちが次々に頷く中、廊下の壁にもたれて控えめにしていた悪魔ディーバが呟いた。
「目くらましの魔法が効かないのか……」
その呟きを耳に留め、振り返ったベルダ司祭は険しい表情で眉を寄せたが、すぐに悪魔ディーバから視線を逸らした。何人(なにびと)も、悪魔の姿を凝視することは出来ない。
「なぜあのような者がここに」
「彼の事も分かるのですか?」
「無論でございます」
「……私たちは共にマスター・アレクシスに仕える僕(しもべ)です。マスター・アレクシスはトリニティ王女の護衛の最中なのです」
「僕(しもべ)……?」
僧侶はその言葉を呟きながら、僅かに顔をしかめた。そして、まるでたった今──ようやく思い出したかのように、トリニティの方へ首を廻らせた。
「では貴方が王女様で?」
「──そうよ」
ベルダ司祭がトリニティに向けた礼は、儀礼的に完璧なものだった。王族に対する敬意を表す特別な礼──。
だが、とった礼儀は完璧でも、心はそれに伴っていないのが誰の目にも明らかだ。
彼は敬虔な僧侶で、彼にとっては人間の作った身分などあってないもの。ただ神のみを畏れ敬うのみなのだろう。
「本日は受付で失礼があったそうで。大変ご無礼をいたしました。……深くお詫び申し上げます」
相手の、横柄とも上品ともつかない、礼儀と軽蔑の混じった語調に、トリニティは硬い表情で応えた。
これがベルダ司祭……悪いが、トリニティは初対面の相手に対して敬意も表せないような人物に好意を持てる気にはまったくなれなかった。
自分が心の底で馬鹿にしている相手から、どうして尊敬の念を勝ち取ることが出来るだろうか。
もし本気でそんな事を思っている者がいるとしたら──そして、もし馬鹿にされてなおその人物を尊敬できるような、おめでたい人間がいるとするのなら……そいつは間違いなく愚か者だ。
ベルダ司祭もトリニティも、お互いが相容れない存在だと感じ取ったのだろう。人間は不思議なことに、そういう事は言葉に出さなくても敏感に感じ取ることが出来る。
トリニティは優雅に……そして尊大に応えた。
「……わたくしは列に並び順番を取りました。あなた方はわたくしに非礼を詫び、礼を尽くされる……あなた方の誠意によって、その罪を許します」
ベルダ司祭の唇の端が僅かに引きつった。
トリニティが王女としてとったその慇懃な態度にも、儀礼的には完璧で文句のつけようがない。つけようが無いからこそ、敬虔な僧侶であるベルダ司祭には堪(こた)えたのだろう。立ち上がり礼の姿勢をとると、僧房への案内は後ろの僧侶に任せて去っていった。
司祭が去る姿を見送りながら、トリニティは気持ちが暗くなるのを感じた。きっと、ベルダ司祭はもう自分に奇跡を授けてなどくれないだろう。
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