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作:伊東 馨(イトウ ケイ)
1 二人の傭兵
砂が舞った。咳き込みそうになって、アレクシスはとっさに息を止めた。
「後ろだ! アレック!」
相棒に呼ばれて、アレクシス・ターナーは振り返りざまに剣を横に薙ぎ払った。
剣から小さな稲妻がこぼれ落ちる。『裁きの剣』の魔法は既に詠唱済みだ。
内腑を飛び散らせて、ギグ・ザ・グラッドが床に倒れこんだ。
全身にそれを浴びながら、アレクシスはギグの巨体の下敷きにならないよう、横へ飛び退いた。狭い室内の壁に肩をぶつけ、ずるずると座り込んでいく。
少しの間、ギグの体は激しく痙攣したが、すでに絶息しているはずだった。
アレクシスは呼吸を整えながら立ち上がり、壁に寄りかかって、ギグの血で汚れた剣を袖口で拭い、ついでに自分の顔も拭った。剣の刃に目をやると、無残にこぼれていて、これ以上は使い物になりそうにないことに気づいた。
無理もない。千五百ルーナで買った、名もない量産品だ。刃に魔法を打ち込んで、ついでに硬さでは有名な妖獣のギグ・ザ・グラッドを切ったのだ。──それ以前にも、無茶な使い方をしてきていた。
軽くため息をついて、アレクシスは剣を床に落とした。
千五百ルーナではたいした剣は買えないが、それでも、貯めるには飲まず食わずで三ヶ月はかかる金額だった。
「まいったな。何が悲しくて、こんな田舎まで来て剣までダメにしなきゃならないんだか」
アレクシスはやりきれない様子で吐息をつき、小さく首を振った。
「また借金か──」
「やったな! アレク!」
奥の部屋から、相棒のルイス・バーグがやってきた。
抜き身の剣を手に持ち、嬉しそうにしながら倒れているギグをまたいだが、その前に立つアレクシスの姿を見て、顔をしかめ、そのうえ鼻までつまんでみせた。
「失礼なやつだな」
アレクシスは肩をすくめ、両手を広げた。ギグのオレンジ色の血や、黄緑色の内臓の破片を頭からかぶって、なかなかいい格好だった。小気味よさ気に笑う。
「──出来れば自分でも鼻をつまみたいくらいだぜ」
ルイスがアレクシスの足元の剣に視線を落とした。目が笑っていた。
「また駄目になったな」
「ああ」
「──また借金が増えたな」
「そうだな」
アレクシスが鬱陶そうに溜息をつくと、ルイスが愉快でたまらないという調子で含むように笑った。そして、憮然と睨みつけられていることに気付いて慌てて手を振った。
「──ああっ! まぁ、機嫌直せよ? とにかく、ギグは無事仕留められたんだしな!」
何か不服を言いたそうなアレクシスが、とにかく口を噤むと不承不承頷いた。
「まあ……そうだな」
二人のいる部屋の扉の向こうから、数人が顔を覗かせては引っ込めていた。
ルイスは上品で整ったその顔に似合った営業用の笑みを浮かべて振り返った。
「大丈夫です! ギグは無事倒しましたよ!」
姿は見えないが安堵の吐息が複数聞こえた。
「……ありがとうございます……」
おずおずとこの家の主が姿をあらわした。──貧しい姿だった。元は白だったろうが、今はすっかりくたびれた灰色のチュニックを着て、いくつものツギをあてたズボンをはいていた。
男の後ろからはまだ幼い子供も顔を覗かせていた。大人用の貫頭衣を着て、股下で結んでいる。貫頭衣も、あちこち綻びて穴も空いていたが、そのままだった。──縫う糸さえないのだろう。
別に驚くには値しない。この家の者だけが貧しいのではないのだ。この村全体が──いや、この国そのものが貧しいのだから。
山岳地帯にあるこの村がギグ・ザ・グラッドという怪物のエサ場になったのは、一ヶ月程度前のことだった。
貧しかった村は妖獣退治を頼む金もなく、息を潜め、妖獣が次の餌場へと移るのを待っていた。
だが、村人の半数近くが怪物の餌食になった頃、ようやく金を出し合って、千五百ルーナで傭兵を雇った。
とはいえ、実際に今日アレクシスたちが妖獣を退治するまでに、村人達は数組の傭兵を雇っていた。
──当然のことだが、怪物退治に成功しなかった傭兵達には一ルーナも支払われない。それどころか……おそらく、ちゃっかり妖獣の腹の中におさまっているのではないだろうか。
村を出るために荷を馬の背にくくりつけていると、生き残った十五人ばかりの村人がアレクシスたちに礼を言いに来た。
「ほんとうに、お世話様になりました。ありがとうございました勇者様」
アレクシスとルイスは顔を見合わせ、渋い顔をした。
彼ら傭兵が『勇者様』などと呼ばれ、持ち上げられるときは、ろくなことがないと相場は決まっている。
この国では『勇者』というのは国や国民のために偉業をなした者に対して、国王が一代に限り与える称号で、それを与えられた者は騎士階級と同じ扱いを受け様々な特典が与えられた。
──むろん、人々からの尊敬もしかりだ。
……いや、むしろ尊敬だけ受けて、無報酬で、とんでもない無理難題な仕事ばかりさせられることの方が多いのではないだろうか。
──勇者とは、そういう損で奇特な人格者でなければ勤まらない、高潔な仕事だといえた。
それを──どこの馬の骨だか分からないような傭兵に──特に、ギグのオレンジ色の血を頭からかぶって、汚いし臭いし、とにかく近寄りたくないような輩──に、呼びかけるなど、絶対に何か下心があるに決まっていると、そう疑いたくもなるというものだ。
ルイスの薄い色の金髪が、汗でべっとりと額に貼り付いていた。柔和な笑みを見せていた彼の眉が、ピクリと動いた。
その反応に、村人達は肩を寄せ合って縮こまった。おずおずと、その手から銅貨が差し出された。
掌にのっているのはルーナの下の貨幣。ヘルグ銅貨だった。
数人の両手に握られた銅貨の中には、銀色の輝きも混じってはいたが、どこをどうひいき目にみても、成功報酬の千五百ルーナがあるようには見えなかった。
ヘルグ銅貨百枚で一ルーナ。彼らの手の中の銅貨をざっと見ただけでも、せいぜい三十ルーナにも届かないのではないかと思えた。
「──で?」
ルイスの笑みがひきつり、声に、今までのような陽気で柔和な雰囲気が失われた。
村人達はさらに縮み上がり、退いて、後ろに積み上げた──どうひいき目にみてもガラクタにしか見えない──山を指した。そこにはギグの被害を逃れた家畜も数頭いた。
「村にある、精一杯のものです」
都市部ならまだしも、地方の多くは物々交換が一般的だ。
「──だろうと思った」
それら積み上げられた村の財産を見て、ルイスはげんなりとした調子で呟いた。
アレクシスも僅かばかりの金とあまり高くは売れそうにない品物の山を見た。
そもそも、この仕事を受けた時から、地方の村に千五百ルーナもの現金を支払えるものかどうか、怪しいとふんでいたのだった。
だがこのガラクタの山と数頭の家畜を担いで帰ったとしても、報酬額には遠く及びそうもなかった。
おそらく、当初は家畜がもっといたのだろう。それらを全部売り払って、何とかなると踏んで、ギグ退治の依頼をギルドに頼んだのだろうか。
だが、村人の数も減り、村でおそらく唯一の財産である家畜も、その殆どがギグの餌食となった。
「それから、この子もお連れ下さい」
大人たちの間から、瘠せた小さな男の子が前に押し出された。この地方によく見られる渋染めの茶色が、浅黄とも泥染みとも見分けのつかない、微妙なニュアンスに変色した毛織の胴衣を着ている。サイズはまるで合っていなかったが、少なくとも衣服の原型を留めているだけましといえるだろうか。
先程、部屋の外から顔を覗かせていたあの子だ。
「村で最後の子供です。これが私達に出来る精一杯のお礼でございます」
利発そうなその男の子は、六歳くらいだろうか。瞬き一つせず、青い顔で……けれどしっかりとした顔つきでアレクシスとルイスの顔を交互に見ていた。
アレクシスは不機嫌そうに顔を顰めた。
──売るにしてもお粗末な品々は、いい加減なものを集めてきたのではなく、本当に、この村にできる精一杯のものなのだろう。僅かに残った家畜と、村で最後の子供まで差し出したところを見ると、村人達が最初から怪物の退治料を踏み倒す気ではなかったのがわかる。
家畜だってタダではない。牛一頭買うのにも、相当な金がかかった。
女が残っていれば、いずれまた子供は生まれるとはいっても、村の未来を担う貴重な子供がいなくなるのは、大きな痛手のはずだ。特に、こんな被害の出た村では、生き残った子供は村人の宝にも等しいはずだった。
それさえ手放さなければならない。
──それほどに、この村は貧しい。いや……この国そのものが。
子供を貨幣の変わりに手放すことは、何もこの村に限ったことではなく、ごく一般的に行われていることだった。そしてそれはこの国が貧しいからでもない。
子どもを金の代わりに売るのは、どの国でも日常的に行われていることだ。
それでも、アレクシスは顔を顰めた。
──子供と金を同等視する村の大人たちに。子供をモノとして扱う、その汚さに。
隣で、両手を腰にあてたルイスが深いため息を吐き出した。感情を抑えた怒りが滲み出ていた。
「このガキは羊買いに売り払うには大きすぎるし、人買いに売るには小さすぎるぜ?」
ルイスの言葉を聞いて、村人達の後ろで女が伏して泣いた。子供の母親だろうか。
「どっちでもいい」
アレクシスは憮然と言って、中断していた荷造りに取り掛かった。
「金はお前が取れ。俺はガキを貰う。家畜も荷物も要らない。そんな小山のような物を引きずって、馬で二日の行程を戻る気はない。どのみち、村人が払う金なんて当てにしてなかったんだ」
ルイスは腰にてを当て、アレクシスの方を振り返り、特大の溜息をついた。
「まぁな」
そう言って、馬の脇腹にくくりつけた大きな甲殻の積荷を見た。
村人の報酬よりも、もともと二人はの目的はそれだった。その甲殻は薄茶で、薄くて軽い様子が見て取れた。透明がかっていて、向こう側が少し透けて見えている。
──ギグの甲殻だ。
アレクシスとルイスは仕留めたギグの甲殻を、使い物にならなくなったアレクシスの剣を更に折れるまで酷使して剥がした。
ギグは硬くて有名な甲殻類の妖獣で、この殻を持ち帰ることが出来れば、非常な高値で売れた。軽くて丈夫で、火や水にも強いので、好んで盾などに加工される。
ルイスは少々大げさに首を振り、ついでに肩もすくめてみせた。
彼の悪い癖の一つに、いちいち仕草が芝居がかっているという点が上げられる。
「……まっ、仕方がないか。いいぜ。これで手を打とう」
村に辛うじて残った家畜や財産を手放さずに済んだ人々は安堵の息を漏らし、彼ら二人の傭兵を本当に『勇者』であるかのように感謝しながら頭を下げた。
「しっかし、お前も、物好きだよな」
村を出てから、馬上でルイスはアレクシスに話しかけてきた。
「何が」
アレクシスの返答に、ルイスは自分の馬を横に並べて、声が届くように間隔を詰めた。
「そんなガキ、よく受け取ったなって事さ」
その声には、物好きな……という響きも、少し侮蔑の混じったような響きもあった。一方のアレクシスは、そんなことはお前の知った事ではないとでも言わんばかりに、気にかけた素振りさえ見せなかった。
「その子もまたひきとる気か?」
「いや。町へ連れて行けば働き口くらいあるさ」
その言葉に子供が上を向いてアレクシスのことをじっと見つめた。意外そうな顔だ。当然だろう。自分は売られるのだと思っていたのだろうから。
ルイスが口笛を吹いた。
「売らないのか!」
感心したというよりも、むしろ馬鹿にした響きだった。
「ケッ。おきれいなこった。前の奴は引き取ってやって、今度のは養えないから働きに出すのか。ガキの扱いを公平にできないなら、聖者様を気取るんじゃないぜ」
「俺は聖者じゃないから、すべてを公平には扱えない。すべての子供を救ってやる事も出来ないし、その義務もない」
「だからぁ、後からそう言って逃げるくらいなら、最初からキレイぶるんじゃないってことさ!」
ルイスの言葉に、アレクシスはちらりと彼を見やった。
「……確かにお前なら、ガキは迷わず高く売れるほうに連れて行くだろうが、俺はキライだ。それだけだ」
「そりゃ、お前は黒魔術師だからな。黒魔法を使う者はどこまでも利己的で、自分勝手で、人の話を聞かない奴らばかりだ。けど、必要ないのなら、最初から置いてくりゃよかったじゃないか。そうすりゃ……このガキの親だって、お前に感謝してくれたかもしれないぜ」
「差し出された報酬を受け取らないって? ──それこそ、おキレイな勇者様のすることだ。 俺達は傭兵だ。報酬は受け取る。受け取ったあと、その報酬を俺がどうするかはお前の知ったことじゃない。それこそ余計なお世話だ」
アレクシスの言葉にルイスは渋面を作った。本気で呆れた顔だ。
「あきれた……。俺はまた、『すべての売られる子供は救ってやれないが、だからといって目の前の子供の一人も救ってやるなという気か』とか言うのかと思ってたぜ。それなら、なんでガキの扱いに差があるんだよ」
「そりゃ、俺が利己的で自分勝手な黒魔術師だからさ」
ルイスはどう返答していいのか分からなくなったらしく、言葉を詰まらせた。
「俺は自分の子供を――村でたったひとり生き残った大事な子供でも――金の代わりに売り払うような連中は気に食わない。そんな奴は、俺がこのガキを受け取らなくても、すぐに子牛と交換してしまう。それぐらいなら、早いとこあの村から出て別の人生を見つけたほうが、このガキにとってはいい。少なくとも、俺はこの子供を裏通りの『ディックの店』あたりに連れて行く気はないからな」
アレクシスが意味ありげな視線をルイスに向けた。確かにルイスならすぐに子供を売って、換金してしまうだろう。彼にとって、金とは嘘をつかない、命よりも大事なものだからだ。
ルイスにとっては自分が一番大事で、金のためなら嘘も裏切りも平気だ。彼はそういう男だった。
自分の考えがもっとも大事で、人の話には耳を貸さない。我が道をひたすら行くところは二人ともいい勝負だ。
ルイスは苦々しげに笑って肩をすくめると、馬の歩調を緩め、アレクシスから少し距離を置いた。
「……けどよ、お前。そんなだからいつまでたっても貧乏なままなんだぜ? ……苦学生なんだろ? 金がなくて魔法学校を卒業できないんじゃなかったのか?」
ルイスの言葉に、アレクシスは少し神妙な顔つきをしながら溜息をついた。
「……ま、貧乏なのは間違いないが、学校を卒業できないのは授業料が払えないからじゃなく、俺に才能がないからだ。もともと、あんまり黒魔法と黄魔法は相性が良くないし……仕方がないな」
「お前、黒魔術師としては十分強いじゃん。なんで黄魔法まで修める必要があんだよ? ふつう、いないだろ? 二つも魔法を習う奴なんて」
「ま、それなりに必要に迫られてな……」
「──ふぅん?」
ルイスが理解しがたい顔であいまいな返事を返した。
「それにしてもさ、いくらで売れるだろうな。このギグの甲殻」言いながら、ルイスはうっとりとした溜息をついた。「それから、マダム・ペリペ……」
「あんな女が好みなのか?」
甲殻を売りにいく店の女主人を思い描いてうっとりとするルイスに、アレクシスは軽蔑の眼差しを向けた。
「あんな女って、あれだけの女なんてそうは居ないぜっ!?」
ルイスの脳裏に浮かんだ美女が満面の笑みを湛えた。
「……まあ、好みの問題だからな……」
そんなルイスをアレクシスは冷ややかな態度で見つめ、小さく吐息をついた。
二人は馬の脇腹を軽く蹴って、馬の歩調を速めた。
出来れば夕闇が迫る前までに峠をもう二つ越えて、ハンナの宿場までたどり着きたいところだった。
この国の夜は危ない。
夜の帳が降りた後にうろついていて、朝まで無事でいられる可能性はとても低いのだった。
次の日。
ハンナの宿場を、まだ夜が明けるか明けきらぬかの、冷えた空気が肌を刺すような冷たさの残る時間に出た──夜でないとはいえ、必ずしも危険ではないとはいえなかったが、危険を承知でなお出立しなければ、その日の夕方までに次の町にたどり着けないからだった。
途中、馬の休憩は適時とりはしたが、自分達は昼の休憩もろくに取らず手綱を握り馬を走らせた。
「まずいな……雲行きがあやしいぜ」
ルイスが上空を仰ぎ、毒づいた。
「どうする? ぎりぎりまで走るか? 雨でも降られて、足止めを半時もくった日にゃ、閉門までにルナシスに着かないぜ?」
馬を駆りながら、アレクシスも天を仰いだ。
赤みを帯びた濃い灰色の雲が、低くたれこめていた。
上空には風がないのか、雲が動く様子もない。心なしか生臭さのある湿った空気が、雨の到来が近そうなことを知らせていた。
「……すぐに降り出すな。雨宿りできるところを探そう」
馬の歩調を緩め、アレクシスは馬首を巡らせた。
「走れるだけ走らせて、前に進むか?」
「いや。それじゃ間に合わない。急げ!」
二人は街道を外れて、林の中に馬を入れた。雨が降り出す直前の湿った空気が一層強くなり、湿気を含んだ風が泥の匂いを運んできた。
「あそこに入ろう!」
適当な場所が見つからず、仕方なく大きな木の木陰に二人は馬を寄せた。
ほどなく赤みを帯びた雨粒が地面を濡らし始めた。
「持つと思うか?」
二人が上を仰ぐと、子供も一緒に上を仰ぎ見た。つられて、口がポカンと開いた。
馬が2頭身を寄せてもまだ余裕のある大きな木は、枝が複雑に交差して、空の光も見えないほど茂っていた。
三人はそれを確認すると、ほっとした様子で視線を戻した。
天から落ちてくる雨粒の数が増え、地面に乾いた処が無くなるほど雨足が早くなると、あたりに鉄を帯びた強い匂いが充満した。
赤い雨はよく見ると、それぞれが微妙に濃さが違っていた。
赤黒いもの、薄いもの……。
だが、葉や地面に落ちたそれは、ねっとりと不気味な輝きを帯びて、ゆっくりと地面に吸い込まれていく。その雨粒の軌跡を目で追いながら、ルイスがつぶやいた。
「まいったな……赤い雨か……」
雨の粒が草木を打つたびに、細く弱い草はあっという間に萎れ始めた。心なしか──いや、気のせいではなく──周囲の木々が色を失い、力なく葉を垂れた。
「この木、持つかな……」
二日目にして始めて、子供が小さな声を漏らした。
心底おびえきった様子で、アレクシスの──ギグの血で汚れた──マントを掴み、その中に身を潜めようとした。
「ああ……大丈夫だろう。あまり大きな戦闘じゃなかったみたいだ。ほら──」言いながら、アレクシスは空を指差した。「雲の色が変わりだした。雨の色も薄くなった……じき、普通の雨になる」
呪われた血の雨。
その赤い雨は、紛れもなく血の雨だった。
その証拠に、周囲に充満する鉄錆の匂い。
はるか上空で、天使と悪魔の戦いがあると、彼らの流した血が、地上に雨となって降り注ぐのだった。
どの血が天使で、どの血が悪魔かは分からなかったが、とにかく、その血の雨を一粒でも体に受けると、そこが焼けるように腫れ上がり、ただれるのだった。
力の強い悪魔や天使の物であればそれだけではすまなかった。そこから体が溶けていった。
生きたまま苦しみ、血を流し、溶けて──死んでいく。人間はもとより、動植物も死んだ。
だから、呪われた雨と呼ばれた。
いつ、どこで降るのか分からない。どのくらいの時間降るのかも分からない。あっという間に止むこともあれば、一ヶ月以上続くこともあった。それで、一つの町が全滅したこともあるという。
血の雨が降り、土地が死ぬ。
ようやく復興した頃、また別の場所が。
この国が……いや、この世界が貧しい理由がこれだった。
長らく戦のなかった天上が、ここ数百年、再び動き出していた。
天は天の理(ことわり)で動いていて、地上に生きる者の事など歯牙にもかけない。
人々は天を見上げては、疲弊していく地上を憂うのだった。
幸いにして赤い雨はすぐに止み、その後普通の雨がしばらく続いたため、天使と悪魔の忌まわしい戦の印は地面からきれいに洗い流された。
それを待って──雨はまだ降っていたが──アレクシス達は木陰を出て再び街道に戻り、先を急いだ。
街道に時折、伏した人を見た。
先を急ぐあまり、呪われた雨をその身に受けたのだろう。中にはまだ息のある者もいたろうが、助ける術はなかった。
血の雨を受けた者はどのような治療も効果はなく、ただ、死という祝福が苦しみから開放してくれるのを待つのみだった。
やがて日が沈み、月が輝きを増し始める頃。
城塞の門が閉まり始めたその時に、アレクシス達はようやくルナシスにたどり着いた。
城塞の大扉がゆっくりと閉じられる中、その身を滑り込ませるように馬ごと門をくぐった。
「間に合ったな! 借り物の馬が潰れちまうかと思ったぜ!」
長時間の乗馬に、さすがにルイスの顔にはべったりと疲労の色が張り付いていた。
子供にいたっては、蒼白とした顔つきでいつ倒れてもおかしくないくらいだと思えるのに、アレクシスの方はというと、疲労の色こそ見えるものの、あれだけの行程を無理して進んだ者のようには見えなかった。
「化け物め……」
ルイスは思わずそう呟きながらも、馬を休ませるために自分は降りて、手綱を引いて歩き出した。
この馬も、今回のこの仕事も、みんなマダム・ペリペの店で斡旋してもらっていた。馬をダメにしてしまえば、その分の代金を差し引かれることになるのだった。
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