歴史の隙間  とある事件の記録 本文へジャンプ
革命の危機―チェコスロヴァキア軍団事件と反革命戦争(13)

悪化する関係

 

チェコスロヴァキア軍団の第一陣が東へ向けて出発しようとしていた矢先45日に,日本陸戦隊とイギリス海兵隊によるヴラジヴォストーク上陸が強行された。

 

一度はヴラジヴォストークへ向けて速やかな移動を正式に承認したレーニンも,この事件を機に軍団の扱いに逡巡することになる。チェコスロヴァキア軍団が連合国による対ソ干渉政策の尖兵として利用され,日本軍と手を取り合って各地のソヴィエトを蹴散らしてモスクワへ攻め込んでくるかもしれないという悪夢が,ボリシェヴィキたちの頭の中を駆け巡った。

 

他方,強力な武装集団である軍団の移動が開始されることに対して,反ボリシェヴィキ義勇軍と軍団とが手を結ぶ可能性に思い至ったシベリア鉄道沿線の各地区ソヴィエトから異議が唱えられていた。軍団の参謀長であるミハイル・ディチェリヒス少将を筆頭に,かなりの数のロシア人指揮官が王党派・保守派に属していたことを考え合わせれば,このような不安を抱くのは無理もないことであった。

 

そこで,ボリシェヴィキ政府は軍団を武装解除して移送しようと考えたが,ボリシェヴィキ派と反ボリシェヴィキ派がしのぎを削っている危険地帯を通過しなければならない軍団の兵士たちにしてみれば,丸裸同然の状態でその身をさらすことなど容認できるはずもなかった。

 

自衛のためには武器の所持は不可欠であるとして武装解除を拒絶されたボリシェヴィキ政府は,民族人民委員ヨシフ・スターリン(本名:ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・シュガシュヴィーリ)を派遣し,軍団のヴラジヴォストークへの移送方法について,反革命的な指揮官の更迭と自衛のための最低限の武器を除く武装の放棄を条件とする協定案を提示し,理解を求めた。

 

軍団内には協定案について異論は多かったが,このまま紛糾して先に進まないのでは元も子もないとの判断から,速やかな移動を実現するにはボリシェヴィキ側の要求をある程度受諾せざるを得ないとの結論に至った。これによって,スターリンが示した当初案を一部修正したペンザ協定と呼ばれる移送保障協定が締結された。【注22

 

この時まで,軍団とボリシェヴィキ政権との間の関係は比較的良好であった。双方が歩み寄りの姿勢を示し,円滑に移送を完了させることを前提とした話し合いの末,ペンザ協定を成立させることができた。

 

しかし,軍団とボリシェヴィキ政権との関係は,軍団の移送が滞るにつれて悪化していくことになる。

 

5月いっぱいをめどにヴラジヴォストークへの移送を完了する予定で軍団の大移動が始まり,425日に第一陣約1000名がヴラジヴォストークに到着した。以後,列車があわただしく駅のプラットフォームを出入りするごとに極東の軍港の人口が2倍・3倍に膨らんでいくかに思われた。ヴラジオストークの軍団の将兵は,なかなか到着しない仲間を満載した列車を待ってじりじりと苛立ちを募らせていった。第一陣到着後,早くも鉄道沿線では渋滞が起こりはじめていたのである。

 

ペンザ協定では,ボリシェヴィキの要求を受け入れるのであれば,最低限の武器の所持とボリシェヴィキ政府がヴラジヴォストークへの速やかな移動に協力することを保障していたが,実態はこれに反していた。

 

軍団の東進を阻んでいた最大の原因は,単線であるシベリア鉄道が抱える輸送能力の問題に加えて,シベリア各地の捕虜収容所に分散収容していた同盟国軍捕虜約100万人を西へ移動しはじめたことにあった。講和条約成立によってボリシェヴィキ政権は,同盟国軍捕虜の返還を速やかに実施することが義務づけられていた(ドイツ軍は返還された捕虜を西部戦線の大攻勢に回すつもりでいた)。もし,捕虜返還が遅滞するようなことがあれば,それを理由にドイツ軍の再侵攻の可能性が高かったため,急いで捕虜を独露国境地帯へと送り届ける必要があったのである。

 

また,軍団が反革命派に合流する疑念を払拭できなかったボリシェヴィキ政権が,いったん全輸送列車を停止させ,オムスク以西に残存している軍団将兵の移動先をアルハンゲリスクとムルマンスクに変更する命令を発したことで,大きな混乱が生じることになった。この結果,軍団の移送は完全にストップし,ヴラジヴォストークに到着した約14,000人を除く軍団将兵がシベリア鉄道沿線の各地区で立ち往生することになった。この間に地方ソヴィエト当局が軍団兵士に武器引渡しを要求【注23】するなど,目に見えて協定と異なる対応をとり始めた。このような事態に,軍団の将兵はボリシェヴィキに対する不満と不信感を募らせていった。



【注22】
ペンザ協定

【注23】
地区ソヴィエトからの武装解除要求



前へ コンテンツ一覧 次へ