歴史の隙間  とある事件の記録 本文へジャンプ
革命の危機―チェコスロヴァキア軍団事件と反革命戦争(12)

危機ヲ馴致スへキ形勢

 

陸軍によって傀儡政策が推進される一方で,海軍も独自の行動計画をもってシベリア干渉の機会をうかがっていた。海軍軍令部は沿海州(ロシアの日本海側の地域)への関心が高く,この地域の戦略上の要所であるヴラジヴォストークの確保を第一の目標としていた。

 

海軍軍令部は,十月革命後の19171227日に『露国ノ現状ノ我国ニ及ホス影響』という調書において「危機ヲ馴致(じゅんち)スへキ形勢明ラカナル場合ハ時機ヲ逸セス迅速ニ浦塩(ウラジオ)」からウスリー川沿いの地域,特に鉄道の分岐点であるニコリスクの確保は絶対に必要であると主張していた。

 

ボリシェヴィキ革命がもたらした情勢は,まさしく「危機ヲ馴致スへキ形勢」(次第に危機が進行して形をなしていく情勢)に他ならず,機会をとらえて浦塩(ヴラジヴォストーク)へ派兵を行い,日本の制圧下に置くことを画策していた。

 

その機会は,年明けの19181月早々に到来した。イギリスのロバート・セシル外務次官は珍田捨巳駐英大使に対して,ヴラジヴォストークがボリシェヴィキ派とその反対派との間で一触即発の危機的状況にあることを示唆し,香港停泊中の巡洋艦サッフォークを急遽派遣する旨を通告した。アメリカにも軍艦派遣要請を行ったことを併せて伝え,日米英三国による共同派遣としたい意向を伝えていた。

 

12日発電の珍田大使の至急電を受けた寺内首相は,日本がイニシアティヴをとるためにはイギリスの切っ先を制してヴラジヴォストークへの軍艦を急派しなければならないと主張し,これに同意した海相の加藤友三郎大将と海軍軍令部は,早急に出動可能な軍艦をヴラジヴォストークに派遣することを決定した。15日に加藤寛治少将を司令官とする第5戦隊の戦艦朝日と戦艦石見に出動命令が発令され,翌日に呉を出港した戦艦石見は,サッフォーク入港の2日前の12日午前にヴラジヴォストークに到着した(横須賀より回航した戦艦朝日は,サッフォーク入港から4日後の18日に到着した)。

 

在ヴラジヴォストーク総領事の菊池義郎は,日本艦隊の入港は日本人居留民の保護を目的とする出動であり,内政に干渉するつもりはない旨の通告をヴラジヴォストーク市長ならびに参事会に対して行ったが,当然のことながら,このような措置はロシア側の反発を招き,ロシア在住の日本人の保護はロシア官憲の責任に帰すものであり,いたずらに反日感情を惹起するだけであるとの抗議を受けた。もちろん抗議を受けたからといって,おめおめと帰還する気はなく,加藤少将は何か口実があれば陸戦隊を上陸させて,ヴラジヴォストークを制圧する気でいた。

 

しかし,政府部内でも慎重論が根強く,海軍軍令部から陸戦隊上陸については待ったがかかっていた。現状においては,英米と協力してボリシェヴィキ派に対する「無言の威圧」をもってけん制せよとの命令が下されていた。つまり,不穏な情勢程度では武力をもって介入する口実にはなりえず,無理やり陸戦隊を上陸させるとロシアとの戦端を開くことになりかねず,また出兵反対のアメリカを刺激する可能性があるため得策ではないという判断が働いていたのである。直接的な干渉には,日本人居留民の命の危険がさらされているという厳然たる事実が必要であった。

 

やがて,日本側にとって直接干渉への口実となる事件が44日に起こった。それは,ヴラジヴォストークで輸入雑貨業を営む日本人の殺傷事件であった。加藤少将は,本国へ報告して指示を待つのでは時機を逸して事態をうやむやにしかねないとして,自らの責任によって在留日本人保護と事件の再発防止のために「陸戦隊揚陸ヲ決心」した。この事件の翌日の早朝,加藤少将は米英両艦に対して事前通告を行った後,陸戦隊を上陸させてロシア官憲に代わってヴラジヴォストークの日本人居留区の市中警備を行うという越権行為に踏み切った。【注22

 

このような現地司令官の独断によって対ロ軍事干渉の火蓋が切って落とされたことは,この後にも度々見られる日本軍の組織的特質を示すものであった。この事件によって,日本は第二次世界大戦へ至る日米対立の起点ともなり,国際世論の反発を物ともせずに強行した結果,惨めな敗北に帰することになるシベリア出兵の本格的な第一歩を記すことになるのである。



【注22】
日本海軍陸戦隊のヴラジヴォストーク上陸



前へ コンテンツ一覧 次へ