第十八章 鳥辺野 

  都はヒルコに覆われ、軋みの音をあげていた。
 道に落ちたままの草履が、荷車がヒルコに飲み込まれていく。ワラや板は黒い波に触れると
一瞬で百年を経たように腐り、溶けていく。土台が腐った家々は傾き、砂糖の塊(かたまり)の
ように崩れて行った。
 ヒルコや荒ぶる神は、都を二重に囲む壁の外側から押し寄せてくる。人々は陽明壁の内側
へ内側へと追いやられていた。荒ぶる神を狩っていた巫女達も今は避難して、今や神々がの
し歩く所から壁数枚を隔てた場所で人間は息をひそめていた。
 貴族達は自分の屋敷の門を硬く閉ざし、静まり返っている。本来なら役人しか入る事のでき
ない場所までも、避難してきた人々が溢れていた。貴族の私邸にまで入り込んでいる者もいる
が、門番も戸を閉めた邸内に篭もっているため、とがめる者はいない。
 不安、恐怖、そして苛立ち。破裂寸前の緊張が都全体に重く垂れ篭めている。それでも決定
的な混乱が起きないのは、占司殿から聞こえてくる祝詞のおかげだった。
 占司殿の祈祷部屋では、煙るほど浄化の香が薫かれている。巫女達は、一心に祈りを唱え
ていた。さまざまな声が一つになり、不思議な歌のように聞こえる。しかし、そこにも何かが崩
れる音が雑音として混じり始めていた。

 どこからか現われたヒルコが、玄室の隅にわだかまる。張りめぐらされていた細い布が何本
か、ヒルコに触れて腐れ落ち、像の胸に刺さったくさびから力なく垂れ下がった。
 いっそ笑みさえ含んだ穏やかな口調で柚木は言う。
「終わりだ、鹿子。お前なら私の狂気を止めてくれると思ったのだが、荷が勝ちすぎたようだ
な。すまなかった」
 柚木は刀をかまえた。
 避けなきゃ。頭のどこかで鹿子は思った。けれど、体が動かない。動きたくない。殺嘉も淘汰
も死んだ。それなのに、私はまだ戦わないといけないの?
 刀が振られた。銀色の弧が途中で黒で塗り潰された。肉の裂ける、湿った音。鹿子の頬に暖
かな血が降りかかった。
「何っ……」
 戸惑いの声をあげたのは柚木だった。
 鹿子が我に返ると、目の前に青い衣があった。いつの間にか、巫女二人の間に詩虞羅が立
っている。
 詩虞羅がゆっくりと振り返った。肩から脇腹まで、赤く血の跡が引かれていた。即死しなかっ
たのは、柚木が瀬戸際で力を弱めたからだろう。
「し、詩虞羅さん、ごめんなさ……」
 頬に詩虞羅の血を付けたまま、鹿子は震える声でわびた。
「大丈夫ですよ。浅くしか斬られていません」
 詩虞羅は少し微笑んだ。
「薙覇」
 柚木が驚きに目を見開く。
 詩虞羅は、その場に力なく座り込んだ。地面についた両手の間に、血が滴り落ちる。
「柚木様、お聞きください」
 詩虞羅は、柚木を正面から見上げた。その声は感情の昂ぶりと傷の激痛で震えていた。
「き、希月様は、村人に殺されたのではありません」
「なに?」
「私は、柚木様が消えたあと、希月様の手紙を村長から受け取ったのです。いまわのきわに書
いたという、私宛ての手紙を」
 詩虞羅は柚木から視線を外した。
「希月様は、自分で命を断たれたのです」
 しばらくの間、荒い詩虞羅の息遣いと、ヒルコの這う湿った音が大きく響いた。
「なんの冗談だ」
 弱い者なら見ただけで命を奪われそうなほど、柚木は狂暴な視線を詩虞羅に向けた。しか
し、その瞳とはうらはらに恐怖を感じているように、柚木の体は細かく震えている。
 床に散らばっていたヒルコが一斉に波立った。波が宙に弧を描き、沈み、また弧を描く。その
様は、無数の黒い蛇が舞っているようだった。
「柚木様が荒ぶる神を倒しても、希月様の呪いは解けなかった。普通なら、神が倒されればす
ぐに呪いは解ける。しかしその荒ぶる神は、死してなお呪いを残せるほど人間の魂を多く食ら
い、力を蓄えていたのです」
 柚木は自分の肩を抱く。蒼褪めた唇が震えていた。
 村長は、柚木が荒ぶる神を祓い村へ帰ったあと、数刻気を失っていたと言っていた。その間
に、詩虞羅は希月のもとへ行ったのだろう。そこで、彼女の呪いが解けていない事を知ったに
違いない。
「私の術の効果はいずれ切れる。そうしたら、呪いは本来かけられた柚木様に戻ってきてしま
う。だから希月様は毒を飲み、自ら命を断ったのです。柚木様の代わりになっている間に、希
月様が亡くなることで、呪いは成就され消滅する」
「ばかな」
「手紙には、柚木様にこの事を伝えるなと。それを知ったら、姉は自分を責めるから、と」
 鹿子には、思い当る節があった。
「じゃ、じゃあ。村人達が何かを隠しているようだったのは」
 ほんのかすか、詩虞羅はほほ笑みを浮かべた。
「きっと、気を使ってくれたのでしょう。鹿子様を通して、柚木様に真実が伝わってはいけない
と」
 そこで詩虞羅は大きく息を吐いた。
「希月様を殺したのは村の者だと柚木様が勘違いした時も、あえて何も言わなかったのでしょ
う。自分のために妹が死んだと知ったら、柚木様は自分を責める。人は自身を憎むより、他に
憎む相手がいた方がまだ耐えやすい物ですから」
 柚木は、動かなかった。ただ、肩を抱いたまま、背を丸めうつむいているだけだ。体を覆う柚
木の震えが、少しずつ大きくなっていく。
 柚木本人よりもよほど辛そうに、詩虞羅は顔を歪めた。
「迷いました、本当に。この秘密は、死ぬまで抱えていこうと思いました。けれどそれは間違い
だった。あなたは強い。きっと早くに伝えていれば、希月様の死を乗り越え、巫女として人々を
守っていたでしょうに」
 ほとんど囁くように、詩虞羅は語り続けた。
「ひょっとしたら、私はあなたに隠したかったのかも知れない。内心、私が辿り着いた結末に満
足していた事を。希月様ではなく、柚木様が生き残った結末に」
(ああ、そうか……)
 詩虞羅は、柚木を想っていたのだ。いや、たぶん今でも想っている。鹿子にはそれがわかっ
た。だからこそ、秘密を保てたのだろう。村人を悪者にしても、希月を犠牲にしてまでも、柚木
を失いたくはなかったのだ。
「くくく。ははは、あははははは!」
 仰け反って、柚木は笑った。狂気を含んだ笑い声だった。
「ははは、なんだ、くだらない。結局のところ、希月を殺したのは私だったのだな」
 振動で足の裏が痺れる。地面の下をヒルコが流れているのだろう。玄室の壁にヒビが入
り、骨を割るような不吉な音が響く。
「十年、その秘密を呑み込んでいたのか。さぞつらかったろうな」
 薙覇は、静かな笑顔を浮かべたままだ。
「だが」
 柚木は元従者の喉元に切っ先を突き付けた。
「今頃、真実を言って何になる。数刻も無く、ヒルコは国中、いや、この世すべてを覆い尽くす。
この世にあるものは全て呑み込まれ、純粋な力の塊と帰す。そして、神代の前の混沌に戻る
のだ。助かる道はない。私がそう仕組んだのだから」
 

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