第十六章 死地

 荒ぶる神の陰の気が呼んだ黒い雲が、空を覆っている。それでも町が明るいのは、あちこち
で家が焼けているからだった。炎の照らされている所は眩しいほどに照らされ、影は異様に濃
くなる。その明度の差が目眩を起こす。
 荒ぶる神は、蜜にたかる蟻のように静楽の都に押し寄せてきた。朱は陽明壁と星明壁両方
に符を貼り張った結界も、これだけの数の神を防ぐことはできなかった。蛇、熊、蛙。様々な形
をした大きな黒い影は、ただの土くれになった陽明の壁を乗り越え、規則正しく並んだ屋根を
押し潰していた。門扉が固く閉ざされていても、これでは意味がない。
 そのすぐ足元を、人々が内裏へと走っていく。占司殿に近いからか、辛うじて内裏のほうの封
印は解けていなかった。数人の巫女と従者が、人々を守るため門を出て荒ぶる神を狩ってい
たが、それももう限界だった。
「急げ! もうすぐ内裏の門を閉めるぞ! 朱様の命令だ、巫女達は占司殿に戻れ! 結界を
強化し防御に専念する!」
 従者の一人が叫んだ。
「ヒルコが来る! 早く!」
 都の中にも、わずかだが黒い水溜まりは現われた。いっそヒルコが荒ぶる神を喰ってくれれ
ば楽なのだが、未熟な神であるヒルコに、転じきった神を喰うほどの力はなく、新たな脅威が増
えるだけだ。悲鳴と、火の爆ぜる音。都の外では、小さなヒルコが水銀のように一つになり、大
きくなっていく。黒い波は量を増しながら確実に都へむかっていた。
 
 鹿子は目を覚ました。旅先の物とは違う、やわらかな布団。額には、濡れた布が置かれてい
て、気持ちいい。
「ここは?」
「目が覚めました?」
 顔を覗き込んできたのは、鹿子つきの采女(うねめ)の理香だった。桜色の着物をたすきが
掛けしている。活発そうな瞳が印象的な少女だ。手に布を持っている。顔の汗を拭いてくれよう
としていたようだ。
「ああ、格好悪い。このごろ気絶してばっかりだわ」
 鹿子が額を押さえながら言う。
 強い薬草の匂い。何もない板の間。理香に訊くまでもなく、ここがどこなのか分かった。占司
殿の一室だ。
「おはようございます」
 この場にいてはいけない人物を見て、鹿子は目を丸くした。詩虞羅が床に座り、微笑んでい
た。
「な、なんで詩虞羅さんがここに?」
「もう、男子禁制とかそういうことを言う余裕がなくなっているのですよ。本来なら、役人と占司
殿の関係者しか入れないはずの建物も、解放され、避難してきた人達の避難場所になってい
ます」
 血を流している怪我人を入れれば、ますます結界は薄くなる。けれどほうっておくわけにはい
かない。火を守ろうとする氷の壁のように、結界は内側からも弱まっていく。
 すぐ隣で、小さなうめき声がした。
 隣にそろえられた夜具の中に、操吟が横になっていた。
「くっ、いや、燐音様」
 ほかの人間に燐音の正体を知られることがいいことかどうか、わからなかったので、とりあえ
ず鹿子はそう呼んだ。
 赤い着物を着たままで、繰吟が眠っていた。体を二つに折って、痛みを堪えているようにも見
える。頬に涙の伝った跡があった。
「さっき、運ばれてきたのです。見慣れない人ですけど、帝の将ですよね」
 理香の言葉に、鹿子はぎこちなくうなずいた。
「え、ええ」
 いいえ、実は帝の将じゃなくて帝本人です。言いたくてたまらない言葉を呑込む。
 そんな鹿子の気持ちも知らず、理香は続けた。
「帝の陵墓の近くで、荒ぶる神に殺されそうだった所を、助けられたそうです。隊を残して、一
人で陵墓にむかっていたらしいんです。たまたま逃げてきた兵達に助けられたらしくて。どうし
てそんな所にむかっていたのか」
 横に眠る操吟の頬には血の気がない。唇もあせている。 
 玲帝の鏡のことは朱から鹿子も聞いている。きっと、操吟は兄に会いにむかったに違いな
い。元兇の場所に。
 痛々しい繰吟の様子に鹿子は顔をしかめた。
「そうだ、殺嘉と淘汰は?」
 鹿子の言葉に理香が顔を強ばらせた。
「それは、その」
 理香がなんとかごまかそうとするが、いい言葉が思い浮かばないようだった。
「あの二人は玲帝の陵墓に行きました」
 黙っていた詩虞羅が口を開いた。それを聴いて鹿子は飛び起きた。
「なんで二人だけ! 私も行かないと」
 鹿子は慌ただしく立ち上がろうとした。目の前が一瞬真っ暗になる。傷が斬りつけられたよう
に痛んだ。たまらずよろけて布団に座り込む。
「大丈夫ですか、鹿子様」
 理香が体を支えてくれた
 まだ呪いは解けていない。ということはまだ殺嘉達は柚木を殺していないということだ。まだ
間に合うのかも知れない。柚木と二人の従者が両方生きているのなら。でなければ、もう手遅
れなのかも知れない。従者二人が死んで、柚木が生き残っているなら。
 遠くで、海鳴りのような轟きがした。ヒルコが近づいて来ている。都に達するまでそう時間はな
いだろう。
「淘汰、殺嘉!」
 鹿子はもう一度立ち上がった。
「鹿子様! あなたは死ぬおつもりですか!」
 理香の言葉を無視して、部屋を出ようとした鹿子を腕を詩虞羅がつかんだ。
「いけない、鹿子様! 外に出られる状態じゃない。ヒルコの穢れで、呪いがひどくなっている
はずです」
 鹿子はなんとか腕を振りほどこうとする。
 きつく手を組んで、理香が懇願してきた。
「鹿子様、やめてください! なにがあったのかは知りませんが、鹿子が弱っているくらいは分
かります。今戦えば、下級神にだって殺されてしまいますよ!」
「理香。私は柚木様に呪いをかけられたの。逃げたてら、遅かれ早かれ死んでしまうわ。それ
だったら、なんでこんな事をしたのか、柚木様に直接聞いて力尽きた方がいい。それに、私は
巫女なのよ。ただの女の子じゃない。頑丈なの。まだ戦えるわよ」
「でも、それならせめて誰かほかの巫女様を一緒に」
 理香はさらに食い下がる。
「ありがと、理香。でも行かなくちゃ。こうなったのは私のせいでもあるのよ」
 鹿子はにっこり微笑んだ。
「見てないけど、感覚でわかる。今、祈祷の間では巫女達が結界を強める祈りをしているんで
しょ? 祈りという紙の盾を何枚も重ねて、矢の一斉攻撃を防ごうとしているようなもの。一人
だって抜けられない。本当は私だって協力しないといけないくらい」
 鹿子の言葉は冷静だった。
「少しでも祈りの力が衰えれば、この都はあっという間にヒルコに沈む」
 理香はまだ納得できていないようだ。
「あなたの気を失わせたとき、殺嘉に『牢にでも入れておけ』と言われた意味が分かりました
よ」
「そんな事を言ったの? 私がどう行動するのか見通しなのね」
 こみあげてきた笑いは、痛みでひどく弱々しい物になった。
 鹿子は枕元の刀を握った。傷のせいなのか、緊張のせいなのか、持ち慣れたはずのそれが
ひどく重く感じた。

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