第十章 黒龍
 
  脇息にもたれかかり、操吟は一人で考えこんでいた。あの羽の生えたムカデ。鹿子が浄化
し、純粋な力となって散る瞬間、声が聞こえた。「祟る」と。それは、玲帝の声だった。
「あの優しかった兄が、私を呪ってるってのかい……」
 力任せに拳を脇息に叩きつける。
 その時、神経を逆撫でされるような不快な気配を感じ、顔を部屋の隅にむけた。物の影より
もなお黒い塊がわだかまっている。巨大なナメクジのような姿で。
「ヒルコ……」
 見るのはこれが初めてだが、聞いたことはあった。まだ神になる前の、混沌と未熟な力の塊
だと。それがこんな所にまで入り込むなんて。誰かに占司殿の者を呼ばせよう。鳴らそうとした
手を止める。
ヒルコから目を離さぬまま、そろそろと操吟は立ち上がった。そして飾り棚から一枚の鏡を取り
出した。円形で、裏に彫刻のほどこされた手の平ほどの大きさのそれは、兄の形見だった。
物には持ち主の魂が宿るという。生前兄の姿を映していた鏡ならば、波紋のように兄の想いが
残っているはずだ。
 ヒルコは神になる前の力の塊。ならば、それにこれを与えてやったらどうなるだろう。兄の魂
は、この力の塊を利用しなんらかの形で訴えてこないだろうか。
 黒いヒルコは得に恨みや憎しみなど陰の力の塊だと聞く。その訴えがどういう形で表される
かは分からないが、その訴えは誰かに対する恨みだろう。その恨みが本当に自分に向けられ
ているのか知りたかった。
 死者の想いを、神の眷属(けんぞく)のヒルコを玩(もてあそ)ぼうなど、我ながら恐ろしい事を
考えた物だ。もしも朱がこの考えを聞いたら、頬を真っ赤にして怒るだろうなと考え、少し微笑
んだ。
 朱に口寄せで兄の霊でも呼んでもらえばよいのかも知れないが、荒ぶる神の対策で忙しいだ
ろう朱に迷惑をかけたくはなかった。それに、できる限り人を介してではなく直接兄とやりとりが
したかった。こんな不吉な方法でのやりとりだとしても。。
 鏡を恐る恐るヒルコの背に乗せる。泥に沈み込むように青銅の鏡はヒルコに呑み込まれて
行った。
 ヒルコはまるで毒でも呑まされたように身悶えた。臓器のようにぬめりとした体から枝のよう
に細く伸びる。その先端が二つ割れ、間に小さな牙が生える。体はヘビのように引き伸ばさ
れ、小さな三日月をいくつも束ねたような爪を持つ手足が生えた。
 空気を勢い良く吹き出したような鳴き声をあげ、自分の体を小竜(こりゅう)の姿に造り上げな
がら、ヒルコは操吟の喉元目掛けて飛び掛かってきた。空を斬る勢いで、まだ塊切れていない
部分がドボドボと落ち床を焦がす。
「チッ!」
 操吟は刀を抜きはらい、自分の腕ほどの大きさの小竜をはじきかえした。
「本気で私を殺そうとしたねえ、兄上」
 目に浮かんだ涙のせいで、竜の姿が滲んだ。
「なんだって、私をそんなに憎むんだい?」
 気のせいではなかった。あの時、兄の声を聞いたのは空耳ではなかった。玲帝は、兄は私を
憎んで死んだ。
 操吟の問い掛けに応えたように、龍の姿がほどけた。爪も鱗も宙に広がり、黒い煙になる。
その煙に映し出されるように、人影が浮かびあがる。
「燐音」
 人影は、繰吟の名を呼んだ。今は偽名代わりに使っている、成人前の童名で。
 悲鳴をあげそうになって、繰吟は息を呑む。吐き気に耐えるように口を押さえ、嫌な咳をし
た。喉が熱い。口から胃まで、溶けた鉄を流し込まれたようだった。
 玲帝の顔は蒼白く、頬はこけていた。唇から、一筋真紅の血が流れる。そして、その薄い胸
には、腕の太さほどもある鉄の杭がいくつも突き刺さっていた。紫の衣が半分赤く染まってい
る。
 繰吟が瞬きをした次の瞬間には、帝の姿は消えていた。帝が立っていた所で牙を剥き出して
いるのは、さっきと同じ小龍。しかし、それも今の操吟には目に入らなかった。
 いつの間にか繰吟は涙を流していた。玲帝の姿が見えたとき、兄の記憶が流れこんできた。
 さっき覚えた喉の違和感は、帝が毒を飲んだときの記憶が流れこんできたのだろう。そのと
きの玲帝の想いも頭の中に入り込んできた。何が起こったのかという不安、そして毒を盛られ
たと知った恐怖。手を下した者への怒り。そして、その者が繰吟の部下だったという驚き。それ
はつまり、命じたのが他ではない、燐音であるという……
「うわあああ!」
 燐音は頭を押さえ、悪い夢を振りほどこうと首を振った。流れ込んできたのが憎しみだけなら
まだ良かった。燐音に対する憎しみに、今にも消えそうなほどほんのわずかに許しの念が交じ
っている。
 繰吟に殺されたと思いながら死んだ兄。繰吟を恨んでいながら、罪を許そうとしていた。自分
亡き後の心配までしていた。その憎悪も、いたわりも、両方偽りのない本心だろう。
「兄上、都を呪う依代にされているのか。蛙や毒虫のように」
 玲帝は繰吟を許してくれていた。それなのに魂に杭を打たれ、憎しみを無理にかきたてら
れ、死してなお安らぎを得られていない。繰吟の涙は止まらなかった。
「繰吟様!」
 脳を貫き、右耳から左耳に抜けるような不快な金属音で、操吟は我に返った。
「何事ですか、操吟様!」
 いつの間にやって来たのか、舞扇が操吟の前に立ち、襲ってきた龍を刀が止めていた。舞
扇は一度さがって間を取ると、横なぎに刀を一閃させた。
 ヘドロのようになったヒルコは、ぼたぼたと廊下の床に落ちた。そして蒸発するように消えて
いく。カチリという音がして、鏡が落ちた。
「操吟様。これは一体」
 突然の事で驚いたのか、舞扇は乱れた息を整えようとしていた。
「あれは、鏡に宿った兄の記憶だ。ヒルコに兄の鏡を――」
 説明する自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「あれは……。あれは、帝の恨みが込められた荒ぶる神だったのですか」
 うつむいたまま、舞扇は操吟と視線を合わせようとしなかった。まるで何かの病の発作が出
たように、舞扇は震えていた。
「舞扇?」
 ひどく怯えているような、傷ついているような舞扇の様子に操吟は不安になった。
「そうと知っていたら、抵抗などせずおとなしく喰われていたものを」
 そこで初めて舞扇がうつむいた顔をあげた。
「これ以上隠していても、神々の怒りをかうだけでしょう。玲帝を、あなたの兄上を殺 (あや)め
たのは私の手の者です」 
「な、何を、何を言っているんだい?」
 兄の死は、病だったのだ。悲しい事だが、起きてしまった事は変えられないから、苦労しなが
らも――そうとうな苦労だった――何とか現実を受け入れた。
 それなのに、本当は暗殺だった? 舞扇は口うるさいやつだが、私達兄妹のためを思い、誰
よりもよく仕えてくれている。そんな舞扇が兄を殺した? 何を言っている?
「私は玲帝よりも、あなた様の方が帝としてふさわしいと思った。ですから、病に見せ掛け玲帝
を暗殺したのです」
「なぜ……」
 操吟はそれだけをしぼり出した。
 兄を殺してまで、帝になりたかったわけではなかった。兄の傍ら立ち、補佐をしたかった。優
しかった兄のもとで。いや、兄は今でも優しかった。胸にくさびを打ち付けられてなお、妹をゆる
そうとしていた。
 そんな兄を、なぜ殺したのか。
「私は、寒村の生まれました」
 身じろぎもしないで舞扇は言った。淡々とした声が虚ろな墓に響く。
「売られた先は、地獄でした。しかし、それでも父母を恨むことはできず、私の恨みは主人と、
生まれた村を顧みてくれなかった玲帝に向かいました。生れ付きここで育ったあなた様には、
私が初めて絢爛(けんらん)な内裏を見たときの驚きはわかりますまい。私があばら屋で震え
ていたとき、帝は絹の布にくるまれていたに違いない。小さな村一つ救うこともできないのに…
…」
「もういい。舞扇」
「そして、繰吟様に救われた。あなた様は私の才能を認めてくださった。お優しくしてくださっ
た。政も玲帝よりも聡明でいらした。だから私は!」
「やめよ!」
 何かを断ち切るように、操吟は言った。
「兄は、玲帝は、私達を怨んでいる」
 操吟が鏡を拾いあげた。 
「この異変を収めるには、生贄を捧げる必要があるかも知れないねえ。あんたと、この私の命
を」
 舞扇を殺したくはない。
 確かに、兄を殺された憎しみはある。それは生きている限り肌に刻まれた焼印のように消え
ないだろう。これから二度と、舞扇を前にして無邪気に笑えないだろう。
 それでも、操吟は舞扇を殺したくはなかった。憎しみと同じように、今まで共に泣き、笑い、苦
しんだこともまた用意に消せる物でもないのだ。
 しかし、それは操吟の個人的な願いにすぎない。今もこの宮廷の外では荒ぶる神が現れて
いる。このまま手をこまねいていては状況は悪化し、民の間に犠牲者が増えるだろう。この異
変を止めるためになるならば、私は舞扇を犠牲にしなければならない。個人の心や願いなど、
そこに入り込む余地はない。
 操吟は手を叩き、兵を呼んだ。兵は、帝に直接呼ばれた事に驚いていた。
「理由は言わないよ。獄につなげ」
 操吟は舞扇に背をむけた。彼の顔は見られなかった。見れば、たぶん取り乱す。
 舞扇は抵抗もせず、兵にうながされるまま立ち上がったのを気配で知る。
「操吟様」
 穏やかな声で舞扇が名を呼んできた。
「やはり、あなたの方が玲様よりも帝の方がふさわしい」
「……とりあえず、朱に教えておいた方がいいんだろうね」
 そう思った物の、舞扇の足音が遠ざかった後も、操吟は立ち尽くしたまましばらくは動くことが
できなかった。


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