第九章 占司殿(せんしでん)の朱(あけ)
 
 森の中にある占司殿は、いつでも木と香(こう)の匂いがする。都の雑踏もここまで届かず、
鳥の鳴き声と、梢の揺れる音で満ちていた。玉砂利を敷き詰められた中庭には、きれいに掃
き清められ、落葉一つない。
 朱は頭を悩ませながら中庭を囲む廊下を歩いていた。おともの魁がおとなしく後に控えてい
た。
 あれから、戻ってきた巫女達が次々と異変を訴えてくる。曰(いわ)く、荒ぶる神が多くなっ
た。曰く、転じていない神の気も乱れている。明らかに、何かが起こっているのだ。だが、その
何かが分からない。
 都に残っていた巫女達の協力で、都の結界は一応完成した。占司殿を覆う清浄な気を術で
留める。これで転じた神が都に侵入してくるのを防ぐ事ができるだろう。
 しかし、それとて万能ではない。要である占司殿が汚されたら結界は効力を失う。それに原
因をつきとめ対処しない限り、神の転じはおさまらず、荒ぶる神が増え続ける事になる。問題
は山積みだ。
 そのとき、戸のきしむような甲高い声を聞いて、朱は我に返った。人間の声ではない。もちろ
ん隣を歩いている魁のものでもない。
「なんだ、ネズミかや」
 廊下のすみで、小さな尻尾がうごめいていた。拳大のネズミが、黒いトリモチのようなものに
捕まっている。朱でさえ見過ごしてしまいそうなほど微かな神気が、その泥のようなものから出
ていた。その正体を知っている朱は思わず声をあげる。
「馬鹿な! ヒルコが出るなんて。ここは占司殿じゃぞ」
 ヒルコとは、まだ核を得ず、神に成り切れていない力の塊だ。神の素と言ってもいい。普通な
ら、人のいない自然の気に満ちたところ、森の奥深くや海の底でひっそりと生じる。それが人里
に、しかも占司殿にあるなど、異常だった。しかも、黒い物が。黒いヒルコが司るのは、滅び、
飢え、腐敗。
 ヒルコがゆらりと波打った。ネズミを完全に包み込む。小さな袋に入れられたように、ネズミ
はもがく。その動きもみるみる微かになっていく。
「えい!」
 朱は印を結んだ。
 銀色の火花がネズミを覆った。小さな爆発に巻き込まれたように、ヒルコは四散し、飛び散
る。ようやく解放されたネズミは、悲惨な姿となっていた。毛並みは荒れ、所々肌と骨が見えて
いる。負の力に触れた生き物は、強い酸をかけられたように朽ちていった。
「間に合わなかったか。しかたない、魁。どこか土に埋めてきやれ」
 魁は床に落ちた亡骸を拾うと、すばらしい速さで廊下の角を曲がっていった。その姿を見送り
ながら、朱はさらに憂欝な気持ちになった。あんな小さなヒルコが、結界を通れるわけはない。
とすれば、この占司殿の内部で生まれたのだ。もうすでに、ここは汚れ始めているらしい。
「きゃっ」
 角のむこうに人がいたのか、突然現われた白い犬に悲鳴があがった。その声に聞き覚えが
あって、朱は走りだした。
「その声、鹿子か!」
「朱様!」
 鹿子は、小走りで駆け寄って来た朱に気がつき、ほっとしたような笑みを浮かべた。
 朱は思わず鹿子に抱きついた。鹿子のほうが年上の姿をしているのに、何だかやっと見つ
かった迷子を抱き締める母親の気分だ。
「鹿子、無事でよかった。従者達は元気か」
「はい、淘汰も殺嘉も元気です。あ、すみません朱様、腕緩めてください。脇腹が少し痛いで
す」
「まったく、心配したのじゃぞ。でもよかった、神を殺したのはお前ではあるまい? あまりにも
お主は変わっていない。優しそうな目もそのままじゃ」
「ありがとうございます」
 じわりと鹿子の目に涙が浮かんだ。
 安心させるように鹿子の背を撫でていた朱は、手の辺りに冷え冷えとした物を感じ、鹿子の
腹に押しつけていた顔を離した。
「鹿子、御主呪いをかけられたな」
 巫女の長の顔で鹿子の顔を見上げる。
 いたずらを見咎められた子供のように鹿子は体をこわばらせる。
 朱は鹿子の腕を上げさせ、わき腹に触れる。
 鹿子は痛そうに顔をしかめた。
「図星のようだな。符で押さえているのか。かわいそうに、痛みは符で誤魔化せても、体から力
が抜けるようであろ。本当なら立っているだけでもやっとだろうに、この体で荒ぶる神を狩りな
がら都へきたのか」
 鹿子はうなずき、柚木が神を斬り、鹿子の命も狙ってきたことを話した。そのとき呪いをかけ
られたこと、燐音や禍刺、そして柚木の元従者、詩虞羅にあったこと。
「そうか、薙覇が…… 薙覇の事ならよく覚えている。外法を使い、よく柚木に仕えていた。おそ
らく、あ奴は柚木に惚れていたのだろう。鹿子。その薙覇はどこにいる」
「え? ええ。殺嘉達と一緒にいるはずですが」
「鹿子。薙覇から目を離すなよ」
「え、ええ。でも、あの方は悪い人には思えませんが」
「悪い者ではないからといって、害がないとは言えん。優しさが事態を悪化させる事もある。柚
木が付け入るとしたら、あの者以外ない」

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