第一章 神狩の巫女(後)

  鹿子は白い着物の衿を正した。
「それじゃ、行ってきます。淘汰。村をしっかり守るのよ。まさか人里にまで降りてこないとは思
うけど」
 昨夜、淘汰の聴いた荒ぶる神の咆哮は、かなり村に近い所だった。村人達を安全な場所へ
避難させたい所だったが、転じた神が近くをうろついていてはそれもできない。
 村に戦える者がいなくなるのに不安を感じた鹿子は、淘汰を留守番に残すことにした。
「ご武運を!」
 淘汰の言葉に手を振って、二人は山に向かった。

 草を踏むたびに青臭い匂いが立ち昇る。歩を進めるごとに少しずつ、少しずつ、狂った神気
が近づいてきた。
 がさり、と茂みを分ける音に、鹿子は顔を上げた。ふっと日が陰る。ほとんど本能で危険を感
じ取り、体を投げ出すようにして地面を転がる。地響き。
「うお!」
 殺嘉が声を上げる。
 つい数秒前、鹿子が立っていた場所に、巨大な蜘蛛が降ってきた。いや、蜘蛛に似ている
が、間違いなく転じた荒ぶる神だった。
 見るからに毒々しい、黒と黄の縞模様。いびつな八本の足に支えられた胴の厚みは、鹿子
の背丈程もあった。そして、一番前についた足一対だけ、ほかの物よりも異様に太い。はさみ
のように先は別れていないが、カニのように敵を攻撃し、また頭を守ための物だろう。指のよう
な触肢に囲まれた口。吹き上がる蒸気のような音を立て、そこから息が吐きだされる。八つの
眼が鹿子を捉えた。
「どうやらこれが荒ぶる神の親玉らしいな」
 殺嘉がつぶやいた。
 荒ぶる神は鈎爪のような前脚を振り上げる。鹿子は後方へ跳んだ。爪が土に突き刺さる。
 鹿子は地面に突き刺さった脚にむかい、刀を振った。金属を叩いたような硬い音。
「効いてない!」
 腕の痺れを感じながら刀を引き、構え直す。
 軋んだ音をたて、八本の脚が動いた。体躯に似合わぬ速度で荒ぶる神は鹿子に突進した。
 避ける暇はない。胸の前で刀をたて、せめてもの防御にする。
 弾き飛ばされ、鹿子は地面に叩きつけられた。端の切れた唇から息が漏れる。体が痺れ、
すぐには動けない。
  地面に接した胸と腹から、近寄る振動を感じ取る。神は鹿子を踏み潰すまで前進を止めない
つもりのようだった。
「鹿子!」
 殺嘉の声と、金属音がした。殺嘉の毒づく声がする。彼の刀も弾かれたようだが、蜘蛛はほ
んのわずか、歩みを緩めた。
 鹿子はそのスキに立ち上がると、蜘蛛にむかって走り、真上に跳躍する。大蜘蛛はちょうど
その真下を通り抜けるような形になった。鹿子は座り込むような形で蜘蛛の背に飛び乗った。
足の下に岩のような感触が伝わる。 
 視界が高い。蜘蛛の上から見下ろせば、下に流れる地面がみえた。獲物が自分の背に乗っ
ているのが分からないのか、蜘蛛が立ち止まり鹿子を探すそぶりを見せる。
 腹の丸みに滑り落ちそうになりながら、鹿子は体をかがめ、ゆっくりと頭の方へと移動を始め
る。
「このあたり……」
 狙うのは、腹と胸の境目。刀を構え直す。息を吸い、止めて、思い切り刀を突き立てた。 血
の代わりに淡い光が煙のように細くたなびいた。
 耳を貫くような、荒ぶる神の悲鳴。蜘蛛は大きく仰け反った。鹿子は振り落とされぬよう刺さっ
た刀の柄にしがみつく。
 蜘蛛が上体を地におろした衝撃で刀が抜けた。放り出され、地面に叩きつけられそうになっ
た鹿子を殺嘉が受けとめる。それでも衝撃はかなりのもので、鹿子は軽い目眩を感じた。
「ありがと殺嘉」
「あいかわらず無茶するな、お前」
 鹿子は走り、刀を拾いあげる。
 黒鉄でできたような前足が二本、触れるほど目の前に見えた。二本の牙が鹿子の胴を挟もう
とする。
 鋭く息をはき、鹿子は真っ正面に刀を投げつけた。銀の光が空間を切り裂く。
 刃は八つの中で、一番大きな目に突き刺さった。蜘蛛が吼える。前脚で顔をこすり、刀を払
い落とす。刀の抜けた傷から湯気のような光がたなびいた。
 痛みで混乱して、蜘蛛は脚を手当たり次第に動かした。
「あっぶね!」
 削られた土が矢のような勢いで辺りに飛び散り、鹿子達はあわてて距離をとる。
 そのときだった。刺すような光が村の方向で閃いた。村の側を流れる小川だった。高くなり始
めた日の光で、葉の間からのぞく水面が眩いほどの輝きを放っている。
「いけない!」
 刀を拾い上げながら鹿子が叫ぶ。
 目の一つをつぶされ、闇の濃くなった視界の中でも、その光は蜘蛛に届いたようだ。荒ぶる
神はその明かりにむかって走りだした。
「だめ! そっちは!」
 頭の中に火が燃えているようだった。それなのに体は寒い。乾いた喉が痛かった。
 駄目、だめ、ダメ! 頭の中で繰り返しながら、小山のような姿を追う。道には蜘蛛の足跡が
粗い縫い目のように続いている。追いつけないほどの速さではなかった。並走し、脚を、腹を、
頭を切りつけるが、刃が通らない。鹿子は蜘蛛を追越し、里へおりる。
 心配そうに山を見ていた村人の中から、淘汰が走り出てきた。
「ごめん、しくじった! 皆を逃がして!」
 それを聞いただけで状況を理解して、淘汰は村人達の先導を始めた。殺嘉もそれに加わ
る。木々に隠れ、村から蜘蛛の姿はまだ見えない。状況が飲み込めない村人達が「何があっ
たんだ?」「村はどうなる」と口々に声をあげる。
「説明は後! とっとと行け!」
「我々がなんとかします。信じて行って! 走れない人達は家の中へ!」
 従者達の声を聞きながら、鹿子は座り込みたいのを必死で耐えていた。もともと人数が少な
いとはいえ、村人が逃げるには時間がかかる。それまで蜘蛛の脚を止めるとこができるの
か? 家に避難した者を、守ることができるのか? この村がどれほどの被害を、死者をだす
かは、今、このときの鹿子にかかっていた。
 山の木々を薙ぎ倒す音がした。土煙をまとった影が山からまろびでる。
「嘘、だ、ろ」
 平坦な口調で殺嘉がいった。
「あの蜘蛛、下級神どもまで、呼びやがった」
 熊、百足、蛇。さまざまな神が蜘蛛に付き添うように坂を下ってきた。
「蜘蛛は私が! ほか、お願い!」
 鹿子は蜘蛛の前へ駆け戻る。
「ちぃっ! やるしかないか」
 殺嘉が太刀を抜いた。淘汰もそれに続く。
「脚の速いのから順に、一人十匹ってところかな。できるかどうか、やってみる?」
 淘汰のその一言を合図に、従者二人は一気に駆け出した。

 斬る、斬る、避ける、斬る、激痛、斬る。ただ、自分の身に襲いかかる攻撃を避け、斬る。殺
嘉と淘汰はひたすら荒ぶる神を斬り続けた。神達の前進を許せば、村は踏み潰されてしまう。
とどめを後回しに足を斬られた異形の神達が、適当に斬り捨てられ、転がって呻き声をあげて
いる。
「ふう、なんとか目標達成」
 衣の袖を自身の血で濡らして、淘汰は刀を持つ手を垂らし大きく息をする。
「……」
 殺嘉もしかめ面をしたまま刀を振るのをやめる。これから倒れて動けない神に止めを刺さなく
てはならない。殺すのではなく、もとの純粋な力に戻るよう浄化してあげるだけなのだが、あま
り気持ちのいい作業にはならないだろう。
「あとは鹿子様の所へ加勢に!」
 光につられた蜘蛛は幸い村をそれ、小川の中に入り込んでいた。村へ進むそぶりはみせな
いものの、山へ引き上げもしなかった。鹿子は膝まで水に浸かり、神と対峙している。 鹿子が
何度斬りかかっても硬い外皮に阻まれ、決定的な攻撃を与えることができなかった。相手の攻
撃を避けることで、こちらの体力は確実に奪われる。少しずつ少しずつ、動きが緩慢になって
いく。早く決定的な一撃を与えないと、たまった疲れで攻撃を避けきれず死ぬことになる。
 駆けつけた従者二人が鹿子の両脇に並んだ。
「おい淘汰、とどめは刺すなよ」
「うん、もちろん!」
 下級神はともかく、強力な荒ぶる神を浄化できるのは巫女だけだ。巫女自ら刀で斬り、祝詞
(のりと)を唱えなければ浄化はできない。巨大な塊となった神を無理に散らせば、浄化される
ことなくその力は消えてしまう。それはすなわち、神の力がおよんでいた土地の死を意味する。
 鹿子はあちこちすりむいていたが、たいした怪我はないようだ。
「鹿子様、手伝います!」
 頭を狙った淘汰の一刀も、あっさりと跳ね返される。
「だめ。向こうも警戒してる。もう目を狙うのは難しい。口の中に刀を突き立てられればいいん
だけど」
 風を斬る音がして、蜘蛛の足が淘汰の胸を狙い、突き出される。飛び退いた淘汰に、鹿子が
叫ぶ。
「まだ来る! 気をつけて!」
 何かが外れたような、骨の折れたような音がした。淘汰の頭を指差すように伸ばされた、右
前足の先端が、針のように細まりながらさらに伸びる。淘汰はとっさに身を沈めた。針が空気
を貫いたときに生まれた微かな風を頭のすぐ上で感じる。立ち上がる間もないうちに、みぞお
ちを狙って残った左足の針が繰り出された。避ける時間はない。
 真横から鹿子が思い切り淘汰を蹴り飛ばした。しゃがみこんだばかりの不安定な姿勢をして
いた淘汰は横に倒れこむ。みぞおちを貫くはずだった針は横腹を軽くかすめただけだった。
 それからも、ほとんど目が見えないはずの蜘蛛は執拗に淘汰を攻撃した。まるで鹿子の存在
を忘れてしまったように。
「鹿子様に攻撃がいかないのはいいけど、なんで僕ばっかり?」
 下級神との戦いで受けた肩の傷は、血がまだ止まらない。少しづつ力が抜けていくようだっ
た。前脚を避けながら、鹿子のほうへ目をやる。淘汰に向かう攻撃を払い除けてくれた鹿子
は、疲労が蓄まっていて辛そうだが大きな傷はない。
「そうか! 匂いか」
 よく考えるまでもなく、視覚をつぶされた神が嗅覚や嗅覚に頼るのは当たり前だ。
 淘汰は血のしみ込んだ袖を引き千切った。それを蜘蛛の頭の上に放り投げる。蜘蛛はその
布を捕まえようとするように前脚を持ち上げた。守られていた目と口が剥出しになる。切り刻ま
れた布が紙ふぶきのように風に舞った。
 水を蹴立て、鹿子が走る。乱杭に生えた牙の間に刀を差し込む。荒ぶる神の悲鳴が木霊し
た。
「やったか?」
「わかんない」
 荒ぶる神の口に刀をねじ込んだまま鹿子が答えた。
 蜘蛛が動きを止める。あげられたままの前脚が、ゆらりと揺れる。このまま前脚落ちれば、
鹿子は叩きつぶされてしまうだろう。鹿子は急いで刀を抜き、後へ跳ぼうとした。だが、腕が動
かない。
 蜘蛛の口の奥から伸びた糸が、鹿子の両腕を捕らえていた。
「なっ!」
 荒ぶる神が蜘蛛の姿をしている以上、糸を警戒していなかったわけではなかった。しかし普
通蜘蛛は口から糸を吐かない。
 蜘蛛は下げかけた鈎爪を再び振り上げた。殺嘉と淘汰は走ったが、間に合わない。鼻の先
に触れそうなほど近くにある八つの目が、わずかに笑い、歪むのを鹿子は見た。水煙が上が
った。土砂降りの雨のように、舞い上がった水が体を打つ。
 いつの間にか閉じていた目を、鹿子は開けた。自分の身の丈ほどもあった蜘蛛の姿は目の
前から消えていた。その代わり、世にも美しい女性がその場に立っていた。鹿子と同じ、白い
着物に緋の袴。膝まである黒い髪。どこか陰のある、しかしだからこそ美しい瞳。肌は白く、頬
と唇だけが淡い桜色をしていた。手には細身の刀。
 その女性を、鹿子は知っていた。
「柚木様」
 荒ぶる神に襲われた村で、初めて会ったときと同じ姿だった。駆け寄ろうとした鹿子だけど、
足がもつれてうまく進めない。よろけて、態勢を整えようと真横に手を伸ばす。なにか濡れた物
が手に触れた。
 それは、頭から尻まで真二つに切断された荒ぶる神の死体だった。きれいに分かたれた右
半身と左半身が壁になり、鹿子はその間を通っていたのだ。顔を左右に向ければ、蜘の断面
が見える。
「柚木様、助けてくれたんですね」
 柚木はふわりと微笑んだ。どんな者でも微笑み返さずにはいられないようなやわらかな笑み
だった。
「鹿子、大きくなったな。そして、強くなった」
「よかった、生きて、いたんですね。今まで、どこへ。連絡も、なしに」
 気を緩めると泣いてしまいそうだった。言葉を一つ一つ丁寧にしゃべらないと声が震えてしま
う。
 荒ぶる神は、いつの間にか無数の黒い光の粒になっていた。その真ん中に立っている鹿子
と柚木は黒い霧に包まれているようだった。霧はゆらゆらと虚空に集まり、一抱えもある大きな
丸い塊になった。
「ああ、えっと、話をお伺いする前に、この神様を浄化しないといけませんね」
 多少慌てながら、鹿子は祝詞を唱え始めた。柚木が見ていると思うと緊張する。
 黒い固まりは少しずつ輪郭をなくし、透明になり、揺らめき、まるで陽炎のように実体のない
ものになった。
 鹿子は両手を差し出しだす。陽炎は光の粉になり、見えない手に丸められているように凝縮
されていく。そして真球の珠となる。鼓動のように明滅する、夕暮れに似た暖かな金色の光。照
らされた鹿子の指先がすけ、血の緋色が鮮やかだった。
 珠からは、蜘蛛のまがまがしさは微塵も感じられなかった。転じていた荒ぶる神が命を育む
力に戻ったのだ。この神を祭れば、前のように村は豊かになるだろう。
 柚木は小さくうなずいた。
「本当に、いい祓いになったな、鹿子」
 柚木の持つ細い刃が小さく鳴った。
「だから邪魔だ。死ね」
 突き飛ばされたような衝撃を鹿子は感じた。背中が火か氷を押しつけられたように熱く、冷た
く、痺れた。ゆっくりと自分の体を見下ろす。刀の先端が横腹から突き出していた。傷口を押さ
えようとすると、刃に触れた指が切れた。
 柚木は刃を引き抜く。小さく咳き込んだ鹿子の唇から血が溢れた。傷口からぼたぼたとたれ
た血は着物を濡らし、地面を染めていった。
 殺気を感じ、柚木は刀を低く掲げる。金属のぶつかりあう音がすぐ耳元でした。 
 淘汰の刃と柚木の刃が、巫女の首筋すぐ近くで噛み合っていた。柚木の反応がもう少し遅か
ったら、彼女は間違いなく首を刎ねられていただろう。
「鹿子の従者か。ためらいもなくこの私の首をはねようとするとは、見所がある」 
 柚木は無造作に淘汰の刀を払い除ける。
 グラリと傾いた鹿子の体を殺嘉が支える。
「なんのつもりだ、柚木姫ェッ!」
 殺嘉の叫びに、柚木は眉一つ動かさなかった。生まれ変わったばかりの幼い神に視線を向
ける。 
 銀の光が走った。淡い、黄金色に輝く小さな珠は、無残に砕かれて消える。
「あはははは!」
 柚木は笑った。白い喉を見せ、のけぞって。
 声すらあげず、再び淘汰が切りかかる。沸き上がった激しい怒りがかえって淘汰の顔から全
ての表情を消していた。藁の束でも斬ろうとしているように、躊躇も罪悪感もない一刀だった。
「いい動きだが、少し癖がある。踏み込みを半呼吸遅くしてみろ」
 いつのまにか背後に回られた淘汰の耳に囁かれた言葉は、辛抱強い剣の師匠のように静
かだった。柚木に笑っていた余韻はもうない。
 淘汰の背と衣の間を汗がすべり落ちる。
「今度会ったときまでに、直すといい。まあ、その時があるかどうかはわからんが」
 淘汰が振り返れば、堂々と背中を見せ、柚木は山のほうへと歩いて行った。荒ぶる神にけず
られ、地肌の見える坂を危なげなく登っていく。
「ッ!」
 小さく唾を吐き捨てて、後を追おうとした淘汰の襟首を殺嘉がつかんだ。
「阿呆(あほう)。あいつはもういい。鹿子のほうが先だ」
 殺嘉は乾いた地面に鹿子を寝かせた。
「診てやってくれ。傷の治療はお前のほうが得意だろ」
 まるで鹿子を傷つけたのは殺嘉だというように、淘汰は殺嘉の方を睨みつけた。鹿子を斬ら
れ、あれほど舐められて悔しくないのか、と言いたいのだろう。
「あとで倍返し」
 ひらひらと手を振ってから、無意識に傷を押さえつけている鹿子の手を退かした。着物のたく
しあげ傷口を露出させる。
「鹿子様!」
 木依が駆け寄ってきた。
「清潔な布と、湯を。できるだけ早く」
 淘汰は傷口から目を離さず木依に言った。

 地面が揺れていた。その度に傷が痛むので、とめて欲しいと鹿子は思う。体に当たる感触か
ら、自分が横になっているのが分かった。ずっと同じ格好をしていたのか、背中が痛い。
 体勢を変えようと、息を吸って力をこめる。傷がえぐられるように痛んだ。痛みで体を強ばら
せる。
「う……」
 小さく呻くと、傍でばたばたと木を叩くような音がした。
 うっすらと目をあける。淘汰が四つんばいになって、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
さっきのばたばたは、淘汰が急いではい寄って来た音らしい。
「ここは、どこ?」
 淘汰の後に抜けるような青空が見えた。
「荷車の上です。それから、下級の荒ぶる神はすべて浄化しました」
 鹿子がゆっくりと体を起こす。鹿子が寝ていたのは、板に車輪と引き手を付けただけの車だ
った。黒毛の牛が重たそうに歩くたび、軋んだ音を立てる。鹿子のまわりには稲の束や芋、酒
の壷、クワやスキが積まれていた。前をみると、村人達が黙々と歩いているのが見える。
「あの場所には、もういられません」
 柚木が生まれ変わった神を斬った。生の力の加護を失った土地は滅びるだけだ。水は魚を
育てず、稲は実らず、獣は去る。草すら生えず、不毛な大地が広がるだろう。
「夜露をしのがなければならないので、皆で隣村に行くことにしました。新しく糧(かて)を得るた
めの土地ができるまで。住み慣れた場所を離れたくないというものはおいてきました。もちろ
ん、新しい場所に落ち着いたらもう一度迎えに行ってみるそうだけど。勝手に決めちゃってごめ
んなさい」
「ううん、私もそうしたと思う。ありがと」
 会話が途切れるとなんとも居心地の悪い空気が流れた。
 淘汰はおそらく柚木のことを訊きたいのだろう。
  美貌の巫女の噂は彼もきいたことがあるはずだ。
 二人の従者を連れ、祓いの中でも強い浄化の力を持っていたという。だが十年前、自身の産
まれた村に現われた荒ぶる神に従者ともども返り討ちにされてしまったと。
 だがそれは芝居で、柚木は生きていたのだろうか。十年も何をしていたのか。なぜ神を殺し
たのか。そしてなぜ鹿子を殺そうとしたのか。
 淘汰は一度強く唇を噛み締め、それから口を開いた。
「殺嘉は」
 結局彼が口にした言葉は、柚木とはなんの関係もない名前だった。
「殺嘉は、一足先に隣の村まで行っています。受け入れてもらえるように話をしてくるって」
「そう」
 幸いなのは、穀物倉が無傷だったことだ。どの村も、ほかの村全員分を養えるだけの食料は
ない。自分達の分の食べ物を持って来られなかったら、いくら巫女の口利きがあっても容赦な
く追い出されただろう。 
 隣の村に近づくと、殺嘉の声が聞こえてきた。
「ああ、だからまずは寝床だけ貸してくれるだけでいいって。女子供と病人の分だけでいい。食
べ物はこっちにけっこうあるからよ」
 殺嘉は隣村の村長と話していた。近づいてくる牛車を見つけ、駆け寄ってくる。
「鹿子! 怪我はもういいのか」
 うなずくと殺嘉は心底ほっとしたようだった。
「長老、話は殺嘉から聞いたと思います。私は浄化に失敗しました。私達がつれてきた者達に
助勢をお願いします」
 淘汰の肩を借り、鹿子は車から降りた。
「ええ、わかりました」
 一見従順に顔をさげた村長だが、鹿子にいい感情を持っていないのは明らかだった。臥せら
れた目が、曲げられた口が鹿子を責めている。
「どうするんですか鹿子様、これから。傷が癒えるまで、ここにいさせてもらいましょうか」
 鹿子は首を振る。
「いったん、都に戻ろうと思う。今回は、変な事が多すぎる」
「そうだな。なあ、鹿子よ」
 殺嘉は鹿子に向き直った。自分より少し下にある鹿子の目をひたと見据えた。
「さっき、お前を殺そうとした女、本当に柚木だったのか」
 もう一度身を切られたように鹿子は目を閉じ、体を強張らせた。
「君はなんてことを!」
 襟首をつかんできた淘汰の手をはらいのけようともせず、殺嘉は低い声でいう。
「うるせえな。黙って保留にしてすむもんじゃねえだろうがよ。神殺しは大罪だ。許されるもんじ
ゃねえ。これからあの土地、常黄泉(とこよみ)の地になるんだぞ」
 生きる力を失った土地を常黄泉の地と呼ぶ。神が斬られた場所を中心に、滅びは何年もか
けゆっくりと広がる。運が悪ければ、今いるこの村も滅びに飲み込まれるかも知れないのだ。
「それにしても、言い方ってものが!」
「淘汰ありがと。でも殺嘉が正しいわ」
 その言葉に、淘汰の手が殺嘉から放れた。
「私も、よくわからないの。あれは確かに柚木様だった。でもなんであんなことをしたのか」
 鹿子は顔を両手で覆った。泣くのを我慢するように、一回深い息をした。
「それだけわかればいい。悪かったな」
 殺嘉は車の荷降を手伝いにいった。
「鹿子様、立ってるの辛いでしょう。どこか横になれる所がないか、訊いてきますね」
 淘汰も行ってしまい、鹿子は荷降の邪魔にならないように隅の岩に腰をおろした。ぼんやりと
殺嘉の動きを目で追う。木依と兄弟達が殺嘉を見つけて駆け寄っていく。三人の会話がここま
で聞えた。殺嘉は彼らしく飾り気のない言葉で子供達を慰めていた。
「でもよかった。皆死んじゃうと思ったから。ムラトはかわいそうだったけど」
 木依の言葉に、他の子供達がうなずく。ただ小さい澄が泣きじゃくっていた。
「そうか。鹿子が聞いたら喜ぶだろうよ」
「ねえ、あんちゃん、村から持ってきた食べ物はどれだけあるの? 今年の分足りるかな?」
 殺嘉の担ぐ袋を見ながら木依が訊く。
「ん? ああ、ちときついかもな。これから畑の作物は枯れちまうだろうし。けどまあ、遠出をす
れば狩りもできるし、平気だろ」
 殺嘉は刀の柄を軽く指で叩く。それは『あまりよくない』とか『嬉しくない』を表す彼の癖だっ
た。
 鹿子の胸が痛んだ。
 殺嘉の言葉は嘘ではないが本当でもない。平気だ、と言ったのは村の者が全滅しない、とい
うだけの意味だ。不自由しない、という意味ではない。
 田や畑を作るとしても、昨日今日でできるものではない。きちんとした作物がなる前に蓄えが
つきるかも知れない。栄養不足で、今殺嘉と話している子供達の何人かが黄泉津比良坂(よも
つひらさか)を下ることになるかも知れないのだ。
 殺嘉の癖の意味が読み取れなかった子供達は無邪気にほっとした笑みを浮かべた。
「はいはい、お話はもう終わり。父ちゃん母ちゃんの手伝いに行った行った」
 殺嘉は子供をにわとりのように追い散らした。
 一人、木依だけが何か言いたそうな様子で残っている。
「ん? どうした?」
 殺嘉が訊くと、緊張した様子で話始めた。
「ね、ねえ。僕を連れて行ってよ、い、いや、連れて行ってください」
「連れて行ってって、都に?」
 鹿子の質問に、木依はコクリとうなずいた。
 鹿子は木依と視線を合わせた。
「荒ぶる神をみたでしょう? 私達はあんなのと戦ってるのよ。木依みたいな小さい子を連れて
行くわけにはいかないの」
 食料が乏しいとはいえ、いつ荒ぶる神に襲われるか分からない旅に出るよりは、村にいた方
がまだしも安全だ。
 諭すようにいった鹿子に、木依は「でも」と口ごもる。
 近くにいた淘汰がちらりとこちらに視線をむけてきた。
「どうせ、遊びに行くつもりなんでしょ? これぐらいの歳って外の世界が見たくてたまらないか
ら」
 彼は柚木のことで少しいらだっているようだった。
「違う!」
 淘汰がびっくりするぐらいの大声で木依はいった。
「僕は、都へ行って帝にお願いするんだ。都にはたくさん食べ物があるんでしょ。だから少しわ
けてって」
 噛み付きそうな勢いで木依は言った。
 その言葉を聞いて、鹿子は思わず木依を抱きしめたくなった。しかし、それはやめにする。幼
くとも、村を守ろうと覚悟を決めた者に対して失礼だ。
「そこまで覚悟を決めてくれたんなら連れて行ってやりてえのはやまやまだけどな」
 抱えていた荷物をいったん降ろして、殺嘉が言った。
「都って、むちゃくちゃ遠いんだぞ? そこまで普通に行くのも大変なのに、荒ぶる神もやっつ
けながらだ。悪いけど、お前の面倒を見ている余裕はない。分かってくれ」
 木依はしばらく唇を噛みしめてうつむいていたが、やがてゆっくりとうなずいた。
「悪いな、連れて行けなくて」 
 殺嘉は木依の頭をくしゃくしゃとなでた。
「じゃあ、殺嘉あんちゃんにこれあげる。旅のお守り! 僕が作ったの!」
 気を取り直した笑顔で、木依が懐から取り出したのは、龍の形をしたワラ細工だった。
「へえ、器用だな。ありがとさん」
「えへへ……じゃあね」
 木依は元気よく先に行った子供達を追っていった。
「さて。速いとこ手伝い終わらせて次の村行こうぜ。そんでゆっくり休もう」
「うん、そうだね」
 力なく鹿子は微笑んだ。
 その時、柚木に斬られた傷が痛み、自然と眉根がよった。
「なんだ、まだ痛むのか?」
「うん。でも手当てしたから落ち着いてきてる」
 嘘だった。柚木から受けた傷は、時間がたつにつれ痛みを増していった。明らかに普通の傷
ではない。なにか、刃に毒でも塗られていたのだろうか。
「それから…… 都の前に柚木様の村に行ってみようと思うの。一体何があったのか」
「柚木が死んだことになっていた場所か。何か分かるといいんだが。まあ、これ以上悪い事に
はならないだろうよ」
 自分に言い聞かせるような殺嘉の言葉だった。

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