風の神殿


  細い山道を、一頭だての馬車がのんびりと走っていた。強い風が両脇の枝から葉を飛ば
し、地面で渦を巻かせる。エフムの村は、かなりの山奥にあるようだった。
「それにしても、ロレンス様」
 馬車の中の貴人に聞こえるよう大声で言った御者は、浅黒の肌をした少年だった。下層の修
道士のローブを着、年のわりに慣れたようすで手綱を握っている。
「いくら昔世話になったからって、わざわざ枢機卿様が一神父のためにこんなハルズクロイツ
の僻地(へきち)にまで行かなくてもいいんじゃねえんですかい? アリスト神父でしたか」
「確かに、行かなければならないという義務はありませんよ、ガレル。ただ、純粋に会いたいだ
けです」 
 ロレンスは張り上げているわけでもないのに、不思議とよく通る声で応える。
 アリスト神父はロレンスが子供だった頃、何かと面倒を見てくれた人だった。彼がエフムの村
に派遣されてから何年も会う事がなかったが、一ヵ月ほど前、彼の病が悪化したという知らせ
がロレンスのもとに届いた。
 雪が降って道が閉ざされてしまう前にと、ロレンスは急いで馬車を出した。村へつくまでの間
に、アリスト神父が亡くなってしまうのも覚悟して。
「村に近付いたら私が枢機卿というのは秘密にしておいてくださいね。幸い、ここは街から離れ
ています。皆私の顔を知らないでしょう。私が直々に来るとは思わないでしょうから、偽名まで
使う気はありませんけれど」
 そもそも、街から離れて住む人々ほど政治に疎(うと)くなる。遠く離れた場所で行なわれてい
る勢力争いなどより、乾いた畑にいつ雨が降るかの方がはるかに大問題なのだ。
「心配無用、分かってまさぁ。何年あんたの下僕兼護衛をやってると思ってんですかい。もっと
も、教会非公式ですがね」
 ガレルは風でずれそうなローブのフードを押さえると、馬車を振り返ってニヤリと笑って見せ
た。
 修道士のローブを着ているものの、ガレルは正式なハルズクロイツの信徒ではない。ロレン
スが個人的に契約をした、教会にすら知られていない部下だった。
「にしても、辺鄙(へんぴ)な所ですねえ、つまらない」
「そうですか? 普段教会の中に閉じこもってばかりですから、私は逆に新鮮ですけれど。そう
そう、この村の近くには風の神殿があるそうですよ。後で見に行きましょう」

 何の特徴もないエフムの村で、唯一変わった所があるとしたら古代の遺跡が傍にある事だろ
う。もっとも、規模としては小さい物で、観光の目玉にするなど望めない。発掘作業もとっくに終
わって、今はほとんどかえりみられていないらしい。
 エフムの村に到着した頃には昼になっていた。ロレンスが教会横にある司祭館の戸を叩く
と、初老の女性が出迎えてくれた。アリスト神父の妻ネシーだった。
 ネシーは客を台所に通し、さっそくテーブルにスープを並べ始めた。
「すみません、ロレンス神父さん。わざわざこんなイナカにまで来てくれて」
 食卓にはスープの他にもふかしたイモや豆入りのパンが乗っていて、質素ながらもてなしの
気持ちが十分伝わってくるメニューだった。
「せっかく来てくれたのに、主人とお話できなくて、申し訳ないですわ」
「いえ、私も押し掛けてしまって……」
 アリスト神父はほとんどの時間を眠って過ごしているようで、ロレンスはまだ彼に会えてはい
なかった。
 ネシーの話によると、教会には時々神父を心配する者が様子を見に来てくれると言う。彼が
村人から慕われている証拠だろう。
 今も、ネシーの手伝いに来たイリフィアとその娘のラファナ、教会にあった本を借りに来たと
いうウェインも加わってにぎやかな昼食になった。
 穏やかな室内と壁一枚へだてた外では、冷たい風が木々をざわめかせ、窓をガタつかせて
いる。
「お見舞いに来てくれた人に気が引けるのですが、あなた様が数日村の人々の世話をしてくれ
れば嬉しいのですが」
 村での神父の仕事はちょっとした医者であり、もめ事を収める裁判官代わりであり、農業指
導者でもある。もうしばらくしたらハルズクロイツの教会から新しい神父が派遣されるだろうが、
それまで村人は不安だろう。
「奥様、そんな事を言ってロレンスさんを困らせてはいけませんわ」
 困ったようにイリフィアが言った。
「いえ、私はかまいませんよ。数日後にはハルズクロイツに帰らなければいけませんので、い
つまでもとはいきませんが。お邪魔している間、できる限りお手伝いをさせてもらえます」
 教会の外で、ひときわ強く風吹いた。
 ウェインが小さく咳をした。
「ここは、いつも風が強いんで?」
 窓の外を見ながらガレルが言った。
 そういえば、ガレルは馬車を走らせている間ずっと、フードがずれるだの寒いだのぼやいて
いた。
「いいえ、この時期だけ特に風が強いのですよ。昔はその風が悪い物を払いのけると考えられ
ていたらしいですよ。実際ここは風のおかげで作物の病気が少ないのですよ。菌が吹き飛ばさ
れてしまうようで」
「だから風の神殿のような物ができたのでしょうね」
 ネシーの言葉に、何気なくロレンスが口にする。
「私はねー、シンデンに行った事あるよ〜」
 今まで大人のむずかしい話につまらなそうな顔をしていたラフィナが嬉しそうに言った。
「お花とかね〜 わんちゃんとかね〜 いろんな絵が描いてあったよ」
「そうですか。それは楽しそうですね」
 無邪気なラフィナに、ロレンスは微笑んだ。
「実は、後でその神殿を見に行こうと思っているのですよ。どんな物なのか、少し興味があるの
で」
 そう言った時、ウェインが驚いたようにこっちを見ているのに気がついた。目が合うと慌てて
顔をそらす。
 その反応が気になったものの、問い詰めるほどの事ではない。
「そういえば、ウェインさんはフレアリングに住んでいたんですか?」
 ロレンスの言葉に、ウェインは少し驚いたようだった。
「あ、ああそうだ」
 ウェインは四十ほどの年令だろう。この村には不似合いなほどシャレた服を来ていた。
「ああ、やっぱり。少しアクセントがこの辺りの物とは違いましたので」
「少し体を壊してしまってな。水と食べ物を変えればましになるかと、最近ここに住み着いたん
だ」
「そうでしたか」
 そういえば、昼食中ウェインはよく咳をしていた。壊したというのはたぶん肺だろう。ロレンス
はそう考えた。
 昼食が終わり、ウェインとネシーが席をたった時、イリフィアがそっとロレンスに近付いて来
た。
「あ、あのロレンス様」
 声を落として話しかけてくる。
「もしよろしければ相談に乗ってくれませんか」
「ええ。かまいませんよ。ここにいる間できる限りお手伝いさせていただくつもりですので」
 少し緊張しているようなイリフィアを安心させるようにロレンスは微笑んだ。
「それで、どのような相談事でしょう?」
「それは……」
 決心して口を開きかけたイリフィアだったが、窓の外から響いた元気いっぱいの「お母さ
ん!」という声にその言葉はかき消されてしまう。
 緑の芝生に立つようにして、ラフィナぶんぶんと手を振っていた。
 もう少しもジッとしていられないというように、食事が終わると外へ飛び出していた  だ。
 イリフィアは困ったように微笑んだ。
「村についたばかりでお忙しいでしょうし、明日の朝にでも」
「よろしいですよ」
 約束をしただけでも気が楽になったのか、イリフィアはおっとりとした頬笑みを浮かべた。
「それでは」
 教会の外へ出て行くイリフィアを、ロレンスは何となく窓から見送っていた。
 イリフィアは子供の手を取って、仲良く歩いて行く。 
 ふいに木の影から小鳥が一羽飛び出してきた。小鳥はイリフィアの前に着地した。
「まあ、ピッピ」
 イリフィアがしゃがみこんで手を伸ばす。小鳥は手の平にちょこんと乗った。ラフィナが顔を近
づけても逃げる様子はない。
「ずいぶんと慣れているのですね」
 窓越しに声をかける。
「ケガして飛べなくなっていたのを治して、放してあげたんです。懐いてくれたみたいで、たまに
こうして会いに来てくれるんです」
「へえ、かわいいですねえ」
「もっとも…… それもどれだけ覚えているかわからないですけど」
 淋しそうにイリフィアは笑った。
 小鳥の習性はよく知らないが、完全に自然に返ってしまったら、彼女の事を忘れ人間に寄り
つかなくなるのだろう。そういう物なのかも知れない。
「ロレンス様、イリフィアを気に入りましたか」
 彼女達が完全に見えなくなるのを待って、ガレルがニヤニヤと声をかけて来た。
「……前に、小さな女の子から手紙を受け取った時も友人にちゃかされましたが、私、
そんなに浮気しそうに見えるのでしょうか?」
 確かにイリフィアは客観的に見て魅力的な人だが、それだけの事だ。自分は恋人に一途な
のに、そんなに浮ついて見えるのかと思うといい気はしない。
「冗談でさあ。あんたが恋人と仲がいいからついからかいたくなるんです。ロレンス様は結構思
い詰めるタイプですからねえ。少し浮気するぐらいがちょうどいいと思いやすぜ」
「そうですか? なら考えておきましょう」
 ロレンスがサラリと言ってのけた。
「イッ?」
「冗談ですよ、冗談。さっきの仕返しです」
 ロレンスはくすくすと笑った。
「さて。さっそく神殿を見てきましょうか」

 外から見た神殿は意外と小さかった。が、入り口を造っている石は古びていて、どことなく凄
味があった。
 その隣には何に使われていたのか、トンネルのような通路がある。通路は後で調べる事にし
て、ロレンスは、ランタンを持つガレルの後について神殿の中に入っていった。こういった地下
の建物は大抵ホコリっぽい匂いがするものだが、この神殿はどこからか風が入って来るのか、
空気は新鮮だった。
 この辺りでは珍しい白い石でできた壁が、ランタンのオレンジ色の光に照らしだされる。昔こ
の地域に住んでいた人々は、そうとう彫刻が好きだったようだ。壁はどれも大きなレリーフで覆
いつくされている。腰布を巻いただけの狩人と猟犬、穂の一本一本ていねいに彫られた麦畑。
そしていくつもの部屋をまたがって伸びるツタ。ツタには見慣れない花が咲いていた。
 神殿は小さく、少し見ただけですぐつきあたりになってしまった。
 ガレルが壁をぺしぺしと叩く。
「なんだ、たいしたことねえですねえ。ハルズクロイツの聖堂を見慣れているからかも知れませ
んけど」
「確かに大きさは大した事はないようですが、当時の神官や巫女は強い力を持っていたそうで
すよ。この時期、この神殿から巫女の託宣を述べる声が村全体に響き渡ったとか」
「村全体になんて、そんな事あるんですかねぇ」
 小さな物とはいえ、村全体に声を響かせるのは簡単な事ではない。神殿から村までの距離を
考えるとなおさらだ。
「記録によればそうらしいですよ」
 ロレンスは最奥の壁を見上げた。
「他にも何か秘密があるようですね」
 歌う女神のレリーフからぴりぴりとした波動のようなものを感じていた。
「これはこれは。何か魔法が施されています」
 ロレンスはきゃしゃな指を伸ばし、壁に触れた。本物そっくりの冷たく湿った質感。しかしそれ
は偽りだ。幻覚の魔法がかけられている。
 ほっそりとした指先が、壁に沈む。奥にあるのは、人の侵入を阻む結界だった。
「この奥に、結界が施されているようですね。残念ながら、現代の技術では解除できないでしょ
う」
「そうなんで?」
「ええ。正しい解除の方法が失われてしまっている。無理をすれば外せない事もないですが、
術者は命を落とすでしょうね。結界にそういう術も含まれている」
「それじゃあ、中に何が入っていても取り出せないってことですか」
「そうなりますね。あるかも知れない宝や解けるかも知れない歴史を計りにかけてもリスクが高
すぎる。感覚で、フォビドゥンツールのように危険な物が入っていないのは分かりますし」
「まあ、どうせこの村とは数日でおさらばですからね。中に何が入っていても関係ありません
や」
 ガレルは大げさな仕草で肩をすくめてみせた。

 一晩村に留まる事にしたロレンスに与えられたのは、アリスト神父の書斎だった。仮眠用の
ベッドもあり、本来の主が寝室にいる間の仮住居なら文句がない大きさだ。
「あーあ、なんだか辛気臭い神殿にいたら頭が痛くなっちゃいましたよ。寒いし」
 血流をよくして頭痛を治そうとガレルは肩の辺りを揉みほぐしている。
「大丈夫ですか? 風邪をひくのでは?」
 言いながら、ロレンスは机の上に積まれた本を崩し始めた。
 村の神父は大抵日誌を付けている。村人の結婚、出産、死亡の記録。産まれた家畜の様
子、発生した病の事。
 ネシーは日誌に書くべき内容をメモに取ってはいた。だが清書をする暇がないらしく、もし時
間があるならばとロレンスは整理を頼まれたのだった。
 ハルズクロイツでは、教会や孤児院で読み書きを教える活動をしているものの、こうした田舎
にまではなかなか行き渡っていないのが現状だ。今まで頼もうにも文字を書ける者がいなくて
ネシーも困っていただろう。
 机の上には、日誌の他にも様々な資料が重ねてあった。アリスト神父は几帳面な性格ではな
いが、それでも一応分類分け位はしてあるようだ。いくつかある束の一つを確認すると、どこで
手に入れたのかさまざまな国の地図がまとめられていた。もう一つは、各国の神話と遺跡につ
いてまとめられていた。当然風の神殿が見つかった当時の記録や、神話、見取りも綴じられて
いた。
「あれ、これは……」
 同じ地図を二枚見つけた気がして、ロレンスは紙の束をめくる。地図の一枚は風の神殿の物
だった。もう一枚の地図には、『フレアリング 炎の神殿』と書き込まれている。
「おもしろいですね。炎の神殿と風の神殿、造りが同じです。では、他の国にも同じ造りの神殿
があるのでしょうか?」
 炎の神殿の地図には、結界の先が描かれていた。細い廊下が続き、小さな部屋で行き止ま
りになっている。余白にはそこから金銀の細工物が出土したと地図に書き込まれていた。『扉
の前に死体』とも。おそらく金目の物に目が眩んだ魔術師の成れの果てだろう。結界の存在に
気づいても、死の呪いの仕掛けには気づかない中途半端な魔術師の。
 こんな遠い国の地図を、流通もろくに発展していないここでよく手に入れたものだと感心して
眺めていると、ノックの音がした。
「ロレンス神父」
 ドアの隙間から顔をのぞかせたのはウェインだった。
「アリスト神父が目を覚まして。あなたに会いたいと」
「本当ですか」
 ロレンスはいそいそと立ち上がる横で、ウェインがガレルに向き直る。
「ガレル、頭痛は大丈夫か」
「おかげさまで」
 それを聞いていたロレンスが、ほんの少し足をゆるめた。
「ロレンス様、どうしたんです? 早く行きやしょうぜ」
「え、ええ。そうですね」 
 通された神父の寝室は、煎じた薬草の苦い匂いがした。
「お久しぶりです、アリスト神父」
「おや。美しい精霊が迎えに来られたと思ったら、お前だったかロレンス。いや、もう枢機卿猊
下だったか」
「枢機卿といっても若輩者です。子供だったころと変わりませんよ」
 ロレンスは異例の速さで枢機卿となった。
 そのため、自分の位が上がった途端、親しくしていた者達の態度が変わるのを多く見てき
た。露骨な媚び、でなければ、隠しきれない密かな嫉妬。 
 変わらないアリストの態度が嬉しかった。
「死ぬ前にお前に会えて嬉しいよ。私はもう先がないだろうからな」
「そう言う人の方が長生きできると聞きましたが。後で、私の友人が作った薬を届けさせましょ
う」
 病人の負担にならないように、早く切り上げないといけない。そう思っても、積る話が止まらな
い。
 思いがけずイリフィアが話題に登ったのは、ロレンスが昼食の時に聞いた麦の病を吹き飛ば
す風について話した時だった。
 アリストがしかめ面をする。
「病といえば。かわいそうに、イリフィアは病気に冒されていてな」
「そうは見えませんでしたが」
「それが、ただの病ではないのだよ。突然、わけのわからない事を呟いたり、昨日あった事を
忘れたりな。いつか、茶を手にこぼしてやけどした次の日、自分がなんで包帯を巻いているの
かと怯えた様子で聞いてきた事もあったわ」
 木漏れ日の中で、小鳥を手に乗せるイリフィアの姿がロレンスの頭に浮かんだ。『忘れるか
も』とは小鳥が自分を忘れるのではなく、自分が小鳥を忘れるかも、と言っていたのわけか。
「幸いと言っていいのか、イリフィアは出来る限り皆との接触を避けている。今はまだ少しうっか
り者と思われているぐらいだが、そのうち魔物に憑かれたと思われても不思議はない」
「毒カビが生えた麦を食べると、似た症状を起こす物がありますが。ここは風の加護があるん
でしたね」
 ロレンスが考えたのは短い間だった。
「ひょっとして、イリフィアさんは魔術の心得があるのでは?」
 自分が操る神聖魔法と系統は違う物の、黒魔法についての基礎はロレンスも知っている。
 例えば黒魔術で炎を生み出す場合、魔術師は自身の魔力を糧にする。友人の黒魔術師ハ
ディス曰く、その魔力というのは酸のような物らしい。その酸で、異界との境界を溶かし、そこに
見えない感覚の手を伸ばす。そして異界に漂う力を引きずり出す。あとはそれを意志で炎の形
に加工すればいい。
 だが、人によっては自分が持っている魔力に抵抗がない者もある。何もしなければ害はな
い。しかしそういった者が何度も魔術を使うと、かきたてられた酸は静かに暴走し始める。いわ
ば自家中毒を起こしてしまうのだ。そうして術者は自分の魔力と、じわじわとしみ出して来た異
界の力の影響を受けてしまう。
 やっかいな事に、異界の力は、怒りや憎しみの感情に似ている。そしてそれは人の精神を狂
わせる。
「確かに、イリフィアは魔術を習った事もあるらしい。もっとも、破壊魔法ではなく、捜し物や占い
の魔法を平和利用していただけのようだが。かなりの技術を持っていたそうだ。子供が産まれ
たのを機会にやめたらしい」
 魔力で中毒を起こすのは体質なので、技術が高くても防げない。ロレンスの予想は正しいよ
うに思えた。
「例え病が他の原因であっても、ハルズクロイツで詳しく調べれば治療できるはずです。私が帰
る時にでもイリフィアさんが一緒に来てくれればいいのですが」
「ああ、むこうでも世話をしてくれればありがたい」
 持ちかけられる相談も、たぶん魔力中毒の事だろうか。なんにしろ、話を聞けば分かるだろ
う。全ては、明日の朝になったらだ。
 話が一段落したのをきっかけに、ロレンスは今度こそ退出することにした。
 暗くなるまでに頼まれた仕事をできる限りやっておこう。イリフィアの病には驚いたが、治療の
当てはある。何より、今日はアリストに会えた。部屋に戻るロレンスの足取りは軽かった。

 月明かりに照らされたベッドで、ロレンスは浅く眠っていた。頭の中で、竪琴が一音ピンと鳴
るような感覚に目を覚まし、静かに身を起こす。
 さっきの響きと、静電気で皮膚を撫でられるようなざわざわとした感覚は、近くで大きな魔術
が使われた証拠だった。
 窓のむこうから人の走る気配がする。遠すぎて何を言っているのかわからないが、叫び声
も。異様な雰囲気だった。
「一体……」
「ロレンス様」
 扉のむこうからガレルが静かに呼び掛けてきた。
「イリフィアの家が燃えてますぜ」
「なんですって?」
 慌ただしく着がえると、ロレンスは外へ飛び出した。
 イリフィアの家は、立ち登る煙が目印になりすぐにわかった。石をつんだ壁の間から蛇の舌
のような炎がいく筋ものぞき、いびつなランタンのように闇を照らしだしている。その明かりに照
らしだされる黒い煙は、得体の知れない生き物のようにうねりながら空を覆い隠そうとしてい
た。時折木の爆ぜる音が響く。
 何が燃えているのか、胸が悪くなるような匂いにロレンスは袖で口と鼻を押さえた。
 村人達は、憑かれたように茫然と燃える家を見上げている。
「やっぱり、イリフィアは狂っていたんだ」
「自分の家に火を放ったのか? 子供は?」
 うしろめたい事を話しているような囁きがあちこちからわきあがっていた。
「とにかく、延焼させないように!」
 ロレンスは村人を指示するようガレルに頼んだ。ガレルの号令で、我に返った村人達が鈎の
ついた棒や水を持ってくる。
 消火の様子を見届けもせず、ロレンスは月明かりを頼りに神殿にむかった。
 イリフィアは家にはいない。焼けてはいない。不思議とそれが分かった。しかし、それとは別
の嫌な予感が足をせかす。火事の事も気掛かりだが、さっき感じた結界の異変が心配だっ
た。特にその結界に死の魔術がかかっているならば。
 神殿の入り口が見えた時、ロレンスは明かりを持って来なかった事に気づいた。
 舌打ちという聖職者にふさわしくない行為をして、ロレンスは片手を軽くあげる。呪文を唱える
とぼんやりと右腕に蒼白い光がまとわりつく。
 ロレンスは神殿の奥にむかった。封印を施された壁に続く角から、オレンジ色の光が漏れて
いた。足早に角を曲がる。
 結界は外されていた。壁だった場所が開け、闇に沈んだ部屋が壁に虚ろな穴を開けていた。
そして、その入り口にはランタンが置かれ、周囲を丸く浮かび上がらせていた。ロレンスは集中
力を使う手の炎を消し、ランタンの光を頼りに進んで行った。
 扉の前の床に、なにか大きな物が置いてあった。細長い輪郭(りんかく)は弱い光にぼやけ、
大きな包みのように見える。それは、体をまるめ、倒れているイリフィアだった。
「……」
 ロレンスはひざまずいてイリフィアの手首を取った。脈は完全に止まっている。
 泣き喚いていたのか、涙の跡が頬を汚している。それよりも痛々しいのは指先だった。しみ
だした血に、細かい砂がまぶされ、皮膚の一部が石になったように見えた。指の先から白い骨
がのぞいていた。
 開いた壁の周りには、赤い線が何本も何本も引かれていた。開け方がわからず、爪で壁を
削ろうとしたように。
 何があったのか、ロレンスはその場にいたように想像できた。
 イリフィアは、結界が解けた後もしばらくは生きていたのだろう。そして力が失われて行く体で
必死で扉を開けようとした。半ば床に倒れ、しがみつくようにして両手で壁を探るイリフィアを、
ロレンスはほとんど見た気がした。
「しかし、なんでこんな事を」
 応える者がいない事を知りつつ、呟かずにはいられなかった。
 イリフィアは、魔術の心得があった。アリスト神父によれば、そこそこ使い手だったと言う。結
界を無理に解いたらどういう事になるか、分からないはずはないはずだし、その判断を誤るほ
ど病がひどくなっていたとは思えないのに。
 ふいにチチチ、と小鳥の声がして、ロレンスは伏せていた顔をあげた。鳴声は、目の前に広
がる闇、封印されていた部屋から聞こえているようだ。
 ロレンスはランタンを手に取ると、部屋の中に足を進めた。足音が反響する。
 部屋の中は、封印されるにふさわしそうな物は何もなかった。周りの壁こそ他と同じように彫
刻が施されていた物の、魔物も、財宝も、秘密めいた文が書かれた一枚の紙もなかった。た
だ、朽ちてほとんど土に返った竪琴の残骸や、さびたフルートらしき物、もとは太鼓だった木切
れなど、使い物にならない楽器が散らばっていただけだった。
 隠れる場所もないのに、小鳥の姿は見つからなかった。しかし、部屋の中に響く鳴声は、ほと
んど目の前から聞こえてくる。
「一体……」
 ランタンの火が揺らめくたび、自分の影が白い壁で踊る。入り口にある死体と、声だけで姿は
見えない小鳥。まるで奇妙な夢の中にいるようだ。
 軽いめまいを感じた気がして、ロレンスは壁に手をついた。そう体重をかけたわけでもないの
に、ぱらりと彫刻の一部がはがれ落ちギョッとする。壁をはう石のツタが、途中でちぎれてしま
っていた。
「ツタの彫刻だけ、中が空洞になっていたのか。どうやらこれが伝声菅になっていたようです
ね」
 ツタにしては大きすぎる花が、送話口になっていたらしい。ツタをたどって結界の前まで戻る。
昼と同じように神殿の中を確認していくと、何か小さな物が動きまわっている部屋があった。イ
リフィアを追って迷い込んだのか、ピッピが床を跳び回ってしきりに鳴いていた。イリフィアとは
違う、もう一つの小さい骸(むくろ)の存在を、ロレンスに知らせようとしているように。
 ロレンスはその骸に見覚えがあった。
「ラフィナさん」
 そうですよね、と心の中で問い掛けても、顔に殴られた痕のある少女は当然返事をしなかっ
た。

 すっかり昼の物になった光が差し込み始めた神父の書斎で、ロレンスはアリスト神父に宛て
た手紙を書き進めた。世話になったあいさつと、健康を祈る内容だ。あの優しい神父はまた眠
り込んでいるだろう。
「村の者は、イリフィアの死体を彼女の家に運びこんだようですぜ」
 ガレルの報告に、ロレンスは形のいい眉をしかめた。
「なぜ? いったん教会に安置するべきでしょうに」
 その言葉にガレルが大げさに肩をすくめる。
「ダメダメ、皆すっかりビビッちまってるんですよ。村の奴ら、イリフィアが自分で自分の子供を
殺して、家に火をつけたって言ってまさぁ。すっかり狂っちまったってね」
「愚かな……」
 ロレンスは思わず呟いた。
「それにしても、いつまでもここにいていいんですかい? 本当はもう出発しないといけない時
間じゃねえんで?」
「仕方ないでしょう。イリフィアさんとお子さんのお葬式の準備をしなければならなかったのです
から。イリフィアさんには、特に念入りに清めが必要でしたし。村の人達の不安を取り除くため
にも。あれ、ペーパーナイフはどこでしょう? この紙を閉じるのに、穴を開けたいのですが」
 ガレルが不思議そうな顔をした。それはそうだろう。人に宛てた手紙を渡さずに、穴を開けて
綴じるなど意味が分からない。
 ロレンスはごそごそと机の中をあさり始めた。しかし、本当はナイフを探しているわけではな
かった。
「ああ、ありましたよ」
 そして唇の前にほっそりとした人差し指をたてる。それから机の中を指差した。
 ガレルが覗き込むと、引き出しの奥に小さな紙が貼られていた。そこには淡く光る線で、幾何
学模様が描かれている。
 驚いたガレルは薄く口を開けた物の、さすがはロレンスの部下だけあって、声をあげたりはし
なかった。
 ロレンスは広げた紙にカリカリと何かを書き付け始めた。
『返事をしないで読んでください。この部屋は盗み聴きされているようです』
 そう。ペーパーナイフがどうのこうのと言うのは、ただのカモフラージュだ。
 こう言っておけば、物音を立てても、盗み聞きしている犯人はロレンスがただ単に捜し物をし
ているだけだと思うだろう。符の存在に気づいたのではなく。
 ガレルは筆記用具を借りて返事を書く。
『そんな符がある事、なんで分かったんです?』
『あなたが神殿から帰って来た時、確かに頭が痛いと言っていました。しかし、その場には私と
あなたしかいなかったはずです。それなのに、ウェインはなぜ「大丈夫か」と言ってきたんで
す? 大方、私達の事を宝を盗みに来たライバルだと思って様子をうかがっていたのでしょう』
『ああ、なるほど。だったらなんでもっと早く教えてくれなかったんです?』
『あの時はウェインがなぜ盗聴しているのか分からなかったですからね。何を考えているにして
も、会話を聞かせて私が何もたくらんでいない事を知らせた方がいいと思いまして』
『なるほど。それにしても、ふざけたマネを』
 ロレンスの手が、符を破ろうとしたガレルの腕をつかんだ。
 そして、意味ありげな笑みを浮かべて見せる。
「そうだ、ガレル。夜が更けたら、神殿に行きますよ」
 さり気なくロレンスが言った。
「え? なんでで?」
「気付きませんでしたか? イリフィアが開けた部屋には、宝が隠されていたのですよ」
「ホントですかい? がらくたしか無かったようにしか見えやせんでしたが。ひょっとして金銀財
宝?」
 ロレンスは、くっくっと笑い声をたてた。
「さあ、どうでしょうか。夜になったら、もう一度見に行きましょうね」

 神殿の横にあるアーチ型の建物はロレンスの持つランタンの光に照らされていた。壁面の凹
凸がなんの形とも言えない影になって揺らめく姿はどこか妖しく、そのままどこか別の世界にで
も迷いこんでしまいそうだった。
 トンネルの真ん中に来た時、ロレンスは外で草の揺れる音を聞いた。風や獣がたてるのとは
違う、人工的な物。殺しきれない足音。
 誰かがついて来るのは予想していた。というかそうするように仕向けた。ロレンスがありもしな
い宝の存在を盗み聴きさせた以上、相手はこれから自分がガレルと合流して、宝を手に入れ
るつもりだと思うだろう。神殿にではなくトンネルに来たのを不思議に思っているかも知れない
が、無視するなどできないはずだ。 
 ロレンスは足を止めた。
「私をお探しですか?」
 振り返った枢機卿は、艶やかな唇の端を吊り上げた。
「な……」
 ウェインの驚いた顔に、ロレンスは小さく笑い声をたてた。
「人の部屋を盗み聞きするのは感心しませんね、ウェインさん」
 ランタンの光が揺らめき、壁面にロレンスの影が歪に伸びて揺らめいた。
「もう少し早く気付くべきでした。あなたはフレアリングの生まれだ。炎の神殿を知っていたとし
ても不思議ではない。ひょっとしたら、発掘に携わってさえいたかも知れませんね。遺跡発掘に
携わっている者は砂埃を吸い込むために肺を病みやすいといいますから」
 この村についた日に司祭館で昼食を取った時、ウェインはフレアリングの訛りで話し、胸を病
んだと言っていた。
 アリスト神父が目覚めた事につい気を取られてしまったが、地図を見つけた時にウェインが
炎の神殿に詳しいと気付いてもよかったはずだ。そうすれば、イリフィアを救えたかも知れなか
ったのに。
「あなたは火の神殿と風の神殿が同じ造りだと気付いたのでしょう。ですから、封印の先に宝
があると思ってしまった」 
「では、宝というのは私をおびき寄せるための嘘……」
「いいえ、金銀財宝ではありませんが、宝はありました」
「そんなはずはない! ただ壊れた楽器があっただけだろう!」
「それが宝ですよ。フレアリングの神殿にあったのは、確かに金や銀の細工物でした。炎を祭
った神殿に、炎で作った宝飾品を捧げる。なんともふさわしい」
「……」
 ロレンスの言おうとしている事を計りかねて、ウェインは無言で相手を見つめた。
「しかし、ここにあるのは風の神殿です。風を祭った神殿に捧げるのに、音楽ほどふさわしい物
があるでしょうか? おそらく、最高の楽器で最高の楽士が演奏した後、あの部屋に楽器を封
印したのでしょう」
「まさか、そんなくだらない物が宝……」
 めまいを起こしたように、ウェインは額に手を当てた。
「この神殿はそもそも、後世の人間のために作られたわけではありませんからね。ここの神
は、金目の物より音楽の方がお好きだったのでしょう」
 ロレンスは優雅に肩をすくめる。両手をおろすと、ひたりとウェインを見据えた。 
「あなたがイリフィアさんに封印を解かせたのですか?」
「一体……」
「あなたは、フレアリングの地図を見た。そして、風の神殿に宝があると思った」
「嘘だ!」
「ただ、結界がジャマだった。だから、イリフィアさんに外してもらう事にした。ラフィナを使って」
 ウェインの顔から血の気が引いていくのが分かる。
「おそらく、娘さんをさらって、イリフィアさんを神殿に呼び出したのでしょう」
 怒りを含めず、ただ淡々と事実を突き付ける。
 こういった時は、感情的にならない方が効果的だ。特に、多くの人間に呼び掛ける時は。
「そして、イリフィアさんがいる廊下からは見えない部屋でラフィナさんを痛め付けた。当然、彼
女は悲鳴をあげたでしょう。あの神殿に彫られたツタの彫刻は伝声菅になっていました。あな
たは、ラフィナさんの悲鳴が結界のむこう側から聞こえるよう、イリフィアさんに勘違いをさせた
のです」
 ロレンスの低く、押し殺した声が響く。
「さぞ驚いたでしょうね。開いているはずのない結界のむこうで、自分の娘が泣き叫んでいるの
ですから。冷静になっていれ何かがおかしいと分かったかも知れない。しかし、我が子の悲鳴
を聞いて、冷静でいられる親などいるでしょうか? その上、イリフィアさんは病だった。半狂乱
になったでしょうね。自分が結界を解く術を使える事さえもしばらく忘れていたのでしょう。手で
壁を破ろうとした。指の肉がはがれ、骨が見えていましたよ」
 淡々とした口調が逆にウェインを追い詰める。 
「あ、ああ、そうさ。だが、そう言った所で誰が信じる?」
 開き直ったように、ウェインは声を荒げた。悪事を見透かされた恐怖で、無様なくらい早口に
なる。
「私にだって裁判を受ける権利がある! おまえの推理をどうやって証明する?」
 芝居じみた動きで、ウェインは両手を広げた。
「そもそも、ここの村の神父はまだアリストだ! お前になんの権限がある?」
「確かに、私はただの客人ですから。裁判になった時にあなたをどうこうする事はできません。
それにアリスト神父はあの状態です。十分な判断はできないでしょうね」
 ウェインは迷っただろう。アリスト神父が亡くなれば、新しい神父が派遣されてくる。おそらく
は、病のアリストよりも扱いづらい者が。
 計画はアリストが生きている間でなければならない。だが急にやってきた、神殿に興味を持
つ余所者の神父が気になる。結局計画を焦ってしまったようだが。
「イリフィアを呼び出した手紙でもあるのか?! 娘は証言できるのか! 証拠を見せろ!」
 おそらく、イリフィアの家を燃やしたのは、彼女が残しているかも知れない証拠を手っ取りば
やく消すためだろう。今調べたとしても、大した物はみつかるまい。しかし、それは問題ではな
い。
「証拠も何も、あなたが今認めたではありませんか」
 庭園の散歩でもしているような何気なさで、ロレンスはトンネルから歩み出た。
 ゆるい坂の下で、村に灯っている火が見えた。そのうちいくつかは、こちらにむかってきてい
る。
「なぜ、私がこの場所を選んだのか、気づかなかったのですか? 村全体に響き渡ったという
巫女の声の伝説を知りませんでしたか?」
 ロレンスはさり気なくトンネルの入り口に触れた。メガホンのように出口と入り口の大きさの違
うトンネルに。
「そう、この地方ではこの時期強い風が吹く。古(いにしえ)の巫女は、このトンネルを通る風に
乗せて、自らの声を村に響かせていたのです」
「まさか……」
 ロレンスはいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「今まであなたが話してくれた事は、すべて村の方々に筒抜けです」
 坂道を登る火は、その下に人影が見えるほど近付いて来ていた。
「人を殺めた者はその命でつぐないを。心優しいアリスト神父もそれを止める事はできないでし
ょうね。その事で心を痛めなければいいのですが」
 肌寒さを感じる風の中、ウェインはひどく汗を流していた。
「もっとも、裁判にもならないかも知れないですけどね」
 田舎では、私刑も珍しくない。理由なく人を傷つけた者は、腰まで地面に埋められたまま石を
投げられ、盗みを働いた者は指を切られる。
 では、病の女性を殺し、その子供を傷つけた罰は? 村人達には、イリフィアに冷たく当たっ
た負い目もある。それがウェインに対する怒りに変わるのは想像に難くない。
「取引しよう、ロレンス神父」
 ウェインは、無理に冷静な態度を取ろうとしているようだった。しかし、手の震えが隠し切れて
いない。
「お前なら、アリストに口利きできるだろう。村人達を止める事だって!」
「言ったはずですよ。私は何もしないと」
 物分かりの悪い子供に言聞かせるように、噛んで含めるように、ロレンスはゆっくりと言っ
た。
「私は、あなたを傷つけたりしません。かと言って、助けたりもしません。ただ、見殺しにさせて
いただきます」
 山道で、村人達が手にするクワや棒がタイマツに照らし出されていた。しかし、
神殿から吹き下ろす風のせいで、聞こえるはずの声や物音はかすかにしか聞こえない。まるで
死肉にたかろうとするアリのように、ただ静かに列をなしている。
「それでは、よい夜を」
 ロレンスはうやうやしくあいさつをした。そしてウェインに背をむける。
「くそ!」
 背後でウェインが短剣を抜く音がした。ロレンスに近付いて来た足音が、カン高い金属の響
きで途絶える。
 ウェインの刃がロレンスの背に突き立てられようとした時、ウェインは短剣を取り落とした。
 ガレルが木から飛び降りた格好のまま、ロレンスとウェインの間にしゃがみこんでいた。
足元の落葉が舞う。
「俺なら、こんな所でぐずぐずしてないでとっとと逃げますがねえ」
「くっ……」
 言われた通りウェインはかけさって言った。
「さて、そろそろ帰りましょうか」
 ウェインを振り返りもせず、ロレンスは歩きだした。
 丘を少し下った場所の木に、馬車が繋がれていた。
「あいつは逃げ切れますかね?」
 軒に吊されたランタンに火を入れながらガレルが言う。
「まさか。ただでさえ闇の深いこの時間。その上山道をよく知っている村の方々が相手ですよ。
見込みはありませんね」
 ロレンスは馬車の中におさまると、すでに積まれていた荷物から小さなビンを取り出した。
「何ですか? それ」
「お土産のはちみつです。ネシーさんにもらいました」
 窓からのぞきこむガレルに、ビンをかかげて見せる。
「今度、恋人と一緒に草原へ散歩にでも行きたいですね。パンと紅茶と、このはちみつを持っ
て。少し、子供っぽいですけど」
 ついさっき、ウェインを断罪した者は、無邪気な、照れたような笑顔を浮かべた。
 今、山の中を逃げ回っている者がいる事などもう忘れてしまったように。
「ねえ、ロレンス様」
「なんです?」
「時々、あんたの事が恐ろしくなりますよ」
「そうですか?」
 馬車は走り出した。木々を渡る風の中に、人の悲鳴が混ざったようだった。

 


 二話へ戻る   影の檻へ



トップへ
トップへ
戻る
戻る