米語訳  スペイン語(原文)

僕の頭を傘で叩くのが癖になっている男がいる

フェルナンド・ソレンティーノ

寺岡美奈訳

 

        僕の頭を傘で叩くのが癖になっている男がいる。その男が僕の頭を傘で叩くようになってから、今日でちょうど五年になる。最初のうちは我慢できなかったが、今ではすっかり慣れてしまった。

        男の名前は知らない。見た目は平凡で、グレーのスーツを着ていて、こめかみには白髪が混じりはじめ、よくある顔だということは知っている。男に出会ったのは五年前の蒸し暑い朝だった。パレルモ公園で木陰のベンチに座って新聞を読んでいると、突然、頭に何かが触れるのを感じた。それは、たった今、これを書いている僕を機械のように無表情のまま傘で叩いているこの男だった。

        その時、むっとして後ろを振り向いたが、男は構わず僕を叩き続けた。気でも狂っているのか、と尋ねてみたが、僕の声など聞こえないといった様子だった。それで今度は、警察を呼ぶぞ、と脅してみた。男は平然としたまま、クールに僕を叩くという任務を続けた。ちょっと戸惑ったが、男の態度は変わりそうになかったので、立ち上がって鼻にパンチを食らわしてやった。男は倒れ、かすかなうめき声を漏らした。見るからに辛そうだったが、すぐさま立ち上がり、無言のまま再び僕の頭を傘で叩きはじめた。男は鼻血を出していた。僕はたちまち気の毒になり、それほどまでに強く殴ってしまったことを悔いた。べつに傘でぶん殴られたわけではなく、ただ軽くトントンと小突かれただけで、痛くも何ともなかった。もちろん小突かれるのは物凄く迷惑だった。だが周知のとおり、蠅が額に止まっても痛みは全く感じない。ただうっとうしいだけだ。だから、あの傘は僕の頭に一定のリズムで何度も繰り返しとまる巨大な蠅だと思えばよかったのだ。

        僕が相手にしているのは気違いだ、と確信して逃げることにした。だが、男は何も言わず僕を叩きながらついてきた。だから僕は走り出した。(ここで、僕ほど速く走れる人間は、あまりいないということを註釈しておくべきだと思う)。男も僕を叩こうと空振りしながら追いかけてきた。ハァーハァー、ゼーゼーと、苦しそうにあえいでいて、もしあの速さのままで男をずっと走らせようものなら、僕をいじめるこの男は、その場に倒れて即死するかもしれないと思った。

        だから僕は速度を落して、歩くことにした。男の顔を見ても、その表情には感謝の念も非難の念もなかった。男はただ僕の頭を傘で叩き続けるだけだった。警察署まで行って、「お巡りさん、この男が僕の頭を傘で叩くんです」と言ってみようかとも考えたが、そんな苦情は初めてだろうし、あやしまれて身分証を見せろと言われ、厄介な質問をされて、挙句の果てに逮捕されてしまうこともありうる。

        家に帰るのが得策だ。そう思い六十七番のバスに乗った。男はその間もずっと傘で僕を叩きながら、後について乗り込んだ。僕が一番前の座席に座ると、男は僕の真横に立ち、左手で手すりにつかまり、右手に持った傘で容赦なく僕を叩き続けた。はじめのうちは、他の乗客がためらいがちに微笑みを交し合うだけだったが、運転手もバックミラーで僕らを見はじめ、そのうちバスの中は大爆笑の渦となり、みんながいつまでも騒々しく笑い転げていた。僕は恥ずかしさのあまり、顔から火が出そうだった。それなのに僕に危害を加えるこの男は、笑われても意に介さず、ただひたすら僕を叩き続けていた。

        僕は、いや僕らは、パシフィコ橋でバスを降り、サンタ・フェ通りに沿って歩いた。誰も彼もがバカみたいに僕らを振り返って、じろじろ見はじめた。「何を見てるんだ。この間抜け野郎ども!男が他人の頭を傘で叩くのを見たことがないのかよ?」と怒鳴ってやろうかと考えたが、それと同時に、こんな光景はきっと初めてに違いない、とも思った。そうするうちに、五、六人の少年が熱狂したような喚声を上げて、僕らの後を追いかけだした。

        それでも僕には名案が一つ浮かんでいた。家に着きさえすれば、男の鼻先でドアをばたんと閉めればいいのだと。だがそれは、うまく行かなかった。僕の考えなどお見通しだったのだろう。男はドアのノブをぐっとつかんだまま、僕と一緒に中へ入り込んできた。

        それ以来ずっと、男は僕の頭を傘で叩き続けている。僕が知る限り、男はまだ一睡もしていないし何も口にしていない。唯一する事は僕を叩くこと。それだけだ。僕がどんな事をしていても、たとえ完全にプライベートでないとできないような事をしていても、男は僕から離れない。最初のうちは叩かれると一晩中眠れなかったが、それが今では、もう叩いてもらわないと眠れないような気がする。

        とはいうものの、僕らがずっと仲良しだったわけではない。僕は折りに触れて、男の行為について説明するよう、あらゆる口調で頼んでみたのだが、まったく無駄だった。男は無言で僕の頭を傘で叩き続けるだけだった。僕はついカッとなって、男にパンチを見舞ったり、蹴飛ばしたり、なんと―神様、許してください―傘で殴ったりもした。男は僕の暴力を、おとなしく受け入れた。殴られるのも仕事のうちだといった様子で抵抗しなかった。何と言っても、男の人格の最も奇妙な一面は、僕を叩くという仕事に対し揺るぎない信念を持っていて、そこに敵意は一切含まれていないということだ。つまりそれは、ある権威者から託された秘密の使命を遂行しているのだという確信なのだ。

        男には生理的な欲求がないらしい。それなのに僕が殴ると痛がっている。男はひ弱な体質だ。ごく普通の人間だ。だから銃でもあれは弾丸一発で男とおさらばできることも分かっている。僕がよく分からないのは、その弾丸で死ぬべきなのは、男の方か、それとも僕自身なのかだ。もし僕ら二人が死んでしまえば、男はもう僕の頭を傘で叩かないのかもしれないが、それもどうだか分からない。いずれにせよ、こんな推論は無意味だ。男を殺すだの自殺だの、僕には到底できないのだから。

        それどころか、最近ようやく気がついたのだが、僕はもう叩いてもらわないと生きては行けないようなのだ。今やますます頻繁にある不吉な予感に襲われる。まったく新たな不安に苛まれているのだが、それは、もしかすると、僕にとって男が掛け替えのない存在になった時に、姿を消してしまい、僕を熟睡させてくれる傘の優しいビートがなくなるのではないか、という不安だ。

 


 

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