中山道

時 代 年 号 事     項
「日本書紀」はヤマトタケルが東国平定の帰途、上野国から碓氷峠を越えて信濃国に入り、伊那路から神坂峠を越えて、美濃国、尾張国に出たことを伝えている。
奈良時代 神坂峠越えの伊那路(天竜川筋)から鳥居峠越えの木曽路(木曽川筋)に切り替えられ、それが江戸時代まで踏襲される。
江戸時代 慶長5年(1600) 徳川家康は関が原の合戦に勝利して天下の権を握った
慶長6年(1601) 京と江戸を結ぶ東海道に点馬制をしき、続いて中仙道などの主要路を幕府直轄として、いわゆる五街道の整備をすすめていった。宿駅には、常備すべき人馬の数が東海道百人・百疋、中山道五十人・五十疋(木曽をのぞく)などと定められ、公用の場合は無賃で使用できた。
慶長7年(1602) 徳川家康は東海道と中仙道の二つを京都・江戸間の幹線道路と定めた。
享保元年(1716) 「五街道」は初め「五海道」と表記されていたが、海岸沿いの東海道はともかく、山中を行く道までが「海道」では不都合であるとして、「街道」の表記を採用し、中仙道も中山道に改めた。
幕府が置かれた江戸は日本の政治の中心となったが、天皇の居られる京は、なお日本の都であり、大坂を含めた上方は経済・文化の中心であった。「五街道中細記」に東海道一二五里余り、中山道一三五里余りとあって、十里ほどの違いにすぎないが、途中の宿数は前者が五十三次、後者が六十九次となっていて、大きな差がある。これは中山道に険阻な山道が多いためで、大名行列の通行も東海道の五分の一くらいしかなかった。中山道は東海道の裏街道の役割を果たしていたと言えよう。
江戸幕府は大名の反乱を防ぐために、その奥方を人質として江戸表に住まわせ、大名には隔年ごとの参勤交替を強いた。又、街道を通って人質の奥方が国元に逃げ帰ったり、江戸に武器が持ち込まれるのを防ぐために関所を設け、「出女」「入鉄砲」を厳しく取り締まった。ことに、幕府は西国大名の動向に厳しく監視の目を向けていたから、東海道の箱根・新居・中仙道の碓氷・福島は四大関所として江戸防御の重要拠点に位置付けられていて、その通過は外国旅行で通関手続きをするよりも煩わしいものであった。
中仙道は江戸日本橋を基点に板橋を一番目の宿場として、関東平野を北上し、高崎を経て、碓氷峠を越えて信州に入り、軽井沢、下諏訪、木曽路を通り、美濃へ抜け、濃尾平野から近江へ出て、京都へ通ずる約五百三十八キロメートルの道である。木曽路は中仙道のちょうど中間に位置し、北は桜沢から馬籠の十曲峠まで約二十三里約九十キロメートルあり中仙道の代名詞のごとく人々に親しまれてきた街道で、公家・諸大名の大通行をはじめ、御嶽講中や善光寺詣りの往来などでにぎわった。
「助郷を勉むる駅々の繁昌、とめ女の化粧かたちも優に艶しく、往来の旅人も、東海道にかわることなし」(「続膝栗毛木曽街道」十辺舎一九)
明治元年 木曽の十一の宿駅は廃止された
明治6年 大蔵省は道路の等級を決め中仙道は第1等道路と定められた。
明治9年 太政官布告により国道となり年々改修が行われた。
明治16年~17年 鳥居峠をはじめ道路の改修がなされ馬車も通れるようになった。
大正8年 道路法の制定により中仙道の道路は国道8号線と改められた


街 道 宿場順 宿場名 名所・旧跡 説  明
武州・上州路を歩く 日本橋 今でも国道の基点 道路元標が橋の中央部の道路に埋め込まれている。木造だった日本橋は明暦3年(1657)の大火振袖火事から安政5年(1858)の200年の間に数十回も炎上している。橋は何度も架け替えられ、現在の橋は明治44年(1911)に完成した。
真性寺   しら露もこぼさぬ萩のうねり哉  芭蕉
板橋宿 中山道最初の宿
蕨宿
浦和宿
大宮宿
上尾宿 あげお
桶川宿
鴻巣宿
熊谷宿
深谷塾
10 本庄宿
11 新町宿
12 倉賀野宿 倉賀野神社 倉賀野神社の裏手には、良寛を世に知らしめた国学者・飯塚久利の碑と案内板がある。
13 高崎宿
14 板鼻宿
15 安中宿
16 松井田宿
17 坂本宿
信濃路を歩く 18 軽井沢宿
19 沓掛宿
20 追分宿
21 小田井宿
22 岩村田宿
23 塩名田宿
24 八幡宿
25 望月宿
26 芦田宿
27 長久保宿
28 和田宿
29 下諏訪宿   雪散るや穂屋の薄の刈残し    芭蕉
  はつ午や諏訪の稲荷の廻り道  岩谷
30 塩尻宿
31 洗馬宿     
洗馬公園   入梅晴れの私雨や雲ちぎれ   芭蕉(俳諧一葉集)
  太田の清水 木曽義仲の家臣が義仲の馬を洗ったという清水。洗馬の地名はここからきている。
32 本山宿
木曽路を歩く 33 贄川宿 にえかわ 「木曽路名所図会」に「いにしえここに温泉あり、かかるがゆえに熱川(にえかわ)と名づく」とある。
是より南木曽路
贄川番所跡 江戸時代木曽路北門の関として、婦女の通行と檜の白木の搬出を取り締まった。
漆器の町平沢
34 奈良井宿   天保年間には旅籠・茶屋などを合わせて39軒にも及び、その数は木曽十一宿中最大であった。
「木曽の奈良井か薮原流か、麦もとらずに飯をたく。」経済的に豊な奈良井が白米を食べていることを羨んだ俗謡に、宿場の繁栄ぶりをうかがうことができる。
二百地蔵
枡形の石積み
鍵の手
楢川歴史民俗資料館
鳥居峠 太平洋側に流れる木曽川と日本海側に流れる信濃川の分水嶺
御嶽山を望む山頂に木曽義元が戦勝祈願のために建てた鳥居があり、峠の名の由来である。
天正十年に木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎え撃ち勝利をおさめた古戦場がある。
峠の松
中の茶屋の跡 菊池寛の「恩讐の彼方に」の一舞台となった。
御嶽遥拝所
丸山公園    木曽のとち浮世の人のみやげ哉   芭蕉
義仲硯水
35 藪原宿 お六櫛 お六櫛は元々妻籠宿の名産品であった。ところが材料である粘りの堅い木のミネバリが妻籠周辺で不足しはじめ薮原からも購入していた。それを見ていた藪原宿の藤屋某が不甲斐なしとして、虚無僧に姿を変えて妻籠宿に赴き、苦心の末にその技術を習得してきたという。その後、皆で技術を磨き改良を加え、やがて旅人が土産に買うので京・大坂・江戸にまでも、その名が知られるようになった。
巴橋 巴橋の東詰めに
   山吹も巴もいでて田植えかな
の森川許六の句碑が立っている。
宮川家史料館    春雨やつい下の句は寝いりけり  芭蕉
36 宮の越宿 徳音寺 義仲の菩提寺。義仲、母の小枝御前、巴御前の墓がある。
      木曽大工 この宿には木曽大工と呼ばれた出稼ぎ大工が多く住んでいたので、今に残る建物は見事な出来である。
      山下天神 木曽義仲が手習いに通ったという山下天神(手習い天神)が左手高台にある。
37 福島宿 福島関所 江戸時代には、箱根・碓氷・新居と並び天下の四大関所の一つに数えられた。「入り鉄砲に出女」の言葉通り女性の通行と鉄砲の持込が厳重に取り締まられた。
      高瀬家 木曽代官山村氏の用人で、代々関所上番を勤めた高瀬家が屋敷を構えている。
      本陣跡 木曽町役場福島支所となっている。
           山蒼く暮れて夜霧に灯をともす
         木曽福島は谷底の町  太田水穂
      興禅寺 木曽義仲の墓がある。
      大通寺の鐘楼門 最初の鐘楼門は寛文4年(1664年)に建てられたが宝暦2年(1752年)に現在地に移設され安永7年(1778年)に建て替えられた。福島地区に現存する木造建築物としては最も古く木曽町の文化財に指定されている。鐘楼は大戦で供出されたため昭和53年に再鋳造された。山門に掲げられている扁額は江戸中期の妙心寺管長三井親和の書である。
      山村代官屋敷 山村代官屋敷の建物、庭、展示物を見ると、こんな不利な土地でありながら、江戸時代、この地の文化程度がいかに高かったかが分かる。
      御嶽遥拝所 石造りの鳥居がある。西から来た旅人で実際に現地へ行けない者は、ここで遥拝し御嶽山参りとした。
      木曾の桟跡 「上松の北十八町、木曽川岸の桟道なり。慶安年間尾州候によりて開かれ、寛保に至り修繕を加ふ。現今の桟道即ち是なり。古の桟道は、之に異なり、駒ヶ根村字立町より国道に分れ、渓流に沿うて山を登ること半里、絶壁相対して自然の橋礎をなすもの、即ちその舊跡なりと云ふ。」と「信濃大地誌」にある。
   桟や命をからむ蔦かづら    芭蕉
38 上松宿 寝覚の床 木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然地形。上流に設けられたダムなどにより水位が下がったために水底で侵食され続けていた花崗岩が水面上にあらわれたもの。大正12年(1923年)に国の名勝に指定された。
   谷川の音には夢もむすばじを
       寝覚の床と誰が名づくらん 近衛家凞公
臨川寺    ひる顔にひる寝せふもの床の山  芭蕉
   白雲や青葉若葉の三十里      子規 
   筏士に何をか問わん青あらし    也有
小野の滝 木曽八景の一つ
「渓水風越山より発し、此の所に至り数丈の断崖を下る。岩質は即ち花崗岩なり。」(信濃大地誌)
39 須原宿 定勝寺 興禅寺、長福寺と共に木曽三大寺のひとつ
木曾氏14代家賢の子越後守家盛は定勝寺造営のための資金調達のため通行税を徴したことが定勝寺文書にある。
40 野尻宿
41 三留野宿 巴御前ゆかりの振袖松
かぶと観音堂 木曽義仲が守り本尊として兜の中に納めていた十一面観音を祀っている。
鯉岩
42 妻籠宿 奥谷郷土館 旧脇本陣
馬籠峠    白雲や青葉若葉の十三里   子規
   吹きあぐる木曽の御坂の谷風に
       梢も知らぬ花を見るかな   鴨長明
43 馬籠宿 街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。(夜明け前)    島崎藤村
馬籠脇本陣
史料館
島崎本陣跡 本陣の建物は明治28年(1895)の大火で消失してしまったが、同地に建つ藤村記念館では夜明け前などの原稿や初版本を見ることが出来る。
句碑    送られつ送りつ果は木曽の秋    芭蕉
   桑の実や木曽路出ずれば穂波かな 正岡子規
是より北、木曽路 島崎藤村六十八歳の時の筆による
落合の石畳
医王寺境内    梅が香にのっと日の出る山路かな  芭蕉
十曲峠
美濃路を歩く 44 落合宿
45 中津川宿
46 大井宿
47 大湫宿 おおくて
観音堂前の句碑    花ざかり山は日頃のあさぼらけ   芭蕉
芭蕉が吉野で詠んだ句碑である。  
48 細久手宿
49 御嶽宿 みたけ
50 伏見宿
51 太田宿
祐泉寺の句碑    春なれや名もなき山の薄かすみ  芭蕉
「野ざらし紀行」の旅の折奈良で詠んだという。
52 鵜沼宿
脇本陣跡の句碑    汲溜の水泡だつや蝉の声       芭蕉
   ふぐ汁も喰えば喰わせよ菊の酒   芭蕉
   おくられつおくりつはては木曽の秋  芭蕉
53 加納宿
54 河渡宿 ごうど
55 美江寺宿 みえじ
56 赤坂宿
  金生山明星輪寺    鳩の声身に入わたる岩と哉     芭蕉
元禄二年八月「奥の細道」の旅の途次に芭蕉も参詣し詠んだという句碑が門前に建つ。
法泉寺の句碑    草臥れてやどかる頃や藤の花   芭蕉
「笈の小文」の大和行脚で詠んだ句
青少年憩いの森    苔埋む蔦のうつつの念仏哉     芭蕉
「みの里朝長の墓にて」として正徳二年刊行の「花の市」に収録されている芭蕉の句碑がある。源朝長の墓が近くにある。
57 垂井宿
垂井の泉の句碑    葱しろく洗ひあげたる寒さかな   芭蕉
本龍寺の句碑    作り木の庭をいさむるしぐれ哉   芭蕉
58 関ヶ原宿
不破関跡 壬申の乱の後、天武二年に設けられた不破関は、越前の愛発、伊勢の鈴鹿とともに三関と称せられ重要な関であったが、延暦八年に廃止された。後、国の大事や戦国時代に数回復活したが、江戸時代にはすっかり寂れてしまったらしい。
   秋風や藪も畠も不破の関    芭蕉
      常盤御前の墓 源義朝の愛妾で牛若丸、後の義経の生母である常盤御前は、平清盛に捕らえられるが、牛若丸が鞍馬山を抜け出し東へ下ったのを知り後を追う。しかしこの地で土賊に襲われ殺されてしまった。哀れに思った土地の人の手により葬られ、土賊の仇討ちは牛若丸が果たしたと伝えられている。五輪塔が建っている。
   義朝の心に似たり秋の風    芭蕉
近江路を歩く 59 今須宿
60 柏原宿
61 醒井宿
62 番場宿
63 鳥居本宿
64 高宮宿
大鳥居 寛永年間建立
芭蕉の紙子塚 芭蕉は野ざらし紀行の旅の途中の貞享元年十二月高宮の小林家に一泊した。その時に自分が横になった姿を絵に描き
   たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子   芭蕉
という句を作った。句にも詠んだ古ぼけた紙子を気の毒に思ったのか、小林家では新しい紙子を芭蕉に送り、庭に塚を築いて古い方をおさめ、紙子塚と称したという。
65 愛知川宿 えちがわ
66 武佐宿 むさ
67 守山宿
三上山 高さ430メートルほどの低山だが美しい形から近江富士と呼ばれる。
   比良三上雪さしわたせ鷺の橋   芭蕉
68 草津宿
69 大津宿
三条大橋

参考文献  
中山道を歩く    山と渓谷社
信濃大地誌     石川耕治   小平高明   光風館書店     明治38年5月5日

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