更  新  記  録
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柳田邦男 『マリコ』 1980 新潮社
松岡正剛の千夜千冊 2000年11月30日


ぼくが生まれたのは1944年、昭和19年1月25日である。戦時中だ。自分が戦時中の生まれだという実感はほとんどないのだが、歴史はこの事実を頑として突きつけてくる。日本の社会が最悪な状態の年だったといってよい。
 ドイツやイタリアを除く世界の大半の国と民族を相手に戦争をしていたのが最悪だっただけではなく、社会的に最悪だった。戦時中のすべてが最悪だったというより、ことに昭和19年が最悪なのである。すべての活動が抑圧され、表現が奪われ、どんな自由も許されていなかった。『改造』『中央公論』をはじめとするほとんどの雑誌も出版停止になっていた。

 父はこうした戦時中のことをほとんど語らなかったが、母はその当時の気持ちをときどき話してくれた。
 母によれば「そうやなあ、最初は誰もがヒトラーは偉い人やとおもてたなあ」という。それが戦火がしだいに拡大し、母もモンペを穿いて動きまわるようになるにつれ、世界や日本のことより生きていくこととの闘いが始まったという。「それでも一生懸命、生きようとしてたんよ」と言っていた。
 そこにぼくが生まれた。両親にとっては最初の子である。ちょうどインパール作戦が始まろうとしていた時期で、その1カ月後にはマリアナ沖海戦となり、ヨーロッパではノルマンディ上陸作戦が始まった。そしてぼくが1歳にならないうちに東京はB29の空襲をうけるようになっていた。「セイゴオが生まれたときは、この子を戦争から守ろうと思ったよ」と母は述懐した。
 このとき、日本人の平均寿命は男が24歳、女が38歳だった。戦争が続いているかぎり、母親たちは子供が無事に育つなどという幻想を誰ひとりとしてもっていなかったのである。
 しかし、ぼく自身はこうした戦時中の事情をまったく知らずに少年時代を送り、自分なりの「世界」の知り方で戦後社会の中に育っていった。ぼくのような時代を送った者が日本をどう考えるか、そこにはいまだに徹底的に議論されていない課題が残っている。

 本書は寺崎英成とグエン・ハロルドの娘であるマリコ(実際にはマリ子と表記するらしいが、マリコにしておく)を主人公としたノンフィクションである。
 NHKの放送記者をへて『マッハの恐怖』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した柳田邦男は、ついで『マリコ』を発表して斬新な社会感覚を表現してみせた。一人ずつの人間の生きた襞に迫ってくる社会の重圧を淡々と描くという方法だ。
 寺崎英成はマッカーサーと天皇の通訳として知られる外交官である。この人の周辺で戦中戦後の10年ほどの日本の運命はつねに動いていた。その娘のマリコの名は、日本が真珠湾を攻撃する直前の暗号につかわれた。「アメリカ側の日本に対する態度」のことを暗号で「マリコ」とよんだのである。「マリコは病気になった」といえば「アメリカ側の態度は悪化している」という意味だった。この発案は寺崎英成の兄で、外務省アメリカ局長をしていた寺崎太郎によるものだったという。
 むろんマリコ自身はこんな事情は知ってはいない。マリコは9歳の少女にすぎない。しかし、その後の日米事情はマリコの周辺で動いていった。ということは寺崎英成の周辺に日米事情の光と闇が蠢いていたということである。さまざまな符牒もつながっている。柳田が調べていくと、寺崎がグエンと結婚したのが満州事変が勃発した1931年だった。それだけではなく、この二人が上海に行ったのはリットン卿が満州事変の調査に向かう船によっていた。そして、その上海で生まれた娘にマリコという名前をつけたのは、当時、中国南京政府の特命全権大使になっていた重光葵であったのだ。
 柳田はこうしたマリコをめぐる歴史の変動に着目して、マリコを通して日本とアメリカの、日本と中国の、それぞれの社会の差異を描いていく。

 ぼくは知らなかったのだが、日米開戦の前夜、野村吉三郎大使を筆頭にアメリカの日本大使館が日本の運命を決するチームを編成していたとき、その一等書記官をしていたのが寺崎英成だった。
 これなら、この事実から始まる話はハナっから興味津々である。本書の話の最初の舞台を日米開戦前夜の行き詰まる空気を背景にしてあるのは、本書を成功させた最大の要因だろう。すでに開戦前夜のドキュメントは多くの歴史家やジャーナリストや当事者たちの手によって描かれてはきたけれど、何度読んでも、この歴史的前夜のことは日本人の関心を引きつけてやまないからである。
 ハル・ノートのこと、特命全権大使として野村を助けにきた来栖三郎のこと、近衛内閣の変化のこと、天皇を前にした御前会議の推移のこと‥等々。
 これらはいまもってすべてが克明な順序で語り尽くされたわけではない。それだけに、どんなエピソードも、ちょうど赤穂浪士の討入りにいたるまでのエピソードがつねに作家の想像力をかきたててきたように、読者の耳をそばだてさせてきた。
 とくに本書では兄やグエンを含む寺崎英成一族がルーズベルト大統領に直接はたらきかけて、ルーズベルトが天皇に親電を打つという秘密工作にかかわっていたことが打ち明けられていて、どぎまぎさせられる。本書によれば、寺崎はメソジスト教会の長老スタンレー・ジョーンズ博士を介してルーズベルトにはたらきかけたようなのだ。実際にもジョーンズ博士は12月3日にルースベルトと密会をもっている。
 しかし、本書は内幕ものにはおわらない。本書の視点の特徴は、こうした秘話も戦火も工作も、寺崎一家やマリコの人生の一断面にすぎず、真珠湾攻撃も沖縄決戦も原爆投下も極東裁判も、ことごとくが一家の動向の中で語られているということにある。たしかに時代の大事件というもの、一家の趨勢にとっては必ずしも大事件ではない。本書がノンフィクション作品として評価されるのは、その一家が日米関係のカギを握っていたかなり特別な一家だったにもかかわらず、やはり家族の歴史は家族の歴史だという視点を貫いたということにある。その手法の徹底性は、ぼくにドウス昌代の『東京ローズ』を思い出させた。

 本書は後半になって、戦後社会とマリコの動向に移っていく。マリコはアメリカで大学に入り、父を失い、結婚し、そして政治活動にめざめていく。結婚した相手の“家”が民主党的人生に生きてきた一族だったのである。
 マリコはそこで、夫の家がコーデル・ハルの選挙活動の一拠点であったことを知る。ハルとはハル・ノートのハルである。こうして柳田の目は、マリコ自身の日々を通して寺崎英成の英雄的な日々を掻き戻しつつ、マリコがテネシー州やワイオミング州の政治運動に没入していく姿を活写する。読者は、マリコと選挙にも打って出る夫メインを通して、今度は今日のアメリカの選挙運動の実態を体験していくことになる。

 『マリコ』は、きっとそんなことはないだろうものの、ぼくがいつしか自分の一家について綴ることがあったとしたら、いったいどうするのだろうということを考えさせた。
 昭和19年に生まれたぼくは、『マリコ』を寺崎一家の物語としてではなく、同じように戦争をくぐりぬけ、何もぼくに語ってこなかった両親に何をインタビューすればよかったのかということを、ずっと考えさせた。


戦時中に徴兵されない職業みたいなものはあったのでしょうか?(力士や貴族など)
YAHOO 知恵袋 2008/5/25


成年男子であれば等しく徴兵検査を受けさせられ、健康状態、視力、聴力、体格、等により 甲、乙、丙、丁に分類され、戦時状況によって甲種から順に召集を命令されました。
甲、乙までは兵として使い物になりなすが、丙種以下は兵隊には向かない貧弱な体格、弱視、難聴、等で余程戦況が悪化してからでないと召集は無かったと聞きます。
徴兵逃れをした者も多くいます、
その方法は寒い夜、庭石に裸の尻を乗せ、これを何日も続けると痔を患います、痔持ちの兵は戦場では役に立ちません。
醤油を一升飲んで腎臓疾患を装い兵役を逃れたり、わざと性病に罹ったりしたのは庶民階級でありました。
村や町の有力者の息子達は親が権力にモノを言わせて役場の徴兵係を買収、あるいは脅迫して徴兵名簿から名を消し、代わりにその地区の誰かを戦場に放り込む・・・
通常、35歳を超えた男達は過去に兵役を追えて帰郷した者が多いので再度、徴兵されることは稀でしたが村の有力者の陰謀で2度、3度戦地に狩り出された人たちも多く、ほとんど、生還できていません。
当時の戸籍はパソコンなぞ存在しませんから、役場の人間の裁量一つでどうにでもなったんです、県知事からどこそこの村から10人集めてどこそこの駐屯地に送れ。
要は員数が合えばそれでいいわけですから、金持ちや有力者は兵役を免れることは容易であったとされています。
いつの世も泣きを見るのは庶民です。
職業で徴兵を免れたというのは知りません。高名な画家でさえ、戦地に従軍しました、ただし、戦意高揚の絵を描くためにですが。
貴族、皇族もいわゆる兵役につきました。ただし、兵ではなく、将校として、赴任地が戦場になり攻撃されて死んでしまった貴族(この言葉、大嫌いです)もいます。


ハワイ諸島の土を最初に踏んだ日本人
航海カヌーマニアの育児休業 2007/3/30


ポリネシア航海協会の今回のホクレア日本航海のテーマは日本人移民の功績顕彰となっておりますね。それとカラカウア王の日本立ち寄りを記念して。

 では、記録上最も早くハワイ諸島の土を踏んだ日本人はどこの誰だったかご存じでしょうか。

 実は、これは幾つかの史料に記されているので確実な話なのですが、現在の広島県東広島市安芸津町木谷の船乗り6人と山口県岩国市の船乗り2人です。1806年のことです(日本側史料による。アメリカ人船員の手記では1809年となっている)。江戸時代ですね。明治維新より相当に前。ヨーロッパはナポレオン戦争の真っ直中です。日本は11代将軍徳川家斉の時代。松平定信の寛政の改革が終わってからしばらくの後。もちろん鎖国中。

 事の次第はこうです。この年の1月7日、大坂の船主の持ち船「稲若丸」に安芸の国の船乗りが8人(22人説もあり)乗り込んで、江戸から大坂を目指しました。ところが遠州灘を航行中に時化に見舞われてしまいます。船はどんどん沖に流されて日本列島から遠ざかる。船員たちは神仏に祈りを捧げた後、おみくじを引きました。その結果、船の帆柱を切り倒す(これ以上風で流されないため)ことを決定。船は自力で航走する能力を失い、あてどもない漂流を続けます。

 船が救助されたのは3月20日のことでした。当然ながら船内の食料は食い尽くされ、釣った魚と雨水でしのいだとされます。船員22人説の史料では、この間に死んだ仲間の肉を食ったともされますが、真偽のほどは不明。

 稲若丸を救助したのは中国からアメリカに戻る途中のテイバー号という船。船長はコーネリアス・ソウルという人物だったとされます。ソウル船長は稲若丸から8人の乗組員を救助。オアフ島に立ち寄ってカメハメハ1世に彼らのことを託しました。8人はカメハメハ1世に歓待され、8月までオアフ島で過ごします。8月になってアマサ・デラノウという人物(アメリカ人)がオアフ島に立ち寄り、彼らをマカオまで連れて行き、さらに親切にも長崎との間にオランダ船の航路があるジャカルタまで、8人の船賃を出して船に乗せてくれました。

 ジャカルタに着いたのは翌年の1月21日。しかしここで2人がマラリアで命を落とします。残った6人は5月17日にジャカルタを出て長崎に向かいますが、この船旅の間にさらに3人が病死。生きて長崎に辿り着いたのは3人だけでした。

 さらに長崎についてすぐに1人が病死、1人が自殺。最後まで生き残った善松という人物が故郷の木谷に帰れたのは11月29日のことです。しかし、残念ながら善松も翌年の6月末に病死。

 ・・・・・なんとも無惨な幕切れではありますが、しかし身一つで漂流していた彼らを救ってハワイに送り届けたソウル船長、ハワイで彼らを歓待し、泣いて別れを惜しんだハワイ人たち。彼らをジャカルタまで送り届けてくれたデラノウ船長。みんな良い人じゃないですか。この話はもっと知られて良いと思うなあ。特に広島。ホクレアの寄港地。私が東広島市長だったら、稲若丸の乗組員たちを助けてくれたお礼を言いに行きますね。


鎖国中に長崎入港のアメリカ船(1797-1809)
日米交流 Japan-US Encounters Website


1797(寛政9)年:イライザ号(500トン)、
1798(寛政10)年:イライザ号(500トン)、 
1799(寛政11)年:フランクリン号(200トン)、
1800(寛政12)年:マサチューセッツ号(900トン)、
(エンペラー・オブ・ジャパン号:長崎に入港したがバタビアの正式許可を受けていな いことが発覚し、オランダに没収された)、
1801(享和1)年:マーガレット号、
1802(享和2)年:サミュエル・スミス号、 
1803(享和3)年:レベッカ号、
(ナガサキマル号:アメリカ商船として通商を求め、長崎奉行に拒否された)、
1806(文化3)年:アメリカ号、
1807(文化4)年:マウント・バーノン号、
(エクリプス号:ロシアとアメリカの合弁会社にチャーターされカムチャッカに向う途中、 ロシアの国旗を掲げて長崎に入港した)、
1809(文化6)年:レベッカ号(長崎入港前にイギリス海軍に拿捕された)


オノ・ヨーコは大口の人ですか?
SYNAPSE なんでも掲示板 2004/10/4


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http://www.karukan.com/pc/033_geinoujin.html
初めて知りましたです ---------------
本人じゃなくて、身内の人がみたいですよ。アートの森美術館の案内の人に聞いた話。オノ・ヨーコ展、かなりおもしろかったです。
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大口の人かどうかは定かではないですが、縁がある方と言うのは本当らしいですよ。(7月29日付の南日本新聞の南風録に載ってました)ちょっとうれしいですよね。
http://373news.com/2000syasetu/2004/sya040729.htm
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祖母が鹿児島県人っていうのは、展覧会でも紹介がありましたよね。みなさん偉大な人なんですよねぇ~。
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◆お茶の産地について
京都観光タクシードライバーの小噺


茶の生産地で最大は静岡県。静岡県は全国の44%余りを生産し、続いて鹿児島県が25%です。宇治茶は全国の3%しか生産していない。我々が日ごろ宇治茶といって飲んでいるお茶は、特上以外どこで生産されたお茶か実に怪しいもの。玉露の生産地は八女茶(福岡)が全国の50%、宇治茶が30%。抹茶については、西尾茶(愛知)が全国の70%で、次に宇治茶が続く。


夏季のテロ脅威を警告、米国土安全保障長官
AFP BBNews 2007年07月12日


米国土安全保障省のマイケル・チャートフ(Michael Chertoff)長官は11日、夏にかけて、対米テロの危険性が高まっていると語った。

 チャートフ長官は、米シカゴ・トリビューン(Chicago Tribune)紙とのインタビューに応じ、「われわれは、テロ攻撃の危険性が高まる夏に近づいている。国際テロ組織アルカイダからも多くの声明が出されており、これにはさまざまな理由が考えられる」との見解を示した。

 同長官の見解は、過去の攻撃傾向、アルカイダによる最近の声明、南アジア地区での活発な活動、情報機関の報告書などを基盤としているとされ、これらに関し、チャートフ長官は直感的に危機の高まりを感じると語る。

 チャートフ長官は一方で、テロ警戒レベルを引き上げる必要のあるような、差し迫ったテロ計画の証拠はないともしている。  

 このインタビューの発表と前後して、米テレビ局ABCは、アルカイダによるテロの脅威が高まっているとの米情報機関の指摘を報じ、またアルカイダに属する小グループが米国に向かっている、もしくはすでに入国しているとの新たな情報についても伝えている。

 米国政府は12日午後、ホワイトハウス(White House)に関係政府機関を集め「緊急」会議を開催する予定となっており、同問題について今後の対策を協議するとABCは伝えている。


各地で猛暑日、鹿児島は戦後初の6日連続
朝日新聞 2007年07月27日


各地で猛暑日、鹿児島は戦後初の6日連続 日本列島は27日、高気圧に覆われ、各地でこの夏一番の暑さになった。東京都心では最高気温が真夏並みの32.7度。北九州市でも33.4度まで気温が上がり、午後5時現在でも31.8度だった。鹿児島市では午後3時13分に36.4度まで上昇し、最高気温35度以上の「猛暑日」を戦後初めて6日連続で記録した。


「祖母の墓参りがしたい」 岡本武容疑者の娘が手記
NORTH KOREA TODAY


岡本容疑者は一九七○年に北朝鮮に渡り、高知県出身の女性と七六年に結婚。八四年ごろ、広海さんと妹 (21)を他のメンバーに預け、グループと別々に暮らし始めたが、八八年に土砂崩れ事故で二人とも死亡したという。グループは九六年まで死亡を公表せず、二人の死亡届は提出されていない。                    


死去・宇井純氏と、よど号犯岡本武の接点
電脳補完録  2006-11-12


よど号犯の工作は、リーダー田宮高麿の指揮の下、岡本武(拉致されたと思われる福留貴美子と結婚していた)が実際に動いた。岡本武は、まず宣伝扇動のため雑誌を発行した。雑誌は「おーJAPAN」と名づけられた。1978年の創刊から号を追う毎に内容は広がりを持った。のち、この「おーJAPAN」は、日本人の「有名人」を顧問に迎える。それが、哲学者久野収と宇井純氏であった。これによって「おーJAPAN」は日本国内でも反核運動の中心的な情報誌となる。


ダイアナ元妃の死因究明審理、疑惑の「白いフィアット」の運転手を目撃者が特定
AFP BBNEWS 2007年10月30日


ロンドン(London)の高等法院で開かれているダイアナ元英皇太子妃(Princess Diana)の死因究明の審理で29日、目撃者が証言し、事故当日、元妃の乗った車の走行を妨害したフィアット(Fiat)社製の「ウノ(Uno)」の運転手を特定した。

 また、審理ではダイアナ妃と交際相手のドディ・アルファイド(Dodi Fayed)氏の乗ったメルセデス(Mercedes)のドライバー、アンリ・ポール(Henri Paul)氏が「パパラッチをからかって」おり、事故直前には飲酒運転をしているようだったとの証言も行われた。

■「白いウノの運転手は元ボディーガード」

 証言台に立ったGeorges DauzonneとSabine夫妻は、事故直前に目撃された白いウノの運転手はLe Van Thanh氏だったと証言。同氏は以前、ボディーガードだった人物。夫妻は事故当夜、夕食後の午前0時過ぎに車で帰宅中だった。

 Dauzonn氏は事故現場のトンネルの隣にある高速道路に入ろうとしたが、不規則な運転をする白いウノが現れたため速度を落としたという。個別に証言した夫妻は、5枚の写真の中からLe Van Thanh氏と同氏の赤いウノの写真を確認。事故前か事故後かの論争はあるが、Le Van Thanh氏が所有する車は再塗装されていたと報道されている。

 これまでの審理では、白のウノが事故直前に元妃が乗るメルセデスに衝突した証拠があるとされ、事故後の検証で車に付着した塗料痕が発見された。しかし白いウノ自体は依然として見つかっていない。

 5枚の写真の中には、ドディ氏の父親モハメド・アルファイド(Mohamed Al Fayed)氏がウノのドライバーだと主張する仏人写真家James Andanson氏の写真も含まれていた。モハメド・アルファイド氏は、英情報機関MI6と英王室が絡んだ英国上層部による陰謀の一部として、Andanson氏が白いウノを運転していたと主張している。

■「ポール氏はパパラッチをからかっていた」

 また同日、パパラッチを乗せていたバイクのドライバーであるStephane Darmon氏もパリ(Paris)からテレビ中継で証言した。同氏はメルセデスのドライバー、ポール氏がリッツホテル(Ritz)の外で待機していたパパラッチたちに話しかけ「元妃の写真の撮影に向けた期待をあおっていた」ようだったと警察に供述したことを明らかにした。

 さらに「ポール氏は『元妃は15分くらいでここに現れる』と話すなど、パパラッチたちをからかっていたようだった」と語り、「ポール氏はパパラッチに誤った情報を与えたと思う」と証言した。

■「元妃の運転手にアルコール依存症の症状」

 またDarmon氏は、ポール氏にアルコール依存症の症状がみられたことや、事故直後はパパラッチも「パニック」状態だったことを証言した。事故当時、ポール氏は基準を大幅に上回る量の飲酒をした上でパパラッチの追跡を受けていたとされている。

 審理は今月始めに開始され、最長6か月間続く見通しだ。(


「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書) (新書)
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商品の説明

数字は、それだけでもっともらしいイメージをかもし出す。「働く女性の6割、職場で性的被害」「自衛隊『必要』84%」「ヤクルトが優勝すると経済成長率低迷?過去4回の平均2%」…。へー、そうなの?しかし、なんだかなあ。
「社会調査の過半数はゴミだ」と、社会調査論を専門とする著者は言いきる。誰が、何のために、ゴミを作るのか。その手口を見抜き、ゴミを減らすにはどうしたらいいのか。この本は、豊富な例をさまざまな角度から検証することによって、社会調査を解読する能力(リサーチ・リテラシー)を基礎から鍛えてくれる。解説されるリサーチ上の過ちは20種以上。読み終えたあなたは、もはや素直ないい人ではなくなっているだろう。新聞を開くたびにツッコミを山ほど入れずにはいられない体質になるのだ。
でたらめな社会調査をまき散らす学者、政府・官公庁、社会運動グループ、マスコミをグサグサとやっつける少々過激な記述も笑えて痛快だ。その実これは志の高い、社会科学の入門書、正しい啓蒙書だ。批判にとどまらず具体的な提案もある。社会調査という穴をコツコツ掘っていたら、この国の抱えるシステムの問題があらわになってしまったのである。 それにしても、なぜこんなことを見過ごしていたのだろう。私を含めて「方法」というものに無自覚で無知な大人たちが構成している社会って何?と、目まいを覚える。(津山 吟)

■ 最も参考になったカスタマーレビュー

社会調査の過半数は「ゴミ」である(本書p23)。 一見極論のようだが、後に展開される様々な社会調査への客観的かつ的確な指摘ないし批判により決して極論でないことが分かる。 新聞記事をズバズバ論破していくのは読んでいて気持ちがいい。その上読者に新聞記事の論理的に、客観的におかしな部分を考察させる機会が(最後の5章の3問以外にも)数多くあり、なかなか頭を使う。
社会調査のみならず文章展開の論理性の考察もできる。

素直に「良著」といえるだろう。できれば社会人になる前に読んでおきたい本である。

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「客観的に説明して」「数値で示して」といわれることがある。 数値化するということは、物事をより正確に認識できるということ が前提にある。
 それは正しい。しかし、そこで示された数値データは本当に正しく 実態を示しているかということについて、意欲的に解析した本です。

 データを正しく読むための批判的なスタンス、バイアスのかかり方 などについて具体例を示しながら平易に解説している。 生きていく中でこういった情報を身につけておくことは必要だ。

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「社会調査の過半数はゴミ」等の攻撃的な記述が随所にある。しかしその中に「ゴミ調査を減らしたい」「リサーチ・リテラシーをつけてもらいたい」という著者の良識が垣間見えるため、読んでいて気持ち良い。

受け身でニュースや記事を読んでいると気がつかないことや違和感を持ちながらも読み流していたことをはっきりと気づかせてくれる良書である。データを重視する姿勢とともに、データに騙されない思考力は身につけておきたい。


直言曲言 第283回 巨大献金
ニュースタート事務局関西 2009.12.15.


巨大な献金が話題になっている。最初は鳩山民主党総裁(総理大臣)の政治団体に故人や実態のない個人の政治献金があるという疑惑だった。自由民主党による政治的陰謀ではないかという思いも強かった。鳩山総裁の個人秘書が独断で偽装したものだと分かり、秘書は解雇された。それにしてもそんな巨額の金の出所はどこなのか、鳩山氏自身だとすれば「秘書の独断」で済まされるのか疑問だった。調べが進むとお金の出所は鳩山氏の母親だとわかってきた。しかも金額は毎月1500万円、7年ほどで12億円に及ぶという。由紀夫氏だけでなく弟の邦夫氏にも同額がプレゼントされていたという。由紀夫氏はそのことをご存じなく、母親から由紀夫氏への貸付金であるという。しかし借用証などはない。この問題が社会的に明るみに出なければ、お小遣いとしてうやむやになったであろう。親が子に小遣いをあげるというのだから、世間がとやかく言う必要はない。しかし人が死後に子どもに資産を譲るには巨大な相続税というものがかかる。生きている間に譲ると「生前贈与」として「贈与税」がかかる。偽装による政治資金規正法違反はともかくとして贈与税の脱税の件は免れるまい。もとより鳩山氏側にしても、「知らなかった」こととして課税されれば納税を逃れようとはしないだろう。自民党の邦夫氏へも同額の献金があったことから、自民党としては民主党への一方的政治的打撃にはならないと思ったのか、秘書の政治資金規正法違反を在宅起訴して、兄弟の刑事責任は問わない方向で決着をつけようとしている。民主党支持者としては自民党の思うようにはならなかったことで「ひと安心」と思っている人もあろう。だが「12億円」もの闇の献金があり、違法に処理されていたことが合法的なのか?否、断じてそうではない。それでは何を根拠にして断罪されなければならないのか。

 この事件はそれほど単純ではない。単純に断罪しようとすれば、お金持ちであることがいけないのか?ということになる。あるいは前首相である麻生太郎氏に関連付けて、麻生氏の祖父が吉田茂元総理であることやその外戚が麻生セメントであることなど、財閥と政治家の閨閥など週刊誌的な興味に終始してしまう。極めて単純に言ってしまえば、「お金持ちであること」殊に巨大な資産を自在に操れるということは「いけない」のである。鳩山由紀夫氏の個人的犯罪ではないが「犯罪的」な出来事なのである。そのように断罪しなければ我々庶民にとって救いはないし、及びもつかない資産を継いで生れてきた彼らに対し、抵抗するすべを持たないし,無力感に囚われて、社会変革の意欲さえ失いかねないのである。

 くだんの献金主である鳩山兄弟の母とは、鳩山安子さん、旧姓石橋安子である。かのブリヂストンタイヤの創業者石橋正二郎氏の娘である。正二郎氏は旧知の政治家鳩山一郎氏の子息威一郎氏に娘安子を嫁がせ持参金として100億円以上の現金、時価170億円のブリヂストン株などを持たせたとされており鳩山一郎氏はこの閨閥形成と資金力で自民党結成や総理大臣になれたとされている。威一郎氏が鳩山一郎の遺産を相続したのも150億円以上といわれており両家合わせてどれほどの資産を持っていたのだろうか。資本主義社会でも富の過度な集中やその相続は不平等をもたらすものとして避けようとされている。相続税率は最大で50%にもなる。「どんな資産家でも3代相続が続けば資産はなくなる。」と言われており江戸川柳にも「『貸し家』と唐様で書く三代目」と詠われている。すなわち、資産家の息子に生まれ文字を唐様(中国風)に書くなど教育も施され、大事に育てられたが、同時に道楽も覚え、経営の才覚もなくついに家作も貸しに出してしまうといったような意味だろう。しかし御一新を迎え、さらには戦後アメリカ風の自由主義が席巻すると資産家の資産維持も擁護され、巧妙になっている。普通ならば相続財産は代を経るごとに、50%、25%、15%と逓減していくはずだが、さまざまな税率の逃れ方があるようだ。現代の代表的な資産形態は現金をはじめとする動産、株式や国債などの債券、土地や建物などの不動産がある。現金は額面通りだが、他の資産は購入時の額面は下回ることが多い。こうした資産に変えておけば相続税額は大幅に節約することができる。庶民である我々にはそもそも縁遠いことだがとんでもない人知を超えたような手法があるらしい。

 よくある手法の一つは生前に寄付などを施し財団法人などを設立してしまうことだ。現在の巨大資本の株式会社などはたいてい系列の財団法人を持っている。財団法人なら目的外の収益事業は別として正味財産の増加そのものには課税されない。創業者の一族を会長や理事長にして高額の給与を払いながら一族の資産は事実上温存できる。財団法人石橋財団はブリヂストンの創業者石橋正二郎の発案により1956年に設立されている。設立目的の公益事業は「文化・博物館事業」となっておりブリヂストン美術館、石橋美術館の2つの美術館を運営している。2007年末の正味財産は1600億円余、設立時の初代理事には鳩山一郎の名も。石橋正二郎の息子で3代目石橋財団理事長・石橋幹一朗の遺産に対する相続税額は1000億円を超えていた。相続税の最高税率は50%だから遺産は少なくとも2000億円を超えていたことになる。その上に石橋財団など形を変えた資産があるのだから想像を絶する財産であったろう。

 簡単に「想像を絶する」などと言ったが、どれほどのお金なのだろうか。1万円札が1万枚で1億円。その1千倍が1000億円。1千億円とは1万円札の束を積み上げると試算によると約2トン。2千億円だと約4トンになる。束というよりも山というのにふさわしい。こんなお金は誰も見たことがない。もちろん私も見たことはないが、ひょっとすると石橋正二郎氏も見たことはないのではないか。それほど「人間業(にんげんわざ)」とは思えないほどの金額である。1931年ブリヂストンを設立し一代で2000億円余に及ぶ資産を形成した。人間業とは思えないのは金額だけでなくその資産形成・会社経営を含めてである。1931年といえば太平洋戦争の始まるはるか前。そのころから1万人から1人当たり2000万円もの収奪を行ったことになる。今の鳩山由紀夫や邦夫兄弟には、あるいは母親の安子さんには直接の罪はない。しかし巨大献金の淵源は明らかに多数の労働者を長期にわたり収奪したお金である。これは石橋正二郎の個人的犯罪でもない。人間業とは思えないような蓄財を許してきたのは資本主義のシステムとそれを社会的に容認してきた政治システムである。このような経済格差の世襲を容認するのは人間的な不正義の容認である。政治とは究極的には富の配分システムである。自由民主党にしても民主党にしても不正義を容認する政党だと言わざるを得ない。


日本とオーストリアのたった一度の戦争
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 (青島要塞攻防戦)

習志野教育委員会が作成したホームページhttp://saxer.hoops.livedoor.com/に、青島(チンタオ)とウィーンが繋がるという、びっくりするようなお話しが出ています。青島生まれで、ウィーン大好き人間の私にはシビレルような話です。

 1914年、オーストリア軍艦が日本を親善訪問した後、上海に停泊している時に第一次大戦が勃発します。オーストリア(*)はドイツと同盟していた為に、急遽、青島へ向かい、ドイツ軍と合流します。一方、日本は英国と同盟を結んでいて、英国から参戦を要請され、これをきっかけに中国大陸へ勢力を伸ばそうとして、青島に要塞を築いていたドイツ軍を日本が攻めるわけです。ここで、日本とオーストリアのたった一度の戦争が起こります。
 (*)当時の国名は「オーストリア・ハンガリー帝国」が正式名称です。しかし、ハプスブルグ帝国に海軍があったとは驚きですね。当時、ハプスブルグ帝国は世界中に植民地がなく、海軍を持つ必要はなかったのに。。。。なお、オーストリア・ハンガリー帝国は内陸国ではなく、いまの北イタリアの海に面した領地を所有していました。「Sissi Forever My Love」という映画で、皇帝一家がイタリアを訪問するシーンがでてきます。

 所で、攻める日本軍2万人に対し、青島要塞を守るのはドイツ軍4000人とオーストリア軍艦に乗る400名だけでした。また、軍艦の数も日本軍は連合軍の10倍の70隻以上です。最終的に乗組員は要塞に合流して戦うことになり、オーストリア巡洋艦は青島沖で自爆沈没します。そして、この巡洋艦の名前は、あの悲劇の「皇后エリザベート」の名前をつけた「カイゼリン・エリーザベト」号というのです。ああ、この名前は、またしても悲劇の象徴なのか・・・・。
(注:エリザベート皇后自身は1898年にスイスで暗殺されました。)

 戦争は、1914年9月に始まり、エリーザベト号は上陸した日本軍に砲撃を加え、また、日本軍も砲撃しますが、運良く沈没を免れます。しかし、ついに弾がなくなり、乗組員は上陸して、要塞のドイツ軍と合流します。放棄されたエリ-ザベト号は、11月2日、青島港内に自爆沈没します。(今も沈没したままなんでしょうか?)
 要塞に立てこもるドイツ・オーストリア連合軍は勇敢に戦うも、次々と戦線を破られ、数日後に白旗を掲げ、ここに2ケ月にわたる青島攻防戦は終わります。青島で日本軍に敗れたドイツ兵・オーストリア兵は徳島や習志野などの収容所に捕虜となり、以後5年間、捕虜として過ごします。(日本で最初にベートーベンの第九が演奏されたのは徳島収容所だった、という記事を読まれた方がおられるかも。)

 所で、青島の旧市街のハズレの山の上に、きれいな病院があります。青島市立病院です。この病院の右隣に、古い建物がああります。私は第2次戦争中に、その病院で生まれました。この病院は、更に昔、第1次戦争(1914年)でドイツと日本が戦争をしたときは、青島を占領していたドイツの赤十字病院だったようです。当時、ドイツ軍司令官は、日本軍司令官に「ここは赤十字病院につき爆撃を避けられたし」と手紙を送り、日本軍司令官は「承知した」と返信してます。のどかな時代だったんですね。

 なお、上記の巡洋艦「エリーザベト」号は、私のHP「シェーンブルン宮殿の日本庭園」にでてくるフランツ・フェルドナンド皇太子が1893年に日本を3週間訪問した際のお召し艦でした。日本とオーストリアはその頃、友好関係にあり、実際、1914年の同艦の訪問は日本への親善運航だったのです。それが一転、たった一度の日墺間の戦争となってしまいました。
 なお、歴史によく知られている様に、フェルドナンド皇太子は1914年、サラエボで暗殺され、それがきっかけで第一次大戦が勃発した訳です。

 戦争終了後、解放された捕虜の中には、バウムクーヘンで有名な「ユーハイム」創設者:カール・ユッフハイムさんもいました。彼はドイツ出身ですが、青島で菓子店を始め、バウムクーヘンで成功していました。青島での戦争で招集され、敗戦と共に大阪の捕虜収容所で5年間を過ごし、その後、家族を青島から呼び寄せ、横浜で菓子店を始めます。その後、横浜が関東大震災で崩壊し、船で神戸に避難します。そして神戸・三ノ宮で再び、開店し、神戸が本店となった訳です。
詳しい記事がユーハイムの下記HPに掲載されています。
http://www.juchheim.co.jp/group/policy/story/index.html
私は、昔、うかつにも、ユーハイムはドイツのフランクフルトの店が本店と思い、行った事があります。、有名な店でないらしく、タクシーの運転手も知らず、「ゲーテハウス(ゲーテの住家)の中だよ」、というと、連れて行ってくれたことを思い出します。

そのほか、銀座の高級ドイツ料理レストラン「ケテル」や、洋菓子店「フロインドリープ」、また、高級ハム「ローマイヤー」などのお店を始めた人も居ました。

最後に
 2001年11月のある日、掲示板に「ウィーンと青島で検索したら、このHPにたどりつきました」という習志野教育委員会の星さんから書きこみがありました。確かに、この両方でひっかかるのは、「たまちゃんの玩具箱」と、ウィーンの中華料理店「青島」だけですね(笑)。ともかく、それがきっかけで、資料などを頂戴しました。ここにお礼申し上げます。

下は、星さんから頂いた第一次大戦前の青島の絵葉書。今も全く変わっていないですが、カラーだというのが驚き。


日本は世界一の鉄砲大国だった?
町人思案橋・クイズ集


天文12(1543)年、ポルトガル人により火縄銃が伝来した。そのように習った覚えがあります。最近では、倭寇によりその以前から鉄砲はときどき日本にやって来ていたのではないかという説もあるようです。いずれにせよ、16世紀前半あたりでやってきたのは間違いないようです。

種子島時尭(たねがしまときたか)という殿様に気に入られた鉄砲は、2挺で2000両という金額で購入されたと言われます。江戸時代のある時期は1両10万円と聞きます。このころはもっとレートが高そうですね。貯金をはたいた時尭は、元をとるべく、鍛冶師の八板金兵衛、家来の笹川小四郎という者に試作を命じます。一種のリバース・エンジニアリングでしょうか。

ではここで問題です。天文12(1543)年に1挺1000両で売買された鉄砲は、その70年後にはだいたい何両ぐらいで売買されていたでしょうか?

わずかに2両です。いまなら20万円前後でしょうか。そういえば火縄銃の骨董品の安物は20万円前後が相場と聞いたことがあります。

話を戻します。種子島の鍛冶師の八板金兵衛、家来の笹川小四郎の2人は1年もしないうちに10挺の試作品を殿様に見せたとのこと。話を伝え聞いた堺の商人などがやってきて鉄砲を購入して帰ります。足利将軍にも献上したらしい。製鉄技術、金属加工技術が高かった当時の日本では、たちまち大量生産体制ができあがったらしい。天文18(1549)年には織田信長が500挺の火縄銃を注文したという記録があるそうです。伝来からわずかに13年後の弘治2年(1556)には全国に30万挺ほどの銃があったといわれます。

織田信長が武田騎馬軍団を壊滅させた長篠の戦いにおける鉄砲3000挺は、白髪三千丈などと同様、誇張ではないか。実際には1000挺とかじゃないか。昔、そんなふうに疑ったことがあります。全国に数十万挺もあるなら、3000挺の鉄砲隊は十分に考えられますね。

価格もどんどん下がり、17世紀初頭にはわずか2両で購入できるまでに普及したとのこと。さらに火縄銃の輸出も行なわれたようです。オスマン・トルコなどが得意先だったらしい。

天正17(1589)年にイギリスがフランスに送り込んだ軍隊には1100挺の鉄砲が装備されたそうです。その一年前、長崎の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が島原の有馬晴信(ありまはるのぶ)と戦ったときには9000人の鉄砲隊を擁していたとのこと。このころ、日本は世界一の鉄砲大国だったようです。
東洋のキリシタンと近代史の絡み
アジアの街角から


日本では天文12(1543)年に、鹿児島県の種子島に漂着した明の船に乗っていたポルトガル人が、初めて鉄砲を日本に持ち込んだとされている。(スペインのイエズス会の記録では1542年)

明の儒生が通訳として、筆談で種子島の領主と会話をし、鉄砲の実演をした。そのとき島主は、娘二人を奴隷として差し出し、鉄砲2丁と交換したそうだ。

種子島にいた堺の商人と和歌山の僧が鉄砲を本土に持ち帰って、足利将軍家に献上されてから鉄砲が日本で広まることになった。15世紀、明は日本と貿易をしていなかった。倭寇が私的な貿易を行っていた。火縄式の銃は、種子島に入る以前から日本に入っていたらしい。

16世紀の日本は戦国時代だった。堺の鉄砲鍛冶が優秀だったおかげで、あっという間に日本の鉄砲生産は世界一となり、性能も世界一となった。銃は主にオスマントルコ帝国に輸出されていた。最初は火縄銃だったが、間もなく銃と火薬を一体化させ、すぐ装填できるように改良された。

鉄砲を上手に利用してのしあがった織田信長は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロレスに好意的で、キリスト教布教を黙認した。

フランシスコ・ザビエルは、日本の文化や風習に配慮した布教を行った。ザビエルは必ずその地の大名と会見し、宣教の許可をもらってから布教を行った。ザビエルは更にチャイナでも宣教しようとして、ポルトガル船の停留地であったマカオ西方の上川島に渡り、そこで死んだ。

その後、スペイン系の宣教師が来日した。フランシスコ会や、フィリピンからきたドミニコ会など、日本文化を大切にしない布教法をとる宣教師たちが来日した。信長は、ポルトガルと南蛮貿易をするために、彼らも商売に利用できると考えた。

日本では昔から人買いという業があり、奴隷売買は行われていたが、1540年代の後半から、一部の戦国大名たちは、銃や火薬と交換に捕虜となった日本人を奴隷として売り飛ばすようになった。

奴隷売買には宣教師の関与が疑われた。心ある宣教師は、大名達が奴隷を売りたがるのに驚き呆れ、布教の害になるので奴隷を売らないようにという手紙を書いている。

天正10(1582)年、遣欧少年使節団がローマへ行った時、使節団の少年たちは、各地で日本人が奴隷市場で安い値で売られ、動物のように使われているさまを目にした。ポルトガルやアルゼンチンなど各地で、日本人が奴隷となっているのを目にした少年たちは、同胞を外国に売る日本人に対して怒りを覚えたと記録にある。

一部の日本人女性は、性の奴隷としてアフリカにも売られていた。色白の美しい日本女性が、恥ずかしいところまで顕わにされて、性の奴隷として売られていく様を見て少年たちは嘆いている。

豊臣秀吉は、九州統一直後、博多の耶蘇会リーダーのガスパール・コレヒヨに何故ポルトガルは布教にそんなにも熱心で、日本人を買って奴隷として売るのかと厳しく難詰したらしい。当時マニラとアカプルコも、1560年から奴隷貿易行路になっていたようで、宣教師が黒人奴隷を連れてきた。

ガスパール・コレヒヨは、元々宣教師ではなかったが、日本で宣教師として働き、土地を購入したり、戦艦を2隻用意して秀吉に中の様子を見せた。宣教師仲間は、戦艦を秀吉に贈り物にするようにコレヒヨに勧めたが、コレヒヨはそうしなかった。

案の定秀吉は、コレヒヨから戦艦を見せられた後直ぐに伴天連[バテレン]追放令を出している。大名が神社仏閣を壊すことを禁じたり、奴隷の売買を禁じる命令だった。天正15(1587)年だった。

慶長元(1596)年に、サン=フェリペ号が遭難して四国土佐国に流れ着いた時、秀吉は部下を派遣して所持品を全て没収したが、そのときスペイン人航海士が、「イスパニアが広大な領土を獲得したのは、キリスト教の布教と宣教師の手引きによるものだ」と告げた。その言葉にも秀吉に驚き、再度の禁教令が下された。

秀吉は京、大阪で、フランシスコ会系の24人のキリシタンを捕らえ、2人を追加し、日本人キリシタン20人、スペイン人4人、メキシコ人1人、ポルトガル人1人を長崎で処刑した。

秀吉が明国征服を掲げて朝鮮半島に攻めていったのはこのような時期だった。朝鮮人を日本に連れてきて、奴隷としてポルトガル商人に売り渡していた日本人もいた。

徳川家康は武器の輸出を禁止した。1600年にオランダ船が漂着し、イギリス人航海士が家康に仕えるようになった。1612年に自称キリシタン同士のワイロがらみの領土問題が起こり、家康は二人を処罰し、翌年からキリシタンを迫害しだす。ーーー1619年京都で52人、1622年長崎で55人、1623年江戸で55名を処刑。

1637年には、肥前の島原と天草で百姓3万人が島原の乱を起こした。

藩主が過酷な税を取り立て、百姓たちが生きていけない状態だったので、乱後藩主はそれぞれ斬首、自害の刑にされたが、百姓たちにキリシタンが多かったことから家康は危機感を持ち、1639年に鎖国令を出した。


連日降灰「うんざり」 鹿児島市街地
西日本新聞 2010年6月4日


鹿児島市街地は3日、桜島の大量降灰に前日に続いて見舞われた。市は散水車24台と、灰を吸引する特殊作業車「ロードスイーパー」34台を投入。住民もうんざりした表情で、水まきなどに追われた。

鹿児島地方気象台によると、3日午後2時13分、桜島の昭和火口が噴火。噴煙量は「中量」だったが、灰は谷山地区など市南部に激しく降った。市内は薄暗くなり、ヘッドライトを点灯する車が目立った。市などによると、2日の降灰は市北部が中心で、同市原良2丁目では3日午前6時、1平方メートル当たり170グラムを観測した。


デヴィ夫人激白!ドロンと恋仲だった
デイリースポーツオンライン 2010年10月6日


インドネシアの故スカルノ元大統領夫人でタレントのデヴィ・スカルノ(70)が5日、都内で著書「デヴィ・スカルノ回想記」の発売記念会見を行い、かつてフランス俳優、アラン・ドロン(74)と恋仲だったことを明かした。スカルノ大統領失脚後の1960年代後半、パリ滞在中に知り合ったもようでデヴィ夫人は「ウフフ。当時はお互い若いときでしたから」と意味深に語った。

 デヴィ夫人が、世界一の美男俳優と“特別な関係”だったことを明かした。

 「‐回想記」には、「恋心があった方たちばかり」と恋愛関係にあった多くの男性とのツーショット写真を掲載している。中でも注目は、ドロンとパリの高級料理店「マキシム」で、顔を寄せ合い、仲良さそうに食事デートをする写真。キャプションは「楽しい語らい。ふたりだけの秘密」とあり、何とも意味深だ。

 デヴィ夫人は「ご想像にお任せしますわ。でも、2人とも若かったですから」と多くを語らなかったが、インドネシアのクーデターでスカルノ大統領が失脚した後の1967年に亡命したフランスでは、パリの社交界で“東洋の真珠”と呼ばれるほど活躍したころに出会い、逢瀬(おうせ)を重ねたもよう。米俳優ウォーレン・ベイティ(73)と交際していたことも自ら告白した。

 さらには、作家の故・笹沢佐保氏とは夫人公認の不倫関係だったことや、1969年ごろに交際していたとされる俳優・津川雅彦との関係も語るなど、国内外を問わぬ、華やかな男性遍歴を赤裸々に吐露。「津川さん、昨日テレビ見たら出てたけど、老けましたねぇ。私は若いのに」と歯に衣(きぬ)着せなかった。

 同著で少女時代から、スカルノ大統領の妻となり、失脚、死別を経て、現在に至るまでの激動の人生をつづっているデヴィ夫人。「105歳まで生きたい。今は恋は小休止ね」と古希を迎えて、ますます意気盛んに語っていた。


日本の陰謀40B
西田敏行、故郷で死にたい!妻とはUターン別居!
レッツ芸能ニュース 2012年08月12日


西田敏行は03年に心筋梗塞で倒れ、生死を彷徨いました。 この時に生死について真剣に考えるようになり、たばこをやめました。 現在64歳で、死期を悟にはまだはやいですが、余生を故郷で過ごしたいと妻との別居をしているそうです。 → 芸能界の噂

以下引用

福島の原発事故以降、健康を考えて故郷を離れていく人が多い中、帰ってきた人もいる。 そのひとりが西田敏行(64)だ。 都内に妻と一緒に住んでいる豪邸があるのだが、この地に新たに家を購入したという。

「郡山にいる時、西田さんは復興支援のためにコンサートなどをしてました。仲の良い地元の友達とも遅くまで飲んでいるみたいですよ。こっちにも家があるので安心してるんでしょうね」(地元の知人) 都内の豪邸の方ではこんな話が・・・。 「最近自宅にホームセキュリティーのステッカーが貼られていたので、奥さんに聞いてみると、夫は郡山にマンションがあって、ほとんどこっちにいないから防犯のためにと言ってましたよ」(近所の住民)

西田は、まだ5歳の時に父が他界し、母が再婚したため、福島県郡山市に住む母方の伯母夫婦に引き取られた。 養父は市役所職員だったが、当時は戦後まもない乏しい時代。 市内にある神社の社務所を無料で借りて、そこで3人で暮らしていた。 いつしか役者を志すようになった西田は中学を卒業し単身上京。 親戚を頼って東京の高校に進学した。 卒業後は大学に進むが、なんと1日で中退している。 演劇スクールの夜間部に入った。 66年の19歳の時にデビューし、妻・寿子さん(61)と74年に結婚した。

結婚も仕事も順調だった西田だったが、03年に心筋梗塞で倒れてしまう。 一時は死の危険もあったのだが、1ヶ月に及ぶ入院生活を終え、無事に退院した。 妻は西田から大好物を取り上げた。 「病気の原因は、お酒とたばこだと医師に言われ、寿子さんは西田さんに禁酒禁煙を厳命しました。でもお酒だけはやめれなかったようです」(芸能関係者) 妻はスタッフなどに西田に酒をすすめないように釘をさした。

「西田さんは、体のことを考え、酒をやめて長生きする。そんな細くて長い人生よりは、好きな酒を飲み、仕事もやり、仲間と騒ぎながら死んでいく方がいいという男なんです。だから故郷の郡山は居心地がよかったのでしょう。時間があるたびに帰ってくるようになりました」(地元の友人) 西田は妻のことを嫌いになって別居をしているのではないそうです。 妻に対しては、自分のわがままを許してくれる最高の妻だと言って感謝しているとのこと。


日本の陰謀19-2
リー・クアンユー元首相が入院 シンガポール政府発表
ニコニコニュース 2013年2月16日


シンガポール政府は16日、リー・クアンユー元首相(89)が不整脈でシンガポール総合病院に運ばれた、と発表した。別の症状を併発する可能性を考えて15日に入院したが、健康状態は落ち着いているという。ただ、療養と精密検査のため数日間病院にとどまるとしている。リー元首相は15日、毎年恒例にしている支持者との旧正月の夕食会を、体調不良を理由に欠席していた。


日本の陰謀
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