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江戸時代は本当に鎖国か? 見直し進む対外歴史研究
朝日新聞 2008年03月12日


「鎖国」とは、江戸時代に幕府が交易の相手をオランダと中国に限り、日本人の海外渡航を禁じた政策――と習った記憶がある。ところが、「江戸時代は必ずしも鎖国の時代といえない」という見解が近年、歴史研究者の間で主流になっている。「鎖国」の言葉そのものを使わない教科書も登場している。

◆教科書も単純な記述避ける

 「近世日本は、『鎖国』をしていたと思われがちだが、東アジアのなかで孤立していたわけではない」

 18日に江戸時代の展示を衣替えする国立歴史民俗博物館(千葉県)は、対外関係の説明をこう改める。2年前までは、「鎖国体制が確立すると……」といった記述があり、今回力を入れる朝鮮や琉球、アイヌについての展示はなかった。

 担当した久留島浩教授は「東アジアの国際関係研究がこの20年ほどで進み、『江戸幕府は鎖国政策をとっていた』と正面から主張する研究者はほとんどいなくなった」と言う。

 研究成果の反映が遅いといわれる歴史教科書も、変化の波に洗われている。今春から使われる高校の教科書では、「いわゆる鎖国」「『鎖国』の完成」など、単純に「鎖国」と記すのを避けたものが目立つ。こうした記述は90年代半ばから見られるようになった。

 山川出版社「新日本史」に至っては、本文中にまったく出てこない。著者の藤田覚・東京大教授は「幕府は最初から鎖国を意図していたわけでない。その状態がたまたま200年ほど続いた『なんとなく鎖国』だったと考えるほうが実態に近い」と理由を明かす。

 17世紀前半(江戸前期)、植民地化などを恐れた幕府は、キリスト教の布教に熱心なスペインやポルトガルの船の来航、日本人の海外渡航などを相次いで禁じた。ただ、想定外の出来事も重なった。中国(明)に国交を求めて断られたり、イギリスがオランダとの競争に敗れて日本から撤退したり。その結果、海外との往来が減ったのだという。

 一方で、「日本は、欧州との関係を制限したが、東アジアとのつながりは保った」と荒野泰典・立教大教授は言う。幕府は、海外へ向けた4カ所の窓口(「四つの口」)を開き、直轄や大名を通じた交易で利益を上げた。朝鮮・琉球と国交を結んで将軍の代替わりごとに使節を迎え、中国・オランダから生糸や薬品、蝦夷地からは木材や海産物などを交易で得た。

 従来の研究は、17世紀の日本を国際社会から孤立していく過程ととらえ、「鎖国」と呼んだ。だが、「同時代の世界で開かれた国家はあったのでしょうか」と荒野教授。中国や朝鮮もキリスト教を禁じて外国人との接触を制限する政策をとり、ヨーロッパでは政府や東インド会社がほぼ独占的に交易をしていた。

◆タテマエに縛られた見解

 「鎖国」という言葉が登場したのは、19世紀(江戸後期)に入ってからとされる。オランダ語通訳で蘭学者の志筑(しづき)忠雄が1801年、オランダ商館の医師ケンペルの著書『日本誌』の一部を『鎖国論』と名づけて訳した。幕府が禁教令などを出した17世紀に「鎖国」の概念はなかった。

 藤田教授によれば、「鎖国」が日本古来の「祖法」と見なされていったのは18世紀末(江戸後期)以降。ロシアの使節ラクスマンが通商を求め根室に来航したのに接し、幕府が1793年、従来の対外政策を「国法」と文書に記したのがきっかけだったが、強国ロシアとの紛争を避けるため、貿易もやむなしとの考えも幕府にあったという。「でも、タテマエとして『国法』『祖法』を持ち出してしまった以上、その後は見解を容易には変えられなかった」(藤田教授)

 明治以降も、江戸時代の対外関係研究は「鎖国」という言葉に縛られた。だが、1970年代に入り、アジア地域との関係に着目する歴史研究者が増え、江戸時代の国際関係の枠組みを見直し始めた、と荒野教授はみる。「鎖国が独自の文化を育んだ」「鎖国のせいで世界から遅れた」といった、鎖国の功罪をめぐる議論は下火となった。

 「とはいえ、『国を完全に閉ざしていた』という認識は依然として強い。当時の実態をもっと明らかにするために、琉球やアイヌなどの制度や経済に関する研究をさらに進めることが大事」と高埜利彦・学習院大教授は指摘する。

   ◇

〈江戸時代の対外関係史〉

1612 幕府がキリスト教の禁教令を出す

1633 奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止

1635 日本人の海外渡航と帰国を禁止

1637 島原の乱(~38)

1639 ポルトガル船の来航を禁止

1641 オランダ商館を平戸から長崎・出島へ移転

1792 ロシア使節ラクスマンが根室に来航

1801 志筑忠雄訳『鎖国論』が完成

1854 日米和親条約

1858 日米修好通商条約

(太字は研究で「鎖国令」とされてきた主な施策)


教員プロフィール/大谷恭子
沖縄大学


現職 1978年弁護士登録(第二東京弁護士会所属)、現在弁護士。

早稲田大学法学部卒業 1950年生まれ

大谷恭子氏は、社会派の弁護士としての弁護活動に基づき、社会的に重要な様々な提言を行っている。
 例えば永山則夫死刑囚の弁護活動に基づく死刑廃止の提言がある。2004年8月7日に札幌で開催された日弁 連、道弁連、札幌弁護士会の共催シンポジウム「21世紀に死刑は必要か-死刑の現在を語ろう」におけ る講演「死刑事件の弁護人として」で大谷弁護士は、特に、無期と死刑と量刑判断が揺れ動くことの残酷 さを強調している。裁判とは限界があるもので全ての真実など分からないのだから、死刑(地裁)→無期 (高裁)→死刑(最高裁)などと人を翻弄する司法制度は不完全であり残酷すぎる、これだけで死刑は廃 止すべきである、と力説されている。
 大谷氏はまた、障害者と健常者が共生する社会の実現の必要性についても、法律家の立場から活発な提 言活動を行っている。今後急速に進む高齢化社会では、障害を抱えて生きていくこと、或いは障害のある 人と共に生きていくことが、すべての人にとって大きなテーマになっていく。しかし戦後日本の教育、特 に1960年代以降の高度経済成長期以降の日本の学校・社会は、障害者を分離する分離教育を推し進め、「 人と共に生きる」ことよりも「人に関心をはらわず自分のことだけを考えて生きる」ことを重視してきた 。 国際障害者年以降、ノーマライゼーションの掛け声と共に、多くの障害のある子どもたちが地域の小中学 校で生活するようになってきたものの、法的な環境整備は遅れている。欧米諸国や韓国などが法律を分離 教育から「インクルーシブ教育」(分け隔てることなく、すべての子どもを包み込む教育、統合教育)へ と内容を改めてきた中、日本だけが未だに分離教育の看板を掲げ続けているのである。学校教育法施行令 (政令)では身体障害や知的障害のある子ども達を「盲・聾・養護学校へ就学させるべき」と規定し、本 人・保護者の意思に関わらず、障害があることによって「小中学校に入学する資格はない」としている。
 先の国会で障害者基本法が改正され、その基本的理念として「障害を理由とした差別の禁止」「あらゆる 分野の活動に参加する機会」「交流及び共同学習」などが盛り込まれ、また国際的にも「子どもの権利条 約」を踏まえ、国連子どもの権利委員会からは二度にわたって「統合教育」へ向けた勧告を受けている。 しかしながら現在審議中の中央教育審議会では、原則分離のこの制度を変える議論はまったく行われてい ない。大谷氏は、こうした状況に法律家の立場から警鐘を鳴らしている。


女性2人刺される 米兵を逮捕
恒久平和のために 7月5日 18時56分


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070705-00000018-maip-sociより、

5日午前、神奈川県横須賀市で若い女性2人が刃物で腹などを刺され重軽傷を負った事件で、警察は、アメリカ海軍横須賀基地に所属する19歳の水兵を殺人未遂の疑いで逮捕しました。警察は、詳しい動機やいきさつを調べています。 5日午前8時半ごろ、横須賀市馬堀町の路上で、16歳の少女が腹から血を流して助けを求めているのを作業員の男性が見つけて、警察に通報しました。さらに、近くのアパートの部屋で26歳の女性が腹や背中を刺されているのを駆けつけた警察官が見つけました。2人のうち、女性は大けがをし、少女は軽いけがだということです。警察は、少女の知り合いのアメリカ海軍横須賀基地所属の19歳の2等水兵が2人を刺して逃げたとみて捜査していたところ、この水兵が現場から4キロ余り離れたJR横須賀中央駅前のデパートにいるのを見つけて、5日午後、殺人未遂の疑いで逮捕しました。少女は「水兵とは1週間ほど前に知り合い、アパートで遊んでいるうちに口論になり刺された」と話しているということです。また、警察の調べに対し、水兵は「少女と口論になって刺したら女性が悲鳴をあげたので、女性も刺した」と供述し、容疑を認めているということで、警察は、詳しい動機やいきさつを調べています。


大相撲八百長 春場所返上で徹底究明を
産経ニュース 2011.2.4


土俵上の信義を失わせる大相撲の八百長問題が角界の根幹を揺るがしている。日本相撲協会の放駒理事長も「存亡の危機」との認識を示した。それならば3月13日が初日の春場所を返上して、徹底究明の期間に充てるべきだ。

 八百長を疑う目で、誰が土俵上の取組を真剣に見るか。春場所の前売りチケットの予約は6日に始まる。決断のための時間的猶予はない。

 野球賭博事件で警視庁が押収した現役力士の携帯電話から、消去されたメールを復元して八百長をめぐるやり取りはみつかった。

 「最終的にはすくい投げあたりがベストだと思いますよ~」といった取り口の指示はあまりに軽い。「二つ貸したから一つ返してもらうよ」のメールからは、八百長の常態化がうかがい知れる。すでに複数の力士が協会の聴取に八百長を認めており、もはや疑惑の段階ではない。

 八百長そのものを取り締まる法令はない。相撲が賭博の対象にならないことが前提だからだ。それでも警視庁、警察庁は「公益法人たる相撲協会の事業に関する公益性が高い事項」として文部科学省に情報を提供した。この判断は当然だ。文科省は調査を相撲協会に丸投げすることなく、厳しく監督しなければならない。

 角界はこれまで、数々の証言に基づく疑惑について「八百長は存在しない」と全否定を繰り返してきた。一方で、「公認相撲規則」には「故意による無気力相撲懲罰規定」があり、最も厳しい懲罰は「除名」となっている。

 放駒理事長は今回初めて、八百長と無気力相撲は「イコールだと思っている」と認めた。一つの前進ではあるが、「過去には一切なかった」とも断言した。きちんとした調査をしたのか。今となっては、誰も信用しない。

 究明を依頼された特別調査委員会の伊藤滋座長は「メール以外に物証はなく大変難しい」と話し、公益財団法人認定を目指す「ガバナンス(統治)の整備に関する独立委員会」の奥島孝康座長は「想定内の出来事」と語った。危機感が全く感じられない。

 全力士や過去にさかのぼる徹底調査の結果に説得力がなければ、もはや土俵は見向きもされない。白鵬の63連勝も泣いている。相撲を愛する人は多いのだ。必ず立ち直らなくてはならない。


元連合赤軍幹部・永田洋子死刑囚の脳腫瘍が悪化
産経ニュース 2010.2.11


昭和46~47年にかけて起きた一連の連合赤軍事件に絡む大量リンチ事件で殺人罪などに問われ、死刑が確定している元連合赤軍幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚(65)が、持病の脳腫瘍(しゅよう)が悪化し、面会者が訪れても相手が分からないほど病状が悪化していることが11日、分かった。元赤軍メンバーら関係者らによる集会で明らかにされた。

 一方、集会にはハーグ事件などで懲役20年の高裁判決を受け上告中の日本赤軍元最高幹部、重信房子被告(64)も「生きて再会を念じています」などとするメッセージを寄せた。

 集会は2月上旬、京都市で開催。元日本赤軍や元連合赤軍、よど号グループのメンバーと支援者ら約40人が集まった。

 永田死刑囚は昭和59年に手術を受けた。さらに数年前に再手術もうけ、一時は危篤にも陥ったこともあるという。現在はやや持ち直したというが、視力をほとんど失ったうえ、面会者が訪れても誰かを認識することも難しい、厳しい病状となっているという。

 判決などによると、永田死刑囚は組織を抜けた仲間2人を絞殺したほかリンチで仲間11人を殺害、1人を死亡させるなどしたとして、平成5年に死刑が確定している。

 集会ではこのほか、平成8年にネパールで拘束され、アメリカで服役している元赤軍メンバー、城崎勉服役囚が白内障と緑内障を併発。しばらくは医療環境が整わなかったため、一時は失明の危機もあったことも報告された。


英検視官と陪審員団、ダイアナ元妃の事故死現場視察を終了
AFP BB NEWS 2007年10月10日


ダイアナ元英皇太子妃(Princess Diana)の死因審問で検視官を務めるスコット・ベーカー(Scott Baker)控訴院判事がパリで9日、前日に引き続き2日目の現場視察を行い事故当日のダイアナ元妃の足跡をたどった。

 検視官による現場視察は、英国の法律により義務付けられている。

 同判事は、男性5人、女性6人から成る計11人の陪審員団とともに、まず、ダイアナ元妃が交際相手ドディ・アルファイド(Dodi Al Fayed)氏とともに事故死した1997年8月31日の夜に2人がリッツ・ホテル(Ritz Hotel)の狭い廊下を通りホテルの裏口に待機していたリムジンに乗り込むまでの経緯を徒歩で調査した。

 このなかで、同判事は、特にエレベーターの監視カメラに映された箇所に着目した。前週公開された監視カメラ映像のなかには、仲睦まじく寄り添うダイアナ元妃とアルファイド氏の姿がとらえられている。

 続いて一行は、ホテルから2人が向かっていた凱旋門近くのアルファイド氏のアパートに向かう3つの経路をバスでたどった。2人は、この途中、アルマ橋(Pont de l’Alma)トンネル内で自動車事故に遭い運転手とともに死亡した。

 フランスと英国では司法制度および警察の調査体制が異なることから、事故から10年を経ての再調査となった。

 英仏双方とも調査結果では、事故はリムジン運転手による飲酒運転と速度超過によるものと結論付けている。しかし、ダイアナ元妃に対する「暗殺説」がまことしやかに流れ続けている。


マラソン金のワンジル選手転落死 女性関係でトラブルも
47NEWS 2011/05/16


2008年の北京五輪男子マラソン金メダリストで、宮城・仙台育英高に留学して日本にも縁が深かったサムエル・ワンジル選手(24)が15日、母国ケニアの自宅で死亡した。AP通信は地元警察の話として、女性関係のトラブルが原因の自殺、または事故死と伝えた。

 首都ナイロビから約150キロ北西のニャフルルにある自宅で、女性と一緒にいるところを妻に見つかり、口論の後にバルコニーから飛び降りた。同選手は酒を飲んでいたという。新華社電は飛び降りたのは逃げた妻を追いかけるためだったと報じた。

 ワンジル選手は15歳で来日し、高校駅伝などで活躍した後、社会人のトヨタ自動車九州で実力を伸ばした。


新銀行東京特別委、廃止の公算 都議会与野党の逆転で
47NEWS 2011/06/17


東京都が出資、再建中の新銀行東京の経営問題を追及する都議会特別委員会が、17日開会した定例会で廃止される公算となった。4月の都議補選で与野党の勢力が逆転、過半数を占める自民、公明両党などが廃止を求める方針を決めたため。

 特別委は2009年9月、巨額の累積赤字計上の原因を調査するため最大会派の民主党などの求めで設置された。だが銀行幹部らの聴取は行われず、都との質疑も2回しか行われていない。


日本の陰謀55
百姓の年貢負担は重くはなかった
「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー


19:百姓の年貢負担は重くはなかった

 「平和で安定した社会」の3つ目は、「大開発の時代」と題して、近世の政治・社会・経済を考える際の基礎となる問題について論じている。教科書は次ぎのように記述する(P134)。

 平和な社会が到来して、人々は安心して生活の向上を目指して働くことができるようになった。幕府や大名も米の増産を望んだ。こうして、全国で、干潟や河川敷などを中心に新田が開発された。17世紀の100年間に、全国の田畑の面積は、およそ2倍近くまで増加した。まさに大開発の時代であった。今日、日本各地で見られる広々と水田が広がる風景は、この時代に生まれたものである。

 開発にともない、田畑を深く耕せる備中ぐわ、脱穀のための千歯こきが用いられるようになり、農作業の能率が向上した。そして、肥料として干鰯や油粕を購入して用いるようになり、土地の生産力が高まった。
 江戸時代の年貢率について、「五公五民」「六公四民」という言葉があり、収穫高の5割から6割が年貢だとみなされていた。しかし、米の生産高が上昇した結果、実際の収穫高は年貢の計算のもととなった数字の上での収穫高(17世紀はじめの検地のときのもの)をはるかに超え、全体としては年貢は3割程度、なかには十数%の地域もあった。

江戸時代初期から中期の18世紀中頃までの時代は、教科書が指摘するように、まさに大開発の時代であった。耕地が約2倍に増大する。つまりそれに伴い、食料などの農産物の収穫量があがるわけだから、人々の暮らしが豊かになるわけだ。これが江戸時代を考える上で、もっとも大切な基礎的な事実である。
 このことをきちんと指摘したことは正しい。
 だが、「つくる会」教科書の「大開発」についての記述には、大きな欠落がある。
 一つは、大開発が進められた動機の問題。教科書は単に、幕府や大名も、そして百姓も平和になったので生活の向上を求めたと記述する。しかし大開発が進められた動機はこれだけではない。各地での都市の成立。巨大な消費市場が生まれて、穀物価格を中心にして農産物価格が急激に上昇したことも、農地の拡大を支えた重要な要素であることが忘れられている。
 そして二つ目には、その大開発の実態がまったく触れられていないこと。「干潟や河川敷などを中心に新田が作られた」とのみ記し、各地で干潟の干拓事業や河川の付け替え・用水路の掘削などの大工事がなされたことを全く記さない。
 さらに三つ目に、大開発の影響が、人々の、特に百姓の暮らしにどのような影響を与えたのかがきちんと記述されていない。教科書は先の記述のように、年貢率が下がったことなどしか指摘していないが、大事なことは農地の拡大によって従来は独立して家族を営めなかった人々が独立し、その結果人口が急激に増えたことである。そしてこれとともに、百姓が生まれた村を離れて他郷や他国に移動したことである。こうした社会の変化にも目を向けて欲しいものだ。
 さらに三つ目に先の記述には、いくつかの事実誤認が見うけられる。
 一つは、肥料として干鰯や油粕が一般的に使われたかのような記述がなされているが、これは綿などの商品作物栽培地域に限られていることがきちんと記述されていない(この商品作物生産の問題は、次ぎの「農産品の生産」の項で詳しく述べたい)。さらに二つ目には、年貢率の低下の理由を米の生産高が上昇したことだけに求めているが、本来検地の際に申告された収穫高そのものが実勢に及ばなかったことが忘れられている。
 以上の点を補えば、「つくる会」教科書のこの記述は、江戸時代を考える上で、従来の搾取の厳しさから百姓は貧しい暮らしをしていたという間違った認識を改める上で、おおいに役に立つものといえよう。

(1)大開発の背景-平和到来と商業の時代の到来-

 大開発を促した理由は複数存在する。

①戦乱で荒れた農地の回復

 大開発は戦国時代から行われていたのだが、江戸時代となって戦乱が終わるとともにたしかに開発は増大した。その理由の一つは、教科書が記述するように、「幕府や大名も米の増産」を望んだことである(正しくは「米」のみではない。麦も入るし、場所によっては綿花も入る)。
 なぜかということ、戦乱が終わったことで、大名の領地は基本的に固定され、戦に勝って領地を増やして収入を増やす方法は取れなくなったため、生産力を増強する以外に、収入を増やす道がなくなったからであった。
 しかし幕府や大名が農産物の生産量の増大を望んだ理由は、これだけではなかった。
 戦国時代の打ち続く戦乱は、各地の百姓たちにも軍役による動員という、農業経営に専念できない環境を作りだし、とりわけ秀吉の朝鮮侵略は、各地の百姓にも多くの犠牲を強いていた。このため各地で耕作者を失って荒地と化した農地が、数多く存在した。
 近世初期の「走り百姓」と大開発の関係を追及した宮崎克則は、朝鮮侵略の最前線基地となた九州だけではなく、全国各地で荒地が増大したことを報告している。
 近江国(滋賀県)神埼郡瓦屋寺村の1602(慶長7)年検地帳では、耕地の53%が荒地となり、蒲生郡の今在家・下羽田・芝原南村では耕地の1割程度が荒地であった。また相模国(神奈川県)足柄上郡の村々でも耕地の半分以上が荒地であった。そして大名領国で見ても、1600(慶長5)年に豊前国(大分県)に入国した細川氏の場合でいうと、領国となった豊前と豊後国東(くにさき)郡30万8000石のうち、半分以上の16万4000石が年貢を収納できない農地であった。
 打ち続いた戦乱による軍役の重さが、百姓の逃亡や治水事業の遅れなどを招いて、耕地の荒地化を進めていたのだ。  従って大名は、領国内の荒地の開墾を目指し、同時に荒地の少ない地域でも新田開発を進めて収穫の増加と年貢収入の増加を図ったのである。そしてそのために、「国役」による百姓の動員と大名の財政支出による耕地開発を進めるとともに、開発した耕地には一定期間の無税期間を設定したり、他国の百姓が入植して開墾した場合には、「国役」などの夫役を免除するなどの優遇策を講じて、百姓個人や村の力で荒地の開墾を進めることを奨励したのであった。

②大都市の成立と農産物価格の上昇

 また百姓たちが、村の力や個人の力で荒地を開墾して行った背景には、農産物価格の上昇という農業環境の変化も存在していた。  大開発が進展した17世紀後半といえば、各地に大規模な都市が生まれた時代であった。大名は領国の行政の中心として、自身の城の回りに城下町を形成し、そこに多数の商人や職人の集住を奨励するとともに、家臣団をも住まわせて、領国経営の核とした。つまり全国各地に、万以上の人の集まる都市が、次々と出現したわけである。これと同時に大名は戦国時代に引き続き、金銀銅の産出を高めていくために領主直営の鉱山の経営に努力し、各地にこれまた万の人口を数える鉱山町も出現していった。こうして各地に都市が出現するとともに、これまで村で商業や工業と農業を兼業して暮らしていた武士や商人や職人が村から離れて専業化したわけだから、ここに農産物の大きな市場が出現したことになる。従って全国的に農産物の価格は上昇した。これが百姓たちが荒地の開墾に精を出した背景であり、大名たちも大開発にいそしんだもう一つの背景であった。
 とりわけ東国では、江戸に100万の人口を擁する巨大都市が出現したわけであるから、その都市の需要を満たすために、各地で農産物の大増産が行われたわけであった。まだ充分に流通網が発展していなかった近世初頭である。このために都市部では、農産物価格が高騰し、これに従って工業原料である農産物の価格も上昇する。従って商人や商人を兼ねる百姓たちは、この産地間の農産物価格差を利用して、価格の安い産地で大量に取得した農産物を価格の高い都市に運び込み、巨利を博するということになった。
 この巨大都市の出現と、これに伴う農産物価格の上昇が、大開発の背景にあったのだ。
 この大開発のもう一つの背景が従来忘れられた理由は、近世江戸時代を自給自足の時代と誤認してきたことがある。次ぎの項で詳しく述べるが、中世においてすでに全国的商業網は発展し、農業もまた商品作物を栽培する商業的農業へと発展していた。百姓は米すらも自己の飯米や年貢米として生産するだけではなく、余剰分を都市へと出荷し利益を得る農業をはじめていた。そして各地で綿花などの商品作物もすでに栽培されていた。ここに大都市の出現による農産物価格の上昇が起きたわけである。百姓や大名がこぞって大開発を行って農産物の大増産を行うのは、理の当然のことであったのだ。

③各地で進む大開発

 従って近世初頭から中期の17世紀・18世紀は、各地で大開発が進んだ時代であった。
 特に各地で、いままで治水事業が行われずに、毎年河川が氾濫するに任せられて荒地が散在していた大河川の周辺の沖積平野が、河川の付け替え工事や堤防・用水路建設によって開発され、豊かな水田地帯になっていったことである。現在各地で、大河川の周辺で豊かな水田が広がっている光景が見られるが、これは江戸時代初頭に行われた大開発の結果だったのだ。  代表的な例を挙げれば、幕府によって行われた関東における利根川と荒川の流路付け替え工事がある。江戸湾には北からいくつもの大河川が流れこんでおり、古来大洪水に悩ませられる地域であった。このためこれらの河川を付け替えて洪水を減らす工事は戦国時代からはじめられていたが、大規模に実施されたのは、徳川氏の関東入国以後のことであった。まず江戸湾に流れこんでいた利根川の流路を付け替え、小貝川・鬼怒川などが合流して出来た常陸川に利根川の水を流しこんで東に流路を向け、江戸湾ではなく銚子で太平洋に流れこむように作りかえる。そして利根川の西側を流れる荒川の流路も付け替え、西にある入間川水系に荒川の水を流し込むことで、旧利根川・荒川の流路であった大規模な沖積平野を水田に変えたのである。  このような大規模な河川付け替え工事は、全国的に行われた。それは代表的なものだけでも、仙台藩による北上川付け替え工事、富山藩による常願寺川付け替え工事、戦国期の武田氏以来続けられた富士川の堤防工事、さらに戦国期以後近世になっても尾張藩の下で続けられた木曽川の付け替えと長良川・揖斐川も含めた伊勢湾に注ぐ3河川の堤防工事や備後福山藩による芦田川の付け替え工事、四国松山藩による伊予川・湯山川の一本化工事、筑前福岡藩による遠賀川放水路工事、九州久留米藩による筑後川放水路工事など、数多くの河川付け替え工事や治水工事がなされ、流域の沖積平野や河口部の三角州の水田化が図られたのである。
 これと同時に各地で、用水路が建設され、水利の便の悪い大地が潤され、豊かな水田や畑地に変えられていったのだ。多摩川から江戸の町への上水の供給と周辺の台地への農業用水の供給を目的に作られた玉川上水や野火止用水、そして多摩川周辺の台地への農業用水供給を目的に作られた二ヶ領用水や六郷用水。さらには箱根の芦ノ湖の水を富士・箱根の裾野の台地に通すために山腹にずい道を掘りぬいた箱根用水など、各地で用水路も建設された。
 さらには全国で干潟や沼・湖の干拓事業も行われて耕地が増大した。下総国(千葉県)の椿海の干拓や備前(岡山県)の児島湾の干拓、そして九州肥前国(佐賀県)の有明海の干拓などが代表的な例である。
 ただこの大開発の結果は、良いことだけではなかった。無計画な新田開発の結果は、山林の減少による洪水の増大や、堤防工事の偏りにより、一方の河川流域だけが洪水に見舞われるなどの災害を生み、各地で村と村との境界争論や藩と藩との境界争論を頻発させたり、耕地が逆に荒れたり、天候の急変による飢饉の勃発を生み出すもととなった。この点は後の幕府政治の動揺の所で見ることとする。

④土地が資本財として運用される時代背景

 こうして全国各地で、大規模な耕地拡大のための開発が行われた。  そしてこれだけ大規模な開発を行い得た背景には、戦国時代における鉱山開発技術や築城技術の進歩が用水土木技術として応用されたという技術的背景と、大名や幕府だけではなく、大商人や大百姓が開発を計画して藩や幕府の支援も受けて開発を担当し、開発の成功の暁には、出来あがった新田畑を彼らの土地として百姓に小作させて利益を得るという、資本投下による大開発が行われたことも重要な背景であった。先に示した各地での開発事業の多くが、幕府や藩の計画と資金投入だけによって実現したのではなく、多くの場合は、大商人や大百姓の計画に幕府や藩が賛同して資金も提供したり夫役で百姓を動員したりして、いわば官民共同で行われた大開発だったのだ。
 戦国期以後、各地で検地が実施されたことで、農地はそこを耕す百姓の財産と認定されていた。従って農地は売買されたし、売買によって農地を集積した地主が、農地を百姓に小作させて利益を上げることも普通に行われていた。そして農業経営や商業によって巨利をえた大商人や大百姓が、自己資金に公的資金を合わせて、各地での大開発を担ったのだ。  近世・江戸時代はすでに、土地そのものが資本財として運用される前期資本主義社会であったのだ。

(2)他郷・他国へ流れて独立する小百姓

 しかし、このような全国的な大開発は、全国的な労働力不足を引き起こした。従って大名は不足する労働力を補うために他郷・他国からの百姓の移住を奨励したし、百姓もまた他郷・他国へ移住して生活の基盤を築き、豊かな暮らしを実現する道を選択した。その結果近世社会は、その中頃に至ると、戦国期や近世初頭とは、社会が大きく変動したのである。

①逃げる百姓・追う大名

 戦国時代から近世初頭にかけて、大名は百姓の「走り」とか「欠落(かけおち)lを厳しく罰する法令を出し続けた。従来はこれを、「大名の年貢搾取によって生活ができなくなった百姓が逃散した」と解釈してきたが、近年、「走り」「欠落」関係の資料を詳細に研究したことによって、「走り」「欠落」と「逃散」とは別のことであることが明かとなった。
 すなわち、「逃散」とは、百姓が領主の不正などに抗議して、村単位とか郡単位とかで他郷や他国に逃げることを差しているが、「走り」「欠落」は、百姓が個人または家族単位で他郷や他国へ移住することで、他の場所へ生活拠点を移すことによって暮らし向きを豊かにする行為であり、その背景には、各地で行われていた荒地の開拓という大開発が行われていたことが明かとなっていった

 すなわち先に見たように、戦国時代から近世初頭にかけて、全国的に荒地の開発が行われたわけだが、これによって慢性的に労働力の不足が生じてきていた。従って大名は、不足する労働力を補うために、他郷や他国からの百姓の移住を奨励し、移住して開拓に従事したものには田畑を与えるだけではなく、開拓して後の一定期間の年貢の免除や、さまざまな夫役という労役の免除などの特典を与えていた。そして各地で開発が進むとともに、他郷や他国から集まった百姓によって新しい村が形成されると、そこにも新たに商品市場が誕生し、この新たな商品市場を目当てとして、商人や職人を兼ねた百姓が移住して来ることとなった。
 中世までの百姓の家族は、大家族制であった。
 一つの家が複数の家族によって成り立ち、そこには家長の家族だけではなく、家長の兄弟の家族や、家長の下人の家族などが集まって生活していたのだ。従ってこの時代においては、家長の兄弟の多くは一生独身で親や兄の家に住み、その田畑の耕作の手助けをして暮らしていたのだ。そしてこれは、その家に隷属する下人の家族の場合にも同じことであった。要するに百姓の家の次男・三男や下人の子弟は独立して家を形成することもできなかったわけだ。
 しかし各地で大規模開発が進行し、これに伴い労働力が不足する事態が生まれたことによって、百姓の次男・三男や下人の子弟に独立する機会が生まれた。まして大名が荒地の開発に従事するものを優遇する措置を取ったのだから、生まれ育った村を捨て、他郷・他国に移住することは、家に縛られていたこれまでの暮らしからの開放と、豊かな自由な生活への飛躍を意味していた。こうして各地の大開発の進行に伴い、各地の村から、百姓の次男・三男や下人の移住が広がったのである。
 だがこれは移住した百姓が元いた村の領主である大名の目から見ると、自国の労働力の減少を意味する。だから大名は、一方で他郷・他国からの百姓の移住を奨励しながら、他方で、自国の百姓の移住を禁止したのだった。そして隣接する大名の間で、「走り」「欠落」百姓の「人返し」協定を結んだりして「走り」「欠落」の減少を図ったのだが、一方で大開発の進展に伴って他国からの百姓の移住が奨励されたのだから、この禁令に効果があるはずもなかった。 

②小百姓の台頭と人口の増加

 こうして各地に、新たに耕地を手に入れた小百姓の群れが誕生し、新たに家族を作る機会に恵まれた人々が増大したゆえに、人口も急激に伸びて行ったのである。近世初頭の人口は、推定値であるが1000万程度から1500万程度である。これが大開発が一定程度進行した近世中頃、18世紀になると、人口は、2600万または3000万へと激増する。そしてこの新たな村の出現と人口の増加がまた新たな商品市場を生み出し、生まれた村から他郷・他国へ移住して、商業や工業に従事する百姓をも生み出していったのだ。
 近世初頭から中頃にかけて、各地の村で、小規模の農地を所有して農業を営む小百姓が増大し、彼らが村の中で発言権を拡大して村政に参加し、名主(みょうしゅ)百姓など有力百姓の村政私物化を糾弾して、百姓代の任命によって名主を監視したり、名主の惣百姓による入れ札による選定などの村政の「民主化」が進められた背景には、このような経済・社会の変化があったのだ。そして同時期に、村において農地を所有しない無高百姓が増大したのも、新しい村の誕生や人口の増加による商品市場の増大をあてこんで、商人や職人として独立した百姓が増えたことの反映であった。
 戦国期から近世初頭にかけての大開発の進行は、社会そのものを変化させたのだ。

注:ただしこの人口数値は再検討の余地がある。幕府がはじめて行った全国人口調査である1721(享保6)年の調査では、人口は2605万人。ただしこの調査には武士・公家・被差別民は除外されており、また調査対象の下限年齢が藩によってバラバラであるため、除外部分を加えて推定3000万人程度。初めての人口調査結果も推定でしかない。そして江戸時代初頭17世紀初めの人口の1000万人は、総石高1850万石を元に、実際の収穫高は総石高より多いので(2割多いと推計)をそれを元に推計された数字が1000万人。しかし実際の所はよくわからない。また1500万人というのは、総石高や宗門人別帳に基づいて継続的に人口の動きがわかる幾つかの地域の江戸時代前半の人口増加比率・約3倍を全国に当てはめ、享保年間あたりで多くの藩の人口が横ばいになっているので1721年を最大数値として逆算推定したもの。しかし宗門人別帳も全人口を網羅したものではなく、3倍という人口増加率も全国的なものかどうかは不明。従って江戸時代初期17世紀の人口増加は、推定されているほど急激ではなかったかもしれない。

(3)年貢率低下の秘密

 最後に、年貢率の問題について述べておこう。
 先に見たように、「つくる会」教科書は、江戸時代の年貢は五公五民とか六公四民と呼ばれてきびしい年貢搾取が行われていたが、実際には年貢率は概ね3割程度であり、中には十数%のものもあって、厳しい搾取は行われていなかったと記述した。  この指摘は、江戸時代の百姓が実は豊かな暮らしをしていたことを示す、大事な記述であり、年貢率が低かったことを示したことは、従来の教科書から比べると大きな進歩であった。
 しかしこの教科書の記述にも誤解がある。
 この記述では、年貢率が従来考えられてきたような重いものではなかった理由が、単に収穫高の増大による検地帳の石高と実際の収穫高の差によって生まれたものと理解され、これでは実際のものとは大きく異なった理解となってしまうのである。

①実態として低かった年貢率

 教科書が江戸時代の年貢率は概ね3割程度であり、中には1割と少しの所もあったと記述したのには根拠がある。
 それは、明治維新後に勝海舟が大蔵省の依頼で集めた幕府の財政資料集に「吹塵録」というものがあり、その中に、1838(天保9)年の幕府の年貢収入を天領地別に記録したものが入っていたからである。この時の幕府領の総石高は約419万石。もちろんこれは検地帳に記された表高である。そして収納された年貢は155万石で、年貢率は37%。3割強なのだ。さらに、年貢率は土地によって異なり、最も低いのは、陸奥(青森・岩手県)・常陸(茨城県)の天領で17%。最も高いのは、摂津(大阪府)・播磨(兵庫県)・河内(大阪府の天領で71%なのであった。地域的に平均してみても、中部以東の地域の年貢率は28%で近畿以西の年貢率は59%。農業の発展した地域とそうでない地域の年貢率の差は大きかったのだ。
 また幕末の幕府役人である向山源大夫が収集した記録の中にも、「御取箇辻書付」という1716(享保元)年から1841(天保12)年までの毎年の幕府領の総石高と年貢割付高が記録されたものもあり、そこで示された年貢率もおよそ3割。特に年貢の最高収量を示した1744(延享元)年は、総石高が約463万石、年貢収量は約180万石で、年貢率は39%。
 こうして実態としてみても江戸時代の年貢率は、概ね3割程度で、低いところでは1割強、高いところでは7割と、地域による土地生産性の違いによって年貢率は異なっていたのだ。

②表高の2倍はある実際の収穫高

 しかしこれは、検地帳に記された年貢計算の基準となる表高に対する実際に収納された年貢の占める割合を記したものに過ぎない。
 実は検地帳の表高と実際の収穫高との間には、大きな違いがあったのだ。これは村に残された「刈高帳」という実際の収穫高を記録した帳面を調べると分かることで、近世を通じた土地の売買や質入れ、そして小作契約には、この「刈高帳」が使われていた。従来の近世研究は、この帳面を見ることなく、検地帳と年貢割付帳だけを見ていたから、表高と収穫高の違いに気付かなかったのだ。
 表高と実際の収穫高の差はもちろん、一つには、検地以後の農業技術の向上や農地への労働力の集約的投下による農業生産の向上が背景にある。だから幕府も藩も、近世初期の太閤検地以後、何度も検地を行って、検地以後の新田開発や土地生産力の向上の成果を、年貢収納の基準に反映させようとした。しかし詳細な惣国検地は所によっては17世紀末もしくは18世紀初頭以後は行われていない。従って検地が100年以上も行われなければ、検地帳の表高と実際の収穫高との間には大きな開きが出てくるわけである。
 佐渡や新潟県の農村部の村に伝承された文書を研究して江戸時代の実際を明らかにした田中圭一によれば、この地方の検地帳の表高と実際の収穫高の差は、19世紀中頃の天保年間ではおよそ2倍あったという。そしてこの地域の表高に対しての年貢収納率が3割程度であったから、実際の収穫高に占める年貢の割合はさらに低く、実勢は1割半程度であったとしている。  各地で進んだ土地生産高の増加は、こうして年貢率をどんどん低下させ、百姓は働いただけ暮らしを楽にすることが出来たのだ。

③検地はそもそも軍役のためのものであった

 しかしこの年貢率の低下を、土地の生産力の向上だけに原因を求めることは誤りである。
 なぜならば、検地帳の表高と実際の収穫高との間に大きな差があるだけではなく、耕地の面積にも、検地帳の面積と実際の面積に大きな差がある例が多々見られるからである。田中圭一によれば、その差はおよそ2倍。実際の面積は検地帳の面積よりもかなり大きい例も見られたのだ。
 ということは、検地とは従来の認識とは違って、実際に土地の面積を測り、土地の収穫高を調べたものではないということを意味している。
 しかしこれは、考えて見れば当たり前のことである。なぜならば検地とは、大名にとっては、年貢収入を確認するためのものではなく、百姓に軍役を負担させて領国支配を強化するためのものだったからである。
 検地が始まったのは、戦国大名の治世下においてであった。その以前の守護大名の時代においては、大名は直接百姓を把握することはできなかった。百姓を把握していたのは、直接に土地を支配している国人領主と呼ばれる武士であったからである。大名が把握できた百姓は、自分の直轄の領地だけであり、大名が戦に動員できるのは、直臣の武士と、直轄領の百姓だけであり、領国と言えども、他の国人領主の支配する地域からは武士も百姓もその動員権は領主のものであった。
 この間接的な領国支配を直接的なものにしようと努力したのが、戦国大名であり、それをさらに促進したのが織田・豊臣・徳川の統一政権であった。彼らは耕地の増大や商品流通の増大によって力をつけてきた村に依拠して、村の有力者たちを自らの家臣に取りこみ彼らを武士身分に取りたてる(これを地侍と呼ぶ)とともに、有力百姓たちの所有する直営の田畑を彼らの所有地として認定するとともに、その田畑に応じた軍役を彼らにかけ、地侍を武力として動員するとともに、地侍が属する村からも百姓を人夫などの軍役として動員する体制を取ったのである。こうして戦国大名は領国の再編成や領国の拡大に応じて国人領主の支配を覆し、村の地侍と直接結びつくことによって動員できる武力や労働力を拡大し、戦を勝ちぬいて行った。この時に、地侍や百姓を動員するための手段が検地であり、検地を行うことによって百姓には土地の私有権を認め、村による年貢の村請けも認めてその自治の拡大を容認し、その代償として、自らの軍事力・労働力として百姓を動員しようとしたのである。
 この傾向を拡大し、国人領主による村支配を打破し、大名による領国の直接支配を実現したのが、織田・豊臣・徳川の統一政権であり、豊臣秀吉による朝鮮侵略を名目にした全国的な検地の実施であった。こうして大名は家臣団をその知行地から切り離し、その領国全体を直接支配できる体制を築いたのである。
 このように検地の歴史を紐解いてみれば、これは大名が軍役を百姓に負担させるための手段であり、年貢収納のための手段ではなかったことがわかる。従って一つ一つの田畑の面積や収穫高を実際に調べる必要はなかったのだ。調べる必要があったのは、軍役と年貢を負担する百姓が誰であるかを確定することだけだったのだ。田畑の面積や収穫高は、この軍役負担の基準として必要であっただけだ。しかもこの調査は大名が直接行うのではなく、村に依拠して行われた。つまり自治を行う村が、村名主を通して自己申告したものに基づいて検地帳は作られていた。誰がどの田畑を耕し、その田畑の面積や収穫高は幾らなのかは、全て村の自己申告だったのだ。
 こう考えて見れば、検地帳の田畑の面積も収穫高も実際の物とは異なっていて当たり前である。検地に際して村の側が、面積も収穫高も実勢に沿って自己申告する必要はない。彼らが実勢に応じて申告していないことが大名も分かっているから、近世初頭において何度も検地が繰り返されるのだ。そうでなければ検地は、新田畑の検地だけで済むはずである。実際に何度も、新田だけではなく古田の検地も行われているのは、幕府や大名が何度も検地を繰り返して、検地帳に記された収穫高を実勢に近づけようとしたことの証である。そして古田の検地も含む惣国検地は、早い所では17世紀末、遅い所でも18世紀初頭には行われなくなり、以後100年以上もの間検地が実施されず、検地帳の表高と実際の収穫高に大きな開きが起きていったのだ。

④五公五民は小作料を示す数字

 では、従来五公五民とか六公四民と呼ばれた数字は、一体何を示していたのだろうか。
 従来の説の根拠は、1728(享保13)年に出された一つの法令である。これによると、昔から享保年中までは四公六民であったが、享保12年に六公四民に改められた。しかし百姓が難儀を申したてたので、享保13年に五公五民に改められたという。従来はこの法令によって、江戸時代の年貢は変化したと考えられてきた。
 しかし享保年中の年貢率を、先の記録などによって調べても全体としての幕府の年貢率は3割強であり、5割などではなかった。では先の法令は何を意味していたのか。
 田中圭一によれば、これは小作料を示した法令ではないかという。この法令にいう「公儀地頭」とは領主と地主を指し、小作地については小作人は収穫の5割を自分のものとし、残りの5割を地主が取り分とする。そして地主はこの5割から年貢を支払ってその残りを自分の取り分とした。実際に江戸時代の村の記録を調べると、地主と小作人とで、田畑の真中に線を引いて、収穫を二分する習慣があったという。
 つまり年貢率は実際には3割程度でさらにこれは実際の収穫高から見れば1割半程度であったのだから、地主の取り分は3割半。小作人は5割。そして領主が1割半だったというのだ。耕地を小作地として借りていても、小作人は充分暮らして行けたのだ。ましてや自分の田畑を持っている百姓であれば、実際の収穫の8割半は自分のもの。
 こうして近世においては、百姓は働けば働いただけ生活が豊かになる体制が築かれ、百姓の暮らしは豊かになっていったのだ。

 「つくる会」教科書の大開発と年貢率についての記述は、従来の教科書に比べれば一歩前進であり、江戸時代の百姓が豊かな暮らしをしていたことを伺わせる優れた記述であった。しかし残念ながら、大開発の背景から商業的農業の発展による農産物大増産の意欲が生まれたことが欠落されて、江戸時代の百姓の実際の暮らしと乖離した記述も見られたし、年貢率の問題については、検地についての認識が誤っていたために、実際の年貢率とはさらに大きな乖離が見られたのである。このあたりの記述を改めれば、「つくる会」教科書の江戸時代の百姓についての記述は、さらに優れたものになるであろう。

注:05年8月刊の新版の記述は、旧版とほとんど変わらない。従ってその記述の欠落点や誤解もまた旧版と同様である。ただし年貢率の問題については本文から削除されて注に移され、さらに田畑の面積の増大を示すグラフに、室町時代中期と江戸時代初期・中期のそれぞれの田畑の面積の数字を明記したので、田畑の面積の増大の実勢を計算することができるようになっている。

注:この項は、大石慎三郎著「江戸時代」(1977年中央公論新書刊)、鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」(1983年PHP研究所刊・2000年講談社学術文庫再版)、板倉聖宣著「歴史の見方考え方」(1986年仮説社刊)、辻達也著「政治の対応-騒動と改革」(1993年中央公論社刊・日本の近世第10巻・辻達也編「近代への胎動」所収)、佐藤常雄・大石慎三郎著「貧農史観を見直す」(1995年講談社現代新書刊)、田中圭一著「日本の江戸時代-舞台に上がった百姓たち」(1999年刀水書房刊)、田中圭一著「百姓の江戸時代」(2000年ちくま新書刊)、宮崎克則著「逃げる百姓、追う大名」(2002年中央公論新書刊)、高埜利彦著「元禄の社会と文化」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史15「元禄の社会と文化」所収)、などを参照した。


日本の陰謀42
自民党員100万人も減る
産経ニュース 2011.10.25


自民党の党員数が前年度に比べて約4割減少し、130万人となり、収入面でも約28億円の減収となることが明らかになった。

自民党は、総裁の小泉純一郎首相を起用した党員獲得用ポスターを発表。しかし、「小泉人気と自民党人気の乖離(かいり)は大きい」(幹部)のが現実だった。党員数はその後も減少傾向にある。


日本の陰謀15_1
税制度とは何か、基本が問われる

人類の歴史が始まって以来、集団の維持には金がかかる。西洋では、税金がが始まるが、日本では税金よりむしろ、 「消費税」だったようだ。特に、「金銀」、「油」、「塩」、「砂糖」などの高級品は、徹底的に販売を独占した。つまり、値段は売り手しだいだった。膨大な資金が天皇一族に集積されたことは間違いない。

だが、しばらくすると、それでも農業や商工業の生産性の高まりから若干の余裕の出てくる人々が出現した。中には、天皇一族を調べたり、批判したりする者まで現れた。どうにかして、生産性を落とし、余裕のない状態に戻さねばならない。

最も手っ取り早い方法が、政策的な「失業者」の創出だった。これが、「サムライ」だった。喜ばして、農業を禁じ、そして、昔の仲間を虐めて年貢を取り立てさせる。なかなかいい知恵だった。

「百姓は生かさず殺さず。」「武士は食わねど高楊枝。」「 僧侶の念仏修行」など、全て、天皇一族が、社会全体の発展を抑え、生産性を抑えることだった。

この発想になじまなかったのが、アイヌと南九州の薩摩隼人だった。特に、薩摩の武士は、農民を虐めて年貢を取り立てるより、自分たちも一緒になって農業に精を出した。

天皇一族にとって我慢できることではなかった。

現在の日本の支配者階級、特に「公務員」はこのサムライと全く同じ概念で運営されている。つまり、国民から税金を取り上げ、贅沢をさせないよう、サービス残業と休日返上で、囲い込むことが、公務員の仕事だ。

だから、「国民への奉仕」を期待すること自体が、最初から間違いだった。


日本の陰謀15_2
丸投げ
ウィキペディア


丸投げ(まるなげ)とは、官庁や企業が、自らが行っていた業務、あるいは行おうとしている業務を、他の企業や団体等へそのまま業務委託することをいう。委託側は、丸投げによってバックマージンを得ることができる。

一括請負契約は契約のありうべき形態の一つであり、いわゆる丸投げそのものが違法・不法な契約形態と認識されているわけではない。たとえば商社は多くは企画営業に特化しており、商品の製造や流通は外部の資本関係のない企業に「丸投げ」することがあり、この契約が違法とされることはない(アウトソーシング)。

建設業界は戦前からの業界の発展の経緯から、この慣習に乗じて支配的な立場にある上位建設業者がマージンを抜くためだけに「丸投げ」を常用してきた経緯があり、一括下請負は建設業法制定の当初から原則禁止されている。建設業と丸投げの問題は戦後すぐの第二回衆議院予算委員会ですでに取上げられており、独占禁止法との関係(優越的な地位の乱用)から議論が深められ昭和24年の立法に反映されることとなった。この議論は職業安定法における間接雇用(いわゆる派遣)の禁止とともに労働者の権利保護の観点を含んでいた。

実際に業務を行う企業が自ら顧客を集められるのであれば、バックマージンを取られる丸投げを受注する必要はない。しかし、被委託側の企業等は、自ら業務を受注してくる営業能力が不足していることが多く、また、商慣行上必ず「丸投げ」を受けないと受注できない仕組みになっていることが問題視されることもある。

丸投げの問題点

優越的地位の濫用
公益法人を経由することによる天下りの発生
公益法人を経由することによる脱税の発生
丸投げ(スルー取引)による売上高粉飾の余地の発生(循環取引)
談合の温床として利用されがちである
品質問題・・・構造計算書偽造問題以降、いわゆるデベロッパーとコンストラクターとの不適切な関係が注目され、建設業法の一部が改正された。


日本の陰謀15_2
日本には、二重の税制構造がある

ひとつは、ほとんど機能しない、国・地方自治体の徴税制度。もうひとつは、秘密裏に、しかし、強力に行われ、日本社会の権力の源になっている徴税制度だ。

これは、天皇一族が古代から整然と全国にわたって作り上げてきた組織的構造だ。歴史的に知りえるのは、大山崎油座などで知られる荏胡麻(エゴマ)の製造組合だ。当時唯一の「夜の灯り」だったごま油を独占した。膨大な利益が消費税のように天皇に上納された。以後、あらゆる産業、いたるところに、この徴税制度が導入された。

今日では、「お茶」、「生け花」、「踊り」、「建設業」、「食品製造業」、「農業」、「神社」、「仏閣」など、至る所に徴税担当を配置する。表面上は、下請け、孫請け、丸投げ、談合などとなって見えにくい。

これらの中で最も顕著なものが、「パチンコ業界」だろう。特に、暴力団・北朝鮮の経営するパチンコ屋が知られるが、これらは、全て天皇一族の直営だ。

しかし、うまく考えたものだ。天皇一族が金儲けをしていることがばれると、体制維持が困難になる。それで、北朝鮮というおどろおどろしい国を作り、その仮面をかぶって金儲けに励む。税務署もフリーだろう。

この偽装工作は、外国に進出する天皇一族の検証で判明したものだ。こういった組織犯罪の現実を無視して、行政改革を唱えても、「飛んで火に入る夏の虫」と、天皇一族の笑いを誘うだけだ。


日本の陰謀38
のんびりな宮崎と猛烈な鹿児島の県民性

以前から宮崎と鹿児島の県民性の違いの理由がわからなかった。
「気候」の違いを指摘する人もいるが、気候自体はさほど変わらない。むしろ「地形」だろう。
実際、宮崎の人は働かないのにそこそこいい暮らしをしている。
鹿児島の人間はよく働くが、特に農家などを比較すると、粗末な家屋が多い。
その理由が長い間わからなかったが、江戸時代の歴史、現在のインチキ政治、
そして、鹿児島に乗り込んでくる宮崎勢を観察し、ついに謎が解けた。
要するに、宮崎が徳川の天領になって以来、宮崎には湯水のごとく金が注ぎ込まれる。
「シーガイヤ」など、兆円単位の大盤振る舞いだ。
最近は、鹿児島から奪った税金・企業の利益が横領されているのではないかと疑う。
実際、宮崎の人間で自治体・企業などの組織を通じて鹿児島を支配する者は多い。
よく観察すると、そのほとんどが、「裏切り者」だ。
行政機構では、
宮崎は、「高等裁判所」で鹿児島はその下位の「地方裁判所」だ。
熊本は、「国税局」で鹿児島はその下位の「税務署」だ。
宮崎市の人口は40万人、鹿児島市は60万人だ。
これでも、昔に比べるとだいぶ追いつかれてきた。
このままでは、確実に追い越されるだろう。
これが、県民の努力の成果なら文句は言わない。
もし、「インチキ」の成果であれば、過去の歴史全体を賠償してもらう。
当然だろう。宮崎県民は、その覚悟をしたほうがいいだろう。


日本の陰謀46
残業年1873時間で783万円、年収1574万 さいたま市職員なぜそんなことが許されるのか
JCAST ニュース 2012/9/21


時間外手当を給与とほぼ同額受け取り、昨年度の年収が1500万円超に達する40代のさいたま市職員がいることが分かった。この職員を含めて、年間1000時間以上も残業した職員が80人ほどもいたというが、なぜそんなことが許されるのか。

高額な時間外手当支給が発覚したのは、2012年9月19日のさいたま市の定例市議会でのことだった。

年間1000時間を超える時間外勤務が79人

一般質問に立った冨田かおり議員(改革フォーラム)が時間外手当についてただしたのに対し、市の総務局長が答弁で明らかにした。

それによると、課長補佐級の40代男性職員は11年度の1年間で、1873時間の時間外勤務をし、783万円もの手当を支給されていた。この職員の年間給与は791万円のため、合計の年収はなんと1574万円に上ることになる。残業は、土日祝日も含めると、1日当たり平均5時間もしていた計算だ。

さらに、医療職を除く職員では、年間1000時間を超える時間外勤務をしたのが79人もいた。最も多く働いたのは1925時間だったが、給与水準も低い職員だったので、手当は700万円を超えていなかった。

この答弁内容が地元紙で報じられると、ネット上では、驚きの声が上がった。「ギリシャみたいだ」「一体どんな仕事の仕方してる訳?」「これじゃいくら税金あっても足りないわw」といった書き込みが相次いでいる。

さいたま市の職員課では、取材に対し、この職員が震災対応に追われ、土日祝日も働いていたことが大きいと説明した。ゴミ収集などの現業ではなく、一般事務をしていたというが、具体的な業務の内容などについては、個人情報保護のため答えられないという。

2000時間近い時間外勤務については、臨時公務に当たるため、労基法違反にはならないとした。それを市が認めたのは、震災という特殊な事情があったからで、臨時職員を雇う時間もなかったとしている。

前年度も、1500万円を超えた職員がいた!

1000時間を超える時間外勤務をした79人についても、震災対応をしていたケースが多かったという。さいたま市の職員課では、「職員は、所属長の確認を毎日受けていますので、きちんと業務をこなしていたと考えています」と話す。

ところが、震災前だった2010年度について職員課に確認すると、このときも年収1500万円を超えていた職員がいたことが発覚した。

同一職員ではないものの、同じ課長補佐級の男性で、1年間で1843時間の時間外勤務をし、747万円もの手当を支給されていた。この職員の年間給与は781万円のため、合計の年収は1528万円に上る。職員課では、生活保護を受け持っており、その業務量が多かったためだと説明している。

さらに、年間1000時間を超える時間外勤務をしたのが、11年度を上回る112人もいたことが分かった。こちらも、その3割が生活保護を受け持っていたという。つまり、震災時だけではなく、その前から高額な時間外手当を支給されていた職員が多数いたわけだ。

震災の被災地に聞くと、福島市の職員課では、「時間外手当が給与と同額なケースは、昨年度でもさすがにないですね」と驚いた様子で話した。11年度は、震災対応などで1000時間を超える時間外勤務をしたのが25人いたが、最も多い2100時間勤務の職員で、手当が500万円ぐらいだという。震災前の手当は、多くて200万円台ぐらいだとした。

さいたま市と同じ首都圏の千葉市では、国への派遣を除くと、11年度は、最も多い1256時間勤務の職員で、手当が350万円ぐらいだという。1000時間を超える時間外勤務をしたのは5人だけで、いずれも震災対応だった。市の給与課では、「うちでは、課長補佐級は管理職ですので、時間外手当はありません」としている。


日本の陰謀40
諏訪大社での出会い
まことかさんのマイページ


今日はお彼岸でしたが、たまたまの御用で信州に赴き、その道すがら、諏訪大社の上社本宮に参詣しましたら

宮司が、どこかで見たことのある人を案内しつつ拝殿から出てきた。
「む?誰?」
と見ると、なんと、先日ブログで擁護したかの小沢一郎氏その人ではないか。一人警護のSPがいるだけで、他に参拝者もまばらな中、間違いなく小沢氏が私の目の前を宮司と談笑しながら歩いている。とっさに
「小沢先生!」
と声をかけると、おや?というようにこちらを振り向く。せっかくだから、どうしてもこの思いは伝えておきたいと、勇気を出して彼に向かって歩いてゆき、
「先生、ご苦労様です。応援させていただいています。生活者第一のマニフェストは是非とも堅持してください。」
と手を差し出すと、小沢氏は私の顔をまじまじと見て、
「ありがとう。頑張りますから、ご心配なさらないで。」
と私の手をしっかりと握って握手してくれた。
TVで見るよりも大柄な印象を受けたのと、意外に優しい声であること、手のひらが部厚かったことに驚いた。
そのまま彼は社務所に入って行った。同行者は
「知ってるの?」というので、
「いやいや、今日が初対面。全くのハプニング」
というと、
「勇気があるね。」と、あきれていた。

カレル・ヴァン・ウォルフレンの著書「誰が小沢一郎を殺すのか」を是非ご一読いただきたい。私は一連の小沢裁判には、全く納得できないものを感じている。まず証拠も何もないところで、「小沢だから絶対悪いことをしているに違いない」という前提から始まって、国策捜査が行われ、結局出てきた話は。収支決算報告書に計上する日時を前年度にしておくべきだったか今年度にしておくべきだったかというだけのことを、「虚偽記載」と銘打って、とにかく裁判沙汰にして、一人の政治家の政治生命を抹殺しようとしている。そして、その抹殺されようとしている人間だけが、政権交代時の選挙公約を愚直に守ろうとしているこの国の不思議を、皆さんはどう見ているのだろうか?

「憂国のラスプーチン」で佐藤優が明らかにしているように、国策捜査に引っかかった犠牲者は、マスコミに袋叩きにされ、極悪人として社会から抹殺される。鈴木宗男氏のことを多くの日本国民はどのように見ているだろう。選挙の時に車に箱乗りしたり、選挙民に土下座をする映像ばかりが繰り返してニュースで流される中で、本当に鈴木宗男氏と佐藤優氏が国のために何をしていたのか、国民は目隠しされてしまった。

小沢一郎を私が評価しているのは、細川政権崩壊時に、インタヴュアーが、
「自民党と社会党が組んだら、新しい政党への流れはストップするでしょう。」
と聞くと、
「まさか、そんなバカげた選択はありません。そんなことは許されません。」
と色を成して怒ったという逸話である。
実際には、その馬鹿げたことがおこり、村山富雄(とんちゃん)は満面の笑顔で首相の座について、阪神大震災を官邸のTVの画面で見て、「これは大変なことですねぇ」とやってくれたわけである。
この逸話からも私は小沢一郎は根っこはとてもピュアな人だと思う。彼は本当に生活者のためにこの国のシステムを替えようと考えている。それゆえ、既得権益を守りたい勢力が躍起になって抹殺をしようとしているのであろう。


日本の陰謀
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