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強風:壊れた屋根直撃、47歳パート死亡--北九州の駐車場
毎日新聞 2010年3月21日


20日午後1時25分ごろ、北九州市小倉北区京町の無人有料駐車場で、同市小倉南区守恒本町2、女性パート従業員、藤本一美(ひとみ)さん(47)が首から血を流して倒れているのが見つかり、出血性ショックで死亡した。福岡県警小倉北署は強風で壊れた料金支払機の屋根に直撃されたとみて調べている。

 同署によると、藤本さんは駐車場の出入り口付近に倒れており、首に切り傷があった。料金支払機の屋根は高さ約3メートルで、鉄パイプ製柱(直径約6センチ)が折れていた。気象庁によると、北九州市のこの日の最大瞬間風速は23・5メートルだった。

日本の陰謀135


誕生日で選ばれた人々

名前 生年月日 原因となる事件 関連
森田健作 1949年
12月16日
戦艦大和竣工式 大東亜戦争
小泉純一郎 1942年
1月
8日
大詔奉戴日 大東亜戦争完遂のための国民運動
エルヴィス・
プレスリー
1935年
1月8日
大詔奉戴日 大東亜戦争完遂のための国民運動
金正恩 1983年
1月8日
大詔奉戴日 大東亜戦争完遂のための国民運動
オノ・ヨーコ 1933年
2月18日
満州国建国1周年記念日 大東亜戦争
麻原彰晃 1955年
3月2日
唐の高僧・鑑真が奈良の都に入京 仏教の高僧・教祖
サダム・フセイン 1937年
4月28日
日本で最初の文化勲章授章式 感謝の印・日本の英雄(逮捕は赤穂浪士討ち入りの日)
山花貞夫 1936年
2月26日
二・二六事件 軍事クーデター
アフマディーネジャード 1956年
10月28日
自由の女神像の除幕式・美濃・尾張地震(1891年10月28日) 米国の終わりを象徴する、「反米」の人工地震
ジャック・シラク 1932年
11月29日
仏ソ不可侵条約調印 反米同盟
ニコラ・サルコジ 1955年
1月28日
パリ協定 米国の敗北
小泉進次郎 1981年
4月14日
タイタニック号の氷山衝突 西洋の没落と東洋の隆盛
金日成 1912年
4月15日
タイタニック号の沈没 西洋の没落と東洋の隆盛
重信房子 1945年
9月3日
日本政府解体の日 米軍が本格的に日本に乗り込んできた屈辱の日
岡本公三 1947年
12月7日
ハワイ真珠湾攻撃 米国攻撃
坂本九 1941年
12月10日
ハワイ真珠湾攻撃の直後 米国攻撃
仲宗根美樹 1944年
6月23日
オリンピックデー 東京オリンピックの成功
ヒトラー 1889年
4月20日
ナポレオン3世の誕生日(1808年4月20日) ナポレオンの後継者(フランス革命100周年の年に生まれる)
チャップリン 1889年
4月16日
ヒトラーの誕生日(1889年4月20日) ヒトラーの影武者(パロディ)
アルベルト・
フジモリ
1938年
7月28日
ペルーの独立記念日、フランス革命(テルミドールのクーデター) 1990年7月28日に大統領に就任
ハーミド・
カルザイ
1957年
12月24日
1979年12月24日ソ連のアフガン侵攻 アフガニスタン大統領
世界銀行総裁
ウォルフォウィッツ
1943年
11月22日
カイロ宣言(日本の無条件降伏) 日本の世界征服の象徴

日本の陰謀122
ルイス・グシケン政策顧問、政界を引退
ブラジルニュースレター 2006-11-20


ジルセウ前官房長官、パロッシ前財務相と並びルーラ政権の三本柱とされたグシケン前広報長官が、ルーラ大統領の再選が決まったことで、政界の引退を発表しました。グシケン氏の引退で、ルーラ内閣を作り上げた3本柱の時代が終わったことになります。グシケン政策顧問(NAE)は労働者党(PT)政権の発足初期、広報長官として政権の枠つくりに参画した重鎮でしたが、裏金疑惑や郵便局疑惑などで議会調査委員会(CPI)から追及を受け、政権中枢から後退していました。その後も、大統領府で政治の動向を見守ってきた同氏は、臨時の後任をメルカダンテ上議の実弟オリヴァ大佐に引き継ぎました。

 不正問題に関してグシケン前長官は、裏金疑惑は策略であり事実無根だと主張しています。政治家が選挙費用の借金を決済するシステムが、ブラジルには昔からあり、それを連立与党の議員だけが政府案承認のために公金を不正に受け取ったというのは、理不尽と訴えています。

 グシケン前長官の引退によって、ルーラ政権から日系政策マンが姿を消すことになります。

日本の陰謀79
特攻の町・知覧にて
吉田 裕(一橋大学・当センター編集長)


 1999年の11月、鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館を訪れた。知覧には戦前、陸軍の航空基地があり、沖縄戦の際には、ここから436名の特攻隊員が沖縄海域へ飛び立っていった。特攻隊には以前より関心があったため、ぜひ一度は訪れてみたい地であったし、最近少しずつ知られるようになってきた朝鮮出身の特攻隊員のことも調べてみたかった。またゼミの学生の中に、特攻平和会館では「特攻まんじゅう」を売っているという者がいて、そのような死者を冒涜するような商業主義が本当に存在するのか、ということも自分の目で確かめてみたかった。  かつての護国神社の参道を抜けて左に入ると特攻平和会館の大きな建物が正面に見える。その入口のすぐ左手の所に大きな真新しい石碑がたっていた。碑文には、「アリランの歌声とほく母の国に念い残して散りし花々」と刻まれていた。一見して、朝鮮人特攻隊員のことを歌ったものとわかったが、建立の由来などは一切書かれていない。すぐに特攻平和会館に入り、事務室で碑のことをたずねてみたが露骨に嫌な顔をされた。特攻隊の暗部をかぎまわるな、といわんばかりの応対である。

 しかたなく展示室に入り、村永薫る編『知覧特別攻撃隊』(ジャプラン、1989年)を買い求め、巻末の「特攻隊戦没者名簿」でチェックしてみると、出身地が「朝鮮」となっている者が11名いる。その11名の一人一人について写真や遺書などの個人展示をあたってみると、朝鮮名のみ記されている者、あるいは日本名と朝鮮名が併記されている者が7名いた。その後、館内を見て回るが、特攻隊員たちの純真さ、健気さだけを一方的に強調するだけの内容で、正直なところウンザリとさせられる。「語り部」の老人がいて、特攻隊員たちの神々しい姿について、バスガイドのような淀みない口調で語り続けているが、私には何かの新興宗教のようにしか思えない。ただ、それでも、茶髪の少女が食い入るように特攻隊員の遺書を読んでいる姿をみると、いささか複雑な気持ちにさせられる。

 先ほどの石碑のことが気になるので、特攻平和会館を出て、町の図書館に向かった。そこで、『南日本新聞』を調べてみると、10月28日付けの同紙に関連記事を見つけた。「歌碑を建立したのは、千葉県在住の舞踊家江藤勇さん(83)。『朝鮮半島の遺族は肩身の狭い思いをしていると知り、日本人こそ真心込めて慰霊すべき』と知覧町の郷土史家村永馨さん(79)に協力要請し実現した。……知覧特攻平和会館によると、沖縄戦で戦死した陸軍特攻隊員は千三十六人。このうち朝鮮半島出身者は十一人いる」とある。

 さらに、町の広報紙『ちらん』を繰ってみると、毎年行われている知覧特攻基地戦没者慰霊祭には、韓国からも戦死した特攻隊員たちの遺族が招待されていることがわかった。この慰霊祭の評価はむずかしい。よく調べてみなければわからないが、日本の加害責任を棚上げにした上での一方的な善意の押しつけになっている可能性もある。しかし朝鮮人の特攻隊員たちの信条に思いをはせる人々がいたということだけでも私にとってはある種の救いだった。

 それにしても、特攻隊員たちの死にざまはあまりに痛ましい。搭乗機の大部分は固定脚の旧式機で、中には35機の99年式高等練習機が含まれている。最大速度349㎞の練習機で重い爆弾を積んで飛んだら、とても300㎞も出ないだろう。沖縄海域で待ち受けているはずの米海軍の主力戦闘機F6の最大速度は600㎞近いから、これでは戦闘にならない。こんなオンボロ飛行機に、飛行時間の短いヒヨコのようなパイロットをのせて出撃させた指揮官や作戦参謀たちの愚劣さは本当に許し難いと思う。

 もし、この国の政治家に良心といわないまでも、保守主義者としての英知のようなものがもう少しあり、歴史修正主義者たちのような狂信主義者の数がもう少し少なかったなら、南京事件の研究など早々にやめて、特攻隊のことをじっくり調べてみたいというのが私の本音である。そんな日はいつになったら来るのだろうか?かくして私のうつ病はますます重くなる。

 最後に一言。「特攻まんじゅう」は、さすがに特攻平和会館には売っていなかった。ただ、町の小さなお菓子屋さんで確かに「特攻まんじゅう」なるものを売っているのを確認した。幕末・維新期なら「打ちこわし」の対象だと思いつつ、買って食べてみた。なんの変哲もないただのありふれたまんじゅうだが、なぜか哀しく、わびしい味がした。

日本の陰謀90
留意点(秦氏)
日ユ同祖論 ウィキペディア


日本とイスラエルの類似点については、ユダヤ系キリスト教徒ともいわれる秦氏(秦一族)の活動が影響している部分があるとの指摘がある。ケン・ジョセフ『日本・ユダヤ封印の古代史2仏教・景教編』徳間書店 では以下のように述べられている。

秦氏は、もともとは、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住み、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰しアッシリア以降の中東の共通言語であるアラム語を話していたとされ、ユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされる。弓月国には、ヤマトゥという地や、ハン・テングリ山という山があった(「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味とされる)。秦氏は、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年ころから数回にわたって日本に渡来したとされ5世紀末には2万人程度になり、背が高く特徴的な容貌であったとされている。5世紀末に、秦酒公は日本酒技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされている。秦氏は絹技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕え、絹事業(ハタ織り)で財をなして豪族となり、皇極天皇(642~645)に関する日本書紀(720年成立)ではウズマサ(アラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach)(インド北部ではユズマサ)に由来するともいわれる。)(ヘブライ語でヨシュア・メシア:選ばれた者ヨシュア、ギリシャ語でイエス・キリスト)を信仰する豪族として秦河勝という人物が登場する。さらに、秦大酒は748年に大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれる。秦氏は京都の太秦を本拠地としつつも、一部は大分の宇佐に住み、一説には710年ころに成立したともいわれるヤハダ神(YHWDH:ユダ/ユダヤ)を信仰し八幡神社を創設した。Yahawada (יְהוּדָה)とはアラム語で失われた支族のユダ族を意味する。八幡神社は749年ころに急に勢力を持ち始め、大きな勢力となって奈良に上京し、このときはじめて神輿をもたらし、これが神輿の起源ともいわれ、八幡神社は全国に広まった

秦氏は平安京の造成に尽くしたとの説もあり、仏教勢力から逃れるため794年平安京遷都が行われ、その直後に京都で祇園祭が始まった。また、秦公伊呂具は稲荷神社(イナリ:JNRI/INRI:ユダヤの王・ナザレの・イシュ(イエス):当時の支配者ローマの公用語ラテン語でのキリストの別称)を創建したとされ、さらに元伊勢には秦氏の関与するものが多く、伊勢神宮の遷宮に関与したとの説もある。松尾大社は秦都理が創建したといわれる。京都の下鴨神社は秦一族の族長を記念して建てられたともいわれ、皇室の儀式を多数執り行ってきた。景教はユダヤ教に近いとされるがキリスト教であり、秦一族は南王国に由来するユダヤ人との見方が有力である(ただし、秦一族には舟の家紋を持つものが多く、十支族のゼブルン族が舟の紋章を持つこととの関係も指摘されている)。ウズマサ明神を祀る京都太秦の大酒神社は古くは大辟神社といい、大辟は中国ではダヴィといいダビデを意味するとされる。また、秦河勝が弓月から持って来たという胡王面(異国の王の面)はユダヤ人あるいは天狗のように鼻が高い。

なお、神社神道の起源に関して、そもそも神社の創建は仏教の寺院に触発されたものと主張する説が有力視されている。神社の創建は仏教伝来(538年)以降であるとする説がある。(『神道概説』学生社)最初の本格的仏教寺院は飛鳥寺(596年)といわれる。そして伊勢神宮の創建は674年であるとする説が多数説とされる。 しかし、主に「神」を主体とする神道の信仰形態が、仏教(人霊信仰)からどのように派生(影響・触発)されたのか、また、仏閣の形式と神道の社(ヤシロ)の形式を見ても、神道信仰はむしろ古代ヘブライの信仰のほうが類似していると言わざるを得ない。

日本の陰謀100
鹿児島商工会議所会頭に諏訪秀治氏
他愛のない雑記 (南日本新聞) 2008/03/05


鹿児島商工会議所(大西洋逸会頭)は11月16日、鹿児島市のアイムビルで臨時議員総会を続開。投票による会頭選挙の結果、副会頭で鹿児島トヨタ自動車社長の諏訪秀治氏(63)が、ネッツトヨタ鹿児島会長の久米田彬氏(67)を破って第17代会頭に決まった。任期は2010年10月末まで。
 議長(大西会頭)を除く議員99人(委任含む)が投票。開票の結果、投票総数99票のうち、諏訪氏66票、久米田氏31票、無効(白紙)2票となった。
 会議所では「おそらく初めて」(事務局)という選挙は関心も高く、議員本人による投票は81人、出席議員への委任10人、所属会社の代理8人だった。
 新会頭に選出された諏訪氏は「結果を厳粛、謙虚に受け止めたい。鹿児島を良くするために議員一人一人の力を借りて、全力で会頭職を努めたい」とあいさつ。観光強化や鹿児島市の政令都市への取り組みなどを挙げた。
 一方、久米田氏は「敗軍の将、兵を語らず」としつつ、「選挙に持ち込んだこと自体、開かれた会議所の一歩にはなった」と淡々と述べた。
 引き続き副会頭の選任に移り、諏訪新会頭が指名した4人を承認した。いずれも新任で、職務代行順にセイカ食品会長の玉川哲生氏(71)、南国交通社長の渡辺勝三氏(64)、島津興業副会長の島津公保氏(57)、鹿児島ヤクルト販売会長の山本良樹氏(60)。専務理事には竹元明氏(55)が再任された。
 諏訪氏は、1944年、鹿児島市生まれ。慶応大卒。72年鹿児島トヨタ自動車入社。89年副社長、99年から現職。ネッツトヨタ南九州社長などもつとめる。92年から会議所議員、2004年副会頭。
 総会は午前10時に開会した。選挙管理委員会が投票の流れを説明した後、1人ずつ別室に準備された投票所へ。顔写真などでの本人確認後、用紙に意中の人物の名前を書き込んだ。
 従来の会頭選任は、事前に一本化された人物を推薦、全会一致で承認していた。今回、複数候補が出たことや、公正透明な選出をとの声があり、投票による選挙となった。

日本の陰謀100
トヨタ過労死・内野事件
法学館憲法研究所 2008年2月11日


1.やっと認められた過労死

 2007年11月30日、名古屋地方裁判所2号法廷で、故・内野健一さんの死が過重な仕事による過労死であることを認める判決が出されました。
 内野健一さんが30歳の若さで亡くなったのは2002年2月9日午前4時20分ごろ。トヨタ自動車堤工場車体部でEXとして働いていた健一さんは、2月8日午後からの二直(遅番)勤務に引き続き、工場内詰め所で残業中に倒れ、そのまま亡くなりました。
 健一さんが倒れる約半年前から、会社からの帰りが段々と遅くなり、疲労がたまっていく様子を目の当たりにしていた妻・内野博子さんは、健一さんの死は過労死であるとして、直ちに豊田労働基準監督署長に対し、労災申請を行いました。  ところが、豊田労基署長は労災と認めない判断(不支給決定)を行い、不服審査を申し立てた愛知労働局労働保険審査官も労災ではないと判断しました。そのため、博子さんは2005年7月、名古屋地方裁判所に対し、豊田労基署長の不支給決定の取消を求めて裁判を提起したのです。2年余りの審理を経て、名古屋地方裁判所民事第1部が出した判断は「健一さんの死は仕事が大変だったためだから労災である」、というものでした。 健一さんの死が5年余を経てようやく、過労死であると認められた瞬間です。健一さんが亡くなった2002年2月当時には1歳と3歳だった2人の子どもは、判決時には小学校1年生と3年生に成長していました。

2.判決の内容

判決では、大きく(1)健一さんが行っていた残業時間数、(2)健一さんが行っていた業務の質(密度、ストレス)について判断がなされました。業務量としても、業務の質としても過重であり、健一さんの死は業務によるものだ、というのが判決の判断です。
(1) 残業時間数についての判断
 判決は、健一さんが亡くなる直前1ヶ月の残業時間は106時間45分だったと判断しました。この時間は、健一さんが工場で仕事をしていたと認められる確実な線を採用したものです。健一さんが亡くなった当時、トヨタ自動車堤工場ではタイムカードなどによる労働時間管理が行われていませんでした。健一さんが工場にいた時間は、健一さんの死後、博子さんが必死に資料を集め、正確に算出したもので、判決はそれを採用したのです。
 工場に残っていた時間が残業時間というのは当たり前のように思われますが、トヨタ自動車と豊田労基署はいずれも、健一さんが工場に残っていた時間全てについて仕事をしていたかどうかはっきりしない、とか、さらには工場に残っていても雑談していた等の理由で工場にいた時間全てを残業時間と認めていませんでした。判決の判断は正当なものです。
(2) 業務の質についての判断
 あわせて判決では、健一さんが行っていた品質管理のクレーム対応業務に目を向け、相当程度にストレスの高い仕事であると認めました。
 加えて、トヨタ自動車の工場で採用されている連続2交代勤務(一直:午前6時25分から午後3時15分、二直:4時10分から翌日の午前1時、を各週交代で行う)について、深夜勤務は人間の生体リズムに反し、疲労の蓄積を招く、と正当に評価しました。最近の他の過労死事件でも、裁判所の判断では深夜勤務のストレスが正当に評価されるようになっていますが、この判決もその流れをくむものです。

3.判決の意義

 判決の意義は何より、健一さんの死が過労死だったことが認められたことです。
 加えて、判決では前記2(1)と(2)の判断に際し、トヨタ自動車において「仕事ではない」、「自己研鑽だ」と言われながら、人事考課に影響するために実際には強制的な仕事となっている様々な諸業務(「創意くふう提案活動」、「QC(品質向上)サークル活動」、「交通安全活動」など)について、トヨタ自動車の「事業活動に直接役立つ性質のもの」あるいは「事業活動に資する」ものであってトヨタ自動車としても育成・支援していることを理由に、その業務性が認められました。トヨタ自動車だけでなく、日本の多くの企業でこのように「仕事ではない」、「自己研鑽だ」と言われながら、実際には強制的に行わなければならない仕事がたくさんあります。この判決が、これらの隠れた仕事も会社の指揮命令下での業務だと認めた点は大変画期的であり、日本の労働者全体にとって意義が大きいものです。

4.明らかになった問題点と残された課題

 名古屋地裁の判決は、裁判で明らかになった事実に基づき、健一さんの労働の詳細を丁寧に評価し、過労死であると判断しました。隠れた仕事について、業務性を認める等の画期的な点を含むこの判決は、国によって控訴されることなく、確定しました。
 しかし、この裁判で明らかになった問題点も多々あります。
 一つは労災制度が遺族に「冷たい」制度になっていることです。使用者である会社が労災と認めて真摯な対応をしない限り、あるいは同僚が協力してくれない限り、遺族が裁判まで起こさなければ過労死と認められないという問題が明らかになりました。労災制度はもともと、憲法25条、27条及び労働基準法に基づく制度であり、労働者とその遺族の援護のための制度です。労基署として、どのような調査を行い、事実をどのように評価するべきなのか、という点についての見直し、労働者・遺族の側に立った運用改善が求められます。
 また、労災と認める判決が確定した後でも、被災者(今回は健一さん)の生前にサービス残業になっていた残業が是正されないという問題が残っています。現在、博子さんはその点を労基署とトヨタ自動車に対して交渉・要請中です。

5.今回の名古屋地裁判決は、博子さんが実名まで明らかにしながら、健一さんの過労死を広く訴えてきたことが引き寄せた、大変素晴らしい判決です。皆さんのご支援に感謝し、今後も注目をお願いしたいと思います。

日本の陰謀138
歴史(5)箱崎・馬出・松島エリア
福岡市


地蔵松原元寇防塁      (東区またまた再発見:市政だより東区版平成14年10月1日号掲載)

国指定史跡、地蔵松原元寇防塁

 元寇防塁は昭和6年に国史跡に指定。今津地区や生の松原地区などが屋外展示され有名ですが、東区にも指定地があります。  場所は、貝塚駅の南南東約300メートル、JR鹿児島本線を挟んだ東西の地蔵松原(筥松四丁目・箱崎六丁目)です。

 元寇防塁は1276年、鎌倉幕府の命で元の来襲に備え、今津から香椎まで博多湾の海岸沿い約20キロメートルにわたり築かれ、箱崎地区の約3キロメートルは薩摩国が分担。  1368年に元が滅んだ後は次第に砂に埋もれ、石材は名島城や福岡城の石垣などに再利用されたと言われています。

 大正9年の地蔵松原の調査では前面に石積みし、後面は粘土で固めた構造と報告されていますが、現在は地蔵松原公園(筥松四丁目)の説明板が往事を伝えるのみです。また、隣接するJR鹿児島本線軌道下(史跡指定地外)の平成12年の調査では、元寇防塁遺構が確認されましたが、埋め戻し保存されています。

日本の陰謀83-1
第3回アフリカ開発会議(TICAD III)の出席者のリスト

マダガスカル共和国 ラヴァルマナナ大統領・ランジェヴァ外相
スワジランド王国 ムスワティ三世国王  ファノウラキス外務大臣  グドゥザ・ドラミニ経済計画開発大臣  マムバ資源エネルギー大臣
ガボン共和国 ボンゴ大統領
ベナン共和国 ケルク大統領
ジブチ共和国 ゲレ大統領・ファラ外務・国際協力大臣
セネガル共和国 ワッド大統領
ナイジェリア連邦共和国 オバサンジョ大統領
エリトリア国 イサイアス大統領
コンゴ共和国 サス・ンゲソ大統領
モザンビーク共和国 シサノ大統領 シマン外務協力大臣
タンザニア連合共和国 ムカパ大統領 キゴダ大統領府計画・民営化担当国務大臣
ウガンダ共和国 ムセべニ大統領 ブティメ外務(経済協力)担当国務大臣 クテサ投資担当国務大臣兼財務・計画・経済開発大臣
ガーナ共和国 クフォー大統領 アクフォ・アドウ外相他
ブルキナファソ コンパオレ大統領
ザンビア共和国 ムワナワサ大統領
マラウイ共和国 ムルジ大統領
南アフリカ共和国 ムベキ大統領 ズマ外務大臣
カメルーン共和国 ビヤ大統領
マリ共和国 トゥーレ大統領 コナレ・アフリカ連合(AU)委員会委員長(元マリ大統領)
ルワンダ共和国 マクザ首相 ムリガンデ外相
エチオピア連邦民主共和国 メレス首相
ギニア共和国 シディメ首相 ファル外務・協力相 サール農業・畜産相 クヤテ漁業・養殖相
チュニジア共和国 ガンヌーシ首相 ジュイニ開発・国際協力大臣
コートジボワール共和国 バンバ外務大臣
ケニア共和国 ニョンゴ計画・国家開発相
赤道ギニア共和国 オバマ・アスエ農業・畜産・農村開発担当大臣
ブルンジ共和国 シヌングルザ外務協力大臣
コンゴ民主共和国 ムワンバ計画大臣
アンゴラ共和国 アギナルド・ジャイメ経済担当副首相
ボツワナ共和国 ハオラテ大蔵・開発計画大臣
トーゴ共和国 デババ・バレ経済・財政・民営化大臣
ニジェール共和国 ミンダウドゥ外相
アルジェリア民主人民共和国 メサヘル・アフリカ担当大臣
ナミビア共和国 ヌガチゼコ国家計画委員長
セーシェル共和国 ボンレム外相
シエラレオネ共和国 ダラミー開発経済計画大臣
ジンバブエ共和国 ムデンゲ外務大臣、ムレルワ財務経済開発大臣
チャド共和国 ハッサン計画開発協力大臣
レソト王国 タハネ財務開発大臣
サントメ・プリンシペ民主共和国 マリア・デ・ルールデス・サルヴァテラ官房長
モーリタニア・イスラム共和国 モハメッド・ウルド・マーウヤ経済・開発省次官
スーダン共和国 スレイマーン大統領経済顧問
ガンビア共和国 ジャロー経済・財政省貸付債務管理局長
カーボヴェルデ共和国 バルボザ外務・協力・共同体省事務次官
コモロ連合 サイード・アリ・ボイナリ大使
モーリタニア・イスラム共和国 モハメッド・ウルド・マーウヤ経済・開発省次官
モロッコ王国 ブフラル外務事務次官


日本の陰謀79
特別攻撃隊 日本陸軍
ウィキペディア


陸軍の特別攻撃隊は、最初の梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名した富嶽隊、万朶隊以外は1944年11月6日陸軍中央は編成した6隊の特攻隊に「八紘隊」と名付けて以来「八紘飛行隊」として編成された。由来は日本書紀(准南子)の八紘をもって家となす(八紘一宇)による。しかし送られた現地で冨岡恭次によって各隊は改名され命名式が行われ終戦まで続けられた。

陸軍初の特攻部隊の1つ富嶽隊の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。もう1つの万朶隊は飛行隊長が面接を行い志願を募った。大倉巌陸軍少尉機は親戚の女性(許嫁)を同乗させ、谷藤徹夫陸軍少尉は自機に新妻を乗せて特攻した。

飛行第62戦隊隊長石橋輝志少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した。石橋はその日のうちに罷免された。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。

大刀洗陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している。渡邉恒雄二等兵は太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がる事が出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている

日本の陰謀134
今年は、航空機の安全運航がベストの年になった
チェンマイUpdate


かつて飛行機は怖い乗り物だった。

1966年の2月~3月のほぼ1ヶ月の間に、
日本では重大な航空機事故が3つ続けて起こった。
①2月4日午後7時、千歳発の全日空機が羽田沖で墜落(死者133名)
②3月4日午後8時、カナダ太平洋航空のDC-8が羽田着陸失敗で炎上(死者64名)
③3月5日午後2時、BOAC機が富士山付近で乱気流に巻き込まれ空中分解(死者124名)

1969年ごろ、あるアフリカの地方で飛行機に乗った時のこと。
翼には白いペンキで、PAN AMを消して、アフリカの航空会社の
名前を書いてあった。パンナムからのお下がりだろう。
空港から滑走したのはいいが、飛び立つ前に、途中でやめてしまった。
広いアフリカの空港だったからよかったけど、こういうのは初めてだった。

1972年10月、モスクワ空港で、日航機が離陸しそこなって墜落。
海外出張で会社の先輩ふたりが乗っており、亡くなった。
お一方とは、前の晩に、八重洲口で、歓送を兼ねて飲んだので
事故の翌朝、会社に行って、事故で亡くなったことを知った時は
信じられなかった。

そのあと、自分も海外出張でドーバー海峡の上を飛んでいる時など、
落ちないかとほんとうに怖かったものだ。

そして、1985年の日本航空国内線ジャンボ機123便の大事故。
坂本九さんを含め、520人の方が亡くなった。
飛行機はいったん落ちると多くの死者が出る怖い乗り物となった。

しかし、ここ数年、先進国での重大な航空機時事故はだいぶ減ってきた。
先進国の飛行機事故で、ここ数年で目立つのは、2011年9月にロシアの
アイスホッケー選手を乗せたチャーター便が離陸直後に墜落(44名死亡)と、
2009年6月にエールフランス機がブラジル沖で墜落(226名死亡)くらいの
ものだ(ただし、アフリカを中心に開発途上国での事故はなお多い)。

日本では、90年代終わりごろから、民間定期航空の飛行機事故、
ことに死者を伴う重大事故はずっと減ってきた。
1994年の名古屋空港での中華航空墜落事故(264名死亡)、
1996年6月の福岡空港でのガルーダ・インドネシア航空機の
離陸失敗事故(3名死亡)を最後に、死者を伴う航空機事故は、幸い、
なりを潜めてきた。

「IATA」(国際航空協会)が最近発表したデータによると、
2011年は(11月まで)、航空機の安全実績については
(事故件数と乗客死亡数)、過去最良の年になったという。

西側諸国(主に欧米)製作の機体のロスについては、
今年は290万運行回につき1件平均となった。
昨年よりも49%も改善したそうだ。
飛行機の場合は、離着陸時が危険で,飛び上がってしまえば問題は
少ないので、離着陸回数当りの方が、航続距離当りより
重要な指標となる。

死者を伴う事故の件数も、今年は11月末までで22件、死者数は計486人と、
昨年同期の23件、786人を下回ってきた。
2006年には、事故件数は20件だったが、死者は855人だった。

ただし、ロシアでの飛行機事故は改善していないという。
東側、西側すべて含めたジェット機、ターボプロップ機で見ると、
46万運行回ごとに1件となるが、昨年同期の36万運行回よりは
改善してきている。

ロシアや途上国を中心とする事故の原因は、進歩する機体に対して、
パイロットや技術者がついていけないという人為ミスに
多くが求められるという。
これから、成長するアジアでは、パイロットや技術者が不足する
と見込まれているが、少し心配だ。

飛行機は、車よりよっぽど安全な乗り物だという。
何をどう比較するかだ。
毎日のように、頻繁に乗り降りするクルマと、時々、
長距離を行く時に利用する飛行機とでは、比べ方が
難しいが、ディスカバリー・チャネルによると、 飛行機は運航回数当りだと、
毎日乗っても、事故にあう確率は438年に一度だという。

しかし、現在のように、航空機の便数が増え、
安全性が高まった今は、さらに数千年に一度の確率と
なるのだろうか。

クルマに比べて、航行距離が圧倒的に長い航空機を、
時間や距離当りでクルマに比べてもあまり意味がないが、
使用頻度当りで見ても、それは航空機のほうがずっと
安全だろう。

車の運転の場合は、自分も含めて、狭い道や広い道を、
スピード狂や、酔っ払いがたくさん走っているのだから・・。

航空機の運航に関しても、限りはないだろうが、
ヒューマン・エラーからフリーのシステムに
いっそう近づけてほしいものだ。

話は違うが、福島原発の事故の広がりの中で、
初歩的な人為ミスが2つもあったとわかって、
がっくりした(復水ポンプを閉め冷却を止めて、メルトダウンを
進めてしまったことと、おそまつな水位計を信じて間違った判断を
してしまったこと)。
人間の見当違いとやり損ないは、なかなか減らせないのだろうか。

日本の陰謀
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