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かごしま熱風録「証言記録 硫黄島の戦い~鹿児島 陸軍歩兵第145連隊~」
番組内容


陸軍歩兵第145連隊。鹿児島で編成された部隊は硫黄島で米軍との激戦に挑んだ。およそ2万人が戦死した島で兵士たちが見た戦争の凄惨な現場。兵士たちの証言記録。

詳細

太平洋戦争終盤の激戦地・硫黄島。約2万人が戦死した日本軍、その中核を占めていたのが鹿児島で編成された精鋭部隊・陸軍歩兵第145連隊だった。しかし、制空権を握り圧倒的な火力で上陸したアメリカ軍に対し、日本軍は壊滅的な被害を受ける。兵士たちは地下の壕に潜みゲリラ戦を展開する。援軍も補給も絶たれた壕の中で、兵士たちは飢えと渇きとも戦うことになる。激戦の島で兵士たちは何を見たのか。戦後65年の証言記録。
歩兵第145連隊
ぶらり重兵衛の歴史探訪


第6師団の予備役・後備役を招集して編成。
第106師団に所属して華中に出動し、第6師団の警備地区を引き継ぎ警備に任ずる。
昭和15年、広東省増城、汕頭の警備。
同年5月帰還復員したが、連隊主力は第54師団要員として残留。
昭和18年5月、再び動員され、第46師団に属す。
昭和19年7月、連隊主力は硫黄島に上陸し、小笠原兵団(第109師団主力)に属した。
総勢約2万名とされる兵団に歩兵連隊として参加したのは第145連隊のみ。
硫黄島では、連隊主力と工兵中隊は兵団司令部とともに北飛行場の北部、第1大隊は摺鉢山の北・千鳥飛行場附近の中地区、砲兵大隊は元山飛行場附近に位置した。
昭和20年2月19日、米軍が南海岸から上陸。
同日中に摺鉢山の守備隊1,700名のうち半数以上が戦死。
23日に摺鉢山に星条旗が翻った。
2月27日、元山飛行場が完全に制圧され、3月3日には北飛行場も占領される。
3月4日時点で、守備隊の兵力は当初の4分の1以下、約4,100名程度に激減。
戦線は混乱し、残存兵力がその場で一丸となって抵抗を続けるが、次第に北部に追い詰められる。
3月14日、米軍は硫黄島の完全占領を発表。
各地で小部隊ごとの抵抗を続ける部隊もあったが、指揮官が指揮権を放棄して各自の判断による行動に任せるところが続出。
3月17日、栗林兵団長は大本営に訣別の電報を打ち、無線機を破壊。
この日が硫黄島玉砕の日とされているが、実際に栗林兵団長、市丸海軍少将らが最期の突撃を敢行し戦死したのは3月26日だったとされている。
残存将兵は終戦後も洞窟に潜み、ゲリラ的抵抗を続けた。

一四五連隊記念の碑

歩兵第145連隊は昭和13年5月「日支事変」のため在郷予備役及び後備役を中心に動員
鹿児島に於て編成を終え急遽中支那方面に派遣され揚子江岸蕪湖に終結後江西省流■橋に於ける諸戦盧山の戦斗を経て徳安迂回戦に参加しました。
この戦斗は約1ヶ月間にわたり弾薬兵糧尽きたる中多数の犠牲者を出し悪戦苦斗し翌14年3月修水河の激戦を経て南昌作戦に武勲をたて安義奉新方面の警備任務につき■浙作戦後一部は萓島部隊に編入され本隊は南支那へ転進広東汕頭作戦を最後に昭和15年3月帰国復員しました。
この生き残った隊員により145連隊戦友会を発会させ以来毎年戦死者並びに物故者の慰霊祭を行って来ましたがこの度戦友会相図り郷土部隊の実情を後世に留めると共に戦歿将兵と部隊関係物故者の霊とこしへに安かれと祈りつゝ
この記念碑を建立します。


昭和50年10月
百四十五戦友会一同

硫黄島の碑

硫黄島は日本本土より南へ1400粁米の中部太平洋上に浮ぶ面積20平方粁米の孤島である
第二次太平洋戦争の末期昭和19年6月米軍の反撃に備えて硫黄島の守備についた栗林兵団に軍旗を奉じた145連隊を主力とする我等が薩州健児は編制されたのである。
硫黄島は水に乏しく加えて文字通り硫黄と塩水の責苦により燃えるような喉の渇非衛生的悪條件下に激しい下痢や高熱等の病魔に冒され更には糧秣の補給は絶たれこれが為殆多くの兵員は栄養失調となり米軍の上陸以前に無念の思ひで斃れていったのである。 斯くして制海制空権を手中にした米軍は昭和20年2月15日遂に硫黄島に襲いかかり昼夜の別なく連続80時間の猛烈な艦砲射撃と空爆の繰返しによりさしも勇猛果敢な我が将兵も雨霰と降り注ぐ鉄の前に沈黙せしめられたのである。
然して米軍は遂に上陸我が方と1ヶ月の激戦が行われたのであるが武器は悉く破壊せしめられ弾薬も尽き大本営との通信は途絶え3月17日玉砕と公表されたのである。
誠に英霊の辿った激しく凄惨な死斗は筆舌に尽くし難いものがある。
又米軍の発表による彼我の死傷者4万数千人は太平洋戦争の全戦域を通じてこれ程の打撃を米軍に与えた戦線はなかったと戦史に特筆されてゐる。
戦后30有余年激動の歳月は流れ今や祖国日本は世界の大国に互して立派に再建されてゐる。
これは我が身を又家族を犠牲にして祖国に殉じた尊い英霊の御加護であることを忘れてはならない
今私達はこのような悲惨な戦争を再びくりかえしてはならないと誓いを新たにこゝに銘記するものである。

硫黄島戦没者遺族生存者有志


日本とジュネーブ条約
生き方の庭園


ジュネーブ条約が1864年に成立してから,日本は22年後の1886年に加入を果たします。最初は陸戦での傷病者の保護が目的で,たった10条の短い,しかし歴史的にはとても重要な条文でした。1899年には海戦における傷病者の保護(全14条)が加わります。1904年の日ロ戦争時は,赤十字の腕章を着けた衛生兵士が、負傷したロシア人を手当てしている光景が記録されています。このときの日本の対応は国際社会で高く評価されました。

1906年に,陸戦部分が33条の詳細な条約になりますが,日本が加入したのは2年後の1908年です。海戦における~も同じく28条と2倍になりますが,1907年から4年遅れて1911年に加入します。

そこで<第1次世界大戦>が起こります。たくさんの人たちが亡くなりました。新しい戦争の形であり,いろいろと問題点も指摘されました。再び条約は見直され,陸戦部分で39条の条約となったのが1929年。日本加入は1934年です。またしても,日本は数年遅れての加入となります。これらは国内で十分議論してから後,という過程を踏んできているからです。

しかし,重大な問題がありました。それは,捕虜の待遇に関する条約(全97条)については日本は加入をしなかったのです。

次に<第2次世界大戦>が起こります。日本とドイツを比べたとき,日本の捕虜は3割以上の者が命を落としているのに対して,ドイツでは7%で,収容所も完備されていました。(ナチス・ドイツが行ったユダヤ人に対しての虐殺行為は別問題です。)捕虜に対する待遇が全く違っていました。日本軍も兵隊に十分な教育をしていませんでした。今でもそのときの問題がマスコミを通じて報道されています。

1949年のジュネーブ4条約に,日本は1953年,加入しましが強制的なものであったようです。51年のサンフランシスコ講和条約を締結する際に連合国側から国際社会への復帰のために、他の多くの条約と共に加入することを求められたのです。そこで,国会での十分な審議のないまま加入手続きを完了しました。

加入すれば,その諸規定を国内法に適用させる義務があります。しかし,現在のところ赤十字の標章に関する法律と、商標法上の中で赤十字標章の使用が禁じられているだけにとどまっています。

1977年には2つの追加議定書が採択されますが,日本はまだ加入をしていません。

しかし1999年の第27回赤十字・咳新月国際会議において,日本政府は「人道問題は人類共通の課題と認識し,国際人道法を尊重,遵守し,1997年ジュネーブ条約追加議定書の締結に関し引き続き必要な検討を行う」という誓約を行い,政府としても前向きな検討を始めているそうです。


最高裁裁判官:国民審査の投票求め提訴 NY在住の有権者
毎日新聞 2010年8月9日


昨年8月の衆院選と同時に行われた最高裁裁判官の国民審査を巡り、海外在住を理由に投票できなかったのは違憲だとして、米ニューヨーク在住の日本人男性2人が9日、国を相手に次回国民審査で投票できる権利の確認などを求めて東京地裁に提訴した。

 海外在住の有権者は、郵送などの方法で衆院選、参院選の投票は可能だが、国民審査への参加は認められていない。2人は訴えで「国民審査権は憲法に保障された参政権に当たる」と主張している。

 中国・上海在住の日本人男性も4月、同様の訴訟を東京地裁に起こしている。


列車同士が正面衝突、18人死亡 ベルギー
日テレNEWS 2010年2月16日


ベルギーの首都・ブリュッセルから約15キロ離れたハレ付近で、15日午前8時半ごろ、朝の通勤時間帯に列車同士が正面衝突した。ロイター通信によると、この事故で少なくとも18人が死亡した。

 事故の詳しい原因はわかっていないが、AP通信によると、地元当局は片方の列車が停止信号を無視した可能性があるとみて調べを進めている。

 現地の日本大使館によると、列車に日本人が乗っていたという情報は入っていないという。


道アイヌ協会 川上副理事長が辞意
北海道新聞 09/10 08


北海道アイヌ協会の川上哲副理事長(61)=旭川市在住=は、道の調査で判明した同協会の不適切な会計処理の一部にかかわったとして、副理事長職の辞意を固めた。9日、北海道新聞の取材に明らかにした。

 道の調査によると、同協会が2006~09年度に道などの補助金を受けて行ったアイヌ工芸者技術研修事業などで不適切な会計処理が見つかり、道は同協会に約205万円の返還を求めている。

 川上副理事長は、自身がかかわる08年度事業でも旅費領収書の不備が指摘されたことを受け、「責任を取って辞意を決断した。自分のミスで迷惑をかけ申し訳ない」と話している。


マスコミが書かない麻生財閥の深い闇
JANJAN 2008/10/23


 麻生首相は1973年にグループ中核企業の麻生セメント(株)の代表取締役社長に就任した。戦前の麻生炭鉱から続く九州屈指の企業グループ・麻生財閥3代目の当主だ。その麻生炭鉱は大量の朝鮮人労働者を強制連行して搾取した暗い歴史を持つ。だが、日本のメディアはその事実を指摘することなく、意図的に報道しないでいる。

麻生財閥(麻生グループ)は現在、麻生ラファージュセメント(株)を中核に64社、総売上1,380億円、社員数6,250名を数える九州屈指の企業グループとなっています。麻生太郎氏は、祖父麻生太吉氏、父麻生太賀吉氏の後を継ぎ、1973年にグループ中核企業の麻生セメント(株)の代表取締役社長に就任しています。

 1979年の衆議院議員選挙で初当選し、政界に転進して家業を実弟の麻生泰氏に譲ったからといって、麻生太郎氏が麻生財閥の3代目当主であった事実は消せません。当主として戦前の麻生炭鉱の暗い歴史の責任から逃れられないのは当然のことです。

 なぜなら、安倍晋三元首相、福田康夫元首相に続いて、総選挙での国民の審判を受けることなく、自民党総裁選で勝利して2008年9月に第92代内閣総理大臣に彼が任命されたのは、麻生財閥のもつ財力であり、その大部分は、戦前の麻生炭鉱に強制連行されて来た朝鮮人労働者1万人をただ同然で酷使して搾取した巨額の未払い賃金がその源だからなのです。

 戦前の麻生炭鉱で10,000人の強制連行朝鮮人を強制労働させ賃金をそっくり搾取することなくしては、現在の麻生財閥はありえず、したがって今の麻生太郎内閣総理大臣もありえなかったといっても過言ではありません。

 戦前の麻生炭鉱での劣悪な労働条件の実態は、調査報告書「麻生炭鉱の強制労働」(戦時強制労働の調査「人権平和・浜松」)に詳しく書かれています。

 この調査報告書の中で、強制連行朝鮮人労働者がどのように働かされ支配され搾取されていたのかが詳しく書かれています。

 「納屋の布団は万年床で真っ黒であり、交替制で誰かが寝た。人繰りが毎夕入坑の督促をし、交替制だったが、五時に入坑して昇坑が一〇時ということも珍しくなかった。坑口から六〇〇メートルを人車で行き、そこから切羽まで歩いた。朝鮮人が危険なところを担当した。検炭係がボタの量を見て函引きし、賃下げをした。低賃金で遅配が多く、食事も衛生も悪かった。納屋の頭領は賃金の三割ほどをピンハネした。労働災害があっても朝鮮人には適用されなかった。納屋では独身坑夫が死んでも朝鮮の故郷に知らせないことが多かった。遺族に弔慰金や補償金を支払うのが惜しく、アリラン集落の下の無縁墓地に埋めて知らん顔だった。一九三四年のガス爆発の時には生存者がいても密閉したために朝鮮人が入坑を拒否した(『林・記録』三〇五~、三二一頁)。」

 また、朝鮮労働者がどのように強制連行されたのか具体的な証言も書かれています。

 「文さんは一九一六年生まれ、全南霊岩郡出身。結婚したばかりの一九四二年の末、面の巡査と書記らが土足で侵入し、「一緒に来い」と巡査に家の外に突き出された。このとき面から三四人が連行された。順天で九州の炭鉱に行くと告げられた。麗水で一六〇人ほどとなったが、監視人が手に木刀を持ち、海岸の倉庫に入れられ外から錠を掛けられた。軍服を着た男に本人かどうか照合を受け、身体検査され、九州の麻生炭鉱に行き、一年で帰国できると聞かされた。

 一九四三年の元旦に博多につくと、憲兵が監視するなか麻生の労務や協和会の幹部が出迎え、博多駅から原田経由で赤坂炭鉱に連行された。収容された寮は兵舎のような建物であり、高さ三メートルの板塀、鉄条網があった。寮の中央にはガラス張りの監視塔があった。一棟が五部屋であり、四畳半の一部屋に五人が押し込められた。寮の入り口はひとつであり、そこに労務の詰所があった。

 朝五時に起こされ、広場で点呼を受けた。宮城遥拝、君が代、皇国臣民の誓詞のあと、六時に入坑した。六時から九時までの一五時間労働だった。「これから敵のトーチカを攻撃する。突撃進め!」と坑口へ追いたてられた。食事は大豆かすと麦を混ぜたものが多かった。労務は見せしめに死ぬほどに叩いた。強制貯金され、送金は最初の二〇〇円が送られたきりだった。労務にそれを糾すと、なぜ朝鮮に問い合わせたのかと逆に木刀でたたかれた。」

 また、炭鉱周辺には朝鮮人女性が性の奴隷として連行されていた事実も次のように書かれています。

 「アリラン集落には朝鮮人女性を置く店があり、女性たちが騙されて連れてこられた。朝鮮にブローカーがあり、娘たちを選炭婦にするなどと騙し、親に一〇〇~二〇〇円を渡して、「三等料理屋」に売り渡した(『林・記録』三三一頁)。飯塚や鴨生には鄭在鳳が経営する店もあった(『林・記録』四三一頁)。鄭清正さんも飯塚へと朝鮮の女性たちが連行され性的強制を受けていたことを記している(『怨と恨と故国と』八七頁)。」

 また炭鉱事故等で多数の朝鮮人労働者が死亡したが、死者に対する麻生炭鉱の対応も次のように書かれています。

 「赤坂の請願巡査だった松藤要吉さんはつぎのようにいう。死者が出ても、炭鉱は石炭がもったいないと火葬しないで無縁墓地に穴を掘って埋めた。馴れない労働でずいぶん命を落とした。朝鮮式の土饅頭がたくさんできた。労務が勝手に処分して知らせない状態だった(『林・記録』四〇三頁)。」

 日本のマスコミは、このおぞましい麻生財閥の暗い過去を意図的に報道しないでいます。

 「イギリス人ジャーナリスト(ガーディアン紙の元アメリカ特派員)のクリストファー・リードによると、麻生一族による強制労働の記事を掲載することを多くのメディアが拒否したという。しかも、その中には「左翼」と見なされている日本の媒体(そんなもの存在しないというのが筆者の感想だが)も複数、含まれていた。日本で掲載したのは英語紙の「ジャパン・タイムズ」だけだ。……」(調査ジャーナリスト 桜井春彦氏)

 日本のマスコミが報道しないのであれば、我々の手でこの事実を出来るだけ広く、友人、知人に拡散させましょう。麻生太郎氏は、麻生財閥の暗い歴史を封印したまま日本の首相として居座り続けることはもはや許されることではありません。


大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
大阪商業大学


天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。

 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。

 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。

 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。


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